2020年5月1日金曜日

恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))

合理的討論の原則

【恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理的討論の原則は、認識論的な原則であると同時に、本来、倫理的な原則でもある。
(1)可謬性の原則
 私は、あなたから学ぼうとしている。私が間違っていて、恐らくあなたが正しいのであろう。しかし、私たちの両方がともに間違っているのかもしれない。
(2)合理的討論の原則
 私たちは、批判可能な特定の問題を論じているのであって、相手の人格を攻撃しようとしているのではない。問題を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲している。
(3)真理への接近の原則
 私たちは何故、討論するのか。真理に接近するためである。だから仮に、合意に達することができないときでも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶことができるに違いない。
 「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI,pp.316,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:可謬性の原則,合理的討論の原則,真理への接近の原則)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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学ぶ必要がある。2008年の経済危機時、問題の原因となった銀行を膨大な税金で救済、労働者は失業、銀行の責任は問われず規制も曖昧となった。その後、新自由主義は正当化・強化され、世界中で貧富の格差が拡大した。(岸本聡子(1974-))

世界経済危機時の教訓

【学ぶ必要がある。2008年の経済危機時、問題の原因となった銀行を膨大な税金で救済、労働者は失業、銀行の責任は問われず規制も曖昧となった。その後、新自由主義は正当化・強化され、世界中で貧富の格差が拡大した。(岸本聡子(1974-))】
 「2008年、問題を起こした張本人である銀行だけを「大きすぎてつぶせない」と膨大な税金を使って救済し、多くの労働者を失業に追い込んだリーマン・ショック。銀行の責任も問わず、公的管理も及ばないばかりか、その後の国際金融取引の規制にもつながらなかった。当時、左派知識人や社会運動の反応は鈍く、連帯して明確な要求を政府に圧力をかけられなかった反省は深い。さらに新自由主義が正当化・強化され、文字通り「失われた10年」の間に世界中で貧富の格差は危険なまでに拡大したのだ。その時と今は随分様相が違っているように思える。社会運動も各国もかつての世界経済危機から学んでいる。」
第9回:コロナ危機下で人々の暮らしをどう守るのか(岸本聡子)岸本聡子マガジン9
(索引:リーマン・ショック,世界経済危機,新自由主義,貧富の格差)

(出典:トランスナショナル研究所
Satoko-Kishimoto(1974-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「私は国家の役割について考えている。ニナが福祉国家の恩恵を受けて最後まで尊厳をもって過ごせたように、国家というのは一人の尊厳を守ることのできる力をもつ。それと同時に、今回の難民危機に見るように多くの人の命を奪うことができる力ももっている。
 国家は、私たちが目指す変化をもたらす主体なのか、変化を阻む張本人なのか。国家を民主化することは可能なのか、それとも真の民主主義は草の根にしかありえないのか。自治体の潜在力のみに戦略を集中するべきか、国家の変革を優先すべきか――これらはおそらく100年以上の間、左派の間で議論されてきた終わりのないテーマだ。今日的には、ミュニシパリズム、つまり国家よりも地域に根付いた自治体での民主主義を拡大し深めていくことに集中すべきなのか、ラディカルな地方政治の実現だけで満足していいのか、という問いになる。」(中略)「格差と生活苦に対する抵抗運動が起きているチリから、若き研究者であり活動家のアレキサンダーが登壇。「国家とともに(with)、国家に対抗して(against)、国家を超える(beyond)」戦略を見つけなくてはいけないと語っていた。(中略)「自治体が国家を待たずに、市民の命と尊厳を守るための行動を起こし、それによって国家に圧力をかけていく。そんな戦略も大ありだと、私は信じている。」
第8回:コロナ騒動のなか、あえて難民危機と国家について考える(岸本聡子)岸本聡子マガジン9
(索引:)

岸本聡子(1974-)
岸本聡子マガジン9
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マラリアは、予防も治療もできる病気にもかかわらず、毎年2億人以上が感染し、40万人以上が亡くなっている。なぜか。この問題を掘り下げていくと、国際社会の不正義と経済格差の問題が浮かび上がってくる。(岸本聡子(1974-))

感染症の問題と国際社会の不正義

【マラリアは、予防も治療もできる病気にもかかわらず、毎年2億人以上が感染し、40万人以上が亡くなっている。なぜか。この問題を掘り下げていくと、国際社会の不正義と経済格差の問題が浮かび上がってくる。(岸本聡子(1974-))】
 「コロナが、これだけ国際的な政治課題になっているのは、先進国、とくに富裕層も含めて影響を受けているからでしょう。感染症でいえば、いまでも毎年、2億人以上がマラリアに感染して、40万人以上が亡くなっています。予防も治療もできる病気にもかかわらず、です。こうした状況を国際政治が無視し続けてきたのは、貧しい国や地域に限定された病気だからです。感染症の問題を掘り下げていくと、国際社会の不正義と経済格差の問題が浮かび上がってきます。」
番外編(上):【オンラインで聞きました】公共サービスを守り、不安定雇用をなくす:コロナ危機後に必要な変化(岸本聡子)岸本聡子マガジン9
(索引:感染症,マラリア,国際社会の不正義,経済格差)

資本の移動性が高まったことによって、ローカルな政府は、資本を呼び込むために規制緩和し、資本の選好、慣例、期待に応える。低い税金、柔軟な労働市場、そして組織的抵抗を行わない従順な国民。(ジグムント・バウマン(1925-2017))

政府対資本の構造

【資本の移動性が高まったことによって、ローカルな政府は、資本を呼び込むために規制緩和し、資本の選好、慣例、期待に応える。低い税金、柔軟な労働市場、そして組織的抵抗を行わない従順な国民。(ジグムント・バウマン(1925-2017))】

