ラベル 行為遂行的発言 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 行為遂行的発言 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年5月6日水曜日

陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

陳述(事実確認的発言)と行為遂行的発言

【陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(2)追記。

(1)真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。
 (a)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つである。
  事実確認的発言は、発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目し、事実との対応という過度に単純化された概念を使用しているが、本質的に発語内行為の側面を持つ。あらゆる状況、あらゆる目的、いかなる聴き手に向かっても、条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態を追求している。
 (b)様々な行為遂行的発言の「真偽値」
  様々な行為遂行的発言についても、陳述(事実確認的発言)と似たような、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が存在する。それが、いかなる用語で語られ、いかなることを意味するかを明らかにすることができる。

 「さて、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別に関してさらに論ずるべきこととして最後に何がのこされているであろうか。実際のところ、この区別に関してわれわれが考えていたことは次のようなものであったと言うことができるであろう。
(a)事実確認的発言ということで、われわれは、言語行為における(発語媒介的なものは別として)発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目している。さらに、われわれは、事実との対応という過度に単純化された概念を使用している。過度に単純化されたといえる理由は、この種の発語行為も、本質的に発語内行為の側面をもたらすものであるからである。われわれはむしろ、あらゆる状況において、あらゆる目的のために、いかなる聴き手に向かっても、等々のいかなる条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態(ideal)を追求しているのである。そして、この理想的形態はときに実現されることもある。
(b)行為遂行的発言ということで、われわれは、発言のもつ発語内の力に可能なかぎり注意を向け、事実との合致という観点を無視して抽象化しているのである。
 おそらく、この抽象化のいずれもそれほどに適切なものではないであろう。実は、ここにはおそらく二つの極があるのではなく、むしろ、そこには一つの歴史的発展があるのみというべきであろう。そして、ある場合には事実確認的発言の例として物理学書中の数学公式を利用したり、また、ある場合には、たとえば行為遂行的発言の例として、単純な執行命令の布告や単純な名前の賦与を利用したりして、われわれは、現実の生活におけるこの二種の発言の発見に近づこうとしているのである。そして、まさにこの種の発言のさまざまな事例、たとえば「私は陳謝します」とか、さしたる理由もなく述べられたときの「猫がマットの上にいる」などの極端な事例によって、かの二種類の異なる発言があるという見解を導いたわけである。陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないしかし、真に結論すべきことが、(a)発語行為と発語内行為との区別の必要性と、(b)個々の種類の発語内行為に関して、すなわち、警告、推定、評決、陳述、記述などに関して、第一に、それらが適切ないし不適切とされるための、第二に、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が何であるかということ、すなわち、それらを肯定的あるいは否定的に評価するためにいかなる用語が用いられ、またそれらがいかなることを意味するかということを、それぞれの種類に応じて、批判的に確立することの必要性ということとの、(a)、(b)の二点であることは確実である。この問題は広汎な広がりをもち、「真」か「偽」かという単純な区別に落ち着くことはないであろう。またさらに、陳述をその他から区別するということで終わることもないであろう。なぜならば、陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないからである。
 さらに、発語内行為だけでなく、発語行為もまったくの抽象の産物である。すべての真正な言語行為は、同時にこの両者なのである。このことは、用語行為、意味行為等が単なる抽象の産物であるという事情に類似している。しかしもちろん、われわれは、さまざまな可能な言い誤り、すなわちこの場合では、それらの行為を遂行する際に生じ得るさまざまな型のナンセンスを利用して、このような抽象の結果であるさまざまな「行為」を区別しているのである。まさにこの点に関して、われわれが冒頭の講義においてナンセンスの種類の分類に関して述べたことを想い起こしてみることは有益なことであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.242-245,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:陳述,事実確認的発言,行為遂行的発言,真偽値)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
ジョン・L・オースティンの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・L・オースティン)

2020年4月26日日曜日

真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

事実確認的発言とは何なのか?

【真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1) 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
   真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 (3.1)発語内行為の3つの効果
  陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
   ・陳述した内容が真であるか偽であるかが問題となってくる。
   ・後続の陳述への制限が生ずる。
   ・相手の陳述が、反論や反駁等の意味を持つものに変化させる。
  (c)反応の誘発
 (3.2)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.3)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
  (a)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
  (b)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
  (c)発語媒介行為の2つの効果
   (i)目的を達成すること
   (ii)後続事件を惹き起こすこと
  (d)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.4)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

