2019年11月24日日曜日

いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

強制が正当化される理由

【いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

  (2.2.3)強制が正当化される理由
   (a)ある人の行為によって、他人に危害が及ぶとき。
    その行為をしないように、強制することが正当である。
   (b)ある人の行為が、本人だけに関係しており、他人には関係がないとき。
    (i)各人は、自分自身の身体と心に対して、絶対的な自主独立を維持する権利を持っている。
    (ii)ただし、子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。
   (c)ある人に、物質的にか精神的にか「良い」行為をさせたいとき。
    (i)その当人にある行動を強制したり、ある行動を控えるように強制することは、正当ではない。ましては、その「良い」行為をしなかったことを、処罰するのは不当である。
    (ii)忠告したり、理を説いたり、説得したり、懇願することは、正当である。

 「この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める唯一の原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的か精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。ある行動を強制するか、ある行動を控えるよう強制するとき、本人にとって良いことだから、本人が幸福になれるから、さらには、強制する側からみてそれが賢明だから、正しいことだからという点は正当な理由にならない。これらの点は、忠告するか、理を説くか、説得するか、懇願する理由にはなるが、強制する理由にはならないし、応じなかった場合に処罰を与える理由にはならない。強制や処罰が正当だといえるには、抑止しようとしている行動が誰か他人に危害を与えるものだといえなければならない。個人の行動のうち、社会に対して責任を負わなければならないのは、他人に関係する部分だけである。本人だけに関係する部分については、各人は当然の権利として、絶対的な自主独立を維持できる。自分自身に対して、自分の身体と心に対して、人はみな主権をもっているのである。
 おそらくいうまでもないことであろうが、この原則は判断能力が成熟した人だけに適用することを意図している。子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。世話を必要としない年齢に達していないのであれば、本人の行動で起こりうる危害に対しても、外部からの危害に対しても保護する必要がある。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.26-27,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:強制が正当化される理由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月23日土曜日

法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法的責務と道徳的責務

【法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 「事態のこの側面を振り返るとき、人の目を開かせる真実が明らかになる。つまり第1次的な責務のルールが社会統制の唯一の手段である単純な形態の社会から、中央に組織された立法府、裁判所、公機関や制裁をもつ法的世界への歩みは、一定の代償の下に確実な利益をもたらすということである。利益とは、変化に対する順応性、確実さ、能率のよさであり、これらの利益は莫大である。代償とは、中央に組織された権力が、第1次的なルールのより単純な体制ならできないような仕方で、その支持を必要としない人々を圧迫するために用いられることが十分ありうるという危険である。この危険が現実のものとなったことがあり、また将来そうなるかもしれないので、われわれは、自然法の最小限の内容として示した以上の何らかの仕方で、法は道徳に一致《しなければならない》という主張については、たいへん注意深く吟味する必要がある。多くのそのような主張は、法と道徳とがどのような意味で関連する必要があるかを明確にすることができないか、あるいは検討してみると、その意味は真実で重要ではあるが、これを法と道徳の必然的関係であるとして示せば、極度の混乱を招くようなものであるかである。われわれは、この主張の6つの形態を検討してこの章を終えることにしよう。
 (i)力と権威 法体系は、単に人の人に対する力を基礎とするものではなく、またそうできないので、それは道徳的責務の意識あるいは体系の道徳的価値に関する確信によらなければならないと言われることがよくある。われわれも本書の以前の章において、威嚇を背景とする命令とか服従の習慣が、法体系の基礎および法的妥当性という観念を理解するのにふさわしくないことを強調してきた。法体系の基礎および法的妥当性の観念を解明するためには、第6章で詳細に論じたように、受けいれられた承認のルールという観念が必要とされるだけでなく、この章で見てきたように、強制的な力の存続するための必要条件としても、少なくともいくらかの者は、体系に自発的に協力しそのルールを受けいれなければならないのである。この意味において、法の強制的な力は、たしかにそれが権威あるものとして受けいれられていることを前提とする。しかし、「単に力にもとづく法」と「道徳的に拘束力あるものとして受けいれられる法」という二分法では、すべてが尽くされるわけではない。たいへん多くの人々が道徳的に拘束力があるとはみなさない法によって強制されることがあるばかりでなく、人々が体系を自発的に受けいれる以上、そうするように道徳的に義務づけられているとみずから考えなければならないということは、その結果体系が非常に安定するとしても、まったく真実ではないのである。事実、彼らの体系への忠誠は、長い目でみた利益の計算、他人の対する私心のない関心、それとなく受け継がれた伝統的な態度、あるいは他人がするようにしたいという単なる願望などのさまざまな考慮にもとづいているかもしれない。人々が体系の権威を受けいれたからといって、その良心をかえりみてはならないことにならず、また彼らが、道徳的にはそれを受けいれるべきではないとしても、さまざまな理由でやはり受けいれ続けるように決心してならない理由はもちろんない。
 このありふれた事柄は、人々が承認する法的責務と道徳的責務の両方を表現するのに、普通同じ言葉が用いられることによって曖昧にされてきた。法体系の権威を受けいれる人々は内的視点からそれをながめ、法と道徳の双方に共通な規範的な言葉で表現された内的陳述という形で、法体系の要求に関する彼らの意識を表明する。「私(あなた)はすべきである」、「私(彼)はしなければならない」、「私(彼ら)には責務がある」というように。だからといって彼らは、法の要求するところをするのが道徳的に正しいという《道徳的》判断をしているのではない。別段のことがないかぎり、自分あるいは他人の法的責務についてこのように話す者は誰でも、その履行に反対する道徳的ないしはその他の理由がないと仮定していることは明らかである。それだからといって、いかなることも道徳的に責務があると認められてはじめて、法的にもそうであるということにはならない。今ここでのべた仮定は、話し手が法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由をもっている場合には、法的責務を承認したりあるいはそれに注意を向けたりするのは無意味であるという事実にもとづいているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.220-222,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法的責務,道徳的責務)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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7.干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由

【干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.1)追記。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。


 「自由という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人公でありたいという個人の側の願望からくるものである。

わたくしは自分の生活やさまざまの決定をいかなる外的な力にでもなく、わたくし自身に依拠させたいと願う。わたくしは他人のではなく、自分自身の意志行為の道具でありたいと願う。

わたくしは客体ではなく、主体でありたいと願い、いわば外部からわたくしに働きかけてくる原因によってではなく、自分自身のものである理由によって、自覚的な目的によって動かされるものであることを願う。

