2018年8月12日日曜日

他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

共感

【他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))】

(1)他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知できる。
 (1.1)他者が、情動を感じている表情を見る。(視覚情報)
 (2.2)観察者の情動の基盤となっている内臓運動に関係する神経構造が、自動的に活性化される。
 (3.3)これにより、他者の情動が、直ちに了解される。ただし情動は、それが他者の表情や行為にどう表れているかに関係する、感覚的側面の内省的処理によって理解される場合もあるかもしれない。
(2)島の活性化によって引き起こされる内臓運動反応の周囲にある中枢は、潜在的な内臓運動活動を表象しており、それが実行されることもあれば、潜在的な状態にとどまることもある。
(3)このような情動の理解は、「同情」のための前提だ。しかし「同情」には他の要因も必要となる。例えば、相手が誰なのか、相手とどういう関係にあるのか、相手の立場になったところを想像できるか、相手の情動の状態や願望や期待といったものに対して責任を引き受ける気があるかなどだ。

 「よく知られているように、吐き気を催している人を目にすると、見ている側にも同じような反応が起きる。見ている人は、実際に吐かないまでも、必ずと言っていいほど、何か特別に不快な物を食べたり飲んだりしたかのように、吐き気や、ひどい腹痛などに見舞われる。島の活性化によって引き起こされる内臓運動反応が、周囲にある中枢に影響を及ぼすとはかぎらないとはいえ、そうした中枢が完全に無関係というわけではない。じつはその正反対で、周囲にある中枢は潜在的な内臓運動活動を表象しており、それが実行されることもあれば、潜在的な状態にとどまることもあるが、いずれにせよ、それは、主体である「私」が他者の情動を理解する上でぜったいに欠かせない。
 行為を理解するのに、その行為の模倣が必要ではないのと同じで、他者の情動の意味を理解するために相手の行動を細部まで余すところなく再現する必要はない。他者の運動行為や情動反応の知覚に、異なる皮質回路が関与しているとしても、そうした知覚は、ミラーメカニズムによって統合されているようだ。ミラーメカニズムのおかげで、私たちの脳は、自分が見たり感じたりしていること、あるいは他者が行っているのだろうと思っていることがただちに理解できる。それはこのメカニズムが、私たち自身の行為や情動の基盤となっているのと同じ(それぞれ運動と内臓運動にまつわる)神経構造を活性化するからだ。すでに述べたとおり、他者の行為や意図を理解するために私たちの脳に備わっている手段はミラーメカニズムだけではない。これは情動にも当てはまる。情動は、それが他者の表情や行為にどう表れているかに関係する、感覚的側面の内省的処理によって理解される場合もあるかもしれない。しかし、内省的処理だけで、内臓運動の「ミラーリング」の支援がなければ、ジェイムズの言う、純粋な「情動的温かみ」を欠く「色彩のない」知覚にとどまるだろうことは忘れてはならない。
 情動のミラーニューロン系は、他者の情動を一瞬で理解することを可能にする。この瞬間的な理解は、より複雑な対人関係の大半の基盤となる共感にとって、必要条件だ。とはいえ、他者の情動の状態を内臓運動レベルで共有することと、その人に共感することは、まったく違う次元の話だ。たとえば、誰かが苦しんでいるのを目にしたからといって、反射的にその人に同情するとはかぎらない。同情することはよくあるが、同情するには苦しんでいる人を見ることが前提となるものの、逆は必ずしも真実とは言えない点で、二つのプロセスはまったく異なる。さらに同情には、痛みを認識する以外にもさまざまな要因が必要となる。たとえば相手が誰なのか、相手とどういう関係にあるのか、相手の立場になったところを想像できるか、相手の情動の状態や願望や期待といったものに対して責任を引き受ける気があるかなど、そうした要因は枚挙に暇がない。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第7章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.207-208,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:共感,情動)