 「おそらく最も重大な論点となり、また相応の妥当性をもつと思われることは、陳述の場合においては、情報伝達や論証を行う場合とは異なり、その陳述と特別に関連する発語媒介的な《目的》が存在していないということである。この相対的な純粋さ故に、おそらくわれわれは「陳述」に対してある特別な位置を与えているのであろう。しかし、このことが、たとえば本来の意味で使われた「記述」というものに対して同様の優先性を与えることを正当化するものではないことは確実であるし、また、このことは多くの発語内行為について成立することでもある。
 しかしながら、行為遂行的発言の側から事態を観察した場合には、遂行的発言の有するものを陳述もまた有しているというわれわれの以前の主張に反し、依然として、遂行的発言は陳述の有するなにものかを欠いているという感を抱くかもしれないのである。すなわち、言うまでもなく、遂行的発言は、何ごとかを行うことであると同時に、たまたま、何ごとかを言うことでもある。ところが、われわれは、これらが陳述と同様には真または偽であるということをその本質としていないと感ずることがある。つまり、われわれが事実確認的発言を判断し、査定し、評価する際の観点として用いながら(もちろん、それが適切な行為であると前提して)なおかつ、非事実確認的、すなわち行為遂行的発言に対する観点としては用いられないようなものもここに存在するように感ずることがあるのである。さて、私が何ごとかを陳述することに成功するためにはこれらすべての、状況という環境が定まっていなければならないということを認めておこう。ところが、私がその陳述に成功したちょうどそのときに、《この》問題、すなわち、私が陳述したことは真であったのか、それとも偽であったのか、という問題が生じてくるのである。そして、この問題は、通常の言い方をすれば、陳述が「事実に合致している」(correspond with the facts)か否かの問題であるようにわれわれは感ずるのである。以上のことに関して私は同意する。すなわち、「は真である」という表現の使用が、手形の裏書きをすることなどと同値であると言おうとする試みは成り立たないのである。かくして、ここに、完遂された陳述の新しい評価観点が得られたことになるわけである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.233-234,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:事実確認的発言,陳述,行為遂行的発言,真偽値)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
ジョン・L・オースティンの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・L・オースティン)

2020年4月24日金曜日

陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言としての陳述

【陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

参考: 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3.1)追記。

(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
   真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 (3.1)発語内行為の3つの効果
  陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
  (c)反応の誘発
 (3.2)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.3)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
  (a)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
  (b)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
  (c)発語媒介行為の2つの効果
   (i)目的を達成すること
   (ii)後続事件を惹き起こすこと
  (d)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.4)発語内行為とは関係のない発語媒介行為


 「われわれの研究すべきものが文では《なく》、むしろ一つの発言状況において一つの発言を行うことであるということをいったん悟るならば、陳述することは一つの行為を遂行することであるということが理解されないということはもはやほとんどあり得ないことであろう。さらに、陳述するということを、すでに発語内行為についてわれわれが述べたことと比較するならば、陳述するということは他の発語内行為の場合とまったく同程度に「了解の確保」ということを不可欠とするような種類の遂行であるということが理解されるだろう。すなわち、もし私が述べたことが了解されなかったり、聞こえなかったりするとき、はたして私は陳述したことになるのか否かという疑問は、私が述べたことを抗議として受け取らない人がいたとするならば、私はそっと(sotto voce)警告したことになるのかそれとも依然として抗議したことになっているのかという疑問とまったく同じものである。さらに、陳述は「命名」とまったく同程度に「効力を生じさせる」のである。たとえば、私が何かを陳述したとき、そのことによって私は別の陳述を行わなければならなくなるというようなことが起こる。しかも、私が行うその別の陳述は先に行なった陳述によって適当なものとなったり不適当なものとなったりすることになる。また、相手の行なう陳述や評言も以降は、私に対する反論となるかならないかのいずれかとなり、あるいはまた私に対する反駁となるか否かのいずれかとなる。また、かりに陳述が反応を惹き起こさないことがあるとしても、そのことはいずれにせよ発語内行為のすべてにとって本質的なことではない。しかも、陳述を行う際に、われわれは実際あらゆる種類の発語媒介行為を遂行しており、またそのことは許されているのである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.232-233,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言,陳述,事実確認的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
ジョン・L・オースティンの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・L・オースティン)

