2020年4月23日木曜日

国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法と国内法の根本的な違い

【国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

参考: 人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「根本的なルールなしに存在するもっとも単純な形態の社会構造のために、根本的なルールをつくろうとする努力のなかには、たしかに何かこっけいなものがある。それはまるで裸の野蛮人が本当は目に見えない種々の現代の服を着ているに《ちがいない》と言い張るようなものである。不幸にもここにおいてもまた混乱が引き続く可能性がある。根本的なルールについては、当該社会(個人からなろうと、国家からなろうと)が行為の一定の基準を義務的なルールとして単なる事実の空虚な繰り返しのようなものであると考えるよう説得されるかもしれない。これは「諸国家は、それらが慣習的に行動してきたように行動すべきである」という国際法のために示唆された聞きなれない根本規範の立場である。なぜならそれは、一定のルールを受けいれる者が、ルールは順守されるべきであるというルールをもまた順守しなければならないということ以上を言っていないからである。これはルールのセットが拘束力をもつルールとして国家により受けいれられたという事実の無益な繰り返しにすぎない。
 またいったんわれわれが国際法は根本ルールをもた《なければならない》という仮定から離れるなら、直面する問題は事実の問題である。ルールが国家間の関係で機能するとき、ルールの実際の性格はどんなものであろうか。観察されるべき現象のさまざまな解釈はもちろん可能である。しかし国際法のルールのために妥当性の一般的基準を与える根本的なルールはないということ、および実際に働いているルールは体系をなすものではなく、ルールのセットであり、その中に条約の拘束力を与えるルールがあるということがのべられよう。多くの重要な事柄に関して、国家間の関係は多辺的条約により規律されていることは真実であり、これらは当事者でない国をも拘束するだろうということがときとして主張されている。もしこのことが一般に認められるなら、そのような条約は実際立法的制定法であり、国際法はそのルールの妥当性のために独特な基準をもつことになるだろう。そうならば、体系の実際の特色をあらわす根本的な承認のルールが公式化されうるだろうし、それはルールのセットが実際に国家により順守されているという事実の空虚な繰り返し以上のものであろう。たぶん現在の国際法は、構造的にそれを国内体系へと近づける上にのべた形態や他の形態を受けいれる移行の段階にあると言える。もしこの移行が完成されたら、そしてそのときに、今日においては根拠が薄くて欺瞞的にさえみえる形態上の類似も実体を得て、国際法の法的「性質」に関する懐疑論者の最後の疑いもそのとき葬られるであろう。この段階にいたるまでは、類似はたしかに機能と内容におけるものであって、形式におけるものではない。機能における類似は、いくらかは前節で吟味したように、どのように国際法が道徳と異なるかを考えるときに、もっとも明らかにあらわれる。内容における類似は、国内法および国際法に共通であり、法律家の技術を一方から他方へ転用することを可能にする一連の原則、概念および方法にある。「国際法」'international law'という表現の発明者であるベンタムは、国際法は国内法に「十分類似している」というだけで、そのことを弁護した。これに対して二つの注釈をつけるのがよいだろう。まず第一に、この類似は内容についてであって形式についてではない。第二に、この内容の類似において、国際法ほど国内法に近いような社会的ルールは他にはない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.254-255,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月21日火曜日

9.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.4)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないとする説。
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
   (ii)情念は「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 (2.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えないとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
   (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
   (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
   (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)理性による判断

 「この学説が個人に適用された場合、そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない。

みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。

わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。

わたくしは法則に従う。けれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。

自由は服従である。しかし、これは「われわれがわれわれ自身に命ずる法則に対する服従」であって、なんぴとも自分自身を奴隷とするというわけにはゆかない。

他律とは外部的要因への依存であり、自分では完全に支配しえないところの、また《それだけ》protanto わたくしを支配し「隷従させる」ところの外的世界のなぐさみものとなることを免れることである。

自分ではどうすることもできない力の下にある、いかなるものによってもわたくしが「束縛」されていない程度においてのみ、わたくしは自由である。

わたくしは自然の法則を支配することはできない。したがって、《その仮定からして》ex hypothesi わたくしの自由な活動は経験的な因果の世界の上に超越させられなければならぬことになる。

いまここでは、この古来有名な学説の真偽を議論しているわけにはゆかない。

ただ、実現不可能な欲望への抵抗(ないしそれからの逃避)としての自由、因果性の領域からの独立としての自由というこの観念は、倫理学におけると同様、政治学においても中心的な役割を演じてきたものなのだということだけは注意しておきたいと思う。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.33-34,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却,積極的自由,欲望,情念,社会的な諸価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールとしての国際法