ミラーニューロン


(出典:wikipedia
ジャコモ・リゾラッティ(1938-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「みなさんは、行為の理解はまさにその性質のゆえに、潜在的に共有される行為空間を生み出すことを覚えているだろう。それは、模倣や意図的なコミュニケーションといった、しだいに複雑化していく相互作用のかたちの基礎となり、その相互作用はますます統合が進んで複雑化するミラーニューロン系を拠り所としている。これと同様に、他者の表情や動作を知覚したものをそっくり真似て、ただちにそれを内臓運動の言語でコードする脳の力は、方法やレベルは異なっていても、私たちの行為や対人関係を具体化し方向づける、情動共有のための神経基盤を提供してくれる。ここでも、ミラーニューロン系が、関係する情動行動の複雑さと洗練の度合いに応じて、より複雑な構成と構造を獲得すると考えてよさそうだ。
 いずれにしても、こうしたメカニズムには、行為の理解に介在するものに似た、共通の機能的基盤がある。どの皮質野が関与するのであれ、運動中枢と内臓運動中枢のどちらがかかわるのであれ、どのようなタイプの「ミラーリング」が誘発されるのであれ、ミラーニューロンのメカニズムは神経レベルで理解の様相を具現化しており、概念と言語のどんなかたちによる介在にも先んじて、私たちの他者経験に実体を与えてくれる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第8章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.208-209,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:)

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7.信号に対する反応時間は、200~300msである。被験者に100ms、意図的に反応を引き延ばすよう指示すると、結果は600~800msになる。これは、刺激を意識化するのに必要な約500msで説明可能だ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意図的な引き延ばしによる反応時間

【信号に対する反応時間は、200~300msである。被験者に100ms、意図的に反応を引き延ばすよう指示すると、結果は600~800msになる。これは、刺激を意識化するのに必要な約500msで説明可能だ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(a)通常の反応時間(RT)測定
 (a1)被験者への指示
  前もって決められた信号が現れたらできるだけ早くボタンを押すこと。
 (a2)結果
  採用した信号の種類によって、200~300ms
(b)意識的な引き延ばしによる反応時間(RT)測定
 (b1)被験者への指示
  前もって決められた信号が現れたら、100ms程度、意図的に引き延ばしてボタンを押すこと。
 (b2)結果
  採用した信号の種類によって、600~800ms

(a)通常の反応時間(RT)測定では、反応のために刺激へのアウェアネスは必要ない。実際、アウェアネスの発生前に、反応が起こるという直接的な証拠がある。

意識的感覚
 ↑      反応…………………
 │       ↑     ↑
感覚皮質の活性化 │   200~300ms
 ↑       │     │
 ├───────┘     │
刺激………………………………………

(b)意図的なプロセスによってRTを引き延ばしたい場合、被験者はまず刺激に気がつかなくてはならない。

        反応…………………
         ↑     ↑
 ┌───────┘   600~800ms
意識的感覚          │
 ↑             │
 │             │
感覚皮質の活性化       │
 ↑意識感覚を生み出すために │
 │500ms以上の持続が必要  │
刺激………………………………………

 「三番目の証拠は、思いがけず、カリフォルニア大学バークレー校の心理学の教授アーサー・ジェンセン(1979年)の一見関連性のない実験から現われました。

ジェンセンは、異なるグループの被験者の反応時間(RT)を測定していました。通常のテストでは、前もって決められた信号が現れたらできるだけ早くボタンを押すように、被験者に指示していました。ジェンセンの実験の被験者が示したRTは、採用した信号の種類によって、200~300ミリ秒間の範囲でした。

別の被験者グループの間で平均RTに差があったため、ジェンセンは、ある被験者が意図的にRTを引き延ばそうとすることによってある程度の差が生じる可能性を排除しようと考えました。

そこで彼は、すべての被験者に、以前のRTよりも100ミリ秒間程度、意図的に引き延ばしてRTを繰り返すように指示しました。

彼が驚いたことに、指示通りにできた被験者は一人もいませんでした。その代わり、被験者が記録したのは指示されていた小さい延長分よりもずっと長い、600~800ミリ秒間のRTでした。

