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2022年3月1日火曜日

支配の諸関係の内部で、当該の社会的諸関係がどのように実際には作動しているのかは、実質的に従属した人々がどのように考え、行動しているかで理解できる。召使は自分を雇っている家庭の事情について事細かに知っているものだが、その逆はほとんどあり得ないのである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

想像的同一化

支配の諸関係の内部で、当該の社会的諸関係がどのように実際には作動しているのかは、実質的に従属した人々がどのように考え、行動しているかで理解できる。召使は自分を雇っている家庭の事情について事細かに知っているものだが、その逆はほとんどあり得ないのである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「解釈労働の一般理論を発展することは可能だろうか? わたしたちはたぶん、ここには、結合してはいるが形式的には区別する必要のある、二つの重要な要素があることを認識するこ とからはじめねばならない。第一の要素は、知の形式としての想像的同一化の過程である。す なわち、支配の諸関係の内部では、当該の社会的諸関係がどのように実際には作動しているの かを理解する作業は、実質的に従属した人々に一般的にはゆだねられている、という事実であ る。たとえば、食堂のキッチンで働いたことのある者ならば周知のことがある。盛大なヘマが あって、怒った支配人が顔を出し、状況を把握しようとしたとして、かれがこまごまと調査を することはないし、あわてて事態を説明しようとする従業員の話をまじめに聞こうとすら、た いていはしないということである。全員を黙らせ、適当にストーリーをこしらえ、即座の判断 をくだす、という可能性の方がはるかに高いのだ。「ジョー、おまえはこんなしくじりはしな いな。マーク、おまえだな、おまえは新入りだしな。二度とやったら、今度はクビだぞ」。ミ スの再発を防ぐべく、真の原因を探り出す作業は、人を雇用したり解雇したりする力をもたな い人間がやることになる。同様のことは、たいてい、持続する関係のうちに起きるものであ る。たとえば、だれもが知っていることだが、召使はじぶんを雇っている家庭の事情について 事細かに知っているものだが、その逆はほとんどありえない。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.100-101,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田 和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







2022年2月28日月曜日

西洋の知的伝統として、創造的だが混沌をはらんだ衝動、欲望、感情を制御するのが理性とされてきた。ヒュー ムは、合理性は規範や価値とは区別され、理性は目的・価値の手段と明確に述べた。官僚制は手段である。目的は何か。市場は事実なのか。ある価値が合理性を僭称しているのではないか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合理性の観念をめぐって

西洋の知的伝統として、創造的だが混沌をはらんだ衝動、欲望、感情を制御するのが理性とされてきた。ヒュー ムは、合理性は規範や価値とは区別され、理性は目的・価値の手段と明確に述べた。官僚制は手段である。目的は何か。市場は事実なのか。ある価値が合理性を僭称しているのではないか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「西洋の知的伝統の傾向として、人間の理性の力は、なによりもまず、わたしたちの低劣な 衝動を制約する方法とみなされてきた。この想定はすでにプラトンやアリストテレスのうちに みいだしうるが、魂についての古典理論がキリスト教やイスラームに応用されたとき、きわ だって強化された。そう、わたしたちはだれも創造性と想像力の力能を有しているのとおなじ く、動物じみた欲動と感情を抱えている。しかし、これらの衝動は[総じて]究極的には混沌 としたものであり反社会的なものである。個人においてであろうが政治的共同体においてであ ろうが、理性とは、わたしたちの低劣な本性を、それがカオスや相互破壊にいたりつくすこと のないようたえずチェックし、その潜在的に暴力的なエネルギーを抑圧し、水路づけし、封じ 込めるものである。それはモラルの力なのである。政治的共同体とか合理的秩序の場を意味す る、ポリス polis[都市国家]という言葉が、たとえば、「礼儀正しさ(politeness)」 や「警察(polis)」とおなじ語源を共有しているのは、このためである。その結果、また、 この伝統にはつねにある感覚が潜伏することになった。わたしたちの創造性にかかわるもろも ろの力能には、少なくともどこかしら、悪魔的ななにかがあるにちがいない、と。  ここまで述べてきたような、官僚制ポピュリズムの登場は、このような合理性の観念の――あ たらしい理念への――完全な反転である。そのあたらしい理念については、デヴィッド・ヒュー ムによる要約がもっともよく知られている。「理性は感情の奴隷であり、奴隷でのみなければ ならない」。この観点からすれば、合理性はモラリティとはなんの関係もない。それは純粋に 技術的事象である。道具であり、機会であり、それ自身は合理的に評価することはできな諸目 標を、最大に効果的に達成する方法を推論する手段なのである。理性は、わたしたちになにを 望むべきかを指示することはできない。それが指示することができるのは、ただ、わたしたち の望むものを獲得する最良の方法のみである。  どちらの見方にせよ、理性はいずれにしても、創造性、欲望、ないし感情の外部にある。か たや、そうした感情を制約するように作用し、かたや、促進するように働く、という点で異な るわけだ。  この論理をもっとも遠くまでつきつめたのが、経済学というあたらしい学問分野であるとい えよう。しかしその論理の根は、市場のみならず、少なくともそれと同程度には、官僚制にあ る(そして想起しなければならないのは、ほとんどの経済学者があれこれの大規模な官僚組織 のお雇いであるということであり、これまでもつねにそうであったことである)、手段と目的 のあいだ、事実と価値のあいだに厳密な区別をつけることができるという発想そのものが、官 僚制的心性の産物なのである。というのも、官僚制とは、ことをなす手段を、それがなんのた めになされたのかということから完全に切り離されたものとして扱う、最初のそしてただひと つの社会的制度だからである。このようにして、官僚制は事実上、長期にわたって、世界人口 の少なくとも大多数の日常意識に埋め込まれてきたのだ。  しかし同時に、合理性についてのもっと古い考え方が、完全に消え去ったわけではない。反 対に、この二つの考え方は、ほとんど完全に矛盾するにもかかわらず――たえず摩擦を起こしつつではあるものの――共存している。その結果、わたしたちの合理性についての観念そのものが 奇妙にも一貫性を欠いたものとなったのである。この言葉の意味がいったいどのようなものと 想定されているのか、まったくもってあきらかではない。ときにそれは手段である。ときにそ れは目的である。ときにそれはモラリティとはなんの関係もない。ときにそれは正しいこと、 善であることの本質そのものである。ときにそれは問題解決の方法である。そきにそれは、す べてのありうる問題への解決そのものである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,3 規則のユートピア、あ るいは、つまるところ、なぜわたしたちは官僚制を愛しているのか,pp.232-233,以文社 (2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))


