数学的対象
【物理的対象や心理的対象と同じように数学的対象も、私たちの規約や構成とは独立な客観的対象として確かに存在する。(クルト・ゲーデル(1906-1978))】(1)以下の命題は、「統辞論」や「内容」の本来の意味では、誤りである。
(1.1)数学は言語の統辞論で取って代わられ得る。
(1.2)数学そのものは内容の無いものである。
(2)「統辞論」や「内容」の本来の意味においては、以下のことが示される。
(2.1)(1.1)は、数学の限られたセクションを除いて反駁可能である。
(2.2)以下の(c)は、(a)や(b)と同様に、私たちの規約や構成とは独立しているという意味で「客観的」な対象として確かに存在する。このことは、用語の本来の意味で統辞論に還元できるところの数学のセクションに対してすら正当である。
(a)物理的対象
(b)心理的対象
(c)数学的対象
「全てのこれらの展開は、専門的観点から間違いなく興味があるし、さらに彼らはある基礎的概念の解明に多くの貢献をした。しかし、彼らは次のことを証明する。(1)《数学は言語の統辞論で取って代わられ得る。》(2)《数学そのものは内容の無いものである。》もし用語「統辞論」、「内容」、等々が非常に一般化された(あるいは非常に制限された)意味で取られた際に限り、それによってこれらの結果は、統辞論的プログラムや(唯名論や経験主義のような)問題の哲学的見解の支持という前述の目的に役立つためには不適当なものとなる。他方、もしこれらの用語が(やはり統辞論的プログラムと含まれた哲学的問題の目的により要求されたものであるところの)その本来の意味で取られたならば、その際、主張(1)は(数学の限られたセクションを除いて)反駁可能となる。主張(2)に関しては、統辞論的観点の吟味は、恐らく他の何ものより、物理的そして心理的対象のように、まさしく客観的である(すなわち、私達の規約や構成と独立した)数学的対象が《確かに》存在するという結論を導く。もちろん、それらは全く違った性質の対象そして事実ではあるが。そしてこのことは用語の《本来の》意味で統辞論に還元《できる》ところの数学のセクションに対してすら正当である。それ故物理学と他の経験科学は、ある「物事の領域」を記述するけれども、一方数学はそうではない(脚註(9)に引用された章節における、「実在の科学」と「形式的科学」の間の相違を参照)という見解は殆んど維持できないように思える。」
(クルト・ゲーデル(1906-1978)『数学は言語の統辞論であるか?(第2版)』,5,(フランシスコ・A・ロドリゲス・コンスエグラ(編集)『ゲーデル 未刊哲学論稿』,青土社(1997)),pp.208-209,好田順治(訳))
(索引:数学的対象)
(出典:wikipedia)
「私は、事物と概念の間そして事実的真理と概念的真理の間における対立における真の意味は、現代の哲学では未だ完全に理解されていないと信じているが、少なくとも両方の場合において、私達の任意の決定という到達の全く外にある「信頼できる事実」に直面することは非常に明らかである。」
(クルト・ゲーデル(1906-1978)『数学は言語の統辞論であるか?(第2版)』,49,(フランシスコ・A・ロドリゲス・コンスエグラ(編集)『ゲーデル 未刊哲学論稿』,青土社(1997)),p.233,好田順治(訳))
(索引:任意に決定不能な事実)
クルト・ゲーデル(1906-1978)
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