【国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「国内法と国際法の間には、ここでいくらか吟味する価値のある形態上の類似がある。ケルゼンおよび多くの現代の理論家達は、国内法と同様に国際法も「根本規範」ないしはわれわれが承認のルールと呼ぶものをもつし、また実際もたなければならないと主張した。それを参照することによって体系の他のルールの妥当性が評価されるのであり、それによってルールは一つの体系を形成するというものである。これに反対する見解によれば、この構造の類似は偽りであり、国際法はこのような方法では結合されていない責務に関する別々な第1次的ルールの単なるセットである。国際法学者の通常の用語法においては、国際法は慣習のルールのセットであり、そのなかの一つに条約に拘束力を与えるルールがある。この仕事に関係する人々にとって、国際法の「根本規範」を公式化することはたいへん困難であったことはよく知られている。この位置を占めるもののなかには、《合意は拘束する》pacta sunt servandaという原則も含まれる。しかしながらいかに広くその言葉を解釈したとしても、この原則は、国際法の下におけるすべての責務が「合意」から生じるわけではないという事実と矛盾するように思えるので、ほとんどの理論家はこの原則を捨てさった。そこでこの原則は、「諸国家はそれらが慣習的に行動しているように行動すべきである」というあまり知られていない、いわゆるルールにとって代わられた。
 われわれは、国際法の根本規範についての上の公式化やその他の公式化の長所を議論するのではなくて、国際法はそのような要素をもたなければならないという前提を問題としてみよう。ここにおいて最初の、そしてたぶん最後の疑問は、なぜわれわれはこれを《先験的な》前提とし(なぜならそうされているのが実情だから)、国際法のルールの実際の性質に予断を下すべきであるかということである。なぜなら社会は、その構成員に対し「拘束力をもつ」ものとして責務を課すルールがあれば、たとえそのルールが単に別々なルールのセットとみなされ、何らかのもっと根本的なルールによって統一されず、あるいは根本的ルールからその効力を引き出さないとしても、存在しうるだろうということはたしかに考えうる(そしてしばしばそういう場合があったであろう)からである。ルールの単なる存在は、そのような根本的なルールの存在を含まないことは明らかである。ほとんどの現代社会にはエチケットのルールがあり、われわれはそれが責務を課すとは考えないけれども、それらのルールが存在しているとたしかに言えるだろう。しかしわれわれは個々のルールの効力がそこから引き出されるエチケットの根本的なルールを探そうとはしないし、見い出すこともできないだろう。そのようなルールは体系をなしているのではなく、単なるセットであり、もちろん問題がエチケットよりももっと重要であるところでは、この形態の社会統制の不便さは無視できない。それらについてはすでに第5章でのべた。しかしもしルールが実際に行為の基準として受けいれられ、義務的ルールに特有なしかるべき形態の社会的圧力により支えられているならば、それらが拘束力をもつルールであるということは、たとえこの単純な社会構造の形態においては、国内法におけるように個々のルールの効力を体系のある究極のルールに照らして証明するものを欠いているとしても、そのことで十分なのである。
 体系となっているのではなく単なるセットであるルールについてもちろん多くの質問をすることができる。たとえばそれらの歴史的起源について質問し、あるいはそのルールの成長を助けた原因に関して質問することができる。またそのルールによって生活している人々に対するその価値について質問することができるし、彼ら自身それに従うよう道徳的に拘束されていると考えているのか、あるいは何か別の動機から従うのかをたずねることができる。しかし、国内法のように根本的規範ないし承認の第2次的ルールで強化された体系のルールに関してはたずねることはできるが、より単純な場合にはたずねることのできない一種の質問がある。すなわち、より単純な場合にわれわれは「体系のどの究極的な規定から、別々のルールはその効力もしくは『拘束力』を引き出すのであろうか」とたずねることはできない。なぜならそのような規定はないし、また何も必要としないからである。だから根本的なルールないし承認のルールが、責務のルールないし「拘束力をもつ」ルールの存在のための一般に必要な条件であると仮定することはまちがいである。これは必要物ではなくぜいたく品 a luxuryであり、構成員が別々のルールを一つずつ受けいれるようになるばかりでなく、妥当性の一般的基準により画された一般的クラスのルールをも前もって受けいれることに関与するような進歩した社会体系に見い出されるものである。より単純な形態の社会においては、ルールがルールとして受けいれられたかどうかを知るには待たなければならない。承認の根本的なルールをもつ体系においては、ルールが実際につくられる以前に、《もし》それが承認のルールの要件に適合しているならそれは効力をもつ《だろう》と言うことができる。
 同様の問題点は別の形でも示されるだろう。そのような承認のルールが別々のルールの単純なセットに付け加えられたとき、それは体系の利益および確認の容易さをもたらすばかりでなく、それは新しい形態の陳述をはじめて可能にする。これはルールの効力についての内的陳述である。なぜなら今われわれは、新たに、「体系のどの規定によりこのルールは拘束力をもつものとされるのか」、あるいはケルゼンの言い方で「体系の内部で何がその妥当性の理由なのか」をたずねることができるからである。これらの新しい質問の答は、根本的な承認のルールにより与えられる。しかしより単純な構造においては、ルールの効力は何らかのもっと根本的なルールを参照することによっては示されえないけれども、このことは、ルールやその拘束力あるいは効力について何らかの疑問が説明されないまま残されているということを意味するものではない。そのような単純な社会構造におけるルールが、なぜ拘束力をもつのかは不思議なことであるとし、それはわれわれが根本的なルールを見い出した場合にのみ解決されるものであると言うことは当たらない。単純な構造のルールは、より進歩した体系の根本的なルールと同様に、もしそれらが拘束力をもつものとして受けいれられ機能しているなら、拘束力をもつのである。しかしながらさまざまな形態の社会構造についてのこれらの純然たる真実は、統一性および体系という望ましい諸要素が実際には見られないところで、それらを執拗に探究することにより、曖昧にされやすい。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.251-253,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:第1次的ルール,国際法,根本規範)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.3)追加。


