2020年4月18日土曜日

社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

個人の個性と社会の3つの類型
(a)人々を訓練し管理する社会の能力が不足している状態
 社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が、情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちが安全に生活できないような社会。社会の初期の段階は、このような社会であった。
(b)人々を訓練し管理する社会の能力が過剰な状態
 人々は、自分の好みは何なのかとは考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人は普通、どうしているのかとしか考えない。大勢に順応し、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけない。
(c)好ましい状態
 自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかと考える。
 参考:各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「社会のもっと初期の段階には、こうした活気が強すぎて、人びとを訓練し管理する社会の能力を超えていた可能性があるし、ある部分ではたしかに超えていた。自発性と個性が強すぎて、社会の原理によってそれを抑えるのに苦労した時代があった。その当時に困難だったのは、体力や知力が強い人を誘導して、その衝動を管理するのに必要な規則にしたがわせることであった。この困難を克服するために、皇帝と争っていたローマ法王が教会についてそう主張していたように、法律と規律には全人格に対する支配権があると主張され、性格を管理するには生活のすべての面を管理する必要があると主張された。それ以外には、社会が人びとの衝動を抑える十分な手段をみつけだせなかったのである。しかしいまでは、社会は個性をほぼ抑えつけられるようになっている。そして、人間性を脅かしているのは、個人の衝動と好みの過剰ではなく、不足になった。状況が様変わりしているのだ。以前には、社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちがわずかでも安全に生活できるようにするには、こうした人の情熱を厳しく管理する必要があった。いまでは、社会の最上層から最下層まで、すべての人が敵意をもった恐ろしい監視のもとに暮らしている。他人に関係する点だけでなく、自分自身にしか関係しない点でも、個人や家族は、自分の好みは何なのかとは考えない。自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかとも考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人はふつう、どうしているのか、そしてもっと悪い見方だが、自分より地位が高く、収入も多い人はふつう、どうしているのかである。各人が自分の好みに合うものより、世の中の慣習になっているものを選ぶといいたいわけではない。そうではなくて、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけなくなっているのである。精神まで、抑圧の軛に屈服している。娯楽のときですら、真っ先に考えるのは世の中に合わせることである。いつも大勢に順応していたいのだ。何かを選ぶときでも、ふつうに行われていることのなかからしか選ばない。人とは違う趣味や、変わった行動は犯罪と変わらないほど避けようとし、いつも自分の本性にしたがわないようにしているので、やがて、したがうべき本性をもたなくなる。人間としての能力は委縮し、衰えていく。強い望みや自然な喜びはもてなくなり、たいていは自前の意見や感情、まさに自分のものだという意見や感情をもたなくなる。これが人間性の望ましい状態なのだろうか。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.133-135,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2