 ジェンセンが、私たちの意識を伴う感覚的なアウェアネスの500ミリ秒間の遅れについて聞いたとき、彼は自分の奇妙な発見がこれで説明がつくに違いない、と気づきました。

意図的なプロセスによってRTを引き延ばしたい場合、被験者はまず刺激に気がつかなくてはならない、と推測できます。通常のRTテストで被験者が反応した瞬間には、刺激へのアウェアネスはおそらく必要なく、そこでは反応への意図的な操作は問題にはなりません。

(実際、通常のRTは刺激へのアウェアネスなしに、またはアウェアネスの起こる前に発生するという、直接的な証拠があります。)

しかし、意図的に遅らせた反応の前にアウェアネスが生じるには、約500ミリ秒間の活動というアウェアネスを生み出すための必要条件が、そのぶんだけ反応を遅らせます。

これで、意図的に反応を遅らせることを試みた場合、300~600ミリ秒間増えるRTの非連続的なジャンプの説明がつきます。このことが、ジェンセンの発見についての唯一、筋が通った説明となります。また、感覚的なアウェアネスにおける0.5秒間の遅れについての、さらに説得力のある証拠となります。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.63-64,下條信輔(訳))
(索引:意図的な引き延ばしによる反応時間)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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3.世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の自律性

【世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))】

(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
 (e1)世界3は、確かに最初は人間が作ったもであり、また人間の心の所産である。
 (e2)しかし、いったん存在するようになると、それは意図しなかった結果を生み出す。それは、ある程度の自律性を持っている。
 (e3)また、今は誰も知らない未知の諸結果が客観的に存在していて、発見されるのを待っているかのようである。

(再掲)
世界3
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。
(b)対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。
(c)しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
(d)世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。
(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
(f)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 「私の論点は、研究と批判の対象としての問題や理論を認めない限り、科学者の行動はけっして理解できないであろうという点にある。

 むろん、明らかに理論は人間の思考(あるいは好むならば人間の行動――私は言葉使いについて争う気はない――)の所産である。それにもかかわらず、理論はある程度の自律性(autonomy)をもっている。それらは、誰もそれほど深くまでは考えなかったような、だが《発見される》かもしれない諸結果を客観的にもっている。

ここで発見されるとは、存在してはいたが、それまでは未知であった植物や動物が発見されるかもしれない、というのと同じ意味である。

世界3は最初だけ人間が作ったもであり、理論はいったん存在すると、それは自らの生命をもち始める。理論は以前にはみることのできなかった結果を作り出し、新しい問題を提出すると言えよう。
 私の標準的な例は算術からのものである。数の体系は人間の発見というより、人間の構成あるいは発明であるといえる《かもしれない》。しかし、偶数と奇数の差異、または約数と素数の差異は発見である。数のこれらの特徴的な集合は、体系を構成した(意図しなかった)結果として、体系が存在すると客観的に存在することになる。そしてそれらの性質が発見されることになる。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、11――世界3の実在性(上)pp.68-69、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3の自律性)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年8月11日土曜日

模倣による学習や、模倣による行為の再現のためには、ミラーニューロン系の存在が必要ではあるが、十分ではない。ミラーニューロン系を制御する他の皮質野の介入が必要である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

ミラーニューロン系の制御

【模倣による学習や、模倣による行為の再現のためには、ミラーニューロン系の存在が必要ではあるが、十分ではない。ミラーニューロン系を制御する他の皮質野の介入が必要である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))】
 ミラーニューロン系を制御するシステムが必要で、このシステムには促進機能と抑制機能の二つの機能が欠かせない。
 (1) 他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。これは、ミラーニューロンにより実現されている。
 (2)抑制機能がないと、目にした運動行為が自動的に再現されてしまう。実際、前頭葉に広範囲の損傷がある患者は、目にした他者の行為、とくに治療してもらっている医師の行為を繰り返してしまう。また、他者の行為を反射的に模倣してしまう「反響動作症」という障害も存在する。
 (3)模倣による学習や、運動レパートリーに属している行為を実際に再現するためには、ミラーニューロン系以外の皮質野の介入を必要とする。また、潜在的行為を、実際の運動行為の実行へと移行される促進機能も必要である。

