2020年4月3日金曜日

意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識を伴わない精神機能

【意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

意識現象の発現の仕方
(a)体性感覚
 (i)意識を伴わない感覚信号の検出、ニューロン活動が先行する。
 (ii)適切なニューロン活動の持続時間が、ある程度増加することによって、感覚の意識が現れる。
 (iii) 意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(b)他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)でも、同様である。
(c)意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図でも、同様である。
(d)創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。


 「タイム-オン理論によれば、適切なニューロン活動の持続時間(タイム-オン)のある程度の増加によって、その増加分がなければ無意識だったはずの心理的機能にアウェアネスが加わる特性があることを思い出してください。この理論はこうして、以下のような見解を提案、または導き出します。
 (1) おそらく、いかなる種類のアウェアネスも現れないうちに、すべての意識を伴う精神事象が実際には《無意識に始まっている》のです。体性感覚のアウェアネスの場合でも、また、内面で生じる自発的な行為を促す意図のアウェアネスにおいても、こうした状況が発生するということについて、私たちにはすでに実験的な証拠があります(第4章参照)。すなわち、このようなアウェアネスをいくらかでも引き出すには、持続時間が十分に長い脳の活動が必要であるということです。つまり、無意識な、短い時間継続する脳の活動は、遅延する意識事象に先行するということを意味しています。二つの異なる種類の意識経験について私たちが発見したこのような根本的な必要条件は、他の種類のアウェアネス、言い換えると他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)、意識を伴う思考や感情、情動などにもあてはまるようです。
 内面で生み出された思考と感情にこの原則を適用すると、非常に興味深い帰結を生みます。さまざまな思考、想像、態度、創造的なアイデア、問題の解決などは、初めは無意識に発達します。このような無意識の思考は、適切な脳の活動が十分な長さの時間継続したときだけ意識的なアウェアネスに到達するのです。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.124-125,下條信輔(訳))
(索引:意識を伴わない精神機能)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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28.言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらない非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。(カール・ポパー(1902-1994))

心身問題における言語の役割

【言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらない非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。(カール・ポパー(1902-1994))】

(4)追加記載

心身問題における言語の役割

言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

(1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
 世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
  言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
  言語を学習する能力
(2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
 世界2:個々の言語を実際に学習する過程
(3)人間の理性と人間の自由の創発
  思考は、言語で表現され外部の対象となることで、間主観的な批判に支えられた客観的な基準の世界3に属するようになる。(カール・ポパー(1902-1994))
 (a)思考はひとたび言語に定着させられると、われわれの外部の対象となる。
 (b)外部の対象となることで、間主観的に批判できるものとなる。
 (c)間主観的に批判できることで、客観的な基準の世界、すなわち世界3が出現してくる。
 (d)世界3に属することで、等値、導出可能性、矛盾といった論理的関係が意味を持つようになる。
 (e)客観的な基準の世界に対して、世界2は主観的な思考過程という位置づけが成立する。

(4)言語の機能
 言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらない非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。
 (4.1)表出機能
 (4.2)通信機能
 (4.3)記述機能:記述内容には、真・偽の区別がある。
 (4.4)論証機能:論証には、妥当かどうかの区別がある。
  (a)世界3の創造
   記述機能、論証機能によって世界3が創造された。
  (b)非遺伝的成長
   自然選択から、合理的批判にもとづく選択に依存して成長できるようになった。
  (c)人間の理性と人間の自由の創発

(5)言語は、以下に対して強いフィードバック効果を持っている。
 (a)自らの物質的環境への精通
 (b)他者との関係
 (c)自我、人格の形成
(6)すなわち、自我、人格とは、
 (a)能動的な学習と探究の成果の所産である。
 (b)世界3の所産である。
 (c)物質的環境との相互作用の所産である。
 (d)他者との相互作用の所産である。

 「人間は、《記述》機能と真理値をともない、また、《論証》機能と論証の妥当値をともなう人間の言語を創造したのであり、それによって、たんに表出機能と通信機能しかもっていない動物を超え出たのである。それとともに人間は、客観的な世界3を創造した。

世界3は、動物界にはかなりかすかな類事物しか見られない。そして、世界3とともに人間は、文明、学習、非遺伝的成長――つまり、遺伝子コードによって伝達されるのではない成長――からなる新世界を作り出した。

つまり、自然選択というよりも合理的批判にもとづく選択に依存して成長する新世界を作り出したのである。

 したがって、この第三の大きな奇蹟、つまり、人間の脳と人間の精神の創発、人間の理性と人間の自由の創発を説明しようとするならば、人間の言語と世界3の役割にこそ目が向けられるべきなのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた宇宙―非決定論の擁護』,付録1,人間の状況と自然界,p.159,岩波書店(1999),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:心身問題における言語の役割,言語,言語の記述機能,言語の論証機能)

開かれた宇宙―非決定論の擁護


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月2日木曜日

27.未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の自律性

【未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポパー(1902-1994))】

(7)への補足

世界3とは何か

(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(2)世界3の存在
(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる
(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
(7)世界3の自律性
 未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。

 「ほとんどの人は二元論者である。世界1と世界2の存在を信じることは、常識の重要な一部である。しかし、ほとんどの人にとって世界3の存在を受け容れることは容易ではない。

もちろん、そうした人でも、印刷された本とか、音声の言語的音響からなる世界1のまさに特殊な部分が存在することを認めるであろうし、また大脳過程や主観的な思考過程を認めるであろう。

しかし、彼らは、本を樹木のような他の物体から区別させるもの、あるいは、人間の言語を狼の遠吠えといった別種の音響から区別させるものがあるとすれば、それはつぎのような事実《でしかない》と主張するであろう。

すなわち、われわれはそれらを手がかりとして、ある種の特殊な世界2の経験、すなわち、まさにそうした本とかそうした言語的音響に相関する特殊な(おそらく大脳過程に平行する)思考過程をもつのだという事実である。

 この見解はまったく不十分であると思う。

わたくしは、世界3の自律的な部分の存在が認められるべきことを示したいと思う。それは、主観的あるいは個人的な《思考過程》からは《独立》しているとともに、明確に区別されるものでありながら、思考過程によって把握されるとともに、その把握に因果的に影響しうるような客観的な《思想内容》からなる部分のことである。

したがって、わたくしの主張はこうなる。まだ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、にもかかわらず、われわれの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。じっさい、それらはわれわれの思考過程に決定的に影響する。

 初等算術から例を挙げてみよう。自然数の無限系列、0、1、2、3、4、5、6、……は人間の考え出したものであり、人間精神の産物である。そのようなものとして、それは自律的《ではなく》、世界2の思考過程に依存していると言われるかもしれない。

ところで、偶数あるいは素数をとりあげてみよう。それらは、われわれによって考案されたものではなく、《発見》された、あるいは見出されたものである。われわれは、自然数列が偶数と奇数からなり、そしてそれについてなにを考えようが、思考過程は世界3のこの事実を変更できないということを《発見》する。

自然数列は、われわれが数えあげることを学んだ結果である――つまり、人間の言語の内部において考案されたものなのである。

しかしそこには、変更不可能な内的法則あるいは制約もしくは規則性が存在する。しかもそれらは、人間が作った自然数列からの《意図されなかった帰結》、つまり、人間精神のすばらしい産物からの意図されなかった帰結なのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた宇宙―非決定論の擁護』,付録1,世界3の実在と部分的自律性,pp.153-155,岩波書店(1999),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:世界3の自律性)

開かれた宇宙―非決定論の擁護


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年4月1日水曜日

26.最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))

記憶の種類

【最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))】
(1)保持時間に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (1.1)心理学
  感覚記憶、短期記憶(保持期間が数十秒程度)、長期記憶
 (1.2)臨床神経学
  即時記憶(情報の記銘後すぐに想起させるもの)
  近時記憶(情報の記銘と想起の間に干渉が介在される)
  遠隔記憶(臨床場面では個人の生活史(冠婚葬祭や旅行など)を尋ねることが多い)
(2)内容に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (2.1)陳述記憶(宣言的記憶)
  イメージや言語として意識上に内容を想起でき、その内容を陳述できる。
  (2.1.1)エピソード記憶
    個人が経験した出来事に関する記憶で、例えば、昨日の夕食をどこで誰と何を食べたか、というような記憶に相当する。
   (a)関連:「連続性形成記憶」。アンリ・ベルクソンの《純粋記憶》に関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録である。(カール・ポパー(1902-1994))

