2018年12月7日金曜日

「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

無限

【「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「かくして「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定なのである。

無限な可能性は、それ自身、《言語の無限な可能性》として現われるのである。それは、無限についての言明は意味を持っている、といった事の中に現われるのではない。何故なら、そのような言明は存在しないのであるから。

無限な可能性は無限なるものの可能性を意味してはいない。「無限」という語は、可能性を特徴づけるのであり、現実性を特徴づけるのではないのである。

 線分の無限分割可能性は、或る純粋に論理的なるものである。《この》可能性が経験から発生し得ないことは、全く明らかではないか。

 空間と時間の無限分割可能性、連続性―――これら全ては仮説ではない。それらは、記述の可能な形式についての洞察なのである。

 我々は経験から、空間と時間は或る不連続な構造を持っている、と教えられることはあり得ないのか。もし我々が棒を次々と分割して行き、物理的な理由で限界にぶつかるとすれば、このことは、ある命題によって記述せられる経験的事実である。

しかしこの場合、その命題の否定命題もまた意味を持たねばならない。そしてこの事は、更に進んだ分割についての可能的経験もまた我々は記述できねばならないのだ、という事を意味している。

事実、分子の仮説は、もしそれが意味を有するならば、この更に進んだ分割の可能性を前提しているのである。ここにおいて人は、空間の無限分割可能性は事実に関わることではないのだ、という事を知るのである。

我々がここで必要とする可能性は、《論理的》可能性、即ち記述の可能性なのであり、そしてそれは事実的経験に関わる必要がないのである。

 明らかに我々はここにおいては、仮説を問題にしているのではなく、仮説の設定を可能にするところのものを問題にしているのである。

 もちろん我々は、分割可能性に論理的限界を引くことは出来る。しかしそれは、我々は我々の表現の構文法を変えるのだ、という事を意味するのである。もちろんこの事は、我々は、或る経験を前もって排除するという事ではなく、その経験をその記号法によって表現することを断念するという事なのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』付録A 無限について、全集5、pp.331-332、黒崎宏)
(索引:無限)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

何によって無限が認識されるか

【何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1)無限の認識は、感覚、表象、記号からは得られない。
 (1.1)感覚知覚からも、無限なものは何も得られない。
 (1.2)無限は、表象できない。
 (1.3)数を、一定の記号体系そのものとみなすならば、やはり無限が理解できない。
(2)それにもかかわらず、形式的算術の記号体系の内容、意義としての数や無限が存在するように思われる。我々の、この無限の理解は、何によってもたらされるのかが問題である。
(3)例えば、線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、無限の認識の源泉である。

 「幾何学的な認識の源泉から、言葉の本来のそして最も強い意味での無限が得られる。ここでわれわれは日常の言語使用から眼を転じるべきである。日常の言語使用においては、「無限に大きい」と「無限に多い」は「きわめて大きい」や「きわめて多い」以上のいかなることも語らないからである。どの(直)線分にも、どの円周にも無限に多くの点があり、どの点にもそれを通る無限に多くの直線がある。われわれがこれらを全体として個々独立に表象できないということはどうでもよい。ある人はより多くを表象でき、またある人はより少なくしか表象できないかもしれないが、われわれはここで心理学や表象や主観的なものの領域にいるわけではなく、むしろ客観的なものの領域、真なるものの領域に立っているのである。ここで、幾何学と哲学は最も近づいている。」(中略)「これらの学問は、双方にとって損害をもたらすほど互いに疎遠であり続けてきた。そうであるから、結局のところ形式的算術、数は数記号にほかならないという見解、が支配的になってきたのである。おそらくその時代はいまだ過ぎ去ってはいないであろう。そのような見解に人々はどうやって到ったのか。数を学問的に取り扱おうとするならば、数として何を理解するかを言う義務を誰でも感じる。この概念的な課題に向かうと誰もが自分の無力さを認識し、即座に数のかわりに数記号を説明する。なぜなら、これらのものは、石や植物、星が見えるように、もちろんあなたの目に見えるからである。あなたはたしかに、石が存在することを疑わない。同じようにあなたは、数が存在することを疑うことはできない。あなたは、数が何ものかを意味する、あるいは数がある内容をもつ、という考えを拒みさえすればよい。そうしないと、われわれは実際その内容を示さなければならず、それは信じられないような困難に導くからである。これらの困難を避けるということがまさしく、形式的算術の強みにほかならない。数が一定の記号の内容や意義ではないということをいくら明確に強調しても強調しすぎということはないのは、そのためである。むしろ、これらの数記号それ自体がまさしく数であり、いかなる内容も意義もまったくもたないのである。哲学的理解のいかなる痕跡も見いだせない者だけがそのように語れる。そのとき、数命題は何も語ることはできないし、数はまったく何の役にも立たず、無価値なものとなる。
 感覚知覚からはいかなる無限なものも得られない、ということは明らかである。また、われわれの目録にどれほど多くの星を取り込むことができるにせよ、それは決して無限に多くではありえないし、大洋の浜辺にある砂粒についても同様である。それゆえ、われわれがどこで無限を正当に承認するにせよ、その承認を感覚知覚から得ようとはしてこなかった。これを得るためには、特別な認識の源泉が必要とされるのであり、幾何学的な認識の源泉はそのようなものの一つなのである。
 空間的なものと並んで、さらに時間的なものが承認されなくてはならない。これにもまた、一つの認識源泉が対応し、この源泉からもわれわれは無限を引き出す。両方向に無限の時間は、両方向に無限な直線に似ている。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学と数学的自然科学の認識源泉[一九二四/二五]』292-294、フレーゲ著作集5、pp.306-308、金子洋之)
(索引: 無限)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月6日木曜日

