ラベル 行為 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 行為 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年8月10日月曜日

人は、自らが真であると信じている擬似的な環境に基づいて反応するが、反応は実際の環境で起こる。反応が感情にとどまる場合、時間がかかるかもしれないが、反応が物や他の人々に対する行為の場合には、現実との矛盾がすぐに顕在化する。(ウォルター・リップマン(1889-1974))

反応は実際の環境で起こる

【人は、自らが真であると信じている擬似的な環境に基づいて反応するが、反応は実際の環境で起こる。反応が感情にとどまる場合、時間がかかるかもしれないが、反応が物や他の人々に対する行為の場合には、現実との矛盾がすぐに顕在化する。(ウォルター・リップマン(1889-1974))】
In all these instances we must note particularly one common factor. It is the insertion between man and his environment of a pseudo-environment. To that pseudo-environment his behavior is a response. But because it is behavior, the consequences, if they are acts, operate not in the pseudo-environment where the behavior is stimulated, but in the real environment where action eventuates. If the behavior is not a practical act, but what we call roughly thought and emotion, it may be a long time before there is any noticeable break in the texture of the fictitious world. But when the stimulus of the pseudo-fact results in action on things or other people, contradiction soon develops. Then comes the sensation of butting one's head against a stone wall, of learning by experience, and witnessing Herbert Spencer's tragedy of the murder of a Beautiful Theory by a Gang of Brutal Facts, the discomfort in short of a maladjustment. For certainly, at the level of social life, what is called the adjustment of man to his environment takes place through the medium of fictions.
(出典:Walter Lippmann"Public Opinion",PART I. INTRODUCTION, I. The World Outside and the Pictures in Our HeadsPublic Opinion(Walter Lippmann))
(索引:環境,擬似的環境,感情,行為,現実との矛盾)

(出典:wikipedia
ウォルター・リップマン(1889-1974)の命題集(Propositions of great philosophers)
ウォルター・リップマン(1889-1974)
検索(リップマン)
関連書籍(amazon、リップマン)

2018年12月10日月曜日

20.私たちのあらゆる諸行為、また不作為は、私たちを形成し改造し続けている。私たちの諸力、諸衝動の傾向、自分自身の評価をも。もし、自分を偽り、信ぜず、恐れ、軽蔑するなら、そのようなものとして形成されるだろう。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

行為が人間をつくる

【私たちのあらゆる諸行為、また不作為は、私たちを形成し改造し続けている。私たちの諸力、諸衝動の傾向、自分自身の評価をも。もし、自分を偽り、信ぜず、恐れ、軽蔑するなら、そのようなものとして形成されるだろう。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)私たちが最も多く実行する諸行為は、結局のところ、私たちの身のまわりの一つの堅い殻のようなものである。
(2)私たちのあらゆる諸行為は、私たちを築き続けることに従事している。
 (2.1)ある種の諸力は行使され、他の諸力は行使されない。
 (2.2)ある情動が、他の諸衝動の出費において、おのれを肯定する。
 (2.3)規則的な不作為も、人間を改造する。
 (2.4)私たち自身に関する、私たちの総体的な評価も、行為によって形成される。
  (a)私は弱いのか、強いのか。
  (b)私は称讃に値するのか、非難に値するのか。
  (c)私は他の人々の判断を恐れなくてはならないのか、それとも、私たちは私たち自身を信じ、自らをどんな光のうちで評価することも許されているのか。
(3)もし常に、おのれを偽り、おのれを信頼せず、おのれを恐れ、おのれを軽蔑するならば、そのような行為はそのような人を作り上げてしまうことであろう。

 「私たちの諸行為は私たちを《改造》する。

あらゆる行為において、或る種の諸力は行使され、他の諸力は行使され《ない》、つまり一時的に放置されるのだ。

或る情動が、つねに、その情動によって力を奪い去られる他の諸衝動の出費において、おのれを肯定するのだ。

私たちが《最も多く実行する》諸行為は、結局のところ、私たちの身のまわりの一つの《堅い殻》のようなものである。

そうした諸行為が無造作に力を要求するのであり、他の諸意図は貫徹されがたくなるだろう。

―――同様に、規則的な不作為も人間を改造する。結局のところ各人を見れば、各人がおのれを《毎日》二、三度《超克》したか、それともつねに放任したかが分かるであろう。

―――これが《あらゆる行為の第一の結果》である。《あらゆる行為は私たちを築き続けることに従事しているのだ》、

―――もちろん《身体的に》も。

 ところであらゆる行為には、これらの諸行為に関連して私たちが《私たちに関して》いだいている意見もまた属している。

《私たちに関する私たちの意見も同様にあらゆる行為の一つの結果である》、

―――あらゆる行為は、私たちが私たちについていだいているところの、弱いのか、強いのか、等々という、称讃に値するのか、非難に値するのかという、私たちは他の人々の判断を恐れなくてはならないのか、私たちは私たちをどんな光のうちでも示すことができるのかという、総体的な評価を築くことに従事しているのである。