(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 (2.3)国際法の事実にあっていない。
  (a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得る。
  (b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりする。
  (c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域において、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するというのは、事実に反することが分かる。

 「第三に事実の問題がある。われわれは、国家は自己に課した責務にのみ拘束さ《れう》るという今批判した《先験的な》主張と、国家は異なった体系の下では他の方法で拘束されうるのだけれども、実際に今日の国際法のルールの下では国家にとって他の形態の責務は存在しないという主張とを区別しなければならない。もちろんその体系はすべて合意から成りたつ形態であるということも可能である。合意により成りたつという見解に対する賛成と反対は、法学者の論文、裁判官の意見、さらに国際裁判所の裁判官の意見、および国家の宣言のなかに見い出される。諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが、上の見解が正しいかどうかを示しうる。現代国際法は、たしかに大部分は条約法であり、したがって前もっての合意なしに国家に対し拘束力をもつと思われるルールが、実際は合意にもとづいていることを示すため念入りな試みがなされた。もっともその合意は「黙示的に」のみ与えられ、あるいは「推定」されなくてはならないのだけれども。国際的責務の諸形態を一つのものに還元しようとする試みは、すべてが虚構であるわけではないが、少なくともそのいくらかは、「黙示の命令」tacit command の観念と同じ疑惑を呼び起こす。それは、すでに見たように、はるかにもっともらしいものであるが、同様に国内法の単純化を形成するためにもくろまれたものである。
 すべての国際的責務は拘束される当事者の合意から生じるという主張の詳細な検討はここではできないが、この理論に対する二つの明白で重要な例外に注意しなければならない。第一は新国家の場合である。1932年にイラクが、1948年にイスラエルがしたように、新しい独立国家が成立したとき、それがなかんずく条約に拘束力を与えるルールを含んだ国際法の一般的責務に拘束されることは決して疑われたことはない。ここにおいて新国家の国際的な責務を「黙示の」あるいは「推定された」合意におく試みは、まったく古くさいように思える。第二の場合は、領土を得たり他の何らかの変化をなした国が、以前にはそれを順守したり、違反したりする何らの機会をもたず、またそれに対して合意を与えたり指し控えたりする何らの機会をもたなかったルールのもとにおける責務の影響を、そのことによってはじめて受ける場合である。もし以前には海に接していなかった国家が海岸の領土を得たとしたら、そのことによってその国家は、領海および公海に関するすべての国際法のルールに従わなければならないことは明らかである。その他に、主として一般条約あるいは多辺的条約の非当事者に対する効果に関して、もっと議論の余地のある場合がある。しかしすべての国際的責務はみずから課したものであるという一般理論は、あまりにも多くの抽象的な独断と、あまりにも事実をかえりみないことによって想定されたという疑念を、これら二つの重要な例外は、正当化するのに十分である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.243-245,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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9.災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

まだ間に合う

【災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】

『戦争においても、多くのほかの重要なことがらにおいても、もう手遅れだというので準備が投げやりにされているという事態を、これまでたびたび目にしてきた。

 ところが後になって、あのとき準備をしていたならまだ間にあったはずだったことがわかってきて、それを怠ったばかりに重大な損害をこうむることがはっきりしてくるものである。

 このようなことになるのも、一般にものごとの進歩や速度は予想されるよりもはるかにのろいからである。したがって、君が一ヶ月でやりおおせると判断していたことを三ヶ月も四ヶ月もたって完成できないでいるということが、しばしばおこるものである。この断章は重要である。君の心すべきことだ。』(C162)

『戦争のばあいにはなおさらのことだが、災厄が迫っているときに、もう手遅れだと考えて、救済策をほどこすのをはねつけたり、おろそかにすることがあってはならない。

 というのは、災厄の進行速度は、われわれが考えているよりはるかにのろいことが多いからだ。それは災厄そのものの本来の性格であるのと、さまざまな障害物につきあたるからである。