18.目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

目的意識的な行為も、未知のまま遂行される

【目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(3.1)追加記載。

(1)身体
 (1.1)偉大なことや驚異的な多くのことが、意識なしで成就されている。
 (1.2)多くの組織が同時に働いており、この働きにおける諸々の義務や権利の戦いの調停には、実に多くの繊細さが存在している。
(2)無意識
 意識のうちに入らずに為される多くのことがある。感覚、思考、情動、意欲、想起。
(3)行為
 我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
 (3.1)目的意識的な行為であっても、無数の個々の運動が、明確に意識されることなく遂行される。
  (a)それらは、私たちには、あらかじめ全く未知のものである。例えば、咀嚼に先行する咀嚼の心像を考えてみること。それは、まったく不明確である。
  (b)これらの諸運動は、意志によってひき起こされるのではない。
  (c)また、これらの諸運動は起こるのだが、私たちには明確には、知られないままである。
  (d)現実的な経過や本質とは別に、私たちの空想は、私たちが「本質」とみなすのを常とする何らかの仮構を対置する。
(4)意識
  意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (4.1)意識は、私たちに最も近いもので、最も親密なものである。しかし、これを身体より重要なものとみなすのは、古い先入観なのではないか。
 (4.2)確かに、精神は最後に発生した器官である。
 (4.3)意識にのぼってくる思考は、意識されない思考の極めて僅少の部分、その最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。
 (4.4)また、精神は何か貧しくて狭いもの、近似的にしか充分でない。精神的なものは、身体の一つの道具であり、身体の記号と見なされるべきものである。
 (4.5)また、この僅かのものが、誤謬へと、また取り違えへと導き、しばしば欠陥のある仕事をする。
 (4.6)人間の精神と行為に関する価値判断や道徳も、この事実に基づいて再考されねばなららない。

 「意識のうちにあって、或る目的意識的な行為に先行するもの、たとえば咀嚼に先行する咀嚼の心像は、まったく不明確である。

そして私がそれを科学的にいっそう正確に規定しても、このことは行為そのものにはなんら影響を与えない。

私たちがそれについてあらかじめ全く何ひとつとして知ってはいない無数の個々の運動が、遂行されるのであり、そして、たとえば舌の《賢明さ》は、総じて《私たちの意識がもつ賢明さ》よりも、はるかに大きいのである。

私は、これらの諸運動が私たちの意志によってひき起こされるということを、否認する。

これらの諸運動は起こるのだが、《私たちには知られないままなのだ》。これらの諸運動の過程をも私たちは、(触覚の、聴覚の、色彩についての視覚の)象徴というかたちで、また個々の部分や契機においてとらえうるだけである―――この過程の本質は、持続する《経過》と同様に、私たちには未知のままなのだ。

《おそらくは空想が》、現実的な経過や本質に、何かを、私たちが本質とみなすのを《常と》するなんらかの《仮構を、対置するであろう》。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一一二、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.84、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年12月5日水曜日

14.数学における「存在」証明は、何をもって存在すると定義するかという、私たちの「存在」の概念に依存している。存在証明とは独立した、別の明晰な存在概念があると思うのは、錯覚である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

存在証明

【数学における「存在」証明は、何をもって存在すると定義するかという、私たちの「存在」の概念に依存している。存在証明とは独立した、別の明晰な存在概念があると思うのは、錯覚である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「「いかなる存在証明も、存在を証明しようとするものの構成を含まなければならない。」実は、「私は、かかる構成を含んでいない証明を、存在証明とは呼びたくない」と言えるだけなのに。

この誤りは、ひとが存在という明晰な《概念》をもつかのように詐称することから生じる。

 ひとはあるもの―――存在―――を証明することができると信じる。その結果彼は、《証明とは独立に》、その存在を確信してしまう。

(たがいに独立した―――したがって定理からさえも独立した―――証明という観念!)

