2022年1月17日月曜日

22. 歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

歴史のパターンや規則性

歴史は、環境、風土、物理的、生理的、心理的過程といった自然的諸力だけから全てが説明できない。例外的な諸個人にせよ、不特定多数の大衆にせよ、個人の性格、 目的、動機が大きく関わり、道徳的、政治的な評価も含まれる。そのため、誤ったパターンや規則性の思想は、状況認識や道徳的・政治的評価に影響を与える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)例外的な諸個人か
 民衆および社会全体の生活は、例外的な諸個人によって決定的に左右され ているのか。
(b)不特定多数の諸個人か
 生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるのか。
(c) 個人の性格、 目的、動機が深く関係する
 いずれにしても、環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが説明されるわけではない。そこには、個人の性格、 目的、動機が関わってくる。だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。

(d)道徳的、政治的な評価も関わる
 どうして、このような状況が生じたのか。誰が、また何が、戦争、革命、経済的崩壊、芸術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきものであったのか、また責任があるのか、あるいはあるだろうか、ありうるのか。

(e)歴史にはパターン、規則性はあるのか
 歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。

(f)歴史の規則性に関する注意
 パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。

(g)規則性の思想は状況認識や道徳的・政治 的評価に影響を与える
 歴史に規則性があるとする思想は、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。

「歴史上の諸事件の継起に大きなパターンなり規則性を見出すことができるのではないかと いう考えは、分類や相互関連の発見や、とりわけ予言といった点における自然科学の成功から 強い印象を受けたひとびとには、当然魅力的なものとなる。

そこでかれらは、「科学的」方法 の適用によって――形而上学的あるいは経験的体系で武装を固め、かれらがもっていると主張す る確実な(あるいは実際上確実な)事実の知識を基点として出発することによって――過去にお ける空隙を満たす(時としては未来の際限もない空隙のなかへ構築をしていく)べく、歴史的知識の拡大を求める。

他の諸領域におけると同じく歴史の領域でも、既知なるものから未知な るものへ、あるいは少し知られているものからさらに少ししか知られていないものへと論を進 めてゆくことによって、多くのことがなされてきたし、またこれからもなされてゆくであろう ことは疑いえない。

しかしながら、パターンないし斉一性の認知ということが、過去あるいは 未来に関する特別な仮説に刺激を与えたり、それを立証したりするのに、どれほどの価値をも つにしても、それは一方では、現代のものの見方を決定するのにかなりいかがわしい役割を演 じてきたし、また現在ますます演じつつもあるのである。それはたんに、人間の活動や性格を 観察し記述する仕方に影響を及ぼしたばかりではなく、その活動や性格に対する道徳的・政治 的・宗教的な態度にも影響を与えた。

というのは、人間がいかに、またなぜ、現にそうである ように行動し生活しているのかを考察するときにどうしても生じてくる諸問題のなかには、人 間の動機と責任という問題が含まれているからだ。

人間の行為を記述するのに、個人の性格、 目的、動機という問題を排除したら、いつだってそれは作為的で、あまりに簡潔すぎるものと なってしまう。また人間の行為を考察するときには、だれだってたんにあれこれの動機なり性 格なりが生起するものに及ぼした影響の程度と種類だけを評価するのではなく、意識的あるい は半ば意識的にそれを自分の思想ないし行動のうちに受けいれる価値尺度はいかようにもあ れ、その道徳的ないし政治的な性質をもおのずから評価しているのである。

どうしてこのよう な、またあのような状況が生じたのか。だれが、またなにが、戦争、革命、経済的崩壊、芸 術・文学の復興、人間生活を変える発明発見や精神的変革、等々に対して責任をとるべきもの であったのか、またあるのか(あるいは、あるだろうか、ありうるのか)。今日、個人中心的 な歴史理論と、個人中心的でない歴史理論とが存在していることは、周知のところであろう。 一方の理論によれば、民衆および社会全体の生活は例外的な諸個人によって決定的に左右され ていることになる。これにはまた、生起するものは特定個人の願望や意図の結果としてではな く、不特定な多数の諸個人の願望や意図の結果として生じるとする学説もある。ただしこの場 合にも、その集団的な願望や目的は、人間的でない要因だけによって、または多くは人間的な らざる諸要因によって決定されているとは見られず、したがって環境、風土、物理的、生理 的、心理的過程といった自然的諸力に関する知識だけからすべてが、または大部分が引き出し うるとは考えられていない。どちらの見解についても、だれが、なにを、いつ、どこで、どの ような仕方で、要求したか、またどれほど多くの人間がどれほど烈しく、この目的を避け、あ の目的を追求したか、を究明し、さらにそうした要求なり恐れなりがいかなる環境のもとでど の程度までの効果をもったか、またそれがどういう結果になったか、を追求することが、歴史 家の仕事となる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『歴史の必然性』(収録書籍名『歴史の必然 性』),II,pp.163-165,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月16日日曜日

21.民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由のための原理

民主主義的な制度があっても、自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものは何なのであろうか。(a)権力に対抗する権利の絶対性、(b)人間の思想の自由の不可侵性である。その際、介入が許される非人間性や狂気の概念は決して恣意的なものではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)権力に対抗する権利の絶対性
 一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようとも、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。
(b)人間の思想の自由の不可侵性
 第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある。
(b.1)介入が許される非人間性や狂気の概念は恣意的なものではない
 したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。


「しかしながら、デモクラシーがデモクラティックであることをやめることなしにも、自由 を、少なくとも自由主義者たちがいうような自由を抑圧することができるとしたら、社会を真 に自由にするものはなんなのであろうか。

ミルやコンスタン、トックヴィルにとって、さらに かれらの属する自由主義的伝統にとっては、社会がとにかく二つの相関的な原理によって支配 〔統治〕されるのでなければ、自由ではない。

その一つの原理は、権力ではなくしてただ権利 のみが絶対的なものと見なされうる、したがって、いかなる権力が支配〔統治〕していようと も、すべての人間には非人間的な行為をすることを拒否する絶対的な権利がある、ということ である。

第二の原理は、人間がその内部を決して侵されてはならない境界線は、なんら人為的 に引かれたものなのではなく、歴史上長く受けいれられてきた規則によって定められたもので ある、

したがってこの境界線を守ることは、一個の正常な人間であるとはどういうことか、そ れゆえにまた、非人間的ないし狂気の行動とはどういうものかという概念そのもののうちに 入っているのであって、

その諸規則が、たとえばある宮廷なり主権者なりの側での形式的な手 続きによって廃棄されうるなどということは、まったく不合理なことである、というにある。 

ひとりの人間が正常であるという場合、わたくしの意味していることの一部には、そのひとが 激変のための眩暈を覚えることなしに、これらの諸規則を簡単に破ることはできないというこ とが含まれている。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),7 自由と主権,pp.85-86,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

何のための自由なのか

人間には、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望がある。抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たちは、承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限を受け入れ、グループ全体の解放への強い欲求を持ち、温情的干渉主義は侮辱と考える。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一人の人間として認められないこと
 無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、軽視されたり、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことを、私は恐れる。
(b)自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望
 自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃され迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、私は 求めているのだ。
(c)抑圧された階級、国民、皮膚の色、民族に属する人たち
 抑圧された者が欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、自身の意志をもち、その意志に従って行為しようとする一個の実在として、かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を認めてほしいということ、ただそれだけなのである。
(d) 温情的干渉主義は独立した人格への侮辱である
 十分に自由でない者として、統治し、教育し、指導しようとする温情的干渉主義は、自分が一個の人間、すなわち自分の生活を自分自身の目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもないにせよ)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間であるという考えに対する侮辱である。
(e)グループ全体の解放の欲求
 自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体が抑圧されていると感じる場合、その全体の解放を願い求めることになり、この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうる。
(f)承認欲求と引き換えのグループ内での悪政や自由の制限
 抑圧された階級、国 民、皮膚の色、民族の人々は、自らの意志を主張する資格を持った行為者として承認されていることへの渇望から、グループ内で互いに理解し合い承認し合っていることと引き換えに、グループ内での悪政や自由の制限に甘んじている場合がある。



「わたくしが求めているのは、ミルによってわたくしが求めるであろうと期待されたもの、 つまり、強制を受けないこと、勝手な拘留とか虐待とか行動の機会の剥奪とかから免れるこ と、あるいは自分の動作に対してだれにも法的な責任を負う必要のない場所、などではないの かもしれない。

同様にまた、わたくしは社会生活の理性的な計画とか、情念に動かされない賢 者の自己完成といったものを求めているのではないかもしれない。

おそらくわたくしが避けよ うとするのは、たんに無視されたり、恩人ぶられたり、軽蔑されたり、あまりに当然と思われ たりすることにすぎないのだ。

要するに、一個人としての取扱いを受けないこと、自分の独自 性がじゅうぶんに認められないこと、あるなんの特徴もない混合体の一員として、とくにきわ だった人間的特徴もなく独自の目的もない統計上の一単位として、類別されてしまうことなの である。

わたくしが戦っているのは、このような人間としての品位の低減に対してである。

法 的な権利の平等とか、したいことをする自由とかではなく(これらをも欲しはするけれど も)、自分が一個の行為者として――たとえ自分がかくあり、かく選択したことによって攻撃さ れ迫害されるにしても、その資格あるものとして自分の意志が考慮される、そういう行為者と して――取扱われるがゆえに、自分が存在することを感知できるという状態をこそ、わたくしは 求めているのだ。これは地位と承認〔認知〕への渇望である。」(中略)

