2020年6月6日土曜日

仮に最も敵対的な諸見解,観点から出発しても,予め願われた地点とは別の一つの意見に収斂してゆく. これは逃れることのできない運命の働きであるかのようである. この意見が真理であり,実在する対象の表現でもある.(チャールズ・サンダース・パース(1839-1914))

真理と実在

【仮に最も敵対的な諸見解,観点から出発しても,予め願われた地点とは別の一つの意見に収斂してゆく. これは逃れることのできない運命の働きであるかのようである. この意見が真理であり,実在する対象の表現でもある.(チャールズ・サンダース・パース(1839-1914))】

(出典:wikipedia
チャールズ・サンダース・パース(1839-1914-)の命題集(Propositions of great philosophers)

「別々の精神は、もっとも敵対的な諸見解をもって出発するであろうが、探究の進歩は、彼ら自身の外側にある一つの力によって、おなじ一つの結論にむかって彼らをつれていくのである。われわれが、われわれの願う地点ではなく、逆にまえもってさだめられたゴールにむかってはこばれていく思想のこの活動は、あたかも運命のはたらきであるかのようである。採用された観点をどんなにかえてみても、精神のもって生まれたいかなる性癖でさえも、一人の人間をして、このまえもってさだめられた意見からのがれさせることはできない。この偉大な法則が、真理と実在の概念のなかに体現されているのである。探究者全体によって、終局的に同意されることが運命づけられている意見こそ、われわれが真理というコトバにあたえる意味なのであり、この意見のなかに表現される対象こそ、実在する対象なのである。これこそ、私が実在を説明しようとする方法である。〔久野収訳『われわれの概念を明晰にする方法』世界思想教養全集14、プラグマティズム、河出書房新社、1963年、48頁〕C. S. Peirce,'How to Make Our Ideas Clear',Popular Science Monthly vol.12,1878,pp.286-302」 (デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第3章 真理、発明、人生の意味、原注34、p.223、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・古田徹也(訳))
(索引:)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)


(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)
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価値評価の認知主義は,真理を評価基準の最高位におき,証拠に基づいて議論可能で,合意へと収斂可能であると考える. 真理は人間の意志や認識能力とは独立に存在する実在の反映であり,互いに矛盾せず,確定可能であろう.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

認知主義と非認知主義

【価値評価の認知主義は,真理を評価基準の最高位におき,証拠に基づいて議論可能で,合意へと収斂可能であると考える. 真理は人間の意志や認識能力とは独立に存在する実在の反映であり,互いに矛盾せず,確定可能であろう.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

(1)認知主義
 (a)真理であるから、それを受け入れる。判断の評価基準は、真理かどうかが最上位である。
 (b)真理であるかどうかは、証拠に基づいて議論可能であり、合意へと収斂可能である。
 (c)真理は、人間の意志や認識能力とは、独立に存在する。
 (d)あらゆる真理は、何か真にするものによって真である。人間を超えた真に存在するものがある。
 (e)あらゆる真理は、他のあらゆる真理と両立可能であると期待可能である。
 (f)真理が完全な確定性をもち、また、その答えが真理をもつことを志向するような問いもすべて完全な確定性を持つと要求は正当である。
(2)非認知主義
 (a)真理であるからといって、それを受け入れるとは限らない。というより、価値評価は、真理とは無関係である。
 (b)価値評価は、議論不可能であり、合意することもできない。
 (c)価値評価は、人間の意志や認識能力に依存する。
 (d)価値評価は、人間の評価である。恐らく、真理も人間に依存する。
 (e)価値評価は、互いに矛盾することもある。
 (f)意味のある問いが、確定した答を持つとは限らない。

「非認知主義者の眼目を際立たせる第二の仕方は、哲学的分析の伝統における一連の荒唐無稽な試み――快や感じ、是認といったものによって「よい(good)」や「べき(ought)」、「正しい(right)」などを分析しようとする試み――からみずからの議論を切り離し、以下のような非形式的な考察へと変容させることである。すなわち、評価や実践における判断が与っている主張可能性を一方の側に置き、(たとえば)歴史学や地理学における判断が与っている端的な真理(plain truth)――範例的な真理、標準的な真理――という身分をもう一方の側に置いた場合の、両者の間の類似性あるいは差異に関して考察することである。
 それでは、端的な真理とは何だろうか。比較のためにはおそらく端的な真理についての自明の理と呼びうるものによってそれを特徴づけることで足りるだろう。私が受け入れている自明の理は以下のものである。
(1) 判断の評価軸として、真理が最上位である。
(2) 真理は、証拠にもとづいた議論のあり方を説明できなければならない。そもそも議論は、良好な条件の下では合意へと収斂するものであって、その合意についての適切な説明はまさにその真理を必要とする。
(3) 真理は、われわれの意志と独立であるのみならず、ある言明の属性の存在ないし不在を認識するわれわれ自身の限られた手段に対しても独立性をもつ。この(2)と(3)が合わさると、
(4) あらゆる真理は何か〔真にするもの(truth-maker)〕によって真である、という自明の理が示唆される。そこから、われわれはさらに、
(5) あらゆる端的な真理は他のあらゆる端的な真理と両立可能である、ということを期待することができる。最後に、さらなる自明の理と推定されるものとして、
(6) 真理が完全な確定性(determinancy)をもち、また、その答えが真理をもつことを志向するような問いもすべて完全な確定性をもつ、という要求を挙げることができる。
 評価的な判断および/または熟慮的な判断の主張可能性は、以上の基準を満たすだろうか。もしこの問いを先ほど提案した枠組みのなかで追求するとすれば、非認知主義者に特有の教説は、この問いに対して《否》と答える主張となるだろう。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第3章 真理、発明、人生の意味、8、pp.181-182、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・古田徹也(訳))
(索引:認知主義,非認知主義)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)
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「xが必要である」という言明が,xに対する要求権や権原を生み出す社会道徳が存在する. ゆえに,多数者の欲求や「ニーズ」のために,少数者の厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは不正義とされ,制限される.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

権利を調停する制限原理

【「xが必要である」という言明が,xに対する要求権や権原を生み出す社会道徳が存在する. ゆえに,多数者の欲求や「ニーズ」のために,少数者の厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは不正義とされ,制限される.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

(1)「xが必要である」という言明
  「xが必要である」という言明は,もしxが奪われれば,互恵性や協調を支える規範遵守の再検討が公言可能で,しかも道徳的なことであると感受されるような社会道徳の存在を前提に,xに対する要求権や権原を生み出す。(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))
 (1.1)要求権、権原
  xに対する抽象的な要求権や権原を生み出す。
 (1.2)社会道徳Sの存在
  (1.1.1)社会道徳Sの目的
   (a)人々は、自ら身を立てることができる。
  (1.1.2)社会道徳S
   (a)Sによって維持されている互恵性や協調という規範が存在する。
   (b)Sが社会道徳であるとは、コンセンサスの取り消しが、Sの内部ですら理解可能で自然なことであるということが判明するような、何らかの条件が確かに存在するということである。
   (c)規範遵守の再検討を公言可能にする理由
    (i)規範に対するその当該人物の遵守を再検討するために、Sの内部で公言可能かつ公的に持続可能であるような理由が存在する。
    (ii)規範遵守の再検討の公言は、協調への期待に依拠する共有された感受性の内側で、道徳的に理解され得るものとみなされる。

(2)権利を調停する制限原理
 権利/対抗権利の調停を統制し、かつ、公共財の追求のために実施される総計的推論を統制すべき制限原理は、以下の通りである。
 (2.1)多数者の欲求と少数者の死活的ニーズ
  いかに多数の者の利益のためであろうとも、多数者の単なる「欲求」のために、誰かの厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは、不正義である。
 (2.2)多数者の「ニーズ」と少数者の厳密な意味での死活的ニーズ
  いかに多数の者の「ニーズ」の名においても、より大きな厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にするならば、不正義である。
 (2.3)最も幸薄い状態であり続けている人々の存在
  苦しんでいる人々のなかに、関係するすべての集団において前々から最も幸薄い状態であり続けている者たちがいてもなお、不正義それ自体はない。