官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]

デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








官僚制は支配者にとって不可欠であるだけでなく、非統治者にとっても利点がある。それは現金取引に似ており、魂がない。他面では、それらはともに単純で予測可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。また、複雑で疲弊を招くような解釈労働も不要である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

非人格的な官僚制の利点

官僚制は支配者にとって不可欠であるだけでなく、非統治者にとっても利点がある。それは現金取引に似ており、魂がない。他面では、それらはともに単純で予測可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。また、複雑で疲弊を招くような解釈労働も不要である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))





(a)非人格的な官僚制的諸関係は現金取引に似ている
 官僚制的手続きの放つ魅力についてのもっともシンプルな説明は、その非人格性によるものである。 冷血で非人格的な官僚制的諸関係は、現金取引にそっくりであり、ともに似たような利点と欠 点をもっている。
(b)魂がないが予測可能で平等である
 官僚制にも現金取引にも魂がない。他面では、それらはともに単純で予測可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。官僚制は、複雑で疲弊を招くような解釈労働を、どちらの側にも求めることはない。



「二番目にありうる説明は、官僚制は支配者にとって不可欠であるだけでなく、官僚制に よって管理される者たちにとってもまごくことなき魅力がある、というものである。官僚制の 効率性についてのヴェーバーによる奇妙な称賛について、ここで同意する必要はない。官僚制 的手続きの放つ魅力についてのもっともシンプルな説明は、その非人格性によるものである。 冷血で非人格的な官僚制的諸関係は、現金取引にそっくりであり、ともに似たような利点と欠 点をもっている。一面では、それらはともに魂がない。他面では、それらはともに単純で予測 可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。いずれにせ よ、万物が魂であるような世界で暮らしたいと、だれが望むであろうか? 官僚制は、本書の 第1章でえがきだしたような、複雑で疲弊を招くような解釈労働を、どちらの側にも求めるこ とはない。あるいは、少なくとも、官僚制はそのような人間関係の可能性だけは提示している のである。たとえば、じぶんのお金をカウンターにおけば、それだけでじぶんの服装をレジ係 がどうみているか、おもいわずらう必要はないし、写真付きのIDカードを提示すれば、どうし て同性愛をテーマとした18世紀のブリテンの詩をどうしても読みたいのか説明する必要もな い。これが魅力のひとつであることは、まちがいない。実際、この問題をじっくりと考えてみ るならば、たとえわたしたちがユートピア的な共同体社会を設立しえたとしても、非人格的 (あえていえば官僚制的)制度がいっさい不要となる、などということを想像することはむず かしい。それは、まさに以上の理由からなのである。ひとつ、はっきりとした事例をあげてみ よう。どうしても必要な臓器移植のため、非人格的抽選システムや順番待ちリストにやきもき することは疎外や苦悩の種であろう。だが、比較的良好の心臓や腎臓のかぎられたプールを配 分する方法として、これ以上に非人格的ではない方法を想像することも困難なのである。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,3 規則のユートピア、あ るいは、つまるところ、なぜわたしたちは官僚制を愛しているのか,pp.215-216,以文社 (2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