わたくしはなにもの somebody かであろうとし、なにものでもないもの nobody ではありたくない。

決定されるのではなくて、みずから決定を下し、自分で方向を与える行為者でありたいと願いのであって、外的な自然あるいは他人によって、まるで自分がものや動物や奴隷――自分自身の目標や方策を考えてそれを実現するという人間としての役割を演ずることができない――であるかのように働きかけられることを欲しない。

少なくともこれが、わたくしが理性的であるといい、わたくしを世界の他のものから人間として区別するものはわたくしの理性であるというときに、意味していることがらである。

なかんずくわたくしは、自分が考え、意志し、行為する存在、自分の選択には責任をとり、それを自分の観念なり目的なりに関連づけて説明できる存在でありたいと願う。

わたくしはこのことが真実であると信ずる程度において自由であると感じ、それが真実でないと自覚させられる程度において隷従させられていると感じるのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),2 「積極的」自由の概念,pp.25-26,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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宗教の不寛容性が招いた宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが、良心の自由、宗教の自由、社会に対する個人の権利、少数派を抑圧することの反対論へと導いてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

宗教の自由

【宗教の不寛容性が招いた宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが、良心の自由、宗教の自由、社会に対する個人の権利、少数派を抑圧することの反対論へと導いてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

  (2.1.1)追加。

(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
  (2.1.1)良心の自由、宗教の自由への道のり
   (a)宗教の不寛容性が招いた数々の過ち
    (i)人間は、ほんとうに重要だと思う点については、寛容になれないのが自然なのである。
    (ii)誠実だが頑迷な宗教家は、他の宗教に対して憎悪を抱くことがある。
    (iii)宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが繰り返されてきた。
   (b)良心の自由、宗教の自由
    (i)良心の自由は、不可侵の権利である。
    (ii)人が自分の信仰について、他人に説明し許可を得る責任は、決してない。
    (iii)宗教においては、社会に対する個人の権利が主張された。
    (iv)社会が少数派に力を行使することへの反対論が、公然と主張されてきた。

 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によってコントロールされる必要がある。
 「このように、社会全体、あるいは社会のうちとくに強力な部分の好悪の感情こそが実際上、主要な要因になって、人びとが遵守すべき規則が決められ、遵守しない場合には法律や世論によって制裁がくわえられるようになっているのである。そして、社会のなかでとくに進んだ思想と感情をもつ人も通常、この状況を根本から批判することはなく、細部のいくつかの点で異議を唱えるだけである。こうした人は、社会が好むべきもの、嫌うべきものは何かを探究することに懸命になっており、社会が好む点、嫌う点を法律や慣習として個人に守らせるのが適切かどうかは問題にしてこなかった。自分が少数派になっている個々の点について、人類の感情を変えるために努力することを好み、さまざまな少数派と協力して自由の擁護という共通の目標を掲げようとはしてこなかった。そのなかで唯一、もっと高い立場から自由の原則が一貫して主張され、しかも何人かの孤立した個人によってではなく、幅広い層によって主張されてきたのは、宗教の自由だけである。宗教の事例をみていくとさまざまな点で教訓が得られるが、なかでも重要な点として、いわゆる道徳感情が誤りに陥りやすいことを見事に示す実例がここにある。誠実だが頑迷な宗教家が他の宗教に対して抱く憎悪は、道徳感情のなかでもとくに曖昧なところがないものだからである。カトリック教会は普遍教会を自称し、その束縛を打ち破った宗教改革家も当初、宗教的な意見の違いを許そうとしない点では一般に、カトリック教会とほとんど変わらないほどであった。だが、どの宗派も完全な勝利を収めないまま宗教対立の熱が冷め、どの教会、どの宗派もそれまでに確保した地盤を維持することしか望めない状況になると、少数派は多数派になるとは期待できない現実を認識し、改宗させることができなかった多数派に対して、宗教上の違いを許容するよう求める必要に迫られた。このため、ほぼ唯一、宗教という戦場では、社会に対する個人の権利が原理原則という一般的な根拠に基づいて主張され、社会が少数派に力を行使することへの反対論が公然と主張されてきた。宗教の自由の確立に貢献してきた偉大な思想家のほとんどは、良心の自由を不可侵の権利として主張し、人が自分の信仰について他人に説明し許可を得る責任があるという考えを強く否定している。しかし、人間はほんとうに重要だと思う点については寛容になれないのが自然なので、宗教の自由が実際に確立している国はほとんどない。例外は、宗教に無関心な勢力が宗教対立によって平和が乱されるのを嫌い、宗教の自由を支持する側にまわって力関係が変わった場合だけである。とくに寛容な国ですら、宗教家のほとんどは、宗教に関する寛容の義務を認める際に、内心では留保をつけている。たとえば、教会の政治形態に関しては反対意見に寛容でも、教義に関しては寛容になれない人がいる。教義の違いにも寛容だが、ローマ法王の権威を認めるカトリック教徒に対して、そして三位一体を否定するユニテリアンに対しては寛容になれないという人もいる。啓示宗教であれば寛容になれる人もいる。もう少し範囲を広げている人もいるが、それでも神と来世を信じていない人にはまったく寛容になれない。多数派は、純粋で強い信仰心を維持している地域では、少数派に服従を求める主張をほとんど弱めていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.21-23,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:良心の自由,宗教の自由,宗教の不寛容性,個人の権利,少数派の保護)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月22日金曜日

義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正に関する諸個人の感情

【義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)~(3)追記。

(1)諸個人の道徳感情
 (1.1)自分たちの道徳感情
  自分や自分と同じ意見の人たちが、そう行動して欲しいと望むように、全ての人が行動すべきだという感情である。
 (1.2)道徳感情に影響を与える諸要因
  (1.2.1)各人の欲求や恐れ、自己利益
   (a)社会的な感情
   (b)妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情
  (1.2.2)偏見や迷信
   (a)社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。
   (b)世俗の支配者や、信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。
  (1.2.3)理性による判断
   社会全体の利益に関する理性的な判断
(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によって規則が定められる必要がある。
(3)義務や正・不正に関する判断
 (a)それは「自明なこと」ではない
  異なる時代、異なる国では、様々な考えが存在した。しかし、その時代、その国の人々は、その考えが自明なことであり、説明の必要があるとは考えていない。
 (b)それは人間の本性ではなく習慣である
  その考えは習慣であるが、常に第1の天性、人間の本質とさえ理解されてきた。
 (c)それは「好み」の表明ではない
  その考えが、理由によって裏付けられていないのなら、単なる好みの表明に過ぎないことになる。
 (d)それは多数派の「好み」でもない
  また、多数派に支持されているという理由であれば、多数派の好みに過ぎないことになる。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、「義務や正・不正の感覚・感情論」は誤っており「義務や正・不正の理性論」が真実である。
 (4.1)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (b)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (4.2)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (4.2.1)理性と計算の問題
   道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (4.2.2)経験的な証拠に基づく理論
   道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (4.2.3)目的の連鎖と行為の結果
   道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (a)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (b)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (c)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (d)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


