2020年6月9日火曜日

27.感情が引き起こす身体変化のうち神経伝達物質と神経刺激性ペプチドは、次のような影響を及ぼす。(a)満足感、福利感、リラクセーション、快楽、(b)注意、興奮、(c)学習、記憶、(d)摂食への刺激、(e)睡眠、覚醒(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

神経伝達物質と神経刺激性ペプチド

【感情が引き起こす身体変化のうち神経伝達物質と神経刺激性ペプチドは、次のような影響を及ぼす。(a)満足感、福利感、リラクセーション、快楽、(b)注意、興奮、(c)学習、記憶、(d)摂食への刺激、(e)睡眠、覚醒(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

神経伝達物質と神経刺激性ペプチド
 例えば、次のような変化を引き起こす。
 (a)満足感、福利感、リラクセーション、快楽
 (b)注意、興奮
 (c)学習、記憶
 (d)摂食への刺激
 (e)睡眠、覚醒
 「この身体系は神経伝達物質の放出に関係する。もっとも重要なものは表4-3ならびに図4-3に列挙されている。」
神経伝達物質
 アセチルコリン(ACh) 皮質興奮、学習、そして記憶、これらが身体系を刺激する。アセチルコリンが中程度の満足と関係するといういくらかの証拠がある。
 モノアミン
  ドーパミン 運動機能と視床機能を規制し、またほとんどの辺縁系を刺激する。
  ノルアドレナリン
  (ノルエピネフリン)
入力情報に反応し、興奮を刺激するニューロンの能力を強化する。
  アドレナリン
  (ピネフリン)
ノルアドレナリンと同じ。
  セロトニン 睡眠-覚醒サイクルを調整し、またリラクセーションと快楽を生成する。
  ヒスタミン 十分にわかっていないが、神経内分泌機能に関与すると考えられる。
 アミノ酸
  ガンマアミノ酪酸
  (GABA)
抑制行動がニューロンの出力を制御する。
  グリシン 不分明であるが、しかしグルタミンの効果を緩和する。
  グルタミン 辺縁系のニューロンを含めて、ニューロンの興奮行動の原因である。
神経刺激性ペプチド 判明している数十種のペプチドのうち、多くのペプチドは脳で生産され、伝達物質のように作用する。その理由は、これが微小であり、また脳脈管系を往き来する能力のゆえである。これらは種々の辺縁系によって刺激される広範な感情に影響すると考えられる。オピオイドは感情反応でとくに重要と考えられる。多数のペプチドが内分泌系、また身体のより包括的な循環器系を介して作用する。最近のデータはサブスタンスPが感情反応、とくにモノアミンとの関係において決定的に重要であることを立証している(Wahlestedt 1998,Kramer et al. 1998)。

 「感情状態に含まれる神経伝達物質のほとんどはふつう、他の感情システムからの刺激のもとで、そしてドレヴェットら(Drevets et al. 1997)の最近の研究が明らかにしているように、脳梁膝下の前頭前皮質の影響下で脳幹の中脳部位によって放出される。

前脳基底もまた一つの伝達物質であるアセチルコリン(ACh)を放出していると考えられる。

そして視床も直接に関与しているのかもしれない(Bentivoglio,Kutas-Ilinsky,and Ilinsky 1993)。

ところで、最近発表された研究では、伝達物質が以前に考えられていた以上に脳幹の外側の領野で放出されていると考えられている。

表4-3にしめしたように、伝達物質それぞれの気分高揚の効果を列挙するのは伝達物質を議論するうえで魅力的である。

たとえば、われわれはセロトニンを福利感、リラクセーション、そして睡眠を生みだすのに関与するものとみなし、またドーパミンを注意、興奮、摂食への刺激とみなすことができるかもしれない。 


しかしこうした伝達物質の効果はおそらくそれぞれ異なり、またそれらの相互作用効果はまだ十分にわかっていない。

ケェティ(Kety 1970:p.120)が二五年以上前に指摘したように、「特定の感情状態を一つあるいは複数の成体アミンの活動によって考察しようとする企てはそもそも不毛であると思われる。これらのアミンは複雑なニューロン・ネットワークの非常に重要な結節点で、単独で、もしくは結びあって機能すると考えられる。〔中略〕しかしこれらは個人の経験におそらく由来している」。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、pp.134-138、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:神経伝達物質,神経刺激性ペプチド)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学



(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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9感情が引き起こす身体変化のうち自律神経系は、主として視床を通して作用するフィードバック・システムとして働き、入力情報を受信し、呼吸、心拍、筋肉収縮、口の渇き、発汗、胃などへ影響を波及させる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

自律神経系

【感情が引き起こす身体変化のうち自律神経系は、主として視床を通して作用するフィードバック・システムとして働き、入力情報を受信し、呼吸、心拍、筋肉収縮、口の渇き、発汗、胃などへ影響を波及させる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(1)感情が引き起こす身体変化
 (1.1)視床下部、下垂体、ホルモン
  (a)視床下部が受信した神経情報は、下垂体を経由して、ホルモン情報に変換される。
 (1.2)自律神経系
  (a)自律神経系は、主として視床を通して作用するフィードバック・システムとして働き、入力情報を受信し、他の感情システムや大脳皮質に伝達する。
  (b)感情は、自律神経系を介して、呼吸、心拍、筋肉収縮、口の渇き、発汗、胃もたれなどの身体変化を生じる。
 (1.3)反応の連鎖
  (a)ある刺激への最初の興奮は最初の興奮を維持し、変換し、あるいは強化する仕方で身体系を動員する。その一方で、他の感情的身体系を起動させる。
(2)反応の社会的機能
 (2.1)ジェスチャーの無意識的な表現を含む自己呈示(役割づくり)
  自己呈示は、しばしば無意識に進行する。自己呈示に反応した他者が役割を取得し、その他者の反応を彼らの無意識なジェスチャー表現と気づくまで、自らの身体動員にしばしば無意識である。
 (2.2)自己呈示に対する他者の反応(役割取得)
  自己呈示が無意識であることに起因して、感情システムの興奮に起因するフィードバックは、しばしば他者が役割を取得することに依存する。

 「自律神経系(ANS)は、感情興奮に随伴する本能的な反応を制御する平滑筋組織から構成されている。こうした反応、呼吸、心拍、筋肉収縮、口の渇き、発汗、胃もたれを含む(Shepered 1994:p.395)。図4-2は自律神経系の反応に関与する重要な脳システムの大略をしめしている。」
 新皮質───┐ …─→自律神経系
  運動領野 │
  感覚皮質 │
  前頭葉  │
  前頭前葉 │
 前葉帯───│──┐ …─→自律神経系
 扁桃体───│─┐│ …─→自律神経系
 海馬    │ ││ …─→自律神経系
 前脳基底  │ ││ …─→自律神経系
┌視床←───┘ ││ …─→自律神経系
│ ↓      ││
│視床下部←───┘┘ …─→自律神経系
│ ↓
│下垂体 …─→自律神経系

└→脳幹:間脳 …─→自律神経系

「ずば抜けて重要なのは視床下部であり、これが脳の他の領野からの入力情報を受信し、そして血流に分泌する下垂体にねらいを定めることによって神経情報をホルモン情報に変換する。