  (2.1.2)意味記憶
    知識に相当し、言語とその意味(概念)、知覚対象の意味や対象間の関係、社会的約束など、世の中に関する組織化された記憶である。
  (例) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習(カール・ポパー(1902-1994))
   生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》と、背景にある《何であるかの知識》とによって導かれる能動的探究
   (a)新しい推測、新しい理論の作成
   (b)その新しい推測や理論の批判とテスト
   (c)その推測の拒絶と、それがうまくいかないという事実の記録
   (d)もとの推測の修正や新しい推測を用いての(c)から(a)への過程の反復
   (e)新しい推測がうまくいくようだという発見
   (f)補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
   (g)その新しい推測の実際的で標準化された、反復的な使用

 (2.2)非陳述記憶(非宣言的記憶)
  意識上に内容を想起できない記憶で、言語などを介してその内容を陳述できない記憶である。
  (2.2.1)手続き記憶
   手続き記憶(運動技能、知覚技能、認知技能など・習慣)は、自転車に乗る方法やパズルの解き方などのように、同じ経験を反復することにより形成される。一般的に記憶が一旦形成されると自動的に機能し、長期間保たれるという特徴を持つ。
  (2.2.2)プライミング
   プライミングとは、以前の経験により、後に経験する対象の同定を促進(あるいは抑制)される現象を指し、直接プライミングと間接プライミングがある。
  (2.2.3)古典的条件付け
   古典的条件付けとは、梅干しを見ると唾液が出るなどのように、経験の繰り返しや訓練により本来は結びついていなかった刺激に対して、新しい反応(行動)が形成される現象をいう。
  (2.2.4)非連合学習
   非連合学習とは、一種類の刺激に関する学習であり、同じ刺激の反復によって反応が減弱したり(慣れ)、増強したり(感作)する現象である。

(3)獲得方法に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)生得的な記憶
  (a)遺伝子に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラム
  (b)生得的神経路の構造
  (c)機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは歩いたり話したりすることを学ぶためのさまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。
  (d)泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。
 (3.2)何らかの学習過程を通して獲得される記憶
  (a)無意識的で受動的な学習過程によって獲得される記憶
  (b)意識的で能動的な学習過程によって獲得される記憶
(4)想起の様相に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (4.1)能動的に随意に想起できる記憶
 (4.2)随意に想起できず、求められなくとも想起されてしまう記憶

 「関連した問題の一般的な展望を得るために、最も広い意味での《記憶》という語に含まれる現象を枚挙するのが有益であると思われる。

 磁化の《経験》に関しての鉄棒、または成長する結晶が示すような《断層》に関しての前有機的《記憶》から始めることもできよう。だが、このような前有機的効果の目録は長いわりに啓発的でない。

(1) 生物の最初の記憶に似た効果は、十中八九、遺伝子(DNAまたはたぶんRNA)に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラムの維持であることはほとんど間違いない。それは、とりわけ、記憶の誤りの出現(突然変異)と、そのような誤りが持続する傾向を示している。

(2) 生得的神経路は本能、行動の仕方、そして技能からなる一種の記憶を構成するようである。

(3) この構造的または解剖的エングラム(2)に加えて、機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは(歩いたり話したりすることを学ぶための)さまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。

(4) 泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。

(5) 何らかの学習過程を通して獲得される記憶
(5.1) 能動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に
(5.2) 受動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に

(6) 前述のものと部分的に結びつく、それ以上の区別
(6.1) 随意に思い起こせる
(6.2) 随意に思い起こせない(が、いわば、《期待波》(expectancy waves)として求められなくても起こる)
(6.3) 手の技能とその他の身体的技能(水泳、スキー)
(6.4) 言語で表現された理論
(6.5) 会話、語彙、詩の学習」(中略)


(7) 連続性形成記憶。これと関連して、いくつかの興味深い理論がある。それは、アンリ・ベルクソン〔1896〕、〔1911〕が(《習慣》と対立させて)《純粋記憶》と呼んだものと関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録だが、この記録は、ベルクソンによれば、大脳中に、つまりどのような物質中にも記憶されていない。それは純粋に精神的な実体として存在する。(大脳の機能は純粋記憶に対してフィルターとして働き、それがわれわれの注意に侵入しないようにする。)」(中略)

(8) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習の過程については、われわれは少なくとも次のような異なる段階を区別すべきであると思われる。
(8.1) 生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》(knowledge how)と、(背景にある)《何であるかの知識》(knowledge that)とによって導かれる能動的探究
(8.2) 新しい推測、新しい理論の作成
(8.3) その新しい推測や理論の批判とテスト
(8.4) その推測の拒絶と、それがうまくいかない(《そうではない》)という事実の記録
(8.5) もとの推測の修正や新しい推測を用いての(8.4)から(8.2)への過程の反復
(8.6) 新しい推測がうまくいくようだという発見
(8.7) 補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
(8.8) その新しい推測の実際的で標準化された使用(その採用)
 これらの段階の中で、(8.8)の過程のみが反復という性格をもつ、と私は思っている。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P4章 自我についてのいくつかの論評、41――記憶の種類(上)pp.213-216、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:記憶の種類)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年3月28日土曜日

「波束の収縮」に伴う問題は、状態を客観的な実在物と思うことから生じた擬似問題にすぎない。例えば、波束の収縮はいつ起こるのか、それは不連続な変化なのか、あるいは量子力学の中で記述可能なのか。(谷村省吾(1967-))

波束の収縮仮説について

【「波束の収縮」に伴う問題は、状態を客観的な実在物と思うことから生じた擬似問題にすぎない。例えば、波束の収縮はいつ起こるのか、それは不連続な変化なのか、あるいは量子力学の中で記述可能なのか。(谷村省吾(1967-))】
 「波束の収縮仮説は,「長さを測定して5 cm という値が出たのなら,少なくともその直後は,本当に対象系は5 cm になっているのだろう」という常識的信念をそのまま表しているが,いろいろなパラドクスの温床でもある。
 波束の収縮はいつ起こるのか?
 誰が観測したときに測定値が確定するのか?
 意識を持った人間が観測しないと波束の収縮は起きないのか?
 観測した途端に不連続な状態変化が起こるのか?
 この状態変化はシュレーディンガー方程式では表せないプロセスなのか?
といった,物理学の範疇に収まるかどうかもわからないような問いを波束の収縮仮説は呼び込む。私自身は,これらの奇妙な問いは,状態ベクトルというものを客観的な実在物と思うことから生じた擬似問題にすぎないと考えている[117](本当は問題ではないことを,言葉の意味の取り違えや思い込みのせいで問題視することを「擬似問題」(pseudo problem) という)。」
「多様化する不確定性関係 」谷村省吾 名古屋大学
(索引:波束の収縮仮説)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
TANIMURA Shogo@tani6s
谷村省吾(名古屋大学)
谷村省吾(researchmap)
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16.(仮説)ループ量子重力理論は、時空にも収縮の限界があり「点」まで縮むことはないと考える。その結果、ブラックホールは安定でなくなり反発することになる。その現象が高速電波バーストかもしれない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

高速電波バースト?

【(仮説)ループ量子重力理論は、時空にも収縮の限界があり「点」まで縮むことはないと考える。その結果、ブラックホールは安定でなくなり反発することになる。その現象が高速電波バーストかもしれない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】


【高速電波バースト】  「ループ量子重力理論の、ブラックホールへの適用の第二の例は、より劇的な内容を含んでいる。

ブラックホールのそばで崩壊した天体は、ブラックホールの内部に吸いこまれるため、外側からはその破片さえ見えなくなる。だが、ブラックホールの内部ではいったい何が起きているのか? もし、わたしたちがブラックホールのなかに落ちていったら、わたしたちには何が見えるのか?