「おそらく、権利/対抗権利の調停を統制し、かつ、公共財の追求のために実施される総計的推論を統制すべき制限原理は、以下のようなものである。(物品面であろうが金銭面であろうが)ある者を現状より貧しくさせないようにしようとして他の者をより貧しくさせるような国やその機関の活動に何ら不正義がないとしても――また、それによって苦しんでいる人々のなかに、関係するすべての集団において前々から最も幸薄い状態であり続けている者たちがいてもなお、不正義それ自体は(それによって思考にもたらされるいかなる中断も)まったく存在する必要がないのだとしても――、国や国の機関が、いかに多数であろうとも、多数の者の単なる欲求のために誰かの厳密な意味での死活的利益を犠牲にして、偶然性に介入し、その政策を変更し、市民の思慮ある期待を裏切るならば、《それは、その程度には不正義(pro tanto unjust)である》。また、(より思弁的にはなるが)そうした介入の影響を実際に受ける死活的利益のなかで、いかに多数であろうとも、多数の者のより小さなニーズの名の下に誰かのより大きな厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にするならば、《それは、その程度には不正義である》。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第1章 ニーズの要求、18、p.55、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(訳))
(索引:権利を調停する制限原理,ニーズ)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)
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2020年6月4日木曜日

自然な動機への何らかの義務による事後的制限を考える義務倫理学,全ての利害関心への公平で合理的な配慮が自然な動機に一致し得ると考える功利主義倫理学,自然な動機づけの何らかの陶冶が徳の本質と考える徳倫理学がある。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))

倫理学の類型

【自然な動機への何らかの義務による事後的制限を考える義務倫理学,全ての利害関心への公平で合理的な配慮が自然な動機に一致し得ると考える功利主義倫理学,自然な動機づけの何らかの陶冶が徳の本質と考える徳倫理学がある。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))】

(2)倫理的判断、道徳的判断
 人はいかに生きるべきか。それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いに答えること。
 (2.1)義務倫理学
  行為者個人に対して、自然のままの動機付けを、それに対抗する道徳的な視点によって補うことで、自己の利害関心の追求を、いわば事後的に制限するよう求める。
 (2.2)功利主義倫理学
  あらゆる利害関心をまったく公平に扱うように主張し、自然のままの動機づけを、無党派的な合理性で置き換える。
 (2.3)徳倫理学
  個人に対して、自然のままの動機づけを陶冶し、それを新しい形態や秩序へと改変することによって、何ら制限されることなくこの動機に従って人生を導くよう要求する。
  (a)もともとの動機を、事後的に抑えるのではない。
  (b)自分の行いや感情や思考において、道徳の視点をもはや異物とは感じられないほど統合されている状態が理想である。

「徳倫理学と、先にあげた二つの道徳理論との相違は、大体次のように特徴づけることができるだろう。《義務倫理学》は、行為者個人に対して、自然のままの動機付けをそれに対抗する道徳的な視点によって《補う》ことで、自己の利害関心の追求をいわば事後的に制限するよう求める。《功利主義の倫理学》は、あらゆる利害関心をまったく公平に扱うように主張し、自然のままの動機づけを無党派的な合理性で《置き換える》。これに対して、徳倫理学は、個人に対して、自然のままの動機づけを《陶冶し》、それを新しい形態や秩序へと改変することによって、何ら制限されることなくこの動機に従って人生を導くよう要求する。
 徳倫理学は、現に実践されている道徳の中に見出される理想に即して議論を展開する。それは、自分の行いや感情や思考において、道徳の視点をもはや《異物》とは感じられないほど統合できているような成熟した大人のことである。つまり、道徳の視点が、もともとの動機をいわば事後的に抑えるのではなく、むしろ道徳的に陶冶された人の動機の中ですでに働いているというのが理想的な姿なのである。」
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第1章 徳倫理学への道、pp.32-33、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・上野哲(訳))
(索引:義務倫理学,功利主義倫理学,徳倫理学)

徳は何の役に立つのか?


(出典:philosophy.uchicago.edu
アンゼルム・W・ミュラー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「私たちが彼に期待しているのは、むしろ、「幸福は価値あるもののすべてではない」という回答である。この言葉には《不合理なもの》は何もない。私たちが幸福を理性的な努力における比類のない究極の理由として《定義づけ》ようとするのなら別だが、それにもかかわらず、この回答ではまだ答えきれていない問題がもう一つある。
 有罪の判決を下された者の多くは、自らの手紙の中で揺れる気持ちを表現している。一方で彼らは、自分の家族や友人たちとそのまま生き続けたかったに違いない。他方で、彼らは、国家の不正に抵抗すれば死刑判決は免れないという《変更不可能な条件の下で》、つかみ損ねた自らの幸福よりも実際に自らが歩んだ道を、後になってさえ選ぶのである。その際、彼らは、自らが歩んだ道の方が、(上の第2の論点の意味で)《一層深い》幸福を自らに与える見込みがあったのだ、などと自分に言い聞かせることはでき《ない》。
 徳の「独自のダイナミズム」が、仲間のために身を捧げるという振舞いに、道徳的に中立な動機や観点よりも優位を与えることは間違いない。その限りでは、《有罪判決を下されたレジスタンスの闘志たちは》、自らが取った道を(たとえ後になってからでも)肯定《する以外はできなかった》のである。ただし、彼らだけでなく私たち自身も、徳が彼らの「ためになった」のであり、彼らに不利益をもたらしたわけではないことを《確信》していない場合には、この主張はシニカルな印象を与える。しかしながら、本章の考察も、そうした確信のための足場を提供できたわけではない。ひっとしたら、よい人間が手にしている信念には、いまだ神秘のベールに包まれた部分が残されており、哲学はそれをただ尊重し得るだけなのかもしれない。
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第8章 理由がなくともよくあるべき理由、pp.236-237、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・衛藤吉則(訳))
(索引:)

アンゼルム・W・ミュラー(1942-)
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2020年6月2日火曜日

規範性とは何かについては,(a)期待や憤慨の感情説,(b)集合的合意,共同意図説,(c)合理的正当化説など種々あり合意がないが,規範性とは切り離して制度の機能の記述が必要だ. その一例が,均衡したルール理論である.(フランチェスコ・グァラ(1970-))

均衡したルール理論

【規範性とは何かについては,(a)期待や憤慨の感情説,(b)集合的合意,共同意図説,(c)合理的正当化説など種々あり合意がないが,規範性とは切り離して制度の機能の記述が必要だ. その一例が,均衡したルール理論である.(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(1)規範性とは何かに関する諸仮説
 (a)期待や憤慨の感情説
  規範性は、相互の期待や、私たちの期待が裏切られたときに経験する憤慨の感情の観点から分析できる。
 (b)集合的合意、共同意図説
  規範性は、集合的合意あるいは共同意図というような、より強い概念を必要とする。
 (c)合理的正当化説
  規範性は、合理的論証によって行為を正当化する可能性にかかわる。
(2)均衡したルール理論
 (a)制度の理論を、特定の規範性の理論に依存させないで記述すること。
 (b)規範性を機能によって特徴づける。
 (c)このアプローチは、いかなる実質的かつ規範的な制度評価も可能にしない。たとえば、独裁制と民主制、資本主義と社会主義、単婚制と複婚制といったように、悪い制度から良い制度を見わけることを可能にしない。
 (d)上記のような判断は、社会的存在論よりもむしろ倫理の領域に属するものであり、これら二つの研究を分けたままにするのに好都合である。