これがひとたび起動すると、自律神経系は、主として視床を通して作用するフィードバック・システムとして働き、入力情報を受信し、そしてそれを他の感情システムや大脳皮質に伝達する(Le Doux 1996)。

ダマシオ(Damasio 1994)とルドゥー(Le Doux 1996)が論じているように、こうしたフィードバック・システムは感情興奮にとって重要である。ある刺激への最初の興奮は最初の興奮を維持し、変換し、あるいは強化する仕方で身体系を動員する。

その一方で、他の感情的身体系を起動させる。

そしてわたしが論じているように、自己呈示(ジェスチャーの無意識的な表現を含めて)において、あるいは役割づくり(R.H.Turner 1962)、そしてこうした呈示に対する他者の反応、あるいは役割取得(Mead 1934)において非常に重要であるのは、そうした身体系の動員なのである。

さらに、個人が他者の役割を取得し、そして、そうした他者の反応を彼らの無意識なジェスチャー表現とみなすまで、自らの身体動員にしばしば無意識である。

だから、感情システムの興奮に起因するフィードバックは、個人にとって内面的であるだけでなく、それはしばしば身体系動員の視覚的な光景に反応する他者の役割を取得することに依存している。

自律神経系について真であることは、すぐ後でみるように、他の三つの身体系についても同じく真である。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、pp.132-135、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学



(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

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8.環境への迅速な対応のため、感情記憶は無意識的な過程を介して生成され機能する。合理的な思考と言語も、感情記憶の基礎の上に構築されており、認知能力は、感情によって活性化され、複雑かつ繊細になっていく。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

合理的な意思決定

【環境への迅速な対応のため、感情記憶は無意識的な過程を介して生成され機能する。合理的な思考と言語も、感情記憶の基礎の上に構築されており、認知能力は、感情によって活性化され、複雑かつ繊細になっていく。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(1.9)追記。

(1)人類の歴史
 (1.1)社会性と集団が無ければ生存できなかった
 (1.2)感情能力が強化されることで社会性が獲得された
 (1.3)社会性を強化するための、感情能力に依存する6つの仕組み
 (1.4)その1:感情エネルギーの動員と経路づけ
 (1.5)その2:対面反応の調整
 (1.6)その3:裁可
  (1.6.1)否定的裁可
   (1.6.1.1)怒りの表出
   (1.6.1.2)恐怖の喚起
   (1.6.1.3)否定的裁可の効果
   (1.6.1.4)否定的裁可の離反的効果
  (1.6.2)否定的裁可の内在化、恥と罪の感情
  (1.6.3)記憶による感情の持続化、激情化と肯定的感情の発展
   (1.6.3.1)記憶による感情の持続化と激情化
   (1.6.3.2)肯定的感情の必要性
  (1.6.4)肯定的裁可の内在化、誇りの感情
  (1.6.5)自己像の形成と自尊心の感情の誕生
  (1.6.6)悲しみなどの否定的感情の役割
   (1.6.6.1)恥や後悔などの感情と動機づけ
   (1.6.6.2)他者の悲しみの感知と連帯
 (1.7)その4:道徳的記号化
 (1.8)その5:資源評価と資源交換
 (1.9)その6:合理的意思決定
  (1.9.1)記憶
   (1.9.1.1)無意識的な感情記憶
    (a)危険に対してただちに反応するためには、もしその危険が繰り返し起こりそうであるなら、適切な感情反応を瞬時に送信できる経験を、皮質下辺縁系に貯蔵する。
    (b)新皮質を通るループを迂回する。
   (1.9.1.2)意識的な記憶
    (a)すべての期待を新皮質経由にすると時間がかかり、身体反応を起こす感情中枢の起動が遅れてしまう。危険な状況下で、貴重な時間を失うことは適合度を減じることになる。
    (b)新皮質からの制御システムは、皮質下辺縁系を補完する。
  (1.9.2)思考と行為
   (a)合理的思考と言語は、無意識的な感情記憶の能力の上に構築されている。
   (b)その結果、個人はなぜそのような決定をしてしまったのか、なぜそのように行動したのかを理解するのにとまどうことがしばしばある。
   (c)しかし合理的な思考は、具体的な経験と感情、情動と結合されないならば、活性化しない。
   (d)情動の拡がりが大きいほど、認知能力は複雑かつ繊細になっていく。

 「ここでもう一度、わたしの考えを繰り返しておこう。しばしば人間のもっとも卓越した特徴――合理的思考と言語――とみなされているものは、われわれのもっとも特有な特徴のもう一つ――非常に感情的であるわれわれの能力――の上に構築されたのだ。

ここでのわたしの要点は、記憶と思考は思考に経験、感情に情動をぴったり付ける能力なしには活性化しないだろうということである。

そして情動の拡がりが大きいほど、認知能力は複雑かつ繊細になっていくのである。

 とはいえ、思考と行為を導く記憶のすべてが意識的ではない。脳は感情記憶を皮質下に貯蔵できることがわかっている。すなわち、意識的な思考と評価が起こるのは新皮質の外部においてである(Le Doux 1996)。

選択が原始哺乳類の適合度をどのように強化したかを考えれば、このことは一目瞭然である。危険に対してただちに反応するためには、もし繰り返し起こりそうであるなら、適切な感情反応を瞬時に送信できる経験を皮質下辺縁系に貯蔵するために新皮質(もしそれが大きくなければ)を通るループを迂回するのが有用である。

すべての期待を新皮質経由にすると時間がかかり、身体反応を起こす感情中枢の起動が遅れてしまう。

そして、危険な状況下で、貴重な時間を失うことは適合度を減じることになる。

この種の皮質下の記憶系はヒト科の認知能力の拡張によって取り代えられはしなかった。むしろ原基的な皮質下の感情記憶系は新皮質からの制御システムによって補完された。

その結果、人間は新皮質に貯蔵された意識的記憶によって、あるいは中間的記憶(数年程度)を貯蔵する新皮質と統合される皮質下海馬と遷移性皮質によって、つき動かされて決定したり行動したりするのではなく、むしろ感情記憶を新皮質の直接的な関係の外部に貯蔵する、他の皮質下辺縁系によって押しだされる身体反応の影響下でしばしば意思決定は行われる。

事実、個人はなぜそのような決定をしてしまったのか、なぜそのように行動したのかを理解するのにとまどうことがしばしばある。

その答えは皮質下の感情記憶システムが皮質によって制御される系と交絡しているからである。

ゆえに、合理性はしばしば感情価との混合であり、その一部は、もし必要ならば、自己に接合され、そしてそれ以外は完全な自意識の外部にとどまっている。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.88-89、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:合理的意思決定)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

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2020年6月8日月曜日

7.否定的および肯定的裁可によって社会性を維持するための諸感情を洗練してきた人類は、他者の感情と期待を表現する、より一般的な道徳記号を生成した。そして、道徳記号への違反と同調が、感情を喚起する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

道徳的記号化

【否定的および肯定的裁可によって社会性を維持するための諸感情を洗練してきた人類は、他者の感情と期待を表現する、より一般的な道徳記号を生成した。そして、道徳記号への違反と同調が、感情を喚起する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(1.7)追記

