2018年11月4日日曜日

16.仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3)、(4)追記。

(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.3)存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものについての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧なまま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとして、理解できるようになる。
(4)しかし、それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 (4.1)ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
 (4.2)逆に、法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。

 「このような見解(もちろん、このような大雑把な検討で伝えられるよりもはるかに精密な議論である)に反対して、これらすべての存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の厳密な区別は間違いであると主張する者もいる。

究極的な目的ないし道徳的価値を認めるときに、私たちは、何が起こっているのかということについての事実判断の真理性と同様、選択や態度や感覚や感情の問題ではなく、しかも、私たちが生きている世界の性格によって受け入れざるを得ないものを認識している。

典型的に道徳的な議論というのは、議論している当事者が互いに、感覚や感情を表現したり抑制したり、勧告や命令を発する議論ではなく、議論することで当事者が、詳細に検討し反省してみると最初に争っていたケースが曖昧なまま感知していた原則(それ自体、他のどのような分類の原則に比べても、少しも「主観的」でも「意志の命令」でもない原則)の範囲に入ると認め、そして、それが個別具体的なものについて最初に争われた他のどのような分類よりも「認知的」「合理的」と呼ばれるに値すると認めるに至る議論であるとされる。

 以上のような道徳に関する「非認知的」理論への批判や、在るものと在るべきものについての言明の徹底的な区別の否定を認めて、道徳的な判断は他のタイプの判断と同じく合理的に擁護できるものであるとしよう。

そう考えたとして、在る法と在るべき法との連関の本質に関して何か導かれるものがあるだろうか。これだけからでは何も導かれはしないと断定できる。法は、いかに道徳的に邪悪であっても、なお(この点に関する限り)法である。道徳的判断の本質についてのこの見解を受け入れることで生じる唯一の違いは、そのような法の道徳的邪悪さが証明できるものとなるというだけのことであろう。

あるルールが道徳的に悪であり法たるべきでないということ、また逆に、道徳的に望ましく法たるべきであるということが、そのルールが要求していることについての言明だけからたしかに導き出されるだろう。 

しかし、これを証明したとしても、そのルールが法でない(または、法である)ことを示したことにはならない。

私たちが法を評価したり非難したりする際に用いる原則が合理的に発見可能なものであり、たんなる「意志の命令」ではないことが保障されても、法は、さまざまな程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続けることがあるという事実には変わりはない。また逆に、法であるべきすべての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。」


(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.91-92,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月3日土曜日

規範的ルールは、社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。社会的慣行とルールが、別の行動様式の正当な根拠であると主張され得るような期待が形成されているとき、一つの規範的ルールが存在している。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会的慣行と規範的ルールの関係

【規範的ルールは、社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。社会的慣行とルールが、別の行動様式の正当な根拠であると主張され得るような期待が形成されているとき、一つの規範的ルールが存在している。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 規範的ルールは、ある社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。
(1)従って、正当化される規範的ルールは、社会的慣行と同じ内容を持つとは限らない。
(2)ある社会的慣行が存在したとしても、その慣行がそのまま規範的ルールとして受け容れられるわけではない。ある人が、当の社会的慣行を無意義なものと考えていれば、この社会的慣行が何らかの義務や規範的な行動規準を正当化するなどとは考えないだろう。
(3)ある社会的慣行は、規範的ルールを正当化するために援用される。
(4)元の社会的慣行とは別のある行動様式が形成され、この行動様式の正当性の根拠が、元の社会的慣行と規範的ルールであると主張され得るような期待が形成される。

