2018年6月12日火曜日

5.基本的情動:《例》恐れ、怒り、嫌悪、驚き、悲しみ、喜び。様々な文化や、人間以外の種においても、共通した特徴が見られる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

基本的情動

【基本的情動:《例》恐れ、怒り、嫌悪、驚き、悲しみ、喜び。様々な文化や、人間以外の種においても、共通した特徴が見られる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】
基本的情動
《例》恐れ、怒り、嫌悪、驚き、悲しみ、喜び
《特徴》情動をもたらす状況や、情動を特徴づける行動パターンに関して、様々な文化や、また人間以外の種においても、共通した一貫性が観察される。

 「〈一次の〉〈あるいは基本的な〉情動はもっと定義しやすい。なぜなら、いくつかの顕著な情動をこのグループにひとまとめにする確立された伝統があるからだ。よく列挙されるものには、恐れ、怒り、嫌悪、驚き、悲しみ、喜び、がある。これらは情動という言葉が使われると、まず頭に浮ぶものだ。それらが中心に位置づけられているのには、しかるべき理由がある。これらの情動はさまざまな文化の人間に、そして人間以外の種に、容易に見て取れるからだ。また、これらの情動をもたらす状況も、これらの情動を定義づける行動のパターンにも、文化や種をとおして一貫性が見られる。当然、情動の神経生物学に関してわれわれが知っていることのほとんどは、一次の情動の研究からきている。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第2章 欲求と情動について、p.72、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:基本的情動)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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4.狭義の情動の一つに「背景的情動」がある。エネルギーや熱意、わずかな不快、興奮、いらいら、落ち着き。四肢や体全体の動きの状態、顔の表情、声の中にある調べ、韻律によって知られる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

狭義の情動の一つ:背景的情動

【狭義の情動の一つに「背景的情動」がある。エネルギーや熱意、わずかな不快、興奮、いらいら、落ち着き。四肢や体全体の動きの状態、顔の表情、声の中にある調べ、韻律によって知られる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】
背景的情動
《例》エネルギーや熱意、わずかな不快、興奮、いらいら、落ち着き
《外部への現れ》四肢や体全体の動きの状態、顔の表情、声の中にある調べ、韻律

 「背景的情動はひじょうに重要だが、この言葉が暗示するように、それは人の行動においてとくに顕著ではない。だから、読者もこれまでそれにあまり注意を払ってこなかったかもしれないが、もしあなたがいま会ったばかりの人間にエネルギーや熱意を正確に見いだすような人なら、あるいは友人や同僚にわずかな不快や興奮、いらいらや落ち着きを見て取るような人なら、たぶんあなたは背景的情動をうまく読み取る人だ。

そしてもしそういうことなら、相手が一言も発しないうちに、相手をいろいろ診断してしまうだろう。まず、四肢や体全体の動きの状態を見定める。どれほどしっかりしているか、どれほど正確か、どれほどゆとりがあるか。あなたは顔の表情も観察する。また言葉が発せられても、あなたはただその言葉を聞いて辞書的な意味を思い描くわけではない。その声の中にある調べ、韻律に耳を傾ける。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第2章 欲求と情動について、pp.70-71、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:背景的情動)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

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2018年6月11日月曜日

仮に、宇宙の別の場所か別の時に、この地球と全ての人々のコピーが存在したとしても、それは別の個体であり、異なる実体である。二つの完備な項は、決して相似にはならない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

個体

【仮に、宇宙の別の場所か別の時に、この地球と全ての人々のコピーが存在したとしても、それは別の個体であり、異なる実体である。二つの完備な項は、決して相似にはならない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
問い:宇宙の別の場所か別の時に、私たちが住んでいるこの地球と見た目には少しも違わない天体があり、そこに住んでいる人間の各々は、それに対応する私たちの各々と見た目には少しも違わないとしよう。この場合、その人格ないし自我については同一なのか、それとも二つなのか。
答え:それは、別の個体である。実在的に異なる実体である。別の場所か別の時というだけで、別の実体である。一時的に似ているということは、あるかもしれない。しかし、実体として異なる以上、差異は「機が熟せば姿を現わす」はずである。
(再掲)
完備な項の相似:このような場合は、恐らく起らない。何故ならば、二つの完備なものは決して相似ではないからである。

