2020年4月15日水曜日

ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

有害で不道徳な意見

【ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「自分たちが、みずからの判断にしたがって非難している意見だという理由で、ある意見の発表の機会を奪うのが有害であることをもっと十分に示すには、具体的な例をあげて議論するのが望ましい。その際には、わたしにとってもっとも不利な例を選ぶのが適切だと考える。正しさの点でも効用の点でも、言論の自由に反対する論拠がもっとも強いと考えられる例である。そこで、神と来世への信仰か、一般に受け入れられている道徳が攻撃されている例をとりあげよう。この分野で論争すると、公明正大だとはいえない議論でこの小論の主張に反対しようとする人にきわめて有利になる。そうした人はかならずこう非難するはずだ(そして、不公正な議論の仕方を好まない多数の人も、口には出さないが、内心でこう思うはずだ)。これらの教えが、法律で保護するに値するほど確実だとはいえないというのか、ある意見が確実に正しいと主張すると自分の無謬性を想定することになるというが、神への信仰もそういう意見のひとつだというのかと。こうした非難に対しては以下のように反論したい。ここでいう無謬性の想定、つまり、自分が間違いをおかすはずがないという想定とは、どのような意見であれ、ある意見が正しいという確信を意味しているわけではない。ある問題について、他人がどう判断すべきかを決め、反対意見を聞く機会を与えないことである。わたしがもっとも大切にしている確信を支持する側からこのような動きがでてきたとしても、わたしはその動きを強く非難する。ある意見について、それが間違っているだけでなく、有害な影響を与えるとどれほど強く確信していても、そして、それが有害な影響を与えるだけでなく、わたしが強く非難する表現を使うなら、不道徳で不信仰であるとどれほど強く確信していても、自分自身の判断にしたがって、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自分の国の世論か同時代人の見方によって判断が裏付けられている場合ですら、無謬性を想定しているのである。その意見が不道徳で不信仰だとされていても、無謬性の想定の問題や危険性が少なくなるわけではなく、逆に、だからこそどのような場合よりも致命的になる。こうした場合にこそ、後の世代が驚愕し恐怖するほどおそろしい誤りを、ある世代の人びとがおかしているのである。歴史上忘れがたい例、それも、とりわけ優れた人物を抑圧し、とりわけ崇高な教えを根絶するために法律の力が使われた例はまさに、こうした場合に起こっている。そして、優れた人物が痛ましい死を遂げており、教えての一部は生き残ることができたが、まるで世間を愚弄するかのように、その教えや正統とされる解釈に反対する人を抑圧するときに、抑圧を正当化するために使われている。
 かつてソクラテスという人物がいて、当時の司法当局や世論と衝突した事件を、人類は繰り返し思い起こすべきである。ソクラテスは偉大な人物を輩出した時代と国に生まれ、その人物と時代をよく知る人びとによって、そのなかでももっとも高潔な人物であると語りつがれてきた。後世の人間は、ソクラテスこそがその後に美徳を説いたすべての思想家の師、原型であることを知っているし、「知恵あるすべての人の二人の師」、プラトンの崇高な直感とアリストテレスの賢明な効用主義の源泉となり、倫理哲学をはじめとするすべての哲学の二大源流を生み出したことも知っている。その後に登場した優れた思想家全員の師と認められており、二千年以上を経たいま、その名声はさらに高まっていて、アテネの輝きを支えている他の偉人全員の名声をあわせたものより大きいともいえるほどである。そのソクラテスが、不信仰と不道徳の罪で有罪判決を受け、自国の人たちによって死刑に処せられた。不信仰の罪に問われたのは、国が認めた神を否定したからであり、それどころか、どの神も信じていないとされたからである(この点はプラトンの『ソクラテスの弁明』にくわしく書かれている)。不道徳の罪に問われたのは、その思想と教えによって「若者を堕落させた」とされたからである。これらの罪について、裁判所は誠実に検討した結果、有罪だと判断したのであり、裁判所が誠実であったと信じる根拠は十二分にある。その結果、おそらくそれまでに生まれた人のなかで最高の栄誉を受けるに値する人が、犯罪者として死刑判決を受けることになった。
 次に裁判の誤りの例としてあげるのは、ソクラテス裁判の後に取り上げても、小さな話だとは思えないもの、一千八百年以上前にエルサレム郊外のゴルゴタの丘で起こった事件である。その生き方と言葉を直接に見聞きした人に強烈な印象を与え、道徳的で偉大な人物として記憶され、その後の一千八百年にわたって神として崇拝されてきた人物が、罪人として死刑に処せられた。何の罪で死刑になったのか。神を冒涜した罪によってである。当時の人たちは自分たちの恩人を誤解しただけではなかった。実際とはまさに正反対のものと誤解し、不信仰の悪漢として扱ったのであり、そのためにいまでは、そう扱った人こそ不信仰者だとされているのである。この二つの誤り、とくにエルサレムでの裁判の誤りはいまではまったく悲しむべきことだとされているので、誤りをおかした不幸な人たちについての判断が、極端に公平さを欠くものになっている。これらの人たちはどうみても、悪人ではなかった。普通より悪い人物だったわけではなく、正反対だったともいえるほどである。それぞれの時代と国に人びとがもっていた宗教心、道徳心、愛国心を十分に、あるいは十分以上にもっていたのであり、どの時代にも、もちろんいまの時代にも、非難を受けるどころか、尊敬される一生を送る可能性がきわめて高い種類の人物であった。裁判にあたった大祭司はイエスの言葉を聞いて自分の服を引き裂いたというが、当時の考え方からは極悪の罪になる言葉だったのだから、その憎しみと怒りが本心からのものであったという点でおそらく、いま、高潔で敬虔な人の大部分にとって、各人が公言する宗教的道徳的感情が本心からのものであるのと少しも変わらなかったはずである。大祭司の行為に戦慄する人びとの大部分も、同じ時代にユダヤ人として生まれていたとすれば、まったく同じ行動をとったはずである。正統派のキリスト教徒は、石を投げて初期の殉教者を殺した人たちについて、自分たちより悪い人間だったと考えたがるだろうが、そのひとりが聖パウロであったことを思い起こすべきである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.55-60,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:有害で不道徳な意見,無謬性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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人々の幸福と社会にとっての有益性を理由に、害のある反対意見の制限を主張するのは、自らの無謬性を仮定し、正しさについての責任を回避している。また、真理に反する見方が、本当に有益であり得ようか。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意見の有益性と言論の自由