(1)人類の歴史
 (1.1)社会性と集団が無ければ生存できなかった
 (1.2)感情能力が強化されることで社会性が獲得された
 (1.3)社会性を強化するための、感情能力に依存する6つの仕組み
 (1.4)その1:感情エネルギーの動員と経路づけ
 (1.5)その2:対面反応の調整
 (1.6)その3:裁可
  (1.6.1)否定的裁可
   (1.6.1.1)怒りの表出
   (1.6.1.2)恐怖の喚起
   (1.6.1.3)否定的裁可の効果
   (1.6.1.4)否定的裁可の離反的効果
  (1.6.2)否定的裁可の内在化、恥と罪の感情
  (1.6.3)記憶による感情の持続化、激情化と肯定的感情の発展
   (1.6.3.1)記憶による感情の持続化と激情化
   (1.6.3.2)肯定的感情の必要性
  (1.6.4)肯定的裁可の内在化、誇りの感情
  (1.6.5)自己像の形成と自尊心の感情の誕生
  (1.6.6)悲しみなどの否定的感情の役割
   (1.6.6.1)恥や後悔などの感情と動機づけ
   (1.6.6.2)他者の悲しみの感知と連帯
 (1.7)その4:道徳的記号化
  (1.7.1)道徳的記号化
   (a)人間は他者の期待に注意を払い、同調性を高めなければならなかった。
   (b)人間は他者の表現する全方向の感情に対して、敏感でなければならなかった。
   (c)人間は感情と期待を、より一般的な行動記号(たとえば、規範、価値)を生成できるような方法で結合する必要があった。
  (1.7.2)道徳記号の機能
   (a)道徳記号に違反が発生すると、違反者に対する怒りが同調を要求する他者を興奮させ、また違反者に向けられた。
   (b)違反者に向けられる怒りは、同調の努力を喚起させるであろう。
   (c)道徳記号が守られるとき、同調に向う満足-幸せは、同調の継続に肯定的強化物を与えるであろう。
 (1.8)その5:資源評価と資源交換
 (1.9)その6:合理的意思決定

 「アフリカ・サヴァンナで組織を作ろうとする相対的に社会性の低い動物を想像するとき、選択はこの動物の神経解剖学的構造にどのように関与しなければならなかっただろうか。

第一に、選択はこの動物の神経解剖学的構造を強化する必要があった。そのためこの動物は他者の期待に注意を払い、そして同調性を高めなければならなかった。

第二に、その動物は他者の表現する全方向の感情に対して敏感でなければならなかった。

第三に、その動物は感情と期待を、より一般的な行動記号(たとえば、規範、価値)を生成できるような方法で結合する必要があった。

恐れ、怒り、そして満足といった原基感情はこの過程を開始するのに十分であった。

選択はこれらの原基感情を道徳記号にするための変種に、そしてその変種によって作られる感情をいっそう複雑かつ精妙に拡張したと仮定することは可能である。

したがって道徳記号に違反が発生すると、違反者に対する怒りが同調を要求する他者を興奮させ、また違反者に向けられた。これと同様に、違反者に向けられる怒りは、同調の努力を喚起させるであろう。

道徳記号が守られるとき、同調に向う満足-幸せは同調の継続に肯定的強化物を与えるであろう。

こうした原基感情のより微妙な変種と組み合わせが進化すると、記号そのものとその裁可が結果的にますます複雑になり、これによってヒト科類人猿の祖先に適した、いっそう柔軟な社会的構成が可能になった。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.76-77、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:道徳的記号化)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学



(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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6.恥や後悔などの否定的感情は、肯定的裁可を得られるような行為へと個人を動機づけ、他者の悲しみの感情の感知は、他者の悲しみを救済しようとする行為を介して、連帯を強化する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

悲しみ等の否定的感情

【恥や後悔などの否定的感情は、肯定的裁可を得られるような行為へと個人を動機づけ、他者の悲しみの感情の感知は、他者の悲しみを救済しようとする行為を介して、連帯を強化する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(6)悲しみなどの否定的感情の役割
 (6.1)恥や後悔などの感情と動機づけ
  悲しみは肯定的裁可の力と結合される。なぜなら、われわれがこうした裁可を受けとれないときに感じる悲しみは、その裁可を確実に受けとれるような仕方で行動しようとわれわれを動機づけるからである。
 (6.2)他者の悲しみの感知と連帯
  他者における悲しみを感じとり、他者の状態を認知できるようになり、悲しみを送信してくる者を肯定的に裁可しようとする環境にいる各個人にとって、一つの標識になる。この意味で、悲しみはほとんどの連帯を最終的に生産できる。

 「ところで、失望-悲しみが原基感情であるかどうかについては多少の議論がある。

有名なフロイト学派の見解によれば、失望-悲しみは感情エネルギーを消耗させ、そして拡散した不安と鬱ぎ込みの双方を引き起こす抑圧の産物である。

この議論にはいくつかの利点があるが、しかしここでのわたしの議論にとって、もし裁可が社会連帯を作りだすのに必要な複雑さをもつことだとすれば、悲しみは非常に重要な感情であるとだけ強調しておく。

神経伝達物質と神経刺激性ペプチド系がもともと、悲しみを引き起こすようにみえる物質を、微量もしくは中程度の量を作るのであれば、あるいはよくあるように、それらが単に満足をもたらすだけの物質を作りそこねたのであれば、選択は他者における悲しみの変種と組み合わせを感じとり、そして認知するように人間の能力を拡張するために、このシステムに働くかもしれない。

悲しみは、怒り、恐れ、満足だけではありえない次元を感情レパートリーに付け足している。

そしてさらに、悲しみは否定的ならびに肯定的裁可の重要な部分である。

上述したように、罪と恥――これはわたしの見解では、圧倒的に悲しみによって特徴づけられる(第3章をみよ)――のような感情を生産する否定的裁可は、怒り-恐れ-怒りの悪循環を作ってしまう暴発を減らし、と同時に個人に償いをするよう動機づける。

また、悲しみは肯定的裁可の力と結合される。なぜなら、われわれがこうした裁可を受けとれないときに感じる悲しみは、その裁可を確実に受けとれるような仕方で行動しようとわれわれを動機づけるからである。

確かに、深い悲しみと抑圧は社会結合を妨げる。明らかに、霊長類はこうした深い感情を経験する能力をもっている。

けれども、もっと短い悲しみのエピソードは高度に結合的である。なぜならそうした短期の悲しいエピソードは、霊長類を肯定的であろうとさせ、そして肯定的裁可を強化するからである。

そしてこうした裁可が実際に満足-幸せのような肯定的感情を生産すると、悲しみは個人にとって、また悲しみを送信してくる者を肯定的に裁可しようとする環境にいる各個人にとって、一つの標識になる。

この意味で、悲しみはほとんどの連帯を最終的に生産でき、もっと肯定的な裁可の過程の活性化にとって一種の引き金になる。

したがって、悲しみと、恥や罪などの剥奪感情とがなければ、否定的裁可と肯定的裁可の両方が、感情によって社会結合を構築するための力と機微、また活力になりえなかったであろう。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.72-74、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:悲しみ,後悔,恥)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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5.肯定的裁可は内在化し、誇りの感情を生む。やがて、個人は自己像を持ち、対象としての自己を自分で肯定的に評価することで、自尊心の感情が誕生し、強い社会結合と連帯を作り出すことができるようになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