(1)資本
 (a)資本の空間的移動性
  資本は、過去に例がないほど、領土を超え、軽やかで、解放され、埋め込みから脱している。
 (b)ローカルな政府を服従させ得る水準
  ローカルな政府の「はた迷惑な権力」も、依然として資本が有する移動の自由に対する悩ましい拘束を行うことがある。しかし、空間的移動の水準は、領土に結びついた政治的機関を脅かして自らの要求に服従させるには十分なものとなった。
(2)ローカルな政府
 (a)資本を呼び込むため
  どこか別の場所へ移動するという脅しは、それに応えてきちんとした政府なら行動を起こさざるを得ないがゆえに、きわめて真剣な対応を要求することになる。そしてそのためには、「自由な企業のためによりよい環境を整備する」か、そう試みる可能性があることを伝えるしかない。
 (b)資本の自由を制限しない
  また政府が、行使できるすべての規制力を用いて、こうした規制力が資本の自由を制限するために使用されることがないことをはっきりとさせる必要もある。
 (c)資本の選好、慣例、期待に応える
  さらに政府が政治的に管理している領域が、グローバルに思考しグローバルに行動する資本がもつ、選好、慣例、期待に対して手厚くもてなすことができない、あるいはすぐ隣国で管理されている土地よりも手薄なもてなししかできないという印象を与えてはならない。
 (d)低い税金、規制緩和、柔軟な労働市場、組織的抵抗を行わない従順な国民
  現実において、それは低い税金、規制がほとんどないか全くない状態、そしてなかんずく「柔軟の労働市場」を意味している。もっと一般的にいえば、それは従順な国民、資本が下すいかなる決断に対しても組織的抵抗をおこなうことをせず、その意志もない人々のことである。

「もちろん、この独立は完全なものではないし、資本は自らが望み、努力の末に達成すべき高い可動性をまだ手に入れているわけではない。領土的――つまりローカルな要因は、たいていの予測においていまだに考慮されなければならないし、ローカルな政府の「はた迷惑な権力」も、依然として資本が有する移動の自由に対する悩ましい拘束をおこなうことがある。しかし資本は、過去に例がないほど、領土を超え、軽やかで、解放され、埋め込みから脱しているのであり、すでに成し遂げられた空間的移動の水準は、領土に結びついた政治的機関を脅かして自らの要求に服従させるには十分なものとなったのである。ローカルな絆を断ち切り、どこか別の場所へ移動するという(単なる思いつきによる、はっきりとは口に出されないものであっても)脅しは、それに応えてきちんとした政府なら行動を起こさざるをえないがゆえに、きわめて真剣な対応を要求することになる。今日の政治は、資本が移動可能な速度とローカルな権力がそれを「減速する」能力との間の綱引きになっているのだが、勝ち目のない戦いをしていると感じているのはローカルな諸機関の方なのである。地域住民の幸福のために奉仕する政府としては、資本に参入してもらい、それが実現したおりにはホテルの部屋を貸し出すだけではなく、高層ビルのオフィス群を建ててもらいたいと強要ではなく懇願して言いくるめることぐらいしかできない。そしてそのためには、「自由な企業のためによりよい環境を整備する」か、そう試みる可能性があることを伝えるしかない。すなわち、政治ゲームを「自由な企業の規則」に合わせる必要があるのだ。また政府が、行使できるすべての規制力を用いて、こうした規制力が資本の自由を制限するために使用されることがないことをはっきりとさせる必要もある。さらに政府が政治的に管理している領域が、グローバルに思考しグローバルに行動する資本がもつ、選好、慣例、期待に対して手厚くもてなすことができない、あるいはすぐ隣国で管理されている土地よりも手薄なもてなししかできないという印象を与えてはならない。現実において、それは低い税金、規制がほとんどないか全くない状態、そしてなかんずく「柔軟の労働市場」を意味している。もっと一般的にいえば、それは従順な国民、資本が下すいかなる決断に対しても組織的抵抗をおこなうことをせず、その意志もない人々のことである。逆説的ではあるが、政府は資本が自分たちの場所から、いつでも予告なしに移動し去る自由をはっきりと確約することによってだけ、自らの地域に資本を確保できると望めるのである。」
(ジグムント・バウマン(1925-2017)『個人化社会』第1章 労働の隆盛と衰退、pp.40-41、青弓社 (2008)、菅野博史(訳))
(索引:資本の移動性,規制緩和,柔軟な労働市場,従順な国民)

個人化社会 (ソシオロジー選書)


(出典:wikipedia
ジグムント・バウマン(1925-2017)の命題集(Propositions of great philosophers) 「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
 第一に、自由と安定性(セキュリティ)のあいだの許容しうるバランスをうまく作り出すことへの希望と可能性である。これら二つの、両立できるかどうか自明ではないとはいえ、等しくきわめて重要な人間社会の必須の(sine qua non)条件が、再考の努力の中心に置かれる必要がある。そして第二に、至急救い出される必要がある、過去に存在した数々の希望のなかでも、カント自身の「瓶に詰められたメッセージ」として保持されてきたもの、つまりカントの『世界市民的見地における一般史の構想』は、メタ希望としての地位を正当にも主張しうるものだということである。つまりそれは、希望するという果敢な振る舞いそのものを可能にすることができる――するであろう、すべきである――ような希望である。自由と安定性のあいだにいかなる新しいバランスを作ることが探究されるとしても、それは、地球規模のスケールで構想される必要がある。」
(ジグムント・バウマン(1925-2017)『液状不安』第6章 不安に抗する思考、pp.256-257、青弓社 (2012)、澤井敦(訳))

ジグムント・バウマン(1925-2017)
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2020年4月30日木曜日

1.人類は、社会性と集団構造という選択圧により、感情能力に依存する仕組みを獲得した。(a)感情エネルギーの動員と経路づけ,(b)対面反応の調整,(c)裁可,(d)道徳的記号化,(e)資源評価と資源交換,(f)合理的意思決定(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

進化における社会性の獲得

【人類は、社会性と集団構造という選択圧により、感情能力に依存する仕組みを獲得した。(a)感情エネルギーの動員と経路づけ,(b)対面反応の調整,(c)裁可,(d)道徳的記号化,(e)資源評価と資源交換,(f)合理的意思決定(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

 (1)社会性と集団が無ければ生存できなかった
  アフリカ・サヴァンナでの類人猿の生存にとっての大きな障害が、社会性と凝集的な集団構造の不足であったと仮定すれば、選択力は社会性と結合を増進するためにヒト科の脳の再組織化の方向に向ったにちがいない。
 (2)感情能力が強化されることで社会性が獲得された
  選択が進むべきもっとも直接的な方向は、社会結合を徐々に増やし、そして社会構造を維持することを彼らに可能にさせるような方法で、ヒト科の感情能力を強化させることであった。
 (3)社会性を強化する感情能力に依存する6つの仕組み
  先天的に社会性が低い動物を、より社会的で凝集的に組織される種に変えるために、必要となったものである。それらすべてが、ヒト科の感情能力の綿密な仕上げに依存している。
  (a)感情エネルギーの動員と経路づけ
  (b)対面反応の調整
  (c)裁可
  (d)道徳的記号化
  (e)資源評価と資源交換
  (f)合理的意思決定