「一般に被抑圧階級 あるいは被抑圧国民が要求するものとは、たんにその成員の妨げられることなき行動の自由と いったものではなく、またなによりもまず社会的あるいは経済的な機会の平等であるわけでも ない。ましてや、理性的な立法者によって考え出された摩擦のない有機体的国家内に、ある地位が割り当てられることでもない。

かれらが欲していることは、しばしば、人間の活動の独立 の一源泉として、つまりそれ自身の意志をもち、その意志(善かろうと悪かろうと、正当であ ろうとなかろうと)にしたがって行為しようとする一個の実在として、(かれらの階級、国 民、皮膚の色、民族を)認めてほしいということ、ただそれだけなのである。

だからしてそれ はまた、いかに手際よくではあっても、まだじゅうぶんに人間的でないもの、したがってじゅ うぶんに自由でないものとして、統治されたり、教育されたり、指導されたりしたくないとい うことなのだ。」(中略)

「温情的干渉主義は、自分が一個の人間――自分の生活を自分自身の 目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもない)にしたがって形成してゆくべ き人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間――であるという 考えに対する侮辱であるからなのだ。」(中略)

「自分がある認められていない集団、ないし はじゅうぶんな顧慮を払われていない集団の一員として自由でないと感ずることもあるであろ う。

その場合には、わたくしは自分の階級全体、国民全体、民族全体あるいは同業者全体の解 放を願い求めることになる。

この願望・欲求はきわめて強大なものとなりうるから、烈しく地 位を熱望するあまりわたくしは、とにかく自分を一個の人間として、競争相手として――つまり 同等のものとして――認めてくれるのであれば、自分の民族なり社会階級のうちのあるひとびと によっていじめられ悪政を施かれるのであっても、その方が、自分をそうありたいと願うよう なものとして認めてくれない上位の関係うすいグループのひとびとによって寛大に手あつく扱 われるよりもよいとするかもしれないのである。

これこそが、個人ならびに集団のいずれの側 からも発せられる承認〔認知〕要求の声、また現代では職業や階級、国民や民族から発せられ るその要素の核心をなすものである。

たとえ自分の社会の諸成員の手によって「消極的」自由 の獲得が妨げられたにしても、かれらがわたくしと同じ集団の成員であり、わたくしがかれら を理解するように、かれらがわたくしを理解してくれるというのであれば、この理解はわたく しのうちに、自分もこの世界においてなにものかであるのだという感覚を生み出すわけであ る。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),6 地位の追求,pp.67-71,みすず書房(1966),生松敬三(訳))

アイザイア・バーリン
(1909-1997)





20.人間の目的は全て、抑制し得ない究極的な価値である。しかし、目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる。各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧され、理性による目的が真のものとされるが、それは恣意的な直感に過ぎない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

理性による解放という歪曲

人間の目的は全て、抑制し得ない究極的な価値である。しかし、目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる。各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧され、理性による目的が真のものとされるが、それは恣意的な直感に過ぎない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の目的は全て抑制し得ない究極的な価値である
 人 間の目的はすべてひとしく究極的で抑制しえぬ自己目的と見なされねばならないから、個人ないし集団の間に、ただそれらの諸目的の衝突を防ぐという観点からのみ境界線が引か れる。
(b)人間の目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる
 合理主義者たちは、すべての目的が同等の価値のあるものとは考えない。かれらにとっては、自由の限界は「理性」の法則を適用することによってのみ決定される。理性は、万人において、また万人のための同一の一目的を創出ないし開示する能力である。
(c)各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧される
 理性的ならざるものは、理性の名において断罪されてよい。各個人の想像力や特異質によって与えられる様々な個人的目的、たとえば審美的その他の非理性的な種類の自己充足 は、少なくとも理論上は、理性の要求に道を開けるために容赦なく制圧されてよいのである。
(d)理性による真の自由という歪曲
 理性の権威および理性が人間に課する義務の権威は、理性的な目的のみが「自由」な人間 の「真実」の本性の「真」の対象たりうるという想定にもとづき、他人の自由と同一視されるわけである。
(e)しかしそれは恣意的な直感に過ぎない
 しかし「理性」とは何か。経験から得られた知識を基礎として判断するのでなく、「ア・プリオリ」に何が正しいとされる時点で、既に誤っている。


「カントは(その政治論のひとつで)次のように述べているが、そこでは自由の「消極的」 理念の主張とほとんどすれすれのところに到達している。

つまり、「人類が自然によってその 解決を迫られている最大の問題は、市民社会を普遍的に支配する法による正義の確立である。 それは最大の自由を有する社会にのみ存する......――そしてそこには――〔各個人の〕自由が他の ひとびとの自由と共存しうるため、自然の全能力の展開という自然の最高目的が人類において 達成されうるために、〔各個人の〕自由の限界のきわめて精確な確定と保証とが伴ってい る。」

目的論的な含意は論外としてみれば、この簡潔な論述は、一見したところ、正統的自由 主義とはほとんど異なるところはない。

しかし、決定的な点は、個人の自由の「限界の精確な 確定と保証」の規準をいかにして定めるかにある。

ミルおよび一般に自由主義者たちは、いち ばん首尾一貫したかたちでは、できるだけ多数の目的を実現しうるような状況を待望する。

人 間の目的はすべてひとしく究極的で抑制しえぬ自己目的と見なされねばならないから、かれら は個人ないし集団の間に、ただそれらの諸目的の衝突を防ぐという観点からのみ境界線が引か れることを願うわけである。

カントおよびこのタイプの合理主義者たちは、すべての目的が同 等の価値のあるものとは考えない。

かれらにとっては、自由の限界は「理性」の法則を適用す ることによってのみ決定される。理性はたんなる法則の一般性そのものより以上のものであ り、万人において、また万人のための同一の一目的を創出ないし開示する能力である。

理性的 ならざるものは、理性の名において断罪されてよい。したがって、各個人の想像力と特異質に よって与えられるさまざまな個人的目的――たとえば審美的その他の非理性的な種類の自己充足 ――は、少なくとも理論上は、理性の要求に道を開けるために容赦なく制圧されてよいのであ る。

理性の権威および理性が人間に課する義務の権威は、理性的な目的のみが「自由」な人間 の「真実」の本性の「真」の対象たりうるという想定にもとづき、他人の自由と同一視される わけである。

白状しておかなければならないが、わたくしは、この文脈において「理性」が何を意味する かをまったく理解しえなかった。

それでここではただ、この哲学的心理学の《ア・プリオリ》 な想定は経験論とは相容れないということだけを指摘しておきたい。経験論というのはつま り、人間がなんであり、なにを求めるかについての、経験からえられた知識を基礎とする学説 のことである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),5 サラストロの神殿,pp.63-64,註 *,みすず書房(1966),生松敬三(訳))


19.外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却は自由ではない

外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉ではあるかもしれないが、どうしてこれが自 由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい。

もしわたくしが室内に退却し、一切の出口・入口 の鍵をかけてしまうことで敵から免れたとした場合、その敵にわたくしが捕らえられてしまっ た場合よりはたしかにより自由であるだろう。

しかし、わたくしがその敵を打ち負かし、捕虜 にした場合よりも自由であるだろうか。

もしもそのやり方をもっと進めて、自分をあまりに狭 い場所に押しこめてしまうとしたら、わたくしは窒息して死んでしまうであろう。

自分を傷つ ける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。 

わたくしが自然的世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないのだ。

この意味 における全面的な解放は(ショーペンハウアーが正しく認めていたように)ただ死によっての み与えられるのである。」


(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),3 内なる砦への退却,p.40,みすず書房(1966),生松敬三(訳))


2022年1月15日土曜日

18.非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

普遍的な道徳律

非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



 「―――しかし、あなたは普遍的な道徳的価値を信じるのですか。  
バーリン 
そうです、ある意味では。私は、非常に多くの国で非常に長い期間にわたって非 常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律を信じています。この道徳律を認めること、そ れによって他の人々と一緒に生きることが可能になります。

しかし、あなたが「絶対的な道徳 律」と言われるなら、私は「どうしてそれが絶対的になっているのか」、「それは何を根拠に してか」と問い返さねばなりません。そして先験的なものに再び帰っていくことになります。 

普遍的というのが道徳律の直感的確実性という意味なら、私はある種の直感的確実性を感じて いると思います。しかし、誰か他の人はまったく違ったものの見方と直感の体系を持っている とあなたが言われるなら、私はそれが理解不可能なものでない限りは、その誰かがどのように してその価値を持つに至ったかを把握できるよう努めるでしょう。

その文化が私の文化に危険 をもたらすようなことがあるとすれば、その文化から我が身を守らねばならなくなるとして も、理解しようとするでしょう。

現実に人間と人間のものの見方はヘルダーの思っていたのよ りははるかによく似ており、文化は例えばシュペングラー、さらにはトインビーが主張してい たのよりもはるかに大きく互いに似かよっていると、私は信じています。

しかし文化はやはり 違っており、互いに和解できないものかもしれません。しかし私は、自分には絶対的な道徳律 を探知する能力はないことは、はっきり判っています。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第3の対話 政治思想――時の試練,道徳と宗教,pp.162-163,みすず書房(1993), 河合秀和(訳))


17.権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学とは

権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 
 「―――何が政治哲学の課題であると思いますか。  
バーリン
 人生の目的を検討することです。政治哲学は本質的には社会状況に適用された道 徳哲学です。この社会状況には、もちろん政治組織、個人の共同体・国家に対する関係、共同 体と国家相互の関係などを含んでいます。