 はじめのうちは、特別なことは何も起こらない。大した傷を負うこともなく、わたしたちはブラックホールの表面を通過する。ところがその後、ぐんぐん速度を増しながら、わたしたちはブラックホールの中心へ転落していく。それから先はどうなるのか? 

一般相対性理論の予見によれば、ブラックホールの中心ではすべてのものが限りなく圧縮され、限りなく小さな一点に押しつぶされる。だが繰り返すなら、これは量子重力理論を無視した場合の話しである。

 量子重力理論を考慮するなら、この予見は正しくない。

一般相対性理論の予見は、量子の反発を無視している。量子の反発とは、前章で解説した、ビッグバンのときに宇宙を跳ね返した力である。

量子重力理論を援用した場合、ブラックホールの中心に近づくにつれ、落下する事物は量子の反発力を受けて速度を落としていく。その際、落下する事物の密度は極限まで高まるものの、その数値はあくまで有限である。

ブラックホールの重力に押しつぶされた事物が、無限に小さな一点と化すことはない。なぜなら、事物の寸法には下限が存在するからである。

量子重力理論によれば、ブラックホールの中心では、事物を反発させる巨大な圧力が発生する。それは、崩壊する宇宙が反発して、膨張する宇宙へ移行するのとまったく同じ状況である。

 ブラックホールの内側から観測するなら、崩壊する天体の「反発」はすさまじい速度で展開するだろう。

しかし忘れてはならないのは、ブラックホールに近づけば近づくほど、外側の世界と比較して時間の流れが遅くなるという点である。外側から眺めれば、反発の過程が数十億年にわたり続く可能性もある。それだけの時間が経過してはじめて、わたしたちはブラックホールが爆発する現場を目撃できるだろう。要するに、ブラックホールとは、遠い未来への近道である。

 一般相対性理論によれば、ブラックホールは永続的な安定性を備えているはずだった。しかし量子重力理論は、ブラックホールが究極的には不安定な存在であることを示唆している。

 ブラックホールの爆発が観測されれば、理論の正しさが劇的に裏づけられるだろう。初期の宇宙で形成されたきわめて古いブラックホールなら、すでに爆発していてもおかしくない。

ごく最近の計算によると、ブラックホールが爆発した場合、電波望遠鏡の観測範囲に、爆発の事実を示す信号が送られてくるようである。

かねてよりささやかれているのは、電波天文学者によって観測された「高速電波バースト」と呼ばれる奇妙な電波こそ、原初のブラックホールが爆発した再に発せられた信号なのではないかという説である。

この仮説が証明されれば、それは間違いなくたいへんなニュースになる。なぜならわたしたちは、量子重力理論を裏づける事象から発せられた、直接的な信号を獲得したことになるのだから。今はただ、観測を待ち続けるしかない……」

(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第9章 実験による裏づけとは?、pp.224-226、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:高速電波バースト)

すごい物理学講義 (河出文庫)



カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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15.日常生活においては、従来のような空間と時間に対する理解の仕方で問題はないが、これはあくまでも近似値に過ぎない。この世界の客観的な在り方(実在性)を知るには、従来の仮定から自由になる必要があろう。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

空間と時間

【日常生活においては、従来のような空間と時間に対する理解の仕方で問題はないが、これはあくまでも近似値に過ぎない。この世界の客観的な在り方(実在性)を知るには、従来の仮定から自由になる必要があろう。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

 「ANSWER_3:
 ループ量子重力理論が示す結論は、時間や空間の性質に対してかなり過激です。量子論を深く考察すると従来の時間や空間の捉え方に従うことはできず、思考を完全に変える必要があります。例えば、ループ量子重力理論の基礎方程式には、時間がまったく存在しません。

 超ひも理論は、ここ数十年かなり注目されていましたが、期待されていた超対称性の発見に至っていないことで、多くの疑問を残しました。

個人的見解ですが、物理学における「万物の理論」を導くのに充分なほど、わたしたちはこの世界を理解できてはいません。このワード(万物の理論)はまだ謎に満ちており、それはそれで好ましいことでしょう。

 一方で、量子力学と一般相対性理論は、ミクロな時間や空間の“離散的”なふるまい方を説明するのに充分なほど信頼に足るもので、その点はすでに明白です。

 仰るとおり、わたしは時間や空間の制約から自由になろうとするのが人間の本質だと考えます。少なくとも、思考のなかにおいては、ですが。

そして従来のような空間や時間についての仮定を抜きに、「実在性(=客観的な物事の在り方)」を理解するべきでしょう。

もちろん、日常生活においては、従来のような空間と時間に対する理解の仕方でいても問題はありません。しかし、これらはあくまでも近似値にすぎないことを認識しておくべきです。」
“時間”の再解釈:天才カルロ・ロヴェッリが指南する“クオンタムネイティヴ”へのマインドセットwired.jp
(索引:空間と時間)

カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
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概念の世界は「先験的必然」でもなければ、論理的方法によって経験から導出し得るものでもなく、人間精神の一つの自由な創造物である。しかし、概念体系の妥当性の唯一の理由は、事実と経験による検証である。(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955))

人間精神の自由な創造物

【概念の世界は「先験的必然」でもなければ、論理的方法によって経験から導出し得るものでもなく、人間精神の一つの自由な創造物である。しかし、概念体系の妥当性の唯一の理由は、事実と経験による検証である。(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955))】
 「われわれの概念、および概念の体系が妥当であるという唯一の理由は、それらがわれわれの経験の集成を表現するのに役立つという点にある。これ以上には、概念や概念の体系は何らの妥当性を持ちえない。哲学者たちは、ある種の基本的な概念を、それを制御しうる経験領域から、“先験的必然”という捉え難い高所へ運ぶことによって、科学的思考の進歩に対して1つの有害な影響を与えたと私は信じる。なぜなら、概念の世界は、経験から論理的方法によっては導きえられず、ただ、ある意味で、人間精神――それなくして科学はありえない――の1つの創造物に過ぎないと思われるとしても、それにもかかわらず、この概念の世界は、ちょうど着物の形が人間の体の形をしているのと同様、われわれの経験の性質と密接な関係にある。このことは、とくにわれわれの空間と時間の概念に対してもほんとうであって、物理学者たちは、これらを修理し、ふたたび使用可能な状態におくために、これらを“先験的必然”の神殿からひきずり下ろすことを、事実によって余儀なくされてきたのである。」
(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)『相対論の意味』pp.12-13)
(索引:人間精神の自由な創造物)

相対論の意味 (岩波文庫)


アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)の命題集(Propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)
検索(アインシュタイン)

14.量子論は、ある事物と他の事物との間の、相互作用の結果情報をもとに、起こり得る有限個数の別の相互作用への推移を予測し、相互作用の結果から新たな情報を得る、と定式化することができる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

量子論と情報

【量子論は、ある事物と他の事物との間の、相互作用の結果情報をもとに、起こり得る有限個数の別の相互作用への推移を予測し、相互作用の結果から新たな情報を得る、と定式化することができる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

古典的な記述の例
(1)
 ある物理的な系A(対象系)
  Aは、b1 に存在する。
(2)
 ある物理的な系A(対象系)
  Aは、b2 に存在する。
(3)
 ある物理的な系A(対象系)
  Aは、b3 に存在する。

量子的な記述の例
 量子論は、実在する「事物」の状態の変化を記述しているのではなく、ある事物と他の事物の間のある相互作用から、起こり得る別の相互作用への推移の「過程」を記述する。相互作用の瞬間においてのみ「事物」の性質はあらわになる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
(1)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a1とは、情報(b.1)を表現している。
  (a.2)状態 a1は、未来におけるAとBの相互作用を予測する。
  (a.3)量子力学の粒性
   AとBの相互作用の結果、
   実現する可能性のあるBの結果 biの総数は、有限である。
   参考:ある現象のなかで実現する可能性のある、互いに区別可能な状態の総数は、有限個である。従って、その現象について私たちが所持していない情報の量も、有限である。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
  (a.4)不確定性
   Bからは、常に新しい情報 biを得ることが可能である。
   参考:量子的な事象とは、観測の対象となっている事象の総体(物理系)が、別の物理系との間に起こす、個別の相互作用のことである。相互作用の結果は確率的に厳密に予測できるが、どの結果が得られるかは不確定である。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t1において、
   AとBの相互作用の結果が、b1である。
  (b.2)これは、AとBが過去経験してきたあらゆる相互作用の最終結果である。
  (b.3)これは、未来におけるAとBの相互作用を予測可能にするための整理作業でもある。
(2)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a2とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t2において、
   AとBの相互作用の結果が、b2である。
(3)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a3とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t3において、
   AとBの相互作用の結果が、b3である。