規範的ルール
 │↑↑
 │││解釈、規範的判断
 ││└社会的慣行a
 │└─社会的慣行b
 └─→別の行動様式c

 「規範的判断がしばしば社会的慣行を、当の判断根拠の本質的要素とみなしていることは確かであり、慣習的道徳の本質的特徴もこの点に存することは既に述べた。しかし社会的ルール理論は、両者の関係を誤解しているのである。この理論は社会的慣行がそれのみでルールを「構成」し、このルールを規範的判断が受け容れるものと考えている。ところが実際は、社会的慣行は規範的判断が提示するルールを「正当化」するために援用されるにすぎない。教会で帽子を脱ぐ慣行が存在する事実は、このような趣旨の規範的ルールの主張を正当化するが、これは、当の慣行がそれ自体で、規範的判断により提示され是認されるルールを構成するからではなく、違反となるような行動様式が慣行から形成され、教会で帽子を脱ぐ義務やこの義務を示す規範的ルールの主張の正当根拠となるような期待が、慣行から生ずるからなのである。
 社会的ルール理論の誤りは、ある社会的慣行が、この慣行の存在を根拠として個人が主張するルールと何らかの意味で同一の「内容」を有する、という見解に由来する。しかし慣行は単にルールを正当化するにすぎないことを認めれば、このようにして正当化されるルールが慣行と同じ内容をもつこともあればもたないこともあるし、慣行に含まれるほどの内容をもたないことも、またそれ以上の内容をもつこともありうることになる。社会的慣行と規範的主張の関係をこのような仕方で把握すれば、我々は社会的ルール理論が苦心して説明しようとすることを難なく説明できるだろう。ある社会的慣行を無意義なものとか愚かで無礼なものとか考える人は、何らかの義務や規範的な行動規準がこの慣行により正当化されることは原理的にでさえありえない、と考えるだろう。この場合彼は、当の慣行は彼に対し義務を課するがこの義務を彼は拒絶する、とは言わず、当の慣行は他人がどう考えていようと、そもそもいかなる義務をも彼に課さない、と主張するだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,1 社会的ルール,木鐸社(2003),p.65,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:社会的慣行,規範的ルール)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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01.適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的文、行為遂行的発言

【適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】
 「(例a)「そうします。(I do.)(すなわち、私はこの女性を、私の法律上婚姻関係にある妻と認めます。)」――ただし、結婚式の進行の中で言われた場合。
(例b)「私は、この船を『エリザベス女王号』と命名する。(I name this ship the Queen Elizabeth.)」――ただし、船首に瓶をたたきつけながら言われた場合。
(例c)「私は、私の時計を弟に遺産として与える。(I give and bequeach my watch to my brother.)」――ただし、遺言状の中に記された場合。
(例d)「私はあなたと、明日雨が降る方に6ペンス賭ける。(I bet you sixpence it will rain tomorrow.)
 以上の例においては、それぞれの文を述べる(もちろん適当な状況のもとにおいて)ことは、私がかくかくと述べている際に私が行うと述べられているその当のことを実際に行なっているという私の行為を記述することではなく、また、その当の行為を私が行なっているということを陳述しているのでもないということは明白なことであろう。そこでは、その文を口に出して言うことは、当の行為を実際に行なうことにほかならないのである。また、これらの発言のどれをとっても、それらは真でもなければ偽でもない。私はこのことを自明のことであると主張し、それについて議論することはしない。それはあたかも「畜生」(damn)という間投詞が真でも偽でもないのとまったく等しく議論を要しないことであろう。この発言はあるいは、「何ごとかを伝達するために使われている」といえるかもしれない。しかし、このことは当面問題にしていることとはまったく関係のないことである。要するに、船を命名するということは、(適当な状況において)「私はかくかくしかじかと命名する」という言葉を言うことと《同じ》ことであり、また、戸籍役人や聖職者などの前で「そうします」と言う時に、私は、結婚という事件を報告しているのではなく、その事件に当事者として参与しているのである。
 さて、今ここで考えられた種類の文ないし発言を何と名づけるべきであろうか。私としては、それらを行為遂行的文(performative sentence)ないし、行為遂行的発言(performative utterance)、あるいは、簡単に「遂行文」ないし「遂行的発言」(performative)と呼ぶことを提案したい。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第1講 序論――行為遂行的発言とは何か,ⅱ行為遂行的発言の予備的分離,pp.10-12,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的文,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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15.在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)在るべき法は、主観主義的、相対主義的、非認知的なものであるという考え。
 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 (1.1)ある哲学は、価値言明が感覚や感情や態度などの主観的選好の表現であると考えた。
 (1.2)ある哲学は、価値言明というものは、ある個別具体的なケースが、行為の一般的な原則や方針の下に包摂されることを示すものであると考えた。そして、この一般的な原則や方針は、人間に対して何かしら一種の普遍的な命令として直感されるようなものとして理解された。
 (1.3)ある哲学は、価値言明というものが、ある特定の目的を促進するものであると理解する。そして、私たちは、その目的のために何が適切な手段であるかを合理的に議論したり発見したりできる。しかし、目指される目的自体は、意志の命令あるいは感情や選好や態度の表現であるとされる。
(2)在るべき法には、何らかの普遍的な根拠があるという考え。
 しかし、人間の感覚や感情、態度の主観的選好は何に由来するのか。何かしら命令的なものとして与えられる一般的な原則や方針は、何に由来するのか。目指されるものとして感知される目的は、何に由来するのか。
 (2.1)道徳原則は、功利に関する実証可能な命題である。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (2.2)究極的な道徳原則は、啓示によって、またその指標としての功利を通して知ることができる。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)在るべき法は、(3)の意味で、ある社会における社会的ルールの存在の事実の有無として客観的に論証可能なものであり、その社会の内においては相対主義的なものではない。ただし、異なる社会は、異なるルールを持ち得る。この意味では、相対的なものである。しかし、人類全体において認められる社会的ルールは、事実上、普遍的なものとなる。それでもなお、これら普遍的な諸ルールが、自然を支配している諸法則に、いかに由来しているのかと問うことができる。(未来のための哲学講座)