  (4.2.4)究極的目的(第一原理)の役割
    複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (4.2.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。
 「個人の独立と社会による管理の均衡をうまくとるにはどうすべきかという実際的な問題になると、解決されている点はほとんどないのが現実である。誰にとっても、自分の生活を生きるに値するものにしようとすると、他人の行動を制限することが不可欠になる。したがって、まずは法律によって、そして法律で規制するのが適切でない多数の点については世論によって、何らかの行動の規則が定められていなければならない。その規則がどのようなものであるべきかは、人びとの生活にとって主要な問題である。しかしこの問題は、いくつかの目立った例外があるが、全体としては理解がとくに遅れている。その理由はいくつもある。どの二つの時代、ほぼどの二つの国でみても、この問題への答えが同じだということはない。ある時代、ある国の答えは他の時代、他の国の人にとって理解しがたいものである。ところがどの時代、どの国の人も自分たちの答えに問題があるなどとは思わず、人類がはるか昔からその答えに同意してきたかのように考えている。自分たちの間で確立した規則は自明だし、根拠を示す必要すらないと思えるのである。ほぼどの時代、どの国でもこのように錯覚されているのは、習慣というものの魔術を示す例のひとつである。習慣は第二の天性だといわれるが、それだけでなく、つねに第一の天性だと誤解されているのだ。以上のように、人々が互いに課している行動の規則は、習慣になっているために疑問が持たれにくいのだが、それだけではない。行動の規則については一般に、他人に対しても自分に対しても理由を示す必要があるとは考えられていないので、習慣の影響がさらに強くなっているのである。人は通常、この種の問題では理性よりも感情の方が重要なので、理性的な判断によって理由を明確にする必要があるわけではないと考えているし、哲学者として認められたいと望む人もこの考えを後押ししている。人が行動の規則に関する意見で実際に指針としているのは、各人の心のなかにある感情、つまり、自分や自分と同じ意見の人たちがそう行動してほしいと望むようにすべての人が行動すべきだという感情である。もちろん、判断の規準が自分の好みだとは、誰も認めようとしない。しかし、行動に関する意見は、しっかりした理由によって裏付けられていないのであれば、その人の好みだといえるにすぎない。そして理由があげられていても、同じような好みをもつ人が多いというにすぎないのであれば、ひとりの好みではなく多数の人の好みだといえるだけである。しかし自分の好みは普通の人にとって、道徳や好き嫌い、礼儀のうち、自分が信じる宗教の信条にはっきりとは書かれていない部分について、完全に満足できる理由だし、それ以外の理由は考えていないのが通常である。信条にはっきりと書かれている点についてすら、自分の好みがそれを解釈する際の最大の指針になっている。このため、称賛すべき点と非難すべき点についての各人の意見は、他人の行動に関する望みを左右するさまざまな要因から影響を受けている。そして、どのような問題でもそうであるように、この問題でも各人の望みに影響を与える要因はきわめて多い。ときには理性による判断であり、ときには偏見や迷信であり、社会的な感情の場合も多いし、妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情の場合も少なくない。だが、もっとも一般的な要因は各人の欲求や恐れ、つまり各人の自己利益であり、これには正当なものと不当なものとがある。支配階級がある国では、その国の社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。古代スパルタの市民と奴隷、アメリカの植民者と黒人、国王と臣民、領主と農奴、男と女などの関係を規定する道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである。被支配階級との関係によって生み出された道徳感情は、支配階級内部の人間関係を規定する道徳感情にも影響を及ぼす。これに対して、過去の支配階級が支配的な立場を失った社会や、支配階級による支配が嫌われるようになった社会では、支配に対する強い嫌悪がその社会で一般的な道徳観の特徴になっていることが多い。もうひとつ、大きな要因をあげよう。行動すべき点と行動してはならない点の両面にわたって法律や世論によって強制されてきた行動の規則を決める大きな要因に、世俗の支配者や信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。そこからまったく純粋な憎悪の感情が生まれる。魔術師や異端者を焼き殺すほどの憎悪が生まれるのである。以上にあげてきたように、道徳感情にはさまざまな低級な要因が影響を及ぼしており、そのなかでもちろん、社会全体の明らかな利益がひとつの要因、それも大きな要因になっている。だが、社会全体の利益に関する理性的な判断や、社会全体の利益そのものよりも、そこから生じた好悪の感情の方が、大きな影響を与えている。そして、社会の利益とは無関係な好悪の感情が、道徳の確立にあたって社会の利益と変わらないほど大きな影響を与えているのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.17-21,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:義務や正・不正に関する諸個人の感情,欲求,道徳感情,自己利益,感情,偏見,迷信,社会道徳,宗教,理性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月21日木曜日

ミセリコルディアとは、人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである。それは、家族や友人など社会的絆の有無を区別しない。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

ミセリコルディア

【ミセリコルディアとは、人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである。それは、家族や友人など社会的絆の有無を区別しない。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

ミセリコルディアとは。
 人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである(アクィナス)。ミセリコルディアは、以下の2つの要求を区別しない。
 (a)私たち自身が所属するコニュニティの中で、その人が占める位置のために、私たちとある明確な社会関係を有する人々の要求。例えば、家族の絆にもとづく要求や、直接的な社会的絆にもとづく要求。
 (b)私たちとの間にそのような関係があろうとなかろうと、現に何らかのしかたでひどく苦しんでいる人々の要求。特にその悪が、その苦しむ個人の選択から直接的に生じたものでない場合。