 したがって、もうおそすぎると判断したために君がとりあげなかった救済策も、間に合うことがよくあるものである。私は、たびたびこのことを経験したのである。』(B173)
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540),『リコルディ』,日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』,C162,B172,講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



(出典:wikipedia
フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Propositions of great philosophers)  「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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2020年4月20日月曜日

国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 「だから現在の異議に対するもっとも簡単な答は、それが考察すべき問題の順序を逆にしているということである。われわれは、国際法の諸形態がどのようなものであるか、そしてそれらは単なる空虚な形態なのかどうかを知ってはじめて、諸国家はどのような主権をもっているかを知りうるのである。この原則が無視されたため、多くの法的議論は混乱してきた。だから「意思主義」あるいは「自己制限」の理論として知られている国際法の理論を、この考えの下で考察することは有益である。これらの理論は、すべての国際的責務を約束から生じる義務のようにみずから課したものとして取り扱うことにより、国家の(絶対)主権を国際法の拘束力あるルールの存在と調和させようと試みた。実際このような理論は、政治学における社会契約論を国際法に当てはめたものである。政治学における社会契約論は、法に従う責務は拘束される人々がお互いになし、あるいは場合によっては彼らの支配者となした契約から生じる責務であるとすることによって、個人は「本来」自由で独立であるにもかかわらず、国内法に拘束されるという事実を説明しようとした。われわれはここにおいては、この理論が文字通り受けとられた場合になされる周知の異議を考察しないし、また単に理解に役立つ類比として受けとられる場合のこの理論の価値をも考察しない。その代わりにわれわれは、国際法の意思主義理論に反対する3つの議論をその歴史から引き出すことにしよう。
 まず第一に、これらの理論は、諸国家はみずから課した責務にのみ拘束され「うる」ということをどうして知るのか、あるいは国際法の実際の性質の検討に先だって、国家の主権に関するこの見解がなぜ受けいれられるべきなのかということを、まったく説明することができない。そのことがしばしば繰り返されてきたという事実のほかに、その見解を支持するものが何かまだあるだろうか。第二に、諸国家は主権をもつのでみずから課したルールにのみ従いまた拘束され《うる》ということを示そうとする議論には、何か一貫しないものがある。「自己制限」理論の非常に極端な形態においては、国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられない。これは事実とはたいへん矛盾しているけれども、少なくとも一貫性という長所をもっている。すなわちこれは、国家の絶対主権はいかなる種類の責務とも両立しないのであり、だから国家はイギリス議会のように、自己を拘束できないという単純な理論である。しかしながら、国家は約束、協定あるいは条約によってみずから責務を課すことができるとするあまり極端でない説は、国家はみずから課したルールにのみ従うという理論とは矛盾する。なぜなら、話されたものであれ、書かれたものであれ、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるためには、ルールがはじめから存在し、それは国家がしかるべき言葉によって行なうと約束したことを行うよう国家は拘束されると規定していなければならないからである。みずから課した責務という観念そのもののなかに前提されているそのようなルールは、《その》義務的な性質をそのルールに従うというみずから課した責務から引き出せないことは明らかである。
 ある国家が行なうように拘束されているすべての個々の《行動》は、理論的には、たしかに約束からその義務的な性質を引き出すだろう。それにもかかわらず、そう言えるのは、約束その他が責務を生じるという《ルール》が何らかの約束とは別に、国家に適用されている場合にのみである。個人あるいは国家からなる社会において、約束、協定あるいは条約の言葉が責務を生じるために何が必要かつ十分であるかを言えればそれは、そのことを規定し、それらの自己拘束作用のための手続を明記したルールが、普遍的である必要はないが一般的に認識されていることである。それらが認識されているところでは、それらの手続を意識的に用いる個人あるいは国家は、欲しようと欲しまいと、そのことによって拘束されるのである。このように社会的責務のもっとも自発的な形態でさえ、それらに拘束される当事者の選択とは関係なしに、拘束力をもつルールを含んでいる。だからこのことは、国家の場合においては、国家主権はすべてのそのようなルールからの自由を要求するという仮定とは一致しない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.242-243,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月19日日曜日

闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

知による自己解放

【闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「啓蒙主義もロマン派も、世界史のうちに、とりわけ、闘いあう理念の歴史、信仰闘争の歴史を見ています。この点ではわれわれは一致しています。しかし、啓蒙主義をロマン派から分かつものは、これらの理念に対する態度です。ロマン派が尊重するのは、信仰の真理内容がたとえどのようなものであろうとも信仰そのものであり、信仰の強さと深さです。ここにロマン派が、啓蒙主義を軽蔑するもっとも深い根拠があると言ってよいでしょう。なぜなら、啓蒙主義は信仰そのものには――倫理における場合を除いて――不信をもって対立するからです。啓蒙主義は、信仰を単に容認するだけでなく、高く評価もしますが、啓蒙主義が評価するものは、何と言っても、信仰そのものではなく真理です。絶対的真理のようなものが存在すること、われわれはこの真理に近づくことができるということ、これが、ロマン派の歴史的相対主義とは対立する啓蒙哲学の根本的確信です。
 しかし、真理に近づくことは容易ではありません。ただひとつの道、つまり、われわれの誤りを通っていく道があるのみです。われわれの犯した誤りからのみわれわれは学ぶことができるのです。そして他人の誤りを真理への歩みと評価する用意のある者、自分自身の誤りを《さがして》、それから解放されようとする者だけが学ぶのであると言えましょう。
 知による自己解放の理念は、たとえば自然支配の理念と同じものではありません。それはむしろ、誤りからの、誤った信仰からの《精神的》自己解放の理念です。それは、自分自身の理念を批判することによる精神的自己解放の理念です。
 啓蒙主義が狂信とファナティックな信仰を断罪したのは、単に有用性の根拠からでもなく、また、政治や実際生活においてはもっと冷静な醒めた態度による方がより前進できると期待したからでもありません。狂信的信仰に対する断罪は、むしろ、われわれの誤りを批判することによる真理探究という理念から帰結してくることがらなのです。そして、そのような自己批判および自己解放は、多元主義的雰囲気のなかでのみ、つまり、われわれの誤りと他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能なのです。
 ですから、啓蒙主義の主張した知による自己解放の理念は、われわれをわれわれの理念と同一視する代わりに、われわれはわれわれ自身の理念から身を引き離すことを学ばねばならないという理念をはじめから含んでいます。理念のもつ精神的威力が認識されるならば、誤った理念のもつ精神上の圧倒的影響力から自己を解放するという課題が生じてきます。真理を探究し誤謬から解放されるために、われわれは、われわれ自身の理念を、われわれが闘う理念と同様に、批判的に考察できるよう自らを教育しなければなりません。
 これは決して相対主義への譲歩ではありません。なぜなら、誤謬の観念は真理の観念を前提するからです。他の人が正しく、そしておそらくはわれわれが間違ったのだと認めることは、肝要なのは立場のみであるとか、相対主義者の言うように、誰もが自分の立場からすれば正しく、他の立場からは正しくないのだということを意味するものではありません。西欧の民主主義において多くの人は、自らがしばしば誤っており、相手の方が正しいことを学んできました。しかし、この重要な教訓を吸収した人々のうち、余りにも多くの人々が相対主義に落ち込んでしまいました。自由で多元主義的な社会を創ろう――知による自己解放のための枠組みとして――というわれわれの大きな歴史的課題において、こんにちわれわれにもっとも必要なのは、相対主義者あるいは懐疑論者にならずに、またわれわれの確信のために闘う勇気と決心を失わずに、自分たちの理念に批判的に向かいあうことを可能にするような態度に向けて、われわれ自身を教育することです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.233-235,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:知による自己解放,開かれた社会,寛容,誤謬からの解放)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。倫理的目標は、公共的な悪と闘って、多くの成果を上げてきた。ただし、自らの政治目標を狂信せず、多様な異論を尊重することの重要性を学んでいる場合だけである。(カール・ポパー(1902-1994))

倫理的目標の有効性とその条件

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。倫理的目標は、公共的な悪と闘って、多くの成果を上げてきた。ただし、自らの政治目標を狂信せず、多様な異論を尊重することの重要性を学んでいる場合だけである。(カール・ポパー(1902-1994))】

参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))

参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))

