人間が自ら創造した世界
人間の創造物には、創造の媒体自体が従う規則性の制限を受けつつ創造する場合から、ほとんど媒体の制限を受けずに、自由に創造する場合まで、いろいろなバリエーションがある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(a)創造の媒体と創造の規則
ある物の創造者には、特にその物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。
(b)媒体の制限の影響を受けつつ自由に創造する場合
作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない。作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である。
(c)ほとんど媒体の影響を受けないと考えられる場合
芸術的創造が純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど我々は「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。
「「原因を閲した」知識が他の知識より優れているという見解は古くからあり、スコラ哲学 の中にも再三見られるものである。神もそのように世界を知っておられる、何故ならば、神 は、神のみが知るやり方で、また理由から、世界を創られたのであるから。一方、われわれ人 間は、世界をそれほど十分には知り得ない、何故ならば、われわれがそれを作ったのではない ――いわば、「出来合い」として発見し、「ままならぬ事実」として与えられたのであるから。 ある物の創造者には、特に(神の場合のように)その物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。彼はそれについて残らず答え得る。自分自身の意思に応じて、その存在と機 能のいわれを心得ている材料を使って作ったのだ。その材料にしても自分の意向にかなうよう に作ったのだから、(作者として)自分だけは十分わかっているわけである。これは例えば、 小説家が自作の小説の登場人物を十分理解し得る、画家や作曲家がその絵画や歌曲を十分解し 得るといえるのと同じ意味である。なるほど作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない――作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である――この与えられた媒体を、ある制限内 で、彼は自由に選べるが、いったん選んでしまえば、何故それがこれこれの性質を具えている か、その理由は必ずしも解さないまま――「原因を閲して」知ることなきまま――その媒体に従わ ざるを得ない。それゆえ、われわれが何ものかを文字通り無から作り構想したような理想的な 場合のみ、われわれはわれわれの作ったものを十分に理解しているといえる。というのは、そ ういう場合、創造することと何のために何を創造したかを知ることが単一の行為だからであ る。神が世界を創造されたのはこのような具合なのだ。芸術的創造がこの極限状況に近づけば近づくほど――純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど――われわれは「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。そこで用いられる(耳で聴 き眼で見る)記号の形は、たしかに感覚にかかわる素材ではあるが、それらは全く恣意に選ん だもので、いわば勝手に考案したゲームの数取りとして使っているのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,2,pp.52-53,みすず書房(1981),小池 銈(訳))
アイザイア・バーリン (1909-1997) |