2018年12月2日日曜日

13.例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

ある一つの「部屋」の記述

【例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「フレーゲとラッセルが対象について語ったとき、彼らは名詞によって言語的に表わされるものを、常に念頭においていた。それゆえ我々は対象について語るとき、それを椅子や机のように語るのである。

対象についての完全な把握は、それゆえ、命題の主語-述語形式と密接に関係しているのである。主語-述語形式の存在しない所では、人はこの意味では対象について語ることは出来ない、ということは明らかである。

さて、私は部屋を全く別様にも記述することが出来る。それは例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示する、という様にである。

この記述様式においては、もはや個々の「対象」については、即ち椅子、本、机、そしてそれらの空間的配置については、何も語られてはいないのである。それゆえここにおいては、関係は存在しない。そのようなものは一切存在しないのである。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』一九二九年十二月二二日 日曜日(シュリック宅にて)、全集5、p.56、黒崎宏)
(索引:部屋の記述)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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