言葉の曖昧さ多様な表現の効用
我々の言葉の用法は多様で、ルーズな語り方もあるが、話の背景や状況を理解すれば、誤解は起きにくくなし、異なる概念体系による異なる記述であることも、互いに理解可能となる。このように多様な異なる描写は、むしろ状況を色々な観点から理解するための豊かな源泉とも言える。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
「さて、われわれの用法が多様であるということ、われわれがしばしばルーズな語り方をするということ、そしてまた、われわれが外見上同一の表現を用いて異なったことを述べることがあるということは事実である。しかし、まず第一に注意すべきことは、そのようなことは実際には、一般に考えられているほどには頻繁には起こらないということである。たとえば、われわれが出会うそうした事例のほとんどの場合、《同一の》状況でその《同一の》状況について異なったことを述べたいと考えていると思われたものが、実際にはそうではなかった――すなわち、われわれは単に、状況を《多少》違っていたように想像していたにすぎない――ということが明らかとなるのである。当然のことながら、いかなる状況も「完全に」描写されることはない(しかも、われわれはここでは《想像された》状況を扱っている)ので、そのようなことはいともたやすく起こる。一般に、話の背景とともに状況を詳しく想像すればするほど、われわれが何を言うべきかということに関して意見が分かれることは少なくなる――この場合、貧弱な想像力を刺激し訓練するには、非常に特異な手段や、時には退屈な手段でさえも用いる価値がある。しかしながら、それにもかかわらず、最後まで意見の一致を見ることがないということも《時には》たしかに生ずる。ある用法がぞっとするようなものではあるがしかし現にそのようなものとして存在する、ということを認めざるをえない場合がある。われわれは二つの相異なる描写のうちの一方ないし両方を何としても使用せざるをえないことがあるのである。しかし、このような事実に対してひるまなければならない理由が何かあるであろうか。このような場合に起こっていることは完全に説明可能である。もしわれわれの用法に不一致が見出されるならば、それはたとえば、私が「Y」を使用するときにあなたが「X」を使用する場合があるということにほかならない。あるいは、よりありふれた(そしてまた、より興味をそそる)表現をするならば、あなたの概念体系は私の概念体系と同様に、少なくとも整合的であり有用でもあるように見えるが、私のものとは異なっている、ということにほかならない。要するに、われわれは互いに意見の一致を見ない《理由》を見い出すことができるのである――あなたはある仕方で物事を分類することを好むのに対して、私は別の仕方で物事を分類することを好むというだけのことである。用法がルーズであるとしても、そのようなルーズさが生ずる理由や、そのようなルーズさの故に曖昧にされる区別がいかなるものかということを、われわれは理解することができる。もし「二様の」描写があるとすれば、それは、状況が二様に描写可能であり、あるいは二様に「構造化」可能であるということなのである。あるいは、その状況は、それを描写するためのその二様の描写が当面の目的にとっては結局のところ同じものと見なしうるような種類の状況である、と述べてよいかもしれない。かくして、われわれは何を言うべきかということに関して生ずる不一致に対してしりごみすべきではなく、むしろ積極的に攻めてゆくべきである。そのような不一致に関する説明は必ずや何らかの光を投げかけずにはおかないのである。もし計算に合わない回転をする電子を偶然に見つけたとするならば、それは発見であり、今後追求してゆくべき驚異なのであって、けっして物理学を放棄すべき理由とはならない。まったく同様に、真にルーズな語り方をする人や真に常軌を逸した人がいたとするならば、その人は大切にすべき稀有な標本なのである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,8 弁解の弁,pp.292-294,勁草書房(1991),服部裕幸,坂本百大(監訳))
(索引:)
(出典:wikipedia)
「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)