2020年6月15日月曜日

合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))

状況の3つの意味

【合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理性原理の3つの意味
 (1)客観的状況
  (a)現実にそうであったものとしての状況、歴史家が再構成しようとする客観的状況である。
  (b)客観的状況とは、そもそも何かを考えると、(3)が(1)を構成しているともいえる。
  (c)各行為者が、現実をどのように認識していたのかという状況も含まれる。すなわち、以下の(2)も状況として(1)に含まれている。
 (2)行為者が認識する状況
  行為者が現実に見たものとしての状況である。
 (3)行為者が認識すべき状況
  行為者が、客観的状況のなかでそう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況である。
 (4)仮想的な合理性原理
  行為者は、自らの客観的状況(1)に対して適切に行動する。
 (5)現実的な合理性原理
  行為者は、認識した自らの状況(2)に対して適切に行動する。
 (6)規範的な合理性原理
  (a)行為者は、認識すべきと考えられる自らの状況(3)に対して適切に行動するべきである。
  (b)歴史家が、「失敗」を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(2)と(3)の違いを論ずることになろう。
  (c)もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。
  (d)なお状況は、過去、現在、予測としての未来、規範としての未来を含むだろう。すなわち、行為者は過去、現在をこのように認識すべき、状況がこのような結果を招くだろうと予測すべき、状況からこのようにすべきと認識すべきという様相が区別できよう。
 (7)現実的な人間行動
  われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する、言葉をかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては、普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。
 「公演の前の方で、わたくしは、人は自らの(その知識と技術も含めた)客観的状況に対して適切に行動するという見解として考えられた合理性原理に関心があった。つづく部分では、人は自分が見たものとしての状況に適切な仕方で行動するという見解に関心をはらっている。いまや「合理性」には(それゆえ「合理性原理」にも)少なくも三つの意味があるように思われる。どれも客観的であるが、行為者が行為している状況の客観性にかんしては違いがある。
 (1)《現実にそうであったものとしての状況》――歴史家が再構成しようとする客観的状況。
 この客観的状況の一部は、
 (2)《行為者が現実に見たものとしての状況》。
 しかし、(1)と(2)のあいだには第三の意味がある。
 (3)《行為者が、(客観的状況のなかで)そう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況》。
 これら三つの「状況」の意味に対応して「合理性原理」にも三つの意味があることは明らかである。さらに行為を理解するうえで、とりわけ歴史家が《失敗》を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(1)の意味とほかのふたつの意味の違いが一定の役割を演じるだろうことは明らかであり、(2)と(3)の違いも似たような役割を演じるだろう。強調されなければならないことだが、(2)と(3)は今度は、客観的状況(1)(の多かれ少なかれ洗練された分析)の一部を形成しているのである。しかも、もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。(そのような衝突は、精神分析学者によって、おそらく現実原則〔現実生活に適応するために、快楽などの原始的な本能的欲求を一時的、または永久に断念する自我の働き〕の失敗として記述されるだろうと思う。)(3)は、あるがままの状況のある側面を見るさいの難しさに対する評価を含んでいるかもしれない。
 この論文にかんしては、これらの定式化を使って、(1)と(3)については早い方の節で、そして(2)については終りの方の節で論じたと言われるかもしれない。わたくしの見解では、われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する――ことばをかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第8章 モデル、道具、真理,第13節「不合理な」行為,注19,pp.308-310,未来社(1998),ポパー哲学研究会,蔭山泰之(訳))
(索引:状況)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年6月14日日曜日

仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー(1902-1994))

仮説的知識の客観性の本質

【仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)科学的知識の性質
 あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものである。
 (1.1)科学的客観性を保証するもの
  科学的客観性は、その理論を反駁しようとする批判によって保証される。
 (1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
  客観性は、個々の科学者の客観性ないし公平無私によって保証されるのではなく、「科学者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べる科学者の集団によってもたらされる。
 (1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
  科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明したり、実証したりしようとする観念と結びついていた。批判的アプローチは、科学上の推測をテストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びついている。
(2)大胆な理論の提起
 知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにある。まず、あえて誤りを犯すというリスクを冒すこと、すなわち、新しい理論を大胆に提起する。
 (2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
  理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を重要なものにする。
 (2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
  ある特定の出来事が生じないであろうと予言する理論が、反証可能な理論である。あらゆる手段を講じて、その出来事を生じさせようと努めることが、テストになる。
 (2.3)テスト可能性の度合
  より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張をあまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高い。
 (2.4)テストの厳しさの度合
  定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低い。また、より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそう厳しいテストである。
(3)誤りを除去する批判的方法
 われわれが犯した誤りを系統的に探すこと、すなわち、われわれの理論を批判的に議論したり、批判的に検討したりする。
 (3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
  科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が、辛抱強く擁護されるべきだということもおおいに重要なことである。というのは、そのような仕方でのみ、理論のもつ真の力を知ることができるからだ。
 (3.2)実験的テスト
  この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論がある。
 (3.3)実験は理論に導かれている
  実験は、つねに理論によって導かれている。

 「わたくしがこれまで述べてきたなかで、論争をひき起こしそうなことがらすべてを、いくつかのテーゼに言い換えて、わたくしの講演の前半部分のまとめとすることにしましょう。しかもそうしたテーゼをできるかぎり挑戦的な仕方で述べるつもりです。
1 あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものです。
2 知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにあります。まず、あえて誤りを犯すというリスクを冒すこと――すなわち、新しい理論を大胆に提起することです。次に、われわれが犯した誤りを系統的に探すこと――すなわち、われわれの理論を批判的に議論したり、批判的に検討したりすることです。
4 この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論があります。
5 実験は、つねに理論によって導かれます。実験家が意識していないことはしばしばですが、理論的直感によって導かれます。実験上の誤りの可能な源泉についての仮説や、どのような実験が実り豊かだろうかということについての希望や推測によって導かれているのです。(《理論的》直感によってわたくしが意味するのは、ある種の実験は理論的に実り豊かだろうという推測のことです)。
6 科学的客観性と呼ばれるものは、もっぱら批判的アプローチにあります。もしあなたが自分のお気に入りの理論によって偏向しているならば、あなたの友人や同僚の誰か(あるいはそうでなければ、次の世代の研究者の誰か)があなたの仕事を批判しようとするだろう――もし可能ならばあなたのお気に入りの理論を反駁しようとするだろう――という事実にあります。
7 とすれば、自分自身で自分の理論を反駁するように努めるべきだということになります。すなわち、この事実はあなたになんらかの規律を課すでしょう。
8 これにもかかわらず、科学者が他のひとびとよりも「客観的」であると考えることは間違っているでしょう。客観性をかたちづくるのは、個々の科学者の客観性ないし公平無私ではなく、科学そのもの(「科学者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べるかもしれないもの、すなわち相互批判の用意が科学者同士にあること)です。
9 個々の科学者がドグマティックになったり、偏向したりすることを方法論的に正当化するようなものすら存在します。科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が辛抱強く擁護されるべきだということもおおいに重要なことです。というのは、そのような仕方でのみ、理論のもつ真の力を知ることができるからです。そして批判が抵抗に対処するかぎりにおいてのみ、批判的議論のもつ十分な効力を学ぶことができるのです。
10 理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を重要なものにすることです。
11 ある特定の考えうる出来事は実際には生じないであろうと主張したり、含意したりする理論のみがテスト可能です。テストというものは、その理論がわれわれに生じえないと告げているまさにそうした出来事を、われわれが召集しうるあらゆる手段を講じて生じさせようと努めることからなっています。
12 したがって、あらゆるテスト可能な理論は、ある一定の出来事の生起を禁止していると言えるかもしれません。経験的実在に制限を加えるかぎりにおいてのみ、理論は経験的実在について語っているのです。
13 あらゆるテスト可能な理論は、したがって、「しかじかのことは生じえない」というかたちで述べることができます。たとえば、熱力学の第二法則は、第二種の永久機関は存在しえないというように言い表わせます。
14 どんな理論も、原理的に経験的世界と衝突しえないかぎり、経験的世界について何も語ることはできません。そしてまさにこのことが、理論は反駁可能でなければならないということの意味です。
15 テスト可能性には度合があります。より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張をあまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高いことになります。
16 同様に、テストにもきびしさの度合をつけることができます。たとえば、定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低いといえます。また、より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそうきびしいテストになります。
17 科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明したり、実証したりしようとする観念と結びついていました。批判的アプローチは、科学上の推測をテストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びついています。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第4章 科学――問題、目的、責任,pp.169-172,未来社(1998),ポパー哲学研究会,立花希一(訳))
(索引:仮説的知識,科学,仮説的知識の客観性)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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帰結による合理的討論によっても,各自の原理の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カール・ポパー(1902-1994))