 「「法実証主義」に対して強く抵抗している人びとに最も反感を持たせていると思われるものを、結論を述べるにあたって考察しないならば、片手落ちであろう。

在る法と在るべき法との区別の強調は、道徳的判断、道徳的区別、また、「価値」のまさに本質に関しての「主観主義的」「相対主義的」ないし「非認知的」な理論と呼ばれるものに基礎を置き、それを必要としている、と受け取られるかもしれない。

もちろん、功利主義者たち自身は、彼らの道徳哲学が私たちからみていかに不十分なものであるにせよ、(ケルゼンのような後の実証主義者とは異なり)そのような理論を支持していない。

オースティンは究極的な道徳原則は、啓示によってそして功利という「インデックス」を通して知ることのできる神の命令であると考えていたし、ベンサムは道徳原則を功利に関する実証可能な命題であると考えていた。

しかるに、私の考えるところでは(証明はできないのだが)、在る法と在るべき法との区別の主張は、「実証主義」という一般的題目の下で、ある道徳理論、すなわち、何が起こっているのかという言明(「事実の言明」)はどうあるべきかという言明(「価値言明」)とは根本的に異なるカテゴリーないしタイプに属するという道徳理論と混同された。

したがって、この混同の源を取り除いておく方がよいと思う。

 このタイプの道徳理論は、現在さまざまなものが存在している。

ある理論によれば、在るべきこと、なされるべきことについての判断は、「感覚」や「感情」や「態度」の、また、「主観的選好」の表現であるか、または、それらを本質的要素として含んでいる。

別の理論によれば、そのような判断は、感覚や感情や態度の表現であるとともに他人にそれらを共有するように命令するものである。

また別の理論によれば、そのような判断は、行為の一般的な原則や方針の下に、ある個別具体的なケースが包摂されることを示すものである。

この原則や方針というのは、判断者が自ら「選択」し、「遵守すると決心」し、そして、それ自体何が起こっているかという認識ではなく、判断者自身も含めたすべての人へ向けられた一般的「定言命令」ないし命令とでもいうべきものである。