 「ここで次のことに注意してもらいたい。この戦略に従うことで、統一理論は、規範性を表現するフォーマルな道具しか提供しないことになるが、規範性の性質についてや、規範性はどこから生じるかということについては中立的な立場にとどまるということだ。そして、私はまさにそうあるべきと考える。規範性は現代哲学における至極厄介な問題の一つであり、制度の理論をそれに関する特定の説明に依存させることは馬鹿げているだろう。哲学者と社会科学者のなかには、規範性は、相互の期待や、私たちの期待が裏切られたときに経験する憤慨の感情の観点から分析できると信じる学者がいる。他の学者たちは、規範性は集合的合意あるいは共同意図というような、より強い概念を必要とすると考えている。また、規範性は情動に依存すると主張する哲学者と社会科学者もいるし、さらには、規範性は合理的論証によって行為を正当化する可能性にかかわると信じている学者もいる。
 これらの説明のどれが満足できる仕方で規範性を説明することができるか否かは、明確な回答のない論点であり、私はここでそれを解決しようとは思っていない。実際、色々な説明の中から一つを選択することは、あまり賢明ではないかもしれない。もし規範性が制度にとって重要ならば、規範性が異なる形態をとることはありうる話だ。アナロジーとして、生命体が生存にとって重要な目標を実現しようと試みるさまざまな仕方のことを考えてみよう。獲物の存在を知覚することが捕食者にとって重要であれば、捕食者はその課題を達成するのに二つ以上のやり方を持っている可能性が高い(たとえば、視覚・聴覚・嗅覚だ)。同様に、規範性にはおそらく、さまざまな源泉があり、かつ多面性があるのだろう。このことは、二つ以上の説明が正しい可能性が高いということを意味している。
 だから、規範性とは何かを問う代わりに、規範性がなすことは何か、すなわち規範性の機能は何かを問うことにしたい。これは、本書の底流にある、広い意味での機能主義的な制度の概念化と軌を一にするけれども、この戦略を採ることで、一部の読者は否応なく不満を抱くことになるだろう。理由の一つは、このアプローチが、いかなる実質的かつ規範的な制度評価も可能にしないからである。たとえば、独裁制と民主制、資本主義と社会主義、単婚制と複婚制といったように、悪い制度から良い制度を見わけることを可能にしない。私自身の見解は、この類の判断は社会的存在論よりもむしろ倫理の領域に属するもので、これら二つの研究を分けたままにするのに好都合であるというものだ。これに同意してくれない哲学者がいて、より頑健な制度の理論を構築しようと努めているが、私の見解では結果は入り混じっている。」
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第6章 規範性,pp.120-121,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:均衡したルール理論)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
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均衡が存在しないタカ-ハト・ゲームは,外的ルールの導入によって効率的な状態に遷移する. これを相関均衡というが,このルールを含むより大きなゲームの均衡状態として記述可能である(制度の均衡したルール理論).(フランチェスコ・グァラ(1970-))

均衡したルールの理論

【均衡が存在しないタカ-ハト・ゲームは,外的ルールの導入によって効率的な状態に遷移する. これを相関均衡というが,このルールを含むより大きなゲームの均衡状態として記述可能である(制度の均衡したルール理論).(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(1)制度に対する均衡アプローチ
 (1.1)走行ゲーム
  走行ゲームでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。選択によって利益は変わらない。(規律の役割)
 (1.2)両性の闘い
  両性の闘いでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。しかし、異なる選択は両者に異なる利益を与え、利害対立がある。(全体的視点の役割)
 (1.3)ハイ&ロウ
  ハイ&ロウでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。異なる選択で協力が維持できれば、利益を増やせる可能性があるが、劣位の均衡に閉じ込められる場合もある。(より良い均衡の認知)
 (1.4)鹿狩り
  鹿狩りでは、相手に優位で必ず利益がある選択肢と、相手に劣位でリスクのある選択肢とが天秤にかけられる。各選択肢の期待値は等しい。優位な均衡は、両者がリスクを取る選択であるが、劣位の均衡に閉じ込められやすい。より良い均衡に遷移するためには、非協力リスクと相対的劣位の負担を乗りこえる相手への信頼が必要となる。(信頼の役割、非協力のリスクの許容度、相対的優位性の観点)
 (1.5)囚人のジレンマ
  囚人のジレンマでは、相手に優位で期待値も大きい裏切りと、相手に劣位で期待値も小さい協力とが天秤にかけられる。それでもなお、全体にとって優位な均衡は、両者が協力する選択である。協力のためには、非協力リスクと相手に対する劣位の負担を乗りこえる相手への信頼が必要となる。(信頼の役割、非協力のリスクの許容度、相対的優位性の観点)

(2)制度に対するルール・アプローチ
 (2.1)タカ-ハト・ゲーム
  タカ-ハト・ゲームでは、相手に劣位ではあるが必ず利益があるハトの選択肢と、相手に優位でリスクのあるタカの選択肢とが天秤にかけられる。各選択肢の期待値は等しい。両者がタカの選択をすると、全体にとって最も不利な結果を招くため躊躇される。しかし、両者がハトの選択をしている状態は、タカの選択を魅力的にするため、均衡状態は存在しない。
  (a)顕著な解が存在していない。
  (b)彼らの唯一の選択肢は、ランダムに選択することである。
  (c)彼らの期待利得は、争いの的になっている土地に放牧しないことで得られる利得の(1,1)よりも大きくならない。
 (2.2)相関均衡
  (a)振付師はコインを投げ、公に告知する。表がでたら「ヌアー族が放牧する」、裏がでたら「ディンカ族が放牧する」。コイン投げの結果を、両者の共通知識とする。両プレーヤーが、相手プレーヤーがこの戦略に従うことに自信をもっているならば、コインを公的に投げることで双方の利得が上がる。儀式の結果を有効活用して、彼らは常に効率的な結果にコーディネートするだろう。
  (b)外的ルール
   条件付き戦略(ルール)は、このゲームの部分ではない。それが、外部から与えられたルールである。
(3)社会的制度の均衡したルール(rules-in-equilibrium)の理論
 ゲームGの相関均衡とは、新しい戦略の追加でGを拡張して得られる、より大きなゲームG*のナッシュ均衡である。新しい戦略は元々のゲームにはない外的事象の生起に条件付けて、行為を指示する。つまり、それは「XならばYをする」という言明のかたちをとる。ここでXは相関装置の性質である。

 「相関均衡
 コンヴェンションはどのような種類の均衡になるのだろうか。二つのナッシュ均衡が存在するにもかかわらず、どちらも放牧ゲームのコンヴェンションではない。結果として、コンヴェンションはコーディネーション・ゲームの単なるナッシュ均衡ではありえないことになる。ピーター・ヴァンダーシュラアフ(vanderschraaf 1995)は、ルイスのいうコンヴェンションが相関均衡であることを示している。この解概念は、1970年代にロバート・オーマンによって始めて研究されたものである。相関均衡は本章で提示する統一理論において重要な役割を果たすことになるので、その特徴を直感的に理解しておくことが重要である。数学的なフォーマル・モデルは少し複雑になるから、ここでは数学的でない説明をする。興味のある読者は、テクニカルな文献で詳細を追っていただきたい。
 相関均衡のアイデアを掴むためには、仮説的なコンヴェンション以前のシナリオから出発することが有用である。ディンカ族とヌアー族は放牧ゲームをプレーしようとしているが、(仮説により)顕著な解が存在していないと仮定しよう。そのような状況においては、彼らの唯一の選択肢はランダムに選択することである。ヌアー族はコインを投げて、表がでたら彼らはGを選択し、裏がでたらNGを選択する。ディンカ族も同じことをすることに決め、自分たちのコインを投げる。彼らが異なる結果を得る確率を合わせれば、効率的な解の一つに収束する確率は50%となる。残念なことに、彼らの期待利得は、争いの的になっている土地に放牧しないことで得られる利得の(1,1)よりも大きくならない。
 この例におけるコインは《別々に、私的に》投げられている。その代わりに、コイン投げが《単一》かつ《公的な》事象であったとしたら、何らかの違いが生じるだろうか。ここで新しい人物を導入しよう。ハーバート・ギンタスに従って、私は彼を「振付師」と呼ぶことにする(Gintis 2009)。振付師はコインを投げ、公に告知する。表がでたら「ヌアー族が放牧する」、裏がでたら「ディンカ族が放牧する」。二人のプレーヤーはコイン投げの儀式を見ていて、相手もまたそれを見ることができることを知っている。さらに、彼らは、両者ともに同じ儀式を見ている、ということを相手が知っていることを知っている(等々)。つまり、コイン投げの結果は共通知識である。
 このような環境においては、振付師のアドバイスに従うことが妥当であるように思われる。言い換えると、各プレーヤーはコイン投げの結果に基づいて行動を条件づけ、以下のような明確な戦略に従うのである。「振付師がGというのであればGを選択し、そうでなければNGを選択する」。両プレーヤーが、相手プレーヤーがこの戦略に従うことに自信をもっているならば、コインを公的に投げることで双方の利得が上がる。儀式の結果を有効活用して、彼らは常に効率的な結果にコーディネートするだろう。
 このような種類の解が相関均衡である。ゲームGの相関均衡とは、新しい戦略の追加でGを拡張して得られる、より大きなゲームG*のナッシュ均衡である。新しい戦略は元々のゲームにはない外的事象の生起に条件付けて、行為を指示する。つまり、それは「XならばYをする」という言明のかたちをとる。ここでXは相関装置の性質である。ヴァンダーシュラアフが示したように、ルイスのコンヴェンションは、コーディネーション・ゲームにおける以前の選択を活用した相関均衡である。言い換えると、コイン投げがプレーの歴史に置き換えられている。」
 「もう一度強調しておく価値があることは、もとの行列(図4・2)のナッシュ均衡に注目していたならば、これら二つの見解を取り持つことが不可能だったであろうということである。条件付き戦略(ルール)はこのゲームの部分ですらないし、そうなりえないのである。もとのゲームのなかには、北/南という相関装置が存在しないからである。したがって、相関戦略を、ダグラス・ノースの精神に従って、もとのゲームでのコーディネーションの達成に役立つ外的ルールとみなすことは正しい。しかしコンヴェンションは、もとのゲームのナッシュ均衡ではない。それはもとのゲームの相関均衡、つまり拡張されたゲームのナッシュ均衡である。制度に対するルール・アプローチと均衡アプローチとの間にある対照は、おそらく、異なる均衡概念のこうした区別を正しく理解しそこなっていることによるものであろう。しかし、相関均衡を導入すれば、どちらのアプローチも支持されるのである。つまり、私たちは社会的存在論の統合的見方を達成したのである。私たちはそれを、社会的制度の均衡したルール(rules-in-equilibrium)の理論と呼ぶことにしたい。」
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第4章 相関,pp.79-81,85,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:均衡したルール理論,均衡理論,ルール理論)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
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2020年5月31日日曜日