より包括的な真理の探究

【帰結による合理的討論によっても,各自の原理の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カール・ポパー(1902-1994))】

(2.3)(2.4)追記。

(1)フレームワークの神話
 合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))
 (1.1)独断論
  あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない。
 (1.2)共約不可能性
  前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえない。
 (1.3)相対主義
  全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(2)フレームワークの神話の誤り
 (2.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
  フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
 ↓   討論不可    ↓
結論1         結論2

 (2.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
  科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ……つねに誤りの可能性がある
 ↓   ↓
結論1 結論2 ……結論が受け入れられるか?

 (2.3)反論
  「われわれに好ましく思える帰結」自体が、フレームワークの一部なのだから、フレームワークの外側に出ることはできない。
 (2.4)反論への回答
   原理1、結論1が自らの主張であるとして、結論1も結論2も満足できない場合、われわれは以下の二つの方法を選択することができる。
  (2.4.1)方法1:自らの原理を強化する
   自らの原理1を強化して、相手の原理、結論は課題に設定しない。
  (2.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
   人間、社会、自然、宇宙の真の姿を理解すること。これは、確かに、一つのフレームワークの選択であるかもしれない。しかし、自らの原理、結論とともに、相手が提示した原理、結論をも理解して、乗り越えようとする原理である。

《概念図》
原理1 原理2
 ↓   ↓
結論1 結論2
不満足 不満足

方法1
原理1’修正 原理2
 ↓      ↓
結論1’   結論2
満足     考慮外

方法2
より包括的な真理の探究
という原理 │
 ↓    ↓
原理1” 原理2”
 ↓    ↓
結論1” 結論2”
満足   満足

 「もちろん、フレームワークの神話の支持者はこの考え方を批判するであろう。たとえば、わたくしが批判の正しい方法と呼ぶものによっても、われわれは決してみずからのフレームワークの外に出ることはできない――なぜなら、「われわれに好ましく思える帰結」自体がわれわれのフレームワークの《一部》なのだからと主張するだろう。つまり、ここでわれわれが手にしているのは、フレームワークの批判的超越ではなく、単なる自己正当化のモデルにすぎない、という批判である。
 しかしわたくしはこの批判は誤りだと考える。われわれの見解をこのように解釈することは《できる》が、このように解釈《しなければならない》わけではない。われわれは目的や目標――たとえばわれわれが住み、われわれ自身がその一部でもある宇宙をよりよく理解するといった目的――を追求することを選択できる。この目的は、その達成のために産み出される個々の理論やフレームワークから自立したものである。そしてわれわれは、目標を達成するのに役立ち、どの理論やフレームワークも満たすのが容易では《ない》ような説明の基準や方法論的規則の設定を選択できる。もちろんわれわれは、このようなことをしないという選択もできる。われわれの見解を自己強化することを決定することもできるのである。つまり、われわれの現在の見解が達成できるとわかっている課題以外は設定しないようにすることもできるのである。このような選択が可能であることは確かである。しかし、このような選択をすれば、われわれはみずからが誤っていることを学ぶ機会に背を向けるのみならず、われわれをこんにちのようなわれわれにし、知による自己解放という希望を提供する(古代ギリシャに由来し、また文化衝突から生じた)批判的思考の伝統にも背を向けることになるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第2章 フレームワークの神話,pp.117-118,未来社(1998),ポパー哲学研究会,小林傳司(訳))
(索引:より包括的な真理の探究)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年6月11日木曜日

合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))

フレームワークの神話

【合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)フレームワークの神話
 (1.1)独断論
  あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない。
 (1.2)共約不可能性
  前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえない。
 (1.3)相対主義
  全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(2)フレームワークの神話の誤り
 (2.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
  フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
 ↓   討論不可    ↓
結論1         結論2

 (2.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
  科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ……つねに誤りの可能性がある
 ↓   ↓
結論1 結論2 ……結論が受け入れられるか?

併せて考察せよ:事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

 「フレームワークの神話は、《根本的な》ことがらについての合理的な討論はできない、あるいは《原理》についての合理的な討論は不可能だという教義と明らかに同じものである。
 この教義は論理的には、次のような誤った見解から生じている。すなわち、あらゆる合理的討論はなんらかの《原理》、もしくはしばしば《公理》と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進――原理や公理の妥当性を合理的に討論するさい、われわれは再び原理や公理に訴えねばならないという主張にみられるような背進――を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない、という見解である。
 通常、こういった状況を経験したことがある人は、原理または公理からなるフレームワークの真理性を独断的に主張するか、相対主義者になる。つまり、異なるフレームワークが存在し、それらの間の合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえないと言うのである。
 しかしこれは誤りである。というのはこの見解の背後には、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴をもたねばならないという暗黙の仮定が存在するからである。しかし自然科学においておこなわれている種類の討論は、われわれ哲学者に別の種類の合理的討論が存在することを教えてくれたと言えるかもしれない。それは批判的討論であり、そこでは、とりわけなんらかの高次の前提から導出することによって、ある理論を証明したり正当化したり確立したりしようとすることはなく、論議の対象である理論を、その《論理的帰結》がすべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
 それゆえわれわれは、《批判の誤った方法と正しい方法》とを論理的に区別することができる。《誤った方法》は、われわれがどうすればテーゼや理論を確立あるいは正当化できるかという問いから始める。これによって、独断論か無現背進、あるいは合理的には共約不可能なフレームワークという相対主義的教義のいずれかに導かれるのである。これと対照的に、批判的討論の《正しい》方法は、テーゼや理論の《帰結》は何か、そしてその帰結は受け入れることができるものかどうかという問いから始めるのである。
 したがってこの方法は、異なった理論(あるいはお望みなら、異なったフレームワーク)の帰結を比較することにかかっている。この方法は、相争っている理論、もしくはフレームワークのどちらがわれわれに選択可能な帰結を生むかを調べようと試みるのである。それゆえ、この方法はわれわれのあらゆる理論をより良いものに取り替えようと試みるが、われわれの方法すべてがもつ可謬性を自覚している。明らかにこれは困難な課題であるが、決して不可能なことではないのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第2章 フレームワークの神話,pp.116-117,未来社(1998),ポパー哲学研究会,小林傳司(訳))
(索引:フレームワークの神話)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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推論知には権威が存在せず,確証理論も例外ではない.誤りは不可避で,学びの契機であり,自己批判と知的誠実さ,他者批判の必要性と尊重,寛容の原理が要請される.批判は真理のため,人でなく理論に関し理由と論拠によってなされる.(カール・ポパー(1902-1994))

知にかかわる倫理

【推論知には権威が存在せず,確証理論も例外ではない.誤りは不可避で,学びの契機であり,自己批判と知的誠実さ,他者批判の必要性と尊重,寛容の原理が要請される.批判は真理のため,人でなく理論に関し理由と論拠によってなされる.(カール・ポパー(1902-1994))】