 「アフリカ・サヴァンナでの類人猿の生存にとっての大きな障害が、社会性と凝集的な集団構造の不足であったと仮定すれば、選択力は社会性と結合を増進するためにヒト科の脳の再組織化の方向に向ったにちがいない(Maryanski and Turner 1992:pp.65-7)。

先に強調したように、選択が進むべきもっとも直接的な方向は、社会結合を徐々に増やし、そして社会構造を維持することを――人間子孫が今維持しているように――彼らに可能にさせるような方法で、ヒト科の感情能力を強化させることであった。

きわめて現実的な意味で、選択はある動物を強固に編成された構造に組織替えするという社会学的要請による制約を受けた。こうした社会学的要請が、ヒト科に働いたもっとも直接的な選択圧とみなすことができる。

それでは次に、

ヒト科の進化におけるこれら六つの経路こそが、先天的に社会性が低い動物を、より社会的で凝集的に組織される種に変えるために必要となったものである。それらすべてがヒト科の感情能力の綿密な仕上げに依存している。」 

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.61-62、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:社会性,集団構造,選択圧,感情能力)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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10.実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

真実の現在

【実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「現在、といってもそれは、たんに思惟のうちでそのときどきに措定される《これまでに経過した》時間の末端を、つまり、見せかけのうえでだけ固定された時の経過を表示するひとつの《点》のようなものではない。

真実の、そして充実した現在は、現前しているものが、出会いが、関係が存在するかぎりにおいてのみ存在するのだ。《汝》が現前するという、そのことによってのみ現在は生ずるのである。

 根元語・《我-それ》における《我》、すなわちひとつの《汝》に対して生身の存在として向いあってはいない《我》、多様な内容(Inhalten)によって取りかこまれている《我》には過去があるだけで、現在はない。
言いかえれば、人間は自分が経験し利用している事物にのみ満足しているかぎりは、過去のうちに生きているのであって、彼の瞬間は現在なき瞬間なのだ。

彼は対象物以外の何ものをも有していない。対象物なるものはしかし、既往(Gewesensein)のうちに存在しているのだ。

 現在とは、一時的なもの、滑り去ってゆくものではなく、《現前的に待っているもの》にして《現前的に存続しているもの》である。

対象物とはしかし、持続ではなく、静止であり、停止(Innehalten)であり、中断、硬直、分立であり、関係の欠如、現在の欠如である。

 実在的なるもの(Wesenheiten)は現在のうちで生きられるが、対象的なるもの(Gegenständlichkeiten)は過去のうちで生きられるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.19-20、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:真実の現在,現前,出会い,関係)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2020年4月29日水曜日

私が私の身体と不可分であり、それを意のままに使えるという事実と、その身体を排他的に占有し自由に処分してもよいという規範とは、全く次元の違う主張である。近代社会特有のこの規範の根拠が、いま問題である。(立岩真也(1960-))

自分の身体を所有するということ

【私が私の身体と不可分であり、それを意のままに使えるという事実と、その身体を排他的に占有し自由に処分してもよいという規範とは、全く次元の違う主張である。近代社会特有のこの規範の根拠が、いま問題である。(立岩真也(1960-))】
「「人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛…である。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。彼自身の幸福は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、十分な正当化となるものではない…自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。」(Mill[1855=1967:224-225])

 自己決定の自由を主張してミル(John Stewart Mill 1806~1973)は右のように言う。なるほどこれは私達に受け入れられやすい主張である。言われていることを否定しようとは思わない。しかし、彼の行為はなぜ彼にだけ委ねられるのか。「他人に対する危害」を加えない範囲で自由だと言うが、ある行為、あるいはその結果が他の者に与えられな▽068 いこと自体はその者に危害を加えていないと言いうるのか。また、私の身体が私のものであることは自明のことのように思うかもしれない。だがその身体が私のもとにあること、私がその身体のもとにあること、また意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のままに動かしてよい、処分してもよいという規則・規範とは、全く次元の異なったところにある。
 基本的なところから考えてみよう。財xを使用する、行う、消費する。結果として産出された財の配分や利用のことだけを言っているのではない。この財の中には各自の身体や行為、その他全てのものが含まれる。問題はそれを誰が行うことができるかである。世界の財を割り振るとして、それをどのように行うのか。(図2・1~2・3)
 こうした配分にかかわる規則が(少なくとも部分的には)不在の状態を考えることができないわけではない。各人が何を受け取るかについて関心がなく、利害の衝突がないといった状態である。この場合には規範を設定しておく必要は必ずしもない。しかし、このような状態を想定することができないならどうか。xが誰のものであるか決まって▽069 いないと、AとBの間に争いが起きるかもしれず、その争いには収拾がつかないかもしれない。それでは困る、あるいはそれではいけないとする。そこで、財・行為の所有・処分に対する権限の割り当ての規則を設定する。その規則は――その内容はともかく、規則自体は――かなり普遍的に、どの社会にもあると考えてよいだろう。規則は論理の上ではいくらでも考えられる。例えば、誰か一人が独占的に全てを所有するという形をとることも可能だし、一人一人に同じだけ割り振ってもよい。また現実にも、その規則の内容は様々に異なる。ここで問題にするのは、その近代的な規範、そしてそれを導き出す論理である。近代社会には近代社会特有の割り当ての規範がある。この配分の原理はどのようなものか、それがどのように根拠づけられているのかが問題である。次項でまず近代的所有権の特徴とされるものがそれに十分答えるものでないことを確認した後、その規則を与えるものが何なのかを見る。」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,1 所有という問題,[1]自己決定の手前にある問題,<Kyoto Books生存学
(索引:)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)
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所有にかかわる問題群:(a)そもそも所有とは何か、権利なのか、(b)所有の主体、対象、根拠、目的、(c)所有に内在する義務とは何か、あるべき所有とは等々。(井上達夫(1954-))

所有にかかわる問題群

【所有にかかわる問題群:(a)そもそも所有とは何か、権利なのか、(b)所有の主体、対象、根拠、目的、(c)所有に内在する義務とは何か、あるべき所有とは等々。(井上達夫(1954-))】