自尊心

【肯定的裁可は内在化し、誇りの感情を生む。やがて、個人は自己像を持ち、対象としての自己を自分で肯定的に評価することで、自尊心の感情が誕生し、強い社会結合と連帯を作り出すことができるようになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(4)肯定的裁可の内在化、誇りの感情
(5)自己像の形成と自尊心の感情の誕生
 (a)肯定的裁可が内在化した誇りの感情がさらに自律化し、対象としての自己を自分で肯定的に評価することで、自尊心の感情が誕生する。
 (b)自尊心の感情は、おおむね幸せからなっている。
 (c)自らを誇れるような仕方で行動できないかもしれないという恐れの気持ちが付きまとっている。
 (d)自尊心は個人が将来の期待を適え、そしてこうした努力によって生まれる肯定的裁可を確保できるように個人を押しあげる能力をもっている。
 (e)相互的な自尊心を用いる方法は、否定的裁可とその感情を用いる方法よりも、はるかに強い社会結合と連帯を作りだすことができる。

 「社会結合と連帯にとってとくに重要であったのは自尊心の感情である。自尊心の感情はおおむね幸せからなっている。

とはいえそれには自らを誇れるような仕方で行動できないかもしれないという恐れの気持ちが付きまとっている。

チャールズ・ホートン・クーリー(Cooley 1916)がはじめて自尊心の重要性を認識した。トーマス・シェフ(Scheff 1988,1990a,1990b)の最近の研究によってその重要性があらためて検証されている。

自尊心がとりわけ重要であるのは、それが対象としての自己についての個人の意識的情動と結びついているからである。

自尊心は自己が課し、また他者によって課せられた期待を適えることができたとき、もしくは期待以上のことをなし遂げたときに生まれる。

肯定的裁可は自尊心の生産にとっての基本であるが、しかしこれがひとたび活性化すると、自尊心は個人が将来の期待を適え、そしてこうした努力によって生まれる肯定的裁可を確保できるように個人を押しあげる能力をもっている。

さらに自尊心は肯定的な社会結合を築くような仕方で個人に行為を行わせる。というのも、自尊心は基本的に自分にとっての幸せの感情――これは伝染しやすい傾向をもつ――だからである。

それゆえ、他者は自尊心を経験している人と役割取得をしているわけだから、彼らは肯定的情動を経験しやすい。

だからこそ、ヒト科の進化のきわめて早い時期に、選択は人間の祖先に自尊心を経験する能力を与えたのではないだろうか。ついで、自尊心は期待を適えるように自らを方向づけるための羅針盤を個人に与え、また肯定的裁可の表現を通して他者に同一の行動をするよう促す。

相互的な自尊心を用いる方が、他の方法を用いるよりもはるかに相互的な自尊心から強い社会結合と連帯を作りだすことができる。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.71-72、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:自尊心)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学



(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

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4.怒りと恐れを使った否定的裁可は内在化し、恥と罪の感情を生む。しかし記憶は、怒りと恐れを持続化、激情化するため、社会性と集団構造維持の選択圧は、連帯と緊密な社会結合を生む肯定的感情を発展させた。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

肯定的感情の発展

【怒りと恐れを使った否定的裁可は内在化し、恥と罪の感情を生む。しかし記憶は、怒りと恐れを持続化、激情化するため、社会性と集団構造維持の選択圧は、連帯と緊密な社会結合を生む肯定的感情を発展させた。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(2)(3)追記。

(1)否定的裁可
 怒りの表出を伴う否定的裁可は、相手に恐怖を喚起する。これは、危険からの逃走、敵への攻撃という基盤を持つ感情のため効果的であるが、対抗的な怒りを生み、連帯を促進しない悪循環を生み出す可能性もある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
 (1.1)怒りの表出
  相手側が期待に適うことができなかったことに対する、当事者の怒りあるいはこの感情の変種を含んでいる。
 (1.2)恐怖の喚起
  間違いをした側に、恐怖心あるいはこの感情の変種を喚起する。
 (1.3)否定的裁可の効果
  否定的裁可は、ほとんどの哺乳類において原基的な感情である、怒りと恐れの感情を利用しているため、非常に効果的である。
  (a)怒り
   防衛的攻撃を動員する能力をもたない動物は、逃げのびて退避できない場合に、捕食者の歯牙にかかって死ぬ運命にあるからである。
  (b)恐怖
   恐怖心をもたない動物は、選択によって除外される。
 (1.4)否定的裁可の離反的効果
  否定的裁可は、恐れを喚起するだけでなく、しばしば対抗的な怒りを生む。そのため、否定的裁可は連帯を促進しない怒り-恐れ-怒りという複雑な循環を生みだす可能性がある。

(2)否定的裁可の内在化、恥と罪の感情
 (a)過去の否定的裁可が記憶され、自己行為が怒りの反応を喚起するかもしれないという恐れが、恥や罪の感情を生み出す。
 (b)否定的裁可の離反的効果が取り去られる。
(3)記憶による感情の持続化、激情化と肯定的感情の発展
 (3.1)記憶による感情の持続化と激情化
  (a)ヒト科の感情レパートリーが拡張すると、激怒、憎悪、逆上、反感などの、非常に激しい感情が可能になる。
  (b)また、特に記憶を貯蔵するためのヒト科の認知能力が人間の水準に達し始めたとき、激しい感情が簡単に思い起こされることは、社会的結合にとってきわめて破壊的である。
 (3.2)肯定的感情の必要性
  (a)否定的裁可に起因する感情だけでは、社会構造が維持できない。そこで、連帯と緊密な社会結合が構築される肯定的な感情を生成できるように、選択圧が働いた。すなわち、ヒト科の脳が満足と幸せの変種を組み合わせるように再配線された。
  (b)満足-幸せという原基的な情動状態が、自尊心、愛情、喜び、恍惚、歓喜といった新しい感情を生み出した。
  (c)母子結合を作りだす帯状回下部などの領野、神経伝達物質を放出する脳幹のような領野、そして神経刺激性ペプチドを生産する間脳と下垂体などの領野が関係する。

 「こうした離反的な結末を乗り越えるため、恥や罪のようなずっと複雑な感情が進化した。

これによって、否定的裁可は粗暴な怒りの反応を起こさないですむ。恐れ、怒り、そして悲しみの組み合わせが罪や恥のような感情を生成したほうがよい。

次章で述べるように、これらは特に有効な感情である。

なぜなら、期待に応えられなかった当事者に対して否定的裁可を与える側が過度の怒りをぶつけることのないように、そうした感情になんらかの修正を加えるよう自らを動機づけさせるからである(そのために、怒りの多くが自己に向けられた)。

したがって、否定的裁可が結合のための紐帯を生むためには、否定的裁可の離反効果を取り去ることができ、しかも複雑な感情を生産するために脳を再配線しなければならなかった。

