2018年5月2日水曜日

崇敬とは、愛や献身とは異なり、善または悪をなしうる驚くべき大きな自由原因に対し、その対象から好意を得ようと努め何らかの不安を持って、その対象に服従しようとする、精神の傾向だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

崇敬とは何か

【崇敬とは、愛や献身とは異なり、善または悪をなしうる驚くべき大きな自由原因に対し、その対象から好意を得ようと努め何らかの不安を持って、その対象に服従しようとする、精神の傾向だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 善だけが期待される自由原因に対しては、愛と献身の気持ちを持つ。一方、悪だけが期待される自由原因に対しては、憎しみを抱く。これに対して、善悪のいずれかをなすかはわからないが、私たちに善または悪をなしうると判断される、自由原因に対しては、崇敬あるいは軽蔑を感じる。崇敬とは、敬う対象を重視するだけでなく、その対象から好意を得ようと努めなんらかの不安をもってその対象に服従しようとする、精神の傾向だ。
 「崇敬あるいは敬意とは、敬う対象を重視するだけでなく、その対象から好意を得ようと努めなんらかの不安をもってその対象に服従しようとする、精神の傾向だ。その結果、わたしたちが崇敬の念を抱くのは、善悪のいずれかをなすかはわからないが、わたしたちに善または悪をなしうると判断される、自由原因(人間や神)に対してだけである。というのも、善だけが期待される自由原因に対しては、たんなる崇敬よりも愛と献身の気持ちを持つのであり、悪だけが期待される自由原因に対しては、憎しみを抱くし、また、この善や悪の原因が自由だと判断されるのでなければ、わたしたちは、その好意を得ようと努めて、それに服従することもないから。たとえば、異教徒たちが、森や泉や山に対して崇敬の念をささげたとき、彼らが敬っていたのは、それら死せる物そのものではなくて、それらを司ると考えられていた神々なのであった。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一六二、pp.143-144、[谷川多佳子・2008])
(索引:崇敬)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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〈崇敬〉と〈軽蔑〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

崇敬と軽蔑

【〈崇敬〉と〈軽蔑〉(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「なお、わたしたちが重視または軽視する他の対象が、善または悪をなしうる自由な原因とみなされるとき、重視から崇敬が生じ、たんなる軽視から軽蔑が生じる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五五、p.54、[谷川多佳子・2008])
(索引:崇敬、軽蔑)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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〈重視〉と〈軽視〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

重視と軽視

【〈重視〉と〈軽視〉(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちが驚くのが、対象の大きさによるか小ささによるかに応じて、驚きに、重視または軽視が結びつく。こうしてわたしたちは、自分を重視、あるいは軽視しうる。そこから、大度と高慢、謙虚と卑屈の情念、つづいて習性が生じる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五四、p.54、[谷川多佳子・2008])
(索引:重視、軽視、大度、高慢、謙虚、卑屈)

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 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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〈不決断〉が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから〈良心の悔恨〉が生まれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

不決断と良心の悔恨

【〈不決断〉が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから〈良心の悔恨〉が生まれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「さらに、不決断が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから良心〔内心〕の悔恨が生まれる。この悔恨は、これまでの情念のように未来にはかかわらない。現在や過去にかかわる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六〇、p.56、[谷川多佳子・2008])
 「さてこの情念の効用は、自分の疑っていることが善いか悪いかを吟味させることだ。また、それが善いと確信できない間は、それを二度としないようにさせることだ。しかし、この情念は悪を前提とするから、この情念を感じる機会をもたないのが最善だろう。そしてこの情念は、不決断を免れる手段と同じ手段で、予防することができる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七七、p.154、[谷川多佳子・2008])
(索引:良心の悔恨)

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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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恐怖の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

恐怖の治療法

【恐怖の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「恐怖あるいは怯えについてはいかなる場合も、賞むべきでも、有用でもありえないと思える。したがって、それは、ある一つの特殊情念なのではなく、ただ、臆病、驚愕、不安の過剰であり、こうした過剰はつねに欠陥なのだ。これは、大胆が、勇気の過剰で、目指す目的さえ善ければつねに善いのと似ている。また、恐怖の主要原因は、不意を突かれることだから、それを免れる最良の策は、予め熟慮をこらし、恐怖を生む不安のあらゆる結果に備えることである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七六、p.153、[谷川多佳子・2008])
(索引:恐怖、恐怖の治療法)

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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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臆病の効用、および臆病の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

臆病の効用

【臆病の効用、および臆病の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「臆病も次の場合はなんらかの効用を持つと思われる。すなわち、骨折りが無益と判断される相当に確かな理由があって、それがこの情念を生んだ場合、この臆病の情念は、本当らしく見える理由によって促されてするような骨折りから、わたしたちを免れさせてくれる。臆病の情念は、精神をこれらの骨折りから免れさせてくれるばかりでなく、精気の運動を遅くしてその力を浪費しないようにすることで、身体にも役立っている。しかしふつうは、有用な行動から意志をそらせてしまうので、この情念はとても有害である。そしてこの情念は、希望と欲望をあまり持たないことからのみ起こるのだから、矯正するには、希望と欲望の二つの情念を自分のうちに増大させるだけでよい。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七五、pp.152-153、[谷川多佳子・2008])
(索引:臆病、臆病の効用、臆病の治療法)