 「わたしたちは量子力学の全体像を、情報という観点から次のように読み解くことができる。

ある物理的な系があらわになるのは、ほかの物理的な系と相互作用を起こしたときだけである。

したがって、ある物理的な系を記述するには、相互作用の片割れである別の物理的な系との比較が必須になる。

ある物理的な系の状態の描写とはつねに、その系が、別の物理的な系についてもっている「情報」の描写である。

言い換えるなら、系の状態の描写とは、ある系と別の系のあいだに認められる相関性の描写である。

このように、「ある物理的な系が持っている別の系の情報」として量子力学を解釈するなら、量子力学をおおっている神秘の霧はだいぶ薄まってくる。

 つまるところ、物理的な系の描写とは、「その系が過去に経験してきたあらゆる相互作用の要約」にほかならない。それはまた、「未来における相互作用がどんな効果をもちうるか」を予測できるようにするために、過去の相互作用を整理する作業でもある。

 このような考えにもとづくなら、次に掲げる二つの単純な公理さえあれば、量子力学を形づくる全体の枠組みを引き出せてしまう。
 公理1 あらゆる物理的な系において、有意な情報の量は有限である。
 公理2 ある物理的な系からは、つねに新しい情報を得ることが可能である。

 公理1にある「有意な情報」とは、どんな情報を指しているのか? それは、過去にわたしたちがある系と相互作用を起こした結果として、わたしたちがその系について所有することになった情報である。

その情報は、未来にわたしたちが同じ系と相互作用を起こしたとき、わたしたちがいかなる影響を被るか予見することを可能にする。

公理1は、量子力学の「粒性」を特徴づけている。これは、実現する可能性がある選択肢の総数は有限であるという公理である。

公理2は、量子力学の「不確実性」を特徴づけている。量子の世界では、つねに予見不可能な事態が発生するため、わたしたちはそこから新たな情報を引き出すことができる。

公理1が示すように、有意な情報の総量には限りがある。したがって、ある系に関する新しい情報を得たのであれば、その帰結として、それに先だつ情報の一部は「有意でない(つまりは無意味な)」情報に変化するはずである。

無意味になった情報はもはや、未来の予見に何の影響も与えない。つまり、量子力学の世界においては、ある系と相互作用を与え合うとき、わたしたちは何かを得るばかりでなく、同時に、その系に関する情報の一部を「消去」してもいる。

 量子力学の数学的な全体構造の大枠は、この二つの公理から導き出せる。情報は、量子力学を表現するのに驚くほど適した概念である。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第12章 情報――熱、時間、関係の網、pp.243-245、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:量子論と情報)

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2020年3月27日金曜日

13.量子論は、実在する「事物」の状態の変化を記述しているのではなく、ある事物と他の事物の間のある相互作用から、起こり得る別の相互作用への推移の「過程」を記述する。相互作用の瞬間においてのみ「事物」の性質はあらわになる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

現実とは関係である

【量子論は、実在する「事物」の状態の変化を記述しているのではなく、ある事物と他の事物の間のある相互作用から、起こり得る別の相互作用への推移の「過程」を記述する。相互作用の瞬間においてのみ「事物」の性質はあらわになる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

【現実とは関係である】
「世界の本質について量子力学が伝えている三つの側面のうち、第三の側面はもっとも深遠で、もっとも難解な内容を含んでいる。古代の原子論も、この発見にはまったく手をつけていない。

 量子論は、事物が「どのようであるか」ではなく、事物が「どのように起こり、どのように影響を与え合うか」を描写する。

一例を挙げるなら、粒子が「どこにあるか」ではなく、粒子が「(次に)どこに現われるか」を描写するわけである。

実在する事物から成り立つ世界は、起こりうる相互作用から成り立つ世界に変換される。現実は相互作用に姿を変え、そして、現実は関係に姿を変える。」(中略)

「相関性。自然界のあらゆる事象は相互作用である。ある系における全事象は、別の系との関係のもとに発生する。

 量子力学は、あれやこれやの状態にある「事物」ではなく、「過程」をとおして世界について考えるよう私たちに教えている。

過程とは、ある相互作用から別の相互作用への推移を指す。相互作用の瞬間においてのみ、つまり過程の末端においてのみ、「事物」の性質はあらわになる。そして、事物が性質を帯びるのは、ほかの事物との「関係」を考慮したときだけである。

しかも、その性質は一意的には予見できない。私たちはあくまで、確率にもとづく予測を立てるしかない。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第2部 革命の始まり、第4章 量子――複雑奇怪な現実の幕開け、pp.134-136、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:現実とは関係である)

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12.量子的な事象とは、観測の対象となっている事象の総体(物理系)が、別の物理系との間に起こす、個別の相互作用のことである。相互作用の結果は確率的に厳密に予測できるが、どの結果が得られるかは不確定である。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

不確定性

【量子的な事象とは、観測の対象となっている事象の総体(物理系)が、別の物理系との間に起こす、個別の相互作用のことである。相互作用の結果は確率的に厳密に予測できるが、どの結果が得られるかは不確定である。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

【不確定性】
「この世界は、粒状の量子が間断なく引き起こす事象によって形つくられている。これらの事象は離散的であり、粒状であり、それぞれたがいに独立している。

量子的な事象とは、ある物理的な「系(観測の対象となっている事象の総体)」が、別の物理的な「系」とのあいだに起こす、個別の相互作用のことである。

電子や、光子や、そのほかの場の量子は、空間のなかで継続的な道筋を進むのではなく、別のなにかと衝突したときにだけ、特定の場所に突如として出現する。

量子たちは、いつ、どこに現われるのか? それを確実に予見する方法はない。量子力学は、世界の核心に、根源的な不確定性を導入した。未来は誰にも予見できない。これが量子力学によってもたらされた第二の重要な教えである。」(中略)

「では、Aという出発地点にいる一個の電子が、しばらくあとでBという終着地点に現われる確率は、どのように計算したらよいのだろうか?

 一九五〇年代、第一章で名前を挙げたリチャード・ファインマンが、この計算を行うためのきわめて効果的な方法を発見している。ファインマンの方法は、A点とB点をつなぐ「あらゆる」経路を、つまり、電子が取りうるあらゆる道筋(まっすぐだったり、曲がっていたり、ジグザグだったり……)を考慮に入れる。

まずは、それぞれの経路について計算を行い、その経路の数値を導き出す。そして、確率を導き出すために、これらの数値をすべて足し合わせる。

ここで重要なのは、この計算の詳しい仕組みを理解することではない。私たちが着目すべきは、AからBへ移動するのに、電子があたかも「取りうるあらゆる経路を」通過したかのように見えるという点である。

確率の雲のなかに飛びこんでいった電子は、ふと気がつけばB点に移動していて、ふたたび別の何物かと衝突している。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第2部 革命の始まり、第4章 量子――複雑奇怪な現実の幕開け、pp.131-133、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:不確定性)

すごい物理学講義 (河出文庫)



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11.ある現象のなかで実現する可能性のある、互いに区別可能な状態の総数は、有限個である。従って、その現象について私たちが所持していない情報の量も、有限である。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

情報は有限である

【ある現象のなかで実現する可能性のある、互いに区別可能な状態の総数は、有限個である。従って、その現象について私たちが所持していない情報の量も、有限である。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
【情報は有限である】

「ここで、ひとつ想像してみてほしい。あなたは、ある物理現象の計測を行い、その現象がどのような状態にあるかを突きとめようとしている。

たとえば、振り子の振り幅を計測して、五センチと六センチのあいだであることが分かったとしよう(物理学ではどんな計測も、完璧に正確であるということはありえない)。

量子力学が確立される以前は、五センチと六センチのあいだに、振り幅が取りうる値は無限に存在していた(たとえば、5.1センチであったり、5.101センチであったり、5.101001センチであったり……)。したがって、振り子の動きには「無限」の可能性が存在することになる。振り子に関するわたしたちの無知もまた、文字通り「無限」の状態にあるわけである。