 「次に挙げるのはさらにいっそうふさわしい別の仮定です。すなわち、宇宙の別の場所か別の時に、私たちが住んでいるこの地球と見た目には少しも違わない天体があり、そこに住んでいる人間の各々は、それに対応する私たちの各々と見た目には少しも違わないことがありうる、という仮定です。かくて、同時に一億組以上の似かよった人物、つまり同一の現われと意識とをもった二人の人物の組があることになります。そして神は、精神だけであれ身体を伴ってであれ、精神が気づかぬうちにそれらを一方の天体から他方の天体へ転移させることができましょう。しかし、それら精神が転移されるにせよそのまま留めおかれるにせよ、その人格ないし自我について、あなたの側の著者たちによればどんな発言がなされるでしょうか。これらの天体の人々の意識や内的・外的な現われは区別できない以上、それらは二つの人格なのでしょうか、それとも同一人格なのでしょうか。確かに、神と諸精神なら、それも時間・場所の外的な隔たりや連関のみならず、二つの天体の人々には感覚できない内的な構成にさえ気づきうる諸精神であるならば、それらも識別できようというもの。けれども、あなた方の仮説によれば、ただ意志性だけが人物を識別するのであって、実体の実在的な同一性ないし差異性とか、他の人たちに現われるものさえ気にかける必要がないということです。ですから、似てはいるが言語に絶するほど互に隔たったそれら二つの天体に同時にいる二人の人物は、唯一人の同じ人物である、となぜ言えないのでしょうか。でもそれは明白な不合理です。自然的に発生しうる事柄について付言すれば、似かよった二つの天体と、その二つの天体にいる似かよった二つの魂は、一時的に似かよっているだけでしょう。なぜなら、個体的な差異がある以上、この差異は少なくとも非可感的な構成に存するのでなければならず、そうした構成は機が熟せば姿を現わすはずだからです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第二七章[二三]、ライプニッツ著作集4、pp.296-297、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:個体)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。この依存は、形而上学的依存である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

自由意志の問題

【運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。この依存は、形而上学的依存である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a)自然学的依存は、一方がそれの依存する他方から受けとる直接的影響に存する。たとえば魂は、非意志的活動において、よく考えてみると身体に依存している。
(b)一方、思考の内には秩序と連結がある。また、善や悪は思考する存在者を強いずに傾かせ、意志による決定は自由である。つまり、選択を伴っている。
(c)このとき、運動における決定は、そのままで変わらない。
(d)運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。これは自然学的依存とは異なる。形而上学的依存である。
 「運動においてもそうですが、思考の内には秩序と連結があります。なぜなら、一方は他方に完全に対応するからです。もっとも、運動における決定はそのままです。ところが思考する存在者においては、決定は自由である、つまり選択を伴っている。善や悪は思考する存在者を強いずに傾かせるのみです。というのも、魂は身体を表現する際に自分の完全性を保存するからです。それに、魂は非意志的活動において(よく考えてみると)身体に依存しているにもかかわらず、他の活動においては独立していて、まさに身体を魂自身に依存させるのです。しかしこの依存は形而上学的でしかなく、神が一方を規制するときに他方を顧慮するところに存する。言い換えれば、各々の根源的完全性に応じて一方よりも他方を神がいっそう多く顧慮するところに存するのです。これに対して自然学的依存は、一方がそれの依存する他方から受けとる直接的影響に存するでしょう。それに、非意志的思考が私たちにやってくる場合、一部分は私たちの感覚を刺激する諸対象によって外部から、また一部分は、先行の諸表象が残した(しばしば非可感的な)刻印のゆえに内部からきます。この先行の諸表象は活動を続け、新たにやってくるものと混ざりあう。この点で私たちは受動的であって、眠らずにいるときでさえ、夢の中と同様、呼び寄せられたわけでもないのにイメージが浮かんできます。(イメージということで私は、形の表現のみならず音声や他の可感的性質の表現をも含めて考えています)。ドイツ語ではそれを fliegende Gedanken 、つまり飛びまわっている思考と呼んでいます。それは私たちの思い通りにはならないし、そこには時として善良な人々に良心のためらいを抱かせるような馬鹿げたところ、決疑論者や教導者に試練を課すような馬鹿げたところがあります。幻燈の中で何かを回すとそれに応じて壁に図形が現われる。この思考はこうした幻燈の中で起ることと同じです。しかし私たちの精神は、再び現われる何らかのイメージを意識して「止まれ」と言いうるし、いわばそれを停止させることができます。さらに精神は、自分で然りと思う通りにある思考の進行に入っていき、それによって他の思考へと導かれるのです。けれども、これが当てはまるのは内的あるいは外的な印象が優勢でないときです。その点に関して人々は、気質によっても、また自らの行なった自己統制の訓練によっても著しく異なっているのは確かです。したがって、ある人が身をゆだねてしまう印象を別の人は克服しうるのです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第二一章[一二]、ライプニッツ著作集4、pp.203-204、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:心身問題、自由意志)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。魂の状態は、「魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態」の表出である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

