原子炉の暴走事故(高木仁三郎(1938-2000)
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』原発事故―――日本では? 第3章 原発事故の二つの形、p.289)
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「もし真剣に赤字を削減しようと思うのなら、次の方法で今後10年間に数兆ドルを簡単に集めることができるだろう。その方法とは、
(a)最上層に属する人々の税率を上げること――これらの人々は国家経済の分け前をたっぷりもらっているから、税率を少し上げただけでかなりの歳入をもたらしてくれる。
(b)最上層にかたよっている種類の収入に対する抜け穴や特別待遇を排除すること――投機による収入や配当への低い税率から地方債利子の税額控除まで――。
(c)企業に補助金を与えることになる個人税制と法人税制の抜け穴や特別条項を排除すること。
(d)レントにいまより高率の税金を課すこと。
(e)汚染に税金を課すこと。
(f)金融セクターに課税して、少なくとも経済全体に繰り返し押しつけてきたコストの一部を反映させること。そして、
(g)この国の資源――本来ならすべての国民に帰属する資源――を利用ないし不当に使用するようになった者に対価を全額支払わせることだ。
これらの歳入増加策はより効率的な経済を生み出して、かなりの額の赤字を減らすだけでなく、不平等を緩和してくれる。だからこそ、これらの簡単なアイデアは予算論争の中心テーマにはならなかった。上位1パーセントの大多数が収入の大半を、先に挙げた提案の対象となる諸部門――石油、ガスなどの形態の環境汚染活動、税法に隠された補助金、この国の資源を安価で取得できる制度、金融セクターに与えられた無数の特別な恩恵――から引き出していたからだ。
より多くの資金を集めて効率性と平等性を高めるような税制を設計できる一方で、歳出についてもまったく同じことができる。2章で、最上層の収入を高める際の超過利潤(レント)の役割を見て、一部の超過利潤がまさに政府からの贈り物であることに触れた。
ここまでの各章で、政府が果たすべき重要な機能について述べてきた。それらの機能のひとつは社会的保護だ。貧しい人々を援助し、民間部門では手頃な条件で保険を提供できない場合に、すべてのアメリカ人に保険を提供することだ。しかし、貧しい人々の福祉プログラムの一部が近年削減されてきた一方で、6章で企業助成と名付けた企業への補助金は増加した。
もちろん、(隠れた補助金であれ公然の補助金であれ)補助金を減額したり削除したりする提案が切り出されると、それらの受給者が、補助金は公益にかなうと擁護しようとする。
この擁護には皮肉な側面がある。政府から施し物を受け取る企業や人物の多くは、同時に政府支出に異を唱えている――つまり小さな政府に賛成しているのだ。
私欲によって公平さの判断が左右されるのは人間の性だ。実は、私欲は無意識のうちに影響をふるってしまう。しかし、繰り返し検討してきたように、これらの補助金とそれを得ようとする努力が、この国の経済と政治制度をゆがめているのだ。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第8章 緊縮財政という名の神話,pp.316-318,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】 |
『……人は、酸素を含まない大気の中で肉体的に生きることができないのと同様に、自分に対して共感的に反応してくれない心理的環境では、心理的に生存できないのである。』(Kohut,1977,p.85)
「コフートの思考は、新しい精神分析的関心それ自体や自己の障害のような問題への治療のための方法を提案することになった。
無意識の葛藤や衝動によって駆り立てられるというよりも、コフートは今日の患者を、共感的学習や同化のための理想的「対象」つまり重要な他者が奪われたとみなしている。
両親は、情動的に壁の向こう側に行ってしまい、両親自身の自己愛的欲求を求めすぎているため、子どもの自己の健康的な発達や成人期の意味ある応答的な関係の形成のために必要なモデルがいないのである。
人生や生活における重要な他者、つまり「自己にとっての対象」から共感的な反応が感じられないとき、人々は自己の破壊を恐れる。
コフートは、この状態を心理的酸素が奪われた状態にたとえている。自己にとっての対象からの共感的反応の有効性は、酸素の存在が肉体の生存に対するのと同じくらい、自己の生存にとって不可欠である。人間の自己の破壊を導くのは、冷淡さにさらされる、無関心な、共感的反応のない世界である(Kohut,1984,p.18)。」
(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第9章 フロイト後の精神力動論、pp.292-293、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館 |