 一方で、量子力学はわたしたちにこう教えている。五センチと六センチのあいだで、振り幅が取りうる値の数は「有限」である。だから、振り子についてわたしたちが所持していない情報の量もまた、「有限」であるといえる。

 この議論はあらゆる文脈に適用できる。つまり、量子力学の第一の重要な意義は、ある現象のうちに存在する「情報」の総量に限界を設けたことにある。

ここでいう「情報」とは、「ある現象のなかで生じうる、たがいに区別可能な状態」を指している。

自然の奥底に潜む粒性が、「無限」にたいして「限界」を設定する。デモクリトスが洞察したこの粒性こそ、量子論を支える第一の側面である。

このような粒性があらわになる極小のスケールは、プランク定数hによって規定されている。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第2部 革命の始まり、第4章 量子――複雑奇怪な現実の幕開け、pp.130-131、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:情報は有限である)

すごい物理学講義 (河出文庫)



カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
カルロ・ロヴェッリの関連書籍(amazon)
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どんな精緻な物理理論であっても、最終的にはその確実さの根拠をわれわれの五感の確実さに頼っている。認識論的に微妙な問題は、五感の確実さ(、言語、論理、数学の基礎と限界)を問うところまで必要になろう。(伊勢田哲治(1968-))

認識論

【どんな精緻な物理理論であっても、最終的にはその確実さの根拠をわれわれの五感の確実さに頼っている。認識論的に微妙な問題は、五感の確実さ(、言語、論理、数学の基礎と限界)を問うところまで必要になろう。(伊勢田哲治(1968-))】
 「哲学的な認識論では、われわれは五感を通してしか世界について知ることができず(五感に加えて「理性」やら「直観」やらが世界についての知識を与えるかという問題はもちろんあるがそれをとりあえずおくならば)、五感を通して見えるもの(現象)からどうやってその背後の世界についての知識を得るのか、われわれはどうやって世界について知っていると言いうるのかが問題となってきた。デカルトのデーモンはまさにそうした問題構成になっている(われわれが五感を通して得る情報がすべてデーモンの与える幻覚のようなものかもしれないという可能性をわれわれは排除できるのか)。
 この伝統的な認識論の観点からいえば、どんなによく検証された科学理論も、最終的にはその確実さの根拠をわれわれの五感の確実さに頼っている(実験そのものは精巧な実験装置で行われるにしても、その結果をわれわれが取り入れて理論の取捨選択に用いるためにはどこかで五感を経由する必要がある)。こうした伝統的な認識論の枠組みで考える者にとっては、物理理論は五感を通してわれわれが得た情報に基づいて受容された二次的な存在だという感覚があると思われる。すると、物理理論の教えるところと五感から得られる情報が食い違っても、どちらも究極的には五感に依拠しているわけだからどちらを採用するかはまた別の問題、というようなスタンスも出てくるだろう。」
伊勢田哲治(1968-)『〈現在〉という謎』の感想伊勢田哲治のウェブサイト
(索引:認識論)

(出典:中公新書
伊勢田哲治(1968-)(Collection of propositions of great philosophers)
伊勢田哲治(1968-)
伊勢田哲治@tiseda
Daily Life
伊勢田哲治のウェブサイト

因果的な影響を及ぼしうる順に並んだ時空内の3つの出来事A、B、Cがあるとして、現在がAなのでBは未確定、現在がCなのでBは確定と言いうるような「現在」があれば、この現在は世界において「特権的な現在」であると思われる。(伊勢田哲治(1968-))

特権的な現在

【因果的な影響を及ぼしうる順に並んだ時空内の3つの出来事A、B、Cがあるとして、現在がAなのでBは未確定、現在がCなのでBは確定と言いうるような「現在」があれば、この現在は世界において「特権的な現在」であると思われる。(伊勢田哲治(1968-))】
 「谷村さんの言い方の中には、実際永久主義に同意していないように聞こえる箇所もある。たとえば、谷村さんは「現象は、いつどの段階で取り消し不可能な事象として確定するのか」(p.26)という問いをたて、暫定的な答えとして、「不確定な量子システムが、古典的システムすなわち古典的測定器と接触して、不可逆に痕跡・記録を残すことによって、現象はじわじわと既定事項になっていくのかもしれない」(p.27)とのべる。別の箇所では谷村さんは「未来の出来事は確定せず」(p.41)といった言い方もしている。
 この「じわじわと既定事項になっていく」という言い方は、「変化」というものがあることを前提としたものいいに聞こえる。「さっき」が「現在」だったときには未確定だったけれども、「いま」の「現在」においては確定している、というように変化をとらえる場合、この「現在」がどのようにかして時間軸上を動いているわけで、この動いている「現在」こそが特権的な現在(この本の表記法では〈現在〉)だということになる。「未来の出来事は確定せず」というのも、もしこの世界についての客観的な主張であるとするならば(つまり、これがある時点における観察者の無知についての主張でないのなら)特権的な現在を前提とする。未来の時点t2のことが確定していないというのはあくまでそれよりも過去にある時点t1の視点から言えることであって、t2よりもあとのt3の時点からはt2の出来事は確定しているはずである。したがってこの世界においてt2で何が起きるかが「まだ確定していない」という主張が(t1におけるローカルな無知としてでなく、世界についての事実として)客観的なものとして成り立つのなら、それはt3よりもt1の視点の方が何らかの意味で優位であるということを含意する。
 他方、永久主義の観点からいえば、ある時空点において「現象が確定していない」という状況が成り立ち、その近傍の別の時空点で「現象が確定している」という状況が成り立っていて、両者が並んでいるという以上のことではない。道路沿いにラーメン屋とカレー屋が並んでいても「ラーメン屋がカレー屋に変化した」と言わないのと同じことで、時間軸沿いに「確定していない状態」と「確定している状態」が並んでいても、(永久主義的な観点からは)「確定していない状態が確定している状態に変化した」と言うのは不適切である。t1とt2の関係についても、空間との比喩でいえば、地点p1から見通せない地点p2に何があるかp1から見てわからなくても、「p2に何があるかは確定していない」という言い方は(われわれの無知についての主張としてでなければ)しないだろう。」
伊勢田哲治(1968-)『〈現在〉という謎』の感想伊勢田哲治のウェブサイト
(索引:特権的な現在)

(出典:中公新書
伊勢田哲治(1968-)(Collection of propositions of great philosophers)
伊勢田哲治(1968-)
伊勢田哲治@tiseda
Daily Life
伊勢田哲治のウェブサイト

仮に物理理論に絶対的現在があらわれる可能性があるとしたら、「未来が開いている」ことが物理理論によって保証される場合だけであると思われる。(森田邦久(1971-))

絶対的現在

【仮に物理理論に絶対的現在があらわれる可能性があるとしたら、「未来が開いている」ことが物理理論によって保証される場合だけであると思われる。(森田邦久(1971-))】
 「仮に物理理論に絶対的現在があらわれる可能性があるとしたら、「未来が開いている」ことが物理理論によって保証される場合だけであると私は思う(以下は哲学者一般の意見ではない)。ここで「未来が開いている」とは、現時点(これを時点 t1 とおこう)で、未来(それを時点 t2 とおこう)におけるある物理量 Q の測定値を(確率 1 で)予言もできないし、なおかつ、その Q の t2 での値が t1 では不確定である場合である(原理的に予言ができなくても値が確定していることは考えうる)。量子力学で言えば、たとえ ば、t1 の時点で t2 における Q の波動関数が固有関数ではない時に、その波動関数が(私たちの認識状態ではなく)系の物理状態を完全に記述していると考えるならば、「未来が開いている」ということになるだろう(念のため付け加えておくが、私は量子力学をこういう風に解釈できないと思っている。いま「未来が開いている」という概念の説明のために便宜的にこのような例を出しているので、ここをいちいち突っ込まないでほしい)。そうすると、物理理論により、測定前が現在なのか、測定時が現在なのかによって「世界が異なる」ことが保証される。言い換えると、t2 が現在であるか未来であるかで世界が異なる(t2 における Q の値が確定しているか否か)のだから、過去・現在・未来の間に重要な差異があり、それゆえ、現在は特別な点である。したがって、「絶対的現在」が存在することになるだろう。だが、谷村氏の例では、どこを現在に定めても世界には何の影響もない。これらのことは拙論での絶対的現在の説明で尽くされていると私は思うが、人は自分の聞いたことない・考えたことのない概念を理解するのに時間がかかる。この説明でもまだ谷村氏は「いったい何を言っているんだ?」と納得していないかもしれない。」
谷村ノートへのリプライ大阪大学・科学哲学研究室
(索引:絶対的現在)