ヒト科の新皮質が拡張するにつれて、彼らは過去の屈辱的な処遇に怒りの反応を喚起するかもしれないような過去の裁可を記憶することができ、それによって連帯を維持している現在の努力を壊しかねない離反的効果を取り除く必要がますます重要になった。

さらに、ヒト科の感情レパートリーが拡張すると、激怒、憎悪、逆上、反感などの非常に激しい感情が可能になる。またとくに記憶を貯蔵するためのヒト科の認知能力が人間の水準に達し始めたとき、そうした感情が簡単に思い起こされることは、結合にとってきわめて破壊的である。

 ゆえに、集団連帯は否定的感情だけに頼って構築することも、また維持することもできない。社会構造はもっと結合反応を喚起する肯定的裁可によって構築されなければならないのである(Coleman 1988,Hechter 1987)。

こうした肯定的感情は恐れ-怒りほどに哺乳類にしっかり配線されてはいなかった。事実、母-子の結合は哺乳類に普遍的であり、たとえ社会性の低い類人猿においても、たとえばチンパンジーの兄弟にみられるように、肯定的な友情の結びつきが形成できる。

しかし人間と比べて、類人猿は満足-幸せを軸にして展開する感情価の点で相対的に低い。だから、ヒト科の脳が満足と幸せの変種と組み合わせとを生みだすために再配線されたということは大いにありうることだ。

自尊心、愛情、喜び、恍惚、歓喜といった新しい感情が、辺縁系が満足-幸せという原基的な情動状態から構築される感情に再配線されるときに可能となった。

選択は、連帯と緊密な社会結合が構築される肯定的な感情を生成できる辺縁系を作りだすために激しく働いたにちがいない。

満足-幸せという感情の広範な変種を経験し、表現し、解読するための能力を急速に構築するために働きかけうるところ――母子結合を作りだす帯状回下部などの領野、神経伝達物質を放出する脳幹のような領野、そして神経刺激性ペプチドを生産する間脳と下垂体などの領野――は、選択が働きかけるに十分であった。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.70-71、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:否定的裁可,恥,罪,肯定的感情)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学



(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

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2020年6月6日土曜日

仮に最も敵対的な諸見解,観点から出発しても,予め願われた地点とは別の一つの意見に収斂してゆく. これは逃れることのできない運命の働きであるかのようである. この意見が真理であり,実在する対象の表現でもある.(チャールズ・サンダース・パース(1839-1914))

真理と実在

【仮に最も敵対的な諸見解,観点から出発しても,予め願われた地点とは別の一つの意見に収斂してゆく. これは逃れることのできない運命の働きであるかのようである. この意見が真理であり,実在する対象の表現でもある.(チャールズ・サンダース・パース(1839-1914))】

(出典:wikipedia
チャールズ・サンダース・パース(1839-1914-)の命題集(Propositions of great philosophers)

「別々の精神は、もっとも敵対的な諸見解をもって出発するであろうが、探究の進歩は、彼ら自身の外側にある一つの力によって、おなじ一つの結論にむかって彼らをつれていくのである。われわれが、われわれの願う地点ではなく、逆にまえもってさだめられたゴールにむかってはこばれていく思想のこの活動は、あたかも運命のはたらきであるかのようである。採用された観点をどんなにかえてみても、精神のもって生まれたいかなる性癖でさえも、一人の人間をして、このまえもってさだめられた意見からのがれさせることはできない。この偉大な法則が、真理と実在の概念のなかに体現されているのである。探究者全体によって、終局的に同意されることが運命づけられている意見こそ、われわれが真理というコトバにあたえる意味なのであり、この意見のなかに表現される対象こそ、実在する対象なのである。これこそ、私が実在を説明しようとする方法である。〔久野収訳『われわれの概念を明晰にする方法』世界思想教養全集14、プラグマティズム、河出書房新社、1963年、48頁〕C. S. Peirce,'How to Make Our Ideas Clear',Popular Science Monthly vol.12,1878,pp.286-302」 (デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第3章 真理、発明、人生の意味、原注34、p.223、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・古田徹也(訳))
(索引:)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)


(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)
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価値評価の認知主義は,真理を評価基準の最高位におき,証拠に基づいて議論可能で,合意へと収斂可能であると考える. 真理は人間の意志や認識能力とは独立に存在する実在の反映であり,互いに矛盾せず,確定可能であろう.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

認知主義と非認知主義

【価値評価の認知主義は,真理を評価基準の最高位におき,証拠に基づいて議論可能で,合意へと収斂可能であると考える. 真理は人間の意志や認識能力とは独立に存在する実在の反映であり,互いに矛盾せず,確定可能であろう.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

(1)認知主義
 (a)真理であるから、それを受け入れる。判断の評価基準は、真理かどうかが最上位である。
 (b)真理であるかどうかは、証拠に基づいて議論可能であり、合意へと収斂可能である。
 (c)真理は、人間の意志や認識能力とは、独立に存在する。
 (d)あらゆる真理は、何か真にするものによって真である。人間を超えた真に存在するものがある。
 (e)あらゆる真理は、他のあらゆる真理と両立可能であると期待可能である。
 (f)真理が完全な確定性をもち、また、その答えが真理をもつことを志向するような問いもすべて完全な確定性を持つと要求は正当である。
(2)非認知主義
 (a)真理であるからといって、それを受け入れるとは限らない。というより、価値評価は、真理とは無関係である。
 (b)価値評価は、議論不可能であり、合意することもできない。
 (c)価値評価は、人間の意志や認識能力に依存する。
 (d)価値評価は、人間の評価である。恐らく、真理も人間に依存する。
 (e)価値評価は、互いに矛盾することもある。
 (f)意味のある問いが、確定した答を持つとは限らない。

「非認知主義者の眼目を際立たせる第二の仕方は、哲学的分析の伝統における一連の荒唐無稽な試み――快や感じ、是認といったものによって「よい(good)」や「べき(ought)」、「正しい(right)」などを分析しようとする試み――からみずからの議論を切り離し、以下のような非形式的な考察へと変容させることである。すなわち、評価や実践における判断が与っている主張可能性を一方の側に置き、(たとえば)歴史学や地理学における判断が与っている端的な真理(plain truth)――範例的な真理、標準的な真理――という身分をもう一方の側に置いた場合の、両者の間の類似性あるいは差異に関して考察することである。
 それでは、端的な真理とは何だろうか。比較のためにはおそらく端的な真理についての自明の理と呼びうるものによってそれを特徴づけることで足りるだろう。私が受け入れている自明の理は以下のものである。
(1) 判断の評価軸として、真理が最上位である。
(2) 真理は、証拠にもとづいた議論のあり方を説明できなければならない。そもそも議論は、良好な条件の下では合意へと収斂するものであって、その合意についての適切な説明はまさにその真理を必要とする。
(3) 真理は、われわれの意志と独立であるのみならず、ある言明の属性の存在ないし不在を認識するわれわれ自身の限られた手段に対しても独立性をもつ。この(2)と(3)が合わさると、
(4) あらゆる真理は何か〔真にするもの(truth-maker)〕によって真である、という自明の理が示唆される。そこから、われわれはさらに、
(5) あらゆる端的な真理は他のあらゆる端的な真理と両立可能である、ということを期待することができる。最後に、さらなる自明の理と推定されるものとして、
(6) 真理が完全な確定性(determinancy)をもち、また、その答えが真理をもつことを志向するような問いもすべて完全な確定性をもつ、という要求を挙げることができる。
 評価的な判断および/または熟慮的な判断の主張可能性は、以上の基準を満たすだろうか。もしこの問いを先ほど提案した枠組みのなかで追求するとすれば、非認知主義者に特有の教説は、この問いに対して《否》と答える主張となるだろう。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第3章 真理、発明、人生の意味、8、pp.181-182、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・古田徹也(訳))
(索引:認知主義,非認知主義)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)
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「xが必要である」という言明が,xに対する要求権や権原を生み出す社会道徳が存在する. ゆえに,多数者の欲求や「ニーズ」のために,少数者の厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは不正義とされ,制限される.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