官僚制は、重大な情報へのアクセスを独占し、「職務上の秘密」として知識や意図を秘匿することによって非統治者からの批判を回避し、優位性を高める。官僚制が議会に対立する場合、議会が自分自身の手段を用いて利害関係者たちから専門的知識を得ようとするあらゆる企てに対し挑戦する。(マックス・ヴェーバー(1864-1920))

官僚制は知識や意図を秘匿する

官僚制は、重大な情報へのアクセスを独占し、「職務上の秘密」として知識や意図を秘匿することによって非統治者からの批判を回避し、優位性を高める。官僚制が議会に対立する場合、議会が自分自身の手段を用いて利害関係者たちから専門的知識を得ようとするあらゆる企てに対し挑戦する。(マックス・ヴェーバー(1864-1920))
























(a)知識や意図の秘密保持によって批判を回避し優位性を高める
 いかなる官僚制も、その知識や意図の秘密保持という手段によってかような職業的ヴェテランの優越性をいっそう高めようとする。官僚制的行政は、その傾向からすれば、つねに、公開禁止をもってする行政である。官僚制はできるだけその知識と行為を批判からかくまうものである......。
(b)「職務上の秘密」の熱狂的な擁護
  この「職務上の秘密」という概念は官僚制独自の発明にかかるもので、事の性質上それの許される領域外では、純即物的に首肯しがたいこの態度ほど、官僚制が熱狂的に擁護するものは他にない。
(c)権力本能からする議会への対抗
 官僚制が議会に対立するばあい、それは、確実な権力本能から、議会が自分自身の手段(......)を用いて利害関係者たちから専門的知識を得ようとするあらゆる企てに対 し挑戦する......。





「官僚制たるもの、いったん形成されるや、権力行使につとめる人間にはかれがなにをしよ うとしているのかにかかわらず、ただちに必要不可欠のものになるであろう。[官僚制を通し て権力行使する]その主要な方法は、つねに重大な情報へのアクセスを独占することによるも のである。この点について、ヴェーバーは、長い引用に値する。  『いかなる官僚制も、その知識や意図の秘密保持という手段によってかような職業的ヴェテ ランの優越性をいっそう高めようとする。官僚制的行政は、その傾向からすれば、つねに、公 開禁止をもってする行政である。官僚制はできるだけその知識と行為を批判からかくまうもの である......。  この「職務上の秘密」という概念は官僚制独自の発明にかかるもので、事の性質上それのゆ るされる領域外では、純即物的に首肯しがたいこの態度ほど、官僚制が熱狂的に擁護するもの はほかにない。官僚制が議会に対立するばあい、それは、確実な権力本能から、議会が自分自 身の手段(......)を用いて利害関係者たちから専門的知識をえようとするあらゆるくわだてに対 し挑戦する......。』」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,3 規則のユートピア、あ るいは、つまるところ、なぜわたしたちは官僚制を愛しているのか,p.213,以文社(2017),酒 井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月25日金曜日

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴動の制度化、忌まわしい鏡

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)民主主義的アテネ
 決定的な公的行事とは広場での集会だった。アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた。
(b)権威主義的ローマ 
 (i)決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった。
 (ii)剣闘士競技に関して魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。そこでは、民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義、英雄崇拝、気ちがいじみた情熱。
 (iii)それはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるなら、どのような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。



「暴動の制度化というこの現象が、実際にどの程度国家によって奨励されていたのかという のは、歴史的検討に値する問題だ。もちろん、ここで私が想定しているのは文字通りの暴動で はなく、「忌まわしい鏡」と呼ぶことができそうな何か――つまり、民衆的な意思決定とは暴力 的で混沌としていて恣意的な「暴徒支配」にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化す べくエリート層によって促進され支持された、諸々の制度のことである。こうした制度は権威 主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと、私は思っている。例えば、民主主 義的アテネにおける決定的な公的行事とは広場での集会だったのに対して、権威主義的ローマ における決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処 刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった (Veyne 1976; Kyle 1998; Lomar & Cornelle 2003)。とりわけ剣闘士競技に関して 魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。けれども、アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた――基底をな すのは強制力の原理であり、それが時として恐ろしくも血まみれの決定を可能にしていたとい うことはあるにしても――のに対して、ローマのサーカスはほとんど正反対の機能を果たしてい た。サーカスはアゴラには似ても似つかず、むしろ正規化され国家により主催されたリンチの ようなものだったのだ。民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが――気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義(競いあう戦 車チームを応援する人びとが路上で乱闘するのは日常茶飯事だった)、英雄崇拝、気ちがいじ みた情熱――、ローマの円形闘技場では単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。そ れはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるならど のような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.50-51,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

多数派民主主義とコンセンサスによる意思決定

人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)多数派の決定を強制する手段が存在しない社会
 (a)コンセンサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。
 (b)平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。

(2)強制力を備えた機関が存在する社会
 強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかった。
(3)多数派民主主義の発生条件
 人類の歴史の大部分において、以下の両条件が同時に満たされることは極めて稀であった。
 (a) 人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在する。
 (b)決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在する。
(4)コンセンサスによる意思決定のために
 (a)採決は屈辱、恨み、憎しみを残す
  採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。
 (b)コンセンサスによる意思決定
  (i)コンセンサスによる意思決定とは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。
  (ii)重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて、立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  