政治哲学は権力についての哲学だと、人は言いま す。私は反対です。権力は純粋に経験的な問題で、観察、歴史分析、社会学的調査によって解 決される問題です。

政治哲学は人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討します。政治哲 学の仕事は、さまざまな社会的目標のもとに打ち出されてくるさまざまな主張の有効性を、こ れらの目標を特定し達成するための方法の正当性を検討することです。

すべての哲学研究と同 様、これらの見解の枠組になっている言葉と概念を明確にして、人々が自分の信じているのは 何なのか、彼らの行動が何を表現しているのかを理解できるようにします。

それは、人間が追 求しているさまざまな目的にたいする賛成反対の議論を評価し、先に私がマクミランを回想し て引用した「馬鹿げたことを言」わせないようにします。

これが政治哲学の仕事であり、それ はいつもそうでした。真の政治哲学はこれをやらないで済ます訳にはいきません。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,理想の追求,p.75,みすず書房(1993), 河合秀和(訳))


16.各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




 「―――自由について話すとなると、まずあなたが積極的自由と消極的自由の間に引いた区別 を、あなた自身の口から説明したいただけませんか。

バーリン
  二つの別々の問題があります。一つは、「私にはいくつのドアが開いているか」 もう一つは、「誰がここの責任者か、誰が管理しているのか」です。この二つの問題はからみ 合ってはいるが、同じ問題ではありません。別の答えを必要としているのです。

私にはいくつのドアが開いているのか。消極的自由の範囲という問題は、私の前にどのような障害があるか にかかっています。他の人々によって――故意にか間接的にか、意図的でなく制度的にか――私が 何をするのを妨害されているのかという問題です。

もう一つの問題は、「誰が私を統治してい るのか、他の人が私を統治しているのか、それとも私が自分を統治しているのか。もし他の人 が統治しているとすれば、いかなる権利、いかなる権威によってか。

もし私が自己支配、自治 の権利を持っているとすれば、私はこの権利を失うことができるのか、放棄できるのか。また 取り返せるのか。どのようにしてか。誰が法を作るのか、あるいは誰がそれを執行するのか。 私は協議に参加できるのか。多数が統治しているのか。何故そうなのか。それとも神が、聖職 者が、政党が統治しているのか。それとも世論の圧力なのか。伝統の圧力なのか。いかなる権 威によってなのか。」

それは別の問題です。両方の問題、それに付随する問題は、それぞれに 中心的な問題、正統な問題です。両方に答えねばなりません。

私は、積極的自由に反対して消 極的自由を擁護し、消極的自由の方が文明社会に相応しいと主張したという嫌疑をかけられて いますが、その理由は唯一つ、積極的自由という観念――もちろん、まともな生存のためには本 質的に必要なものです――の方が消極的自由の観念よりも悪用ないし歪曲されることが多かった からという理由です。

二つとも真の問題であり、避ける訳にはいきません。そして、この二つ の問題にたいする答えが社会の性質――それが自由主義的か権威主義的か、民主的か専制的か、 世俗的か神政的か、個人主義的か共同主義的か等々を規定します。

二つの自由概念は、政治 的、道徳的にねじ曲げられて逆のものに変えられてきました。

この点では、ジョージ・オー ウェルが見事です。「私があなたの真の願望を表明する。あなたは、自分が何を望んでいるか 自分で知っていると思っているかもしれないが、私、指導者、われわれ、共産党中央委員会 は、あなたが自分で知っているよりもあなたのことをよく知っており、あなたが自分の「真 の」必要を認識するならば、あなたの欲するものを与えよう。」

虎と羊にとって、自由は平等 でなければならぬ、虎が羊を喰うことができるようになっても、そこで国家の強制を発動して はならぬというのなら、これは避けられない事態なのだと言い出してしまうと、消極的自由が ねじ曲げられることになります。

もちろん、資本家にとっての無制限の自由は労働者の自由を 破壊し、鉱山所有者や親の無制限の自由は子供を鉱山労働に使うのを許すでしょう。弱者を強 者に対して守らねばならないし、その限りで自由を制限しなければならない、これは確実なこ とです。

積極的自由を充分に実現しなければならないとすれば、消極的自由を制限しなければ なりません。

この二つの間にバランスがなければなりませんが、このバランスについては何か 明確な原理を打ち出すことはできません。

積極的自由、消極的自由は、ともに完全に有効な概 念ですが、歴史的に見て現代世界ではインチキ積極的自由の方がインチキ消極的自由よりも大 きな損害をもたらしてきました。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,二つの自由概念,pp.66-68,みすず書房 (1993),河合秀和(訳))


2022年1月14日金曜日

倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

倫理的独立への権利

倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)倫理的独立への権利は宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈
 倫理的独立への権利が、歴史的に宗教領域に限って表明されていたのはなぜかを、我々は知っているが、その権利は 最善の今日的な意味で解さなければならない。そして宗教的寛容をもっと一般的な権 利の一例として理解することによって、倫理的独立への権利の可能な限り最善の正当化を与え る。

(2)倫理的独立への権利
 (a)倫理的独立への権利は、宗教的自由の歴史的核心を保護する。
 (b)倫理的独立への権利は、政府が市民の 自由をいくらかでも制約するためにもちだすことができる理由を限定する。 
 (c) 倫理的独立への権利の侵害の例
  (i) ある形態の信仰は真理あるいは美徳の点で他の信仰よりもすぐれている。
  (ii)政治的多数 派はある信仰を他の信仰より優遇する資格をもっている。
  (iii)無神論は不道徳を生む。
  (iv)国教会制度も、倫理的独立への権利は否定する。
 (d)暗黙の服従関係による拘束の排除
  倫理的独立は、表面上は中立だが、何らかの直接あるいは間接の服従関係を暗黙のうちに想定して 作られたいかなる拘束をも排除するという、もっと繊細な仕方でも宗教的信仰を保護する。

(3) 宗教的行為への特別の権利
 もしわれわれが宗教的実践の自由な行使への特別の権利を否定して、倫理的独立への一般的権利だけに頼るならば、諸宗教はそれらへの平等な配慮を示す、非差別的で理性的な法律に従うように、その実践を制限するように強いられるかもしれない。あなたはそのことをショッ キングだと思うだろうか? 

(4)宗教的行為への平等な配慮の要請
 平等な配慮の要請は、立法府が 禁止しようとしている、あるいは負担を課そうとしている活動を、何らかのグループが神聖な義 務とみなしているかどうかに立法府が注意を払うよう要求する。
 (a)平等な配慮の要請による免除や改善措置
  政策が禁止あるいは負担させようとしている活動が、自らの神聖な義務にかかわると考えるグループがあ れば、立法府はそのグループに対する平等な配慮からして、そのグループへの免除あるいは他の 改善措置をとる必要があるかどうかを考慮しなければならない。
 (b)例外が政策に顕著な害を及ぼさない場合
  もし問題の政策に顕著な害を 加えずに例外を認めることが可能ならば、その例外を認めないことは不合理かもしれない。

 (c)義務免除が深刻な危険を及ぼす場合
  法律の趣旨が回避しようとしているような深刻な危険を、義務免除が人びとに与えるならば、免除を拒むことは平等な配慮を否定するものでは ない。
 (d) 非差別的な集団的統治が優先する
  非差別的な集団的統治が私的な宗教の実行に優先することは、不可避で あり正しいことであると思われる。

 「ここで私はある示唆をすることができる。われわれが宗教の自由を定義する際に出くわし た諸問題は、宗教を神から切り離すとともにその権利を特別の権利として保持しようとしたこ とから来ている。われわれはその代わりに、〈保護のハードルが高くて、それゆえ厳格な制限 のためのやむにやまれぬ必要と注意深い定義がなければならない、宗教的自由への特別の権 利〉という観念を捨てることを考慮すべきだ。それに代えて、その想定された権利の伝統的な 主題に、倫理的独立へのもっと一般的な権利を適用すべきだ。この二つのアプローチ間の違い は重要だ。特別の権利は問題となっている主題に注意を固定させる。宗教的自由の特別の権利 は、並みはずれた緊急時でなければ宗教的活動を制限してはならないと宣言する。その反対に 倫理的独立への権利は、政府と市民との間の関係に注意を向ける。その権利は、政府が市民の 自由をいくらかでも制約するためにもちだすことができる理由を限定するのだ。  われわれは次のように問うべきだ。――われわれが保護しようと望む信念は倫理的独立への一 般的な権利によって十分に保護されるものなので、それだから厄介な特別の権利の必要はないのだろうか? そうだ、と答えるならば、われわれはすべての憲法、条約、人権規約を根本的 に再解釈するための強力な根拠をもつことになる。それらの文書が宣言している宗教的自由へ の道徳的権利を、われわれは倫理的独立への権利として理解しなければならない。われわれは その権利が歴史的に宗教領域に限って表明されていたのはなぜかを知っているが、その権利は 最善の今日的な意味で解さなければならないと主張し、そして宗教的寛容をもっと一般的な権 利の一例として理解することによって倫理的独立への権利の可能な限り最善の正当化を与え る。  たからふたたびこう問うてみよう。――倫理的独立への権利は、よく反省したあとで必要だと 信ずるような保護をわれわれに与えるだろうか? その一般的権利は宗教的自由の歴史的核心 を保護する。その権利はあらゆる明示的な差別を否定する。またいつでもそのような差別は、 〈ある形態の信仰は真理あるいは美徳の点で他の信仰よりもすぐれている〉とか〈政治的多数 派はある信仰を他の信仰より優遇する資格をもっている〉とか〈無神論は不道徳を生む〉とか 想定しているのだが、そのように想定する国教会制度も、倫理的独立への権利は否定する。倫 理的独立は、表面上は中立だが何らかの直接あるいは間接の服従関係を暗黙のうちに想定して 作られたいかなる拘束をも排除するという、もっと繊細な仕方でも宗教的信仰を保護する。そ のような保護で十分だろうか? われわれはいかなる拘束についても、単に中立的であるだけ でなくやむにやまれぬ正当化を要求するような、特別の権利を必要とするのだろうか?」(中 略)  「もしわれわれが宗教的実践の自由な行使への特別の権利を否定して、倫理的独立への一般 的権利だけに頼るならば、諸宗教はそれらへの平等な配慮を示す、非差別的で理性的な法律に 従うように、その実践を制限するように強いられるかもしれない。あなたはそのことをショッ キングだと思うだろうか? これらの要請の最後のものである平等な配慮の要請は、立法府が 禁止しようとしている、あるいは負担を課そうとしている活動を何らかのグループが神聖な義 務とみなしているかどうかに立法府が注意を払うよう要求する。もしそのようなグループがあ れば、立法府はそのグループに対する平等な配慮からしてそのグループへの免除あるいは他の 改善措置をとる必要があるかどうかを考慮しなければならない。もし問題の政策に顕著な害を 加えずに例外を認めることが可能ならば、その例外を認めないことは不合理かもしれない。」 (中略)「しかしもしペヨーテ事件のように、法律の趣旨が回避しようとしているような深刻 な危険を義務免除が人びとに与えるならば、免除を拒むことは平等な配慮を否定するものでは ない。そのようにして非差別的な集団的統治が私的な宗教の実行に優先することは、不可避で あり正しいことであると思われる。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第3章 宗教的自由,筑摩書房 (2014),pp.142-146,森村進(訳))