実際に存在とは、われわれが「存在証明」と呼ぶもので証明したそのものにほかならない。直感主義者をはじめとする人びとがそれについて語るとき、彼らは「この事態―――存在―――をわれわれはただこの仕方でのみ証明することができる、しかしその仕方ではできない」と言っているのだ。

そして彼らは、《自分たちが》存在と呼ぶものをそのさい定義したにすぎない、ということに気がつかない。

「一人の男が部屋の中にいる、ということは、もっぱら部屋の中を覗きこむことによって証明される。しかしドアのところで聞き耳を立ててもそれは証明されない」という言い方をひとはする。しかしいま論じている事柄は、まさにそういうものではないのだ。

 われわれは、存在証明にかんする自分たちの概念と切り離して、存在の概念をもつことはない。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法2』五 数学の証明 二四、全集4、pp.196-197、坂井秀寿)
(索引:存在証明)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。喩えではあるが、3つの未知数を持つ3つの連立方程式が、ただ一つの解をつねに持つわけではない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

構成的定義が必要と思われる理由

【公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。喩えではあるが、3つの未知数を持つ3つの連立方程式が、ただ一つの解をつねに持つわけではない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

 「これとは別種の許容できない定義は、代数の例えによって特徴づけることができる。三つの未知数x、y、zが三つの方程式に現われているとしよう。そのとき、それらの未知数はこれらの方程式によって確定されうる。しかし厳密に言えば、ただ一つの解が可能であるときしか確定されない。同様にして、「点」、「直線」、「平面」というような語もいろいろな文に現われうる。これらの語が未だいかなる意義も有していない、と仮定せよ。これらの語が現われている文が真なる思想を表現するように、これらの語の各々に一つの意義が見出されることが要求されている、とせよ。しかし、これによって一義的にこれらの語の意義が確定するだろうか? ともかく、一般的には確定しない。たいていの場合、どれだけの解が可能であるかは、決定されないままであるに違いない。しかし、ただ一つの解が可能であることが証明されうる場合は、構成的定義により、説明されるべき語の各々に一つの意義を割り当てることによって、意義が定まる。しかしながら、いくつかの説明さるべき表現を含むような一連の文は、定義とは認められ得ない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学における論理[一九一四春]』229、フレーゲ著作集5、p.233、田畑博敏)
(索引:構成的定義,公理系)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月4日火曜日

(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

構成的定義と分析的定義

【(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(a)構成的定義
 (a.1)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する。
 (a.2)構成された複合的表現に、全く新しい単純記号を導入する。
(b)分析的定義
 (b.1)既に用いられている単純記号Aの意義を、論理的に分析する。
 (b.2)分析された意義を、既に意義の明らかな構成要素から再構成し、これを単純記号Bとして定義する。
 (b.3)問題は、単純記号AとBの意義が同じかどうかである。