【人々の幸福と社会にとっての有益性を理由に、害のある反対意見の制限を主張するのは、自らの無謬性を仮定し、正しさについての責任を回避している。また、真理に反する見方が、本当に有益であり得ようか。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「不思議なことだが、言論の自由を主張する意見の正しさを認めながら、この主張を「極端な点にまで押し進める」ことに反対する人が多い。極端なケースに適用できる理由でなければ、どのようなケースにも適用できないことを理解していないのである。これも不思議なことだが、こうした人は言論の自由を原則としては認めているが、その対象になるのは疑う余地がある点だけであって、ある種の原理や教義については、疑問の余地なく確実なのだから(いいかえれば、それらが確実であると自分は確信しているのだから)、疑問をさしはさむのを禁止すべきだと考えていながら、そう考えるときに自分の無謬性を想定しているとは思っていない。ある意見は確実だと主張するとき、その確実性を否定したいのに否定するのを許されていない人がいるのであれば、自分自身や自分と同意見の人だけが確実かどうかを判断する立場にあり、反対の立場の人の意見は聞く必要がないと想定しているのである。
 現代は「信仰を失いながら、懐疑論におびえている」時代だといわれており、人びとは自分の意見が正しいとは確信できないまま、その意見が否定されれば途方に暮れることだけは確かだと感じている。このような時代には、ある意見が攻撃を受けないように保護すべきだとする主張も、その意見が正しいという理由よりも、その意見が社会にとって重要だという理由に基づいている。いくつかの信念は人びとの幸福にとって必要不可欠だといわないまでもきわめて有益なので、そうした信念を支持するのは、社会のその他の利益を守ることと同様に政府の義務だと主張されている。そのような必要があるとき、そして政府の直接の義務のひとつになっているとき、政府は自分たちの無謬性までは想定できなくても、自分たちの意見が世論によって支持されているのであれば、その意見にしたがって行動することができるし、行動する義務があると主張されている。また、有益な信念を弱めたいと望むのは悪人だけだと主張されることも多く、主張しないまでもそう考えている人はさらに多い。悪人の行動に制限をくわえ、悪人だけが望む行動を禁止するのは、間違いではありえないと考えられているのである。こう考えることで、言論の自由を制限するのが正しいとする根拠を信念の正しさから有益さに移し、それによって、さまざまな意見を間違いをおかすことなく判断できると主張する責任を回避できたと安心しているのだ。だが、これで満足している人は気づいていないが、実際には、無謬性の想定の対象が、ひとつの点から別の点に移されたにすぎない。ある意見が有益だというのはそれ自体、意見である。意見そのものと変わらないほど見方の分かれる問題であり、議論を必要とする問題である。ある意見が有害だと判断する際には、間違っていると判断する際と同様に、非難されている意見の主張者に十分な弁護の機会を与えないかぎり、無謬の判定者が必要になる。異端者には自分の意見が正しいと主張することは禁止するが、自分の意見は有益か無害だと主張する機会を与えてもいいといっても、意味はない。意見の正しさは、意見の有益さの一部である。ある意見を信じるのが望ましいかどうかを知りたいときに、その意見が正しいのか間違っているのかという点を考慮しないことがはたして可能だろうか。真理に反する見方がほんとうに有益であることはありえないというのは、悪人でないどころか、とくに優れた人の意見である。そのような人が、有益だとされているが間違いだと信じる意見を否定したという理由で罪に問われた場合、正しくない意見が有益ではありえないと反論するのを封じることができるのだろうか。主流の意見を支持する側は、有益さと正しさは切り離せないという論拠を最大限に活用している。有益さの問題を正しさの問題から完全に切り離せるかのように論じることはない。それどころか、何よりも自分たちの意見が「真理」だからこそ、その意見を知り、信じることが不可欠であると主張している。有益さについて議論するとき、ここまで決定的な論拠を一方は使えるが、他方は使えないというのであれば、公平な議論は成立しない。そして現実にも、法律か世論によってある意見の正しさを否定する議論が許されていない場合、その有益さを否定する議論もほとんど許されていない。最大限に譲歩しても、その意見が絶対に必要だという主張を緩めるか、必要性だけを否定した場合に罰を軽減するにすぎない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.52-55,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:意見の有益性,言論の自由,意見の無謬性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

