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2018年12月7日金曜日

何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

何によって無限が認識されるか

【何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1)無限の認識は、感覚、表象、記号からは得られない。
 (1.1)感覚知覚からも、無限なものは何も得られない。
 (1.2)無限は、表象できない。
 (1.3)数を、一定の記号体系そのものとみなすならば、やはり無限が理解できない。
(2)それにもかかわらず、形式的算術の記号体系の内容、意義としての数や無限が存在するように思われる。我々の、この無限の理解は、何によってもたらされるのかが問題である。
(3)例えば、線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、無限の認識の源泉である。

 「幾何学的な認識の源泉から、言葉の本来のそして最も強い意味での無限が得られる。ここでわれわれは日常の言語使用から眼を転じるべきである。日常の言語使用においては、「無限に大きい」と「無限に多い」は「きわめて大きい」や「きわめて多い」以上のいかなることも語らないからである。どの(直)線分にも、どの円周にも無限に多くの点があり、どの点にもそれを通る無限に多くの直線がある。われわれがこれらを全体として個々独立に表象できないということはどうでもよい。ある人はより多くを表象でき、またある人はより少なくしか表象できないかもしれないが、われわれはここで心理学や表象や主観的なものの領域にいるわけではなく、むしろ客観的なものの領域、真なるものの領域に立っているのである。ここで、幾何学と哲学は最も近づいている。」(中略)「これらの学問は、双方にとって損害をもたらすほど互いに疎遠であり続けてきた。そうであるから、結局のところ形式的算術、数は数記号にほかならないという見解、が支配的になってきたのである。おそらくその時代はいまだ過ぎ去ってはいないであろう。そのような見解に人々はどうやって到ったのか。数を学問的に取り扱おうとするならば、数として何を理解するかを言う義務を誰でも感じる。この概念的な課題に向かうと誰もが自分の無力さを認識し、即座に数のかわりに数記号を説明する。なぜなら、これらのものは、石や植物、星が見えるように、もちろんあなたの目に見えるからである。あなたはたしかに、石が存在することを疑わない。同じようにあなたは、数が存在することを疑うことはできない。あなたは、数が何ものかを意味する、あるいは数がある内容をもつ、という考えを拒みさえすればよい。そうしないと、われわれは実際その内容を示さなければならず、それは信じられないような困難に導くからである。これらの困難を避けるということがまさしく、形式的算術の強みにほかならない。数が一定の記号の内容や意義ではないということをいくら明確に強調しても強調しすぎということはないのは、そのためである。むしろ、これらの数記号それ自体がまさしく数であり、いかなる内容も意義もまったくもたないのである。哲学的理解のいかなる痕跡も見いだせない者だけがそのように語れる。そのとき、数命題は何も語ることはできないし、数はまったく何の役にも立たず、無価値なものとなる。
 感覚知覚からはいかなる無限なものも得られない、ということは明らかである。また、われわれの目録にどれほど多くの星を取り込むことができるにせよ、それは決して無限に多くではありえないし、大洋の浜辺にある砂粒についても同様である。それゆえ、われわれがどこで無限を正当に承認するにせよ、その承認を感覚知覚から得ようとはしてこなかった。これを得るためには、特別な認識の源泉が必要とされるのであり、幾何学的な認識の源泉はそのようなものの一つなのである。
 空間的なものと並んで、さらに時間的なものが承認されなくてはならない。これにもまた、一つの認識源泉が対応し、この源泉からもわれわれは無限を引き出す。両方向に無限の時間は、両方向に無限な直線に似ている。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学と数学的自然科学の認識源泉[一九二四/二五]』292-294、フレーゲ著作集5、pp.306-308、金子洋之)
(索引: 無限)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月5日水曜日

公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。喩えではあるが、3つの未知数を持つ3つの連立方程式が、ただ一つの解をつねに持つわけではない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

構成的定義が必要と思われる理由

【公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。喩えではあるが、3つの未知数を持つ3つの連立方程式が、ただ一つの解をつねに持つわけではない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