 「誰であれ、何らかの顕著な悪に苦しむすべての人々に対してであり、その悪がその苦しむ個人の選択から直接的に生じたものでない場合にはとりわけそうである。ただし、このような条件づけは、おそらくそれ自体、さらなる条件づけを必要としている。すなわち、〔ある行為者にとって〕ある他者が極度の苦境に陥り、緊急に援助を必要としているという事実そのものが、もっとも親密な家族の絆にもとづいて発せられる要求が提供する行動の理由をもしのぐほど強力な行動の理由を〔当該行為者に対して〕提供している。また、そうした他者のニーズがそれほど由々しきものではなく、かつまた、それほど緊急のものではない場合でさえ、そうした他者のニーズはしばしば、家族の絆にもとづく要求や、その他の直接的な社会的絆にもとづく要求に優先するものであると、適切にも判断されうる。とはいえ、どのようなケースがそうしたケースにあてはまるのかを決定する規則など存在しないのであって、それを判断するためには思慮 prudence という徳が発揮されねばならない。以上を踏まえる場合、私たちは、ときに相互に対立しあう、二種類の異なる要求にさらされているように思われる。すなわち、私たちは一方において、私たち自身が所属するコニュニティの中でその人が占める位置のために、私たちとある明確な社会関係を有する人々の要求にさらされているだろう。また他方において、私たちとの間にそのような関係があろうとなかろうと、現に何らかのしかたでひどく苦しんでいる人々の要求にさらされているだろう。しかし、ミセリコルディアという徳に関するアクィナスの説明は、少なくも私が右に定式化したような〔二つの要求の間の〕対比を拒絶するように私たちに求めている。
 ミセリコルディアとは、人が他の誰かの苦しみをみずからの苦しみとして理解するかぎりにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである、とアクィナスはいう。人がそのような嘆きや悲しみを抱くのは、その他者が以前からの友人であったり親族であったりする場合のように、かねてからその他者との間に何等かのつながりがあったからかもしれないし、あるいはまた、その人が当該他者の苦しみを理解するにあたって、ことによるとこの苦しみは自分にふりかかっていたものかもしれないと気づくからかもしれない。だが、そのような理解に必要とされているものは何であろうか。ミセリコルディアとは、私たちをして、私たちの隣人の必要とするものを彼らに提供するべく衝き動かす慈愛の一側面であって、そのようなものとしてミセリコルディアは私たちを私たちの隣人にかかわらせる諸徳のうちもっとも重要なものである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第10章 承認された依存の諸徳,pp.178-180,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:ミセリコルディア)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型

【単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

  (3.3.3)追記。
  (3.3.4)追記。

(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
   「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.1)「せざるを得ない」
  (a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
  (b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
  (c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
 (3.2)「責務を負っている」
  (a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
  (b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
  (c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
 (3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
  社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
   (a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
   (b)ルールが存在することを拒否する。
   (c)この人々は、ルールに「服従」している。
   (d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
   (e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
  (3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
   (a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
   (b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
  (3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
    論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

   (a)人間の歴史の痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員のいくらかの者に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。
   (b)公機関
    法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
   (c)一般の私人
    これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

  (3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
   (a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
    (i)体系が公正であり、服従を要求される全ての人々の非常に重要な要求を満たしているならば、このような社会が実現し、その社会は安定しているだろう。
    (ii)このような社会で、強制的な制裁が加えられるのは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る例外的な人びとに対してだけであろう。
   (b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
    「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
    (i)支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。
    (ii)このような社会で圧迫される人々にとっては、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。


 「法が、受けいれられた道徳よりも進んでいる社会がときにはあったけれども、普通は、法は道徳に従うのであり、奴隷を殺すことが、公共資源の浪費とか奴隷所有者に対する犯罪とみなされることさえあるかもしれないのである。奴隷制が公的には認められていないところにおいてさえ、人種、皮膚の色あるいは信条にもとづく差別のために、あらゆる人々が他人からの最小限の保護を受ける資格があることを認めない法体系や社会道徳があるかもしれない。
 人間の歴史のこれらの痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員の《いくらかの者》に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。制裁の必要性および可能性を議論するさいにすでに強調しておいたとおり、ルールの体系がいかなる者にも強制的に課されるためには、それを自発的に受けいれる人々が十分いなければならないことは真実である。彼らの自発的な協力、したがって《権威》の創造がなければ、法と統治の強制的な力は確立されえない。しかし、このように権威にもとづいて確立された強制的な力は、二つの主なやり方で用いられるであろう。それは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る悪人に対してだけ行使されるかもしれない。他方それは、支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。このように圧迫される人々にとって、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。彼らは体系の犠牲者であって、その受益者ではないのである。
 本書の以前の章において、法体系の存在は常に二側面をもつ社会現象であって、法体系について現実的に見ようとすれば、われわれはその双方に注意しなければならないということを強調した。それは、ルールを自発的に受けいれるさいの態度や行為と単に服従ないしは黙従するときのより単純な態度や行為を含むのである。こうして、法をもつ社会には、ルールを、もしそれに従わなかったならば公機関が何を行なうであろうかということに関する信頼できる予測と単に見るのではなく、内的視点から、容認された行動の基準とみなす人々がいることになる。しかしその社会には、悪人でありあるいはその体系の救いようのない犠牲者であるという理由で、これらの法的基準が、力ないし力の威嚇によって課せられなければならない人々も含まれる。彼らがルールにかかわるのは、もっぱら可能な刑罰の源泉としてである。これら二つの構成要素のバランスは、さまざまな要因によって決定されるだろう。もし体系が公正であり、服従を要求されるすべての人々の非常に重要な要求を本当に満たすならば、その体系は、だいたいいつも、たいていの人々の忠誠を確保できるであろうし、したがってそれは安定しているだろう。他方それは、支配的集団の利益のために用いられる、偏狭な排他的な体系であるかもしれない。そしてそれは、社会的変動が起こるのではないかという潜在的なおそれのため、ますます抑圧的にまた不安定になるかもしれないのである。この両極端の間に、法に対する態度のさまざまな組み合わせが、しばしば同一個人においてさえ見られるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.219-220,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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6.干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性,(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

開かれている可能性の程度

【干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性,(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1.3)追記。

(1)消極的自由
  消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
 (1.3)開かれている可能性の程度
  (a)可能性の種類、多様性
   どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)
  (b)可能性が意志と行為で変えられるか否か
   人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか。
  (c)各個人にとっての実現の難易度
   これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか。
  (d)各個人にとっての価値・重要度
   性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか。
  (e)社会にとっての価値・重要度
   行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。
 (1.4)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
  (a)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由は、すべての個人が持つ権利である。
  (b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならない。
 (1.5)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
   (a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができない。
  (b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
   自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念
  (c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
   (i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変化に富んだ豊かなものを生み出す。
   (ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。あるいはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
  (d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なことである。
   仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えても、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すことになる。