予定調和

【すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。魂の状態は、「魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態」の表出である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。自己の本性に固有な法則の力によって、物体とりわけ自分の肉体の中に起こることと一致するように出来ている。魂のそれぞれの状態は、自然的かつ本質的に世界の状態、対応する世界のそれぞれの状態の表出である。なかんずくそのとき、魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態の。

体にチクリときたときに、そのチクリを魂が自分の中に表現することができるようになっている。
瞬間A   肉体の状態     表出⇒ 魂の状態
       ↓             ↓
次の瞬間B 肉体の状態(チクリ)表出⇒ 魂の状態(痛み)
 「さてその概念によれば、そのような実体のいまこの一瞬における状態は、つねにそれに先だつ状態の自然的な帰結である。なぜならすべて魂の本性は、宇宙を表出するところにあるからにほかなりません。魂はひとたび創造されるが早いか、自己の本性に固有な法則の力によって、物体とりわけ自分の肉体の中に起こることと一致するように出来ている。ですから体にチクリときたときに、そのチクリを魂が自分の中に表現することができるようになっているからといって、べつだんビックリするには当たらないのです。ではこう申し上げて、この問題についての私の説明に、ケリをつけることにいたしましょう。いま仮に、
 瞬間Aにおける肉体の状態        瞬間Aにおける魂の状態
 次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ) 瞬間Bにおける魂の状態(痛み)
であるとします。
 と、瞬間Bにおける肉体の状態は、瞬間Aにおける肉体の状態から出てくる。同様に魂の状態Bも、実体一般の概念にしたがって、同一の魂における先だつ状態、すなわち状態Aの帰結である、ということになりましょう。ところで魂のそれぞれの状態は、自然的かつ本質的に世界の状態、対応する世界のそれぞれの状態の表出である。なかんずくそのとき、魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態の。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『アルノーとの往復書簡』ハノーファーから、一六八七年一〇月九日、ライプニッツ著作集8、pp.361-362、[竹田篤司・1990])
(索引:心身問題、予定調和)

前期哲学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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16.他者の役割を演ずることは、新しい視点を獲得し、より有効なコンストラクトの創造するための助けとなる。(ジョージ・ケリー(1905-1967))

役割演技

【他者の役割を演ずることは、新しい視点を獲得し、より有効なコンストラクトの創造するための助けとなる。(ジョージ・ケリー(1905-1967))】
(a)人間観
 人には、相対的に安定し広範囲に一般化された「特性」があるというよりも、むしろ、多くの異なる役割を演じることができ、継続的にそれを取り替えていくことが可能である。
(b)役割を演ずるということ
 役割というのは、他者を他者の眼鏡を通して見る試みである。つまり、その人のコンストラクトを通して見ること、その見方で人の行為を構造化することである。ある役割を演じるには、他者の見方を知覚し、それによって行動が方向づけられることを必要とする。
(c)治療法
 そこで、人々が新しい視点を獲得したり、より有効な生き方を創り出したりするのを支援するためには、役割演技の技法が役にたつに違いない。
ジョージ・ケリー(1905-1967)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
検索(George Kelly)
検索(ジョージ・ケリー)