 「これとは別種の許容できない定義は、代数の例えによって特徴づけることができる。三つの未知数x、y、zが三つの方程式に現われているとしよう。そのとき、それらの未知数はこれらの方程式によって確定されうる。しかし厳密に言えば、ただ一つの解が可能であるときしか確定されない。同様にして、「点」、「直線」、「平面」というような語もいろいろな文に現われうる。これらの語が未だいかなる意義も有していない、と仮定せよ。これらの語が現われている文が真なる思想を表現するように、これらの語の各々に一つの意義が見出されることが要求されている、とせよ。しかし、これによって一義的にこれらの語の意義が確定するだろうか? ともかく、一般的には確定しない。たいていの場合、どれだけの解が可能であるかは、決定されないままであるに違いない。しかし、ただ一つの解が可能であることが証明されうる場合は、構成的定義により、説明されるべき語の各々に一つの意義を割り当てることによって、意義が定まる。しかしながら、いくつかの説明さるべき表現を含むような一連の文は、定義とは認められ得ない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学における論理[一九一四春]』229、フレーゲ著作集5、p.233、田畑博敏)
(索引:構成的定義,公理系)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月4日火曜日

(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

構成的定義と分析的定義

【(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(a)構成的定義
 (a.1)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する。
 (a.2)構成された複合的表現に、全く新しい単純記号を導入する。
(b)分析的定義
 (b.1)既に用いられている単純記号Aの意義を、論理的に分析する。
 (b.2)分析された意義を、既に意義の明らかな構成要素から再構成し、これを単純記号Bとして定義する。
 (b.3)問題は、単純記号AとBの意義が同じかどうかである。

 「従ってわれわれは、全く異なる二つの場合を区別しなければならない。
一.われわれは意義をその構成要素から構成し、この意義を表現するために全く新しい単純記号を導入する場合。これを「構成的定義」と呼ぶことができる。しかしわれわれは、むしろ端的に「定義」と呼びたい。
二.もうとっくに一つの単純記号が使われてきている場合。この場合、われわれはそれの意義を論理的に分析できると思うし、そしてその意義と同じ意義を表現しているとわれわれが考える、一つの複合表現が得られると思う。複合表現の構成要素として認めるのは、それ自身是認された意義を有するものだけである。この複合表現の意義は、その構成の仕方に従って結果しなければならない。その意義がとうに慣用となっている単純記号の意義と一致するということは、任意に取り決められたことではなくて、直接な理解によってしか認識されない。ここでも確かに定義について語られている。第一の場合と区別して、これを「分析的定義」と呼ぶことができよう。しかしより良いのは、「定義」という語を全く避けることである。なぜなら、ここで定義と呼びたいところのものは、本来は公理と解されるべきものであるからである。この第二の場合においては、任意の取り決めに対するいかなる余地も残ってはいない。なぜなら単純記号はすでに意義を有しているからである。」(中略)
 「さて、論理的分析が正しいかどうかに疑問の余地があるとき、この分析の際われわれが陥る窮状について考察するということが、まだ残されている。
 Aをとうに慣用となった単純記号(表現)とし、その意義をわれわれが論理的に分析しようと試みたと仮定しよう。そして、この分析を描写するものとして一つの複合表現を構成することによって、その論理的分析を行うとしよう。分析が成功しているのかどうか確かではないのだから、われわれはその複合表現をかの単純記号Aによって代理されるものと称することは、敢えてしない。もしわれわれが本来の定義を打ち立てようと欲するのであれば、すでに意義を有している記号Aを選んではならず、むしろ全く新しい記号、例えばB、を選ばねばならない。その記号に、いま定義によって初めて、かの複合表現の意義が与えられる。さて問題は、AとBとが同じ意義を有するか、ということである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学における論理[一九一四春]』227-228、フレーゲ著作集5、pp.230-231、田畑博敏)
(索引:構成的定義,分析的定義)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月3日月曜日

公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

対象の存在ということ

【公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1')(2.3')追加記載

(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))
(1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
 (1.1)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
 (1.2)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
(2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
 (2.1)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
 (2.2)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
 (2.3)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
(3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

(1')公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。「そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たない」と思われる。
(2.3')公理の諸性質を全部満たすような「対象」を、実際に構成してみることが必要と思われる。そして、構成されたものは、確かに「存在」している。