「私としては、次のような説明を提案したいと思う。対面関係から成り立っているコミュニ ティにおいては、構成員の大部分が望んでいるのは何かを突き止めることのほうが、それを望 まない少数者の心を変えるにはどうしたらいいかを考えることよりもずっと簡単なのだ。コン センサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。強制力を独占する国家が存在しない場合で あれ、国家が局所的になされる意思決定に無関心であるか介入傾向を持たない場合であれ。多 数派の決定を快く思わない人びとを当の決定に従うよう強制する手段が存在しないのであれ ば、採決を取るというのは最悪の選択だ。採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確 実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。現代的な直接行動グループをやっていくためのファシリテーション・トレーニングを受け たことのある活動家であれば誰でも心得ているはずのことだけれど、コンセンサス・プロセス は議会での討論と同じものではなく、コンセンサスを見出すのは投票による採決とはまったく 別のなにかだ。反対に、そこにあるのは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。それはつま り、私たちが普通行っている二つの水準――意思決定とその実施――の区別が、ここではなし崩し になっているということだ。もちろん、誰もが同意しなければならない、ということではな い。コンセンサスの諸形態のほとんどにおいては、程度を異にする不合意の多様な形態が認め られる。重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  言ってみれば、多数派民主主義が発生するのは以下の二つの条件が同時に満たされた場合の みなのだ。  一、人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚の存在、そして  二、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置の存在。  人類の歴史の大部分において、両者が同時に満たされることは極めて稀であった。平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。反対に、強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかったの だ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.45-47,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

民主化運動弾圧の標準的な戦術

民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 (a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝
 まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で、(少なくとも 潜在的には) 暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。
 (b)中産階級の支持者を分断
 次に、中産階級の支持者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる。
 (c)治安紊乱を意図的につくりあげる
 本当に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる。周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである。



「1999年、2000年そして01年のグローバル・ジャスティス運動を抑え込むためのさまざま な試みは明らかに組織的なものであり、01年9月11日以降、アメリカ政府は社会秩序への脅威 とみなすものすべてに統一的に対応するという明確な目的のもと、新たなセキュリティ官僚制 度を幾層にも構築したのだ。これらの諸機関を運用する者が、大規模かつ急速に拡大する潜在 的に革命的な全国規模の運動に何の関心も示さずただ傍観したままだとしたら、かれらは何ら 職務を遂行していないということになる。  かれらはどのように事をすすめたのか。たしかにこれもわからないし、おそらく今後もずっ とわからないだろう。60年代の公民権運動、平和運動を転覆しようとしたFBIの役割が正確に わかるまでには数十年かかった。それでもやはり、起こるべくして起こったことの大枠を掴む のは特に難しいことではない。実際には民主化運動を弾圧しようと試みる政府のほとんどが採 用している標準的な戦術があり、今回もほぼ定石通りに行われたのは明らかだ。その脚本はこ のように展開する。まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で(少なくとも 潜在的には)暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。次に、中産階級の支持 者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる、あるいは本当 に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる(周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである)。このように攻撃されるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.160-161,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

不平等を支える構造的暴力

二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「ここでぜひとも重要な条件をひとつ導入する必要がある。ここではすべてが諸力の均衡に かかっているということだ。二者が相対的に平等である暴力の競合に関与している場合――たと えば、対立する軍隊を率いる将軍のような――、かれらがたがいの頭の中身を調べようと努力す るのは当然である。そうする必要がもはやなくなるとしたら、それは、一方の側が物理的危害 を与える能力において圧倒的に有利であるときのみである。しかしこれは、きわめて深遠なる 効果をもたらす。というのも、それが意味しているのは、暴力のもっとも固有の効果、すなわ ち、「解釈労働」の必要を除去する力能がもっとも顕著なものになるのは、暴力それ自体が もっともみえにくいようなとき、めざましい物理的暴力行為の起きる可能性としてはもっとも 低いときであるということである。わたしが先に、実力の脅威によって究極的に支えられた体 系的不平等の状況、として規定した「構造的暴力」とは、まさにこうした事態である。このた めに、構造的暴力の状況は、例外なく、きわだって不均衡な、想像力による同一化の構造を生 み出してしまうのである。  これらの効果は、不平等の構造がきわだって深く内面化された形態をとる場合、しばしば もっとも可視となるのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.97-98,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]






デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

予測可能な結果を得る手段としての暴力

物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「なるほど、だれかに障害を加えたり、だれかを殺害したりすることによって与えることの できる効果は、きわめて限定されている。しかし、それらは十分に現実的である。そして、決 定的なことには、その効果がどのようなものであるのかが前もって正確に予測可能なのであ る。それ以外のいかなる行為の形態も、共有された意味や了解に訴えることなしには、いかな る予測可能な効果もいっさいうることはできない。さらにいえば、暴力の脅威で他者に影響を 与えようとする試みが、あるレベルの共有された了解を必要とするにしても、それはまったく 最小限のものである。ほとんどの人間の関係は――それが長期の友人のあいだであろうと敵同士 のあいだであろうと、とりわけ継続中のそれは――、とんでもなく複雑なものであり、歴史と意 味を濃密にはらんでいるものである。それを維持するには、想像力とか世界を他者の観点から みる終わりのない努力といった、恒常的でたいてい繊細な作業を必要とする。先に「解釈労 働」として述べたものはこれである。物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、こうし たすべてを省略することを可能にする。それははるかに単純で図式的であるような関係を可能 にするのである(「この線をふみ超えたら撃つぞ」とか「もう一言でもいってみろ、刑務所に ぶちこむぞ」とか)。もちろん、このために、暴力はひんぱんに愚か者に好まれる武器となる のである。暴力は愚か者の切り札であるとすらいえるかもしれない。というのも(そしてこれ は人間存在の悲劇のひとつであることはたしかだが)、それが知的な対応のもっとも困難であ る愚かさの一形態だからである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.96-97,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴力行為の特徴付け

暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

(a)暴力行為の特徴付け
 暴力は、自分が何も理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたらすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である。
(b)解釈労働の必要性
 他者の行為に影響を及ぼそうとする暴力以外の方法の大部分では、他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしているのか、この状況から彼らはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なくとも、何がしかの考えをもつ必要がある。



「これらのポイントをひとつずつとりあげてみよう。暴力行為が一般的にいってコミュニ ケーション行為でもある、ということは、正しいのだろうか? 正しいのは、まちがいない。 しかし、このことは、人間の行為ならば、いかなる形態にもおおよそあてはまる。暴力につい て本当に重要なことは、おそらく、コミュニカティヴであること《なしに》社会的諸効果をも たらす可能性を提供することのできる、ただひとつの人間の行為の形態である、という点にあ るように、わたしにはおもわれる。より正確にいえば、暴力は、じぶんがなにも理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたあすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である、ということだ。他者の行為に影響を及ぼそうとするそれ以 外の方法の大部分では、その他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしている のか、この状況からかれらはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なく とも、なにがしかの考えをもつ必要がある。ところが、かれらの頭を殴り飛ばしてみよう、こ うしたすべてが不要になる。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.95-96,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

レント取得、ブルシットジョブの増殖

企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)金融化とレント取得
 金融化の過程とは、企業による利潤のうちのますます大きな割合が、あれやこれやのレント取得という形をとるということである。
(b)強制力に担保された規則や規制の増殖
 規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはや私たちは自分が脅威にさらされていると認めないほどである。
(c)レント取得による利潤の還流とブルシットジョブの増殖
 同時に、レント取得による利潤のいくぶんかはリサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入されている。ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事、戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」が、これらの職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖し続けている。



「現代にふさわしい官僚制の批判は、これらのより糸――金融化、暴力、テクノロジー、公的 なものと私的なものの融合――が、いかにたがいに織り合わされ、独立した単一の網の目を形成 しているのかを示さなければならないだろう。金融化の過程とは、企業による利潤のうちのま すます大きな割合が、あれやこれやのレント取得というかたちをとるということである。つき つめるなら、これはさしずめ合法化されたユスリといったところである。それゆえ、それにあ いともなって、規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはやわたし たちはじぶんが脅威にさらされていると認めないほどである。そうではない世界がどのような ものか、想像すらできないからである。それと同時に、レント取得による利潤のいくぶんかは リサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入され ている。わたしがべつのところで述べた現象を促進している要因は、これである。すなわち、 ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事――戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資 源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」――が、これら の職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖しつづけているという現象である。結局、これは1970年代、80年代に、企 業官僚制が金融システムの拡大に呑み込まれるにつれてはじまった階級的再結合の基本的論理 の延長にほかならない。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,p.59,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳)) 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







2022年2月24日木曜日

19.この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合理的・技術的手段と目的、価値

この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)不合理な目的と合理的・技術的手段との分裂
 公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率的手段を見出すことのできる自らの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。
(b)何らかの実現手段と、別の自由な目的
 人間は、豊かになるため市場に足を向け、そのための最も効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、それを使って何をしようがかまわないとも想定されている。
(c)自由な目的と、その実現手段
 ほとんどの時代や地域で、人の振る舞う方法は、その人の本質の根本的表現であると見做されている。すなわち、目的があって、それを実現するための手段と行為がある。
(d)何らかの実現手段が価値を主張する
 二つの領域、すなわち技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他方の領域に侵入を試み始めるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値である、それらは究極の価値ですらある、我々は「合理的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間が現れるのだ。
(e)実現手段から切り離された目的
 その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間も現れる。しかし、こうした運動はすべて、自らが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのである。