 「従ってわれわれは、全く異なる二つの場合を区別しなければならない。
一.われわれは意義をその構成要素から構成し、この意義を表現するために全く新しい単純記号を導入する場合。これを「構成的定義」と呼ぶことができる。しかしわれわれは、むしろ端的に「定義」と呼びたい。
二.もうとっくに一つの単純記号が使われてきている場合。この場合、われわれはそれの意義を論理的に分析できると思うし、そしてその意義と同じ意義を表現しているとわれわれが考える、一つの複合表現が得られると思う。複合表現の構成要素として認めるのは、それ自身是認された意義を有するものだけである。この複合表現の意義は、その構成の仕方に従って結果しなければならない。その意義がとうに慣用となっている単純記号の意義と一致するということは、任意に取り決められたことではなくて、直接な理解によってしか認識されない。ここでも確かに定義について語られている。第一の場合と区別して、これを「分析的定義」と呼ぶことができよう。しかしより良いのは、「定義」という語を全く避けることである。なぜなら、ここで定義と呼びたいところのものは、本来は公理と解されるべきものであるからである。この第二の場合においては、任意の取り決めに対するいかなる余地も残ってはいない。なぜなら単純記号はすでに意義を有しているからである。」(中略)
 「さて、論理的分析が正しいかどうかに疑問の余地があるとき、この分析の際われわれが陥る窮状について考察するということが、まだ残されている。
 Aをとうに慣用となった単純記号(表現)とし、その意義をわれわれが論理的に分析しようと試みたと仮定しよう。そして、この分析を描写するものとして一つの複合表現を構成することによって、その論理的分析を行うとしよう。分析が成功しているのかどうか確かではないのだから、われわれはその複合表現をかの単純記号Aによって代理されるものと称することは、敢えてしない。もしわれわれが本来の定義を打ち立てようと欲するのであれば、すでに意義を有している記号Aを選んではならず、むしろ全く新しい記号、例えばB、を選ばねばならない。その記号に、いま定義によって初めて、かの複合表現の意義が与えられる。さて問題は、AとBとが同じ意義を有するか、ということである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学における論理[一九一四春]』227-228、フレーゲ著作集5、pp.230-231、田畑博敏)
(索引:構成的定義,分析的定義)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年12月3日月曜日

公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

対象の存在ということ

【公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1')(2.3')追加記載

(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))
(1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
 (1.1)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
 (1.2)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
(2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
 (2.1)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
 (2.2)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
 (2.3)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
(3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

(1')公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。「そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たない」と思われる。
(2.3')公理の諸性質を全部満たすような「対象」を、実際に構成してみることが必要と思われる。そして、構成されたものは、確かに「存在」している。

 「命題
『一.Aは叡智的存在である。
 二.Aは遍在する。
 三.Aは全能である』。
がそのすべての帰結を加えても互いに矛盾しないことを知っているとしましょう。このことから我々は、全能で、遍在する、叡智的存在が存在すると推論できるでしょうか? 私には、それは納得が行きません。その原理は大体こうなるでしょう。
 もし命題
 『Aは性質Φを持つ』
 『Aは性質Ψを持つ』
 『Aは性質Χを持つ』
が(Aが何であろうと)一般的に、すべての帰結を加えても互いに矛盾しないとすれば、これらの性質Φ、Ψ、Χを全部持つような対象が存在する。この原理は私には納得が行かず、そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たないでしょう。ここでは、当該の諸性質を全部持つような対象を挙げるという以外に、無矛盾性を証明する手段があるでしょうか? しかし、もしこのような対象が得られるとすれば、最初に無矛盾性[を証明する]という回り道をして、こうした対象が存在することを示す必要はなくなります。
 一般命題が矛盾を含むとすれば、それに包摂される特殊命題はどれもまた矛盾を含みます。したがって、後者の無矛盾性から一般命題の無矛盾性を推論するのは可能ですが、しかし逆は不可能です。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡五 一九〇〇年一月六日 75、フレーゲ著作集6、pp.82-83、三平正明)
(索引:公理系,存在する対象,無矛盾性)

フレーゲ著作集〈6〉書簡集・付「日記」


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))

公理主義

【(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))】

(1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
 (1.1)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
 (1.2)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
(2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
 (2.1)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
 (2.2)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
 (2.3)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
(3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