 「命題
『一.Aは叡智的存在である。
 二.Aは遍在する。
 三.Aは全能である』。
がそのすべての帰結を加えても互いに矛盾しないことを知っているとしましょう。このことから我々は、全能で、遍在する、叡智的存在が存在すると推論できるでしょうか? 私には、それは納得が行きません。その原理は大体こうなるでしょう。
 もし命題
 『Aは性質Φを持つ』
 『Aは性質Ψを持つ』
 『Aは性質Χを持つ』
が(Aが何であろうと)一般的に、すべての帰結を加えても互いに矛盾しないとすれば、これらの性質Φ、Ψ、Χを全部持つような対象が存在する。この原理は私には納得が行かず、そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たないでしょう。ここでは、当該の諸性質を全部持つような対象を挙げるという以外に、無矛盾性を証明する手段があるでしょうか? しかし、もしこのような対象が得られるとすれば、最初に無矛盾性[を証明する]という回り道をして、こうした対象が存在することを示す必要はなくなります。
 一般命題が矛盾を含むとすれば、それに包摂される特殊命題はどれもまた矛盾を含みます。したがって、後者の無矛盾性から一般命題の無矛盾性を推論するのは可能ですが、しかし逆は不可能です。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡五 一九〇〇年一月六日 75、フレーゲ著作集6、pp.82-83、三平正明)
(索引:公理系,存在する対象,無矛盾性)

フレーゲ著作集〈6〉書簡集・付「日記」


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月2日日曜日

思考の対象となり得るほぼ全てのものは、数え上げることができる。この事実から、実在的なものであれ理念的なものであれ、思考可能な領域と、算術を基礎とした理論の可能な領域には、何らかの関係があると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

算術の包括的応用可能性

【思考の対象となり得るほぼ全てのものは、数え上げることができる。この事実から、実在的なものであれ理念的なものであれ、思考可能な領域と、算術を基礎とした理論の可能な領域には、何らかの関係があると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

 「算術の命題はすべて専ら定義のみから純粋論理的に導出可能であり、従ってまた導出されなくてはならない、というものである。この点で算術は幾何学と対比される。どの数学者も疑わないように、幾何学は確かにそれ固有の公理を必要とする。そうした公理の反対は、―――純粋論理的に見るならば―――[元の公理と]同じく可能である、つまり矛盾に陥らないだろう。この見解を擁護するあらゆる理由の中で、私はここではただ一つのみを挙げよう。その理由とは算術理論の包括的な応用可能性に基づくものである。実際思考の対象となり得るほぼすべてのものを数えることができる。例えば実在的なものと同様に理念的なものも、事物と同様に概念も、空間的なものと同様に時間的なものも、物体と同様に出来事も、定理と同様に方法も数えることができる。数それ自体も再び数えることができる。[数え上げには]境界の一定の明確さ、ある論理的な完全さ以外何も本来的には必要とされない。このことから少なくとも次のことを引き出し得る。算術がそれに基づく原理は、次のようなより制限された領域、つまり幾何学の公理が空間的なものの固有性を表現するのと同様に、その固有性を算術が表現するかのような領域に関係してはならない。そうではなく、こうした原理は思考可能なものすべてにまで拡がっていなくてはならない。そして確かにこうした最も普遍的な命題は正当にも論理学に数え入れられるのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の形式理論について』94-95、フレーゲ著作集2、p.94、渡辺大地)
(索引:算術の包括的応用可能性)

フレーゲ著作集〈2〉算術の基礎


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年11月27日火曜日

記号が聴覚的なものから視覚的なものになることで、(a)明確性、持続性、不変性、(b)記号と記号の関係性の表現、(c)全体俯瞰性、(d)記号の操作性、が獲得される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

聴覚記号と視覚記号

【記号が聴覚的なものから視覚的なものになることで、(a)明確性、持続性、不変性、(b)記号と記号の関係性の表現、(c)全体俯瞰性、(d)記号の操作性、が獲得される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1)聴覚に訴える記号の特徴
 (1.1)時間的な継起である。
 (1.2)創出する際に、外的状況にそれほど依存しない。その結果、内的過程と相当程度に親近性をもっている。
 (1.3)感情に対して緊密な関係にあり、繊細この上ない感情の機微や移ろいにも即応できる。
(2)視覚に訴える記号の特徴
 (2.1)われわれの実際の思考運動の絶え間ない流れとは似ていない。
 (2.2)記号は、鋭利に境界付けがなされ、はっきりと区分されている。この結果、大きな持続性と不変性があり、表記されるものをより明確に示せる。
 (2.3)二次元的に広がっている書記平面上の文字記号の位置関係は、多様な内的な諸関係を表現するのに用いることができる。
 (2.4)一瞬一瞬には僅かな部分しか注視できないとしても、多くのことを同時に現前させ、全般的な印象を形成できる可能性を提供してくれる。
 (2.5)全体から、注意を向けようと思っていることを見つけ出すのが容易になり、必要に応じて、自由に操作することができる。