事実か否か? 私有財産と市場システムの組合せは,経済的不平等と不確実性を生み,人々は利害対立と競争が支配する世界で,所得の獲得に専心し,良心の呵責を知らぬ者が富と名声と権力を獲得し,利他主義と共感は消え去る.(ジャコモ・コルネオ(1963-))

良い経済システムは“よい人間”を生み出す

【事実か否か? 私有財産と市場システムの組合せは,経済的不平等と不確実性を生み,人々は利害対立と競争が支配する世界で,所得の獲得に専心し,良心の呵責を知らぬ者が富と名声と権力を獲得し,利他主義と共感は消え去る.(ジャコモ・コルネオ(1963-))】

(1)良い経済システムは“よい人間”を生み出す
 ある社会の経済生活を統制する諸制度は、社会構成員の人格の発展に影響を与える。
(2)資本主義は良い経済システムであるか
 (2.1)批判的な意見
  (a)経済的不平等と不確実性
   私有財産と市場システムの組み合わせから、経済的不平等と物質的な不確実性が生み出される。
  (b)所得の獲得と所有への専心
   人々は、関心とエネルギーを所得の獲得に注ぎ、また自らの所得を注意深く費やすことに専心する。
  (c)売り手と買い手、労働者と資本家の利害対立
   市場において人々は、価格(あるいは賃金)の決定に際して相反する利害を持つ買い手と売り手(あるいは労働市場における資本家と労働者)として対峙する。
  (d)階級内でも競争的な関係
   人々は、自分と同じ側の人との衝突も経験する。こうした人々は、彼の競争相手だからである。
  (e)相手を騙すことができる者が、最も多く利益を得る
   より良い交換条件を得るために、市場に参加する人たちは隠し事をしたり嘘をついたり脅したりするが、一番うまく相手を騙すことができる者が、最も多く利益を得る。人間の類型を淘汰してゆく方法としての資本主義は、非常に巧みに他人を騙す性格の人々を選ぶ。
  (f)良心の呵責を知らない人が、所得の増加により名声と権力を得る
   つねに他人を手段とみなし目的としては扱わず、良心の呵責を知らない人は、所得の増加により名声と権力を得る。それゆえにこのような人たちは、全ての他の人々にとっての理想となり、彼らの人間に対する態度が規範かつ自明となる。
  (g)利他主義と共感が消え去る
   その結果、利他主義と共感が消え去る一方で、資本主義は“万人の万人に対する”闘争という基本理念を助長する。

 「神経科学の研究成果によれば、ある社会の経済生活を統制する諸制度は、社会構成員の人格の発展に影響を与えることが示されている。そうすると、良い経済システムは“よい人間”を生み出すという特徴を持つはずである。その結果、多くの批判者にとって資本主義は良い経済システムではないことになる。批判者によれば、資本主義は善き生を送ることとは両立しえない人間の性格を増長させる。
 資本主義に批判的な社会心理学者は次のように述べる:“私有財産と市場システムの組み合わせから、経済的不平等と物質的な不確実性が生み出される。所得の不平等と所得の不確実性のもとで暮らす人々は、関心とエネルギーを所得の獲得に注ぎ、また自らの所得を注意深く費やすことに専心する。これは、人々が善き生を送ることを妨げる貪欲さやねたみ、そして所有欲を刺激する。
 市場経済は、人間相互の間の関係全体に対する破壊的な影響を引き起こす。市場において人々は、価格(あるいは賃金)の決定に際して相反する利害を持つ買い手と売り手(あるいは労働市場における資本家と労働者)として対峙する。そのため人々は、交渉における敵として顔を合わせることになる。これに加えて、資本主義のもとにいる人間は、市場で反対の側にいる人との衝突のみならず、自分と同じ側の人との衝突も経験する。こうした人々は、彼の競争相手だからである。すでにプラトンが知っていたように、市場システムは兄弟愛の代わりに敵意を生み出す。
 買い手も売り手も、市場を通じた交換抜きに向き合うよりも、市場での取引を通じて向き合いたいと考える。それゆえ、買い手と売り手の間の敵対的な関係は親切さの仮面をつけて浸透し、人々の間に存在する全ての関係に行き渡る偽りの世界を創り出す。
 より良い交換条件を得るために、市場に参加する人たちは隠し事をしたり嘘をついたり脅したりするが、一番うまく相手を騙すことができる者が、最も多く利益を得る。人間の類型を淘汰してゆく方法としての資本主義は、非常に巧みに他人を騙す性格の人々を選ぶ。つねに他人を手段とみなし目的としては扱わず、良心の呵責を知らない人は、所得の増加により名声と権力を得る。それゆえにこのような人たちは、全ての他の人々にとっての理想となり、彼らの人間に対する態度が規範かつ自明となる。その結果、利他主義と共感が消え去る一方で、資本主義は“万人の万人に対する”闘争という基本理念を助長する。”

(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第3章 ユートピアと財産共同性,pp.44-45,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))
(索引:私有財産,市場システム,経済的不平等,不確実性,競争,利害対立,利他主義,共感)

よりよき世界へ――資本主義に代わりうる経済システムをめぐる旅


(出典:University of Nottingham
ジャコモ・コルネオ(1963-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「私はここで福祉国家の後退について別の解釈を提言したい。その解釈は、資本主義(市場システムと生産手段の私有)は、福祉国家を異物のように破損する傾向があるという仮説に基づいている。福祉国家の発端は、産業労働者の蜂起のような一度限りの歴史的な出来事であった。」(中略)「この解釈は、共同体がこのメカニズムに何も対抗しないならば、福祉国家の摩耗が進行することを暗示している。資本主義は最終的には友好的な仮面を取り去り、本当の顔を表すだろう。資本主義は通常のモードに戻る。つまり、大抵の人間は運命の襲撃と市場の変転に無防備にさらされており、経済的にも社会的にも、不平等は限界知らずに拡大する、というシステムに戻るのである。
 この立場に立つと、福祉国家は、資本主義における安定した成果ではなく、むしろ政治的な協議の舞台で繰り返し勝ち取られなければならないような、構造的なメカニズムである点に注意を向けることができる。そのメカニズムを発見するためには、福祉国家が、政治的意思決定の結果であることを具体的に認識しなければならない。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第11章 福祉国家を備えた市場経済,pp.292-293,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))

ジャコモ・コルネオ(1963-)
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制御不能なトロッコが5人の鉄道作業員めがけて暴走し、このままでは轢き殺される。私が命を賭しても状況は変えられず、唯一、進路切替によって5人が救える。しかし切替で見知らぬ1人の男が犠牲になる。切替は容認できるか。(ジョシュア・グリーン(19xx-))