 「狂信とその行き過ぎを避けることはそもそも可能なのでしょうか。歴史は、あらゆる倫理的な目標設定が無益であることを教えてはいないでしょうか。というのも、まさに、そうした目標が歴史的役割を演ずることができるとしたら、狂信的な信仰によって担われる場合のみであるからではないでしょうか。またあらゆる革命の歴史は、倫理的な理念への熱狂的な信仰が、その理念を絶えず反対のものに転倒させることを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰が、自由の名において牢獄の扉を解き放つのは、またすぐに新しい犠牲者の背後で扉を閉ざすためであるということを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰がすべての人の平等を布告したにもかかわらず、それは、ただちに、かつての特権階級の子孫を三代四代以上にわたって追求するためであったということを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰は、人間の友愛を布告し、同時にいつでも兄弟の牧者として登場するにもかかわらず、それが犯した殺人行為は兄弟殺しであったことが明らかになるということを教えてはいないでしょうか。歴史は、すべての倫理的理念が有害であり、そして最上の理念はしばしばもっとも有害であることを教えてはいないでしょうか。そして、世界を改善しようという啓蒙主義の理念は、フランス革命およびロシア革命によって、犯罪的ナンセンスであったことを十分に明らかにしたのではないでしょうか。
 こうした問いに対するわたくしの答えは、わたくしの第三の主張に含まれています。その主張の趣旨は、西ヨーロッパおよびアメリカの歴史から、われわれは、歴史に倫理的な意味を与えること、あるいは目標を設定することは決して無益なわけではないことを学びうるということです。もちろん、そうであるからといって、われわれの倫理的目標が完全に実現されたとか、実現されうると主張されるべきではありません。わたくしの主張ははるかにつつましいものです。わたくしはただ、倫理的な規制原理によって鼓舞された社会批判は、多くの場所で成功を収めたこと、それは公共の生活における最大の悪と闘って成果をあげえたことを主張しているにすぎません。
 これがわたくしの第三の主張です。これは、あらゆる悲観的な歴史観の反駁であるという意味で楽観的なものです。なぜなら、われわれ自身が歴史にひとつの倫理的目標をたてるとか、倫理的意味を与えることができるとすれば、すべての循環理論および没落理論は明らかに反駁されるからです。
 しかし、この可能性は、まったくのところ特定の諸条件と結びついているように見えます。社会批判が成功によって飾られたのは、異なった意見を尊重し、自らの政治目標については控え目で醒めていることを学んでいたところ、すなわち、地上に天国を実現しようという試みはあまりにも容易に地上を人間にとっての地獄に変えてしまうことを学んでいたところにおいてだけでした。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.230-231,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:倫理的目標,狂信的な信仰)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))

狂信的な信仰の害悪

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))】
参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))
 「さて、〔歴史に〕意味を与えるという理念の第二のより重要な意味の検討に移りたいと思います。〔歴史に〕意味を与えるとは、われわれが、自らの個人的な生にばかりではなく、われわれの政治的生に、つまり、政治的に考える人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。とりわけ、歴史の無意味な悲劇を耐え難いものと感じ、またそこに未来の歴史をより有意味なものにするために最善をつくせという要求を見る人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。しかし、この課題は難しいものです。というのも、善き意志と善き信仰が悲劇的にわれわれを惑わすことがあるだけに、ことに難しいのです。そして、わたくしはこの講演のなかで、啓蒙の理念を弁護しているので、まず啓蒙や合理主義の理念もまた実に怖るべき結果を導いたことを指摘しておく義務があると感じています。
 カントはフランス革命を歓迎しましたが、そのカントに、自由、平等、友愛の名のもとで、もっとも嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを、つまり、かつて十字軍の時代、魔女焚殺の時代、三十年戦争の時代に、キリスト教の名のもとで行なわれたのと同様の嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを教えたのは、ロベスピエールの恐怖政治でした。しかし、カントはフランス革命の恐怖の歴史からひとつの教訓を引き出しました。その教訓は何度繰り返されても十分ということはないものです。つまり、狂信的な信仰は常に禍であり、多元論的な社会秩序の目標とは一致しがたいものであるということ、われわれの義務は、どのようなかたちの狂信にも――その目標が倫理的に異論のないものであっても、ことにまたその目標がわれわれの目標であっても――抵抗することであるという教訓です。
 狂信のもつ危険、そして狂信に対しては常に対抗すべきであるという義務は、おそらくわれわれが歴史から引き出すことのできるもっとも重要な教訓のひとつでしょう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.228-229,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:狂信的な信仰,意志,信仰,啓蒙,合理主義,多元的な社会秩序)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月18日土曜日