 「この分析は、どちらの模倣のかたちもミラー特性を持つ皮質野の活性化に頼っていることを示しており、これは、他者の行為を観察することで得た視覚情報を、それに対応する運動表象と結びつけるメカニズムが存在することを示唆している。サルとは対照的に、ヒトのミラーニューロン系は「他動詞的」な行動と「自動詞的」な行動の両方をコードし、観察した行為の時間的な側面を正確に把握していることがわかっている。したがって、ヒトはこの優れた運動レパートリーのおかげで、模倣、なかでも模倣による学習で、サルより大きな潜在能力を持つと考えられる。
 それでもやはり、運動レパートリーの豊かさだけが学習能力を決めることにはならないし、ミラーニューロン系の存在にしても同じだ。ミラーニューロン系が《必要条件》であるのは確かだが、それだけでは模倣を達成する《十分条件》にはならない。これは、つい先ほど見たようにミラーニューロン系以外の皮質野の介入を必要とする。模倣によって《学習する》能力に対して言えるだけでなく、他人がした行為で私たちの運動レパートリーに属している行為を《再現する》能力にも当てはまる。模倣にはミラーニューロン系を制御するシステムが必要で、このシステムには促進機能と抑制機能の二つの機能が欠かせない。ミラーニューロンによってコードされた潜在的行為を、観察者から求められたときに実際の運動行為の実行へと移行される促進機能は不可欠だが、同時に、この移行を抑える抑制機能も必要となる。もしそれが働かなかったら、自動的に行動が再現されてしまう。私たちが目にする運動行為がすべてたちまち再現されることになる。幸い、抑制機能のおかげでそうならずに済んでいる。
 ミラーニューロン系を制御するメカニズムの存在は豊富なデータ(そのほとんどが臨床データ)に裏づけられている。前頭葉に広範囲の損傷がある患者は、目にした他者の行為、とくに治療してもらっている医師の行為を繰り返してしまい、それがなかなかやめられないことが知られている。(いわゆる「模倣行動」)。このような制御メカニズムの障害の度合いがより深刻な患者に見られる場合のある病的行動として、「反響動作症」も挙げられる。この障害を抱えた患者は、他者の行為をただちに模倣せずにはいられない傾向を持っており、たとえそれが非常に奇異な行為であってもほとんど反射作用のように模倣してしまう。このように、前頭葉に損傷があると、前頭-頭頂回路によってコードされた潜在的行為の模倣行為への変換を遮断するブレーキ・メカニズムが排除されることがわかる。この遮断は、前頭-頭頂回路に全般的な促進機能を働かせると思われる前部内側領域(たとえば前補足運動野)の抑制によって引き起こされる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第6章 模倣と言語,紀伊國屋書店(2009),pp.168-169,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:ミラーニューロン系の制御,反響動作症)

ミラーニューロン


(出典:wikipedia
ジャコモ・リゾラッティ(1938-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「みなさんは、行為の理解はまさにその性質のゆえに、潜在的に共有される行為空間を生み出すことを覚えているだろう。それは、模倣や意図的なコミュニケーションといった、しだいに複雑化していく相互作用のかたちの基礎となり、その相互作用はますます統合が進んで複雑化するミラーニューロン系を拠り所としている。これと同様に、他者の表情や動作を知覚したものをそっくり真似て、ただちにそれを内臓運動の言語でコードする脳の力は、方法やレベルは異なっていても、私たちの行為や対人関係を具体化し方向づける、情動共有のための神経基盤を提供してくれる。ここでも、ミラーニューロン系が、関係する情動行動の複雑さと洗練の度合いに応じて、より複雑な構成と構造を獲得すると考えてよさそうだ。
 いずれにしても、こうしたメカニズムには、行為の理解に介在するものに似た、共通の機能的基盤がある。どの皮質野が関与するのであれ、運動中枢と内臓運動中枢のどちらがかかわるのであれ、どのようなタイプの「ミラーリング」が誘発されるのであれ、ミラーニューロンのメカニズムは神経レベルで理解の様相を具現化しており、概念と言語のどんなかたちによる介在にも先んじて、私たちの他者経験に実体を与えてくれる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第8章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.208-209,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:)