 「わたくしの自由の程度は次のような諸点によって定められると考えられる。

 (a)どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)、

 (b)これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか、

 (c)性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか、

 (d)人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか、

 (e)行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。

 以上すべての諸点が「統合」されなければならぬ。したがって、その統合の過程から引き出されてくる結論は必然的に正確なもの、異論のないものではありえない。

おそらく数えきれないほどに多数の自由の段階があり、いかに頭をひねってもこれをひとつの尺度で測ることはできないであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,p.24,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))

(索引:可能性の程度,可能性の種類・多様性,可能性の意志依存性,実現の難易度,可能性の価値・重要性)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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私有財産制は,(a)歴史的経緯,(b)財産の不均等を生ずる自然な傾向,(c)産業の発展に比べて遅れている社会制度によって,その理念である(a)自らの努力と労働の成果の保証と,(b)努力と報酬の比例原則が実現できていない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

私有財産制の理念

【私有財産制は,(a)歴史的経緯,(b)財産の不均等を生ずる自然な傾向,(c)産業の発展に比べて遅れている社会制度によって,その理念である(a)自らの努力と労働の成果の保証と,(b)努力と報酬の比例原則が実現できていない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)現在の如きものでない理想的の私有財産制
 (1.1)自らの努力と労働の成果の保証
  私有財産制とは、人々にその労働及び制欲の成果を保証するものである。
 (1.2)努力と報酬の比例原則
  私有財産制を弁護する説の根底には、報酬と努力との比例いう公平の原則がある。
 (1.3)財産の不均等と機会不均等の軽減
  私有財産制からは、財産の不均等と機会不均等とが、自然と生ずる傾向がある。これを軽減する努力が必要である。
(2)私有財産制の現状
 (2.1)他人の努力の成果を受け取ること
  何の功も努力もないのに、他人からその勤倹の成果を人が受けた場合、この人にこの成果をば保証してやるということは、私有財産制の本来のつとめではなく、ただ偶然の事柄であるに過ぎない。
 (2.2)労働の所産は、労働の分量に殆ど反比例して、分配されている。
  (a)全く労働しなかった人に、最も多く分け与えられる。
  (b)殆ど労働をしなかった人に、之に次いで多く分け与えられる。
  (c)労働の苛烈を加うるにしたがって、その受くる報酬は益々少なくなる。
  (d)最も精魂を涸らすような筋肉労働に至っては、露命をつなぐだけの報酬を得ることさえ不確実となる。
 (2.3)現在の状態に至る原因
  (a)現代のヨーロッパ社会のはじめの財産の振当ては、制服や略奪が許されていた時代の遺産である。
  (b)私有財産制からは、財産の不均等と機会不均等とが、自然と生ずる傾向がある。そして、産業は幾世紀にわたって発展し、その働きを変えて来た。
  (c)それにも拘わらず、社会制度は相変わらず大要もとのままである。
   (i)断じて財産としてはならない財産も存在するが、これに所有権が認められている。
   (ii)また単に有限所有権をのみ認むべき財産も存在するが、これに絶対所有権が認められている。
 「長所を悉く備えた場合の共産制と、苦痛・不正を伴える現今の私有財産制と、そのいずれを可とすべきか。私有財産制の現状を見るに、労働の所産は、労働の分量に殆ど反比例して、分配されている。――すなわち、労働の所産は、全く労働しなかった人に最も多く分け与えられ、殆ど労働をしなかった人に之に次いで多く分け与えられ、およそかくの如く、労働の苛烈を加うるにしたがってその受くる報酬は益々少なくなり、最も精魂を涸らすような筋肉労働に至っては、露命をつなぐだけの報酬を得ることさえ不確実である。かような場合の私有財産制と、最も好都合な場合の共産制と、そのいずれを取るかとなれば、共産制の大小すべての弱点を合わしても現時の私有財制の弱点とは全然くらべものにならぬほど軽少である。しかし、共産制と私有制とを正当に比較するには、最良の状態の共産制と、現在の如きものでない理想的の私有制とを比較しなくてはならない。抑々私有財産の主義は、未だどの国に於いても正しい試験をされたことはない。恐らく殊に我国に於いてそうである。現代のヨーロッパ社会のはじめの財産の振当ては、公平な配分によったものでもなければ勤労の結果でもなく、制服や略奪の結果である。その後産業は幾世紀にわたってそのはたらきを変えて来たが、それにも拘わらず、社会制度は相変わらず大要もとのままである。財産上の法規にして正当な私有財産主義に則ってつくられたものは未だ一つもない。これらの法規は、断じて財産としてはならないものをば財産となし、単に有限所有権をのみ認むべきものに絶対所有権を認めておる。これらの法規は、各人に公平な規定ではなくて、或る人々に害を与えるのもかえりみず他の人々に利を与えるものである。そうしてわざと不平等を大きくし、人生のスタートの公平を妨害した。なるほど、どのような私有財産法規といえども、万人のスタートを完全に平等にするということはできない。しかし、私有財産主義から自然に生ずる機会不均等をばわざわざ骨折って加重するようなことをせず、その骨折りを転じて、私有財産主義そのものを破壊せずに而も機会不均等を軽減するということに向けたならば、果たしてどうであったか。すなわち、もし立法者が、富の集中を排して富の分散を奨励し、巨富を山積させるようにつとめず之を小分するように奨励したならば、果たしてどうであったか。この場合には、殆どすべての社会主義述作家の断定に反し、必ずしも物的社会的弊害を伴わなかったであろう。
 私有財産制を弁護する者はみなおもえらく、私有財産制とは人々にその労働及び制欲の成果を保証するものであると、随って、何の功も努力もないのに他人からその勤倹の成果を人が受けた場合、この人にこの成果をば保証してやるということは、私有財産制の本来のつとめではなくただ偶然の事柄であるに過ぎない。しかもこのような保証が或る程度に達すると、私有財産を正当にしないで不当のものとするようになる。抑々およそ私有財産制を弁護する説の根底には、報酬と努力との比例するという公平の原則があると見るべきである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『経済学原理』,第2篇 分配,第1章 財産,3 共産主義の吟味,pp.18-20,春秋社(1939),戸田正雄(訳))
(索引:私有財産制,労働の成果の保証,努力と報酬の比例原則,財産の不均等と機会不均等の軽減)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月20日水曜日

5.(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由の基礎づけ

【(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1.3)追加。
(1.4)追加。

(1)消極的自由
  消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
 (1.3)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
  (a)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由は、すべての個人が持つ権利である。
  (b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならない。
 (1.4)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
  (a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができない。
  (b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
   自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念
  (c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
   (i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変化に富んだ豊かなものを生み出す。
   (ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。あるいはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
  (d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なことである。
   仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えても、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すことになる。