知にかかわる倫理
 知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、政治家などにとっての倫理である。
(1)推論知の本質
 (a)客観的な推論知において権威は存在しない
  われわれの客観的な推論知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえいかなる権威も存在しない。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 (b)確証された理論も例外ではない
  もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。
(2)誤りの不可避性
 (a)誤りを避けることは不可能
  すべての誤りを避けること、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、不可能である。
 (b)誤りを避けることの困難性
  もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。
(3)誤りの本質の理解
 (a)誤りに対する態度の変更
  それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の倫理改革が始まるのはここにおいてである。
 (b)誤りから学ぶという原則
  新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさに自らの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 (c)誤りを分析すること
  それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
(4)自己批判と知的誠実さ
 それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
(5)価値あるものとしての他者の批判
 (a)他者による批判の必要性
  われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 (b)自分とは似ていない他者の価値、寛容の原理
  誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする、また彼らはわれわれを必要とするということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 (c)他者から指摘された誤りへの感謝
  われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。
(6)合理的な批判の原則
 (a)理由や論拠を伴った具体的な批判
  合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。
 (b)批判は、真理のため
  それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。
 (c)人の批判ではなく内容の批判
  このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。

 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VII,VIII,pp.317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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行政や学術階級の人々を実務面でも理論面でも支配している経済理論が,現実的な経済社会の特徴とは違う,特殊な場合にしか正しくない理論だとすれば,それを実際に応用したら,間違った方向を示して散々な結果を招いてしまう.(ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946))

経済理論

【行政や学術階級の人々を実務面でも理論面でも支配している経済理論が,現実的な経済社会の特徴とは違う,特殊な場合にしか正しくない理論だとすれば,それを実際に応用したら,間違った方向を示して散々な結果を招いてしまう.(ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946))】

 「この本に『雇用、利子、お金の一般理論』という題をつけたとき、強調したかったのはこの一般という前振りです。こういう題名の狙いは、私の議論や結論の特徴を、古典派理論1のものと対比させることです。私は古典理論を教わってきたし、行政や学術階級の人々による経済についての発想を、実務面でも理論面でも支配しているのが古典理論です。それはこの世代に限らず、過去百年ずっとそうでした。その古典派理論の公準は特殊ケースにだけあてはまり、一般の場合には当てはまらない、というのが私の主張です。そこで想定されている状況というのは、あり得る均衡位置の中でも限られた点だけを想定しているのです。さらに古典理論が想定する特殊ケースの特徴は、私たちが実際に暮らしている経済社会の特徴とはちがいます。だから経験上の事実に適用したら、古典理論の教えはまちがった方向を示して散々な結果を招いてしまうのです。」
(出典:第1章 一般理論ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page
(索引:山形浩生(1964-),経済理論)
(出典:wikipedia
ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)の命題集(Propositions of great philosophers)
ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)
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12.科学者・技術者は,組織的な仕事に携わることで,個人的な意図がどうであれ,ある特定の社会的な役割を担わされる.その仕事の意味,社会に与える影響がどれほど重大なものであっても,推進力は科学者の純粋で私的な探究心なのである.(高木仁三郎(1938-2000))

探究心と社会的責任

【科学者・技術者は,組織的な仕事に携わることで,個人的な意図がどうであれ,ある特定の社会的な役割を担わされる.その仕事の意味,社会に与える影響がどれほど重大なものであっても,推進力は科学者の純粋で私的な探究心なのである.(高木仁三郎(1938-2000))】

(4)影響の巨大化と研究の私的性格との間の矛盾
 (4.1)研究結果の影響の巨大化
  (a)科学上の発明・発見の影響が、人類全体の歩みを変えかねないほどの影響を持つようなことがある。
 (4.2)一つの構造の中で担わされる役割
  (a)研究は単一目標に向かって組織化され、研究者たちは巨大な機械の一部品・歯車の一コマというべき存在となった。
  (b)科学者の意図がどうであれ、ひとつの構造の中である役割が担わされる。
 (4.3)人間の好奇心、探究心と研究の私的性格
  (a)研究の推進力は「人々を夢中にさせずにはおかない」科学研究の性格に由来する。
  (b)プロジェクトの成否は、研究者個々人のすぐれて私的な研究への没入に多く依存している。そしてその没入は、科学者の視野を狭め、人間としての全体を矮小化してしまう。
  (c)その矮小化は、科学者をいっそう純化した「専門家」に育てあげていく。

 「科学研究という点からみれば、原爆の「成功」を生み出したのは、国家的規模の科学者の集中と豊富な資金であった。さらにその集中を可能にしたものを探れば、フェルトのいう「人々を夢中にさせずにはおかない」科学研究の性格と、ナイーブそのものともいえる科学者たちの目的意識に大いに関係しているように思われる。

 ほかならぬシラードについてもう一度考えてみよう。シラードこそ、原爆の示すであろう破壊性・残忍性にもっとも早くから気づき、ナチスと結びつけて考えていた数少ない人であった。「反ナチズム」としてのマンハッタン計画への関与は、その後、ヒトラー・ドイツの降伏に際して、トルーマン大統領に日本に対する原爆不使用を請願したことにみられるように、きわめて一貫したものであった。そのことに疑う余地はない。

しかし、シラードを原爆へと結びつけたのは、明らかにそのことだけではない。

 いち早く連鎖反応に着目し、「特許」をとり、核分裂が知れるや、ただちにこの現象と連鎖反応を結びつけるべく実験にとりかかったシラードをつき動かしたのは、やはり科学者的な探究心であった。

彼が探究を進めれば進めるほど、一方で彼は「世界が災厄に向かって進む」ことをますます強く認識し、でありながら、ますますその研究に没頭していった。

一見矛盾したようにみえるこの行動は、科学者にとってはごく一般的なものであったろう。いったん開け始めた扉を、開け切る前に「災厄の予感」によって閉じてしまうような自制は、科学と科学者にとってもっとも苦手とするところだ(このことは、「遺伝子工学の時代」を迎えつつある現在、すぐれて教訓的である)。

 マンハッタン計画を転換点として、科学は国家的な営為となり巨大化した。研究は単一目標に向かって組織化され、研究者たちは巨大な機械の一部品・歯車の一コマというべき存在となった。

なおかつ、そのプロジェクトの成否は、研究者個々人のすぐれて私的な研究への没入に多く依存している。そしてその没入は、科学者の視野を狭め、人間としての全体を矮小化してしまう。

逆にまた、その矮小化は、科学者をいっそう純化した「専門家」に育てあげていく。そこに原爆開発がほとんど無批判的に科学者たちに担われた理由をみておくことは、いまという時代にとくに重要だろう。

 私は、その後もパグウォッシュ会議で活躍したシラードの平和主義を疑っていない。だが、問題は個人の評価の問題ではない。シラードの意図がどうであれ、ひとつの構造の中でシラードが担わされ、演じた役割は、原爆づくりの一科学者としてのそれだった。

そのことを個人的に責めているのではない。皆がその意識もなしに非人道的プロジェクトにまきこまれ、没入した、そういうシステムとして、今のその可能性を十分に秘めたシステムとしての科学のとらえなおしが、どうしても必要なはずである。

にもかかわらず、そういった作業が決定的に欠如しているように思える(こういった点検の作業がもちこまれようとすると、科学への中傷として、科学者集団が拒否感を示すことが、議論を不毛にしている)。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第六巻 核の時代/エネルギー』核時代を生きる 第2章 歴史の教訓(一)、pp.55-56)
(索引:)

核の時代・エネルギー (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
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11.巨大科学技術は,細分化された専門家を必要とする.しかし全体の結果,意味を考えず担った仕事に無条件に忠誠を誓うことは,倫理的な退廃ではないか.また社会全体の未来に責任を持とうとする人が少なくなっていくとしたら倫理的な危機ではないか.(高木仁三郎(1938-2000))

倫理的な退廃、危機

【巨大科学技術は,細分化された専門家を必要とする.しかし全体の結果,意味を考えず担った仕事に無条件に忠誠を誓うことは,倫理的な退廃ではないか.また社会全体の未来に責任を持とうとする人が少なくなっていくとしたら倫理的な危機ではないか.(高木仁三郎(1938-2000))】