これら各説が共通して主張しているのは、なされるべきことについての判断は、「非認知的」要素を含んでいるので、事実の言明のように合理的な方法で議論、論証することはできず、また、事実の言明から導かれることを示すこともできず、なすべきことについての判断を事実の言明と結合したところから導かれるにすぎない、ということである。

このような理論に依拠するならば、たとえば、ある行為は悪いということを証明しようとすると、その行為は行為者が自己満足のためだけに故意に苦痛を加えるものであることを示すだけでは足らない。

そういう実証可能な「認知的」な事実の言明に、そのような状況の下での苦痛を加える行為は悪い、なすべきではないという原則、それ自体は実証可能でも「認知的」でもない一般的な原則を付け加えてはじめて、その行為が悪いということを示すことができる。

在るものと在るべきものとのこの一般的な区別に加えて、手段についての言明と道徳的目的についての言明との間でもそれに平行する厳格な区別がなされる。

私たちは、何かが与えられた目的にとって適切な手段であるかを、合理的に発見したり議論したりできるが、しかし、目的というものは、合理的に発見したり議論したりできるものではない。

それは、「意志の命令」であり、「感情」や「選好」や「態度」の表現であるとされる。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.90-91,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月30日火曜日

ある規範的ルールが、成員の意見が一致しているが故に義務と考えられる「慣習的道徳」と、意見が一致せず仮に遵守されていなくとも義務と考えられる「共立的道徳」とが、区別できる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

共立的道徳と慣習的道徳

【ある規範的ルールが、成員の意見が一致しているが故に義務と考えられる「慣習的道徳」と、意見が一致せず仮に遵守されていなくとも義務と考えられる「共立的道徳」とが、区別できる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 道徳には、共立的道徳と慣習的道徳との区別ができる。裁判官が自ら遂行すべきであると考える義務の少なくともある部分は、慣習的道徳ではなく、むしろ共立的道徳に属すると考えられる。
(1)共立的道徳
 (1.1)ある規範的ルールが成立している本質的要素として、その集団の成員の意見が一致していることを主張しないルール。
 (1.2)人は嘘をつくべきでない義務に服すると考え、しかも他の多くの人々が嘘をついたとしても、この義務は相変わらず存在すると考えるのであれば、これは共立的道徳の一例となる。
(2)慣習的道徳
 (2.1)その集団の成員の意見が一致していることを、本質的要素とするルール。
 (2.2)ある社会的慣行が、もし実際に存在しなければこの義務も存在しないと考えれば、これは慣習的道徳の一例である。