神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

人間の生命の価値

人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)各個人の生涯には客観的な意味と重要性が存在する
 他の人びとに対する道徳的責任 だけでなく自分自身に対する倫理的責任をも受け入れて善く生きること。なぜそうなのか というと、単にわれわれがたまたまこれを重要だと考えるからではなくて、われわれがどう考 えるかにかかわらず、それがそれ自体として重要だからだ。
 (a.1)自己の生涯に対する各個人の不可避的な倫理的責任
  人間の生は 客観的な意味あるいは重要性をもっている。各人は自分の生を成功したものとすべく努める、 内在的な不可避の責任を負っている。

(b)自然における生命の価値
 自然の中の生命は、全体としても、またあらゆる部分においても、単なる事実の問題ではなくて、それ自体が崇高なもの、つまり内在的な価値と驚異をもつものである。



「ではわれわれは、何を宗教的態度とみなすべきなのか? 私は十分に抽象的で、それゆえ 普遍的と言えそうな説明を与えたい。宗教的態度とは、価値の完全な、独立した実在性を受け 入れる態度だ。それは価値に関する次の二つの主要な判断を受け入れる。第一に、人間の生は 客観的な意味あるいは重要性をもっている。各人は自分の生を成功したものとすべく努める、 内在的な不可避の責任を負っている。それが意味することは、他の人びとに対する道徳的責任 だけでなく自分自身に対する倫理的責任をも受け入れてよく生きることだが、なぜそうなのか というと、単にわれわれがたまたまこれを重要だと考えるからではなくて、われわれがどう考 えるかにかかわらず、それがそれ自体として重要だからだ。第二に、われわれが「自然」と呼 ぶもの――全体として、またあらゆる部分において――は単なる事実の問題ではなくて、それ自体が崇高なもの、つまり内在的な価値と驚異をもつものである。この二つの包括的な価値判断は 一緒になって、〈生命という意味でも生涯という意味でも、人間の生(human life)には内 在的価値がある〉と宣言する。われわれは自然の一部である。なぜならわれわれは物理的な存 在として存続するからだ。自然はわれわれの物理的生の場であり栄養素である。われわれは自 然から離れてもいる。なぜならわれわれは自分自身を生涯を作り出すものとして意識してお り、そして自分が作る生を全体として決める決断を行わなければならないからだ。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第1章 宗教的無神論,筑摩書房 (2014),pp.20-21,森村進(訳))

神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

生の不可侵性に対する最大の侮辱

生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある
 良い人生は、特別に思慮深い人生を必要とするものではなく、最善の人生の大半は、熟慮されたものではなくただ生きているだけのものである。しかし自己主 張を強く求められる場合に、服従と便宜のために運命に消極的に従ったり、機械的に決定したりすることは背信である。何故ならばそれは尊厳を安易に喪失するものだからである。
(b)生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。


「我々が自由を実現することは、それを持つことと同様に重要なことなのである。良心の自 由は思想に関する個人的責任を前提としており、その責任が無視されるとき、その重要性の大 半は失われてしまうのである。良い人生は特別に思慮深い人生を必要とするものではなく、最 善の人生の大半は、熟慮されたものではなくただ生きているだけのものである。しかし自己主 張を強く求められる場合に、服従と便宜のために運命に消極的に従ったり、機械的に決定した りすることは背信である。何故ならばそれは尊厳を安易に喪失するものだからである。我々は 本書を通して、中絶と尊厳死に関して極めて多くの真剣な個人的信念に出会って来た。あるも のはリベラルな確信であり、あるものは保守的な確信であった。それらは尊敬すべき信念であ り、このような信念を持つ人々は自らの信念に従って生き、かつ死ぬに違いない。しかしこれ らの事柄の決定的な重要性を全く無視したり、浅薄な便宜から中絶を選択したりカウンセリン グを受けたり、あるいは無意識状態や痴呆状態になっている友人の運命を、たまたま彼に起こ る出来事はもはや重要なことではないという理由から、白衣の見知らぬ人々(=医療従事者 達)に委ねたりすることは許されることではない。生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢なのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第8章 生命と理性の限 界――アルツハイマー症,最終章――生の支配と死の支配,信山社(1998),pp.392-393,水谷英 夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

尊厳死の問題

尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.1)激しい苦痛がないなら損害もないというのは事実か
 尊厳死に反対する主張の多くは、激しい苦痛を患っていない患者――永続的 な無意識状態の患者も含めて――には、生存し続けることによって蒙る重大な損害はありえない という前提にたっている。
 (a)この前提は、意識のない患者は死ぬことを望んだかもしれないという親族による死の要請は、特に厳格な証明規準に合致しなければならないという手続的な主張の基礎をなす。
 (b)それは、法が尊厳死を許可すべきではないのは、それが死の許可の濫用を招くことになるという「滑り坂」論の主張の基礎をなす。
 (c)医者達が殺人を求められ、かつそれが許されるならば、彼らは堕落させられ人間性の意識が衰えることになるであろうという主張の基礎をなす。

(5.2)自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのか
 仮に死に瀕したときに1ダースもの機械をつけて数週間生き永らえたり、植物状態で数年間 生物学的に生き永らえたとしても、それは自らの人生をより悪いものにすると考えている人 は、それを回避する目的で事前の準備ができるならば、その方が自らの生命の尊厳への人間的 貢献に対してより多くの尊重を示すものであると考える。

(5.3)自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか
 積極的安楽死(active euthanasia)――医者が死を懇願している患者を殺すこと――は、常に生命の尊厳という価値に 対する攻撃であり、したがってそれを理由として禁止されるべきである、と広く考えられてい る。

(5.4)生命の尊厳か他の価値かではなく、何が生命の尊厳かの問題
 尊厳死が提起している問題は、生命の尊厳が人間性や同情のような他の何らかの価 値に譲歩すべきであるか否かということではなく、生命の尊厳がどのようにしたら理解され尊重されるべきかということなのである。
 (a)権利と利益の問題と、生命の尊厳の問題
  中絶と尊厳死に関する重大なモラル上の問題は、どちらの問題 も、個々の人間の権利と利益に関する決定のみならず、人間の生命それ自体の本来的・宇宙的 価値に関する決定でもある。
 (b)何が生命の尊厳なのかが問題
  問題とされている価値は、全ての人の生命の中心的なものであり、それらの価値が意味することに関 して、誰もが、他の人々の命令を認めるほど軽々しいものと考えることができない。
 (c)生命の尊厳を損なわない死とは
  ある人を他の人々が許容する方法で死なせること――しかしその方法は、彼自身にとって は自らの生命に対する恐るべき否定と考える方法である――は、破壊的で忌むべき圧制の形態な のである。