トロッコ問題、進路切替

【制御不能なトロッコが5人の鉄道作業員めがけて暴走し、このままでは轢き殺される。私が命を賭しても状況は変えられず、唯一、進路切替によって5人が救える。しかし切替で見知らぬ1人の男が犠牲になる。切替は容認できるか。(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

 「「歩道橋」ジレンマには、興味深い同類があるという利点がある。「スイッチ」ジレンマと呼ぶもうひとつのバージョンでは、制御不能になったトロッコの行く手に五人の作業員がある。手をこまねいていたら轢き殺されてしまうだろう。しかし、分岐器のスイッチを押して、トロッコの進路を退避線に切り替えれば五人は救われる。あいにく退避線にはひとりの作業員がいるので、スイッチを押せば、その人は轢き殺されてしまう。
 スイッチを押してトロッコの進路を五人からひとりへ向う方向に切り替えることは道徳的に許されるだろうか? トムソンにとって、これは道徳的に受け入れられるように思われた。私も同感だった。後で知ったのだが、世界中の人が同感する。それではなぜ、私たちは「スイッチ」ケースに「イエス」といい、「歩道橋」ケースに「ノー」をいうのだろう?」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第2部 速い道徳、遅い道徳,第4章 トロッコ学,岩波書店(2015),(上),pp.151-151,竹田円(訳))
(索引:トロッコ問題)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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制御不能なトロッコが5人の鉄道作業員めがけて暴走し、このままでは轢き殺される。私が命を賭しても状況は変えられず、唯一ある見知らぬ1人の男の犠牲によって5人が救える。私がその男を犠牲にすることは容認できるか。(ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(1929-))

トロッコ問題

【制御不能なトロッコが5人の鉄道作業員めがけて暴走し、このままでは轢き殺される。私が命を賭しても状況は変えられず、唯一ある見知らぬ1人の男の犠牲によって5人が救える。私がその男を犠牲にすることは容認できるか。(ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(1929-))】

(出典:wikipedia
ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(1929-)の命題集(Propositions of great philosophers)
 「ビジネスへの関心を失った私は、ハーバード大学へ移籍し、哲学を専攻した。ハーバードでの最初の学期に「考えることを考える」という講義を受講した。講座を受け持っていたのは、哲学者のロバート・ノージック、進化生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールド、法学教授のアラン・ダーショウィッツという伝説的な教授三人だった。(講義の通称は「エゴが語るエゴ」だった。)シラバスに載っていたのが哲学者ジュディス・ジャーヴィス・トムソンの論文「トロッコ問題」だった。
 この論文こそ、高校時代に私に不意打ちを食らわせた「臓器移植」ジレンマの大元だったのだ。トムソンの独創的な論文は、一連の道徳ジレンマを取り上げていた。すべて、五人を救うためにひとりを犠牲にするという同じひとつのテーマを様々にアレンジしたものだった。いくつかのケースでは、「臓器移植」ジレンマのように、ひとりの命を五人の命と引き換えにするのはあきらかな間違いに思われた。トムソンの論文から生まれた、こうしたジレンマのひとつが「歩道橋」ジレンマだ。少し修正したものを次に紹介しよう。

 制御不能になったトロッコが、五人の鉄道作業員めがけて突き進んでいる。トロッコがいまのまま進めば、五人は轢き殺されるだろう。あなたはいま線路にかかる歩道橋の上にいる。歩道橋は向ってくるトロッコと五人の作業員のいるところの中間にある。あなたの隣には大きなリュックサックを背負った鉄道作業員がいる。五人を救うには、この男を歩道橋から線路めがけて突き落とすしかない。その結果男は死ぬだろう。しかし男の身体とリュックサックで、トロッコが他の五人のところまで行くのを食い止められる。(あなた自身が飛び降りることはできない。リュックサックを背負っていないし、トロッコを止められるほど体も大きくないし、リュックを背負う時間もないから。)この見知らぬ男を突き落として死なせ、五人を救うことは、道徳的に容認できるだろうか?」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第3章 あらたな牧草地の不和,岩波書店(2015),(上),pp.148-149,竹田円(訳))
(索引:トロッコ問題)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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道徳的原則の基礎には根拠づけ不能な信念があり強制力がないとされるが,特定の権威,宗教的信条には依らず,理性と経験のみに基づいて全ての人が納得できない原則ならば,道徳的という分類からは強制的に排除されよう.(ディーター・ビルンバッハー(1946-))

道徳的原則は強制力を持つか?

【道徳的原則の基礎には根拠づけ不能な信念があり強制力がないとされるが,特定の権威,宗教的信条には依らず,理性と経験のみに基づいて全ての人が納得できない原則ならば,道徳的という分類からは強制的に排除されよう.(ディーター・ビルンバッハー(1946-))】


(1)基礎づけ倫理学の方法
 倫理学の基礎づけモデルは、中程度の一般性のレベルで実践を導く原則を、さらに基本原則にまで還元する。
(2)基礎づけ倫理学の根本問題
 根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」があるのではないか。
 参考: 事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
 (2.1)強制力のある根拠
  強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。強制力のある根拠では、aを言った者は、もしも理性的であることを引き続き認められたいのならば、bも言わなければならない、という構造がある。
 (2.2)蓋然性による根拠
  蓋然性による根拠の場合には、選択の余地が残されている。蓋然性による根拠は強制力がなく、単に、根拠づけられたものへの賛同を促すだけである。
 (2.3)倫理学にも、強制力のある根拠が在る
  (2.3.1)「道徳的」原則とは何か(メタ倫理学的規範)
   (2.3.1.1)道徳的原則は、論理的普遍性を持つこと
    (a)すなわち、その原則には論理的一貫性がなければならない。
    (b)原則は、理性と経験のみに基づいて納得することができる。
   (2.3.1.2)道徳的原則は、普遍的妥当性を持つこと
    (a)すなわち、あらゆる人々が、その道徳規範に納得できるようでなくてはいけない。
    (b)すなわち、特定の権威や宗教的信条に基礎を置いてはならない。特別な宗教的信条または世界観に関わる信条を持っていても、あらゆる人々が納得できるのが、道徳的原則である。
  (2.3.2)ある特定の原則や根拠づけを排除する
   (a)必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を、道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論が可能である。
   (b)生命倫理学では、道徳規範に固有の普遍妥当性要求とは両立できない特別に神学的な論法が展開されることが多いので、否定的な作用でも批判に有効である。

 「倫理学の基礎づけモデルと再構成的モデルの違いは、中程度の一般性のレベルで実践を導く原則を基礎づけモデルが全然考えないという点ではなく、むしろ、基礎づけモデルがこのような中程度の一般性レベルでの原則を、さらに基本原則にまで還元するという点にある。ただし、こうした根拠づけの主張が、すでに、〔次のような意味で、〕基礎づけ倫理学の根本問題を含んでいる。ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている(Wittgenstein 1984,§253)。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。強制力のある根拠では、aを言った者は、もしも理性的であることを引き続き認められたいのならば、bも言わなければならない、という構造がある。これに対して、蓋然性による根拠の場合には、選択の余地が残されている。蓋然性による根拠は強制力がなく、単に、根拠づけられたものへの賛同を促すだけである。
 そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。
 つまり、こうした議論は、もともと道徳的な方向づけを探し求めている人を対象にしている(断固とした非道徳主義者に向かって、このような議論をしても無駄である)。そのうえまた、この種のメタ倫理学的議論は、つねに、否定的な効力を発揮するだけである。このようなメタ倫理学的議論は、ある特定の原則や根拠づけを排除するためのフィルターの役割を果たすのであって、特定の規範にもとづく倫理的または道徳的な立場の優位を肯定的に表示するためには役立たないのである。それでも、このような形での否定的なメタ倫理学の議論は、道徳上の立場および議論に対する相当に強力な批判の手段となりうるのである。これは、とりわけ生命倫理学に当てはまる。生命倫理学では、道徳規範に固有の普遍妥当性要求とは両立できない特別に神学的な論法が展開されることが多いのである。〔さて、否定的なメタ倫理学の議論が強力な批判の道具となり得る〕というのも、道徳規範が普遍妥当性要求を申し立てる場合には、原則として、あらゆる人々がその道徳規範に納得できるようでなくてはいけないからである。したがって、道徳規範は、権威や宗教的信条に基礎を置いてはならない。カントの言葉を借りれば、道徳的命令の遵守を「要求」される者は、誰でも皆、特別な宗教的信条または世界観に関わる信条とは独立に、すなわち、理性と経験のみにもとづいてこの要求の意味に納得することができる、という権利を有するのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-52,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:道徳的原則の強制力,生命倫理学,基礎づけモデル,原則)