所有にかかわる問題群
(1)所有とはそもそも何か。
 (a)所有の概念を、所有権という権利としてのみ構成することは妥当か。
 (b)功利主義的発想と個人権理論的発想、あるいは、帰結主義的発想と義務論的発想は、所有の概念規定と正当化において、どのように関係するのか。
(2)いかなる主体が何を、何ゆえに、何のために、所有できるのか。
 (a)所有の主体になり得るものは何か。
 (b)何を所有し得るのか。
 (c)何によってそれは正当化されるのか。
 (d)何のために所有できるのか。
(3)所有することによって、誰に対して何ができ、何を拒否できるのか。
 (a)「所有は義務づける」と言うとき、この「義務付け」が単なる外在的制約ではないとすれば、それは所有の意味および正当化根拠と、どのように関係しているのか。
 (b)自由と責任を調和させる所有システムは、どのようなものか。
 (c)私的所有者の自由な交換としての市場システムが、自己の倫理的基礎の破壊を帰結しないための条件は何か。

(出典:週刊読書人ウェブ
井上達夫(1954-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「これは、誰が何をしてよいのか、受け取ってよいのか、何をしてはならないのか、受け取ってはならないのか、ということである。こうしてこの問いは規範の総体に関わることになる。全てを問題にすることに等しい。ただ、全てをこの本の中で扱えるわけではない。中心となる論点があり、それを本章に記した。井上達夫は一九九一年度の日本法哲学会の統一テーマ「現代所有論」に関して次のように述べる。
 「所有とはそもそも何か。何によってそれは正当化されるのか。いかなる主体…が何を、何ゆえに、何のために、所有できるのか。所有することによって、誰に対して何ができ、何を拒否できるのか。/所有の概念を、所有権という権利としてのみ構成することは妥当か。「所有は義務づける(Eigentum verpflichtet)」と言うとき、この「義務付け」が単なる外在的制約ではないとすれば、それは所有の意味および正当化根拠と、どのように関係しているのか。また、功利主義的発想と個人権理論的発想、あるいは、帰結主義的発想と義務論的発想は、所有の概念規定と正当化において、どのように関係するのか。/自由と責任を調和させる所有システムは、どのようなものか。私的所有者の自由な交換としての市場システムが、自己の倫理的基礎の破壊を帰結しないための条件は何か。所有システムの再構築による社会主義の救済は可能か、また、いかにしてか。/…/問題のリストは無限に続く。提示した問題群は例示的列挙である。」(井上[1992:3-4])」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第1章 私的所有という主題,◆01,<Kyoto Books生存学
(索引:)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
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倫理的問題において、第一原理の合意を差し控え、複数の原則が衝突し合う構造を解明しようとする方法は、ある程度の合意形成が可能という利点があるが、問題解決への要求を抑制し、十分な解決を与え得ない。(ディーター・ビルンバッハー(1946-))

生命倫理学における再構成的モデル

【倫理的問題において、第一原理の合意を差し控え、複数の原則が衝突し合う構造を解明しようとする方法は、ある程度の合意形成が可能という利点があるが、問題解決への要求を抑制し、十分な解決を与え得ない。(ディーター・ビルンバッハー(1946-))】

生命倫理学における再構成的モデルの利点と欠点
(1)利点
 (a)規範および規範適用における中程度のレベルでは合意形成が可能になる。
  (i)差し迫った道徳的現実問題の解決が、学術的な理論問題の解決に左右されることがない。根拠づけに関する倫理学的な議論、すなわち第一原則について合意が成立する場合は、はるかに少ない。
  (ii)かといって、純然たる手続き上の解決に委託されてしまうこともない。
 (b)複数の原則間の衝突が明確にわかる。
  (i)原則のカタログの方が、唯一の実質的または手続き上の原理を前提とするような倫理学に比べて、実際の道徳上の紛争における規範構造を、より分かりやすく示すことができる。
  (ii)最も頻繁に見られる規範の衝突は、同一状況に関連のある複数の原則に対して、さまざまに異なった重みづけをすることから生じる衝突である。
(2)欠点
 (a)問題解決への要求を抑制してしまう。
 (b)実践の場で生じるほとんどすべての道徳上の決定問題に、十分な解決を与えない。
 (c)原則の解釈と重みづけが様々に異なることから、最終的な判断を、個々人の判断力に委託してしまう。

 「生命倫理学における再構成的モデルの利点は明白である。第一に、実用的に利点がある。生命倫理学のこのモデルによれば、たとえ基本的な方向性が異なっていても、中程度のレベルでは合意形成が可能になる。中程度の合意が形成されれば、差し迫った道徳的現実問題の解決が、学術的な理論問題の解決に左右されることもなく、純然たる手続き上の解決に委託されてしまうこともない。生命倫理学で議論される問題の多くは、究極の根本問題について哲学者の意見が一致するまで待ってはくれない。「中間原則(axiomata media)」に比べれば、第一原則について合意が成立する場合の方がはるかに少ないのだから、まずは、生命倫理学における規範および規範適用に関する議論を、根拠づけに関する倫理学的な議論から切り離し、道徳的合意の根本的根拠づけに対する要求を抑制する方が望ましいのである。
 再構成的生命倫理学の第二の利点は、ビーチャムとチルドレスの例に見るような原則のカタログの方が、唯一の実質的または手続き上の原理を前提とするような倫理学に比べて、実際の道徳上の紛争における規範構造をより分かりやすく示すことができるという点にある。4つの「原則」を基準として根底に置くことからしてすでに、最も頻繁に見られる規範の衝突が、同一状況に関連のある複数の原則に対して、さまざまに異なった重みづけをすることから生じる衝突であることを示している。というのも、これらの原則が、どれ一つとして単純で妥当しえないことは、明白だからである。たとえば、無危害原則が倫理学で中心的位置を占めるとしても、場合によっては、たとえば、さらに大きな危害を避けるためには、危害を加えることも許されねばならない。また、本質的に大きな利害を可能にするためであれば、比較的に深刻度の低い危害およびリスクを加えることが許されるのも議論の余地のないところである。たとえば、命を救う可能性のある医療手段を試験するために、リスクの少ない動物実験および人体実験を行う場合、あるいは、比較的に「侵襲度が高く」、リスクが大きいものの、同時にチャンスも大きな治療法を選択する場合である。自律の原則もまた無制限に妥当するわけではない。自律尊重が、無危害原則ならびに善行の原則によって制限されることは、一般に認められており、その際には、またもや、患者の福祉を思って患者の意志に反して行われるパターナリスティックな介入がどの程度まで正当化できるかが議論の的となる。善行の原則もまた、とりわけ自律および正義の原則の側から制限が加えられる。たとえば、患者の自発的なインフォームド・コンセントによる、治療の差し控え、または治療中止の決断は、たとえその決断がほぼ確実に、患者の最善の利益に反するとしても、尊重されるべきであるという考えは、広く認められているのである。
 以上のような利点がある一方では、実践面でも理論面でも数多くの欠点が存在する。再構成的モデルの実践面での本質的な欠点は、このモデルが問題解決への要求を抑制してしまったため、実践の場で生じるほとんどすべての道徳上の決定問題に十分な解決を与えないまま、原則を拠りどころとしない個々人の判断力に委託してしまうところにある。そのために、実践の場では、再構成的なアプローチによって生まれた合意形成への期待は、中でも原則の解釈および重みづけがさまざまに異なることから、すぐに偽りの期待であることが分かってしまうのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,3 再構成的モデルの利点と欠点,pp.43-44,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:生命倫理学,再構成的モデル,第一原理,倫理的原則)