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 6.2 認識さるべき物自身

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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不決断の効用、および過剰な不決断に対する治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

不決断の効用

【不決断の効用、および過剰な不決断に対する治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「不決断も一種の不安であり、精神がなしうる多くの行動〔能動〕のあいだで、精神をいわばどっちつかずの状態に引き留める。その結果、精神にいかなる行為も実行させないことになる。こうして、決心するまえに選択する時間を精神が持つことになる。確かにこの点で、不決断の情念には善き効用がある。けれども、それが必要以上に長びいて、行動するために必要な時間を思案に費やさせることになると、はなはだ悪しきものになる。」(中略)「これでは過剰な不決断であり、よく行為しようとする欲望が大きすぎること、知性が弱く明晰判明な観念を持たずに多くの漠然たる観念しか持っていないことから生じている。ゆえに、この過剰に対する治療法は以下のとおりである。現前するすべてのものについて確実で決然たる判断をする習慣をつけ、さらに、最善と判断することを行なえば、たとえその判断が大きく間違う可能性があっても、とにかく自分の義務を果たしている、と思う習慣をつけること。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七〇、pp.148-149、[谷川多佳子・2008])
(索引:不決断、不決断の効用、不決断の治療法)

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

勇気と臆病

【わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉の情念が生じ、この情念は意思決定において熟考を促す。わたしたちに依存する行為の実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、次の情動が生じる。勇気の過剰としての〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉、勇気の反対である〈臆病〉、過剰な臆病は〈恐怖〉となる。
 「わたしたちの期待するものの成り行きが、わたしたちにまったく依存しなくても、このような希望や不安を持ちうる。しかしそれが、わたしたちに依存すると示されると、それを得るための手段選択、その実現において、いくらかの困難がありうる。前者の手段選択の困難から不決断は生じるが、わたしたちの熟考のうえ決意するよう促す。後者の実現困難には、勇気あるいは大胆が対置され、対抗心はその一種だ。また臆病は勇気の反対であり、恐怖や激しい恐れは大胆の反対である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五九、p.56、[谷川多佳子・2008])
(索引:不決断、大胆、勇気、対抗心、臆病、恐怖)

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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年4月30日月曜日

自分は決断力がなく、自由意志の全面的な行使能力がないと考えるのが、卑屈すなわち悪しき謙虚であり、高邁の正反対である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

卑屈

【自分は決断力がなく、自由意志の全面的な行使能力がないと考えるのが、卑屈すなわち悪しき謙虚であり、高邁の正反対である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 卑屈すなわち悪しき謙虚は高邁の正反対である。自分を弱く、決断力がないと感じること、そして自由意志の全面的な行使能力を持たないかのごとくに、あとで後悔することがわかっていることをなさずにいられないこと。さらにまた、自分だけでは生きていけない、他人にたよってのみ獲得できる多くのものがなければやっていけない、と思うこと。
 「卑屈すなわち悪しき謙虚は、主につぎのことにおいて成り立つ。自分を弱く、決断力がないと感じること、そして自由意志の全面的な行使能力を持たないかのごとくに、あとで後悔することがわかっていることをなさずにいられないこと。さらにまた、自分だけでは生きていけない、他人にたよってのみ獲得できる多くのものがなければやっていけない、と思うこと。こうして、卑屈すなわち悪しき謙虚は高邁の正反対である。」(中略)「弱く劣った精神を持つ人たちは偶然的運のみによって導かれ、逆境では卑屈になり、それと同じに順境では高ぶる。さらに、この人たちは、しばしば見られるように、何らかの利益が期待できる相手や、自分に損害を与える恐れのある相手に対しては、恥ずかしげもなく卑屈になり、何も期待できず、恐れることのない相手に対しては、横柄に傲然となるのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五九、pp.138-139、[谷川多佳子・2008])
(索引:卑屈、悪しき謙虚、横柄、傲然)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))

高慢

【自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「何にせよ、他のなんらかの理由で自分自身に過分の評価をしてうぬぼれる人たちはすべて、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。自分を評価する理由が不当であればあるほど、それだけいっそう悪いということになるが。そして、すべてのうちで最も不当な理由は、なんの根拠もないのに高慢である場合だ。」(中略)「たしかに、才能、美、富、名誉などのような自由意志以外のすべての善は通常、それを持つ人の数が少なければ少ないほど重く見られ、しかも、大部分、多数の人に伝え移すことのできない性質のものだから、高慢の人たちは、他の人々すべてを低めることに努めるようになり、かつ、自分の欲望の奴隷となって、その精神は絶えず、憎しみ、うらやみ、執着、怒りにかきたてられることになる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五七、一五八、pp.137-138、[谷川多佳子・2008])
(索引:高慢)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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