様々な制約下にあっても徐々に合理的な意見や行動が拡がるのは、間違いを改善し得るという人間の知性の性格に由来する。(a)理論の役割(b)自由な反論の機会(c)反論や批判、事実と経験による誤りの除去。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

言論の自由

【様々な制約下にあっても徐々に合理的な意見や行動が拡がるのは、間違いを改善し得るという人間の知性の性格に由来する。(a)理論の役割(b)自由な反論の機会(c)反論や批判、事実と経験による誤りの除去。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)徐々に合理的な意見や行動が拡がる理由
 優れた能力を持つ人は、比較的少数であろうし、またその人たちでも過去、今では間違いであることが分かっている意見をいくつも持っていたにもかかわらず、人類全体でみたとき、合理的な意見や合理的な行動が多数を占めているのはなぜなのだろうか。
 (a)それは、間違いを改められる点によるものである。すなわち、人間の知能の性格による。
 (b)事実の解釈には理論が必要
  事実をどう解釈すべきかを知るには、議論が必要である。事実のうち、それをみただけで意味が分かるものはめったにない。ほとんどの場合、その意味を理解するには解説が必要である。すなわち、事実が積み重なるだけで、知識が改善されるわけではない。
 (c)自由な反論の機会が必要
 ある意見が正しいと推定し得るための必要不可欠な条件は、その意見に対する反論、反証をあげる完全な自由が存在することである。根拠の乏しい確信に基づいて、ある意見に対する反論の機会を奪うのは、誤りである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (d)反論や批判、異論を検討し自らの誤りを正す
  反論や批判、異論や障害を避けるどころか、それらを求める姿勢をとり、自分とは違った立場の人がその問題をどう解明しているのかを検討して、自分の間違っている部分を探し出す。
 (e)事実と経験に基づき、自らの誤りを正す
  自分や他人の経験などの事実に基づき、自分の意見と行動の誤りを改善する。

