認識における関係の役割
【諸々の《もの》や、諸々の事象のうちの一つではなく、《我》と《汝》が向かいあう状況において、「この樹」として現前し、向かいあう存在として、現象そのもののなかで、その存在の本質を打ち明ける。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】認識における関係の役割
諸々の《もの》のうちの一つでも、諸々の事象のうちの一つでもなく、《我》と《汝》が向かいあう状況において、「この樹」として現前し、向かいあう存在として、現象そのもののなかで、その存在の本質を打ち明ける。
(再掲)
一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
(a1)形象、色彩、運動
(a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
(a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
(a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
(b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
(b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
(b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
(b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
(b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
(b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
(b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。
「認識、……向いあう存在を真に観るとき、認識者にはその存在の本質が明らかにされる。
なるほど認識者は、彼が現前するものとして観た存在を、次には対象物として把握し、他のさまざまな対象物と比較し、対象物の系列のなかに組みいれねばならぬだろうし、客体的に記述し、分析せねばならぬだろう。ただ《それ》としてのみその存在は、存続する認識のなかへはいりこむことができるのである。
だが、向かいあう存在として直視されていたとき、それはもろもろの《もの》のうちのひとつでも、もろもろの事象のうちのひとつでもなく、専一的に現前していたのだ。その存在は、あとになって現象から抽き出された法則のうちにおいてではなく、現象そのもののなかで自己を打ち明けるのである。
一般的なものを考えるのは、分かちがたく縺れている事件を解きほぐす一方法にすぎない。
なぜなら、この事件は特殊な相において、《我》と《汝》が向かいあう状況において観られたのであるから。
が、さて一般化されると、この事件は概念的認識という、《それ》の様式(Esform)のなかへ閉じこめられてしまう。
そこからこの事件を開放して、現前する出来事としてふたたび観る者は、人間と人間とのあいだに現実となって作用するものとしてのあの認識行為の意味を成就することができる。
だが、認識というものはまた、《この事物の様態はこうであり、こう名づけられ、このように作られ、ここに属している》というようなことを確認するために行使されたり、《それ》と化したものを《それ》であるままに据えておいて、もっぱら《それ》として経験し利用し、そうすることによって世界に《通暁》し、さらには世界を《征服》しようとする認識主体の企図に役立つべく行使されもするのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.54-55、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:認識における関係の役割)
(出典:wikipedia)
「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)
マルティン・ブーバー(1878-1965)
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