 「二種類の道徳はそれぞれ共立的(concurrent)道徳と慣習的(conventional)道徳と呼ぶことができるだろう。社会成員が同一あるいはほぼ同一の規範的ルールを主張することで一致しているが、彼らの意見が一致しているというこの事実を、ルールを主張する根拠の本質的要素とはみなしていない場合、社会は共立的道徳を提示するのに対し、一致の事実を、ルールを主張する根拠の本質的要素として挙げていれば、これは慣習的道徳を提示していることになる。もし教会に出かける人が、あらゆる人は教会で帽子を脱ぐ義務を有すると考えながらも、この種の社会的慣行が実際に存在しなければこの義務も存在しないと考えれば、これは慣習的道徳の一例である。また、人は嘘をつくべきでない義務に服すると彼らが考え、しかも他の多くの人々が嘘をついたとしてもこの義務は相変わらず存在すると考えるのであれば、これは共立的道徳の一例となるだろう。
 したがって社会的ルール理論は、単に慣習的道徳の諸例に関してだけあてはまる理論となるように弱められねばならない。嘘言の場合に示されているような共立的道徳に関しても、ハートの言う実践的諸前提は充足されてはいるだろう。つまり人々は概して嘘をつくことはなく、このような態度を正当化するものとして、嘘言は悪であるという「ルール」を引用し、しかも嘘をつく者を非難するだろう。ハートの理論によれば、社会的ルールはこのような行為から構成されており、当該社会は嘘言を禁止する「ルールを有する」という社会学者の主張もこれにより正当化される。しかし嘘をつくべきでない義務を人々が主張した場合に彼らは上記のごとき社会的ルールを「援用している」と考えたり、彼らは社会的ルールの存在を自己の主張の必要条件とみなしている、と関することは彼らの主張の曲解である。むしろこれは共立的道徳の一例であり、したがって人々は社会的ルールを援用したり、これを自己の主張の必要条件と考えているわけではない。それ故社会的ルール理論は慣習的道徳に限定されねばならない。
 理論がこのような仕方で更に弱められれば、司法的義務の問題に関する当該理論の意義も薄れてくる。裁判官が自ら遂行すべきであると考える義務の少なくともある部分は、慣習的道徳ではなくむしろ共立的道徳に属すると考えられよう。たとえば多くの裁判官は、民主的に選挙された立法府の決定を執行すべき義務に服すると考え、この義務を彼らが独立した価値をもつものとして受容する原理に基礎づけることもあるだろう。この場合彼らが当の原理を受容するのは、単に他の裁判官や公務担当者も同様にこの原理を受容しているからではない。しかし他方、これとは逆の想定をすることも少なくとも可能ではある。つまり典型的な法体系に属する少なくとも大半の裁判官は、一般的なある種の司法的慣行の存在を、自己の司法的義務上の要請を根拠づける本質的要因とみなしている、と考えることも可能だろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,1 社会的ルール,木鐸社(2003),pp.59-60,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:共立的道徳,慣習的道徳)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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13.困難な、道徳の二律背反的な状況を、あるがままに認識し対処すること。明快に語る手段がたくさんあるとき、「道徳的批判」で表現しないこと。それは、分析を混濁させ議論を混乱させてしまう。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的二律背反

【困難な、道徳の二律背反的な状況を、あるがままに認識し対処すること。明快に語る手段がたくさんあるとき、「道徳的批判」で表現しないこと。それは、分析を混濁させ議論を混乱させてしまう。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)道徳の歴史から学ぶものがあるとすれば、それは、道徳的二律背反を処理するにはそれを隠さない、ということである。困難と戦うときと同様に、二つの悪のうちましな方を選ばざるを得ない状況に至った際には、状況をあるがままに自覚して対処しなければならない。
 (1.1)困難な状況、道徳的二律背反的な状況を、議論の余地のある「道徳的批判」で表現してはならない。それは、膨大な哲学的問題を呼び起こしてしまう。明快に語る手段がたくさんあるときには、明快に語ること。
 (1.2)「すべての不調和は、知られざる調和なり」「すべての部分悪は、普遍的善なり」は、誤りであろう。私たちが賞賛する諸価値が、互いに衝突し合ったり、犠牲にされたりせず統合され得るというのは、ロマンティックな楽観であろう。
(2)例として、言語道断なほど不道徳的な行為をした人がいたとする。しかし、当時それは適法とされた行為に基づいていたとしよう。
 (2.1)当時その行為を適法とした制定法が、醜悪な法であり「法たり得ない」ゆえに、その人の不道徳的な行為の故に、その人を罰する。
 (2.2)いかに言語道断だとは言え、当時違法ではなかったので、その人を罰しない。
 (2.3)罰しないことは、悪だと思われる。一方、罰することは、事後的な法を導入して罰することになり、別の非常に重要な道徳原則を犠牲にすることになる。それでも、その人を罰するとしたら、どのような理由によって、正当化できるのか。当時の制定法が、醜悪な法であり「法たり得ない」としてしまうことは、問題の本質を覆い隠してしまう。

 「多くの人はこの目的――言語道断なほど不道徳的な行為をしたという理由でこの婦人を罰すること――を賞賛するかもしれない。

しかし、この目的を達するには、1934年以降施行された制定法が法としての効力を持たないことを宣告しなければならない。

いうまでもないが、それ以外に二つの選択肢があった。

一つはその婦人を罰しないままにしておくというものである。罰するのは良くないことかもしれないという意見に共感してそれを支持することも考えられる。

もう一つは、もしその婦人が罰せられるならば、それははっきりと事後的な法を導入することによるものでなければならず、そういう形で彼女の処罰を確定することで何が犠牲にされるのかが十分に意識されていなければならないという事実を直視するものである。