生命倫理学: 自然と利害関心の間 (叢書・ウニベルシタス)


(出典:dieter-birnbacher.de
ディーター・ビルンバッハー(1946-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。」(中略)
 「そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-51,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:)

ディーター・ビルンバッハー(1946-)
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2020年5月30日土曜日

13.社会的認識,思想,信念を自分たちに有利な方向に形成する方法:(a)教育,官公庁,マスコミへの影響力の活用(b)社会的距離,社会的に構築されたカテゴリーの活用(c)研究機関と宣伝,広告を活用した思想の売り込み(d)経済学を通じた影響(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

社会的認識,思想,信念を自分たちに有利な方向に形成する方法

【社会的認識,思想,信念を自分たちに有利な方向に形成する方法:(a)教育,官公庁,マスコミへの影響力の活用(b)社会的距離,社会的に構築されたカテゴリーの活用(c)研究機関と宣伝,広告を活用した思想の売り込み(d)経済学を通じた影響(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(3)社会的認識、思想、信念を、自分たちに有利な方向に形成する方法
 (3.1)教育、官公庁、マスコミへの影響力の活用
  もしひとつのグループが、教育の機会あるいは官公庁やマスコミへのアクセスの点できわめて不利な立場に立たされていたら、“一般通念”が生まれる審議の場に対等の立場で参加することはできない。それゆえに生まれない思想もあれば、効果的に抑制される思想もあるだろう。
 (3.2)社会的距離、社会的に構築されたカテゴリーの活用
  (3.2.1)貧しい人々を、そのままにすること
   経済的機会に恵まれず、はるかに貧しいままであれば、ほかのグループとの人的交流が限られて、異なる文化を発展させる可能性が高い。貧しいグループを特別視する思想が、ほぼ確実に根づいて長く存在しつづける。
  (3.2.2)社会的カテゴリーを使うこと
   社会的に構築されたカテゴリーが持つ力は、社会的に構築されているようには見えないことから生じている。異なるカテゴリーに入れられた人々は、異なる行動をとるようになり、ひいては本質的に異なるように見えてしまうのである。
 (3.3)政策を下支えする思想は、一切の制限なく自由に市場で売り込むことができる
  (3.3.1)研究機関の活用
   十分な財源を持っている人々にとっては、有利な思想を形成するための道具、研究所やシンクタンクを使うことができる。
  (3.3.2)宣伝と広告の活用
   製品を売り込むときにゆがめられた情報を提供しても、さらには嘘をついても、心が痛まなかった企業が多い。
 (3.4)経済学が公正や平等の理念へ及ぼした影響
  もちろん、教育も信念や認識をつくり上げるし、おそらくそれは誰より経済学者にあてはまる。経済学の訓練が認識を形成するという証拠もある。そして、経済学者がだんだんと公共政策で果たすようになった役割を考えると、経済学者が持つ、何が公正かについての認識と、平等と効率性の兼ね合いについての見解は、本来の価値からすれば不釣り合いなほどに重視されてきたのかもしれない。

 「政策についての認識のつくられ方
 いま、社会の不平等をそのまま残したいと望む人々は、そういう不平等を受け入れやすくするような認識や信念の形成をもくろんでいる。

そういう人々は、その目的を遂げるための知識も道具も資産もインセンティブも持っている。たとえ過去に社会的認識を形成しようとする試みがすでに数多くなされていたとしても、現在はその手法がますます洗練されている。たとえば、そうしようとする人々は思想や好みを形成する方法についての知識を増やしている。思想が自分に有利な方向へ進化するのをただ祈りながら座して待つ必要はないのだ。

 上位1パーセントが社会の認識を形成できるという事実は、誰も思想の進化をコントロールできないという考えかたに、重大な警告を突きつける。

コントロールのしかたはいろいろある。ひとつは、教育とマスコミを利用する方法だ。もしひとつのグループが教育の機会あるいは官公庁やマスコミへのアクセスの点できわめて不利な立場に立たされていたら、“一般通念”が生まれる審議の場に対等の立場で参加することはできない。それゆえに生まれない思想もあれば、効果的に抑制される思想もあるだろう。

 ふたつめの方法は、社会的距離を生み出す方法だ。ひとつのグループがほかのグループと比べて、経済的機会に恵まれず、はるかに貧しいままであれば、ほかのグループとの人的交流が限られて、異なる文化を発展させる可能性が高い。

その場合、貧しいグループを特別視する思想が、ほぼ確実に根づいて長く存在しつづける。“認知の枠組み”について過去の著作で触れたように、このように社会的に構築されたカテゴリーが持つ力は、社会的に構築されているようには見えないことから生じている。異なるカテゴリーに入れられた人々は異なる行動をとるようになり、ひいては本質的に異なるように見えてしまうのである。


 最も重要なのは、もし品物を市場で売ることができるのなら、思想、特に政策を下支えする思想も市場で売ることができるという点だ。現代の市場取引は、認識を形成する技と科学を教えた。そして、じゅうぶんな財源を持っている人々(富裕層)にとっては、形成するための道具も存在している。

 製品を売り込むときにゆがめられた情報を提供しても――さらには嘘をついても――心が痛まなかった企業が多い。だからこそ、煙草会社は喫煙が健康に害をもたらすという科学的な証拠に疑いを投げかけることに成功したのだ。疑いの余地はないという証拠を自分たちが持っていたにもかかわらず。

 同じように〈エクソン〉は、地球温暖化の危険にかんする科学的証拠に疑いを投げかけたシンクタンクを支援することに、良心の呵責を感じているそぶりも見せなかった。公正広告法は、企業の行動をきびしく制限しようとするが、思想と政策を売り込むときには、そういう制限はいっさいない。

すでにいくつもの例を見てきた――アメリカは他国ほど平等ではないかもしれないが、機会の平等は他国より保障されているという主張や、大不況の根本的原因は、貧しい者への住宅供給を促進しようという政府の努力にあるという主張などだが、ほかの例も見てみよう。

 もちろん、教育も信念や認識をつくり上げるし、おそらくそれは誰より経済学者にあてはまる。公正さなどについての経済学者の認識が、社会に生きるほかの人々の認識とは著しく異なっているという証拠は、いまではかなりそろっている。

シカゴ学派の経済学者リチャード・ターラーは、一般の回答者のうち82パーセントが暴風雨のあとに除雪用シャベルの値段を上げるのは不当だと思っているのに対して、自分が教えているビジネススクールの学生でそう考えている者はたった24パーセントしかいないと報告している。

それはひとつには、経済学に魅力を感じる層が、全国民のうち公正さという観念にあまり重きを置かない人々だからだとも考えられる。

しかし、経済学の訓練が認識を形成するという証拠もある。そして、経済学者がだんだんと公共政策で果たすようになった役割を考えると、経済学者が持つ、何が公正かについての認識と、平等と効率性の兼ね合いについての見解は、本来の価値からすれば不釣り合いなほどに重視されてきたのかもしれない。

 保守派は認識を形成する際の教育の重要性を認めてきた。だからこそ、学校のカリキュラム設計に積極的に影響力を行使しようとしてきたし、より“経済的に洗練された”判断を下すための、つまり、世界を保守的経済学者の狭いレンズを通して見るようにするための、“教育”プログラムの制定に乗り出したのだ。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.240-241,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:社会的認識,思想,信念,社会的距離,社会的カテゴリー,宣伝,広告,研究機関,経済学)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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審議会等や懇談会等については,当該行政機関における経緯も含めた意思決定に至る過程を合理的に跡付け,又は検証することができるよう,開催日時,開催場所,出席者,議題,発言者及び発言内容を記載した議事の記録を作成するものとする.(行政文書の管理に関するガイドライン)

審議会等や懇談会等の議事録

【審議会等や懇談会等については,当該行政機関における経緯も含めた意思決定に至る過程を合理的に跡付け,又は検証することができるよう,開催日時,開催場所,出席者,議題,発言者及び発言内容を記載した議事の記録を作成するものとする.(行政文書の管理に関するガイドライン)】