「場所の考慮を「政治的に」させるのは、個人が他者に対して対人的な力を維持し、またもしできることなら権力を失うことを回避しながら、もっと多くの権力を獲得しようとすることにある。
クラークは、この種のミクロ政治は伝統社会ではあまり明白ではないと論じている。より大きな社会構造における個人の地位が特定の出会いにおける彼の場所をも規定するからである。
しかし社会が高度に分化し、そして個人主義が優勢な文化イデオロギーになると、出会いにおける場所はますます攻撃的な力づくの作戦の様相を帯びることになる。
他人が自分の劣等感を表す感情をもって彼に互恵化させる感情表現をすると、個人は場所において上位者の地位をうまく確立し、保てるかもしれない。ある種の戦略的なドラマツルギーが関係しているかもしれない。クラークは望ましい場所を獲得するためのいくつかの戦略を概括している。
1.他人に向けて否定的感情を開示し、そして彼らに劣等感を抱かせること。同情がこの戦略において用いられると、その戦略は見せかけの同情を軸にして展開し、他人の否定的な資質に注意を引きつける。たとえばある個人は仕事で後れをとった他者に「恥をかかせる」ために同情を表すかもしれない。
2.他人の弱点、傷つきやすさ、問題や位置の低さを強調するようなやり方で感情的な贈り物を与えなさい。そうすれば、この「贈り物」の受け手は自意識過剰になるか、あるいは劣等感を感じる。同情が一つの戦術として用いられると、個人は彼が否定的属性をしめしたために許され、あるいは赦免されたことを他者に知らせるだろう。
3.他人をおだてるようなやり方で肯定的感情を与えなさい。そうすれば、彼らはあなたに好意を抱くだろう。同情を一つの戦術として用いるとき、個人は上位者に同情を表し、そして彼と親密さを増せるかもしれない。そうすれば上位者とのあいだの距離が縮まる。
4.他人に義務や責任を思い出させなさい。そうすれば他人のうちに罪や恥意識を芽生えさせることができる。同情を一つの戦術として用いる際に、同情が与えられるために生まれる問題を指摘することによって、感情的な重荷をつくりだしなさい。そうすれば、他者の場所を低めることができるだけでなく、同情の受け手に互恵化しなければならない責任を負わすことができる。
5.他人から感情的制御を失わせ、そして社会統制の独占を保ちなさい。同情が一つの戦術として用いられるとき、他人に心配、屈辱、恥、怒りなどの否定的感情を実感させるような方法で同情を提供しなさい。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、pp.131-133、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))<br>
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「経済の基本原則では、いいものよりも悪いものに税金を課すほうがよいとされる。
仕事(生産的なもの)に税金を課すことに比べたら、汚染(石油会社が石油を流出させて海を汚す場合であろうと、化学会社が有毒な老廃物を生じさせる場合であろうと、金融会社が有害なアセットを作り出す場合であろうと、いずれも悪いものだ)に税金を課すほうがよい。汚染する者は社会のほかの人々に押しつけるコストを負担しない。
水質汚染や大気汚染(温室効果ガスの排出をふくむ)を生み出す人々が自分たちの行動がもたらす社会的コストを支払わないという事実は、経済をゆがませる大きな原因のひとつだ。
税金を課すことは、このゆがみを正して、負の外部性を生み出す活動を思いとどまらせ、社会的貢献度の高い分野に財源を移転させるのに役立つ。
他人に押しつけるコストを全額支払わない会社は、事実上補助金を受け取っているにひとしい。さらに、このような税金は10年間で本当に数兆ドルを集めることができるだろう。
石油、ガス、石炭、化学、製紙、そのほか多くの企業は環境を汚染してきた。しかし、金融会社は有害な住宅ローンで世界経済を汚染した。金融セクターは社会のほかの人々にとてつもない外部性を押しつけてきたのだ。すでに触れたように、金融セクターが重大な責任を負っている金融危機のコストは全体で数兆ドルにのぼる。
ここまでの各章で、瞬間的トレーディング、その他の投機的行為はボラティリティを生み出すかもしれないが、実際に価値を生み出すわけではないことを見てきた。市場経済の全体的効率性が低下することさえあるかもしれない。
汚染者支払い原則は、汚染者が他人に押しつけたコストを支払うべきだとする。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第8章 緊縮財政という名の神話,pp.314-315,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