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6.遅延刺激による遡及性の促進効果:遅延刺激が皮質への直接的な微弱な刺激の場合には、最大400msの遅れた刺激でも、先行刺激を遡及して強める。すなわち遅延刺激は、条件によってマスキング効果と促進効果の両方を持つ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

遅延刺激による遡及性の促進効果

【遅延刺激による遡及性の促進効果:遅延刺激が皮質への直接的な微弱な刺激の場合には、最大400msの遅れた刺激でも、先行刺激を遡及して強める。すなわち遅延刺激は、条件によってマスキング効果と促進効果の両方を持つ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

     2番目の刺激S2
     S1より強く感じられる
          ↑
          │
感覚皮質の活性化─促進
 ↑       ↑
2番目の刺激    │
 S2       │
 │       │
 │    3番目の刺激
 │       │
 │       │
  50~1000ms遅れ

(a)遅延する条件刺激は皮質への刺激
 1番目の刺激(テスト刺激の大きさを評価するための対照刺激)
  皮膚へ微弱な単発のパルスを与える。S1
 2番目の刺激(テスト刺激)
  1番目と同じ、皮膚へ微弱な単発のパルスを与える。S2
  1番目の刺激から、5秒間の間隔を置いている。
 3番目の刺激(条件刺激)
  電極を使って、皮質へ連発したパルスを与える。
  このパルスは、マスキングの時より、小さい刺激である。
  2番目の刺激S2から、50~1000ms遅れて与える。
 結果
  S2の後、最大400ms以上遅れていたとしても、S1よりもS2の刺激のほうが強く感じされると被験者は報告する。

 「また私たちは、遅延刺激が最初の皮膚感覚をマスキングする代わりに遡及的に促進、または強化することができるという、驚くべき発見をしました。

これは、遅延刺激を生み出すのに、より小さい電極を使って感覚皮質に接触したときに発見しました。

この実験では、最初の微弱な皮膚パルスとして、5秒間の間隔を置いた同一のパルスを二回送ります。被験者は、二番目の皮膚刺激(S2)が一番目(S1)と比べて同じか、弱いか、強く感じられるかを報告するように指示を受けます。二番目の皮膚パルスS2の後、50~1000ミリ秒間の間隔をおいて、遅延皮質刺激を与えます。

ほとんどの試行において、皮質刺激が始まると、それがS2の後、最大400ミリ秒以上遅れていたとしても、S1よりもS2の刺激のほうが強く感じされると被験者は報告します。

〔訳注=S1はS2に対して通常抑制的な効果を持ち、したがってS2は、S2を単独で提示した場合に比べ、弱く感じられる。しかし、この場合、皮質連発刺激によってS2はS1による抑制効果から解放され、より強く感じられる。先行刺激S1の有無と電極の大きさなどの要因によって、マスキングが起こるか促進が起こるかが決まる。〕

 その後、私たちは、テスト刺激と条件刺激の両方が、同じ電極を経て指の皮膚に与えられた場合の遡及性の促進(または強化)について、ピエロンとシーガル(1939年)がすでに報告していたことを発見しました。

最初の刺激、または(二番目の)テスト刺激が閾値より下である場合に、効果が見られます。テスト刺激の後、20~400ミリ秒間の間隔を置いて閾値より上の条件刺激が続く場合、知覚可能になります。

 これは明らかに、微弱な皮膚パルスによって生じた意識感覚が、約500ミリ秒間遅れた二番目の入力によって遡及的に修正され得ることになります。このことは、皮膚刺激のアウェアネスを生み出す0.5秒間の脳の活動、という私たちが仮定した必要条件を十分にサポートします。

 遡及性の促進という発見が、重要な理論上の要因として、こうした考えをさらに支持することになりました。

遡及性のマスキング/抑制については、遅れた皮質刺激がそれに先立つ皮膚刺激の記憶の形成を単に混乱させているだけだ、という主張がありました。この主張は、脳の広範な領域への全体的な強い電気刺激が(電気ショック療法の場合のように)最新の記憶を破壊するという事実に、ある程度基づくものです。