「この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配のもっとも深遠なる遺産とは、合理 的・技術的手段とそれが奉仕する根本的には不合理な目的のあいだの直感的分裂を、あたかも 常識であるかのようにみせかけてきたことにある。

まず国家レベルでこのことはいえる。そこ で公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率 的手段をみいだすことのできるみずからの能力に、誇りをおぼえている。

その目標が、文化的 繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。

それとおなじことが個 人レベルでもあてはまる。そこでは、人間は、豊かになるため市場に足をむけ、そのための もっとも効率的な計算をすると想定されている。

だが、いったん貨幣を手にしたら、マンショ ンを買おうが、レースカーを買おうが、消えたUFOの探索費用にあてようが、あるいは、子ど もに気前よくばらまこうが、それを使ってなにをしようがかまわないとも想定されている。

こ うしたことはあまりに自明視されているので、これまで歴史的に存在してきたほとんどの人間 社会では、そうした分裂が考えられもしなかったことなど、想起するのもむずかしい。

ほとん どの時代や地域で、ひとのふるまう方法[ひとのとる手段]は、そのひとの本質[目的]の根 本的表現であるとみなされているのである。

しかし、このように二つの領域――技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域――に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他 方の領域に侵入を試みはじめるかのようにみえる。

合理性ないし効率性はそれ自体価値であ る、それらは究極の価値ですらある、われわれは(それがなにを意味していようと)「合理 的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間があらわれるのだ。

その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間もあらわれる。

しかし、こうした運 動はすべて、みずからが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのであ る。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.54-56,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






18.個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

規則に縛られた組織と個人の自由

個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)諸個人の自由と規則に縛られた組織との関係についての楽観的な見方
 19世紀、官僚制国家の権威主義的手段は、個人の財産の保護と個人の自由のために正当化された。官僚制的資本主義がアメリカ合衆国に現れたとき、同じように消費主義的基礎に基づいて正当化された。非人格的で規則に縛られた組織と、絶対的に自由な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた。
(b)消費を介した個人の自由な自己実現
 市場と官僚制が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。
(c)目的と目標の隠蔽手段としての合理性
 合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際には何のためのものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と、想定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。


「いいかえれば、合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際にはなんのための ものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と想 定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。

市場と官僚制 が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自 由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。

ヘーゲルやゲーテのような 19世紀プロシアの官僚制国家の支持者にとって、その権威主義的手段が正当化されうるのは、 みずからの財産が絶対的に保護されていること、それゆえみずからの住居ではなんでも意のま まに自由にできることが市民に許容されているがゆえであった。

意のままに自由にできるとい うことの意味するところが、芸術、宗教、情事、哲学的思弁などを追求することであろうが、 あるいはたんに、どのビールを飲むか、どんな音楽を聴くか、どんな服装を着るかをじぶんで 決定することであろうと。

官僚制的資本主義がアメリカ合衆国にあらわれたとき、おなじよう に消費主義的基礎にもとづいて正当化された。労働者だって、もっと種類があって、もっと安 価に家庭むけ商品が買えるのなら、労働条件の(労働者自身による)統制を放棄して当然だろ う、と、このように要求を正当化できるのである。

非人格的で規則に縛られた組織――公的領域 であろうと生産領域であろうと――と、クラブやカフェ、台所、家族旅行における絶対的に自由 な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた(最初はもちろんこの自由 は世帯の家父長に限定されていたが、しだいに、少なくとも原則的には万人に拡がった)。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.53-54,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






17.政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

効率性や合理性、技術的有効性とは

政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「グローバル・ジャスティス運動が教えてくれるひとつのことがらは、政治は究極的には価 値にかかわるものであること、とはいえ、巨大な官僚制システムを構成する人びとがその価値 が本当にはなんなのかを認めることはほとんどない、ということである。

このことは、現代の カーネギーたちにもあてはまる。ふつう、かれらは――20世紀の変わり目の泥棒男爵とおなじよ うに――、みずからの行動を効率性や「合理性」のもとに正当化するだろう。しかし、実際に は、こうした言葉はつねに、故意にあいまいにされている、あるいは無意味なものにされてい ることがわかる。

「合理的」人間とは、基本的な論理の結合をなすことができ、現実を錯乱し ていない仕方で評価できるような人間を指す。いいかえれば、イカれていない人間のことであ る。みずからの政治を合理性に基礎づけると宣言する者は、みな――そしてこれは右翼にも左翼 にもあてはまるのだが――じぶんに同意しない人間は正気ではないと宣言しているのであり、こ れはひとが取りうるもっとも傲慢なポジションである。

さもなくば、かられは、「合理性」を 「技術的有効性」とおなじ意味で用いることで、じぶんたちが《いかにして》物事に取り組ん でいるのかのみを語る。というのも、じぶんたちが究極的に取り組んでいるのは《なにか》に ついて語ることを望まないからである。