社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

個人の個性と社会の3つの類型
(a)人々を訓練し管理する社会の能力が不足している状態
 社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が、情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちが安全に生活できないような社会。社会の初期の段階は、このような社会であった。
(b)人々を訓練し管理する社会の能力が過剰な状態
 人々は、自分の好みは何なのかとは考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人は普通、どうしているのかとしか考えない。大勢に順応し、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけない。
(c)好ましい状態
 自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかと考える。
 参考:各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「社会のもっと初期の段階には、こうした活気が強すぎて、人びとを訓練し管理する社会の能力を超えていた可能性があるし、ある部分ではたしかに超えていた。自発性と個性が強すぎて、社会の原理によってそれを抑えるのに苦労した時代があった。その当時に困難だったのは、体力や知力が強い人を誘導して、その衝動を管理するのに必要な規則にしたがわせることであった。この困難を克服するために、皇帝と争っていたローマ法王が教会についてそう主張していたように、法律と規律には全人格に対する支配権があると主張され、性格を管理するには生活のすべての面を管理する必要があると主張された。それ以外には、社会が人びとの衝動を抑える十分な手段をみつけだせなかったのである。しかしいまでは、社会は個性をほぼ抑えつけられるようになっている。そして、人間性を脅かしているのは、個人の衝動と好みの過剰ではなく、不足になった。状況が様変わりしているのだ。以前には、社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちがわずかでも安全に生活できるようにするには、こうした人の情熱を厳しく管理する必要があった。いまでは、社会の最上層から最下層まで、すべての人が敵意をもった恐ろしい監視のもとに暮らしている。他人に関係する点だけでなく、自分自身にしか関係しない点でも、個人や家族は、自分の好みは何なのかとは考えない。自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかとも考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人はふつう、どうしているのか、そしてもっと悪い見方だが、自分より地位が高く、収入も多い人はふつう、どうしているのかである。各人が自分の好みに合うものより、世の中の慣習になっているものを選ぶといいたいわけではない。そうではなくて、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけなくなっているのである。精神まで、抑圧の軛に屈服している。娯楽のときですら、真っ先に考えるのは世の中に合わせることである。いつも大勢に順応していたいのだ。何かを選ぶときでも、ふつうに行われていることのなかからしか選ばない。人とは違う趣味や、変わった行動は犯罪と変わらないほど避けようとし、いつも自分の本性にしたがわないようにしているので、やがて、したがうべき本性をもたなくなる。人間としての能力は委縮し、衰えていく。強い望みや自然な喜びはもてなくなり、たいていは自前の意見や感情、まさに自分のものだという意見や感情をもたなくなる。これが人間性の望ましい状態なのだろうか。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.133-135,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「自分の計画を自分で選ぶ人は、能力のすべてを使う。現実をみるために観察力を使い、将来を予想するために推理力と判断力を使い、決断をくだすのに必要な材料を集めるために行動力を使い、決定をくだすために識別能力を使う必要があるし、決定をくだした後にも、考え抜いた決定を守るために意志の強さと自制心を発揮する必要がある。自分がとる行動のうち、みずからの判断と感情にしたがって決定する部分の比率が高いほど、これらの能力が必要になり、使われることになる。これらの能力を使わなくても、正しい道を歩めるように、誤った道に陥らないように、導かれることもありうる。だがその場合、その人は人間としての価値が高いといえるのだろうか。ほんとうに重要なのは、人がどのような行動をとるかだけではない。その行動をとる人がどのような人間なのかも重要である。人が一生を使って完成し磨き上げていくのが適切なもののなかで、何よりも重要だといえるのは明らかに自分自身である。機械を使えば、それも人間の形をした自動機械を使えば、家を建て、穀物を栽培し、戦争を行い、訴訟を裁き、さらには教会を建てて神に祈ることすらできると仮定しても、人間をそうした自動機械に置き換えるのは大きな損失であろう。現在の先進的な地域に住んでいる人であっても、自然が生み出しうるし、やがて生み出すとみられる人間と比較すればまったく貧弱だといえるにすぎないのだから。人間は機械と違って、ある設計図にしたがって作られているわけではなく、決められた仕事を正確に行うように作られているわけでもない。樹木に似ており、生命のあるものに特有の内部の力にしたがって、あらゆる方向に成長し発展していくべきものなのである。
 人びとがみずからの理解力を使うのが望ましいこと、理性的な判断に基づいて慣習を取り入れ、ときには理性的な判断に基づいて慣習から逸脱する方が、何も考え得ずに慣習に機械的にしたがうより良いことは、おそらく誰でも認めるだろう。各人の理解力が各人のものでなければならないことは、誰でもある程度まで認めている。だが、各人の欲求と衝動もやはり各人のものでなければならず、自分自身の衝動をもっているとき、その衝動がいかに強いものであっても、危険や落とし穴ではまったくないことは、簡単に認めようとはしない。しかし、欲求と衝動も信念や自制心と同様に、完全な人間に欠くことができないものである。そして、強い衝動が危険なのは、適切な均衡が失われているときだけである。つまり、ある意図と好みとが強くなる一方で、それと併存して均衡をとるべき要素が弱く、不活発なときである。人が間違った行動をとるのは、欲求が強いからではない。良心が弱いからである。衝動が強いことと、良心が弱いこととの間には自然な因果関係はない。自然な因果関係はその逆である。ある人の欲求と感情が他人より強く多様だというのは、その人が人間性の素材を豊富にもっているということなのであり、おそらく悪事をはたらく力が強いのだろうが、良いことを行う力もたしかに強いのである。衝動が強いとは、活力があるということの言い換えにすぎない。活力は悪いことに使われるかもしれないが、無気力で無感動な人より活力のある人の方がつねに、良いことを大量に行えるだろう。自然な感情が強い人は、洗練された感情もとくに強くなりうる。個人の衝動が活発で強力なのは感受性が強いからだが、その感受性の強さが源泉となって、美徳を強く求める感情と厳格に自己を律する自制心とが生まれうる。社会が義務を果たし、その利益を守っているのは、こうした感受性を育むことによってであって、英雄を育てる方法が分からないという理由で英雄の素材を排除することによってではない。欲求と衝動が独自のものである人、つまり、鍛錬を積み重ねて育成し修正してきた自分の本性の現れである人は、独自の性格をもった人物だといわれる。欲求と衝動が独自のものではない人は独自の性格をもっておらず、蒸気機関が独自の性格をもたないのと同様である。衝動が独自のものであるうえに、強い衝動を強い意志で制御している人は、活力のある性格をもっている。欲求と衝動の面で個性を伸ばすのを奨励してはならないと考える人は、社会には強い性格をもつ人は不要であり、強い性格をもつ人が多いのは社会にとって不利な条件であって、人びとの活力が平均して高いのは望ましくないと主張していることになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.130-133,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性,欲求,衝動,感情,個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2020年4月17日金曜日