事後的に刑事立法を行なって処罰することは醜悪なことであろうが、それを公然と求めてみることは、少なくともこのケースにおいては、公明正大であるというメリットを持ったであろう。

この婦人を罰するかどうかというのは二つの悪のうち一つを選ぶことであるというのがはっきり見えたであろう。

彼女の罰しないままにするという悪と、ほとんどの法体系が認めている非常に大事な道徳原則を犠牲にするという悪と。

道徳の歴史から学ぶものがあるとすれば、それは、道徳的二律背反を処理するにはそれを隠さない、ということである。困難と戦うときと同様に、二つの悪のうちましな方を選ばざるを得ない状況に至った際には、状況をあるがままに自覚して対処しなければならない。

ある限界地点において、ひどく不道徳的なものは法たり得ない、合法たり得ない、という原則を右の事件で用いたように使うことの欠点は、私たちが直面している問題の本質を覆い隠してしまうことにあり、また、私たちが賞賛する諸価値はすべて最終的に一個のシステムへとまとめられ、その価値のどの一つも他の価値のために犠牲にされたり折衷されたりするべきではないというロマンティックな楽観を助長してしまうことにある。

    すべての不調和は、知られざる調和なり
    すべての部分悪は、普遍的善なり

 この詩句は間違いなく誤りである。上記の問題を定式化するのに、ディレンマの処理がまるで日常的なケースにみられるものであるかのように表現することを許すように定式化するのは不誠実である。

 おそらく、この難しいケースを処理する方法について、どちらの方法をとっても、この婦人に関する限り、全く同じ結果になると思われるのに、一つの方法を他の方法と比較して強調するのは、形式に、さらにはおそらく言葉に、こだわりすぎているように思われるかもしれない。

なぜこれらの方法の違いを大袈裟に言わなければならないのであろうか。私たちは、この婦人を新しい事後法によって処罰し、公然と、それはわれわれの原則に反することではあるが、二つのうちではましな方だと宣言できるであろうし、そうではなく、そのような原則を一体どこで犠牲にしているかを指摘せずにその事件に決着をつけることもできよう。

しかし、公明正大さは、それが道徳において取るに足らない徳ではけっしてないのと同様に、法の運用における多くの些細な徳の中の一つにすぎないわけではない。

というのは、もし私たちがラートブルフの見解を受け入れ、彼やドイツの裁判所にならって、ある種のルールはその道徳的不公正さのゆえに法たり得ないという主張の形で悪法に対する抵抗をするならば、最も単純であるがゆえに最も力強い形態の道徳的批判の一つを混乱させてしまうからである。

もし功利主義者にならって単純明快に語るならば、法は法であろうが従うには邪悪過ぎると語ることになる。これは、誰にでも理解できる道徳的非難であり、道徳的考慮を求める直接的で明白は要求をなすものである。

他方、もしこの異議申し立てをこれらの邪悪なものは法ではないという主張として定式化するならば、それは多くの人が支持しない主張になってしまい、人びとがそれを考慮してみる気になったとしても、主張が認められる前に膨大な哲学的問題を呼び起こすことになろう。

したがって、功利主義的区別をこのような形で否定するとどうなるかを検討してそこから学ぶべき一つの最も重要な教訓があるとすれば、それは、功利主義者が人びとに理解させようとして最も心をくだいた次の教訓である。   

明快に語る手段がたくさんあるときには、議論の余地のある哲学に基づいた命題の形で制度の道徳的批判を表現するべきではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.84-86,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:道徳的二律背反)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月29日月曜日

10.14.人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))