 「人類の意見がどのように変遷してきたかをみても、人がいま、通常どのように生活しているのかをみても、どちらもそれほど悪くない理由はどこにあるのだろうか。人間の理解力がそもそも優れているからだといえないのは確かだ。自明ではない問題ではかならず、その問題を判断する能力がまったくない人が大部分であり、判断する能力をもつ人はせいぜい百人にひとりしかいないのが現実だからである。そして、そのひとりも、他の九十九人にくらべれば能力が高いといえるにすぎない。この点は過去のどの世代でも、優れた人物の大多数がいまでは間違いであることが分かっている意見をいくつももっていたし、いまでは誰も正しいとは考えない行動をいくつもとり、是認してきたことを考えれば、明らかである。では、人類全体でみたとき、合理的な意見や合理的な行動が多数を占めているのはなぜなのだろうか。実際に多数を占めているのだとすれば(そうでなければ、人類は過去も現在も、ほとんど絶望的な状態に陥っているはずなので、実際に多数を占めているはずだが)、それは人間の知能の性格によるものである。人間の知性と道徳心のうち優れた部分のすべての源泉である点、つまり、間違いを改められる点によるものである。人は議論と事実(自分や他人の経験など)によって、自分の誤りを改めることができる。事実が積み重なるだけで改められるわけではない。事実をどう解釈すべきかを知るには、議論が必要である。間違った意見や間違った行動は、事実と議論によって、徐々に改められていく。だが、事実と議論は、はっきりと示されなければ、人の心に何の影響も与えない。また、事実のうち、それをみただけで意味が分かるものはめったにない。ほとんどの場合、その意味を理解するには解説が必要である。このように、人間の判断の強みと価値はすべて、たったひとつの性格、間違っていたときにそれを正すことができるという性格に依存しているのだから、人間の判断に頼ることができるのは、間違いを正す手段がつねに用意されているときだけである。ほんとうに信頼できる判断をくだせる人は、なぜそのような能力を身につけることができたのだろうか。自分の意見と行動に対する批判に、いつも心を開いてきたからである。自分に対する反論や批判をすべて聞き、そのなかで正しい部分を最大限に取り入れるとともに、間違っている部分はどこが間違っているのかを考え、ときには他人に説明するようにしてきたからだ。人がある問題の全体を知っているといえる状態に近づくためには、その問題についてさまざまな主張に耳を傾け、それぞれがその問題をどのようにみているかを研究する以外に方法がないと感じているからだ。これ以外の方法で英知を獲得してきた賢人はいないし、これ以外の方法で賢明になることは、人間の知性の性格上ありえない。他人の意見と比較検討して自分の意見の間違いを正し、不十分な点を補う作業を着実に続けていくと、迷いとためらいが生じて自分の意見を実行に移せなくなる原因になるどころか、自分の意見を信じて行動するための安定した基盤を作る唯一の方法になる。自分の意見に対して少なくともはっきりした形でだされうる反論はすべて知っているし、どの反論に対しても自分の立場を明確にしているのだから、そして、異論や障害を避けるどころかそれらを求める姿勢をとり、自分とは違った立場の人がその問題をどう解明しているのかもすべて検討しているのだから、これに似た方法をとっていない人や集団よりも自分の判断の方が優れていると考える権利があるのだ。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.48-50,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由,誤りの除去,自由な反論)

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(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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