2019年4月25日木曜日

真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

不適切な陳述

【真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(3)(A・2)追記。

(1) 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 「さて、AとBの種類の不適切性は、――警告、保証というような――種類の行為を空虚で無効なものとするものであったが、陳述はこの種の不適切性に関してはいかなることになるのであろうか。すなわち、陳述の外見を呈するものが、一般に契約などについて言われているのとまったく同様に空虚で無効なものになり得るであろうか。これに対する答えは、重要な点で肯定的であるように思われる。最初の事例はA・1とA・2とである。すなわち、慣習すなわち一般に受け入れられた慣習が一切存在しない場合、または、与えられた状況が発言者による当該慣習の発動に対して不適当である場合である。まさにこの型の不適切性の多くが陳述を待ちうけているのである。
 われわれはすでに、陳述であってそれが言及しているところのものの存在を(いわば)《前提》(presuppose)しているとされるような場合を知っている。もし、そのようなものが存在しないとするならば、その「陳述」は何ものについてのものでもないということになるであろう。さて、ある人々の言い方によれば、このような状況においてたとえば、ある人が現在のフランス国王は禿であると主張したとすると、そのとき、「その国王が禿であるか否かの問題は生じない」ということになる。しかし、このような場合はむしろ、私があなたに何かを売ろうと言いながら、そのものが自分の所有物でないとか、(火事に遭って)もはや存在しないというようなときとまったく同様に、その陳述が空虚で無効であると言う方が適切なのである。契約は、しばしば、その関与している対象が存在しないという理由から無効となる。これは、対象言及に故障があるという場合である。(全体的曖昧性)」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.229-230,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:不適切な陳述,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
ジョン・L・オースティンの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・L・オースティン)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
政治思想ランキング

2019年4月14日日曜日

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言を超えるもの

【真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(2)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 「次の両者の間、すなわち、
(a)発言を行うことが何ごとかを行うことであるということ、と、
(b)その発言が真偽いずれかであるということ、
との間には必然的な対立は一切ない。その点に関して、たとえば、「私はあなたに、それが突きかかろうとしていると警告する」という発言をこれを比較されたい。ここでは、それが突きかかろうとしているということは、同時に警告であり、かつ、真偽のいずれかである。しかもこのことは、この警告の評価に際して、まったく同じ仕方でというわけにはいかないが陳述の評価の際のそれと同じ程度には問題になることである。
 一見したところ、「私は………と陳述する」は、「私は………と主張する」(このように言うことは、………と主張することにほかならない)や、「私はあなたに、………と伝達する」や、「私は………と証言する」等と本質的な点では一切相異しないように思われる。あるいは、これらの動詞の間の「本質的な」差異というようなものが将来確立されることになるかもしれない。しかし、いまのところこの方向で何ごとかがなされたということはない。
(2)さらに、そこで成立すると主張された第二番目の対照、すなわち、遂行的発言は適切か不適切かであり、陳述は真か偽かであるということを再びまた、明白に陳述であるとみなされるいわゆる事実確認的発言の側から考察してみるならば、われわれは直ちに陳述なるものにおいても、およそ遂行的発言に関して起こり得るあらゆる種類の不適切性がここでも起こり得るので《ある》ということを理解するであろう。ここで再び振り返って、陳述なるものは、われわれがたとえば警告などの場合において、「不適切性」と名づけた欠陥(disabilities)と正確に同一の欠陥を持つことがはたしてないものであるか否かを考察してみよう。ここでいう不適切性とは、発言の真偽のいずれともすることなくただ不適切なものとする、さまざまな欠陥のことにほかならない。
 われわれは、すでに、「猫がマットの上にいる」と言うこと、またそう陳述することが同時に、私がその猫がそのマットの上にいると信じていることを含意(imply)しているということの意味を明らかにした。この意味は、「私はそこに行くと約束する」が、私がそこに行く意図を持ち、かつまた、私がそこに行くことが可能であると思っているという二つのことを含意するということに対応する意味――あるいはそれと同じ意味である。したがって、この陳述は《不誠実》という形の不適切行為となり得る。また、猫がマットの上にいると言ったり陳述したりすることによって、これ以降、私は「マットは猫の下にある」と言ったり陳述したりしなければならなくなるということが起こるが、これはちょうど、(たとえば法令において用いられている場合のように)「私はXをYと定義する」という遂行的発言によって、私が将来その語をある特別の仕方で用いなければならなくなると同様であるという意味において、《違反》(breach)という形式の不適切行為ともなり得る。また、このことが約束などの行為といかに関係しているかを理解することも容易であろう。以上のことが意味していることは、陳述がまさにΓの種類に属する二種の不適切性を生み出し得るということである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.226-228,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:真偽値を持つ陳述,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
ジョン・L・オースティンの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・L・オースティン)

2018年11月18日日曜日

行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

言語褪化の理論

【行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

 行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つことがある。この場合、発言は特殊な状況において、大きくその相貌を変化させ、発言は実質のないものとなったり、無効なものとなったりする。これらは「言語褪化の理論」と呼ばれるものの中で、論じられる。
(a)発言が、舞台の上で役者によって語られる。
(b)発言が、詩の中で用いられる。
(c)発言が、独り言の中で述べられる。

(再掲)

