2018年10月20日土曜日

04.合理的な、不注意な、不正な、重要なといった文言が法準則に含まれると、法準則の適用は、法準則外在的な原理や政策にある程度依存するようになり、法準則が原理に似てくる。ただし、考慮される原理の種類は限定されている。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則と原理の違い

【合理的な、不注意な、不正な、重要なといった文言が法準則に含まれると、法準則の適用は、法準則外在的な原理や政策にある程度依存するようになり、法準則が原理に似てくる。ただし、考慮される原理の種類は限定されている。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(a)法準則として構成
 例:通商を「不合理に」制限するいかなる契約も無効とする。
 (a.1)「合理的な」「不注意な」「不正な」「重要な」といった文言が法準則に含まれると、法準則の適用はある程度まで法準則外在的な原理や政策に依存するようになり、法準則自体がより原理に似たものとなってくる。
 (a.2)しかし、「不合理」の判断にあたって、当の法準則が依存しうる他の原理や政策の「種類」が限定されるため、法準則が完全に原理へと変化してしまうわけではない。すなわち、裁判所が「不合理」と判断する場合は、必ず無効とされなければならない。
(b)原理として構成
 (b.1)裁判所は、対抗する有力な政策がない場合にこのような契約を無効とする根拠にできる。
 (b.2)たとえ、「不合理」であると判断されたとしても、ある種の政策や原理を考慮すると、むしろ当該契約は効力を持つべきであると考えられる場合には、当該契約にも効力が認められることがあるだろう。

 「またしばしば、法準則と原理は全く同一の機能を果たすことがあり、両者の相違がほとんど形式の問題にすぎないことがある。シャーマン法の第1部は、通商を制限するいかなる契約も無効であると規定するが、合衆国最高裁判所は、この規定は文字通りの形式において法準則として(すなわち、ほとんどすべての契約は通商を制限を含むとも言えるのであるが、このように「通商を制限する」あらゆる契約を無効とする法準則として)扱うべきか、それとも対抗する有力な政策がない場合にこのような契約を無効とする根拠となる原理として扱うべきかについて、判断を下す必要があった。結局、同裁判所はこの規定を法準則として構成したのであるが、この法準則を「不合理な」という言葉を含むものとして解釈し、通商の「不合理な」制限のみを禁止するものと考えたのである。これによって当該規定は論理的には法準則として機能し(つまり、裁判所が通商の制限を「不合理な」ものとみなす場合は必ず契約は無効とされなければならない)、実質的には原理として機能することが可能となったのである(裁判所は、特定の経済状況における通商の一定の制限が「不合理」か否かを決定する場合、他の様々な原理や政策をも考慮しなければならない)。
 「合理的な」「不注意な」「不正な」「重要な」といった文言は、しばしば上記のごとき機能をもつことがある。この種の用語のいずれかが法準則に含まれていると、法準則の適用はある程度まで法準則外在的な原理や政策に依存するようになり、かくして法準則自体がより原理に似たものとなってくる。しかし、これらの文言が含まれていても、法準則が完全に原理へと変化してしまうわけではない。というのも、これらの文言の限定する働きがきわめて弱い場合でも、当の法準則が依存しうる他の原理や政策の「種類」は限定されるからである。我々が「不合理な」契約を無効とする法準則や、あまりに「不公正な」契約は効力をもちえないとする法準則に拘束されるとき、括弧内の文言を省いた場合よりも多くの判断が必要とされることは確かである。しかし、(たとえ契約による通商の制限が合理的ではなくあるいはきわめて不公正な場合でも)ある種の政策や原理を考慮すると、むしろ当該契約は効力をもつべきであると考えられる場合を想定してみよう。我々の法準則ではこの種の契約は無効とされており、したがってこの法準則自体を放棄ないし修正しないかぎり契約を有効と認めることはできない。これに対し、我々が扱っているのが法準則ではなく、不合理な契約には効力を認めないという原理であれば、法を修正する必要なくして当該契約にも効力が認められることがあるだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,3 法準則・原理・政策,木鐸社(2003),pp.22-23,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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