このようなやり口にかけて、新古典派経済学は悪名高 い。

国政選挙に投票するのは「不合理」である(個人の投票者が見込みうる利益よりも、その 努力の方が高くつくがゆえに)と、経済学者が証明しようと試みるとき、かららがこのような 物言いをするのは、「市民的参加や政治的理念、共通善それ自体には価値をおかない者、か つ、公共の事業を個人的利得の観点からしか考えない者にとってのみ不合理である」とはいい たくないためである。

投票を通してみずからの政治的理想を促進させるべく最良の方法を合理 的に計算する、といったことが不可能である、とみなす理由はまったく存在しない。

しかし、 くだんの経済学者たちの想定によるならば、このような道筋をとる者はだれしもイカれている ということになるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.52-53,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






16. 「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙う、グローバルな行政機構の形成のことであり、「グローバリゼーション」の本当の意味は官僚制化である。このシステムの諸基礎は1940年代に構築され、冷戦の衰退とともに真に実効的となった。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

自由貿易、自由市場とは何か

 「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙う、グローバルな行政機構の形成のことであり、「グローバリゼーション」の本当の意味は官僚制化である。このシステムの諸基礎は1940年代に構築され、冷戦の衰退とともに真に実効的となった。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 
(a)国際機関、官僚組織
 頂点には、NAFTAのような条約機構やEUとともに、 IMF、世界銀行、WTO、そしてG8諸国のような貿易にかかわる官僚組織がある。グローバルサウスのいわゆる民主的な政府も従っている経済政策、社会政策を展開させているのは、これらの組織である。
(b)金融会社
 トップのすぐ下には、ゴールドマン・サックス、リーマンブラ ザース、アメリカ保険グループのようなグローバルに展開する大規模金融会社、それに加え て、スタンダード&プアーズのような諸組織がある。
(c)超国家的巨大企業
 その下には、超国家的巨大企業がやってくる。「国際貿易」と呼ばれるものの多くが、実際には、同じ企業のさまざまな部門のあい だの、物資のやりとりを意味している。
(d)NGO
 最後に、NGOがあって、世界のさまざまな場所で、 かつては政府によっていた社会的サーヴィスの多くを担うようになった。その結果、ネパール にある市街の都市計画とかナイジェリアのある小さな町の保健政策が、チューリッヒやシカゴ の事務所で練られることになるわけである。


「グローバリゼーションとは、新テクノロジーによって拓かれた平和的貿易という自然のプ ロセスではない。

「自由貿易」とか「自由市場」といった用語でもって語られてきたものの内 実は、地球規模の行政官僚システムの世界初の実質的な完成であり、それも自覚的にもくろま れたくわだてであった。

このシステムの諸基礎が構築されたのは1940年代であるが、真に実効 的となったのは冷戦の衰退とともにはじめてである。

この過程のなかで、それらはしばしば概 念上においてすらまったく区別できない、公的要素と私的要素の徹底した絡み合いからなるよ うになった。同時期に形成された、それ以外のほとんどのより小規模の官僚制システムも同様 であった。

次のように考えてみよう。頂点には、NAFTAのような条約機構やEUとともに、 IMF、世界銀行、WTO、そしてG8諸国のような貿易にかかわる官僚組織がある。グローバルサ ウスのいわゆる民主的な政府もしたがっている経済政策――社会政策すらも――を展開させている のは、これらの組織である。

トップのすぐ下には、ゴールドマン・サックス、リーマンブラ ザース、アメリカ保険グループのようなグローバルに展開する大規模金融会社、それに加え て、スタンダード&プアーズのような諸組織がある。

その下には、超国家的巨大企業がやって くる(「国際貿易」と呼ばれるものの多くが、実際には、おなじ企業のさまざまな部門のあい だの、物資のやりとりを意味している)。

最後に、NGOがあって、世界のさまざまな場所で、 かつては政府によっていた社会的サーヴィスの多くを担うようになった。その結果、ネパール にある市街の都市計画とかナイジェリアのある小さな町の保健政策が、チューリッヒやシカゴ の事務所で練られることになるわけである。  

当時、わたしたちは、事態について、まったくこうした観点から把握してはいなかった。

つ まり、「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙 うグローバルな行政機構の形成のことである、とか、「グローバリゼーション」の本当の意味 は官僚制化である、という観点である。

ときに、その地点にまで接近はした。しかし、それを 明確に理解し、表現することはめったになかったのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.41-42,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








15.投資家の利潤取得を保障するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体を形成してゆく。その際、規制緩和とラベリングされるが、それは官僚制の縮小でも、個人の創意工夫の解放でもなく、自らに都合の良い規制に公的権力を改変できる「緩和」である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

全面的官僚制化、略奪的官僚制化

投資家の利潤取得を保障するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体を形成してゆく。その際、規制緩和とラベリングされるが、それは官僚制の縮小でも、個人の創意工夫の解放でもなく、自らに都合の良い規制に公的権力を改変できる「緩和」である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)全面的官僚制化(total bureaucratization)もしくは略奪的官僚制化 (predatory bureaucratization)
 利潤の形態で富を取得するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体に形成してゆく過程である。
(b)規則と規制の網、法律家
 その結果、処理すべき書類、仕上げるべき報告書、解釈に法律家を必要とする規則や規制、そして、あれこれは認められないことの理由の説明がその仕事のすべてであるかのような、オフィスの何にでも口を出す人々の実数 が5倍以上上昇した。