人道主義的道徳と法

【人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))】

(3.4.1)~(3.4.3)追記

 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。
  (3.4.1)「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
  (3.4.2)もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
  (3.4.3)人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))
(出典:wikipedia
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)
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 「この訴えは、ナチ体制の下で生き、その体制が邪悪な法体系を生みだしたことについて反省したドイツの思想家たちによる訴えである。

その中の一人、ラートブルフは、ナチの専制までは「実証主義的」原理を支持していたが、ナチの専制を経験して転向した人であるから、彼が法と道徳の分離という原理を捨てるように他の人に訴える様子には、自説を変更するという特殊な痛烈さがある。

この批判に関して重要であるのは、在る法と在るべき法との分離を力説するときにベンサムとオースティンが念頭においていた主張に、この批判が対決しているということである。

これらのドイツの思想家たちは、功利主義者が分離したものを、功利主義者の目にはこの分離が最も重要であるちょうどその場面で、結合させることが必要だという主張をした。

彼らは道徳的な悪法の存在という問題に関心をよせたのである。

 ラートブルフは、転向する以前には、法への抵抗は個人の良心の問題で、個人によって道徳的な問題として考えられるべきであるとし、法の要求するところが道徳的に悪であることを示したとしても、さらに、法への服従のもたらす結果が法への不服従のもたらす結果よりも悪いことを示したとしても、法の妥当性は否定されるものではないという意見を持っていた。

ここでオースティンを思い起こしてもらいたい。オースティンは、もし人の法が道徳の基本的な原則と衝突するならばそれは法ではないと言う者に対して、「全くナンセンスなこと」を語っていると強い非難をあびせている。

 『最も邪悪な法、したがって最も神の意志とは対立する法が、司法裁定機関によって、法として強行されてきたし、また強行され続けている。

無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。

もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。

そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。

神の法に基づいた異議申し立てや妨訴抗弁や抗弁は、天地創造の時から現在に至るまで、正義の法廷で聞き入れられたことはない。』

 これはたいへん頑固な、暴力的なとさえ言える発言であるが、――オースティンの場合、そして、もちろん、ベンサムの場合も――もし法が一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じるという確信とともにこれらの言葉を語っていることに注意しなくてはならない。

人間が陥るかもしれないディレンマをこのように率直に表現する以外に方策はないのかと思案してみてもらいたい。

この率直な表現がどれほど崩しにくいものであるかがわかるだろう。

 しかし、ラートブルフは、たんなる法規への隷従――彼によれば、「法は法だ」(Gesetz ist Gesetz)という「実証主義的」スローガンによって表現される――をナチの体制が容易に利用したということから、また、ドイツの法曹界が、法の名の下に行なうことを要求された極悪な行為に対して抵抗することができなかったということから、いとも簡単に「実証主義」(ここでは、在る法と在るべき法との分離の主張を意味している)はこの惨事の発生に積極的に加担したと結論している。

彼は熟慮反省して、人道主義的道徳は法 Recht とか合法性という概念自体の一部であり、どのような実定的立法も制定法も、いかに明確な表現を持っていても、また、いかに既存の法体系の持つ妥当性の形式的基準に合致していても、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば妥当性を持たないという原理に到達した。

この原理は、Recht というドイツ語の帯びているニュアンスが把握できなければ完全に理解することはできない。

しかし、この原理が、すべての法律家と裁判官は、基本的な原則の範囲から逸脱した制定法を、不道徳で間違ったものとしてだけでなく法的性格を持たないものとして糾弾すべきであり、また、基本的な原則の範囲から逸脱していることで法である性質を欠く立法は、個別具体的な状況下にあるどのような個人についてであれ、その法的立場を決定する際に考慮されるべきものではない、という意味であるのは明らかである。

ラートブルフが彼のそれまで支持していた原理を衝撃的に変更した様子は、残念なことに、彼の著作の翻訳では省かれているが、法と道徳の相互連関の問題を新しく考え直そうとする者すべての読むべきものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.80-82,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:人道主義的道徳,法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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