(出典:researchmap.jp
森田邦久(1971-)(Collection of propositions of great philosophers)
森田邦久(1971-)
森田邦久(researchmap)
大阪大学 科学哲学研究室
検索(森田邦久)

2020年3月24日火曜日

4次元構造には“いま”を客観的に表す切断はもはや存在しないから、物理的実在は、3次元的存在の生成と考える代わりに、時空の4次元的存在として考えるほうが「ずっと自然であると思われる」。(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955))

時空の4次元的存在

【4次元構造には“いま”を客観的に表す切断はもはや存在しないから、物理的実在は、3次元的存在の生成と考える代わりに、時空の4次元的存在として考えるほうが「ずっと自然であると思われる」。(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955))】

 「古典力学におけるようにまたここでも、空間は物理的実在を表現する独立成分である。

(慣性)空間――またはもっと正確にいえば、その一部をなす時間こみの空間――は、物質と場が除かれたと考えられる場合でもそのあとに残っているのである。この四次元構造(ミンコフスキー空間)は物質と場のにない手と考えられる。

慣性空間はそれに付属する時間とともに、線形なローレンツ変換によって相互に結びつくように、四次元基準系のうちでも特に選ばれたものである。

この四次元構造には“いま”を客観的に表す切断はもはや存在しないから、生起とか生成という概念は、確かにまったく棚上げされたわけではないが、面倒にはなっている。

それゆえ物理的実在を、これまでのように三次元的存在の生成として考えるかわりに、四次元的存在として考えるほうがずっと自然であると思われる。

 特殊相対性理論のこのような静止四次元空間は、H・A・ローレンツの静止三次元エーテルのいわば四次元類似体である。

この理論についてもまた、つぎの言明――すなわち、空間が前から与えられていて、独立に存在しているものであることを、物理的状態の記述においては前提にしている――があてはまる。

したがってこの特殊相対性理論もまた、“空虚な空間”という、自立した、まさにア・プリオリな存在にまつわるデカルトの不安を除いていない。この疑念が一般相対性理論によってどこまで克服できるかを示すことが、ここで初歩的な検討をしてきた本来の目的なのである。」

(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)A.Einstein著(金子努訳)「わが相対性理論」白揚社(1973年刊)FNの高校物理(分野別目次)
(索引:4次元的存在)

アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)の命題集(Propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)
検索(アインシュタイン)

特殊相対論では、ある慣性系における「現在」と同時刻の時空領域と、この慣性系に対して運動している他の慣性系における「現在」と同時刻の時空領域とは異なり、全ての慣性系にとって同時刻の領域は定められない。(谷村省吾(1967-))

相対論

【特殊相対論では、ある慣性系における「現在」と同時刻の時空領域と、この慣性系に対して運動している他の慣性系における「現在」と同時刻の時空領域とは異なり、全ての慣性系にとって同時刻の領域は定められない。(谷村省吾(1967-))】
 「念のために述べると、特殊相対性原理は「物理法則はすべての慣性系で同型である」という命題であり、平たく言うと、物理的な方法によって絶対的な静止系や絶対的な速度は定められないという主張である。これと、光速度(別に光でなくてもよい)不変の原理から、光学的同時性は絶対的ではないことと、その他にどんな方法で同時性を定めても物理的に確認可能な絶対的同時性は定められないことが演繹される。対偶として、絶対的な同時性が物理的に定められれば、相対性原理か光速度不変の原理の少なくとも一方が誤りであることになる。
 ここで何が《問題》なのか見失われそうになっているが、この文脈(第7 節『相対論を無視してよいのか』同p.186)で私は《現在主義も成長ブロック宇宙説も動くスポットライト説も(くわしくは述べないが、枝分かれモデルも)相対論に反しており、客観的な現在の定義に失敗している》と述べていることが問題の発端である。現在主義にせよ、成長ブロック宇宙説にせよ、どういう方法で同時性を定めるのか森田論文には書かれていないので私にはわからないが、現在主義も成長ブロック宇宙説も絶対的で客観的な〈現在〉の存在を含意しているようにしか見えないけれども、絶対的で客観的な〈現在〉が定められると考えているのなら、相対論に反しますよと私は言っているつもりである。これが私の指摘している問題であることを見失わないでほしい。」
(第3章 森田論文への谷村再コメント 谷村省吾(1967-)一物理学者が観た哲学 Philosophy observed by a physicist』<谷村省吾
(索引:相対性理論)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
TANIMURA Shogo@tani6s
谷村省吾(名古屋大学)
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(a)状態には,確定した物理量の値があるとは限らない(不確定性)だけでなく,(b)そもそも値が実在せず(値の非実在性),(c)測定に依存する(文脈依存性)。(d)測定は対象を撹乱し,(e)測定の精度や,(f)期待値の推定にも原理的な限界がある。(谷村省吾(1967-))

多様化する不確定性関係

【(a)状態には,確定した物理量の値があるとは限らない(不確定性)だけでなく,(b)そもそも値が実在せず(値の非実在性),(c)測定に依存する(文脈依存性)。(d)測定は対象を撹乱し,(e)測定の精度や,(f)期待値の推定にも原理的な限界がある。(谷村省吾(1967-))】

様々な不確定性関係の表現
(a)値の不確定性
 一つの系の二つの非可換物理量の値が確定した状態は、一般には存在しない。
(b)値の非実在性
 物理量の値がたんに確定しないというだけでなく、そもそも測定していないときに物理量の値が実在すると思ってはいけない。
(c)文脈依存性
 何を測定するかという文脈ごとに、何の実在を認めるのか使い分けて考えなければならない。
(d)測定の誤差と擾乱の関係
 一つの系のある物理量を正確に測ることが、その系の他の物理量の値を制御不能なやり方で乱してしまう。
(e)測定の誤差同士の関係
 測定器を使って二つの非可換物理量を同時に正確に測ろうとするとき、精度には限界がある。
(f)量子系の物理量の期待値の推定
 測定データから求めた推定値には、真の期待値との間に不一致がある。