 「ケリー(ジョージ・ケリー)は、相対的に安定し広範囲に一般化された特性が人にあるという考え方をとらず、多くの異なる役割を演じることができ、継続的にそれを取り替えていくことが可能だと考えた。

役割というのは、他者を他者の眼鏡を通して見る試みである。つまり、その人のコンストラクトを通して見ること、その見方で人の行為を構造化することである。ある役割を演じるには、他者の見方を知覚し、それによって行動が方向づけられることを必要とする。

例えば自分を母親の「役割を演じる」には、母親がそうするように、その目を通して、自分自身を含めた周囲を見ようとし、その知覚に基づき行動しなければならない。それには、まるで本当に自分の母親になりきったようにふるまおうとするだろう。

人が新しい視点を得たり、より有効な生き方をつくりだしたりするのを支援するため、ケリー(ジョージ・ケリー)は治療的手続きを工夫し、広範囲にわたって、役割演技の技法を用いた。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅴ部 現象学的・人間性レベル、第12章 現象学的・人間性レベルの諸概念、pp.396-397、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:パーソナル・コンストラクト心理学)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
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15.すべての人は、新しい経験に照らして、パーソナル・コンストラクトを徐々に修正しながら、検証し、正当であると確認したり、取り消したりする機会を必要としている。(ジョージ・ケリー(1905-1967))

パーソナル・コンストラクト心理学

【すべての人は、新しい経験に照らして、パーソナル・コンストラクトを徐々に修正しながら、検証し、正当であると確認したり、取り消したりする機会を必要としている。(ジョージ・ケリー(1905-1967))】
(1)ある特定のパーソナル・コンストラクトが、その人自身の解釈でがんじがらめにさせ、ジレンマに陥らせているような場合がある。これは、不適切な理論から抜け出せないような状態だ。
(2)もし、その人の解釈が、その人にとって有効ではなく、人生や生活にとって良くない結果を招いているのならば、他のより良い解釈、つまり良い予想ができ、より良い結果が得られる考え方を見つけることが本人の課題になる。
(3)パーソナル・コンストラクト心理学は、その人のコンストラクトを細かい点まで確認・検討し、それが何を意味しているのかを、検証できる状況を提供する。これによって、その人は、自分をそのように解釈することが、自分自身の人生や生活にとって、どんな意味があるのかを理解できるようになる。
(4)このように、すべての人は、新しい経験に照らして、パーソナル・コンストラクトを徐々に修正しながら、検証し、正当であると確認したり、取り消したりする機会を必要としている。
ジョージ・ケリー(1905-1967)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
検索(George Kelly)
検索(ジョージ・ケリー)

 「ケリー(ジョージ・ケリー)はコンストラクトの絶対的な真実性よりも、コンストラクトの利便性に関心があった。

ある特定のコンストラクトが真実であるかどうかを査定しようとするのでなく、解釈者にとっての利便性や有効性に注意を向ける。

例えば、あるクライエントが「本当に抑うつ的になっているか」あるいは「本当に気が狂ってしまうか」を査定するよりは、自分をそのように解釈することが、クライエントの人生や生活にとって、どんな意味があるのかを見いだそうとする。

もしその解釈が便利でないなら、他のよりよい解釈、つまりよい予想ができ、よい結果が得られる考え方を見つけることが本人の課題になる。

時に心理学者が不適切な理論から抜けだせないのと同様に、患者もまた自分自身の解釈でがんじがらめになり、ジレンマに陥るかもしれない。

「私には価値がない」とか「まだまだ成功しているとはいえない」というような判断を、行動についての解釈や仮説というよりも、議論の余地のない真実であるかのように信じ、自分を苦しめるかもしれない。

心理療法の役割は、パーソナル・コンストラクトが細かい点まで確認・検討され、それが何を意味しているのか検証できる状況を提供することである。

そしてもし、特定のコンストラクトがその人にとって有効でないとわかったら、うまく機能しないとわかった理論や考えを科学者が変更できるように、修正することができる。

科学者と同様、すべての人は新しい経験に照らして、パーソナル・コンストラクトを徐々に修正しながら、検証し、正当であると確認したり、取り消したりする機会を必要としている。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅴ部 現象学的・人間性レベル、第12章 現象学的・人間性レベルの諸概念、p.396、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:パーソナル・コンストラクト心理学)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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14.コンストラクトの代替性:(1)被験者自身のコンストラクトを理解する、(2)出来事を「科学的」にではなく、その人のコンストラクトで解釈する、(3)この解釈から、その人の予期と行動が理解される。(ジョージ・ケリー(1905-1967))