(3.2)追記。

(3)研究の細分化と効率性追求による総合的視点の喪失
 (3.1)全般的な諸傾向
  (a)研究の細分化
   科学の巨大さの度合いに応じて、個人の担う役割がますます細分化されていく。
  (b)科学の歴史、意味、目的を考える教育の軽視
   科学教育も、科学の歴史やその意味を総合的にとらえるといった教育は非効率的なものとされ、個別的な手法や技術をマスターさせることに教育の力点が置かれる。
  (c)総合的視点の喪失
   その結果、研究の全体性やその意味を、十分見通すことができなくなる。
 (3.2)倫理的な退廃、危機であると捉えること
  (3.2.1)個々人にとっての倫理的な退廃
   (a)行政官、管理者、科学技術者、労働者は、個々の側面にかかわる専門家に仕立て上げられる。
   (b)問題の細部に通じ、自分の仕事にほぼ無前提で忠誠を誓うことが、正しいとされる。
   (c)しかし、自分の仕事が果たしている全体の結果、意味するものを考えないことは、倫理的な退廃ではないだろうか。
  (3.2.2)社会全体にとっての倫理的な危機
   (a)もし、社会全体のシステムに対して責任を持とうとする人がなくなっていくとしたら、倫理的に大きな危機といえる。
   (b)ひとりひとりが部分しか見ず、また将来のこと、子供や孫たちの住むべき環境のことを考えないとしたら、社会は確実に生命力を失い、精神的に疲弊していくことだろう。

 「やや、別の観点からしても、巨大科学技術はいま私たちが真剣に考えなくてはならないような倫理上の問題を提出していると思う。

巨大科学技術は、その全体のシステムが巨大化すればするほど、実際にはその個々の側面にかかわる科学技術者・管理者・労働者・行政官を、細分化した専門家に仕立て上げる。

それらの人びとは、問題の細部にのみ通じ、全体のシステムに対しては、ほぼ無前提で忠誠を誓うように仕立て上げられるだろう。そうしない限り、高度の専門性を必要とする無数の部分からなりたつシステムを支えられないからである。

 しかし、そのことは、ひとりひとりの人間の人間としての全体を次第に部分化させ、単一の機能にのみ忠実な人間を生みだしていくのではないだろうか。

ユンクの言う「ホモ・アトミクス」の誕生である。これは個々の人間にとっても、倫理的な退廃を意味しよう。

彼(女)はたとえば、原子炉内の中性子の振舞いについてはいよいよ詳しくなるかもしれない。しかし、ある意味ではそのことと反比例して、彼(女)は、ウラン鉱で働くインディアンたちに思いをめぐらす機会を減らすことだろう。それはひとりの人間としての彼(女)にとっても、不幸なことのはずだ。

 社会全体にとっても、その全体のシステムに対して責任をもとうとする人がなくなっていくのは、倫理的に大きな危機である。ひとりひとりが部分しか見ず、また将来のこと子供や孫たちの住むべき環境のことを考えないとしたら、社会は確実に生命力を失い、精神的に疲弊していくことだろう。

巨大科学は、その管理強化への志向と相まって、必ずこのような倫理的な問題を提出させずにおかない、というのが私の考えである。

 すでにその徴候が顕在化しつつある、と私は考えるのだが、いやそんなことはない、と考える人も多いだろう。

具体的にそうなったところで考えればよい、という反論が返ってくるかもしれない。

しかし、皆が「ホモ・アトミクス」になってしまった段階では、人びとの精神は、もはや自由にそんな問題を議論しえないほどに、衰弱してしまわないだろうか。巨大科学技術と倫理の問題について、大きな議論をおこすべき時は、今をおいてないと思う。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』プルトニウムの恐怖 第6章 ホモ・アトミクス、pp.269-270)
(索引:倫理的退廃,倫理的危機)

プルートーンの火 (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

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10.政治は科学を利用し,都合が悪ければ切り捨てる.いかに名声があり偉大な科学者であっても,国家レベルの政治に影響を与え得た科学者はいなかった.それが可能なのは,普通の人々の幅ひろい運動と世論に支えられた場合だけである.(高木仁三郎(1938-2000))

政治と科学

【政治は科学を利用し,都合が悪ければ切り捨てる.いかに名声があり偉大な科学者であっても,国家レベルの政治に影響を与え得た科学者はいなかった.それが可能なのは,普通の人々の幅ひろい運動と世論に支えられた場合だけである.(高木仁三郎(1938-2000))】

 「バーンスタインの指摘を待つまでもなく、シラードたちが最初に原爆について提言し(「アインシュタインの手紙」)、それが政府にいれられたと信じ、その後もその種の意志の伝達が政府(政治)に対して科学(者)の側から可能だと考えていたら、それはあまりにナイーブにすぎるというものだろう。

 実際問題としても、シラードたちが原爆の不使用を一九四五年五月にトルーマン大統領に請願したとき、請願は簡単に無視された。バーンスタインはいう。

 「そして当初から、ローズヴェルトとかれの側近は、原爆が正当な兵器であり、それが開発できる場合には使用されるであろうということを当然の前提としていたのです。攻撃目標は、日本に変えられることになりましたが、変更にさいしてはこれといった再検討は行われませんでしたし、いささかのためらいも疑念も熟考もなく、いわんや苦悩をともなうものではありませんでした」(『原爆投下と科学者』)

 つまり、権力者(政治の側)は科学者(科学の側)の提言を、みずからに都合のよい情報としては利用するが、都合が悪ければいつでも切り捨てる。政治の側からみれば、最初からそのようなものとして、プロジェクトが組織され、科学者を組みこんでいったのであって、主-従の関係ははっきりしていた。

 ボーアに起こったことも同じ文脈で考えられよう。世界の科学者の代表ともいえたニールス・ボーアは、四四年七月にルーズベルトとチャーチルに手紙を送り、米英ソ三国による原子力の国際管理を訴えた。しかし、これもまったく無視された。ボーアがいかに偉大な科学者であり、人格者であっても、そのことによって政治の側が影響されることはなかった。

 原爆開発から現在にいたるまで、科学者たちの一連の行動には、とくにそれが著名で、科学上の業績がある科学者を含むものであれば、なお強く、政治(家)や権力(者)に対して影響力をもっていると信じこんだナイーブさがうかがえる。

しかしそれは、すでにマンハッタン計画で破産した行動パターンであり、歴史から否定的な教訓をうるべきことがらだった。科学者たちがある場合に、署名や請願、アピールなどを通じて政治に影響を与えたのは、あくまで大衆的な運動の背景があり、広範な大衆の意向が、科学者たちに反映されただけのことである。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第六巻 核の時代/エネルギー』核時代を生きる 第2章 歴史の教訓(一)、pp.56-57)
(索引:)

核の時代・エネルギー (高木仁三郎著作集)


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 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
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9.構成要素ごとの検証と,実物に近い全体システムの検証が必要となるが,原子炉の場合,燃料棒など実物が使えない要素があり,他の技術とは異なり真の意味での実証は不可能である.計算機による模擬実験は,技術における実証性を虚構化する.(高木仁三郎(1938-2000))

核技術は真の意味で実証できない技術

【構成要素ごとの検証と,実物に近い全体システムの検証が必要となるが,原子炉の場合,燃料棒など実物が使えない要素があり,他の技術とは異なり真の意味での実証は不可能である.計算機による模擬実験は,技術における実証性を虚構化する.(高木仁三郎(1938-2000))】