「◇「慎みある社会」は強制と責任のどちらを選択すべきか  仮に死に瀕したときに1ダースもの機械をつけて数週間生き永らえたり、植物状態で数年間 生物学的に生き永らえたとしても、それは自らの人生をより悪いものにすると考えている人 は、それを回避する目的で事前の準備ができるならば、その方が自らの生命の尊厳への人間的 貢献に対してより多くの尊重を示すものであり、更に他の人々が彼のためにそれを回避してく れるならば、その方が彼の生命に対してより多くの尊重を示すものであると信じている。人間 の生命の不可侵性を尊重するためには自らの利益を犠牲にすべきである、という主張は分別の あるものとはなりえないのである――その主張は論点を回避するものである。何故ならば彼は、 死ぬことが彼自身の生命の価値を尊重する最善の方法と考えているからである。したがって生 命の不可侵性に訴えることは、中絶と同様にここでも深刻な政治上、憲法上の問題を生起する ことになる。再度述べるならば、深刻な問題というのは、「慎みのある社会(decent society)は強制(coercion)と責任(responsibility)のどちらを選択すべきなのであ ろうか?」ということである――そのような社会は、最も深刻な精神的・宗教的(spirtual) 性質の事柄に関する集団的判断を、個人に強制することをめざすべきなのであろうか? ある いは、市民が自らの生命についての最も中心的で個人的な決定の判断を、独力で決定すること を認め、かつそれを市民に求めるべきなのであろうか?
◇二つの誤解  私は死を望んでいることがはっきりとわかる患者や、そのような選択をすることができない 無意識状態の患者について、医者がその死を早めてよい時期を決定するための何らかの詳細な 法的枠組みについての擁護はしてこなかった。私の主たる関心は、人々は自らの死について、 何故明らかに神秘的な意見を持つのかということを理解することにあったのであり、更に尊厳 死に関する激しい公的な論争の中で、本当に問題とされているのは何なのかということを示す ことにあったのである。私が強調してきた通り、それらの議論の一部は、私が考慮することの なかった困難で重要な行政上の問題に集中している。しかしそれらの議論の多くはモラル上、 倫理上の問題に関わるものであり、かつその一部は我々が既に指摘してきた、二つの誤解に よって深刻な危機にさらされてきたものである。そこでこの点について、要約的に再度述べて おくことが我々にとっては賢明なことであろう。  ◇第一の誤解――人が生き続けることに重大な損害はあり得ないのか?  第一の誤解は、人々がいつ、どのようにして死ぬかということに関して持つ利益の性質につ いての混乱である。尊厳死に反対する主張の多くは、激しい苦痛を患っていない患者――永続的 な無意識状態の患者も含めて――には、生存し続けることによって蒙る重大な損害はありえない という前提にたっている。我々の理解によれば、この前提は、意識のない患者は死ぬことを望んだかもしれないという親族による死の要請は、特に厳格な証明規準に合致しなければならないという手続的な主張の基礎をなすものであり、更にそれは、法が尊厳死を許可すべきではないのは、それが死の許可の濫用を招くことになるという「滑り坂」論の主張の基礎をなすものであり、そして医者達が殺人を求められかつそれが許されるならば、彼らは堕落させられ人間性の意識が衰えることになるであろうという主張の基礎をなすものでもある。しかしながら我々には、人々がどのようにして、何故自らの死が気がかりなのかということが理解されるならば、これらの主張が基礎をおく前提がばかげたものであり、かつ危険なものであるということが理解されるのである。
◇第二の誤解――生命の尊厳は他の価値に譲歩すべきなのか?  第二の誤解は、我々が本書で検討を加えてきており、今正に再度検討を加えた一つの考え・ 思想――生命の尊厳に関する思想――に関する誤解に起因している。積極的安楽死(active euthanasia)――医者が死を懇願している患者を殺すこと――は、常に生命の尊厳という価値に 対する攻撃であり、したがってそれを理由として禁止されるべきである、と広く考えられてい る。しかし尊厳死が提起している問題は、生命の尊厳が人間性や同情のような他の何らかの価 値に譲歩すべきであるか否かということではなく、生命の尊厳がどのようにしたら理解され尊 重されるべきかということなのである。中絶と尊厳死に関する重大なモラル上の問題は、本格 的な生を一括して考えるものであり、それは同じ構造を持つものなのである。どちらの問題 も、個々の人間の権利と利益に関する決定のみならず、人間の生命それ自体の本来的・宇宙的 価値に関する決定でもある。どちらの問題も、人々の意見が分裂しているのは、一方の側の 人々が、他方の側の人々が大切と考えている価値を侮辱するからなのではなく、反対に、問題 とされている価値が全ての人の生命の中心的なものであり、それらの価値が意味することに関 して、誰もが、他の人々の命令を認めるほど軽々しいものと考えることができないからなので ある。ある人を他の人々が許容する方法で死なせること――しかしその方法は、彼自身にとって は自らの生命に対する恐るべき否定と考える方法である――は、破壊的で忌むべき圧制の形態な のである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第7章 生と死のはざま ――末期医療と尊厳死,生命の不可侵性と自己の利益,信山社(1998),pp.349-351,水谷英夫, 小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月13日木曜日

生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

人々の直感、生命の不可侵性

生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)生命の不可侵性と挫折
 中絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。

(b)自然的投資と人間的投資の挫折
 私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。
 
(c)患者の最善の利益とされる場合でも悪なのか
 尊厳死はさまざま な形態、自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益とされる場合であっても、悪とされることがあり得るのだろうか。

(d)意図的な死は生命の本質的価値に対する侮辱する
 意図的な死は、たとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。


「◇人々の直感――生命の不可侵性  既に述べたことであるが、もう一つ別な問題に話を転じることにしよう。尊厳死はさまざま な形態――自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去――をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益と《される》場合であっても、悪とされることがありうるのだろうか? 中 絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。この見解(=保守的見解)によると、人間の生命に対する自然的投資 は人間的投資よりも際立って一層重要なものなのであり、従って早死を選択することは、生命 という神聖な価値に対する最大の侮辱となる可能性をもつものなのである。  我々は尊厳死に関して明確な保守的見解についての解釈をする際にも、同じ区別を用いるこ とができる。仮に我々が多くの宗教的伝統に合致したこのような見解――技術的に延命可能で あった人が死ぬ場合はいつでも、人間の生命に対する自然的投資の挫折となる――を受け入れる ならば、人間の手による一切の介入――致死量の薬を末期ガンで苦しんでいる人に注射したり、 永続的植物状態の人から生命維持装置を撤去すること――は自然を欺くこととされよう。した がって、仮に自然の投資がそのような意味に理解されることによって、生命の不可侵性に対す る方向づけがなされるならば、尊厳死というものは常にその価値に対する侮辱とされることに なる。私の考えではこのような主張が、世界中で、あらゆる尊厳死の形態に対する強力な保守 的反対意見の最も強い基礎を形成しているものなのである。もちろんそれが唯一の論拠ではな いのであり、人々は実務的で行政的な問題についても懸念を示しており、(尊厳死を認めるこ とによって)万一生命が蘇生したかもしれない人に対して死の許可をすることになりはしない かと恐れている。しかしながら、意図的な死はたとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保 守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第7章 生と死のはざま ――末期医療と尊厳死,生命の不可侵性と自己の利益,信山社(1998),pp.346-347,水谷英夫, 小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

精神的・宗教的なもの

中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)生命の神聖さ
 我々が共有しているもの 、すなわち、我々が生命の神聖さに対して払う共通の誓約は、我々を一つにするそれ自体かけがえのない理想なのである。

(b)中絶のモラル性に関する意見の相違
 中絶のモラル性に関する人々の意見の不一致を解消させることにはならないであろう。何故ならば我々の不一致は深いものであり、それは永遠に続くかもしれないか らである。

(c)不一致点は精神的・宗教的なもの
 これらの不一致は基本的には精神 的・宗教的なもの(spritual)であるということを確認するならば、それは我々が共存することに役立つであろう。何故ならば既に述べた通り、現実の社会は深い宗教的分裂を超えて 存在することが可能なものであるという考えに、我々はだんだん慣れてきているからである。 

「◇中絶議論の再構成――人々の不一致点の宗教性(精神性)の確認  我々はどこに立っているのだろうか? 私は、本書の議論を開始する際に、我々は深刻な中 絶論争に関する解釈――そして、その議論が何に関するものなのかということに関する我々の理 解――の再構成(redesign)をしなければならないと提言した。私は、ここでその再構成に関 する提言をしめくくることにする。私は、この新しい解釈は政治的モラルと憲法にとって重要 な意味を提供することになるであろうと述べた。私はこの再構成によって、我々は、アメリカ 合衆国憲法の役割についての法的論争に新しい光をあてて見ることができるようになり、更 に、アメリカと他の諸国のように自由が尊重されている国々の人々が、政治的論争において、 慎重ながらも、全ての立場の人々が尊厳をもって承認できる一つの共通の結論(a collective solution)を見い出す希望を抱くことができるようになるであろうと述べた。 私はこれらの厳粛な約束を、これに続く三つの章で果たすことを試みることになるが、ここで は最も重要な結論を予告しておこう。もちろん、私が述べたような新しい光を中絶論争にあて て見たからといって、中絶のモラル性に関する人々の意見の不一致を解消させることにはなら ないであろう。何故ならば我々の不一致は深いものであり、それは永遠に続くかもしれないか らである。しかしその新しい光の助けを借りて、我々が、これらの不一致は基本的には《精神 的・宗教的なもの》(spritual)であるということを確認するならば、それは我々が共存す ることに役立つであろう。何故ならば既に述べた通り、現実の社会は深い宗教的分裂を超えて 存在することが可能なものであるという考えに、我々はだんだん慣れてきているからである。 我々はより大きなもの――より大きな寛大さだけでなく、より一層積極的に我々の争いに解決を もたらしてくれる認識――を望むことができるかも知れないのである。我々が共有しているもの ――我々が生命の神聖さに対して払う共通の誓約――は、我々自身を数十年に亘った憎悪から救済 することのできる、我々を一つにするそれ自体かけがえのない理想なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第3章 神聖さとは何か, リベラル派の見解とその例外――「成熟した生命」の保護,信山社(1998),p.162,水谷英夫,小 島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を亡き者にする行為が、いま問題である。懐妊、胎児の成長から始まる自然と人間の創造的な努力の投資が、死やその他の方法で挫折させられるのが、悪の本質であるとの仮説は、この問題解明のヒントを与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