 「ケナード・ロバートソン流の不確定性関係は,一つの系の二つの非可換物理量の値が確定した状態は一般には存在しないことを意味する。エントロピー不確定性関係も,基本的には同じ内容である。もう少し正確に言うと,二つの非可換物理量 A, B について,一方で A = aであるような状態があり,他方,B = b であるような状態があったとしても,a; b の値しだいで「 A = aかつ B = b であるような同時確定状態」は存在しないことがある。また,同一の状態に関して A = aとなる確率を測定することができるし,それとは別に B = b となる確率も測定することができるが,「 A = aかつ B = b となる確率(数学では同時確率とか結合確率という)」を非負実数として定義できないことがある(ただし,このような場合,物理量 Aと B の値を一斉に測ることはできないようになっており,同時確率が存在しないからといって,矛盾をきたすことはない)。
 この路線をさらに突き詰めると,二つ以上の物理量の値が同時に実在すると思ってはいけない例を量子論の枠組み内で示すことができる。そのような極端な例が(本稿では紹介しなかったが),コッヘン・スペッカーの定理であり[33, 69],ベル不等式の破れである[29, 65, 97, 116]。これらは物理量の値がたんに確定しない(不確定性)というだけでなく,そもそも測定していないときに物理量の値が実在すると思ってはいけない(非実在性),とか,何を測定するかという文脈ごとに何の実在を認めるのか使い分けて考えなければならない(文脈依存性)といったことを含意しており,不確定性関係をさらに掘り下げた意味内容を持っている[98]。また,もともとハイゼンベルクが意図し,小澤が定式化した不確定性関係は,一つの系のある物理量を正確に測ることがその系の他の物理量の値を制御不能なやり方で乱してしまうことを意味する。
 アーサーズ・ケリー・グッドマン流の不確定性関係は,誤差と擾乱の関係ではなく,誤差同士の関係であるが,ミクロ系単独の性質ではなく,測定器を使って二つの非可換物理量を同時に正確に測ろうとするときの精度の限界を表している。
 渡辺らの不確定性関係は,小澤が扱った問題とは少し設定が違っている。渡辺らが扱っているのは,量子系の物理量の期待値(平均値)を推定しようという状況である。測定器を有限回使う限り,測定値には統計的ばらつきがあり,測定値の平均値を求めても,物理量の真の期待値とは一致しないことがある。測定データから求めた推定値と真の期待値との不一致の程度に関する関係式が,渡辺の不確定性不等式である。
 それぞれに性格の異なる不確定性関係ではあるが,いずれにしても古典力学の客観的・決定論的物理観を否定する内容を持っている。ニュートン力学に代表される古典物理学では,我々は外的観測者として,対象系の状態を乱すことなく,対象の物理量の値をいくらでも高い精度で観測できると想定されている。そのような物理観をここでは客観的と呼んでいる。さらに,古典力学は,ある時刻における対象系の状態を正確に知りさえすれば,系の未来は一意的に予測・決定できるような仕組みになっている。そのような物理観を決定論的と呼んでいる。
 ところが,量子力学の不確定性関係は,ミクロの系の状態に不測の変動を与えることなしにミクロ系の物理量の値を正確に知ることは不可能であり,結果的に未来の確実な予測も不可能だということを意味し,客観的・決定論的物理観を打ち砕く。これが不確定性関係の最も強力なインパクトであろう。
 ただし,量子論の確率解釈を認めるならば,量子力学は,未来に各事象が起こる確率は正確に予測できる仕組みになっている。100 パーセント確実に何が起こるという断言は,量子力学では,一般にはできない。」
「多様化する不確定性関係 」谷村省吾 名古屋大学
(索引:多様化する不確定性関係,不確定性関係)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
TANIMURA Shogo@tani6s
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2020年3月20日金曜日

時間は、観測者や時計や座標系が定義する古典的パラメータであって、系に固有の物理量ではない。(谷村省吾(1967-))

時間とは何か

【時間は、観測者や時計や座標系が定義する古典的パラメータであって、系に固有の物理量ではない。(谷村省吾(1967-))】
 「時間は観測者や時計や座標系が定義するものであって,系に固有の物理量ではない.
 時間が各物理系に属する物理量だと考えると,いろいろ無理が生じる.例えば,1個のミューオンを生成して,しばらく経った後にそのミューオンを見せられたとして,「このミューオンのエネルギーを測れ」と言われれば何らかの測りようがあるが,「このミューオンの生存時間(生まれてからどれだけの時間が経過したか)を測定しろ」と言われても測りようがない.ミューオンの生存時間は,ミューオンを生成した時刻と,ミューオンの崩壊を観測した時刻の差で定義されるものであり,観測者の時計で定義されるものである.時間の経過につれて単調増加あるいは単調減少するような量を一つ一つのミューオンが持っているとは思え ないし,そのようにミューオンに付随する量を実験者が測って時刻を決定しているわけでもない.
 また,複数の同種粒子を異なる時刻に生成したとして,各粒子の生存時間の経過に伴って値が変化する物理量を各粒子が持っていたとしたら,同種粒子を区別できる(新しい粒子と古い粒子を区別できる)ことになってしまう.しかし,現実はそうはなっていない.
 また,もしも時間が演算子で表されたとしても,時間の固有状態とか,時間の重ね合わせ状態といったものが,物理的に何を表しているのかわからない.
 普通に考えれば,時間は観測者に属する古典的パラメータである.時計という標準的な力学系の往復・繰り返し運動によってカウントされ,一般の物理系の運動を記述するために参照されるパラメータが時間である,というのがいまのところ物理学者に定着している時間観であろう.」
「時間とエネルギーの不確定性関係――腑に落ちない関係」谷村省吾 名古屋大学
(索引:時間とは何か)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
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2020年3月19日木曜日

幾何学は、座標系によらない不変な性質や不変な関係を取り出そうとする。そこで、物理学が観測者ごとに違って見えるさまざまな現象を、普遍的法則によって捉えようとするとき、幾何学が有効になるのである。(谷村省吾(1967-))

物理学と幾何学

【幾何学は、座標系によらない不変な性質や不変な関係を取り出そうとする。そこで、物理学が観測者ごとに違って見えるさまざまな現象を、普遍的法則によって捉えようとするとき、幾何学が有効になるのである。(谷村省吾(1967-))】
 「本特集のタイトル「幾何学的物理観」を見ているうちにメラメラと燃える想いがこみ上げてきた.私が熱い想いを込めて提起したいのは「なぜ物理に幾何学が必要なのだろう?なぜ物理に幾何学はこうも有効なのだろう?」という問いである.
 この問いにはこう答えられる.結局,物理学は,観測者ごとに違って見えるさまざまな現象を,普遍的法則によって捉えようとする試みである.一方,幾何学は,座標系の採り方によって見かけが変わる図形から,座標系によらない不変な性質や不変な関係を取り出そうとする数学である.したがって幾何学が物理学を語るのに適切な言語になるのは,当然のなりゆきなのである.」
「座標系によらない量子力学,多様体上の量子力学」谷村省吾 名古屋大学
(索引:物理学と幾何学)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
TANIMURA Shogo@tani6s
谷村省吾(名古屋大学)
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原因が先に起こり結果はその後で起こるという原理(因果律)と、ある場所で起きる出来事は、遠く離れた別の場所で起きる出来事に瞬時に影響を与えることはないという原理(局所性)に反する現象は、見つかっていない。(谷村省吾(1967-))

因果律と局所性

【原因が先に起こり結果はその後で起こるという原理(因果律)と、ある場所で起きる出来事は、遠く離れた別の場所で起きる出来事に瞬時に影響を与えることはないという原理(局所性)に反する現象は、見つかっていない。(谷村省吾(1967-))】
 「局所性とは【ある場所で起きる出来事は,遠く離れた別の場所で起きる出来事に瞬時に影響を与えることはない(本誌 p.39)】という,自然現象なら当然そうなっていると思われる性質のことをいう。ただ,そもそも影響とは何か?と問い質すと,なかなか厄介ことになるので,そこは常識的な意味で捉えておいてほしい。
 因果律とは【原因が先に起こり結果はその後で起こる(本誌 p.40)】,時間を遡って未来から過去に影響が及ぶことはない,という法則である。ここでも,そもそも原因とは何か?結果とは何か?影響とは何か?過去と未来とは何か?と疑い出すと,因果律の明瞭な定義を与えるのはじつは難問であり,哲学の問題としても物理学の問題としてもいまだに議論は決着していない,と私は思う。しかし,ここでは原因・結果などの定義は問い質さないでおこう。」
(中略)
「本誌記事では,マクロ古典物理の常識である実在概念・局所性・因果律を前提としてベル不等式を導いた。そして,実験ではベル不等式が破れていることが判明したので,実在概念・局所性・因果律のどれかは実際には成り立っていないはずだと指摘し,とくに実在概念を疑い,物理量の値の実在性を放棄しなければならないと結論した。さらに,量子論では物理量の掛け算は非可換であり,物理量の値がなくても正しい計算ができることを示した。しかし,これらの検討の過程で(本誌 p.41~43)局所性と因果律はあまりしつこく疑わなかった。局所性と因果律を許容して,実在性だけを疑うのはなぜか?という疑問を持たれるのも当 然だと思うので,その点について説明を補っておく。
局所性と因果律に関して次のような事実が知られている:
 1) 局所性と因果律はマクロな古典世界で何度も確かめられている常識である。
 2) ミクロ世界の物理法則である相対論的場の量子論は局所性と因果律を尊重するようにできている。
 3) その理論が合わない現象はない。
 4) 超光速粒子(もしあれば局所性と因果律を破る)は実験家たちが探しているけれども一度も見つかっていない。
 以上のような理由から局所性と因果律はおいそれと放棄するわけにはいかないのである。それに比して,「測定しなかった物理量が,測定したときと同様に測定値を持っている」という実在概念は,古典物理の世界では一度も確かめられていない信念である。字句意義からして,「測らなかった値が,測った値に等しいかどうか」は確かめようがない。だからこそ実在概念が疑われるのである。
 ベルの不等式とクラウザーたちの思考実験とアスペの実験の驚くべきところは,局所性と因果律が正しいと仮定した上で「測らなかった値が,測ったときと同じように実在しているか」という,肯定も否定もできなさそうな問いを物理実験でテスト可能にしたところにある。しかもアスペ実験は明確に否定的な答えを出した。
 局所性や因果律が成り立たない世界を想定すると,我々が住み慣れた世界とはかなり異なった世界になる。そのような理論を作ってもよいが,「何でもありな理論」になりがちだ。そのような理論はアスペ実験を説明できるかもしれないが,いままでに実現したことがない奇妙な現象(テレパシーや過去への通信など)も起こってよいという予測を与えてしまう。」
『「揺らぐ境界? 非実在が動かす実在」を読んでいろいろ疑問が湧いた人のための補足谷村省吾 名古屋大学
(索引:因果律,局所性)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
TANIMURA Shogo@tani6s
谷村省吾(名古屋大学)
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検索(谷村省吾)