 「あなたはこう書いておられます。「私が公理と呼ぶのは・・・命題のことです。公理が真であることから、公理は互いに矛盾しないということが帰結します。」他ならぬこの命題を御手紙で拝見するのは、私には大変興味深いことでした。と申しますのも、私はこのような事柄について考え、著述をし、講演するときには、常に正反対のことを言っているからです。つまり、私が言っているのは、もし任意に措定された公理が帰結のすべてを加えても互いに矛盾しないとすれば、こうした公理は真であり、公理によって定義されたものは存在するのだということです。それが私にとって真理と存在の規準なのです。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 66、フレーゲ著作集6、p.71、三平正明)
 「3行で点の定義を与えようとするのは、私見によれば不可能なことです。なぜなら、むしろ、公理の構成全体というものが初めて完全な定義を与えるからです。どの公理もやはり定義に対して何がしかの貢献をし、それゆえ新しい公理はどれも概念を変化させます。ユークリッド、非ユークリッド、アルキメデス、非アルキメデス幾何学における「点」は、その都度何か別のものとなります。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 66-67、フレーゲ著作集6、p.72、三平正明)
 「あともう一つの意義だけに触れなければなりません。あなたはこう言っておられます。例えば「点」、「間」といった私の概念は、一意的に確定されていない。例えば二〇頁では、「間」は異なった仕方で把握され、そしてそこでは点は数の対である。―――実際そうなのでして、やはり自明なことですが、いかなる理論も必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式でしかなく、そして基本要素は任意の仕方で考えることができます。私の言う点で、何らかの物の体系、例えば愛、法則、煙突掃除夫・・・から成る体系のことを考え、そして次に私の公理全体をこうした物の間の関係として想定さえすれば、私の挙げる命題、例えばピタゴラスの定理はこうした物についても成り立ちます。換言すれば、いかなる理論も常に、基本要素から成る無限に多くの体系に対して適用できます。実際、ただ一対一変換を適用して、こう約定すればよいからです。変換された物に対する公理はそれに対応して同じものでなければならない、と。実際また、こうした事情は度々利用されています。例えば双対原理などで用いられますし、私も独立性証明で用いました。電気理論のすべての言明は、要求した公理が満たされさえすれば、磁気、電気・・・といった概念の代りに置かれる、他のいかなる物の体系についても当然成り立ちます。しかし、言及された事情は決して理論の欠陥ではありえませんし、またいずれにせよ不可避なのです。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 67、フレーゲ著作集6、pp.72-73、三平正明)
 「私の見解はこういうことに他なりません。概念というものは、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定しうる。私は、こうした関係を特定の言明で定式化したものを公理と呼び、こうして公理が(必要なら概念に対する命名を付け加えて)概念の定義だと考えるようになります。私は、この見方を決して退屈しのぎに考え出したわけではなく、論理的推論と理論の論理的構成とにおける厳密性の要求によって、この見方を取らざるをえないということが分かったのです。私は、数学と自然科学においては、一層微妙な事柄はこのようにしてのみ確実に取り扱えるのであり、さもなければただ循環するだけだと確信しております。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡八(葉書) 一九〇〇年九月二二日 79、フレーゲ著作集6、p.89、三平正明)
(索引:公理系,公理主義,公理)

フレーゲ著作集〈6〉書簡集・付「日記」


(出典:wikipedia
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2018年12月2日日曜日

17.理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

「真」の世界、神的世界、自由の世界

【理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(5)追加記載。

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)理性、論理にかかわる3つの誤り
  (a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。
   (4.3.3.1)「科学」を促進してきた3つの錯覚。
     「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

    (a)科学を通じて、神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したこと。
    (b)認識の絶対的な有用性を信じること、特に、道徳と知識と幸福との深奥での結合を信じたこと。
    (c)科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、所有したり愛したりできると思ったこと。

(5)「別の世界」の捏造
 以上のとおり、「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。捏造された世界は、他にも存在した。
 (5.1)「別の世界」
  (a)「真」の世界:哲学的先入見が捏造した世界。
  (b)「神的世界」:宗教的先入見が捏造した世界。
  (c)「自由の世界」:道徳的先入見が虚構した世界。
 (5.2)「別の世界」は、生きることに疲れた人間の本能が作り上げた世界であり、実際には存在しない。
 (5.3)「仮象」と誤解された世界が真に実在する世界であり、私たちが唯一、現実的に生きているのは、この世界である。
 (5.4)真に生きることの意味、価値の源泉は、真に実在する世界に存在する。

「「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、
 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では《理性》と《論理的》機能がふさわしい、―――ここから「真」の世界が由来する。

 宗教的人間である。宗教的人間は「神的世界」を捏造する、―――ここから「自然性を剥奪された、反自然的」世界が由来する。

 道徳的人間である。道徳的人間は「自由の世界」を虚構する、―――ここから「善き、完全な、正しい、神聖な」世界が由来する。

 これら三つの発生地に《共通なこと》は、《心理学的な》つかみそこない、生理学的な取りちがえである。

 実際に歴史のうちにあらわれるような「別の世界」は、どのような述語でもって印づけられているのか?  哲学的、宗教的、道徳的先入見の傷痕でもって。

 これらの事実から明らかにされるような「別の世界」は、《存在しない》、生きていない、生きようと《欲し》ないことの《同義語》にほかならない・・・

 《総体的洞察》。すなわち、「別の世界」をつくりあげたのは、《生の疲労》の本能であって、生の本能ではない。
 《結論》。すなわち、哲学、宗教、道徳は、《デカダンスの症候》である。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八六、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.131-132、[原佑・1994])
(索引:理性の世界,真の世界,神的世界,自由の世界,別の世界)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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