人間の学習能力への信頼
【いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】(1)人間の学習能力への信頼
(1.1)仮に、過酷な生活環境のもとにおいても、人間は一つの事柄についてしか知ろうと努力しないというものではない。
(1.2)仮に、未来において人間の知識が膨大に増加してもなお、人間にとって大切な一般教養教育の必要性は益々必要となり、また人間の学習能力は、それを乗り越えていくことだろう。
(2)人間の知識は増加し、科学・技術の専門分野は細分化され、有用な知識の全領域の小さな一部分にすぎなくなる。
(2.1)知識の増加
人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加している。
(2.2)科学・技術の専門分野の細分化
知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなる。
(3)仮に、一つの学問あるいは研究のみに没頭し、自分の専門以外のことについて全く無知であるならば、引き起こされる弊害がある。
(3.1)特殊な専門分野固有の偏見
特殊な研究に付きまとう、視野の狭い専門家が抱く偏見が、精神の内部に育ってしまう。
(3.2)専門外の事柄の理解・評価の無能力
幅広いものの見方に対して、その根拠を理解、評価できない無能力さを身につけてしまう。
(3.3)価値のある人間的目的への無理解
ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとって、意味のない存在になってしまう。
「人間は既に最大限の効率で教えられているという暗黙の前提に立脚しながら、人間の学習能力に対して不思議なくらい低いこのような評価しか与えないことに関して、もう少し申し添えておくことに致します。そのような狭い考え方は、われわれの教育理念を低下させるだけではなく、もしそのような考え方を容認するならば、未来における人類の進歩に対するわれわれの期待は暗澹たるものになってしまうでありましょう。といいますのも、もしも、人間が、過酷な生活環境のもとでは、一つの事柄についてしか知ろうと努力しないのであれば、色々な事実が増加するに従って、人間の知性というものが一体どうなるのであろうかと思われるからであります。人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加しております。知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでありましょう。そして、科学・技術のすべては、細分化され、遂には、各人が分担する部分、つまり各人が完全に知る領域と有用な知識の全領域との比率関係は、あたかもピンの頭をつけるという技術と人間の産業界の全領域との比率と同じになってしまうでありましょう。さて、もしそのような些細な部分を完全に知るためには、人はそれ以外のすべてのことについて全く無知でなければならないとするならば、間もなく人は、ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとっては、全く無意味は存在になってしまわないでしょうか。人間のこのような状態は、単なる無知以上に悪い結果を生みだすことでありましょう。他の学問あるいは研究すべてを排除して、一つの学問あるいは研究のみに没頭するならば、必ずや人間の精神が偏狭になることは、既に経験によって知るところであります。このような場合、精神の内部に育つものは、特殊な研究に付きまとう偏見であり、またそれとともに、幅広いものの見方に対してその根拠を理解、評価できない無能力さ故に、視野の狭い専門家が共通して抱く偏見であります。人間性というものは、小さなことに熟達すればするほどますます矮小化し、偉大なことに対して不適格になっていくであろうと予測せざるをえません。しかしながら、今日、事態はそれほど悪化しておらず、そのような暗い未来を想像させる根拠は全くないのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.13-14,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:人間の学習能力,専門分野の細分化,一般教養教育)
(出典:wikipedia)
「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション<京都大学学術出版会