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ストレンジ・シチュエーション法(メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)(ウォルター・ミシェル(1930-2018)
「メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)は、小さな子どもの幼児・親の愛着パターンを検討するために「ストレンジ・シチュエーション法」という研究方法を開発した(例:Ainsworth et al.,1978; Stayton & Ainsworth,1973)。ストレンジ・シチュエーション法は、小さな子どもと主要な養育者との関係における個人差を測定する。
この状況において、子ども(約18カ月)は、主要な養育者であることが想定される母親と、知らない他人とともに、初めてのプレイルームへ連れていかれる。
そして、子どもは、母親がいて子どもとかかわっている状態から、母親がいて夢中になっている状態や、母親がいなくなる状態など、さまざまなレベルの母親の接近可能性を体験する。
子どもはストレンジ・シチュエーションの間に母親から二度分離される。一度は知らない他人と一緒に残され、もう一度は一人きりにされ、ストレスが高い状況がつくりだされる。そして、短い分離の後、母親が戻ってくるのである。
三つの主要な行動のパターンがこの状況において見いだされる。
再会時だけでなく、実験の間中、母親を避ける子どもは不安定-回避型、A型の子どもとみなされる。再会時に母親を肯定的に出迎えることができ、その後、楽しんでいた遊びに戻り、手続きの間中、母親と望ましい相互作用を行う子どももいる。こうした子どもは安定型、B型の子どもといわれる。再会時に接触を求めるが怒りも表し、再会後になかなか機嫌がよくならない子どもは不安定-両価型、C型の子どもに分類される。
注目すべきは、安定型の子どもも不安定-両価型の子どももどちらも、母親が出ていったときに泣くのである。しかし、このモデルによると異なった理由で泣いている。
安定型の子どもが泣くのは抗議反応の一部であり、母親が戻ってくるのに有益な行動であるために泣くのである。両価型の子どもは、母親が出ていったため、怒りや絶望から泣くのである。
大きな違いは安定型の子どもは、母親が戻るとすぐに快感情を示し、母親のいる前ですぐに環境の探索に戻ることである。両価型の子どもは、母親の存在によって快感情を示すことはなく、母親にしがみつき、泣き続ける。母親への接近可能性に自信がもてないため、遊びや探索に戻れないのである。
異なるタイプの子どもでは母親の反応の異なるパターンを経験していることが、家を訪ねてみると明らかになる。
例えば、安定型と評定された子どもの母親は、子どもに対して最も応答的である。抵抗的な子どもの母親は応答性において一貫していない。回避型の子どもの母親の応答性は文脈によって変化する。接触や快感情を得ようとすることに対して応答的ではないが、子どもの遊びに対し統制的で、邪魔をするのである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第9章 フロイト後の精神力動論、pp.288-289、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館 |
多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)
「ホックシールドの分析の要点は、文化の台本がとくに否定的感情を喚起するような行動を人びとに強いると、個人が文化的規則とイデオロギーをどのように処理するかに強い関心を寄せている。
たとえば航空会社の旅客機乗務員が、乗客の不作法な行動に遭遇している際に、感情規則と感情開示規則によって指示される望ましい態度をどのように保持するのだろうか。
多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。適切な態度を感じ、またそれを提示するための感情労働の技法は、以下のことを含んでいる。
1.ボディワーク 人びとは状況への生理反応を変えようとする。
たとえば平静を装うため、個人は冷静さを保つために深呼吸をする。また別の人は攻撃的な行動の構えを表現するため、身体を躍動しながら大声を張りあげるかもしれない(試合に先立ってアスリートがよくやっているように)。このように身体が気持ちを高ぶらせる(あるいは気持ちを削ぐ)ために用いられる(Hochschild,1983)。
2.表層演技 個人は、こうした演技が感情――ジェスチャーが伝えると思われている感情――を自ら感じ、経験できるという期待を込めて、外部に向けて自らの表出的ジェスチャーを操作する。
たとえば人びとは出会いを維持するため、しばしば「その場にふさわしい幸せそうな表情を装う」。ここでの感情の開示規則は、個人は幸せを感じるべきと要求するが、しかしこの振る舞いは、当人が最終的に幸せと感じることができ、そして本当に肯定的な雰囲気になるかもしれないという期待をもって実行されることもある。