主権者である国民
 ↑
 │公文書等
 │↑健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源
 ││
 │適正な管理、保存
 │↑責任の明確化
 ││ 経緯も含めた意思決定に至る過程を文書化
 ││  主管局長や主管課長における経緯・過程も
 ││  複数の行政機関の間の協議は職員の役職にかかわらず
 ││  審議会等や懇談会等については、発言者及び発言内容を記載
 ││正確性の確保
 ││ 事業の実績を合理的に跡付け、検証可能な文書化
 ││
 │現在及び将来の国民に説明する責務
行政
 適正かつ効率的な運営

○ なお、審議会等や懇談会等については、法第1条の目的の達成に資するため、当該 行政機関における経緯も含めた意思決定に至る過程並びに当該行政機関の事務及び 事業の実績を合理的に跡付け、又は検証することができるよう、開催日時、開催場所、 出席者、議題、発言者及び発言内容を記載した議事の記録を作成するものとする。
行政文書の管理に関するガイドライン内閣府 行政文書の管理
(索引:2009_公文書等の管理に関する法律)

文書化が不要な「処理に係る事案が軽微なもの」とは、厳格かつ限定的に解される必要がある。事後確認が不要で、当該事案が政策判断や国民の権利義務に影響を及ぼすようなものでなく、職務上支障が生じないようなものである。(行政文書の管理に関するガイドライン)

処理に係る事案が軽微なもの

【文書化が不要な「処理に係る事案が軽微なもの」とは、厳格かつ限定的に解される必要がある。事後確認が不要で、当該事案が政策判断や国民の権利義務に影響を及ぼすようなものでなく、職務上支障が生じないようなものである。(行政文書の管理に関するガイドライン)】
○ 「処理に係る事案が軽微なものである場合」は、法第1条の目的を踏まえ、厳格か つ限定的に解される必要がある。すなわち、事後に確認が必要とされるものではなく、 文書を作成しなくとも職務上支障が生じず、かつ当該事案が歴史的価値を有さないよ うな場合であり、例えば、所掌事務に関する単なる照会・問い合わせに対する応答、 行政機関内部における日常的業務の連絡・打合せなどが考えられる。当該事案が政策 判断や国民の権利義務に影響を及ぼすような場合は含まれない。
行政文書の管理に関するガイドライン内閣府 行政文書の管理
(索引:2009_公文書等の管理に関する法律)

最終決定だけでなく,立案経緯,過程に応じ主管局長や主管課長における過程についても,また,複数の行政機関の間でなされた協議は,事後的に検証可能なように,"実際に協議を行った職員の役職にかかわらず"文書化が必要である.(行政文書の管理に関するガイドライン)

経緯も含めた意思決定に至る過程の文書化

【最終決定だけでなく,立案経緯,過程に応じ主管局長や主管課長における過程についても,また,複数の行政機関の間でなされた協議は,事後的に検証可能なように,"実際に協議を行った職員の役職にかかわらず"文書化が必要である.(行政文書の管理に関するガイドライン)】

主権者である国民
 ↑
 │公文書等
 │↑健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源
 ││
 │適正な管理、保存
 │↑責任の明確化
 ││ 経緯も含めた意思決定に至る過程を文書化
 ││  主管局長や主管課長における経緯・過程も
 ││  複数の行政機関の間の協議は職員の役職にかかわらず
 ││正確性の確保
 ││ 事業の実績を合理的に跡付け、検証可能な文書化
 ││
 │現在及び将来の国民に説明する責務
行政
 適正かつ効率的な運営


○ 「意思決定に関する文書作成」については、①法第4条に基づき必要な意思決定に 至る経緯・過程に関する文書が作成されるとともに、②最終的には行政機関の意思決 定の権限を有する者が文書に押印、署名又はこれらに類する行為を行うことにより、 その内容を当該行政機関の意思として決定することが必要である。このように行政機 関の意思決定に当たっては文書を作成して行うことが原則であるが、当該意思決定と 同時に文書を作成することが困難であるときは、事後に文書を作成することが必要で ある。
○ 例えば、法令の制定や閣議案件については、最終的には行政機関の長が決定するが、 その立案経緯・過程に応じ、最終的な決定内容のみならず、主管局長や主管課長にお ける経緯・過程について、文書を作成することが必要である。また、法第4条第3号 で「複数の行政機関による申合せ・・・及びその経緯」の作成義務が定められている が、各行政機関に事務を分担管理させている我が国の行政システムにおいて、行政機 関間でなされた協議を外部から事後的に検証できるようにすることが必要であるこ とから、当該申合せに関し、実際に協議を行った職員の役職にかかわらず、文書の作 成が必要である。

行政文書の管理に関するガイドライン内閣府 行政文書の管理
(索引:2009_公文書等の管理に関する法律)

行政の"適正かつ効率的な運営"のためには,"正確性の確保","責任の明確化"等の観点も重要であり,"経緯も含めた意思決定に至る過程",事業の実績を"合理的に跡付け","検証"できるように文書化する必要がある. (行政文書の管理に関するガイドライン)

文書主義の原則

【行政の"適正かつ効率的な運営"のためには,"正確性の確保","責任の明確化"等の観点も重要であり,"経緯も含めた意思決定に至る過程",事業の実績を"合理的に跡付け","検証"できるように文書化する必要がある. (行政文書の管理に関するガイドライン)】

主権者である国民
 ↑
 │公文書等
 │↑健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源
 ││
 │適正な管理、保存
 │↑責任の明確化
 ││ 経緯も含めた意思決定に至る過程を文書化
 ││正確性の確保
 ││ 事業の実績を合理的に跡付け、検証可能な文書化
 ││
 │現在及び将来の国民に説明する責務
行政
 適正かつ効率的な運営

<文書主義の原則>
○ 行政機関の意思決定及び事務事業の実績に関する文書主義については、行政機関の 諸活動における正確性の確保、責任の明確化等の観点から重要であり、行政の適正か つ効率的な運営にとって必要である。このため、法第4条に基づき、第3-1におい て、行政機関の意思決定及び事務事業の実績に関する文書主義の原則を明確にしてい る。これに基づき作成された文書は「行政文書」となる。

第3 作成
1 文書主義の原則
職員は、文書管理者の指示に従い、法第4条の規定に基づき、法第1条の目的の 達成に資するため、○○省における経緯も含めた意思決定に至る過程並びに○○省 の事務及び事業の実績を合理的に跡付け、又は検証することができるよう、処理に 係る事案が軽微なものである場合を除き、文書を作成しなければならない。

行政文書の管理に関するガイドライン内閣府 行政文書の管理
(索引:2009_公文書等の管理に関する法律)

公文書等は,"健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源"であり,行政が"適正かつ効率的に運営され"その諸活動の"現在及び将来の国民に説明する責務"を果すため,主権者である国民が主体的に利用できるよう適正な管理,保存が必要だ.(公文書等の管理に関する法律)第1条

公文書管理法の目的

【公文書等は,"健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源"であり,行政が"適正かつ効率的に運営され"その諸活動の"現在及び将来の国民に説明する責務"を果すため,主権者である国民が主体的に利用できるよう適正な管理,保存が必要だ.(公文書等の管理に関する法律)第1条】

主権者である国民
 ↑
 │公文書等
 │↑健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源
 ││
 │適正な管理、保存
 │↑
 │現在及び将来の国民に説明する責務
行政
 適正かつ効率的な運営

第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。
公文書等の管理に関する法律
(索引:2009_公文書等の管理に関する法律)

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

【憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.4.3)追加。

 (3.4)憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系
  憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (3.4.1)垂直的な配列関係
   (a)憲法、最高裁判所やその他の裁判所の判決、種々の立法府の制定法といった配列関係である。
   (b)憲法理論は、政治哲学や道徳哲学に関する判断を含む。
   (c)憲法理論は、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断を要求する。
   (d)憲法理論は、裁判官によって不可避的に異なったものになる。
   (e)垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。
  (3.4.2)水平的な配列関係
   単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が、同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。