生命倫理学: 自然と利害関心の間 (叢書・ウニベルシタス)


(出典:dieter-birnbacher.de
ディーター・ビルンバッハー(1946-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。」(中略)
 「そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-51,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:)

ディーター・ビルンバッハー(1946-)
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2020年4月27日月曜日

11.公共政策をめぐる戦いの例。(a)国家による介入は悪なのか、是正や公共財への投資は正義なのか、(b)貧困は自己責任なのか、再分配は正義なのか、(c)依存や福祉は悪なのか、人間の本質なのか、など。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

公共政策をめぐる戦い

【公共政策をめぐる戦いの例。(a)国家による介入は悪なのか、是正や公共財への投資は正義なのか、(b)貧困は自己責任なのか、再分配は正義なのか、(c)依存や福祉は悪なのか、人間の本質なのか、など。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

参考: 公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))


(1)市場と国家の役割
 (a1)国家による介入は悪である
  国家が、市場の働きを妨げる。国家は、市場に介入すべきではない。あらゆる価値の源泉は諸個人であり、個人が私的にお金を使うことは、政府が託されたお金を使う場合よりも絶対に良い。
 (a2)自由に儲けさせろ
  実のところ、自らの収益源であるレントシーキングが、国家によって禁止されるのは困る。国家が、自らのためにお金を使ってくれるのは、大歓迎である。
 (b)国家による是正、公共財への投資が必要
  自由な市場は、失敗する。経済機会と流動性を拡大するためには、国家による介入が必要である。国家は、インフラや技術や教育などの公共財へ投資することで、諸個人が開花するための環境を準備する。
(2)貧困の原因
 (a)貧困の自己責任論
  貧困は、自ら招いた結果であり、本人の責任である。
 (b)再分配は正義である
  貧困は、生まれ落ちた境遇、教育、偶然的な運・不運に左右されるものであり、国家による介入、再分配の実施が公平な社会をつくり出すのに必要である。
(3)福祉の性質
 (a)依存や福祉は悪である
  福祉は、他人に依存する人間を作り出す。“福祉に頼る怠け者”“福祉の女王”キャンペーン。
 (b)依存や福祉は人間の本質である
  そもそも依存性は、人間の本質の一つである。幼少期、老年期、傷病や障害を負ったとき、社会に依存して生き、開花することは人間の本質の一つである。
(4)法外な報酬の是非
 (a)法外な報酬は貢献による
  最上層の人々が法外な報酬を受けとるのは、社会に対して非常に大きな貢献をしたからである。
 (b.1)法外な報酬は単なる運
  法外な報酬は、社会的貢献や勤勉の結果ではなく、単なる幸運によるものである。
 (b.2)法外な報酬は悪行の結果
  むしろ、市場を独占して消費者を搾取したり、本来は違法とすべき活動によって貧しい無学の借り手を搾取したりする能力から生じたものである。
(5)格差の是非
 (a)トリクルダウン経済
  全ての人々が平等に貧しいよりも、大きな不平等が存在したとしても社会全体が豊かになれば、結果として全員が豊かになれる。大きな不平等は悪いものではない。
 (b)不平等が生産性を低下させ、民主主義を蝕む
  大きな不平等は、社会を不安定なものにし、生産性を低下させ、民主主義を蝕む。

 「もし底辺の人々の問題がみずから招いた結果であるのなら、そして、(1980年代や1990年代の“福祉に頼る怠け者”キャンペーンや“福祉の女王”キャンペーンが示唆していたように)生活保護を受けている人々がほんとうに他人に寄りかかって贅沢な生活をしてきたのなら、そういう人々を援助しなくても良心の呵責はほとんど感じない。

もし最上層の人々が社会に非常に大きな貢献をしたという理由で高給を受け取るのなら、そういう人々の報酬は、特にその貢献がたんなる幸運によるものではなく勤勉の成果であったとすれば、正当化されるように思われる。

ほかにも、不平等を減らすと大きなツケがまわってくるだろうとほのめかす考えかたもある。

さらに、大きな不平等はそれほど悪いものではない、なぜならそういう大きな不平等のない世界で生きるよりも全員が豊かに暮らせるのだから、とほのめかす考えかたもある(トリクルダウン経済)。

 しかし、この戦いの反対陣営は、対照的な信念を持つ。

平等の価値を心から信じ、これまでの章で示してきたように、現在のアメリカにおける大きな不平等が社会をさらに不安定なものにし、生産性を低下させ、民主主義をむしばんでいると分析する。

さらに、その不平等の大半は社会的貢献とは無関係に生じており、むしろ市場の力を使いこなす能力――市場を独占することで消費者を搾取したり、本来は違法とすべき活動によって貧しい無学の借り手を搾取したりする能力――から生じていると分析する。

 知的な戦いは、キャピタルゲインに対する税金を引き上げるべきかどうかなどの、特定の政策をめぐって繰り広げられることが多い。

しかし、そういう論争の背後で、認識をめぐって、そして市場や国家や市民社会の役割のような重要な思想をめぐって、前述のような重要な戦いが繰り広げられているのだ。

これはたんなる哲学的議論ではなく、そういうさまざまな機構の有用性についての認識を形成しようとする戦いなのだ。

 すばらしい収益源であるレントシーキングを国家に禁止されることを望まない人々や、国家が再分配を実施したり、経済機会と流動性を拡大しようとすることを望まない人々は、国家の失敗を全面に打ち出す(意外にも、自分たちが政権を担当していて、問題に気づいていたら正すことができたし、また正すべきであるような場合でも、同じことをする)。