 「われわれは絶対的に自由であることなどできぬ。

自由のうちのあるものを護るために他を放棄しなければならない。けれども、全面的な自己放棄は自滅である。

ではいったい、その最小限とはなんでなければならないか。それは、これを放棄すれば人間本性の本質にそむくことになるものである。

その本質とはなにか。それがもたらす規準とはなんであるか。これは果てしのない論争のたねであったし、おそらくいつまでもそうであるだろう。

しかし、干渉を蒙らない範囲を定めるところの原理がなんであれ、それが自然法の原理であれ自然権の原理であれ、あるいはまた功利の原理であれ定言命法の宣告であれ、社会契約の神聖であれ、その他ひとびとが自分の確信を明確化し正当化しようとしてきた概念であれ、この意味における自由は《から》の自由 liberty from のことである。

移動はするけれどもつねに認識はできる境界線をこえて干渉を受けないということだ。

「自由の名に値する唯一の自由は、われわれ自身の仕方でわれわれ自身の善を追求することである」と、もっとも有名な自由主義のチャンピョンはいっている。

もしそうであるならば、はたして強制は正当化されるであろうか。ミルはそれが正当化されることになんの疑問も抱かなかった。

すべての個人が最小限の自由をもつ権利があるとは正義の要求するところであるから、だれかからその自由を奪いとることは必然的に他のすべての個人に禁じられなければならない、必要があれば力をもってしても禁じられなければならないというのである。

実際、法律の全機能はまさにそのような衝突を防止することにあった。国家は、ラッサールが侮蔑的に名づけた夜警あるいは交通巡査の機能にまで縮小されてしまったのだ。

 個人の自由の保護ということをミルにとってかくも神聖なものたらしめたものは、なんであったか。

かの有名なエッセイでかれはこう述べている――そもそも人間が「ただ自分だけに関わりのある道を通って」欲するがままの生き方ができるのでなければ、文明は進歩することができない。

観念〔思想〕の自由市場がなければ、真理はあらわれてはこないだろう。そして自発性、独創性、天才の、精神的エネルギーの、道徳的勇気の、はけ口がなくなってしまうだろう。

社会は「集団的凡庸」 collective mediocrity の重みのためにおしつぶされてしまうであろう。変化に富んだ豊かなものはすべて、慣習の重圧、画一性への不断の傾向性によってうちくだかれてしまい、慣習や画一性は「衰弱した凡才」、「痩せこけて偏屈な」、「締めつけられゆがめられた」人間しか産み出さないであろう。

「異教的な自己主張は、キリスト教的自己否定と同じく価値のあるものだ」。

「忠告とか警告とかにさからってひとが犯しがちなあらゆる過ちは、他人が善しと考えたものに自分を束縛することを容認する悪よりは、はるかにまさっている」。

自由の擁護とは、干渉を防ぐという「消極的」な目標に存する。

自分で目的を選択する余地のない生活を甘受しないからといって迫害をもってひとを脅かすこと、そのひとのまえの他のすべての扉を閉ざしてしまってただひとつの扉だけを開けておくこと、それは、その開いている扉のさし示す前途がいかに立派なものであり、またそのようにしつらえたひとびとの動機がいかに親切なものであったにしても、かれが人間である、自分自身で生きるべき生活をもった存在であるという真実に対して罪を犯すことである。

このような自由が、エラスムス(オッカムというひともあるかもしれない)の時代から今日にいたる近代世界において自由主義者たちの考えてきた自由なのだ。

市民的自由とか個人の権利のためのあらゆる抗弁、搾取や屈辱に対する、公的権威の侵害に対する、あるいはまた慣習ないし組織的な宣伝による大量催眠に対するすべての抗議は、みなこの議論の多い個人主義的な人間観から発したものなのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.17-19,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:消極的自由,個人の自発性,独創性,道徳的勇気,目標の選択)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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生産方法の改良や発明は、生産性を向上させるが、それに劣らず重要な要素がある。それは、租税や土地制度など統治上の改善、また、教育の改善による人々の知性と諸能力、良心と公共心の育成である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

生産性の向上

【生産方法の改良や発明は、生産性を向上させるが、それに劣らず重要な要素がある。それは、租税や土地制度など統治上の改善、また、教育の改善による人々の知性と諸能力、良心と公共心の育成である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「随って、苟も生産方法の改良の行われたるときは、必ずや之は収穫逓減の法則に何らかの反対の影響を及ぼさずには置かない。また、このような効果の有るものは、ひとり産業上の改良に止まらない。統治上の改良及び殆どすべての道徳上社会上の改良も亦、やはり右と同様の効果がある。試みに大革命前のフランスの状態を思え。その頃のフランスに於いては、租税は殆どみな勤労階級に課せられ、しかもその徴税ぶりは恰も生産を罰する罰金として租税を徴する如きものであった。また、身体・財産を人に傷害されたとき加害者が高位の者または宮廷の威光の者である場合には、損害の賠償を得られなかった。かような制度を、大革命の暴風は吹き払ってしまったが、この革新は、之をただ労働の生産力の増加という点からのみ見るも、多くの産業上の発明に劣らず有効ではなかったろうか。十分一税の如き農業上の負担にして廃されたるときは、その効果たるや、恰も現存の生産物を得るに要する労働が俄かに十分一だけ節減されたのと同じような効果がある。穀物またはその他の物品をその生産費の最小なる場所にて生産するを防ぐ穀物条例その他の禁止令にして廃止されんか、その効果は生産上の大改良にも劣らぬものがある。なおまた、今まで狩猟またはその他の娯楽用に供されていた沃地が自由に耕作さるる土地となったときは、農業の総生産力は増加することとなる。誰も知っているよういに、イングランドでは救貧法の運用よろしきを得なかったために多大の損害を蒙り、また借地制度の劣悪なためにアイルランドは莫大の損害を蒙り、農業労働は萎靡沈滞してしまった。およそあらゆる改良のうちでも、土地制度及びその法律の改良ほど、労働の生産性に直接影響するものはない。世襲財産の廃止の如き、所有権譲渡の手続きの低廉の如き、その他およそ土地が利用うすき人々の手から利用多き人々の手へ移りゆく傾向を助くるものの如き、任意借地を廃して長期借地の設くる如き、悲惨なアイルランド式小作人制を廃して相当すぐれた小作制を設くる如き、なかんずく農夫をして土地に永く利害を感じさせる如き、およそこれらの改良は、いずれもほんとうの改良にちがいなく、しかもその或るものは、多軸紡績機または蒸気機関の発明にも劣らず偉大なる生産上の改良である。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『経済学原理』,第1篇 生産,第12章 土地の生産増加の法則,3 報酬逓減の法則に反する原理。すなわち、生産上の改良の増進,pp.318-319,春秋社(1939),戸田正雄(訳))
 「教育上の改良も亦、右と同様の効果がある。労働者の知能は、労働の生産力の最大要素である。某国は、文明の最もすすんだ国であるが、その労働者の知能の程度が頗る低く、随って生産力の無限の向上を期するには、手だけしかもっていない人々にまず頭脳を与える方法をとるほかない有様である。しかし労働者の注意・節倹・実直も亦、その知能に劣らず重要である。労働者と雇主の間柄が親密であって利害や感情のとけあっていることはなかんずく重要である。いやむしろ、重要たるべしというべきである。何故なら、このような和合の例の実際に存していることを私は知らないからである。精神・人格の向上が産業にも好影響を及ぼすということは、ひとり労働階級の場合にあてはまるのみではない。富裕有閑の階級に於いても、その人々の精神力が増加し教育が質実となり良心・公共心または博愛心が強烈となれば、その場合にはこららの人々は、経済上の手段についても自国の制度習慣についても、有益な改良をつくり促進することになるであろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『経済学原理』,第1篇 生産,第12章 土地の生産増加の法則,3 報酬逓減の法則に反する原理。すなわち、生産上の改良の増進,pp.319-320,春秋社(1939),戸田正雄(訳))
(索引:生産性の向上,生産方法の改良,発明,統治上の改善,教育の改善)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年11月19日火曜日