(1)実物による検証
 小さなシステムでの実験ならば、本物を使って何回も実験を繰り返し、失敗を重ねながら、生じるあらゆる物理的現象を把握しながら、いかなる条件下でも問題ないように改良していくことができる。
(2)構成要素ごとの実物による検証
 システムが大型化したときには、小型のシステムの実験では予測しえないことが起こりうる。そこでまず、実験室的な純化した条件下で、ある事象を構成するいろいろな基礎的な現象を解析し、その基礎データをもとに、ある事象の全体を再構成するという方法が用いられる。
(3)構成要素の結合が全体を再現しないという問題
 ところが、そのような細分化された個別的な因子の再構成が、全体としての一つのシステムの振舞いを必ずしも再現化しえないという、実証的手法に基づく解析的科学における、一つの大きな問題点がある。
(4)構成要素を結合した全体の検証
 そこで、伝統的な実証的方法に従えば、可能な限り実物に近いシステムを作り、実験を繰り返し、失敗を重ねながら、少しずつ(2)の精度を上げ、改良を積み上げていく必要がある。
(5)原子炉では実物が使えない
 ところが、原子炉の緊急炉心冷却システムのようなものは、失敗を重ねてデータを収集することを前提に実物を使うわけにはいかない。そこで、実際には、小規模な模擬実験炉を作り、実際の燃料棒ではなく、たとえば電熱で加熱した模擬的な燃料棒を用いるなどして、実験することになる。それでも、なかなかうまくいかない。
(6)コンピュータを使ったシミュレーションでの代替
 以上のような問題を抱えた状況での大型コンピュータの登場は、一挙に解析の適用範囲を拡げることになったが、検証性にかかわる問題の本質は、何ら変わっていない。これによって、科学は虚構的な領域に入り、従来の方法論からの変質が現実に進行していると言える。

 「ECCSとは、その名の通り、正規の冷却水の供給が配管の破断などによって断たれたとき、別のルートから緊急に原子炉に冷却水を注ぎこんで、空だきを防ぐための装置です。本書は、技術的な詳細に入ることを目的としていないので、ECCSの機能についてのこれ以上の記述は省きます。

 ECCSの最大の問題は、その機能の有効性が実証的に確かめられていないことにあり、さらにいえば、実証する手立てがないということです。

 伝統的な実証的方法に従えば、実際の大型原子炉を制作し、しかも実際と同じ運転条件を実現し、その条件下で冷却材(水)の喪失が起こるような事故(大口径配管の破断であるとか、圧力容器の亀裂であるとか)を生ぜしめて、ECCSを働かせ、首尾よく炉心に水が入って溶融事故を防ぎうることを確かめるというのが、ECCSの有効性を確認する最も直接的な手段といえます。

しかしもちろん、通常の実験のように、何回もそんなことを繰り返し、失敗を重ねながら、生じるあらゆる物理的現象を把握しながら、いかなる条件下でも緊急冷却水が炉心に注入されるようになるまでECCSの性能を改良して行くといった方法は取りようがありません。

経費の問題は別にしても、あまりに危険が大きすぎるから、ただの一回の失敗も許されないのです。

 そこで、実際には、小規模な模擬実験炉を作り、実際の燃料棒ではなく、たとえば電熱で加熱した模擬的な燃料棒を用いるなどして、ECCSの機能を検討するということになります。」(中略)

 「計画の変更が余儀なくされたのは、表の八〇〇シリーズの実験の後半段階で行われた炉心への緊急冷却水の注入実験で、六回の実験で六回とも、炉心に水が到達しなかったからです。

その原因は、結局、原子炉内で起こる物理的現象が十分に把握できておらず、コンピュータによる予測と実験の間に大幅なずれが出てきてしまう、ということに尽きるといえます。

 実際の条件と比較すれば、はるかに小規模で、簡素化したシステムを用いた実験でもこういうことが起こるわけです。

ましてや、実際の条件ではどのようなことが起こるのか、確たる予測はできず、ECCSの機能の有効性を実証する、というのとは程遠いのが実情です。

システムを大型化したときには、小型のシステムの実験では予測しえないことが起こりうるし、その予測を行うのに必要な実証的手だてがない、という巨大科学技術に共通の困難がここに現われています。」(中略)

 「すでに述べたように、実証的手法に従えば、実験室的な純化した条件下で、ある事象を構成するいろいろな基礎的な現象を解析し、その基礎データをもとにある事象の全体を再構成するというアプローチの方法が用いられます。

そのような細分化された個別的な因子の再構成が、全体としての一つのシステムの振舞いを必ずしも再現化しえないということが、実証的手法に基づく解析的科学の一つの大きな問題点とされてきました。

 大型コンピュータの登場は、そのような実証科学の問題をそのままにしながら、一挙に解析の適用範囲を拡げることになったのです。それによって、科学は虚構的な領域に入り、従来の方法論からの変質が現実に進行しているのです。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第七巻 市民科学者として生きるⅠ』科学は変わる Ⅱ 原子力の困難(一)、pp.55-58)
(索引:科学の実証性、実験、実証性の虚構化)

市民科学者として生きる〈1〉 (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
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 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
高木仁三郎の本(amazon)
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
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Citizens' Commission on Nuclear Energy
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ニュース(原子力市民委員会)

99.化学者が放射性物質を扱う場合、%とかppmのオーダーの化学とは異なり、例えば水100gに(10の-14乗)gというような非常な微量を扱う。それでも、予想外の汚染とかを経験しながら、放射性物質の取扱いの難しさと様々な技術とを学んでいく。(高木仁三郎(1938-2000))

科学の実証性

【化学者が放射性物質を扱う場合、%とかppmのオーダーの化学とは異なり、例えば水100gに(10の-14乗)gというような非常な微量を扱う。それでも、予想外の汚染とかを経験しながら、放射性物質の取扱いの難しさと様々な技術とを学んでいく。(高木仁三郎(1938-2000))】

 「一般に化学者が実験的に放射性物質を扱う場合は、通常は遠隔操作ではなく手で扱います。手といっても、もちろんゴム手袋をしたり、必要に応じてはマスクをしたり、鉛ガラス入りの眼鏡をしたり、放射線防護用の服を着たり、鉛の板で生殖器部分を守ったりというように、必要な措置を施します。そんなに特別なことをしないで扱うのは、放射能にして一〇の五乗から七乗ベクレルくらいまでです。

 一〇の六乗ベクレルというのは、どの程度の濃度かというと、一〇〇グラムの水に、水の分子量は一八ですから、約五モルの水が入っているわけですけれども、それに対してセシウム-一三七は一〇のマイナス一四乗グラムということになります。モル数にするとおよそ一〇のマイナス一六乗モルくらいになるわけで、水の分子が一あるところに対して、セシウム-一三七の原子は一〇のマイナス一六乗モル個しかない。これは非常にわずかな量です。

このような微量な領域になってくると、一グラムの中に数ミリグラムが溶けていたというようなパーセントとか、ppmのオーダーの化学とは、化学自体が全然違ってきます。非常に特殊な振る舞いをするということが出てきます。

 私の経験では、セシウムはとにかく挙動が難しくて、少量の場合にはすぐに揮発してしまいます。非常に揮発性が高い元素です。

セシウムはアルカリ金属の一つで、あまり化学はややこしくないほうですけれども、もう少しややこしい化学のアクチノイド元素とか、ランタノイド元素だと、少量ではすぐにコロイドというものを作ります。つまり、少ない量の物質というのは、何分子も集まって、コロイド状に固まった状態になってしまって、溶液の中に溶けているのか、溶けていないのか、よくわかりません。

したがって、ふつうの化学の教科書に書いてあるように、沈殿を落としたり、溶媒抽出といって有機溶媒を使って溶媒中に取り出したりしようとすると、教科書どおりでないことが起こります。

 教科書どおりと思って扱っても、目に見えないですから、うっかりしていると、意外に大きな汚染を起こしたり、揮発を起こしたりしてしまいます。そんなことで、実験室を汚してしまったとか、手袋を汚してしまったとか、そういう経験はしょっちゅうあります。

そういう経験を経ながら、放射性物質は非常に難しいものだということを学んでいくのが、放射化学者として一人前になっていく道です。当然、扱い方が慎重になります。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第三巻 脱原発へ歩みだすⅢ』原発事故はなぜくりかえすのか 3 放射能を知らない原子力屋さん、pp.354-355)
(索引:科学の実証性)

脱原発へ歩みだす〈3〉 (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
検索(原子力市民委員会)
ニュース(原子力市民委員会)

2020年6月10日水曜日

問題解決の4大阻害要因は(a)問題はない(b)自分には関係ない(c)悪いのは彼らだ(d)どうせ駄目だと思うこと. 諸個人の幸福の公共善との不可分性を理解し,連帯への分断の罠に陥ることなく,可能性を信じて立ち向かうこと.(ロバート・ライシュ(1946-))