おそらくひとは、おのれ自身にうそを言うことに慣れているであろう。

このことの《結果》、つまり、故意に誤った《査定》と目の挫折である見誤りとが、もちろん結局はまた諸行為において現われざるをえないのだ。

おのれに対する偽り、おのれに対する信頼の欠如、おのれに対する恐れ、おのれについての軽蔑―――《無力な本性の持ち主たちの一切のこうした諸衝動》は絶えず《身体》をも変化させる。

克己に欠けているという意識、《下品な》表情が身につく―――ただひとり島で暮らしているとしてすら、そうなのだ。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 七四一、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.366-367、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

2018年12月7日金曜日

19.すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

行為の無意識的な意図、言表された意図

【すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(3.5.1)(3.5.2)追加記載。

(3)行為
 我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
 (3.1)目的意識的な行為であっても、無数の個々の運動が、明確に意識されることなく遂行される。
  目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (3.2)それらは、私たちには、あらかじめ全く未知のものである。例えば、咀嚼に先行する咀嚼の心像を考えてみること。それは、まったく不明確である。
 (3.3)これらの諸運動は、意志によってひき起こされるのではない。
 (3.4)これらの諸運動は起こるのだが、私たちには明確には、知られないままである。
 (3.5)現実的な経過や本質とは別に、私たちの空想は、私たちが「本質」とみなすのを常とする何らかの仮構を対置する。
  (3.5.1)すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。
  (3.5.2)ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。

 「或る行為の価値を、その行為が行なわれるための動機であった意図にしたがって測定する者は、《意識的な意図》をそのさい考えている。

だが、すべての行為には多くの無意識的な意図性があるのだ。

そして、「意志」や「目的」として前景のうちへと入り込んでくるものは、《多種多様に》解釈可能であって、それ自体一つの徴候にすぎない。

「言表された、また言表されうる意図というもの」は、一つの解釈、《偽》でありうる一つの解釈であり、かつまた、一つの恣意的な単純化や偽造等々なのだ。


 行為の一つの可能的な結果としての《「快」を打算すること》と、拘束され堰き止められた力の発現としての、なんらかの活動自身と結びついた快、これら二つの快を区別するだけでもう、なんという骨折りが必要とされたことか! これはお笑いぐさだ! 

これは、生の快適さと―――道徳的な陶酔や自己崇拝としての《浄福》とが取り違えられるのと同様だ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 六九三、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.338、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為、意図)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

2018年12月6日木曜日

18.目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

目的意識的な行為も、未知のまま遂行される

【目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(3.1)追加記載。

(1)身体
 (1.1)偉大なことや驚異的な多くのことが、意識なしで成就されている。
 (1.2)多くの組織が同時に働いており、この働きにおける諸々の義務や権利の戦いの調停には、実に多くの繊細さが存在している。
(2)無意識
 意識のうちに入らずに為される多くのことがある。感覚、思考、情動、意欲、想起。
(3)行為
 我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
 (3.1)目的意識的な行為であっても、無数の個々の運動が、明確に意識されることなく遂行される。
  (a)それらは、私たちには、あらかじめ全く未知のものである。例えば、咀嚼に先行する咀嚼の心像を考えてみること。それは、まったく不明確である。
  (b)これらの諸運動は、意志によってひき起こされるのではない。
  (c)また、これらの諸運動は起こるのだが、私たちには明確には、知られないままである。
  (d)現実的な経過や本質とは別に、私たちの空想は、私たちが「本質」とみなすのを常とする何らかの仮構を対置する。
(4)意識
  意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (4.1)意識は、私たちに最も近いもので、最も親密なものである。しかし、これを身体より重要なものとみなすのは、古い先入観なのではないか。
 (4.2)確かに、精神は最後に発生した器官である。
 (4.3)意識にのぼってくる思考は、意識されない思考の極めて僅少の部分、その最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。
 (4.4)また、精神は何か貧しくて狭いもの、近似的にしか充分でない。精神的なものは、身体の一つの道具であり、身体の記号と見なされるべきものである。
 (4.5)また、この僅かのものが、誤謬へと、また取り違えへと導き、しばしば欠陥のある仕事をする。
 (4.6)人間の精神と行為に関する価値判断や道徳も、この事実に基づいて再考されねばなららない。

 「意識のうちにあって、或る目的意識的な行為に先行するもの、たとえば咀嚼に先行する咀嚼の心像は、まったく不明確である。

そして私がそれを科学的にいっそう正確に規定しても、このことは行為そのものにはなんら影響を与えない。

私たちがそれについてあらかじめ全く何ひとつとして知ってはいない無数の個々の運動が、遂行されるのであり、そして、たとえば舌の《賢明さ》は、総じて《私たちの意識がもつ賢明さ》よりも、はるかに大きいのである。

私は、これらの諸運動が私たちの意志によってひき起こされるということを、否認する。

これらの諸運動は起こるのだが、《私たちには知られないままなのだ》。これらの諸運動の過程をも私たちは、(触覚の、聴覚の、色彩についての視覚の)象徴というかたちで、また個々の部分や契機においてとらえうるだけである―――この過程の本質は、持続する《経過》と同様に、私たちには未知のままなのだ。

《おそらくは空想が》、現実的な経過や本質に、何かを、私たちが本質とみなすのを《常と》するなんらかの《仮構を、対置するであろう》。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一一二、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.84、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2