しかし難治性のうつ病に罹っている患者への治療目的で与えられるこのような電撃によるショック療法では、脳の大部分が強く興奮するため、結果として発作が生じます。

私たちが扱っている遡及性の効果を得る場合は、皮質の中に局所的な発作を起こすのに必要な強さよりもはるかに微弱な力で、感覚皮質の小さな領域に限局して、遅延刺激が与えられています。従って、遡及効果のあるマスキングが記憶を破壊するという主張は、非常に弱いものです。

しかも、遡及性の促進では、記憶の喪失はまったくありません。被験者は二番目の皮膚刺激を、一番目の条件刺激よりも強いものとして記憶しているのです。」

(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.60-63,下條信輔(訳))
(索引:遅延刺激による遡及性の促進効果)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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2.人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の実在性

【人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))】

 科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで実現されていると考えられ得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考えられ得るか。このように考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。

(再掲)
世界3
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。
(b)対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。
(c)しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
(d)世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。
(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
(f)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 「世界3の対象が実在的であるという見解に反対する者は、この分析への返答として、そこに含まれているすべては世界1の対象であると主張するかもしれない。

つまり、ある人がそのような対象を形作り、したがってそのことから他の人々が彼をまねるようになるのだから、そこにはそれ以上のものは含まれていない、と。

 私は別の、おそらくより納得のゆく例を出すことでこれに答えよう。

それは科学理論の構築と、その批判的な議論、その試験的な受容、そして地球表面を、したがって世界1を変化させるかもしれないそれの応用である。
 生産的な科学者は原則として《問題》から出発する。彼は問題を理解しようとするだろう。通常これは長い知的な仕事である――世界2が世界3の対象を把握しようと試みるのである。明らかに、そうする時には彼は書物(あるいはその他の世界1の物象化された形での科学的な道具)を用いるだろう。

 だが、彼の《問題》はそれら書物には述べられていないかもしれない。むしろ彼はそこに述べられている《諸理論》の中に理解しがたいことを見出すことで、それを問題として発見することだろう。これは創造的な努力、つまり抽象的な問題状況を把握するための努力を含んでいる。もし可能なら、以前になされたものよりさらによく把握しよう、という努力である。そして彼は彼の解決、彼の新しい理論を作り出すことになる。

 これは言葉によって多くの仕方で定式化できる。彼はそれらの一つを選ぶ。そして自らの理論を批判的に議論するだろう。その結果として理論を大幅に修正するかもしれない。そしてそれは出版され、論理的基盤に基づいて、そしてそれをテストするために行われる新しい実験をできる限り踏まえて、その他の人々によって論議される。そしてテストに失敗すれば、その理論は破棄されることになろう。このような真剣な知的努力をすべて行なった後ではじめて、だれか別の人が適用可能な進んだ技術的応用を発見し、これが世界1に働きかける。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、11――世界3の実在性(上)pp.67-68、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月10日金曜日

5.遅延刺激によるマスキング効果:最大で100ms遅れた刺激は、先行する刺激の意識化を抑制する。遅延刺激が皮質への直接的な刺激の場合には、200~500ms遅れた刺激でも、先行刺激の意識化を抑制する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

遅延刺激によるマスキング効果

【遅延刺激によるマスキング効果:最大で100ms遅れた刺激は、先行する刺激の意識化を抑制する。遅延刺激が皮質への直接的な刺激の場合には、200~500ms遅れた刺激でも、先行刺激の意識化を抑制する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(a)1番目の刺激による意識的な感覚が生じるのに十分な脳の活性化が完了する前に、2番目の刺激を与えると、2番目の刺激に妨げられて、1番目の刺激が意識されなくなる。

       1番目の刺激は
       意識されない
          ↑
          │
感覚皮質の活性化─妨げられる
 ↑       ↑
1番目の刺激    │
 小さな微弱な  │
 光の点     │
 │    2番目の刺激
 │    1番目の刺激を囲む、
 │    より強く大きな閃光
 │       │
  最大100ms遅れ