問題解決を困難にする4つの原因

【問題解決の4大阻害要因は(a)問題はない(b)自分には関係ない(c)悪いのは彼らだ(d)どうせ駄目だと思うこと. 諸個人の幸福の公共善との不可分性を理解し,連帯への分断の罠に陥ることなく,可能性を信じて立ち向かうこと.(ロバート・ライシュ(1946-))】

世間のほとんどの人たちの頭の中に巣食っている4つの「労働回避メカニズム」
(1)否認
 問題の存在を認めないこと。
(2)逃避願望
 (a)問題を認識しても、責任逃れをしようとする。
 (b)誰であれ、自分以外の多くの人がより貧しく、より経済的に不安定な状態にさらされているのに、自分や家族だけが満ち足りた裕福な人生を送ることなどできはしない。
(3)スケープゴート
 (a)問題を引き起こした人を「スケープゴート(身代り)」にする。
 (b)誰かを「スケープゴート」に仕立てあげても、人々が互いに分断されるだけで、逆進化の流れをひっくり返すことは益々困難になる。
(4)冷笑(シニシズム)
 (a)問題改善の可能性を信じようとしない。
 (b)私たちは以前にもそれをやり遂げたのだし、これからもできるはずだ。

 「リーダーは他の人々を積極的に動かして、なすべきことを完遂させなければならないが、そのためには、世間のほとんどの人たちの頭の中に巣食っている四つの「労働回避メカニズム」を克服できるよう、手を貸す必要がある。それは、問題の存在を認めない「否認」、問題を認識しても責任逃れをしようとする「エスケープ(逃避)」の願望、問題を引き起こした人を「スケープゴート(身代り)」にする傾向、そして、最悪なのが、問題改善の可能性を信じようとしない「シニシズム(冷笑)」である。たとえば、人々を動かして活気づけ、この国の逆進的な流れの方向を変えさせるための組織づくりを行って、経済と民主主義を私たちの手に取り戻すには、たとえ人々が現実を「否認」したとしても、リーダーは多くの人々を説得してこの国に金権国家化する危機が迫っているという事実を認めさせなければならない。この現実から「エスケープ」することはできないことを、人々に示さなければならないのだ。誰であれ、自分以外の多くの人がより貧しく、より経済的に不安定な状態にさらされているのに、自分や家族だけが満ち足りた裕福な人生を送ることなどできはしない。もし人々が移民や貧者や、政府職員や労働組合員、あるいは富裕層もそうだが、誰かを非難していたら、それをやめさせよう。なぜなら、誰かを「スケープゴート」に仕立てあげても、人々が互いに分断されるだけで、逆進化の流れをひっくり返すことは困難になるばかりだからだ。さらに、リーダーは「シニシズム」とも戦わなければならない。流れは変えられるということを、みんなに理解してもらおう。私たちは以前にもそれをやり遂げたのだし、これからもできるはずだ。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『怒りを越えて』(日本語名:『格差と民主主義』)PART3 怒りを乗り越えて――私たちがしなければならないこと、行動を起こすには、pp.168-169、東洋経済新報社 (2014)、雨宮寛・今井章子(訳))
(索引:否認,逃避願望,スケープゴート,冷笑,シニシズム,課題解決)

ロバート・ライシュ 格差と民主主義

(出典:wikipedia
ロバート・ライシュ(1946)の命題集(Propositions of great philosophers) 「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。
 私的所有独占への制限契約不履行に対処するための破産などの手段ルールの執行といった事柄は、いかなる市場にも必須の構成要素だ。資本主義と自由企業体制にはこれらが必要なのだ。だがこの要素の一つひとつを、多くの人ではなく、ひと握りの人々を利するように捻じ曲げることも可能である。」(中略)「経済的支配力が、政治的権力を増大させ、政治的権力がさらに経済的支配力を拡大させる。大企業と富裕層が市場を構築する政治の仕組みに影響を与え、彼らがその政治的決定によって最も恩恵を受けるという状況は加速するばかりだ。こうして彼らの富は増強され、その富によってますます、将来発生する決断事項への影響力を得ていくのである。」(中略)「拡大する不平等は「自由市場」の構成要素そのものにしっかりと焼き込まれている。グローバル化と技術革新がなくても減税や補助金がなくても、国民総所得のうち、企業と、企業収益に自分の所得が連動する重役たちや投資家に振り分けられる割合は、労働者層に向う割合よりも、相対的に増加している。こうして悪循環が勝手に成立していくのである。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『資本主義を救う』(日本語名『最後の資本主義』)第1部 自由市場、第9章 まとめ――市場メカニズム全般、pp.108-111、東洋経済新報社 (2016)、雨宮寛・今井章子(訳))

ロバート・ライシュ(1946-)
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真っ赤な嘘も信念となる:(a)富裕層が経済の牽引力(b)低税率が投資を促進(c)小さい政府が良い(d)規制緩和は良い(e)財政赤字は悪い(f)社会保障費は抑制すべき(h)寛大な制度は活力を奪う(i)一律の税率が最も公平(ロバート・ライシュ(1946-))

経済をめぐる10の嘘

【真っ赤な嘘も信念となる:(a)富裕層が経済の牽引力(b)低税率が投資を促進(c)小さい政府が良い(d)規制緩和は良い(e)財政赤字は悪い(f)社会保障費は抑制すべき(h)寛大な制度は活力を奪う(i)一律の税率が最も公平(ロバート・ライシュ(1946-))】