 「さて、聴覚に訴える記号と視覚に訴える記号とでどちらが好ましいかを考えてみよう。前者には、何よりもまず、それらを創出する際に、外的状況にそれほど依存しないという利点がある。さらに、音声は内的過程と相当程度に親近性をもっている、ということをとくに主張することもできる。現象形態からしても、両者に関しては、時間的な継起である。すなわち、両者は等しくつかの間のことである。とくに、音声は感情に対して形や色よりもより緊密な関係にある。その上、無限の柔軟性をもつ人間の声は、繊細この上ない感情の機微や移ろいにも即応できるのである。しかし、これらの長所が他の目的にとってどれほど価値があろうとも、それらは論理的推論の厳密さにとっては重要ではない。このように聴覚に訴える記号が理性の身体的精神的な条件にぴったりと適合するということが、まさしく、理性をこれらに一層依存させるという短所になりかねない。
 視覚的なもの、とくに形態については、事情は全く異なる。一般にそれらは鋭利に境界付けがなされ、はっきりと区分されている。書かれた記号にはこうした明確さがあるために、それらは表記されるものをより明確に示すことにもなるであろう。そして、表象に対するこのような働きこそが、推論の厳密さのためには望まれねばならない。しかし、これが達成できるのは、記号が直接的に事柄を意味する場合のみである。
 書かれたものの更なる利点は、より大きな持続性と不変性である。この点でもそれは概念本来のあり方に似ている。もちろん、それだけわれわれの実際の思考運動の絶え間ない流れとは似ていないのではあるが。文字は、多くのことを同時に現前させる可能性を提供してくれる。そして、一瞬一瞬にはたとえこれらのことをわずかの部分しか注視できないとしても、われわれはなお、残りの部分についても全般的な印象をずっともっているし、また必要なときには、これは直ちにわれわれの自由になるのである。二次元的に広がっている書記平面上の文字記号の位置関係は、一次元的に伸展している時間において単に後に続くとか先立つとかいうことよりもはるかに多様な形で、内的な諸関係を表現するのに用いることができる。そして、こうしたことによって、われわれがまさに注意を向けようと思っていることを見つけ出すのが容易になる。実際また、一次元的な系列は、思考を相互に結びつけている論理的関係の多様性に対応することは決してない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『概念記法の科学的正当性について』52-53、フレーゲ著作集1、pp.206-207、藤村龍雄・大木島徹)
(索引:聴覚記号,視覚記号)

フレーゲ著作集〈1〉概念記法


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年11月26日月曜日

記号の意味、対象が存在するかどうかは、内的世界と同じ確実性は持たないし、誤謬も避けられない。しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界に関する判断を、敢行しなければならない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の意味、対象の存在

【記号の意味、対象が存在するかどうかは、内的世界と同じ確実性は持たないし、誤謬も避けられない。しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界に関する判断を、敢行しなければならない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1.4)追加記載。

(1)記号の意義と意味

 記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
 (1.1)記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応する。

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味
             =一つの対象

 (1.2)例。
 参照: 固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号   → 記号の意義   → 記号の意味
 あるいは
固有名

記号結合
表現

記号   → 記号によって  → 記号によって
       表現された     表示された
       対象の様態     特定の対象
※「記号」は「意義」を「表現する」。
※「記号」は「意味」を「表示する」。

宵の明星 → 太陽が沈んだ後、→(金星)
       西の空にどの星
       よりも先に、一
       番明るく輝いて
       いる星。

明けの明星→ 太陽が昇る前に、→(金星)
       東の空にどの星
       よりも後まで、
       一番明るく輝い
       ている星。

金星   → 太陽系で、太陽 →(金星)
       に近い方から二
       番目の惑星。

 (1.3) ある表現が、意義のみを表現しているのか、意味の現存を前提としているのかは、表現の意図によって支えられている。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
  (1.3.1)例えば「月は地球より小さい。」は、意義のみではなく、意味が前提されている。
  (1.3.2)例えば、月の表象について語ることが意図されているならば、「私がもつ月の表象」という表現を使わなければならない。
  (1.3.3)もちろん、前提された意図に対して、誤った表現がなされることもあり得るし、解釈者が意図を誤って解釈することもあり得よう。
 (1.4)「対象」は存在するのかという問題について。
  (1.4.1)内的世界の確実性に比べて、外的世界については疑いが完全に晴れるということはない。
  (1.4.2)また、誤謬は実際に起こり、我々は虚構の中に落ち込むこともある。
  (1.4.3)しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界の諸物に関する判断を、思い切って敢行しなければならないのである。