観測しなくても物理量の値があるという仮定(値の実在論)と局所性と因果律を合わせた理論はベルの不等式を導く。一方で,量子論はベルの不等式の破れを予測し、実験で破れが確認された。局所性と因果律が間違っているとは考えにくいので、値の実在論は誤りである。(谷村省吾(1967-))

値の実在論

【観測しなくても物理量の値があるという仮定(値の実在論)と局所性と因果律を合わせた理論はベルの不等式を導く。一方で,量子論はベルの不等式の破れを予測し、実験で破れが確認された。局所性と因果律が間違っているとは考えにくいので、値の実在論は誤りである。(谷村省吾(1967-))】
 「言葉使いに関する注意だが,科学哲学 [20, 21] で言う実在論(科学的実在論)と,いま問題にしている実在論は,ややニュアンスが異なる。私もよくわかっているわけではないので,哲学的用語解説への深入りは避けたいが,簡単に述べておこう。
 物理学では,電磁場やゲージ場や電子やニュートリノやエントロピーやブラックホールや非可換物理量やヒルベルト空間やラグランジアンのような,人間が直接見たり触れたりできないものを想定することがあるが,たとえ目に見えなくても,またそのようなものを想定する物理理論がなくても,それらが現に存在していると信じる立場を科学的実在論という。
 これに対して,電子のような抽象概念が理論上便利であることは認めるが,文字通りにそのような「もの」があると信じることを保留する立場を反実在論という。ただし,反実在論者と言えども,観測不可能な概念を想定している科学が間違っていると主張しているわけではない。「電子という概念を使うと便利なことは私も知っているが,そのことが電子の存在を信じる根拠になるわけではない。私は,電子がこの世にあるとかないとか,私の目や耳で確かめようのないことは言わない」という立場が,科学哲学でいう反実在論である。反実在論は,控え目で慎重な立場とも言えるが,自分の感覚だけを信じて,ハイテクの観測手段はあてにしないという,わざとらしいアナクロ立論のようにも思える。一方で,物理学者は,例えば机の実在性と電子の実在性とエントロピーの実在性とが同レベルで語られるものではないことをよく知っており,それらを「実在」の一言で表そうとする方に無理があることを心得ている。結局のところ,科学的実在論 vs. 反実在論の哲学論争は,本来多義的であるはずの「実在」という言葉に一義的な定義を押し付けようとして空しい努力を続けているように私には思える。
 本記事で問題にしている実在論は,我々が観測できるものは,適当な条件が満たされれば(単純に言えば,何度観測しても誰が観測しても同じ結果になることを確認する),観測していないときも観測したとおりに存在している,と信ずる立場のことである。とりわけ,いま問題にしているのは,物理量の値の実在性である。例えば,体重は物理量であり,60 キログラムというのは物理量の値である。物理量を測れば値を得るが,測っていないときも物理量の値はあるはずだ,と信ずるのが,いわば「値の実在論」の立場である。
 そして,この「値の実在論」と局所性と因果律を合わせた理論はベルの不等式を導く。一方で,量子論はベルの不等式の破れを予測し,実験でもベルの不等式の破れが確認された。局所性と因果律が間違っているとは考えにくいので,「値の実在論」が現実世界では通用しないのだろう,というのが本記事の結論であった。
 私は,科学的実在論と反実在論のどちらが正しいかという議論をしたいのではないし,一意的な「実在」の定義を探しているのでもない。ただ,この自然界における「実在」の奥行を感じてもらいたくて本記事を書いた。」
『「揺らぐ境界? 非実在が動かす実在」を読んでいろいろ疑問が湧いた人のための補足谷村省吾 名古屋大学
(索引:値の実在論)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

谷村省吾(1967-)
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状態とは「どういう実験を行うか」という設定に他ならない。実験の設定や、観測結果の説明は、古典物理学の用語を適切に用いることで曖昧さなく、表現されなければならない。(谷村省吾(1967-))

波動関数は実在するか

【状態とは「どういう実験を行うか」という設定に他ならない。実験の設定や、観測結果の説明は、古典物理学の用語を適切に用いることで曖昧さなく、表現されなければならない。(谷村省吾(1967-))】
 「量子力学がミクロ世界の物理理論として成功を収めると,「古典力学は近似理論であり,人間の粗 雑な観察を直接的に記述した現象論に過ぎない」という考えが物理学者の間に広まったが,果たしてそれは自然界に対する適切な描像だろうか?量子的な系の記述には古典論の概念が必要だということを Bohr は強調していた.少し長くなるが,Bohr の 1949 年の言葉を引用しよう:
《現象が古典物理学で説明のつく範囲からどれほど外れていても,すべての証拠の説明は古典論の用語で表されなければならない…要するに,「実験」という言葉で私たちが指しているものは,私たちが何を行い何を学んだのかを他人に語ることが可能な状況であり,それゆえ,実験設定や観測結果の説明は,古典物理学の用語を適切に用いることで曖昧さなく表現されなければならない》.
 たしかに測定値や確率は古典物理的な装置で測定され記録される.状態は量子的な物理量に測定値と確率を割り当てる写像であり,結局,状態 (state)とは「どういう実験を行うか」という設定 (setting,situation) に他ならない.「実験の準備=状態の準備」であり,実験は古典物理的な方法で用意され記述される.量子論が登場したことによって古典論が用済みになったのではなく,量子論だけでは世界の記述は完結せず,量子的世界に対面する古典的世界を必要としているのである.」
『波動関数は実在するか 物質的存在ではない.二つの世界をつなぐ窓口である』谷村省吾 名古屋大学
(索引:波動関数は実在するか)

(出典:名古屋大学
谷村省吾(1967-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「最近(2020年)、時間の哲学と心の哲学の問題に関わることが多くなり、「意識とは何か、物理系に意識を実装できるか」という問題を本格的に考えたいと思うようになった。裏プロジェクトとして意識の科学化を考えている。
 「科学で扱えるものと扱えないとされるもののギャップ」は、心得ておくべきではあるが、ギャップにこそ重要な問題が隠されており、ギャップを埋める・ギャップを乗り越えることによって科学は進歩してきたとも言える。」(中略)
 「物理学におけるギャップの難問として次のようなものがある。マクロ系によるミクロ系の観測に伴う波束の収縮、量子系から古典系の創発、相対論的系から非相対論的系の出現、可逆力学系から不可逆系の出現、意識なきものから意識あるものの出現「いまある感」の起源、などがそのような例であるが、これらは地続きの問題であり、いずれも機が熟すれば科学的に究明されるべき課題だと私は考えている。」(後略)
(研究の裏で私が意識していること 谷村省吾 名古屋大学谷村省吾(1967-)

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