3.深層演技 人びとは、自己の内面に特定の気持ちを呼び起こそうとする。この気持ちによって、人びとは感情の開示規則が彼らに顕在的に表現することを要求する感情を自ら経験できる。行為者は台本が求める感情開示の方向に自己の内面を変えるためにこの技法を頻繁に用いる。
4.認知ワーク 個人は思いつきや考えを呼び起こす。
たとえば状況が悲しみを要求するなら(たとえば葬儀)、個人は悲しみとはどんなものであるかについて考え、そして実際に悲しさの顕在表現が本物に見えるようにするため本当の悲しみの感覚を体験した過去の経験を思い起こすかもしれない。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))
感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ] |
「世論に影響力を行使する最も効果的な方法のひとつは、政治家をつかまえることだ。なにしろ、政治家は思想を売り込む商人だと言っていい(政治家を説得して、自分のものの見かたや認識を取り入れてもらうことには、ふたつの利点がある。政治家はその思想を大衆に売りさばいてくれるだけでなく、法律や規則に変換してくれるのだ)。
たいていの場合、政治家が思想を考え出すわけではない。むしろ、学界や一般の知識人、政府内部や非政府組織(NGO)から生まれつつある思想を取り込む。これらの思想のうち、自分たちの世界観に合うものを寄せ集めたり、自分たちの支持者が好むと思われる組み合わせにしたりする。
アメリカの金持ちの政治においては、すべての有権者が平等なわけではない。政治家は、金融界の役に立つ思想を信奉するインセンティブを持っているのだ。
一部の国では、政治家をお金で買うことができる。
しかし、アメリカの政治家は、ほとんどの場合、それほど野蛮ではない。中身の詰まった茶色の封筒を受け取ったりはしない。
お金は選挙キャンペーンにつぎ込まれたり、政党の金庫にしまわれたりする。これは”アメリカ型の汚職”と呼ばれるようになった。政権を去ったあとに金銭的報酬を手にする政治家もいる。これはアメリカ特有の”回転ドア・システム”の一段階だ。その一方で、一部の政治家は、いま権力を握っているという喜びだけでじゅうぶんな満足を得る。
政治家が売り込む思想を支えているのは”専門家”の一団で、これらの見解の正しさを示す証拠や主張や筋書きをみずから進んで提供してくれる。
もちろん、そういう思想の戦いは、さまざまな場で繰り広げられる。政治家は、官職には立候補しない代理人や取り巻きをかかえて、これらの思想の改良作業にあたらせ、対立陣営の思想の正当性を検証させる。このとき、両陣営の証拠や論法が集められる。
この”思想の戦い”には(より一般的な宣伝広告と同じように)ふたつの目的がある。すでに心からその思想を信じている人々を結集することと、まだ決めかねている人々を説得することだ。
前者の場合は、支持団体を呼び集めて積極的にかかわらせることが必要になる。アメリカのような多額の費用がかかる選挙民主主義では、このような”支持基盤”を固めることが重要な意味を持つ。
なぜなら、選挙の結末は、キャンペーン資金を集めて、票のとりまとめに成功するかどうかにかかっていることが多いからだ。
対立陣営に”リベラル”や”ネオコン”といったレッテルを貼ることもひとつの手で、自陣の候補者が冴えない人物であっても投票する気にさせることができる。
後者の場合の多くは、”無党派層”を対象としている。無党派層を説き伏せるには、長くてまわりくどい話より、単純でねじ曲げられた話を、たいていは繰り返し話すほうが効果を発揮する。
感情に訴えるほうが理性に訴えるよりも効果的な場合が多い。広告業者はメッセージを大衆受けする60秒の広告に凝縮するのがうまい――理性に裏打ちされているように思える感情的な広告に。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.243-244,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))<br>
「ゴードン(1990)は感情を、(1)身体感覚、(2)表出ジェスチャー、(3)社会状況もしくは社会関係、(4)社会の感情文化によって構成されると見なしている。
ゴードンの見解によれば、第一の要素、すなわち身体感覚は文化の台本が誘導する行動に表現される場合にのみ重要である。
だから感情を表わす顔面表情、言語表現や身体ジェスチャーは先天的な生物的衝動の結果であるよりも、むしろ他者や状況にどのように反応するかを制約する文化力の産物である。文化力は感情を指示する語彙、人びとが感情について抱いている信念、および人びとが感情をどのように感じるべきかについてと、また感情がいつ、またどのように表現されるべきかの規則においてとくに明白であるとゴードンは論じる。