権利を調停する制限原理

【「xが必要である」という言明が,xに対する要求権や権原を生み出す社会道徳が存在する. ゆえに,多数者の欲求や「ニーズ」のために,少数者の厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは不正義とされ,制限される.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

(1)「xが必要である」という言明
  「xが必要である」という言明は,もしxが奪われれば,互恵性や協調を支える規範遵守の再検討が公言可能で,しかも道徳的なことであると感受されるような社会道徳の存在を前提に,xに対する要求権や権原を生み出す。(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))
 (1.1)要求権、権原
  xに対する抽象的な要求権や権原を生み出す。
 (1.2)社会道徳Sの存在
  (1.1.1)社会道徳Sの目的
   (a)人々は、自ら身を立てることができる。
  (1.1.2)社会道徳S
   (a)Sによって維持されている互恵性や協調という規範が存在する。
   (b)Sが社会道徳であるとは、コンセンサスの取り消しが、Sの内部ですら理解可能で自然なことであるということが判明するような、何らかの条件が確かに存在するということである。
   (c)規範遵守の再検討を公言可能にする理由
    (i)規範に対するその当該人物の遵守を再検討するために、Sの内部で公言可能かつ公的に持続可能であるような理由が存在する。
    (ii)規範遵守の再検討の公言は、協調への期待に依拠する共有された感受性の内側で、道徳的に理解され得るものとみなされる。

(2)権利を調停する制限原理
 権利/対抗権利の調停を統制し、かつ、公共財の追求のために実施される総計的推論を統制すべき制限原理は、以下の通りである。
 (2.1)多数者の欲求と少数者の死活的ニーズ
  いかに多数の者の利益のためであろうとも、多数者の単なる「欲求」のために、誰かの厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは、不正義である。
 (2.2)多数者の「ニーズ」と少数者の厳密な意味での死活的ニーズ
  いかに多数の者の「ニーズ」の名においても、より大きな厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にするならば、不正義である。
 (2.3)最も幸薄い状態であり続けている人々の存在
  苦しんでいる人々のなかに、関係するすべての集団において前々から最も幸薄い状態であり続けている者たちがいてもなお、不正義それ自体はない。

「おそらく、権利/対抗権利の調停を統制し、かつ、公共財の追求のために実施される総計的推論を統制すべき制限原理は、以下のようなものである。(物品面であろうが金銭面であろうが)ある者を現状より貧しくさせないようにしようとして他の者をより貧しくさせるような国やその機関の活動に何ら不正義がないとしても――また、それによって苦しんでいる人々のなかに、関係するすべての集団において前々から最も幸薄い状態であり続けている者たちがいてもなお、不正義それ自体は(それによって思考にもたらされるいかなる中断も)まったく存在する必要がないのだとしても――、国や国の機関が、いかに多数であろうとも、多数の者の単なる欲求のために誰かの厳密な意味での死活的利益を犠牲にして、偶然性に介入し、その政策を変更し、市民の思慮ある期待を裏切るならば、《それは、その程度には不正義(pro tanto unjust)である》。また、(より思弁的にはなるが)そうした介入の影響を実際に受ける死活的利益のなかで、いかに多数であろうとも、多数の者のより小さなニーズの名の下に誰かのより大きな厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にするならば、《それは、その程度には不正義である》。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第1章 ニーズの要求、18、p.55、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(訳))
(索引:権利を調停する制限原理,ニーズ)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

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2020年6月4日木曜日

自然な動機への何らかの義務による事後的制限を考える義務倫理学,全ての利害関心への公平で合理的な配慮が自然な動機に一致し得ると考える功利主義倫理学,自然な動機づけの何らかの陶冶が徳の本質と考える徳倫理学がある。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))

倫理学の類型

【自然な動機への何らかの義務による事後的制限を考える義務倫理学,全ての利害関心への公平で合理的な配慮が自然な動機に一致し得ると考える功利主義倫理学,自然な動機づけの何らかの陶冶が徳の本質と考える徳倫理学がある。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))】

(2)倫理的判断、道徳的判断
 人はいかに生きるべきか。それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いに答えること。
 (2.1)義務倫理学
  行為者個人に対して、自然のままの動機付けを、それに対抗する道徳的な視点によって補うことで、自己の利害関心の追求を、いわば事後的に制限するよう求める。
 (2.2)功利主義倫理学
  あらゆる利害関心をまったく公平に扱うように主張し、自然のままの動機づけを、無党派的な合理性で置き換える。
 (2.3)徳倫理学
  個人に対して、自然のままの動機づけを陶冶し、それを新しい形態や秩序へと改変することによって、何ら制限されることなくこの動機に従って人生を導くよう要求する。
  (a)もともとの動機を、事後的に抑えるのではない。
  (b)自分の行いや感情や思考において、道徳の視点をもはや異物とは感じられないほど統合されている状態が理想である。

「徳倫理学と、先にあげた二つの道徳理論との相違は、大体次のように特徴づけることができるだろう。《義務倫理学》は、行為者個人に対して、自然のままの動機付けをそれに対抗する道徳的な視点によって《補う》ことで、自己の利害関心の追求をいわば事後的に制限するよう求める。《功利主義の倫理学》は、あらゆる利害関心をまったく公平に扱うように主張し、自然のままの動機づけを無党派的な合理性で《置き換える》。これに対して、徳倫理学は、個人に対して、自然のままの動機づけを《陶冶し》、それを新しい形態や秩序へと改変することによって、何ら制限されることなくこの動機に従って人生を導くよう要求する。
 徳倫理学は、現に実践されている道徳の中に見出される理想に即して議論を展開する。それは、自分の行いや感情や思考において、道徳の視点をもはや《異物》とは感じられないほど統合できているような成熟した大人のことである。つまり、道徳の視点が、もともとの動機をいわば事後的に抑えるのではなく、むしろ道徳的に陶冶された人の動機の中ですでに働いているというのが理想的な姿なのである。」
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第1章 徳倫理学への道、pp.32-33、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・上野哲(訳))
(索引:義務倫理学,功利主義倫理学,徳倫理学)

徳は何の役に立つのか?