(c)規制緩和という言葉のほんとうの意味
 規制緩和という用語は、ほとんど何でも意味することができる。新しい規制手段に「規制緩和」とラベリング することで、あたかもそれが官僚制を縮小させ、個人の創意工夫を解放するものであるかのよ うに、世論にみせかけることができるのだ。
(d)規制緩和の例、航空業や遠距離通信業
 1970年代や 80年代における航空業や遠距離通信業の場合、二、三の大企業に保護を与える規制のシステム から、中規模企業のあいだの厳しく監督された競争を促進させるような規制のシステムへと転 換させることを意味していた。
(e)規制緩和の例、銀行業
 銀行業の場合、「規制緩和」はふつう、その正反対を意味して いる。すなわち、中規模企業のあいだの管理された競争という状況から、少数の金融コングロマ リットが完全に市場を支配することができるような状況への移行である。




「「規制緩和」が人の口にのぼるとき、それはいったいなにを指しているのだろうか? 

一般的用法では、この言葉は「オレ好みに規制の構造を変える」ということを意味しているよう にみえる。実際のはなし、この言葉はほとんどなんでも意味することができる。

1970年代や 80年代における航空業や遠距離通信業の場合、二、三の大企業に保護を与える規制のシステム から、中規模企業のあいだの厳しく監督された競争を促進させるような規制のシステムへと転 換させることを意味していた。

銀行業の場合、「規制緩和」はふつう、その正反対を意味して いる。すなわち、中規模企業のあいだの管理された競争という状況から少数の金融コングロマ リットが完全に市場を支配することができるような状況への移行である。

規制緩和という用語 を好都合なものにしているのはこれである。あたらしい規制手段に「規制緩和」とラベリング することで、あたかもそれが官僚制を縮小させ、個人の創意工夫を解放するものであるかのよ うに、世論にみせかけることができるのだ。

たとえその結果、処理すべき書類、仕上げるべき 報告書、解釈に法律家を必要とする規則や規制、そして、あれこれは認められないことの理由 の説明がその仕事のすべてであるかのような、オフィスのなんにでも口を出すひとびとの実数 が5倍以上上昇したとしても、である。  

この過程には、いまだ名前が与えられていない。公的権力と私的権力とが徐々に融合して単 一の統一体――その究極の目的を利潤の形態で富を取得することにおく規則と規制でいっぱいの ――を形成する過程である。

この名前を与えられていないということそれ自体が重大である。上 記のような諸事態が生じるのも、その大部分が、わたしたちがそれをどう語るか、その方法を いまだもたないがゆえである。

ところが、その帰結については、生活のあらゆる側面におい て、わたしたちは眼にすることができる。わたしたちの日常を、ペーパーワークでいっぱいに してくれているのだ。申請用紙はますます長大かつ複雑なものと化している。申請書、切符、 スポーツクラブや読書クラブの会員証のような日常的書類も、数頁にわたる細目の規定でパン パンになっている。  

それでは名称を与えてみよう。わたしは、このような様相を呈している現代を、「全面的官 僚制化(total bureaucratization)」の時代と呼んでみたい(「略奪的官僚制化 (predatory bureaucratization)」と呼んでみたい誘惑にもかられたが、ここでわたし が強調したいのはこの野獣のもつ、すべてを包摂してしまうような性格である)。

その最初の 徴候は、まさに官僚制についての公共の議論が消えはじめた1970年代の終わりにあらわれはじ め、1980年代に取り返しがたく浸透をはじめた。だが本当の離陸は、1990年代である。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.23-25,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月21日月曜日

14.富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))

与えることが最高の価値である社会

富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))
















「モースは、自らの実践的結論がどのようなものなのかについて、決して完全な確信に達す ることがなかった。 

ロシアの経験から彼が理解したのは、近代社会において――少なくとも「予 見可能な未来においては」――売り買いをきれいさっぱり廃止してしまうことはできないという こと、しかし市場倫理の廃絶ならできる、ということだ。

労働を協同のかたちで行い、実効的 な社会保障を確立し、そうして徐々に、新しい倫理を生み出していくことができるだろう。新 しい倫理とはすなわち、富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができ る場合にのみ、弁明可能になるというものだ。

結果として生まれる社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を 歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。  

こうした主張のなかには、今日の観点からは恐ろしく素朴に見えるものもあるかもしれな い。けれどもモースの洞察の核をなす部分は、75年前よりも今日――経済学が「科学」を自称し つつ、事実上、現代社会の啓示宗教となってしまった今日――においてこそ、いっそう有効なも のになっている。ともかく、MAUSSの創始者たちにはそのように思われたのだった。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.150-151,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






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