生命の挫折による悪

将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を亡き者にする行為が、いま問題である。懐妊、胎児の成長から始まる自然と人間の創造的な努力の投資が、死やその他の方法で挫折させられるのが、悪の本質であるとの仮説は、この問題解明のヒントを与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)誕生から死までの過程
 人々は既に述べたように、成功する人生にはある種の自然の道筋があると考えてい る。それは単なる生物学的成長――懐妊、胎児の成長、そして幼児――に始まるが、その後、生物学的形成だけでなく、社会的・個人的訓練と選択により決定される過程を通って、少年時代、 青年時代、更に成年時代の人生へと成長発達を遂げ、さまざまな種類の人間関係と才能を満足 させることで頂点に達し、通常の生存期間を経過した後、自然死によって終了するというもの なのである。 

(b)挫折が悪であるという仮説
 この通常の人生の過程が、早死やその他の方法により挫折させられる時、通常の人生の物語を 作りあげている自然と人間の創造的な努力の投資が破壊されるのである。

(c)人間が多く生まれなくても挫折には影響がない
 人間が多く生まれず 少なく生まれたからといって、そのことは生命の挫折には何らの影響も与えないのである。何故ならば、未だ存在しない生命に対する創造的な投資努力というものは存在しないからである。

「◇生命の「挫折」――より複雑な考え  生命の破壊に対するこのより複雑な判断基準の特徴を述べるために、私は「挫折 (frustration)」(その言葉には他の意味もあるが)という言葉を使うことにしよう。何 故ならば私は、悲劇的な死に対する人々の判断基準を検討する際に考慮されるべき過去と未来 の事柄の結びつきを想起させる、これ以上の言葉を他に思いうかべることができないからであ る。大多数の人々は死と悲劇に関して、直感的には次に述べるようなものを前提として考える のである。人々は既に述べたように、成功する人生にはある種の自然の道筋があると考えてい る。それは単なる生物学的成長――懐妊、胎児の成長、そして幼児――に始まるが、その後、生物 学的形成だけでなく、社会的・個人的訓練と選択により決定される過程を通って、少年時代、 青年時代、更に成年時代の人生へと成長発達を遂げ、さまざまな種類の人間関係と才能を満足 させることで頂点に達し、通常の生存期間を経過した後、自然死によって終了するというもの なのである。  この通常の人生の過程が早死やその他の方法により挫折させられる時、通常の人生の物語を 作りあげている自然と人間の創造的な努力の投資が破壊されるのである。しかし、このことが どれほど悪なのか――挫折がどれほど深刻なことなのか――ということは、それが人生のどの時期 (stage of life)に起こるかということによるのである。何故ならば、人が自分自身の人 生に対して重要な個人的な投資努力をした後に起こる挫折の方が、その前に起こる挫折よりも 深刻なものであり、他方、その投入した投資努力が実質的に満足された後や、あるいはほぼ満 足された後に起こる挫折の方がより深刻さが少ないものだからである。  このより複雑な構成の方が、単純な生命喪失の尺度よりも、悲劇に関する人々の確信により よく合致するものなのである。この複雑な構成によると、大部分の場合、人々にとって何故青 春期の死が幼児の死よりもいっそう悪いことと思われるか、ということが説明されるのであ る。同時にそれによると、我々が新しい人間の生命を生み出すことはしばしば望ましくないこ とであると矛盾なく主張できるのか、ということが説明されるのである。人間が多く生まれず 少なく生まれたからといって、そのことは生命の挫折には何らの影響も与えないのである。何 故ならば、未だ存在しない生命に対する創造的な投資努力というものは存在しないからであ る。しかし、人間の生命が一旦開始されると成長過程が始まるのであり、その過程を妨害する ことは既に進行中の冒険を挫折させることなのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第3章 神聖さとは何か, 「悲劇」の判断基準,信山社(1998),pp.143-144,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

目的や目標に関して合意がある場合、その目的の役に立つかどうかで、あるものの価値(道具的価値)が判断できる。では、その目的や目標についてはどうだろう。単なる好き嫌いの違いである(主観的価値)と考えられる場合と、そのもの独自の本来的な価値(本来的価値)があると主張される場合とがある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道具的価値、主観的価値、本来的価値

目的や目標に関して合意がある場合、その目的の役に立つかどうかで、あるものの価値(道具的価値)が判断できる。では、その目的や目標についてはどうだろう。単なる好き嫌いの違いである(主観的価値)と考えられる場合と、そのもの独自の本来的な価値(本来的価値)があると主張される場合とがある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(a)道具的価値
 ある物の価値が、人々の欲する何か他の物を得ることに役立つという、その物の有益 性・能力に依存している場合、その物は道具的な(instrumentally)価値を有しているので ある。

(b)主観的価値
 またある物は、たまたまそれを望む人々にとってのみの主観的な(subjectively)価値を 有していることがある。私は、それらが嫌いな人々が何か誤りをしているとか、真に価値ある物に対し て当然払うべき敬意を払っていないとは考えない。彼らはたまたま私がすることを好きでない か、欲しないだけなのである。

(c)本来的価値
 反対にある物の価値が、人々がたまたま楽しんだり、欲したり、必要としたり、あるいは彼 らにとって良いものとされることとは独立した(independent)存在であるならば、そ の物は本来的な(intrinsically)価値を有しているということになる。たいていの人々は 少なくともある物や出来事を、そのような方法で本来的な価値があるものとして扱うのであ る。
(d)文化は本来的価値をもつ
 人々は、個々の絵画やその他の芸術作品だけでなく、より一般的に人類の文化(全体)を もそのような方法で扱うのであり、何らかの独特の文化形態――特に複雑で興味深いもの――が死 滅したり衰えたりする場合、それを恥ずべきことと考えるのである。


「◇価値の三つの種類――道具的価値、主観的価値と本来的価値  人間の生命には本来的な価値があると言う、のは、どういうことを意味しているのだろう か? ある物の価値が、人々の欲する何か他の物を得ることに役立つという、その物の有益 性・能力に依存している場合、その物は道具的な(instrumentally)価値を有しているので ある。例えばお金や薬は道具的にのみ価値がある。お金には人々が欲したり必要とする物を購 買する力以上の価値があるとか、薬には人々を治療する能力以上の価値があるとは誰も考えて いない。  またある物は、たまたまそれを望む人々にとってのみの主観的な(subjectively)価値を 有していることがある。スコッチ・ウィスキーを飲んだり、アメリカン・フットボールの試合 を観戦したり、日光浴をすることは、私のようにたまたまそれを楽しみとする人々にとっての み価値がある。私は、それれが嫌いな人々が何か誤りをしているとか、真に価値ある物に対し て当然払うべき敬意を払っていないとは考えない。彼らはたまたま私がすることを好きでない か、欲しないだけなのである。  反対にある物の価値が、人々がたまたま楽しんだり、欲したり、必要としたり、あるいは彼 らにとって良いものとされることとは《独立した》(independent)存在であるならば、そ の物は本来的な(intrinsically)価値を有しているということになる。たいていの人々は 少なくともある物や出来事を、そのような方法で本来的な価値があるものとして扱うのであ る。我々がそれらの物を尊重し保護すべきものと考えるのは、それらがもともと価値があるか らなのであり、我々や他の人々がそれらを欲するとか楽しむ場合やそれを理由とするからだけ ではないのである。  多くの人々は、例えば偉大な絵画には本来的な価値があると考えている。それらのものが価 値をもっており尊重され保護されるべきであるというのは、それらの芸術固有の属性 (inherent quality)によるのであり、人々がたまたまそれを見て楽しんだり、それらの 前で立ちどまって、何らかの知識や楽しい美的経験を見いだしたりするということによるので はない。一般に(このような場合)人々がレンブラント作の自画像の一つを見たいと思うの は、その絵がすばらしいからなのであり、人々がそれを見たいと思うからすばらしいのではな い、と言われている。」(中略)  「人々は、個々の絵画やその他の芸術作品だけでなく、より一般的に人類の文化(全体)を もそのような方法で扱うのであり、何らかの独特の文化形態――特に複雑で興味深いもの――が死 滅したり衰えたりする場合、それを恥ずべきことと考えるのである。くり返しになるが、文化 的な多様性が人々の人生を刺激あるものとすることに貢献しているという観点のみでは、この ことは十分には説明することができないのである。例えば人々が、美術館を創ってある種の原 始的な芸術形態を保護すると共にそれに対する関心を維持するのは、その作品がすばらしいと か美しいと思っているという理由や場合だけではなく、人類が作り出してきた芸術形態があた かも存在しなかったように失われてしまうならば、それは恐るべき破壊であると考えているか らでもある。  人々は、伝承文化や発達した工業文化の一部に対しても概ね同様の態度をとっている。例えば人々が、伝統工芸が消滅することに困惑するのは、その生産物を必要としている場合――おそ らく我々は必要とはしていないが――だけではなく、伝統工芸のもの想像力の全体像が消滅して しまうならば、それは深刻な破壊と思われるからでもある。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第3章 神聖さとは何か, 神聖さという思想,信山社(1998),pp.118-120,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月12日水曜日

中絶に反対する人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度を示さなければならない。死刑に反対し、貧者のためのより公正な医療政策の実現に向けて努力し、福祉政策を推進し、積極的な安楽死の合法化に反対すべきである。(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))

生命倫理の一貫性の主張

中絶に反対する人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度を示さなければならない。死刑に反対し、貧者のためのより公正な医療政策の実現に向けて努力し、福祉政策を推進し、積極的な安楽死の合法化に反対すべきである。(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))



ジョセフ・カーディナル・
バーナー ディン(1928-1996)