道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法的妥当性と法に対する抵抗

【道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「(vi)法的妥当性と法に対する抵抗 実証主義者に分類される法理論家達が、たとえその一般的な見解を述べるのに不注意であったにせよ、彼らのうちで、いま挙げた5つの見出しの下で論じた法と道徳の関連形態を否定した者は、ほとんどないのである。それでは次のような法実証主義者のさかんな鬨の声は何を目指したのだろうか。「法が存在することと、法の長所あるいは短所とはまったく別問題である。」「国家の法は理想ではなく現に存在する何ものかである、………それはあるべきものではなくあるところのものである。」「法規範はいかなる種類の内容をももちうる。」
 これらの思想家が推し進めようとしたことは、主に、特定の法が道徳的には邪悪であるが、適当な形で制定され、意味も明白で、体系の妥当性に関する承認されたあらゆる標準を満たしながら存在しているため、そこから生じる理論的道徳的問題を明確にまた正直に系統立ててのべることであった。彼らの見解によれば、そのような法を考えるさいに、理論家や、その法を適用したりそれに従ったりするように求められた不幸な公機関や市民は、その法に対して「法」あるいは「有効な」という資格を拒否せよと言われれば、混乱するほかはないのである。彼らはこう考えた。これらの問題に取り組むためには、より単純でもっと率直な手段の方が役に立ち、またその方が、関連するあらゆる知的、道徳的な考慮に、はるかによく焦点をあわせることになろう。すなわちわれわれとしては、「これは法である。しかしそれはあまりにも邪悪であるので適用あるいは服従できない。」と言いたいところである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.225-226,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法的妥当性,法に対する抵抗,道徳的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法としての適正と正義の原則

【司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(f)追加。

 (1.3)基準は、どのようなものか
  (a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
  (c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
   半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
   (ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
  (d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
  (e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
   (i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
   (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
   (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
  (f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。

 「(v)法としての適正と正義の原則 周知され裁判で適用される一般的なルールによって人の行為がコントロールされるときにはいつでも、最小限の正義はかならず実現されているという根拠から、道徳と正義にある点において一致するよい法体系と、そうでない法体系とを区別することは誤っていると言えるであろう。すでに正義の観念を分析するさいにまさに指摘したように、そのもっとも単純な形態(法の適用における正義)は、偏見や利害や気まぐれによって左右されない同じ一般的なルールが、多くの異なる人々に適用されなければならないという考えを、まじめに採用することにほかならない。この不偏性こそイギリスやアメリカの法律家達の間で「自然的正義」の原則として知られている手続的基準が確保しようとしているものなのである。こうして、もっとも不愉快な法が正しく適用されることになるかもしれないが、その場合でもわれわれは、一般的な法のルールの適用というただそれだけの観念のなかに、正義の少なくとも萌芽を見るのである。
 「自然的」と呼んでもよいような、この最小限の正義の形態の側面を明らかにしようとするならば、それは、法のルールのみならずゲームのルールのような何らかの社会統制の方法に事実上含まれているものを研究すればよい。社会統制の方法は別段の公機関の指令がなくてもルールを理解しルールに一致するはずの部類の人々に伝えられた、一般的な行為の基準から主として成りたっている。この種の社会統制が機能するためには、そのルールは一定の条件を満たさなければならない。すなわちそれらは理解できるものであり、たいていの人が服従できる範囲内のものでなければならない。また例外もあるが、それらは一般的には遡及してはならない。つまり、たまたまルール違反のために罰せられる人々も、たいていは服従する能力と機会をもつのだろうということになる。ルールによる統制のさいのこれらの特徴は明らかに、法律家が法としての適正の原則と呼ぶ正義の要請と密接に関連している。実証主義に対するある批判者は、まさにルールによる統制のこれらの側面のなかに、法と道徳の必然的な結びつきを示す何ものかを見て、その側面を「法に内在する道徳」と呼ぶよう提案したのである。またもしこれが、法と道徳には必然的な結びつきがあるということの意味であるならば、われわれはそれを受けいれてもいいだろうが、不幸にもそれは極度の邪悪と両立しうるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.224-225,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法としての適正,正義の原則,道徳的基準,不偏性,公正な手続的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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