(A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
 行為は企図されたが、慣習的な手続きが存在せず、行為は許されず無効である。
(慣習存在せず・誤発動・不発)
(A・2)発言者、状況の手続的適合性
 行為は企図されたが、発言者、状況が不適合のため、行為は許されず無効である。
(誤適用・誤発動・不発)
(B・1)手続きの適正な実行
 行為は企図されたが、手続きが適正に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(欠陥手続き・誤執行・不発)
(B・2)完全な実行
 行為は企図されたが、手続きが完全に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(障害あり・誤執行・不発)
(Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
 発言者の考え、感情、参与者の意図に適合性がなく、言葉だけで実質がない。
(不誠実・濫用)
(Γ・2)参与者の行為の適合性
 参与者の行為に適合性がなく、実質がない。
(行為不適合・濫用)

 「第二に、他方、問題の行為遂行的発言は、まさに《発言》であるが故に《すべての》発言を汚染する別種の災禍を《もまた》被ることになる。そして、この災禍についても同様に、より一般的な説明が存在するかもしれない。しかし、われわれは当面、意図的にこの問題に立ち入ることを避けておきたい。この災禍という語で、私は、たとえば、次のようなことを考えているのである。すなわち、ある種の遂行的発言は、たとえば、舞台の上で役者によって語られたり、詩の中で用いられたり、独り言の中で述べられたりしたときに、《独特の仕方で》実質のないものとなったり、あるいは、無効なものとなったりするというような種類のことがらである。このことはおよそ発言といえるもののすべてについて同様な意味で妥当する。すなわち、発言はそれぞれの特殊な状況においては大きくその相貌を変化させるのである。そのような状況において言語は、独特な仕方で――すなわち、それとわかるような仕方で――、まじめにではなく、しかし正常の用法に《寄生》する仕方で使用されている。この種の仕方は言語《褪化》(etiolation of the language)の理論というべきものの範囲の中で扱われる種類のものであろう。われわれは、これらのすべてを一応考察の対象から除外する。われわれの遂行的発言とは、それが適切なものであれ、不適切なものであれ、すべて通常の状況で行なわれたものであると理解することにしたい。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.37-38,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:言語褪化の理論,行為遂行的発言の不適切性の理論)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
ジョン・L・オースティンの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・L・オースティン)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
政治思想ランキング

2018年11月3日土曜日

適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的文、行為遂行的発言

【適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】
 「(例a)「そうします。(I do.)(すなわち、私はこの女性を、私の法律上婚姻関係にある妻と認めます。)」――ただし、結婚式の進行の中で言われた場合。
(例b)「私は、この船を『エリザベス女王号』と命名する。(I name this ship the Queen Elizabeth.)」――ただし、船首に瓶をたたきつけながら言われた場合。
(例c)「私は、私の時計を弟に遺産として与える。(I give and bequeach my watch to my brother.)」――ただし、遺言状の中に記された場合。
(例d)「私はあなたと、明日雨が降る方に6ペンス賭ける。(I bet you sixpence it will rain tomorrow.)
 以上の例においては、それぞれの文を述べる(もちろん適当な状況のもとにおいて)ことは、私がかくかくと述べている際に私が行うと述べられているその当のことを実際に行なっているという私の行為を記述することではなく、また、その当の行為を私が行なっているということを陳述しているのでもないということは明白なことであろう。そこでは、その文を口に出して言うことは、当の行為を実際に行なうことにほかならないのである。また、これらの発言のどれをとっても、それらは真でもなければ偽でもない。私はこのことを自明のことであると主張し、それについて議論することはしない。それはあたかも「畜生」(damn)という間投詞が真でも偽でもないのとまったく等しく議論を要しないことであろう。この発言はあるいは、「何ごとかを伝達するために使われている」といえるかもしれない。しかし、このことは当面問題にしていることとはまったく関係のないことである。要するに、船を命名するということは、(適当な状況において)「私はかくかくしかじかと命名する」という言葉を言うことと《同じ》ことであり、また、戸籍役人や聖職者などの前で「そうします」と言う時に、私は、結婚という事件を報告しているのではなく、その事件に当事者として参与しているのである。
 さて、今ここで考えられた種類の文ないし発言を何と名づけるべきであろうか。私としては、それらを行為遂行的文(performative sentence)ないし、行為遂行的発言(performative utterance)、あるいは、簡単に「遂行文」ないし「遂行的発言」(performative)と呼ぶことを提案したい。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第1講 序論――行為遂行的発言とは何か,ⅱ行為遂行的発言の予備的分離,pp.10-12,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的文,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
ジョン・L・オースティンの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・L・オースティン)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
政治思想ランキング

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


人気ブログランキング



FeedPing