(b)両腕の皮膚刺激による実験
 1番目の刺激
  一方の前腕の皮膚に、閾値の強さのテスト刺激(電気刺激)を与える。
 2番目の刺激
  もう一方の前腕に、条件刺激を与える。
 結果:テスト刺激の閾値が上がる。
  最大100ms遅れても効果がある。500ms遅れると効果はない。
(c)条件刺激を、皮質への刺激に変えた実験
 1番目の刺激
  皮膚へ微弱な単発のパルスを与える。
 2番目の刺激
  電極を使って、皮質へ連発したパルスを与える。
 結果
  200~500ms遅れた皮質刺激でも、意識をブロックできる。
  皮質刺激が、100ms以下の連発刺激や単発のパルスでは、意識をブロックできない。

 「二番目の証拠というのは、最初にテストしたものに続いて遅れた二番目の刺激の、逆行性の遡及効果に基づくものです。

二つの末梢の感覚刺激の間に、逆行性、または遡行するマスキング効果があることが、よく知られています。最初の小さな微弱な光の点を囲む二番目のより強く大きな閃光は、最初の光に対する被験者のアウェアネスを遮断することができます。

最初の微弱な閃光の後、最大限100ミリ秒間の遅れがあったとしても、二番目の閃光にはこうした効果があります(例としてクロウフォード(1947年)参照)。

 遡及性のマスキングはまた、皮膚への電気刺激においても報告されてきました(ホーリデイとミンゲイ(1961年))。

一方の前腕に閾値の強さのテスト刺激を与え、閾値より上の条件刺激をもう一方の前腕に与えると、テスト刺激の閾値が上がります〔訳注=閾値が上がるとはすなわち、刺激強度を上げないと検出しにくくなるということ。〕

テスト刺激の100ミリ秒後でも、この条件刺激は効果がありますが、500ミリ秒後では効果がありません。この、100ミリ秒の感覚での逆行性マスキングは、中枢神経系によって媒介されているに違いありません。なぜなら、テスト刺激と条件刺激は、それぞれ異なる感覚経路(つまり逆側の腕)を経由して伝達されるからです。

 この逆行性マスキングは、感覚的なアウェアネスについて私たちが仮定した遅れとどのような関係にあるのでしょうか? 

もし、アウェアネスを生み出すために、適切な神経活動が脳内で最大0.5秒間継続しなければならないのならば、その必要条件である時間感覚の間に二番目の刺激が伝達されると、この神経活動の正常な完了を妨げることになるでしょう。そして、これは感覚的なアウェアネスをブロックすることになるでしょう。

末梢の感覚組織ではなく、脳レベルで(刺激に)反応する組織において、このようなマスキングが生じることを私たちは立証したいと考えました。

またさらに、遡及性の効果を生み出す二つの刺激の間の時間的間隔が、私たちが主張する0.5秒間という必要条件に何とか近い値まで上げることができるかを検討したいと思いました。

 こうした目的を達成するために、私たちは体性感覚皮質に直接、遅延した条件刺激を与えました。

最初の(テスト)刺激は、皮膚への微弱な単発のパルスでした。続いて、1センチ以上の大きなディスク電極を使って、皮質への遅延刺激を与えました。この刺激は比較的強く、皮膚へのパルスから生じる感覚の領域とオーバーラップする、(ほぼ同じ)皮膚領域で感覚が生じました。

被験者は、この二つの感覚を、質感と強さ、また関与する皮膚の領域によって難なく区別できました。

 実際、皮膚パルスの後、200~500ミリ秒までの間に皮質刺激が始まったとしても、この遅延皮質刺激が皮膚のアウェアネスをマスクまたはブロックし得ることを、私たちは発見しました。

ついでに言えば、遅延皮質刺激は、連発したパルスから成ります。100ミリ秒以下の皮質への連発刺激、または単発のパルスには、この遡及性のある抑制効果が《ありません》。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.58-60,下條信輔(訳))
(索引:遅延刺激によるマスキング効果)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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1. 人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))】

世界3

【人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))】
世界3
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。
(b)対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。
(c)しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
(d)世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。
(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
(f)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 「私は世界3の役割を研究することで理解がいくらか増すと考えている。