社会メンバーは、すべての感情語彙(感情を表わす単語)、感情信念(たとえば幸せは自由に表現されるべきだが、怒りは弱められるべきであること)、そして感情規範(われわれは争いに悲しみを、そしてパーティーでは幸せを感じるべきであること)を学習する。ゴードン(1989a,1989b,1990)はこうした複合的な感情語彙、信念、規範を社会の感情文化と呼んでいる。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))
「もちろん、対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある(Turner 1987)。
こうした処理欲求ははるかに包括的であり、そして特定の個人の具体的また特異な欲求を処理する前にまず実現されなければならない。こうした処理欲求はいくつかの次元に沿って働く。
第一に、関連する資源の報酬交換の欲求があり、そしてこうした報酬は状況への費用と投資を超えていなければならない。
第二に、個人である自己がその人の自己評価と一貫する仕方で他者によって評価される自己確認の欲求がある。
第三に、知覚を中心に展開する信頼がある。信頼の知覚とは、他者が行うと述べたこと、あるいは彼らに期待されていることを彼らが履行することである。
第四に、予測可能性がある。これによって他者の行為が予測できる。
第五に、間主観性の欲求がある。これによって個人は、相互作用のために、彼らが共通の経験を共有することを(正しくあるいは誤解して)感知する。
そして、第六に、人が相互作用のフローの一部という感覚を中心に展開する集団への包摂の欲求がある。相互作用が順調に進行し、また適切な感情が喚起するためには、これらの欲求が適えられなければならない。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.216-217、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳)
「社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。
相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。
第一に、出会いの人口統計学に関しては、(1)現前する人びとの数量、(2)人びとの社会的カテゴリー(たとえば、年齢、ジェンダー、民族)、(3)カテゴリーを異にする人びとの、時間の経過にともなう出会いへの流入と出会いからの流出、そして、(4)空間上における異なるカテゴリーの人びとの分布である。
第二に、地位の次元がある。これは、(1)種々な地位の威信と権威の水準(Kemper 1984)、そして、(2)こうした地位を占める個人の属性(たとえば、地位特性の拡散、態度のスタイル、自己の知覚など)を中心にして展開する。
そして、第三に、こうした結合の属性を中心にして動くネットワークの次元がある。これは、(1)数量、(2)方向性、(3)相補性、(4)推移性、(5)密度、(6)強度、(7)仲立ち、そして、(8)斡旋である。対面的相互作用の性質をふまえるとき、これら属性のすべてが対人的な出会いにおいて明らかである。結合の数量、相補性、そして密度は出会いにおける感情のフローを形成する際にもっとも重要であろう。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、p.216、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
「これらすべての諸力――文化的、構造的、および対人関係的――には、固く配線された基盤があるとわたしは確信している。
どの出会いにおいても、人間は文化、構造、そして処理欲求(自らのそれであれ、他者のそれであれ)に注意を向けるよう偏向させられている。なぜなら、これらは対面的相互作用を継続させるからである。
妥当な文化的象徴、社会構造的人口統計学についての理解、そして処理欲求を適えることに関して不一致があるならば、相互作用はほどなく不統合になり、そして怒り、恐れ、悲しみなどの離反的感情を喚起するかもしれない。
こうした諸力に関する合意、あるいは少なくとも感知される合意がある場合、より結合的な感情が満足-幸せの変種と精巧化を中心に展開し、活性化する。
したがって人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。
そして感情ごとに配列されたわれわれの感情の貯蔵庫が出会いの経験を通して構築されるにつれて、われわれは必要な情報を確保し、そして次に、われわれの神経的特徴である感情統語法によって、またわれわれの神経学的特徴が知識の貯蔵庫に蓄えている方法によって、さらにこうした貯蔵庫が、相互作用において使用するために抽出され、利用できるような形で秩序づけられた適切な反応を活性化するために、他者の感情を帯びた合図を読み解くことに熟達することになる。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.217-218、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