(出典:philosophy.uchicago.edu
アンゼルム・W・ミュラー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「私たちが彼に期待しているのは、むしろ、「幸福は価値あるもののすべてではない」という回答である。この言葉には《不合理なもの》は何もない。私たちが幸福を理性的な努力における比類のない究極の理由として《定義づけ》ようとするのなら別だが、それにもかかわらず、この回答ではまだ答えきれていない問題がもう一つある。
 有罪の判決を下された者の多くは、自らの手紙の中で揺れる気持ちを表現している。一方で彼らは、自分の家族や友人たちとそのまま生き続けたかったに違いない。他方で、彼らは、国家の不正に抵抗すれば死刑判決は免れないという《変更不可能な条件の下で》、つかみ損ねた自らの幸福よりも実際に自らが歩んだ道を、後になってさえ選ぶのである。その際、彼らは、自らが歩んだ道の方が、(上の第2の論点の意味で)《一層深い》幸福を自らに与える見込みがあったのだ、などと自分に言い聞かせることはでき《ない》。
 徳の「独自のダイナミズム」が、仲間のために身を捧げるという振舞いに、道徳的に中立な動機や観点よりも優位を与えることは間違いない。その限りでは、《有罪判決を下されたレジスタンスの闘志たちは》、自らが取った道を(たとえ後になってからでも)肯定《する以外はできなかった》のである。ただし、彼らだけでなく私たち自身も、徳が彼らの「ためになった」のであり、彼らに不利益をもたらしたわけではないことを《確信》していない場合には、この主張はシニカルな印象を与える。しかしながら、本章の考察も、そうした確信のための足場を提供できたわけではない。ひっとしたら、よい人間が手にしている信念には、いまだ神秘のベールに包まれた部分が残されており、哲学はそれをただ尊重し得るだけなのかもしれない。
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第8章 理由がなくともよくあるべき理由、pp.236-237、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・衛藤吉則(訳))
(索引:)

アンゼルム・W・ミュラー(1942-)
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2020年6月2日火曜日

規範性とは何かについては,(a)期待や憤慨の感情説,(b)集合的合意,共同意図説,(c)合理的正当化説など種々あり合意がないが,規範性とは切り離して制度の機能の記述が必要だ. その一例が,均衡したルール理論である.(フランチェスコ・グァラ(1970-))

均衡したルール理論

【規範性とは何かについては,(a)期待や憤慨の感情説,(b)集合的合意,共同意図説,(c)合理的正当化説など種々あり合意がないが,規範性とは切り離して制度の機能の記述が必要だ. その一例が,均衡したルール理論である.(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(1)規範性とは何かに関する諸仮説
 (a)期待や憤慨の感情説
  規範性は、相互の期待や、私たちの期待が裏切られたときに経験する憤慨の感情の観点から分析できる。
 (b)集合的合意、共同意図説
  規範性は、集合的合意あるいは共同意図というような、より強い概念を必要とする。
 (c)合理的正当化説
  規範性は、合理的論証によって行為を正当化する可能性にかかわる。
(2)均衡したルール理論
 (a)制度の理論を、特定の規範性の理論に依存させないで記述すること。
 (b)規範性を機能によって特徴づける。
 (c)このアプローチは、いかなる実質的かつ規範的な制度評価も可能にしない。たとえば、独裁制と民主制、資本主義と社会主義、単婚制と複婚制といったように、悪い制度から良い制度を見わけることを可能にしない。
 (d)上記のような判断は、社会的存在論よりもむしろ倫理の領域に属するものであり、これら二つの研究を分けたままにするのに好都合である。

 「ここで次のことに注意してもらいたい。この戦略に従うことで、統一理論は、規範性を表現するフォーマルな道具しか提供しないことになるが、規範性の性質についてや、規範性はどこから生じるかということについては中立的な立場にとどまるということだ。そして、私はまさにそうあるべきと考える。規範性は現代哲学における至極厄介な問題の一つであり、制度の理論をそれに関する特定の説明に依存させることは馬鹿げているだろう。哲学者と社会科学者のなかには、規範性は、相互の期待や、私たちの期待が裏切られたときに経験する憤慨の感情の観点から分析できると信じる学者がいる。他の学者たちは、規範性は集合的合意あるいは共同意図というような、より強い概念を必要とすると考えている。また、規範性は情動に依存すると主張する哲学者と社会科学者もいるし、さらには、規範性は合理的論証によって行為を正当化する可能性にかかわると信じている学者もいる。
 これらの説明のどれが満足できる仕方で規範性を説明することができるか否かは、明確な回答のない論点であり、私はここでそれを解決しようとは思っていない。実際、色々な説明の中から一つを選択することは、あまり賢明ではないかもしれない。もし規範性が制度にとって重要ならば、規範性が異なる形態をとることはありうる話だ。アナロジーとして、生命体が生存にとって重要な目標を実現しようと試みるさまざまな仕方のことを考えてみよう。獲物の存在を知覚することが捕食者にとって重要であれば、捕食者はその課題を達成するのに二つ以上のやり方を持っている可能性が高い(たとえば、視覚・聴覚・嗅覚だ)。同様に、規範性にはおそらく、さまざまな源泉があり、かつ多面性があるのだろう。このことは、二つ以上の説明が正しい可能性が高いということを意味している。
 だから、規範性とは何かを問う代わりに、規範性がなすことは何か、すなわち規範性の機能は何かを問うことにしたい。これは、本書の底流にある、広い意味での機能主義的な制度の概念化と軌を一にするけれども、この戦略を採ることで、一部の読者は否応なく不満を抱くことになるだろう。理由の一つは、このアプローチが、いかなる実質的かつ規範的な制度評価も可能にしないからである。たとえば、独裁制と民主制、資本主義と社会主義、単婚制と複婚制といったように、悪い制度から良い制度を見わけることを可能にしない。私自身の見解は、この類の判断は社会的存在論よりもむしろ倫理の領域に属するもので、これら二つの研究を分けたままにするのに好都合であるというものだ。これに同意してくれない哲学者がいて、より頑健な制度の理論を構築しようと努めているが、私の見解では結果は入り混じっている。」
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第6章 規範性,pp.120-121,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:均衡したルール理論)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
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均衡が存在しないタカ-ハト・ゲームは,外的ルールの導入によって効率的な状態に遷移する. これを相関均衡というが,このルールを含むより大きなゲームの均衡状態として記述可能である(制度の均衡したルール理論).(フランチェスコ・グァラ(1970-))

均衡したルールの理論

【均衡が存在しないタカ-ハト・ゲームは,外的ルールの導入によって効率的な状態に遷移する. これを相関均衡というが,このルールを含むより大きなゲームの均衡状態として記述可能である(制度の均衡したルール理論).(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(1)制度に対する均衡アプローチ
 (1.1)走行ゲーム
  走行ゲームでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。選択によって利益は変わらない。(規律の役割)
 (1.2)両性の闘い
  両性の闘いでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。しかし、異なる選択は両者に異なる利益を与え、利害対立がある。(全体的視点の役割)
 (1.3)ハイ&ロウ
  ハイ&ロウでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。異なる選択で協力が維持できれば、利益を増やせる可能性があるが、劣位の均衡に閉じ込められる場合もある。(より良い均衡の認知)
 (1.4)鹿狩り
  鹿狩りでは、相手に優位で必ず利益がある選択肢と、相手に劣位でリスクのある選択肢とが天秤にかけられる。各選択肢の期待値は等しい。優位な均衡は、両者がリスクを取る選択であるが、劣位の均衡に閉じ込められやすい。より良い均衡に遷移するためには、非協力リスクと相対的劣位の負担を乗りこえる相手への信頼が必要となる。(信頼の役割、非協力のリスクの許容度、相対的優位性の観点)
 (1.5)囚人のジレンマ
  囚人のジレンマでは、相手に優位で期待値も大きい裏切りと、相手に劣位で期待値も小さい協力とが天秤にかけられる。それでもなお、全体にとって優位な均衡は、両者が協力する選択である。協力のためには、非協力リスクと相手に対する劣位の負担を乗りこえる相手への信頼が必要となる。(信頼の役割、非協力のリスクの許容度、相対的優位性の観点)