反論されない嘘は信念となる
 真っ赤な嘘も、反論されない限り繰り返し語っていれば、次第に人々が受け入れるようになることは、扇動の歴史が物語っている。
 (1)嘘その1:富裕層が経済の牽引力
  (a)富裕層が経済の牽引力
   富裕層は「雇用の創造主」であるから、富裕層に対して減税すれば、みなによい効果を波及させる「トリクルダウン」が発生する。逆に、富裕層に増税すると景気に打撃を与え、雇用の伸びも鈍化してしまう。
  (b)圧倒的多数の国民の購買力が経済の牽引力
   富裕層が雇用を生み出すのではない。国民の購買力が企業の生産能力の拡大や雇用を創出する。だから、国民所得が不均衡に富裕層に流れると、中間層にはもはや雇用を創出するだけの購買力がなくなってしまうのである。
 (2)嘘その2:低税率が投資を促進する
  (a)低い税率が投資を促進する
   法人税を下げれば、企業は雇用を創出し景気も活性化する。
  (b)経済的に見合う購買力を見込んで投資する
   これらの企業が生産能力の拡大や雇用創出に投資しない理由は、税金とはまったく関係がない。本当の理由は、生産力を追加したとしても、そうやって新たに造り出されたモノを買うだけの十分なカネを持つ顧客が足りないことだ。企業は経済的に見合う分しか支出しない。
 (3)嘘その3:小さい政府が経済に良い
  (a)政府は小さい方が経済に良い
   政府の規模を小さくすれば、雇用が増大し景気も好転する。
  (b)公共投資は経済に重要
   政府の規模縮小は、州や自治体レベルでは教員や消防士、警察官、福祉職員などの公務員の減少を、連邦レベルでは安全検査官や軍人の減少をもたらす。その結果、公共事業の受託企業が減り、受託企業による民間部門の雇用も減ってしまう。
 (4)嘘その4:規制が少ないほど、経済は強くなる
  (a)規制緩和
   規制が少ないほど、経済は強くなる。
  (b)最小の負担で最大の公共利益をもたらす規制が必要
   (i)企業の存在理由
    企業の存在理由は一つしかない。すなわち、利益を上げ株価を上げることであって、市民を守ることではない。
   (ii)公共善
    だがそれでも、市民の健康と安全、個人投資家に対する公平性、持続可能な環境といったものはすべて「公共善」であり、これがなければ、人々はますます貧しくなってしまう。
   (iii)最小の負担で最大の公共利益
    公共に対する利益のほうが、その負担よりも大きい場合に、規制を行うことは理にかなっている。規制は、公共の利益を最大化し負担を最小化するように設計すべき、それだけのことだ。
 (5)嘘その5:財政赤字の削減は経済に良い
  (a)財政赤字削減
   財政赤字をただちに削減すれば、景気は回復する。
  (b)成長と雇用が経済規模に対する相対的債務を減少させる
   成長と雇用が鍵なのだ。より多くの人が働けば、より多くの企業が利益を上げ、景気が拡大して税収が増え、経済規模に対する債務は相対的に減っていく。だが、経済成長が緩やかだったり、低迷しているときには、まさに反対のことが起こる。景気低迷と低税収の悪循環に陥ってしまう。もしそこで政府支出を削減したら、悪循環どころか、それが死にいたる落とし穴になってしまうかもしれない。
 (6)嘘その6:公的医療保険制度は縮小すべき
  (a)公的医療保険制度は縮小すべき
   公的医療保険制度であるメディケア(高齢者対象)とメディケイド(低所得者対象)を縮小すべきだ。
  (b)全ての人に医療が提供できる公的な仕組みを工夫する
   基本的医療費が増え続ける一方で、より多くの高齢者が、支払能力がないために医療ケア市場から締め出されていく。医療費を抑制するずっとましな方法は、メディケアとメディケイドが公的医療保険制度としての交渉力を駆使して、製薬会社や病院の治療費を下げさせ、診療行為に対する課金から診療結果に対する課金システムへと移行させることだ。
 (7)嘘その7:セーフティネットが寛大すぎる
  (a)セーフティネットが寛大すぎるので働かない
   われわれのセーフティネットは、寛大にすぎる。彼らは、米国が抱える経済問題の原因は、政府「依存」の急増にあり、これらの給付を止めれば、人々は一生懸命に働くようになるというのである。
  (b)本当に必要なセーフティネットが整備されているか
   しかしここでも、逆進主義者たちは原因と結果をあべこべにしている。
   (i)失業保険の受給者が増えた原因は何か?
   (ii)必要としている人が、全て受給できているのか?
   (iii)受給資格要件は、ほんとうに妥当なのか?
 (8)嘘その8:社会保障制度は破綻する
  (a)社会保障制度は、ねずみ講だ。
  (b)保険料の所得上限を引き上げるべき
   社会保障制度をめぐる長期課題に対する合理的解決策は、給付額の削減や支給開始年齢の引き上げではなく、徴収対象となる所得上限を引き上げることなのである。
 (9)嘘その9:低所得者層の税負担が軽いのは不公平
  (a)低所得者層の税負担が軽いのは不公平
   低所得者層の連邦所得税の負担割合が小さく、人によってはまったく所得税を払っていないのは不公平だ。
  (b)累進課税制度が真の公平である
   これはまったく不公平でも何でもない。累進課税制度が真の公平である。しかし現実には、様々な所得に対する様々な税を総合的に考慮すると、単純に平等な税負担にさえなっていない。
 (10)嘘その10:一律の税率のほうが公平だ。

 「真っ赤な嘘も、反論されない限り繰り返し語っていれば、次第に人々が受け入れるようになることは、扇動の歴史が物語っている。ジョージ・オーウェルがかつて述べたように、「大衆はストレスを受けて混乱すると、反論されずに繰り返し語られる大嘘を、次第に真実として受け入れてしまう」のだ。だからまず事実を知って、それを広めていかなくてはならない。
 ではその嘘とは何か。
 嘘その1:富裕層は「雇用の創造主」であるから、富裕層に対して減税すれば、みなによい効果を波及させる「トリクルダウン」が発生する。逆に、富裕層に増税すると景気に打撃を与え、雇用の伸びも鈍化してしまう。」(中略)
 「富裕層が雇用を生み出すのではない。雇用は、大多数のアメリカ人がモノを買い、企業が生産能力を拡大して労働者を採用することで創出されるのだ。そして、そのためには大多数の国民がモノを買うだけのカネを持っていなければならない。先に述べたように、国民所得が不均衡に富裕層に流れると、中間層にはもはや雇用を創出するだけの購買力がなくなってしまうのである。」
 嘘その2:法人税を下げれば、企業は雇用を創出し景気も活性化する。
 「これらの企業が生産能力の拡大や雇用創出に投資しない理由は、税金とはまったく関係がない。本当の理由は、生産力を追加したとしても、そうやって新たに造り出されたモノを買うだけの十分なカネを持つ顧客が足りないことだ。企業は経済的に見合う分しか支出しない。」
 嘘その3:政府の規模を小さくすれば、雇用が増大し景気も好転する。
 「政府の規模縮小は、州や自治体レベルでは教員や消防士、警察官、福祉職員などの公務員の減少を、連邦レベルでは安全検査官や軍人の減少をもたらす。その結果、公共事業の受託企業が減り、受託企業による民間部門の雇用も減ってしまう。」
 嘘その4:規制が少ないほど、経済は強くなる。
 「企業の存在理由は一つしかない。すなわち、利益を上げ株価を上げることであって、市民を守ることではない。だがそれでも、市民の健康と安全、個人投資家に対する公平性、持続可能な環境といったものはすべて「公共善」であり、これがなければ、人々はますます貧しくなってしまう。公共に対する利益のほうが、その負担よりも大きい場合に、規制を行うことは理にかなっている。規制は、公共の利益を最大化し負担を最小化するように設計すべき、それだけのことだ。」
 嘘その5:財政赤字をただちに削減すれば、景気は回復する。
 「成長と雇用が鍵なのだ。より多くの人が働けば、より多くの企業が利益を上げ、景気が拡大して税収が増え、経済規模に対する債務は相対的に減っていく。だが、経済成長が緩やかだったり、低迷しているときには、まさに反対のことが起こる。景気低迷と低税収の悪循環に陥ってしまう。もしそこで政府支出を削減したら、悪循環どころか、それが死にいたる落とし穴になってしまうかもしれない。」
 嘘その6:公的医療保険制度であるメディケア(高齢者対象)とメディケイド(低所得者対象)を縮小すべきだ。
 「基本的医療費が増え続ける一方で、より多くの高齢者が、支払能力がないために医療ケア市場から締め出されていく。医療費を抑制するずっとましな方法は、メディケアとメディケイドが公的医療保険制度としての交渉力を駆使して、製薬会社や病院の治療費を下げさせ、診療行為に対する課金から診療結果に対する課金システムへと移行させることだ。」
 嘘その7:われわれのセーフティネットは、寛大にすぎる。
 「彼らは、米国が抱える経済問題の原因は、政府「依存」の急増にあり、これらの給付を止めれば、人々は一生懸命に働くようになるというのである。
 しかしここでも、逆進主義者たちは原因と結果をあべこべにしている。フードスタンプや失業保険などのセーフティネット・プログラムの給付額が増えたのは、2008年に人々が、世界大恐慌以来の経済危機に打ちのめされたからなのだ。彼らもその家族も、受けられる限りの支援を必要としていたのである。
 それどころか、アメリカのセーフティネットはあまりに小さく、穴だらけだ。貧困層の数を割合が2009年から12年にかけて劇的に増大したのはそのためなのだ。これこそ本物の不祥事ではないか。たとえば、不況の真っただ中で失業保険給付を受けることができた失業者は40%にすぎなかったが、それは彼らが失業する前に非正規従業員であったか、職に就いていても受給資格に必要な労働時間を満たしていなかったからなのだ。失業保険制度では、多くの労働者が非正規で複数の仕事を掛け持ちし、短期間で職を転々とするという実態を想定していないのである。」
 嘘その8:社会保障制度は、ねずみ講だ。
 「社会保障制度をめぐる長期課題に対する合理的解決策は、給付額の削減や支給開始年齢の引き上げではなく、徴収対象となる所得上限を引き上げることなのである。」
 嘘その9:低所得者層の連邦所得税の負担割合が小さく、人によってはまったく所得税を払っていないのは不公平だ。
 「これはまったく不公平でも何でもない。「公平」というのは、より多くのカネを稼ぐ人が、カネのない人よりも、その所得のうちより大きな割合を税金として支払うということを言うのだ。これは累進課税制度と言われ、米国の税法の基本原理である。富裕層上位1%の人たちに流れる所得が1970年代後半に比べて倍増したのだから、彼らの税分担も倍増し、中・低所得層の負担は軽減したと思いたいところだが、実際には上位1%の人たちの税負担は、増えていく総所得に対するシェアには追い付いていない。もし税制が完全に公平であるならば、総所得税収に対する彼らの負担割合が増え、それ以外の人たちの税負担が減るはずだ。
 しかも、所得税はアメリカ人が支払う税金のほんの一部にすぎない。中・低所得者層は所得のなかから、給与税として社会保障税とメディケア、州と地方の消費税、各種の受益者負担金、固定資産税なども支払うから、所得に対する負担割合は、富裕層よりもずっと高くなる。」
 嘘その10:一律の税率のほうが公平だ。