  (3.4.3)過誤の理論
   (3.4.3.1)以後の論証への影響
    (a)ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力との区別
     (i)ある制度的出来事に認められる特定の権威
      制度的出来事が、特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力である。
     (ii)牽引力
      今後の論証において働く、原理としての力である。
    (b)過誤とは何か
     ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、牽引力は否定されること。
     (i)この牽引性を認めることは、自らの理論における首尾一貫性と矛盾することになる。
     (ii)填め込まれた過誤
      牽引力を失っているが、特定の権威が固定され生き残っている過誤である。
     (iii)訂正しうる過誤
      それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
   (3.4.3.2)しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤と解してよいわけではない。
    続く。

 「ハーキュリーズは自己の理論を拡張して、制度史の正当化はその歴史のある部分を過誤として指摘することがある、という考えをその中に取り入れなければならない。しかし彼はこの手段を無原則に利用することはできない。なぜならば、もし彼が自分の一般理論に何ら変更を加えることなしに両立不可能な制度史のいかなる部分をも自由に過誤と解して構わないのであれば、首尾一貫性の要請はそもそも真の要請とは言えなくなるからである。そこで、彼は制度上の過誤に関して何らかの理論を発展させなければならず、しかもこの過誤の理論は二つの部分を持たねばならない。第一にこの理論は、何らかの制度的出来事が過誤とされることから、その後の論証にとってどのような帰結が生じるかを示さねばならず、第二に、このようにして処理されうる出来事の数と性格を限定しなければならない。
 ハーキュリーズはこの過誤の理論の第一の部分を、二組の区別によって構成するであろう。彼はまず、ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力とを区別するであろう。前者は、制度的出来事が制度的行為として有する力、すなわち、当の出来事により記述された特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力を意味する。さて、彼が何らかの出来事を過誤として分類する場合、彼はその出来事に認められる特定の権威を否定しているのではなく、その牽引力を否定しているのである。したがって彼は首尾一貫性に違背することなく他の論証においてこの牽引力に訴えることはできない。彼はまた制度の中に填め込まれた過誤と訂正しうる過誤とを区別するであろう。填め込まれた過誤とは、その過誤に認められる特定の権威が固定され、その結果それが牽引力を失った後でも生き残るような過誤である。これに対し訂正しうる過誤とは、それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
 彼の憲法的レヴェルでの理論において、どの過誤が填め込まれた過誤かが決定されるであろう。たとえば立法府の優位に関する彼の理論は、過誤として扱われる制定法がその牽引力は失っても特定の権威は失わないことを保証するだろう。たとえ彼が航空機事故責任制限法の牽引力を否定するとしても、その制定法はそれ故に廃止されるわけでない。この過誤は填め込まれた過誤であり、したがってそれに認められた特定の権威は生き残る。彼はこの制定法が賠償責任に対して課する制限を尊重し続けなければならないが、他の事案において、賠償請求権が弱い権利であることを主張するためにこの制定法を用いたりはしないであろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.151-152,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:過誤の理論,法の牽引力)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2020年5月28日木曜日

他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

真なる個人的な善と共通善とを学ぶ方法

【他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

いかにして自身の個人的な善と、共通善とを学ぶのか
 (1)理論的な内省か?
  理論的な内省によって学ぶのが、主ではない。
 (2)実践的な選択肢の比較衡量
  他の人々と共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな実践的な選択肢を比較衡量する中で学ぶことになる。
 (3)事例
  体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。
  (3.1)二つの過ち
   (a)自分自身の感情、認識を、事実として受け入れないこと
    その患者は、実際のところ、恐れを抱かせるような外見を示していないと強弁する。
   (b)違和感を感じながらも、現状維持すること
    その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう。
  (3.2)考えるべきこと
   (a)自分のこれまでの感情、認識を、ありのまま事実として認識すること。
   (b)認識に誤りはなかったのか、学ぶこと。
   (c)感情は妥当なものだったのか、学ぶこと。
   (d)なぜそのような認識、感情に導かれていたのか、学ぶこと。
   (e)感情を導いていた、暗黙の価値判断、諸規範が何なのか、学ぶこと。
 (4)個人的な善、共通善を捉えそこなう3つの失敗
  (a)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと
  (b)適切な自己認識の欠如
  (c)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
 (5)社会において支配的な諸規範に疑念がある場合の処方
  それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものである限りにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。

 「〈私たちの共通善とは何かを学ぶ〉という場合に私が意味しているのは、これまで同様、そうした善についての実践的知識を私たちがどのようにして得るかということである。つまり、それについてのある一連の理論的公式をマスターすることではなく、むしろ、日常的な実践の中に具体的なかたちで示されるそうした善へと方向づけられた態度を身につけることである。すでに強調してきたように、私たちが共通善とは何かということを学ぶのは、否それどころか、私たち自身の個人的な善とは何かということをも学ぶのは、主として理論的な内省によってではないし、ひとえに理論的な反省によってではまったくない。私たちはそれらを、〔他の人々と〕共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな選択肢を比較衡量する中で学ぶのである。また、これもすでに強調してきたことだが、私たちは、〔共通善や自身の個人的な善について〕学ぶ必要のあることがらを学びそこなうこともある。そして、そうした事態は、私が挙げた三つの失敗――すなわち、
 (1)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと、
 (2)適切な自己認識の欠如、
 (3)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
――をはじめとする、いくつかのタイプの失敗に起因するものである。以下において私は、障碍をもつ人々との関係を通じて学ばれうる、もしくは、概して障碍をもつ人々との関係を通じてしか学ばれえないことがらの一例について考察したいと思う。そのような学びを通じて私たちは、一連の間違った実践的判断や人を誤りに導く実践的判断をその帰結として伴う、上記三つの誤謬の原因のいずれかをみずからのうちに発見することがある。
 体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。そのような障碍に苦しむ患者の、恐れや嫌悪を抱かせる外見は、〔周囲の人々にとって〕一人のヒトとしての彼女や彼に接することを困難にする一因である。患者のそうした外見を肉体のより奥深いところで生じている現象の一連の徴候として理解することを仕事とする看護師や医師の場合、おそらく私たちほどそのような困難を感じないだろう。だが、看護師や医師ではない私たちは、次のような二つの〔両極端の〕過ちのいずれをも回避する道を探りあてる必要がある。すなわち、〈その患者は、実際のところ、おそれを抱かせるような外見を示していない〉と強弁する場合に犯すことになる過ちと、その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう場合に犯すことになる過ちである。そして、そのような困難な課題に取り組むことを通じて、おそらく私たちは自分自身に関して、少なくとも次のようなことを学ぶだろう。すなわち、自分はこれまで他人の見栄えのよさや自分自身の見栄えのよさにどのような価値をどの程度見出していたのかということを学ぶだろうし、同時に、そうした従来の価値判断が犯していた誤りについて学ぶだろう。
 この点、社会心理学の諸研究は、日常の観察が示唆していること、すなわち、私たちが多くのさまざまな場面で、顔をはじめとする人間の外見からあまりにしばしば影響を受けているということを裏づけている。また、より一般的な事実として、他人の表明した意見を私たちがどの程度重く受けとめるかは、その意見を述べたのが誰であり、その人間はどのような声や表情でその意見を述べたかによってある程度左右されがちである。それゆえ私たちは、誰かの人柄やその誰かの表明した意見を、その人の容姿や話しかたから切り離して評価する術を学ぶ必要がある。そして、そうした術を学ぶ過程において、私たちはそれまでの自分が考えてもみなかったことに気づくかもしれない。すなわち、自分がいままで、あるタイプの容貌をもつ他者と接する際に、〔その他者の容貌によって引き起こされる〕不快感や嫌悪感や、ときには恐怖感といった感情から自分自身を切り離すことができずにいたこと。そして、それゆえに、そのような感情に対して批判的判断をくだすことができずにいたことに気づくかもしれない。また、自分自身のくだすさまざまな判断がそのような感情から不当な影響をこうむっていたことに気づいていなかった点で、自分がこれまで適切な自己認識を欠いていたことに気づくかもしれない。また、これまでの自分が、その外見が私たちの気分を害するような人々に応答する際に、自分には少なくとも《彼ら》から学びうることは何もないと決めてかかっていたことに気づくかもしれない。つまり私たちは、そのような障碍をもつ人々との出会いにおいて、これまで認識されずにいた、みずからの実践的推論の誤謬の原因を発見するのである。そして、それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものであるかぎりにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第11章 共通善の政治的・社会的構造,pp.195-198,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:個人的な善,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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