4.消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由

【消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)消極的自由
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。


 「自由という言葉(わたしは freedom も liberty も同じ意味で用いる)の政治的な意味の第一は――わたくしはこれを「消極的」negative な意味と名づけるのだが――、次のような問いに対する答えのなかに含まれているものである。

その問いとはつまり、「主体――一個人あるいは個人の集団――が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか」。

第二の意味――これをわたくしは「積極的」positive な意味と名づける――は、次のような問い、つまり「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。

この二つの問いは、それへの解答は重複することがあるにしても、それぞれ明らかに区別されるちがった問いなのである。

 「消極的」自由の観念

 ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だといわれる。

この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。

もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができる。

しかしながら、強制とは、することのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。

強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。

あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。

このことは、「経済的自由」とか、その反対の「経済的隷従」とかいう最近の用語法からも引き出せる。

もしあるひとがたいへん貧乏であって、法律的になんら禁じられていないもの――たとえば一塊のパンとか世界旅行とか法廷への依頼とか――を手に入れたり、やったりできないときには、そのひとはそれがかれに法律によって禁じられているときと同じように、それを手に入れたりやったりする自由がないのだ、とまことにもっともらしく主張されている。

もしもわたくしの貧乏が一種の病気のようなもので、これによってわたくしが、ちょうど跛で走れないというのと同じく、パンを買ったり世界旅行の費用を支払ったり、あるいは訴訟を審理させたりすることができないというのであるならば、このできない状態は決して自由の欠如と呼ばれない、ましてや政治的自由の欠如とは呼ばれないのはもちろんのことであろう。

自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ、自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられるからなのである。

いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。

手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているという(たんに貧乏のことをいうのではなくて)のは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。

さらにいえば、自分が不正ないし不公平と考えている特定の社会のしくみによって窮乏状態におかれているのだと信ずる場合に、この経済的隷従とか抑圧とかが口にされるわけである。

「事物の自然はわれわれを怒らせたり狂乱させはしない。ただ悪意のみがそうさせるのだ」と、ルソーはいっている。

抑圧であるかどうかの規準は、わたくしの願望をうちくだくのに直接・間接に他の人間によって演じられると考えられるその役割にある。

この意味において自由であるとは、他人によって干渉されないということだ。

 干渉を受けない範囲が広くなるにつれて、わたくしの自由も拡大されるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.9-12,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由,消極的自由,故意の干渉や妨害,放任,物理的制約,身体的制約,病気や障害)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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所有権は、抽象的で絶対的な権利ではなく、慣習や法律に基づいて賦与される特定の時代・社会の制度であり、人間事象の発展改善と公共の福祉のために、廃止や変更がされてきた。なおまた、改善の余地がある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

所有権

【所有権は、抽象的で絶対的な権利ではなく、慣習や法律に基づいて賦与される特定の時代・社会の制度であり、人間事象の発展改善と公共の福祉のために、廃止や変更がされてきた。なおまた、改善の余地がある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「かくてわれわれは、所有権は時と処との異なるに従って解釈も異なり、範囲も異なるということ、それに含まれる概念は変化する概念であり、頻繁に改訂されてきたし、また尚一層の改定の余地があることを、知るのである。更に又、それが社会の進歩の中でこれまで受けてきた改訂は、一般に改善であったということも、注意されねばならない。従って、或る物に対し其の物の所有者と法律上認められている人々によって行使される権力における或る変化或いは修正が、公衆に対し有益であり且つ一般的改善に寄与するであろう、と、正否はともかく、主張される時には、この想像上の変化が財産の観念と衝突すると単に言うだけでは、これに対する良い答えとはならない。財産の観念は歴史の通じて同一にして且つ変更することのできない一つの物ではなくて、人間精神の他のあらゆる創造物と同様に変化するものである。いかなる時でも、それは、その当時の或る社会の法律又は慣習によって賦与された、物を支配する権利を示す簡潔な表現である。併しこの点においても、又その他いかなる点においても、或る時と処との法律と慣習は永久に固定されることを要求する権利はない。法律又は慣習上の提案された改革は、その採用があらゆる人間事象の現在の財産観念への適応ではなくて、現在の観念の人間事象の発展改善への適応を意味するから、という理由を以て、常に反対すべきではない。こう言ったからとて、所有権者たちの正当な要求――つまり、彼らが公益のために奪われるかもしれないような所有権的性質を帯びた法律的権利に対して、国家の補償を得たいという要求を妨げることにはならない。この正当な要求、その根拠と正しい限界とは、それ自体として一つの問題であり、かかるものとして今後論じられるであろう。しかし、かかる条件のもとで、社会は、充分の考慮をつくしたうえで公共福祉の妨げとなると判断されるところの、いかなる特殊の所有権をも廃止したり変更したりする充分の権利を有する。そして勿論、われわれが前章で見たように社会主義者が現在の社会の経済的秩序に対して持ち出すことのできる凄まじい反対論は、現制度が、いかなる手段を用いたならば、現在のところその直接的利益の最小の分け前しか享受していない社会の大部分の人々に対しもっと有利になるように運営せしめられうる可能性があるか、それらあらゆる手段についての充分な考慮を要求するのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『社会主義論』,第4章 社会主義の難点,pp.150-153,社会思想研究会出版部(1950),石上良平(訳))
(索引:所有権)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年11月17日日曜日