 「かくて事態は了解可能となったように私には思われる。人間が思考できず、また彼がそれの担い手ではないようなあるものを彼の思考の対象にすることができないのだとしたら、彼はなるほど内的世界はもつが、環境世界はもたないことになってしまうだろう。しかしそれ[環境世界という考え]が誤謬に基づくことはありえないのか。私が「私の兄弟」という語に結び付けている表象は、私の表象ではないあるもの、それについて私がなにかを言明しうるようなあるものと対応している、と私は確信している。しかし私はその点で誤りうるのではないか。こうした誤謬は、実際に起こる。その場合我々は、我々の意図に反して、虚構のなかに落ち込んでいるのである。事実そのとおりである! 私がそれにより環境世界を獲得する歩みとともに、私は自分を誤謬の危険に曝すのである。そしてここで私は私の内的世界と外的世界とのさらなる区別に突き当たるのである。私が緑の視覚印象をもつことは、私には疑いえない。しかし私が菩提樹の葉を見るということは、それほど確かではない。余りに広く流布している見解に反して、我々は内的世界に確実性を見いだし、一方外的世界への我々の遠征に際しては、我々にとり疑いが完全に晴れるということは決してないのである。にもかかわらず、確からしさは、この際もまた、多くの場合、確実性からほとんど区別されないので、我々は敢えて、外的世界の諸物に関して判断を下すことができるのである。またそれどころか[内的世界のみを認めて、外的世界を否認する]一層大きな危険に屈服したくなければ、我々は誤謬の危険を冒してそのことを思い切って敢行しなければならないのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『思想――論理探究[一]』73、フレーゲ著作集4、pp.225-226、野本和幸)
(索引:記号の意味,対象の存在)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年11月25日日曜日

ある表現が、意義のみを表現しているのか、意味の現存を前提としているのかは、表現の意図によって支えられている。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

表現の意図

【ある表現が、意義のみを表現しているのか、意味の現存を前提としているのかは、表現の意図によって支えられている。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1.3)追加記載。

(1)記号の意義と意味

 記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
 (1.1)記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応する。

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味
             =一つの対象

 (1.2)例。
 参照: 固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号   → 記号の意義   → 記号の意味
 あるいは
固有名

記号結合
表現

記号   → 記号によって  → 記号によって
       表現された     表示された
       対象の様態     特定の対象
※「記号」は「意義」を「表現する」。
※「記号」は「意味」を「表示する」。

宵の明星 → 太陽が沈んだ後、→(金星)
       西の空にどの星
       よりも先に、一
       番明るく輝いて
       いる星。

明けの明星→ 太陽が昇る前に、→(金星)
       東の空にどの星
       よりも後まで、
       一番明るく輝い
       ている星。

金星   → 太陽系で、太陽 →(金星)
       に近い方から二
       番目の惑星。

 (1.3)ある表現が、意義のみを表現しているのか、意味の現存を前提としているのかは、表現の意図によって支えられている。
  (1.3.1)例えば「月は地球より小さい。」は、意義のみではなく、意味が前提されている。
  (1.3.2)例えば、月の表象について語ることが意図されているならば、「私がもつ月の表象」という表現を使わなければならない。
  (1.3.3)もちろん、前提された意図に対して、誤った表現がなされることもあり得るし、解釈者が意図を誤って解釈することもあり得よう。