「人間に特有な能力の一つは、自分をある状況において対象とみなすだけでなく、ある一定種類の存在としての持続的な概念化と自らのアイデンティティを自らの内面にもちつづけうる力である。
自己言及活動(self-referential behavior)を行うことができるという人間の能力は、相互作用に新たな次元を付け加えるが、この能力は人間の感情装置を抜きにしては成り立たない。
確かに、一定水準の新皮質の発達が自己の中程度の期間にわたる記憶保持にとっての基本であるが、しかし自己認知は古生的な皮質下辺縁系の過程に起因する感情標識と感情価によってのみ可能である。
感情を抜きにして人間はワーキング・メモリー内にわずか数秒間しか自己イメージを維持できず、あるいはより安定し、一貫したアイデンティティを保持できないことが認識できると、われわれはヒト科の感情能力と自己に関わる能力とが互いに他者を情報源として利用するように紡ぎあわされていることを知ることになる。
自己を評価するために、より多くの感情が利用できるようになると、行動反応を組織するための自己の重要性がますます拡張することになった。
そして自己が相互作用にとって基本的であるほど、感情の精巧化は自己に媒介された対人関係によってますます制約されていった。
感情の精巧化が社会性の低い類人猿の集団連帯を増加するための基盤であったとすれば、こうした感情は自己意識的な個人をめざす必要があったはずである。
いっそう感情的に適応した動物にあって、道徳記号、肯定的ならびに否定的裁可の使用、協同的交換、および意思決定に向けて感情を動員し、また経路づけることは、感情価によって自分自身と他者をみつめ、評価できる能力なくして起きるはずはない。
社会統制と、こうした統制によって可能になる調整は、個人による自己制御によってもっともよく達成される。こうした個人は自分を対象とみなし、また道徳記号と他者の期待に応答する自己評価を介して一つづきの行動について意思決定を行う。
自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.190-192、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
「選択が神経学的水準において、脳にどのように働いたかをある程度知ることができる。
つまり、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整の強化である。
行動水準においては、その証拠や人間が相互作用するときはいつでも、またすべての相互作用においてそれは明白である。
儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。
これらの信号のいずれかが失われ、あるいは不適当なやり方で生産されると、たとえ手段的な音声によるお喋りの流れはつづいているとしても、相互作用は緊張を帯びることになる。
なぜなら、われわれのヒト科の祖先が社会結合を強化するために最初に用いた非音声的で感情的な一連の合図をともなわなければ、言語だけで相互作用の流れを維持することはできないからである。
もっと原基的で、視覚に基づく感情言語をともなわなければ、相互作用はいくつかの側面で問題を発生させる。
個人はその出会いになにが含まれ、またなにが排除されるべきかという点に関して、どのように枠組みを設定すればよいかに確信がもてない(Goffman 1974;Turner 1995,1997a)。
個人は使用すべき妥当な規範や他の文化システムに確信がもてない。
個人はどのような資源、とくに相互作用にとって基本である内面的な資源のうちなにが交換されるべきかということに確信がもてない。
個人が進行中の相互作用のフローの一部分をなしているかどうかについて確信がもてない。
他者が行うものと想定されていることがらを確かにその人たちが行うと信用できるかどうか確信がもてない。
他者の反応を予測できるかどうかに確信がもてない。
そして個人が他者と同じ仕方で他者との状況を主観的に経験していると想定することができるかどうか確信がもてない。
ハロルド・ガーフィンケル(Garfinkel 1966)が初期に実施した「日常的な秩序を破壊する実験」は、対面的相互作用がとても脆弱であることを検証している。そして相互作用がいとも簡単に壊れてしまうことも検証している。
われわれの相互作用がとても壊れやすいのは、生物学的プログラムとしてのわれわれの遺伝子に、高水準の社会連帯に向う傾向がないからである。
だから、われわれは相互作用をぎこちなくしないために、精妙で複雑な感情コミュニケーションを用いなければならないのである。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.172-173、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))