自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活の改善に貢献するという仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。これが教育の究極目的である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

教育の究極目的

【自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活の改善に貢献するという仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。これが教育の究極目的である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5)教育の究極の目的は何か
 (5.1)同胞の生活の改善、人類への貢献
  (a)人間性と人間社会が変化する過程で、日々新たな問題が発生し、解決が求められる。このような諸問題を解決できるための、能力を高めること。
  (b)何らかの点で、人類を現在よりもより賢明に、より善良にする方法を探究すること。
  (c)人間生活のすべての側面を、現在よりももっと合理的な基盤に置く方法を探究すること。
 (5.2)各個人が為すべきこと
  (a)ささやかな貢献をする
   誰でも、自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活をある程度改善することができる。
  (b)最善の思想を理解する
   また、我々の時代の独創的な精神の持ち主達によって産み出された最善の思想に精通する努力をすること。
  (c)最善の思想を育てる土壌、世論の質を向上させる
   なぜなら、独創的で最善の思想も、多くの人たちの理解と歓迎、激励、援助という土壌がなければ、大きく育たないからである。
  (d)もちろん、人によっては自ら人類に対して独創的な貢献をする者もいることだろう。
 (5.3)真の報酬とは何か
  (a)同胞の生活の改善、人類への貢献という目的は、本来なら、報酬が与えられるなどということを、考えなければ考えないほど、純粋で善いものであることは言うまでもない。
  (b)しかし、期待を決して裏切ることのない、いわば、利害を超越した報酬がある。同胞の生活の改善、人類への貢献という仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。すなわち、報酬はこの仕事そのものに内在しているのである。

 「諸君は、今こそ、細々とした商売上のあるいは職業上の知識よりもより重大なかつはるかに人間を高尚にする諸問題についてある程度の見識を獲得し、人間のより高尚な関心事すべてに諸君の精神を活用する術を習得すべき時期であります。諸君がこのような能力を身につけて、実生活の仕事のなかに入って行かれるならば、仕事の合間に見出される僅かな余暇でさえも、空費されることなく、高貴な目的のために利用されることでありましょう。退屈さが興味を圧倒するという最初の難関を突破し、そして更にある時点を通り過ぎて、今迄の苦労が楽しみに変わるようになると、最も多忙な後半生においても、思考の自発的な活動によって、知らず知らずに精神的能力は益々向上し、また教訓を通じて日常生活から学ぶ方法を会得するようになります。もし諸君が、青年時代の勉学において究極の目的――この究極の目的に向かって行われればこそ青年時代の勉学は価値があるのでありますが――この究極の目的を見失わなければ、少なくともそうなることでありましょう。では、この究極の目的とは何であるかと申しますと、そしてそのような目的がわれわれの胸中にあることで、われわれは、絶えず高度な能力を働かせるようになり、また、年を経るとともに貯めてきた学識や能力を、何らかの点で人類を現在よりもより賢明に、より善良にする方法、あるいは人間生活のすべての側面を現在よりももっと合理的な基盤に置く方法があれば、それを支援するために惜しみなく費やすいわば精神的資本と考えるようになります。われわれのなかで、人並みな機会が与えられれば、その機会を利用し、そして今までに覚えた知性の活用の仕方を応用して、同胞の生活をある程度改善しうる能力を備えていない人は誰一人いません。このささやかな貢献を結集してより大きなものにするために、われわれの時代の独創的な精神の持ち主達によって産み出された最善の思想に精通する努力を常に致しましょう。この努力を通じて、われわれは、どんな社会運動がわれわれの助力を最も切実に必要としているかが分かるようになり、そしてまた、こうすることがわれわれの最大の務めであるように、良き種子が岩石の上に落ちて、もしも土の上に落ちたならば芽を出し、繁茂しえたのに、土に達することなく朽ちて行くというようなことのないようにすることができます。諸君は、将来、人類の福祉に知的な側面で寄与する人々を歓迎し、激励し、援助する立場の人々の一員となります。そしてまた、諸君は、もしその機会があるならば、人類に知的恩恵を施す人々のなかに加わるべき人々であります。意気消沈している時は、そのような機会がないように思われるかもしれませんが、そんなことで勇気を失ってはなりません。機会を捉える方法を知っている人は、機会というものは自分で創り出すこともできるということに気がついています。われわれの実績は、われわれの所有する時間の多寡に左右されるのではなく、むしろその利用法次第であります。諸君や諸君と同じ環境にある人こそ、次の世代を担う国の希望であり、人材であります。次の世代が遂行すべき使命を担っている大事業のほとんどすべては、諸君達の誰かが成し遂げなければなりません。確かに、そのなかのいくつかは、私が今こうして話し掛けている諸君に比べれば、社会から受ける恩恵がはるかに少なく、教育を受ける機会もほとんど与えてもらえなかった人々によって成し遂げられることもあるでしょう。私は、地上における報いにせよ、天上における幸福にせよ、報酬を眼前に示して、諸君をそそのかすつもりは毛頭ありません。どちらであろうと、報酬が与えられるなどということを考えなければ考えないほど、われわれにとっては良い事なのであります。しかしただ一つ、諸君の期待を決して裏切ることのない、いわば、利害を超越した報酬があります。なぜそうなるかと申しますと、それは、ことのある結果ではなく、それを受けるに値するという事実そのものに内在しているものであるからです。では、それは一体何であるかと申しますと、「諸君が人生に対して益々深く、益々多種多様な興味を感ずるようになる」ということであります。それは、人生を十倍も価値あるものにし、しかも死に至るまで持ち続けることのできる価値であります。単に個人的な関心事は、年を経るに従って、次第にその価値が減少して行きますが、この価値は、減少することがないばかりか、増大してやまないものなのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,8 結論,pp.85-88,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:教育,教育の究極目的,同胞の生活の改善,人類への貢献,利害を超越した報酬)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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