(2)制度に対するルール・アプローチ
 (2.1)タカ-ハト・ゲーム
  タカ-ハト・ゲームでは、相手に劣位ではあるが必ず利益があるハトの選択肢と、相手に優位でリスクのあるタカの選択肢とが天秤にかけられる。各選択肢の期待値は等しい。両者がタカの選択をすると、全体にとって最も不利な結果を招くため躊躇される。しかし、両者がハトの選択をしている状態は、タカの選択を魅力的にするため、均衡状態は存在しない。
  (a)顕著な解が存在していない。
  (b)彼らの唯一の選択肢は、ランダムに選択することである。
  (c)彼らの期待利得は、争いの的になっている土地に放牧しないことで得られる利得の(1,1)よりも大きくならない。
 (2.2)相関均衡
  (a)振付師はコインを投げ、公に告知する。表がでたら「ヌアー族が放牧する」、裏がでたら「ディンカ族が放牧する」。コイン投げの結果を、両者の共通知識とする。両プレーヤーが、相手プレーヤーがこの戦略に従うことに自信をもっているならば、コインを公的に投げることで双方の利得が上がる。儀式の結果を有効活用して、彼らは常に効率的な結果にコーディネートするだろう。
  (b)外的ルール
   条件付き戦略(ルール)は、このゲームの部分ではない。それが、外部から与えられたルールである。
(3)社会的制度の均衡したルール(rules-in-equilibrium)の理論
 ゲームGの相関均衡とは、新しい戦略の追加でGを拡張して得られる、より大きなゲームG*のナッシュ均衡である。新しい戦略は元々のゲームにはない外的事象の生起に条件付けて、行為を指示する。つまり、それは「XならばYをする」という言明のかたちをとる。ここでXは相関装置の性質である。

 「相関均衡
 コンヴェンションはどのような種類の均衡になるのだろうか。二つのナッシュ均衡が存在するにもかかわらず、どちらも放牧ゲームのコンヴェンションではない。結果として、コンヴェンションはコーディネーション・ゲームの単なるナッシュ均衡ではありえないことになる。ピーター・ヴァンダーシュラアフ(vanderschraaf 1995)は、ルイスのいうコンヴェンションが相関均衡であることを示している。この解概念は、1970年代にロバート・オーマンによって始めて研究されたものである。相関均衡は本章で提示する統一理論において重要な役割を果たすことになるので、その特徴を直感的に理解しておくことが重要である。数学的なフォーマル・モデルは少し複雑になるから、ここでは数学的でない説明をする。興味のある読者は、テクニカルな文献で詳細を追っていただきたい。
 相関均衡のアイデアを掴むためには、仮説的なコンヴェンション以前のシナリオから出発することが有用である。ディンカ族とヌアー族は放牧ゲームをプレーしようとしているが、(仮説により)顕著な解が存在していないと仮定しよう。そのような状況においては、彼らの唯一の選択肢はランダムに選択することである。ヌアー族はコインを投げて、表がでたら彼らはGを選択し、裏がでたらNGを選択する。ディンカ族も同じことをすることに決め、自分たちのコインを投げる。彼らが異なる結果を得る確率を合わせれば、効率的な解の一つに収束する確率は50%となる。残念なことに、彼らの期待利得は、争いの的になっている土地に放牧しないことで得られる利得の(1,1)よりも大きくならない。
 この例におけるコインは《別々に、私的に》投げられている。その代わりに、コイン投げが《単一》かつ《公的な》事象であったとしたら、何らかの違いが生じるだろうか。ここで新しい人物を導入しよう。ハーバート・ギンタスに従って、私は彼を「振付師」と呼ぶことにする(Gintis 2009)。振付師はコインを投げ、公に告知する。表がでたら「ヌアー族が放牧する」、裏がでたら「ディンカ族が放牧する」。二人のプレーヤーはコイン投げの儀式を見ていて、相手もまたそれを見ることができることを知っている。さらに、彼らは、両者ともに同じ儀式を見ている、ということを相手が知っていることを知っている(等々)。つまり、コイン投げの結果は共通知識である。
 このような環境においては、振付師のアドバイスに従うことが妥当であるように思われる。言い換えると、各プレーヤーはコイン投げの結果に基づいて行動を条件づけ、以下のような明確な戦略に従うのである。「振付師がGというのであればGを選択し、そうでなければNGを選択する」。両プレーヤーが、相手プレーヤーがこの戦略に従うことに自信をもっているならば、コインを公的に投げることで双方の利得が上がる。儀式の結果を有効活用して、彼らは常に効率的な結果にコーディネートするだろう。
 このような種類の解が相関均衡である。ゲームGの相関均衡とは、新しい戦略の追加でGを拡張して得られる、より大きなゲームG*のナッシュ均衡である。新しい戦略は元々のゲームにはない外的事象の生起に条件付けて、行為を指示する。つまり、それは「XならばYをする」という言明のかたちをとる。ここでXは相関装置の性質である。ヴァンダーシュラアフが示したように、ルイスのコンヴェンションは、コーディネーション・ゲームにおける以前の選択を活用した相関均衡である。言い換えると、コイン投げがプレーの歴史に置き換えられている。」
 「もう一度強調しておく価値があることは、もとの行列(図4・2)のナッシュ均衡に注目していたならば、これら二つの見解を取り持つことが不可能だったであろうということである。条件付き戦略(ルール)はこのゲームの部分ですらないし、そうなりえないのである。もとのゲームのなかには、北/南という相関装置が存在しないからである。したがって、相関戦略を、ダグラス・ノースの精神に従って、もとのゲームでのコーディネーションの達成に役立つ外的ルールとみなすことは正しい。しかしコンヴェンションは、もとのゲームのナッシュ均衡ではない。それはもとのゲームの相関均衡、つまり拡張されたゲームのナッシュ均衡である。制度に対するルール・アプローチと均衡アプローチとの間にある対照は、おそらく、異なる均衡概念のこうした区別を正しく理解しそこなっていることによるものであろう。しかし、相関均衡を導入すれば、どちらのアプローチも支持されるのである。つまり、私たちは社会的存在論の統合的見方を達成したのである。私たちはそれを、社会的制度の均衡したルール(rules-in-equilibrium)の理論と呼ぶことにしたい。」
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第4章 相関,pp.79-81,85,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:均衡したルール理論,均衡理論,ルール理論)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

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