(a)生命倫理の一貫性(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))
 この見解は、中絶に反対す る人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度 (consistent respect for human life)を示さなければならないと主張する。人間の生命を尊重するという観点から中絶を反 対するカトリック教徒達は、もしその主張を一貫させようとするならば、同時に死刑に反対し (少なくとも、その抑止的価値が疑われている現在において)、貧者のためのより公正な医療 政策(health-care policy)の実現に向けて努力し、人間の生命の質と長さを向上させる ことにつながる福祉政策を推進し、たとえ末期患者の場合であっても、その積極的な安楽死 (active euthanasia)の合法化に反対すべきであると主張している。  

(b)人間の生命の尊厳
 彼は、「(これらの)基本的な原理は、(中略)我々の国民生活の指導 理念の形成に決定的な役割を果たしてきたユダヤ教とキリスト教の伝統の中に見いだされる。 この宗教的伝統の中では、人間の生命の意義は、神がその起源であり尊厳であるが故に神聖な ものとされる、という事実の中に基礎づけられている」と主張する。

(c)個人の諸権利との緊張関係の中に存在し得る社会的善
 彼によると、尊厳死に対 する判断に際して、「(尊厳死は)患者の個人としての利益になるのか? あるいはそれを損 なうことになるのか?」という問題に目を向けるのみで、「個人の諸権利(person right)との緊張(tension)関係の中に存在しうる、社会的善(social good)を損なうことになるのか否か?」、というより深刻な問題に目を向けないことが何故 間違いであるのかということが、この原理によって説明されるのである。


「◇興味深い宗教上の発展――「生命倫理の一貫性」の主張  おそらくカトリックの教義は、明確でも自覚的でもないとしても、既にこの方向に動いてい るのである。今日最も興味深い宗教上の発展の一つは、一切の中絶に強硬に反対しているカト リック教徒とプロテスタントの中に現われてきた、「生命倫理の一貫性(Consistent Ethic of Life)と彼らの一部の者が呼ぶところの見解である。この見解は、中絶に反対す る人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度 (consistent respect for human life)を示さなければならないと主張するのであ る。シカゴのローマ・カトリック協会の大司教である、ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(Joseph Cardinal Bernardin)は、この主張を発展させ擁護してきたパイオニア である。彼は一連の重要な著作や演説の中で、人間の生命を尊重するという観点から中絶を反 対するカトリック教徒達は、もしその主張を一貫させようとするならば、同時に死刑に反対し (少なくとも、その抑止的価値が疑われている現在において)、貧者のためのより公正な医療 政策(health-care policy)の実現に向けて努力し、人間の生命の質と長さを向上させる ことにつながる福祉政策を推進し、たとえ末期患者の場合であっても、その積極的な安楽死 (active euthanasia)の合法化に反対すべきであると主張している。  私が知るかぎりでは、カーディナル・バーナーディンは、胎児は妊娠の瞬間から人であると いう現在のカトリック教会の公式見解に明確な疑問を投げかけたことはなかった。彼は最近の 演説の中で聴衆に対して、「やがて生まれてくる、我々の幾百万の兄弟姉妹の命を救う」ため の支援を訴えている。しかし彼の主張――一方では中絶を非難しながら、他方で死刑や尊厳死・ 安楽死を支持することは矛盾している――は、中絶に対する原理的な反対は、胎児が生きる権利 を持った人であるという推論に基礎をおくのではなく、生命の本来的価値に対する尊重に基礎 をおくべきである、ということを前提にしている。何故ならば、前者――胎児は生きる権利を有 している――を根拠として中絶を非難する場合には、同時に、(バーナーディンが考えたよう に)殺人者は生命を奪われない権利を放棄してしまっているのであると考えるならば、死刑を 是認することとは《矛盾しない》ことになるからである。同様に(この立場に立つならば)、 尊厳死・安楽死が何故間違いであるのかということに関するバーナーディンの見解を支持する としても、尊厳死を是認することとは矛盾しないことになるであろう。  バーナーディンが尊厳死に対する反対の理由を、派生的理由でなく独自的理由に基づいてい ることは明白である。彼は、「(これらの)基本的な原理は、(中略)我々の国民生活の指導 理念の形成に決定的な役割を果たしてきたユダヤ教とキリスト教の伝統の中に見いだされる。 この宗教的伝統の中では、人間の生命の意義は、神がその起源であり尊厳であるが故に神聖な ものとされる、という事実の中に基礎づけられている」と主張する。彼によると、尊厳死に対 する判断に際して、「(尊厳死は)患者の個人としての利益になるのか? あるいはそれを損 なうことになるのか?」という問題に目を向けるのみで、「『個人の諸権利(person right)』との『緊張(tension)』関係の中に存在しうる、『社会的善(social good)』を損なうことになるのか否か?」、というより深刻な問題に目を向けないことが何故 間違いであるのかということが、この原理によって説明されるのである。(バーナーディン の)中絶に対する反対意見は、不可避的にそれとパラレルな独自的見解を受け入れる場合には じめて、中絶に反対すると同時に尊厳死に賛成することが矛盾しているということになるであ ろう――(バーナーディン達の)この見解によれば、中絶はまた、仮に胎児が生きる権利を有し ているとするならばそれを理由として悪とされるだけでなく、仮に胎児が生きる権利を有して いないとしても、生命の尊重という「社会的善」を侮辱することを理由として悪とされること になるのである。もちろん私は、カーディナル・バーナーディンや彼の見解を支持する人々 が、同時に、胎児が本当のところは権利や利益を持つ人であるとは主張できないと言おうとし ているのではない。しかし彼らの一貫性を要求する興味深い主張は、中絶に反対する場合に は、全くその見解(胎児は生きる権利を有する)には立脚していないということを前提とする ものなのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第2章 中絶のモラリ ティ,宗教,信山社(1998),pp.77-78,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

(1)中絶はモラル上深刻な決定である、(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 、(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容、(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

中絶に関する理論

(1)中絶はモラル上深刻な決定である、(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 、(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容、(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


 中絶に関するリベラルな立場の理論的枠組(paradigm)は、4つの要素から構成されてい る。

(1)中絶はモラル上深刻な決定である
 第一は、中絶はモラル上何ら問題がないという極端な意見は排除され、反対に中絶は、遺 伝学上少なくとも胎児の自己同一性が確立され、子宮壁に無事着床した時期すなわち通常は、概ね懐 妊後14日を経過した時点以降には、常にモラル上深刻な決定とされるということである。

(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 
 第二は、中絶はそれにもかかわらず、いくつかの深刻な理由の場合、モラル上許容されることがある、ということである。中絶は母胎保護、レイプ、近親相姦の場合のみならず、例えば、 サリドマイド児やティ・サックス病などの深刻で致命的な胎児の異常──仮に出産に至ったとし ても、その胎児には、短命で苦痛に満ちたいらだたしい人生がもたらされることが予想される──が診断された場合も、正当化されるのである。

(2.1)中絶がモラル上、要求される場合
 この見解では、実際、胎児の異常が極めて深 刻で、今後の人生が悲惨なほどに不自由で短いものになることが不可避とされる場合には、中 絶はモラル上許容されるばかりでなく、モラル上要求されることが有り得るのであり、そのよ うな子供を故意に世に送り出すことが悪とみなされることがありえよう。  

(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容  
 第三は、仮に出産の結果が、彼女自身又は彼女の家族の人生にとって永続的で深刻なものと なることが予想される場合には、女性自身の自らの諸利益に関する配慮(concern)が、中絶 を十分に根拠づける理由となるということである。

(3.1)判断が困難なケース
 多くの女性にとってはこれが最も困難なケースであり、したがって、中絶に対してリベラルな見解を持つ人々は、このよう な場合に妊娠中の女性が中絶を決意した場合、彼女が何らかの後悔で苦しむことを当然のこ とと考える。

(3.2)逆に出産が問題となるケース
 しかしながら、彼らは女性達の決定を利己的なものとして非難するので はなく、おそらくは逆に、女性達が出産の決定をすることがモラル上重大 な誤りとなるのかも知れない、と考えることが大いにありえよう。 

(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない
 少なくとも、胎児が十分 に発達を遂げて独自の利益を持つに至る妊娠後期までは、州は、たとえモラル上許容できない 中絶を阻止することを目的とするものであっても、妊娠の判断に干渉する権限を持たない。

(4.1)他の人々はモラル上の判断を本人に強制できない
 何故ならば、中絶が正当とみなされるか否かの問題は、最終的には胎児を妊娠 している女性の決定に関する事柄だからである。なるほど、他者――家族、友人、世間――が中絶に反対しているかも知れず、しかも彼らの反対がモラル上正しいことがあるかもしれない。