(ロバート・ライシュ(1946-)『怒りを越えて』(日本語名:『格差と民主主義』)PART2 逆進主義的右派の勃興、経済をめぐる10の嘘、pp.142-157、東洋経済新報社 (2014)、雨宮寛・今井章子(訳))
(索引:経済をめぐる10の嘘)

ロバート・ライシュ 格差と民主主義

(出典:wikipedia
ロバート・ライシュ(1946)の命題集(Propositions of great philosophers) 「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。
 私的所有独占への制限契約不履行に対処するための破産などの手段ルールの執行といった事柄は、いかなる市場にも必須の構成要素だ。資本主義と自由企業体制にはこれらが必要なのだ。だがこの要素の一つひとつを、多くの人ではなく、ひと握りの人々を利するように捻じ曲げることも可能である。」(中略)「経済的支配力が、政治的権力を増大させ、政治的権力がさらに経済的支配力を拡大させる。大企業と富裕層が市場を構築する政治の仕組みに影響を与え、彼らがその政治的決定によって最も恩恵を受けるという状況は加速するばかりだ。こうして彼らの富は増強され、その富によってますます、将来発生する決断事項への影響力を得ていくのである。」(中略)「拡大する不平等は「自由市場」の構成要素そのものにしっかりと焼き込まれている。グローバル化と技術革新がなくても減税や補助金がなくても、国民総所得のうち、企業と、企業収益に自分の所得が連動する重役たちや投資家に振り分けられる割合は、労働者層に向う割合よりも、相対的に増加している。こうして悪循環が勝手に成立していくのである。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『資本主義を救う』(日本語名『最後の資本主義』)第1部 自由市場、第9章 まとめ――市場メカニズム全般、pp.108-111、東洋経済新報社 (2016)、雨宮寛・今井章子(訳))

ロバート・ライシュ(1946-)
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法外な富の蓄積や低い実質税率という真実を隠蔽し実利を得る方法(a)ゼロサムゲームの幻想を広め,高齢者対若者,中間層対貧困層など国民を分断,対立させる(b)公務員を悪者にし,規制緩和と民営化を推進する(c)最高裁への影響力(ロバート・ライシュ(1946-))

分断制圧戦略

【法外な富の蓄積や低い実質税率という真実を隠蔽し実利を得る方法(a)ゼロサムゲームの幻想を広め,高齢者対若者,中間層対貧困層など国民を分断,対立させる(b)公務員を悪者にし,規制緩和と民営化を推進する(c)最高裁への影響力(ロバート・ライシュ(1946-))】

(1)富裕層の知られてはならない秘密
 (a)法外な所得や、富の蓄積。
 (b)実質的な税率が低いという事実。
 (c)相続税や、キャピタル・ゲイン課税をなるべく低くすること。
 (d)富裕層に対して、さらなる減税を進めようとしていること。
(2)逆進主義者たちの分断制圧戦略
 国民を互いに分断し、互いに争わせ、本当の事実を見えなくさせる方法である。
 (2.1)戦略1 「ゼロサムゲーム」という幻想
  財政赤字に対する警鐘を鳴らしつつ、誰かを救うためには誰かが犠牲にならなければならないという幻想を作り出し、中産階級に人気の政策を締め付ける。
  (a)社会保障の受給が間近に迫る高齢労働者と、自分たちの時代にはそれらは破綻していると思っている若年労働者を対立させること。
  (b)中間層と貧困層を対立させること。
  (c)組合員と非組合員とを対立させること。
  (d)自国民と移民とを対立させること。
  (e)宗教的保守と世俗主義者とを対立させること。
 (2.2)戦略2 公務員を悪者にする
  (a)公的部門と、民間の労働者とを対立させること。
  (b)規制緩和と民営化の推進に好都合な戦略である。
  (c)社会資本やインフラへの投資削減に好都合な戦略である。
 (2.3)戦略3 最高裁を制圧せよ

 「逆進主義者の狙いは、米国を分断し制圧することだ。前に述べたように、組合員と非組合員とを対立させ、公的部門とそうでない部門の労働者、米国生まれと移民とを対抗させたばかりか、メディケアや社会保障の受給が間近に迫る高齢労働者と自分たちの時代にはそれらは破綻していると思っている若年労働者、中間層と貧困層、宗教的保守と世俗主義者との間をも対立させている。
 これは、富裕層のトップが法外な所得や富や権力を得てそれをため込んでいることや、歴史的に富裕層には税率が低いという事実から、人々の関心をそらすやり方の一つなのだ。そして彼らは、自分たちが富裕層に対してさらなる減税を進めようとしていることに誰も気づくまいと考え、ブッシュ減税を恒久化して富裕層減税を進め、相続税を廃止したほか、自分の所得をより税率が低いキャピタル・ゲイン課税(15%)になるべく多く区分できるようにしたのである。
 逆進主義者たちの分断制圧戦略は、以下の三つの部分からなっている。
 戦略1 「ゼロサムゲーム」という幻想。
 一つ目は連邦政府の予算審議だ。財政赤字に対する警鐘を鳴らしつつ、中産階級に人気の政策を締め付けることで、逆進主義者たちは国民に、首都で巨大なゼロサムゲームが起こっていると思わせたいのだ。普通のアメリカ人が勝つためには、別の普通のアメリカ人が負けなくてはならないという風に考えてほしいのだ。」(後略)
 戦略2 公務員を悪者にする
 戦略3 最高裁を制圧せよ
(ロバート・ライシュ(1946-)『怒りを越えて』(日本語名:『格差と民主主義』)PART1 不公正なゲーム、何を間違えたのか、p.xx、東洋経済新報社 (2014)、雨宮寛・今井章子(訳))
(索引:分断制圧戦略)

ロバート・ライシュ 格差と民主主義

(出典:wikipedia
ロバート・ライシュ(1946)の命題集(Propositions of great philosophers) 「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。
 私的所有独占への制限契約不履行に対処するための破産などの手段ルールの執行といった事柄は、いかなる市場にも必須の構成要素だ。資本主義と自由企業体制にはこれらが必要なのだ。だがこの要素の一つひとつを、多くの人ではなく、ひと握りの人々を利するように捻じ曲げることも可能である。」(中略)「経済的支配力が、政治的権力を増大させ、政治的権力がさらに経済的支配力を拡大させる。大企業と富裕層が市場を構築する政治の仕組みに影響を与え、彼らがその政治的決定によって最も恩恵を受けるという状況は加速するばかりだ。こうして彼らの富は増強され、その富によってますます、将来発生する決断事項への影響力を得ていくのである。」(中略)「拡大する不平等は「自由市場」の構成要素そのものにしっかりと焼き込まれている。グローバル化と技術革新がなくても減税や補助金がなくても、国民総所得のうち、企業と、企業収益に自分の所得が連動する重役たちや投資家に振り分けられる割合は、労働者層に向う割合よりも、相対的に増加している。こうして悪循環が勝手に成立していくのである。」
(ロバート・ライシュ(1946-)『資本主義を救う』(日本語名『最後の資本主義』)第1部 自由市場、第9章 まとめ――市場メカニズム全般、pp.108-111、東洋経済新報社 (2016)、雨宮寛・今井章子(訳))

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