国家が市場の働きを妨げていると力説するのだ。政府の失敗を誇張すると同時に、市場の長所を誇張する。

わたしたちから見て最も重要なのは、そういう人々がやっきになって、以下のような認識を社会全体のものの見かたに組み込もうとする点だろう。それは、個人が私的にお金を使うことは(おそらくギャンブルに使う場合でも)、政府が託されたお金を使う場合よりも絶対にいいという認識だ。

そして、市場の失敗――たとえば企業が環境をひどく汚染してしまう傾向――を政府が正そうとすることは、益よりも害をもたらすという認識だ。

 この重要な戦いは、アメリカにおける不平等の進展を理解するのに欠かせない。過去30年にわたって保守派がこの戦いで勝利を収めてきたことが、政府のありようを決めてしまった。

わたしたちは自由論者が提唱するミニマリスト国家(小さな政府)を築き上げたわけではない。わたしたちが築き上げたのは、活気あふれる経済を生み出すであろう公共財――インフラや技術や教育への投資――を提供できないほど抑制され、公平な社会をつくり出すのに必要な再分配を実施できないほど弱い国家なのだ。

しかし、それでも今の国家は、富裕層にさまざまな恩恵をたっぷり与えることができるほどには大きくて、ゆがんでいる。小さな国家を信奉する金融業界の人々は、2008年に政府が自分たちを救い出すだけの資金を持っていたことを喜んだ。そして、実は、救済措置は何世紀も前から資本主義に組み込まれていたのだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.232-235,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法過程における原理による論証

【司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(5.4)追加。

(5)原理の問題
  裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 (5.1)政策の論証に優先する
  原理により論証される利益は、より効率的な利益配分を追求する政策の論証を無意味にする。すなわち原理により論証される権利は、政治的多数派の利益よりも優先する。
 (5.2)裁判官の地位について
  多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 (5.3)原理により論証される権利は、新たな法の創造ではない
  原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。
 (5.4)原理による論証
  (a)権利のテーゼ
   コモン・ローの基礎をなし、コモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念は、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現である。
  (b)公正の原理
   (i)先例に関する実務を、一般的に正当化する根拠が、公正の原理である。
   (ii)先例を最もよく正当化する一般的な原理の組合せを抽出する。
   (iii)この一般的な原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合する必要がある。
   (iv)この一般的正当化が、特定の難解な事案における判断を導く。

 「判決は政策の論証ではなく原理の論証によって正当化されると考えるべきことが社会において明白に認められていなくても、これが一般的には了解されていることを、ハーキュリーズは前提としなければならない。ハーキュリーズは今や先例からの理由づけを説明するために裁判官が使用する周知の概念、すなわちコモン・ローの基礎をなし、あるいはコモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念が、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現にすぎないことに気づくであろう。彼はこれからはコモン・ロー上の難解な事案の判決においてこの概念を用いることができる。この概念は、ゲームの性格に関するチェス審判員の概念及び立法趣旨に関する彼自身の概念と同様、この種の事案を判決するために必要な一般的判断基準を彼に与えてくれる。この概念は一つの問題――どのような原理の組み合わせが先例を最もよく正当化するかという問題――を提示し、この問題は、先例に関する実務を一般的に正当化する根拠――すなわち公正――とこの一般的正当化が特定の難解な事案において何を要求するかに関する彼自身の判断とを架橋することになる。
 いまやハーキュリーズは、関連する先例の各々にその先例の判決内容を正当化する原理の体系をあてがうことによって、コモン・ローの基礎をなす諸原理に関する彼の概念を発展させなければならない。彼は次に、この概念と彼が制定法の解釈で用いた立法趣旨の概念との間にみられる更に重要な差異に気づくであろう。ハーキュリーズは、制定法の場合には、問題になっている特定の制定法の立法趣旨に関して何らかの理論を選択する必要があり、その場合、当該制定法にほぼ同様によく適合する複数の理論の間での選別を容易にするかぎりにおいてのみ、立法府の他の法令にも目を向ける必要があると考えた。しかし先例の牽引力が、公正は権利の一貫した強制を要請するという考えに基づくとすれば、ハーキュリーズはある訴訟当事者が彼に注意を喚起するような特定の先例だけではなく、彼の一般的法域に属する他のあらゆる判決にも一致し、更には制定法――ただし、制定法が政策ではなく原理によって生じたと考えられるべきかぎりにおいて――とも適合する諸原理を発見しなければならない。ハーキュリーズが既に確立されたものとして援用する原理自体が、彼の裁判所が同様に支持しようとする他の判決と矛盾しているのであれば、自己の判決が既に確立された原理に一致し、それ故公正であることを示すべき彼の義務は、果たされていないことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.144-145,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:司法過程,原理による論証,先例,公正の原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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他者への依存の事実の誠実な承認を前提とする受け取ることに関する諸徳は、互いに敬意をもって認め合う共同体の基礎でもある。自足の幻想を抱き、受けることを恥じ、施すことを誇る精神は、この正反対である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

受け取ることに関する諸徳

【他者への依存の事実の誠実な承認を前提とする受け取ることに関する諸徳は、互いに敬意をもって認め合う共同体の基礎でもある。自足の幻想を抱き、受けることを恥じ、施すことを誇る精神は、この正反対である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(2.2)(2.3)追加