 「私はこれから、このような見解の一つの例を分析することにしよう――もちろん私は、穏健 リベラル派の全ての人々がそれを認めている、と言おうというのではない。  
◇第一の要素――中絶の決定はモラル上深刻なものである  中絶に関するリベラルな立場の理論的枠組(paradigm)は、4つの要素から構成されてい る。第一は、中絶はモラル上何ら問題がないという極端な意見は排除され、反対に中絶は、遺 伝学上少なくとも胎児の自己同一性が確立され、子宮壁に無事着床した時期――通常は、概ね懐 妊後14日を経過した時点――以降には、常にモラル上深刻な決定とされるということである。そ の時点以降は、中絶は既に開始された人間の生命の消滅を意味し、その理由のみでモラル上深 刻なコストを伴うとされるのである。中絶はささいな(trivial)、あるいはつまらない (frivolous)理由では決して容認されるものではなく、ある種の重大な損害を回避する場合 を除いては、正当化できないものとされる。(この立場においては)女性が、出産によって待 望していたヨーロッパ旅行の機会を失わなければならないとか、別な時期に出産をした方がよ り快適であると感じるとか、本当は男子を望んでいたにもかかわらず女子の出産が判明した、 ということを理由とする中絶は悪とされるであろう。  
◇第二の要素――胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容  第二は、中絶はそれにもかかわらず、いくつかの深刻な理由の場合モラル上許容されること がある、ということである。中絶は母胎保護、レイプ、近親相姦の場合のみならず、例えば、 サリドマイド児やティ・サックス病などの深刻で致命的な胎児の異常――仮に出産に至ったとし ても、その胎児には、短命で苦痛に満ちたいらだたしい人生がもたらされることが予想される ――が診断された場合も、正当化されるのである。この見解では、実際、胎児の異常が極めて深 刻で、今後の人生が悲惨なほどに不自由で短いものになることが不可避とされる場合には、中 絶はモラル上許容されるばかりでなく、モラル上要求されることが有り得るのであり、そのよ うな子供を故意に世に送り出すことが悪とみなされることがありえよう。  
◇第三の要素――母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容  第三は、仮に出産の結果が、彼女自身又は彼女の家族の人生にとって永続的で深刻なものと なることが予想される場合には、女性自身の自らの諸利益に関する配慮(concern)が、中絶 を十分に根拠づける理由となるということである。仮に出産によって、彼女が退学を余儀なく されたり、昇進や満足のいく独立した生活を獲得するチャンスを放棄することを余儀なくされ る場合には、事情によっては中絶が許容されることがあろう。多くの女性にとってはこれが最 も困難なケースであり、したがって、中絶に対してリベラルな見解を持つ人々は、(このよう な場合に)妊娠中の女性が中絶を決意した場合、彼女が何らかの後悔で苦しむことを当然のこ とと考えるであろう。しかしながら、彼らは女性達の決定を利己的なものとして非難するので はなく、おそらくは逆に、(女性達が)反対(=出産する)の決定をすることがモラル上重大 な誤りとなるのかも知れない、と考えることが大いにありえよう。 
 ◇第四の要素――州は、刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限を有しない  リベラルな見解の第四の構成要素は、彼らが、既に述べた中絶に関してモラル上保守的な見 解をもつ人々と、時として共有する政治的見解である。この見解は、少なくとも、胎児が十分 に発達を遂げて独自の利益を持つに至る妊娠後期までは、州は、たとえモラル上許容できない 中絶を阻止することを目的とするものであっても、妊娠の判断に干渉する権限を持たないとい うものである。何故ならば、中絶が正当とみなされるか否かの問題は、最終的には胎児を妊娠 している女性の決定に関する事柄だからである。なるほど、他者――家族、友人、世間――が中絶に反対しているかも知れず、しかも彼らの反対がモラル上正しいことがあるかもしれない。法 はある状況のもとで、妊婦に対して、中絶の決定について他者との協議を義務づけることが許 されることがあるかもしれない。しかし州は最終的には、妊婦が自らの判断で中絶の決定をす ることを認めなければならず、他の人々のモラル上の信念を彼女に強制することは許されない のである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第2章 中絶のモラリ ティ,保守派とリベラル派,信山社(1998),pp.52-54,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

妊婦は、喫煙を避けたりして胎児に悪影響を与え得る行為を避ける。傷つけるより亡き者にすることの方が悪なので、中絶は悪である。この議論のどこに誤りがあるのか。将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を、亡き者にする行為である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

中絶の問題

妊婦は、喫煙を避けたりして胎児に悪影響を与え得る行為を避ける。傷つけるより亡き者にすることの方が悪なので、中絶は悪である。この議論のどこに誤りがあるのか。将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を、亡き者にする行為である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)妊婦が喫煙を避けるのはなぜか
 中絶がモラル上許容されると信じている 多くの人々は、それにもかかわらず、妊婦が自ら出産しようとしている子供に対して、喫煙したり他の手段で危害を加えることは悪であると考えている。

(b)傷つけるより殺す方が悪である
 評者達 はその矛盾を見つけ出して、殺すことは傷つけることよりも一層悪なのだから、喫煙が悪で、同 時に中絶が悪でないということは成り立たないのではないか、と批判する。
(c)将来利益が発生するが現に利益を有さない対象
 中絶が胎児の利益に反するか否かということは、中絶が行なわれた時に、胎児がそれ自体して利益を有しているか否かということによらなければならないのであり、中絶が行なわれなければ利益が発生してくるか否かということによるのではないのである。  

(d)利益を害される人は出現しない
 しかし仮に彼女が中絶をするならば、彼女の行動によって利益が傷つ けられることになった人間は出現しないことになるのである。
(e)モラル上、問題ないことは示唆しない
 もちろんこのことは、中絶は悪 いことが何もないとか、ましてや、中絶は出生してくる子供の健康を危険にさらすことよりも モラル上悪ではない、ということを示唆するものではない。



「中絶が胎児の利益に反するか否かということは、中絶が行なわれた時に、胎児がそれ自体 として利益を有しているか否かということによらなければならないのであり、中絶が行なわれ なければ利益が発生してくるか否かということによるのではないのである。  この区別は、一部の評者達を困惑させている事柄――中絶がモラル上許容されると信じている 多くの人々は、それにもかかわらず、妊婦が自ら出産しようとしている子供に対して、喫煙し たり他の手段で危害を加えることは悪であると考えている――の説明に役立つであろう。評者達 はその矛盾を見つけ出して、殺すことは傷つけることよりも一層悪なのだから、喫煙が悪で同 時に中絶が悪でないということは成り立たないのではないか、と批判する。この批判の間違い は、我々が今まで分析を加えてきた主張の間違いそのものなのである。もし妊婦が妊娠中に喫 煙をするならば、後日出生する人間は、彼女の行動によってその利益が著しく傷つけられたも のになるかも知れない。しかし仮に彼女が中絶をするならば、彼女の行動によって利益が傷つ けられることになった人間は出現しないことになるのである。もちろんこのことは、中絶は悪 いことが何もないとか、ましてや、中絶は出生してくる子供の健康を危険にさらすことよりも モラル上悪ではない、ということを示唆するものではない。しかし仮に早期の中絶が悪である とするならば、それは、このことを根拠とする――中絶は、それによって生命が絶たれる胎児の 利益に反している――のではない、ということを示唆するものなのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第1章 生命の両端――中 絶と尊厳死・安楽死,決定的な相異,信山社(1998),pp.26-27,水谷英夫,小島妙子(訳)) 

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




生命倫理の問題では、(a)諸利益に関する権利の問題と、(b)人間の生命固有の価値に関する問題を、区別して考えることが必要である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

生命倫理

生命倫理の問題では、(a)諸利益に関する権利の問題と、(b)人間の生命固有の価値に関する問題を、区別して考えることが必要である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a) 中絶に対する派生的異議 (derivative objection)
 胎児は妊娠が開始された時から生存し続ける利益を必然的に伴う、それ自身の権利に関する諸利益を持った生命体なのであり、したがって胎児は、殺されない(not to be killed)権利を必然的に伴う。

(b)中絶 に対する独自的異議(detached objection)
 人間の生命は本来的で(intrinsic)固有の (innate)価値を有しており、それ自身神聖(sacred)なものであり、したがって人間の生 命が有する神聖な性質というものは、その生命体が人間としてそれ独自の運動や感覚や利益を 持つに至る前であっても、生物学的な生命が開始された瞬間に始まっているものとされる。

「中絶に対する派生的異議と独自的異議  第一の見解によるとこれらの言葉は、次のような主張として用いることが可能である。即 ち、胎児は妊娠が開始された時から生存し続ける利益を必然的に伴う、それ自身の権利に関す る諸利益を持った生命体なのであり、したがって胎児は、殺されない(not to be killed)権利を必然的に伴うこれらの基本的諸利益が全ての人によって擁護されるべきであ る、ということを要求する権利を有していることになる。この見解にしたがうと中絶は、人が 有する殺されない権利を侵害するが故に原理的に(in principle)悪とされるのである。そ れはあたかも成人者(adult)を殺すことは、その人が有する殺されない権利を侵害するが故 に通常は悪とされるのと同様なのである。私はこの見解を、中絶に対する《派生的》異議 (derivative objection)と呼ぶことにしよう。何故ならこの主張は、胎児を含む全ての 人間が有すべきものとされる権利と利益を前提とし、かつそれに由来するものだからである。 この異議を妥当なものとして承認し、政府がこの理由に基づいて中絶を禁止したり規制すべき であると信じている人々は、政府には胎児を保護すべき派生的責任があると考えているのであ る。  第二の見解はよく知られた表現で用いることができるものであるが、第一の見解とは非常に 異なったものである。第二の見解によると、人間の生命は本来的で(intrinsic)固有の (innate)価値を有しており、それ自身神聖(sacred)なものであり、したがって人間の生 命が有する神聖な性質というものは、その生命体が人間としてそれ独自の運動や感覚や利益を 持つに至る前であっても、生物学的な生命が開始された瞬間に始まっているものとされる。こ の第二の見解に従えば、中絶は人間の生命のどの段階・形態であろうと、その本来的な価値と 神聖な性質を無視し侮辱しているが故に原理的に悪とされるのである。私はこの主張を、中絶 に対する《独自的》異議(detached objection)と呼ぶことにしよう。何故ならこの主張 は、何ら特定の権利や利益に依存したり、それを前提としないからである。《この》異議を妥 当なものとして承認し、中絶は《この》理由故に法によって禁止若しくは規制されるべきであ ると主張する人々は、政府には生命の本来的価値を保護すべき独自の責任があると考えている のである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第1章 生命の両端――中 絶と尊厳死・安楽死,決定的な相異,信山社(1998),pp.14-15,水谷英夫,小島妙子(訳))

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(1931-2013)

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