コンストラクトの代替性

【コンストラクトの代替性:(1)被験者自身のコンストラクトを理解する、(2)出来事を「科学的」にではなく、その人のコンストラクトで解釈する、(3)この解釈から、その人の予期と行動が理解される。(ジョージ・ケリー(1905-1967))】
(1)《例》
 ある少年が、母親のお気に入りの花瓶を落としてしまう。
(a) その子ども担当の精神分析家に聞けば、少年の無意識の敵意を指摘するかもしれない。
(b) 母親に尋ねれば、少年がどんなに「意地が悪い」か話すかもしれない。
(c) 父親は「甘やかされている」と言うかもしれない。
(d) 先生は、少年が「怠け者」で、ずっと「不器用」であったことの証明だと言うかもしれない。
(e) 祖母は、それを単に「うっかり」起こしたと弁護するかもしれない。
(f) 本人は、その出来事を自分の「愚かさ」を示す出来事と解釈するかもしれない。
(2)《コンストラクトの代替性》
 生活や人生における出来事には、無数の解釈が可能である。人は、事象を変化させることはできないかもしれないが、異なるように解釈することはいつでも可能である。そして、解釈が異なれば、その後の行動も違ったものになってくる。このように、人は出来事を予期するのに用いるコンストラクトよって、方向づけられている。
(3) 心理学においては、その人たちがしたことを、我々の意味づけで、すなわち最も科学的に簡潔な方法で理解するのではなく、その人たちのスキーマが理論的に簡潔であるか否かにかかわらず、その人たち自身が理解するように理解することが必要である。
ジョージ・ケリー(1905-1967)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
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 「人々を理解するため、ケリー(ジョージ・ケリー)のアプローチを採用するなら、以下のようになる。
 『その人たちがしたことを我々の意味づけで理解するのではなく、その人たち自身が理解するように理解することを試みるだろう。その人たちの生活や人生における出来事を最も科学的に簡潔な方法でまとめる代わりに、その人たちのスキーマが理論的に簡潔であるか否かにかかわらず、その人たちがどのように出来事をまとめるかを私たちは尋ねるだろう。』(Maher,1979,p.203に引用されたKelly,1962)

 同じ事象は他のやり方でも分類されうる。人は常に事象を変化させることはできないかもしれないが、異なるように解釈することはいつでも可能である(Fransella,1995)。

ケリーはこれを、コンストラクトの代替性とよんでいる。

一つの例として、以下のような出来事について考えてみよう。ある少年が母親のお気に入りの花瓶を落としてしまう。これは何を意味しているか。

単純には、花瓶が割れたということである。しかしその子ども担当の精神分析家に聞けば、少年の無意識の敵意を指摘するかもしれない。

母親に尋ねれば、少年がどんなに「意地が悪い」か話し、父親は「甘やかされている」と言い、その子どもの先生は「怠け者」で、ずっと「不器用」であったことの証明として、その出来事をみるかもしれないし、祖母はそれを単に「うっかり」起こしたと弁護し、本人はその出来事を自分の「愚かさ」を示す出来事と解釈するかもしれない。

花瓶は壊れていて、その出来事は取り消すことはできない。しかしそのことには、無数の解釈が可能である。そして解釈が異なれば、その後の行動も違ったものになってくる。

 ケリーの理論は以下のような基本的な仮定から始まっている。「人の心理過程は、その人が出来事をどのように予期するかによって、方向づけられている。
(Kelly,1955,p.46)

これは人の活動は、出来事を予期するのに用いるコンストラクトによって方向づけられることを意味している。

他の現象学的理論と同様に、この考え方でも、その人の主観的な見方を強調するが、特にその人がどのように出来事を予測し予期するかに注目している。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅴ部 現象学的・人間性レベル、第12章 現象学的・人間性レベルの諸概念、pp.395-396、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

(索引:パーソナル・コンストラクト心理学,コンストラクトの代替性)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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