(2)徳とは何か
 徳とは、私たちが自立した実践的推論者になることを可能にしてくれるものである。
 (2.1)自立の諸徳――与えることに関する諸徳
  (a)気前のよさと正義という二つの側面を同時に備えている。
  (b)「気前のよさ」ではない。人は正しくなくても、気前が良い場合がある。
  (c)「正義」だけではない。人は気前が良くなくとも、正しかったりすることがある。
 (2.2)依存の諸徳――受け取ることに関する諸徳
  (a)依存の誠実な承認
   自分が他者たちに依存しているという事実を、誠実に受けとめる。
  (b)依存が、重荷であるとは思わせないように感謝をあらわす。
  (c)仮に不作法な与え手に対しても、礼節を保つ。
  (d)仮に至らない与え手に対しても、忍耐をもって対する。
  (e)他者からの敬意を受け取ること
   苦境や窮乏に陥ったとき、すぐに必要なものは食物、衣服、住居である。しかし次に必要なのは、自らを力づけてくれる他者からの敬意と自尊心の双方をもたらしてくれるコミュニティ内の諸関係のネットワークの中に、ある公認の地位を与えられることである。ところが、受け取ることに関する諸徳を持たない者は、これを受け取ることができない。
 (2.3)依存の諸徳とは正反対のメガロプシュコス
  (a)自足の幻想
   自分は他者に依存することなしにやっていける、という誤った思い込みを持つ。特に富裕で権勢を誇る者たちによって抱かれてきた幻想である。
  (b)恩恵を受けることに対する考え
   他者から恩恵を受けることは、劣っていると考え、恥に思う。その結果、他者への依存を忘れてしまう。他者が自分に与えてくれた恩恵を思い出すことを嫌がる。
  (c)恩恵を施すことに対する考え
   恩恵を施すのは、優れていることだと考え、他者に与えたものについてはよく覚えている。

 「これら〈与えること〉の諸徳に加えて、〈受けとること〉の諸徳もなければならないことに注意しよう。たとえば、それが重荷であるとは思わせないように感謝をあらわす術や、不作法な与え手に対して礼節を保つ術や、いたらない与え手に対して忍耐をもって対する術を知るという徳である。これらの諸徳を発揮する場合、そこにはつねに、依存の誠実な承認〔自分が他者たちに依存しているという事実を誠実に受けとめること〕が含まれている。そうである以上、これらの徳は、次のような人々には欠如しているにちがいない徳である。すなわち、他者が自分に与えてくれた恩恵を思い出すことを嫌がるその態度が、他者への依存を忘れがちな人間であることを示している人々には、欠如しているにちがいない徳である。この種の好ましくない性格を備え、しかも、それが好ましからぬ性格であることを認識しそこなっているタイプの人間の顕著な一例、そして、おそらく《典型的に》顕著な例が、アリストテレスのいうメガロプシュコス megalopsychos〔魂の大いなる人、矜持ある人〕である。アリストテレスはこの種の人間について、肯定的に、彼は「他者から恩恵を受けることを恥じる。なぜなら、恩恵を施すことはすぐれた人間のしるしであり、それを受けとることは劣った人間のしるしであるからだ」と述べている。それゆえ、このメガロプシュコスは、彼が他者から受けとったものについては忘れがちである一方、彼が他者に与えたものについてはよく覚えており、前者を想起させられることは喜ばず、後者の思い出話には喜んで耳を傾けるのである。私たちはここに自足 self-sufficiencyの幻想〔自分は他者に依存することなしにやっていける、という誤った思い込み〕を見出す。それは明らかにアリストテレスも共有していた幻想であり、多くの時代に多くの場所で、特に富裕で権勢を誇る者たちによって抱かれてきた幻想であり、彼らをコミュニティ内のあるタイプの関係から排除する役割を果たしてきた幻想である。というのも、私たちがそれへの参加を通じてまず〈受けとること〉の諸徳を発揮することを学ばなければならない、そうしたコミュニティ内の関係を維持するためには、〈与えること〉の諸徳と同様、〈受けとること〉の諸徳も必要とされるからだ。だとすれば、そのような関係を重視する観点から眺める場合、切迫した苦境や窮乏というものがある特殊な光の下で理解されなければならなくなることは、おそらく驚くべきことではない。ひどい苦境に陥っている人がいまここですぐに必要としそうなものは、食べ物や飲み物や衣服や住居である。しかし、そうした最優先のニーズが満たされた後に、彼ら苦境にある人々がもっとも必要とするのは、次のような地位が与えられること、ないしは、ふたたび与えられることである。すなわち、そこにおいて彼らがコミュニティ内の熟議に参加するメンバーとして承認されるような、そうしたコミュニティ内の諸関係のネットワークの中に、ある公認の地位を与えられること――彼らを力づける他者からの敬意と自己への敬意〔自尊心〕の双方を彼らにもたらすそのような地位を与えられること――、ないしは、ふたたび与えられることである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第10章 承認された依存の諸徳,pp.182-183,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:受け取ることに関する諸徳,他者への依存,自足の幻想)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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2020年4月26日日曜日

真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

事実確認的発言とは何なのか?

【真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1) 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
   真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 (3.1)発語内行為の3つの効果
  陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
   ・陳述した内容が真であるか偽であるかが問題となってくる。
   ・後続の陳述への制限が生ずる。
   ・相手の陳述が、反論や反駁等の意味を持つものに変化させる。
  (c)反応の誘発
 (3.2)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.3)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
  (a)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
  (b)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
  (c)発語媒介行為の2つの効果
   (i)目的を達成すること
   (ii)後続事件を惹き起こすこと
  (d)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.4)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

 「おそらく最も重大な論点となり、また相応の妥当性をもつと思われることは、陳述の場合においては、情報伝達や論証を行う場合とは異なり、その陳述と特別に関連する発語媒介的な《目的》が存在していないということである。この相対的な純粋さ故に、おそらくわれわれは「陳述」に対してある特別な位置を与えているのであろう。しかし、このことが、たとえば本来の意味で使われた「記述」というものに対して同様の優先性を与えることを正当化するものではないことは確実であるし、また、このことは多くの発語内行為について成立することでもある。
 しかしながら、行為遂行的発言の側から事態を観察した場合には、遂行的発言の有するものを陳述もまた有しているというわれわれの以前の主張に反し、依然として、遂行的発言は陳述の有するなにものかを欠いているという感を抱くかもしれないのである。すなわち、言うまでもなく、遂行的発言は、何ごとかを行うことであると同時に、たまたま、何ごとかを言うことでもある。ところが、われわれは、これらが陳述と同様には真または偽であるということをその本質としていないと感ずることがある。つまり、われわれが事実確認的発言を判断し、査定し、評価する際の観点として用いながら(もちろん、それが適切な行為であると前提して)なおかつ、非事実確認的、すなわち行為遂行的発言に対する観点としては用いられないようなものもここに存在するように感ずることがあるのである。さて、私が何ごとかを陳述することに成功するためにはこれらすべての、状況という環境が定まっていなければならないということを認めておこう。ところが、私がその陳述に成功したちょうどそのときに、《この》問題、すなわち、私が陳述したことは真であったのか、それとも偽であったのか、という問題が生じてくるのである。そして、この問題は、通常の言い方をすれば、陳述が「事実に合致している」(correspond with the facts)か否かの問題であるようにわれわれは感ずるのである。以上のことに関して私は同意する。すなわち、「は真である」という表現の使用が、手形の裏書きをすることなどと同値であると言おうとする試みは成り立たないのである。かくして、ここに、完遂された陳述の新しい評価観点が得られたことになるわけである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.233-234,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:事実確認的発言,陳述,行為遂行的発言,真偽値)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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13.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由の歪曲、理性による解放