 「簡潔にして正確な表現を可能とするために以下のような用語法を確定しておきたい。すなわち固有名(語、記号、記号結合、表現)は、その意義を表現し(ausdrücken)、また、その意味を意味する(bedeuten)、または、その意味を表示する(bezeichnen)。我々は記号によって意義を表現し、記号によってその記号の意味を表示する。
 観念論者や懐疑論者の側からは、このような見解に対しておそらくすでに以前から反論がなされていることだろう。「君は、月を対象として語ることに躊躇していないが、月という名がそもそも一つの意味をもつことを君は何を根拠に知ったのか。また、ともかくも何ものかが一つの意味をもつことは何から知ったのか」。このような反論に対して、私は、我々がもつ月の表象について語ることが我々の意図(Absicht)ではなく、また我々が「月」と言うときには、意義のみで満足せずに一つの意味を前提(voraussetzen)していると答えたい。「月は地球より小さい」という文において月の表象が話題になっているとすると、この文は意義を失う。話し手が月の表象を話題にしようとするためには、「私がもつ月の表象」という表現を使わなければならないであろう。ところで、我々が何ものかを前提するという際に誤りを犯すことはもちろん可能である。そして、そのような誤りが実際に生じたこともある。しかし、ここで、場合によると我々が常に誤りを犯しているのではないかという疑問に対しては答えないままでいることが許される。なぜならば、当面、記号の意味について語ることを正当化するためには、そのような意味の現存する場合という留保が必要であるにせよ、語りまたは思考において我々がもつ意図を指摘しておけば十分であるからである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』31-32、フレーゲ著作集4、pp.77-78、土屋俊)
(索引:意義を表現する,意味を表示する,表現の意図,表現の前提)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年11月23日金曜日

完全に形式的な論理的体系においても、定義できない原始的要素が存在する。それは、人々の共通理解に基礎を持つが、首尾一貫した説明、善意と理解しようとする態度による予備的解明によっても意識的にも達成できる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

定義不能な論理的要素と「予備的解明」

【完全に形式的な論理的体系においても、定義できない原始的要素が存在する。それは、人々の共通理解に基礎を持つが、首尾一貫した説明、善意と理解しようとする態度による予備的解明によっても意識的にも達成できる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1)数学や論理学には、定義することの不可能な、諸々の論理的な原始的要素が存在する。
(2)原始的要素は、同じ記号が同じことを表示しているという、研究者の間での習慣的な理解の一致によって、その意味が支えられている。すなわち、完全に形式的な体系であっても、このような人々の習慣に依存している側面が存在する。
(3)意識的に、このような共通理解を作り上げることを、「予備的解明」と呼ぼう。これには、以下の特徴が存在する。
 (3.1)提示者は、自分が何を意味しているのかを明確に知っていなければならない。また、首尾一貫している必要がある。その際、必要なら比喩的な表現を用いてもよい。
 (3.2)提示された者には、善意、互いに歩み寄って理解する態度、憶測的な推量といったものを多少とも当てにせざるをえない面がある。
 (3.3)提示された者が善意をもってしても依然として誤解の恐れが生ずる場合、提示者は予備的解明を補完したり改善する用意がなければならない。

 「私自身の見解は、以下のようなものである。われわれは、定義することの不可能な諸々の論理的な原始的要素(Urelemente)を認めねばならない。もちろんその場合にも、同じ記号(語)によって同じものが表示されることを保証しておく必要が生じる。そして、ひとたび研究者の間で、これらの原始的要素と、それらを表示する記号とについて理解の一致が得られれば、[原始的要素から論理的に構成される]論理的複合物に関しては、定義を介することで互いの間の一致が容易に達成できる。しかしながら、原始的要素についてはこうしたことは不可能であるから、或る別のものが加わらねばならない。私はこれを、予備的解明(Erläuterung)と名づける。したがって、予備的解明が果たす役割とは、研究者間の相互理解を作り上げることであり、科学を伝達することである。われわれは予備的解明を予備学(Propaedeutic)に割り振ることができる。本来の科学体系の内部には、予備的解明はまったく登場しない。科学体系においては、予備的解明に基づいて帰結が導き出されることは一切ないからである。実際、自分一人だけで研究を進める人であったならば、予備的解明を必要としないであろう。予備的解明の目的は実際的なものであって、そうした目的が達成されればわれわれはそれで満足せねばならない。その場合、善意、互いに歩み寄って理解する態度、憶測的な推量といったものを多少とも当てにせざるをえない面がある。なぜなら、[予備的解明を与える際に]比喩的な表現を用いずには到底やっていけないことがしばしばあるからである。しかしそれでも、われわれは予備的解明を提示する人に対して常に以下のことを要求してよい。すなわち、彼は自分が何を意味しているのかを明確に知っていなければならないし、彼の考えは首尾一貫していなければならないということ、また、善意をもってしても依然として誤解の恐れが生ずる場合、彼は予備的解明を補完したり改善する用意がなければならないということである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『幾何学の基礎について[一九〇六]』301、フレーゲ著作集5、pp.105-106、田村祐三・岡本賢吾・長沼淳) (索引: 予備的解明)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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