 世界3によって私が意味しているのは、物語、説明的神話、道具、(真であろうとなかろうと)科学理論、科学上の問題、社会制度、そして芸術作品のような人間の心の所産の世界である。

世界3の諸対象はわれわれ自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 世界3の対象の多くは物体の形で存在し、ある意味で世界1と世界3の両方に属している。彫刻、絵画、そして科学的主題・文学を問わずに書かれた書物、それらがこの例である。書物は物理的対象であり、したがって世界1に属している。だが、それが人間の心の重要な所産であるのは、その《内容》のためである。内容は本ごとや版ごとで変わりはしない。そしてその内容は世界3に属している。

 私の主要なテーゼの一つは、世界3の対象は4節の意味で、つまり世界1の中での物象化ないし具現化においてのみでなく、それらの世界3の中ででの諸相においても実在的であり得るということである。

世界3の対象として、それらは、人間に他の世界3の対象を作り出させるかもしれない、したがって世界1に働きかけるかもしれない。私は世界1とのこの相互作用――間接的な相互作用であっても――を、対象を実在的と呼ぶ決定的な論証と考える。

 したがって、一人の彫刻家の新しい作品製作に鼓舞されて、他の彫刻家たちはそれを模写し、類似の彫刻を刻むかもしれない。彼の作品は――その物質的側面よりはむしろ彼が創作した新しい形を通して――他の彫刻家たちの世界2の経験として、そして間接的には、新しい世界1の対象を通して、彼らに影響を与えることができる。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、11――世界3の実在性(上)pp.66-67、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)
宇宙進化の諸段階
世界3
(人間の心の所産)
(6)(技術を含む)芸術と科学の諸成果
(7) 人間言語、自我と死についての諸理論
世界2
(主観的経験の世界)
(4) 自我と死についての意識
(3) 感覚意識(動物意識)
世界1
(物理的対象の世界)
(2) 生命有機体
(1) 重元素:液体と結晶
(0) 水素とヘリウム
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P1章 唯物論は自らを超越する、7――この世界に新しいものは何もない。還元主義と《下向きの相互作用》(上)p.31、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月9日木曜日

01.錯視を用いて意識的知覚を研究する利点:(a)コンシャスアクセスに焦点を絞る、(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作、(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

錯視を用いた意識的知覚の研究

【錯視を用いて意識的知覚を研究する利点:(a)コンシャスアクセスに焦点を絞る、(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作、(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

 錯視を用いて意識的知覚を研究する利点。
(a)コンシャスアクセスに焦点を絞ること。
(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作。
(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。
 錯視は非常に主観的なもので、見ている本人しか経験できない。それにもかかわらず、結果は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。

 「実のところ、クリックとコッホは新たな問題を提起したのだ。彼らに続いて、何十もの研究室が、先の例のような基本的な錯視を用いて意識を研究し始めた。これらの研究プログラムでは、次の三つの利点によって意識的知覚の実験が可能になった。第一に、錯視の説明は、意識に関する複雑な概念を必要としない。見ているのか見ていないのかという、私がコンシャスアクセスと呼ぶ経験に焦点を絞ればよい。第二に、よく知られた種々の錯視を研究に利用できる。これから見ていくように、認知科学者は、単語、画像、音、そしてゴリラすら思いのままに消滅させる何十ものテクニックを開発してきた。三点目は次のとおり。これらの錯視は非常に主観的なもので、たとえば先の例では、見ている本人しか、いつどの円が消えたかを言えない。それにもかかわらず、結果は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。このように、私たちの気づきのなかで、現実に何か特異で魅力的な現象が生じることは否定しがたい。私たちにこの点を真剣に考慮すべきだ。
 「コンシャスアクセスに焦点を絞ること」「種々のトリックを用いた意識の自由な操作」「主観的な報告を純粋な科学データとして扱うこと」。これら三つの重要なアプローチによって、意識を科学の対象として扱えるようになった。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.34-34,高橋洋(訳))
(索引:錯視,コンシャスアクセス)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

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