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

 (2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
   (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
   (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
   (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「自由を達成する唯一の真の方法は、批判的理性を使用すること、なにが必然的でなにが偶然的かを理解することにあるのだ、と説かれている。

わたくしがひとりの学校の生徒であるとすれば、きわめて単純な数学の真理以外の一切のものは、自分にその必然性の理解されていない定理のように、わたくしの心の自由な働きに対する障害物として現れてくる。 
 
それらはある外部の権威によって真理であると言明されており、わたくしの体系内に機械的に吸収されることが期待されている異物として存在している。

しかしながら、符号の機能とか公理とか構成・変換の規則とか――それによって結論が導き出される論理――を理解して、それらのものがわたくし自身の理性の手続きを支配している法則から出てきているかに思われるから、それ以外ではありえないのだということをはっきりと理解しえたときには、数学的真理というものはもはや、わたくしが欲すると欲しないとにかかわらず受けいれねばならない外的実在としてではなく、いまやわたくしが自分自身の理性的活動の自然な働きの経過のなかで自由に意志するところのあるものとして現れてくるわけである。 

また音楽家の場合には、かれが作曲家の総譜のパターンを消化しきって、作曲家の目的を自分の目的と化してしまったならば、その音楽の演奏は外的な法則への服従、強制、自由の妨害ではなく、妨害されることなき自由な運動である。

演奏家は、牝牛が鋤に、あるいは工場労働者が機械に結びつけられているように、総譜に束縛されているのではない。かれは総譜を自分の体系のなかに吸収し、それを理解することによってそれと自分自身とを同一化し、それを自由な活動に対する障害からその活動それ自体の一要素に変化させてしまったのである。

このように音楽や数学の場合にあてはまることは、原則的には他のあらゆる障害物――自由な自己展開を妨げる数多の外的な要素として現れてくる――にもあてはまるにちがいない、と説かれる。

これこそ、スピノザからヘーゲルの最新の(時としては無自覚な)弟子たちにいたる啓蒙的合理主義の綱領なのである。

敢エテ賢明ナレ Sapere aude. あなたが知っているもの、あなたがその必然性――理性的必然性――を理解しているもの、あなたは理性的である限り、それ以外のものであろうと欲することはできない。

なぜなら、なにものかが必然的にそうあらねばならぬもの以外であるようにと欲することは、世界を支配しているのは必然性だという前提がある以上、《それだけ》無知であるか非理性的であるかのいずれかであることになるわけだから。

情念、偏見、恐怖、神経症等は無知から生まれ、神話とか幻想とかの形態をとる。神話によって支配されるということは、その神話が、搾取するためにわれわれをだます無節操な《いかさま》師の活き活きとした空想から生まれたものか、それとも心理学的ないし社会学的な原因から生まれたものであるかを問わず、とにかく他律の一形態であり、行為者によって必然的に意志されたのでない方向に外部の要因によって支配・決定されることである。
 18世紀の科学的決定論者は、自然についての科学的研究、および同じモデルにもとづく社会に関する科学の創出によって、そのような諸原因の作用はくまなく明らかにされ、かくして各個人が理性的な世界の活動における自分の役割を認識することが可能となり、それが正しく理解されなかった場合にのみ挫折させられるのだと考えたのであった。知識は自動的に非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にするというわけだ。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),4 自己実現,pp.42-44,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

記述的理論と指図的理論

【司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「これらの類似性にもかかわらず、数々の事例を確証することによって蓋然性を高めながらも、将来の経験によって依然として反証される可能性のある一般的な事実命題の探究と、事件の決定において用いられるルールの探究との間には決定的な差異が残されている。司法過程を対象とする経験科学はもちろん可能である。それは裁判所の決定に関する一般的な事実命題からなるだろうし、重要な予測の手段にもなるだろう。けれども、そのような経験科学の一般的命題を、裁判所によって定式化され使用される諸ルールから区別することが重要である。
 記述的理論と指図的理論 論理は事件の決定において副次的な役割しか果たしていないという主張は、司法過程に関する誤った記述を正すものとして考えられていることもあるが、それはまた、裁判所の用いる「過度に論理的」、「形式的」、「機械的」、「自動的」であると烙印を押されている方法に対する批判として意図されていることもある。裁判所が実際に用いている方法に関する記述は、それに代わる方法についての指図からは区別されるだろうし、またそれとは別に評価されなければならない。」(中略)「特に権力の分立が尊重されている区域においては、法学者と裁判官はともに、決定過程における法的ルールや先例の用法を説明する際に、それらの不確定性をしばしば隠蔽したり、軽視してきたことは事実である。他方、同じ著述家たちによってしばしば表明されているもう一つの不満、つまり司法過程には過度の論理偏重とか形式主義が存在しているという不満は、それほど理解しやすいものではないし、また立証しやすいものでもない。批評家たちがこれらの言葉で批判しようとしているのは、裁判所が法的ルールとか先例を適用する時に、社会的目的、政策、価値を実現するためにルールや先例の相対的な不確定性を利用しないでいるという点である。」(中略)「法的ルールの不確定性をこのように認識しないこと(これはしばしば誤って分析法学のせいにされ、概念主義として非難された)は、それが確実性や決定の予測可能性を最大化するという理由で時には擁護されてきた。それはまた、整合的でないルールや分類カテゴリーを最小限度に押さえるという法体系の理想を促進するものとして、時折歓迎されてきたのである。」(中略)「法的ルールの解釈や個々の事例の分類において、重要な社会的諸価値や区別が無視される時、そこで得られた決定が、これらの要素を正当に考慮した決定よりも一層論理的であるというわけではないからである。つまり、論理は、言葉の解釈とか分類の枠を決定しはしないのである。確かなことは、そのような厳格な解釈方法が一般に行なわれている法体系では、裁判官があらかじめ意味の確定されたルールをつきつけられていると考えることができる機会が一層多いであろうということである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,pp.118-121,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:記述的理論,指図的理論,仮説的推理)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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