2024年3月31日日曜日

16. 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)





「神との関係における本質的な要素は感情であると見なされがちで、それは、依存感情(Abhängigkeitsgefühl)と名づけられたり、最近ではより正確に、被造物感情(Kreaturgefühl)と名づけられたりしている。

が、このような要素の摘出・定立が正当であるだけに、それを不均衡に強調すればするほど、完全なる関係というものの本質は誤解されてしまうのである。

 愛についてすでに私が語ったことは、この場合には一層よくあてはまる。すなわち感情とはただ関係的事実に、しかも心のうちにではなく、《我》と《汝》とのあいだに生ずる関係の事実に付随するにすぎない。

感情はいかに重要なものとして理解されていようとも、心の力学の支配下におかれているのであって、そこではひとつの感情は他の感情によって追い越されたり、凌駕されたり、消去されたりするのである。感情は――関係とは異なって――ひとつの階列のうちにおかれているのである。

だが、あらゆる感情は何よりも先ず、一種の両極的な緊張の内部に位置していて、その色調や意味をみずからのうちからのみではなく、自己の対極からも引き出すのだ。あらゆる感情はそれぞれ対立するものによって限定されているわけである。

したがって、絶対的関係という、あの、あらゆる相対的関係を自己の現実性のうちに包括していて、それらと同様な部分的な出来事ではなく、それらを完成し合一する全体であるものでさえ、心理学の手にかかると相対化されて、一種の孤立的に摘出され限定された感情に還元されてしまうのである。

 心情という次元からみるなら、完全なる関係というものは、ただ両極的に、反対の一致(coincidentia oppositorum)として、すなわち対立しあう感情の一致としてのみとらえられる。

たしかに、その一方の極はしばしば――人間の宗教的な根本態度によって下方に押しかくされて――反省的意識の表層からは消え去り、そしてただ、このうえなく純粋で、何ものにも惑わされぬ静観の深みにおいてのみ想起され得るのだが。

 そうだ、純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。

きみはそのとき自己を被造的な――しかも同時に創造的な生命として感じていた。きみにはそのときもはや、他方によって制限されたそのどちらか一方ではなくて、両方が無制限に、両方が相い共に存在していたのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.107-108、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







2024年3月30日土曜日

21. 人は、酸素を含まない大気の中で肉体的に生きることができないのと同様に、自分に対して共感的に反応してくれない心理的環境では、心理的に生存できないのである(Kohut,1)ウォルター・ミシェル(1930-2018),


人は、酸素を含まない大気の中で肉体的に生きることができないのと同様に、自分に対して共感的に反応してくれない心理的環境では、心理的に生存できないのである(Kohut,1)ウォルター・ミシェル(1930-2018),


 『……人は、酸素を含まない大気の中で肉体的に生きることができないのと同様に、自分に対して共感的に反応してくれない心理的環境では、心理的に生存できないのである。』(Kohut,1977,p.85)

 「コフートの思考は、新しい精神分析的関心それ自体や自己の障害のような問題への治療のための方法を提案することになった。

無意識の葛藤や衝動によって駆り立てられるというよりも、コフートは今日の患者を、共感的学習や同化のための理想的「対象」つまり重要な他者が奪われたとみなしている。

両親は、情動的に壁の向こう側に行ってしまい、両親自身の自己愛的欲求を求めすぎているため、子どもの自己の健康的な発達や成人期の意味ある応答的な関係の形成のために必要なモデルがいないのである。

 人生や生活における重要な他者、つまり「自己にとっての対象」から共感的な反応が感じられないとき、人々は自己の破壊を恐れる。

コフートは、この状態を心理的酸素が奪われた状態にたとえている。自己にとっての対象からの共感的反応の有効性は、酸素の存在が肉体の生存に対するのと同じくらい、自己の生存にとって不可欠である。人間の自己の破壊を導くのは、冷淡さにさらされる、無関心な、共感的反応のない世界である(Kohut,1984,p.18)。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第9章 フロイト後の精神力動論、pp.292-293、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))


【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館

21. 場所の考慮を「政治的に」させるのは、個人が他者に対して対人的な力を維持し、またもしできることなら権力を失うことを回避しながら、もっと多くの権力を獲得しようとすることにある。(キャンダス・クラーク)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

場所の考慮を「政治的に」させるのは、個人が他者に対して対人的な力を維持し、またもしできることなら権力を失うことを回避しながら、もっと多くの権力を獲得しようとすることにある。(キャンダス・クラーク)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「場所の考慮を「政治的に」させるのは、個人が他者に対して対人的な力を維持し、またもしできることなら権力を失うことを回避しながら、もっと多くの権力を獲得しようとすることにある。

クラークは、この種のミクロ政治は伝統社会ではあまり明白ではないと論じている。より大きな社会構造における個人の地位が特定の出会いにおける彼の場所をも規定するからである。

しかし社会が高度に分化し、そして個人主義が優勢な文化イデオロギーになると、出会いにおける場所はますます攻撃的な力づくの作戦の様相を帯びることになる。

他人が自分の劣等感を表す感情をもって彼に互恵化させる感情表現をすると、個人は場所において上位者の地位をうまく確立し、保てるかもしれない。ある種の戦略的なドラマツルギーが関係しているかもしれない。クラークは望ましい場所を獲得するためのいくつかの戦略を概括している。

 1.他人に向けて否定的感情を開示し、そして彼らに劣等感を抱かせること。同情がこの戦略において用いられると、その戦略は見せかけの同情を軸にして展開し、他人の否定的な資質に注意を引きつける。たとえばある個人は仕事で後れをとった他者に「恥をかかせる」ために同情を表すかもしれない。

 2.他人の弱点、傷つきやすさ、問題や位置の低さを強調するようなやり方で感情的な贈り物を与えなさい。そうすれば、この「贈り物」の受け手は自意識過剰になるか、あるいは劣等感を感じる。同情が一つの戦術として用いられると、個人は彼が否定的属性をしめしたために許され、あるいは赦免されたことを他者に知らせるだろう。

 3.他人をおだてるようなやり方で肯定的感情を与えなさい。そうすれば、彼らはあなたに好意を抱くだろう。同情を一つの戦術として用いるとき、個人は上位者に同情を表し、そして彼と親密さを増せるかもしれない。そうすれば上位者とのあいだの距離が縮まる。

 4.他人に義務や責任を思い出させなさい。そうすれば他人のうちに罪や恥意識を芽生えさせることができる。同情を一つの戦術として用いる際に、同情が与えられるために生まれる問題を指摘することによって、感情的な重荷をつくりだしなさい。そうすれば、他者の場所を低めることができるだけでなく、同情の受け手に互恵化しなければならない責任を負わすことができる。

 5.他人から感情的制御を失わせ、そして社会統制の独占を保ちなさい。同情が一つの戦術として用いられるとき、他人に心配、屈辱、恥、怒りなどの否定的感情を実感させるような方法で同情を提供しなさい。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、pp.131-133、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))<br>

<br>


感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]




2024年3月26日火曜日

13. 冷却材喪失事故(高木仁三郎(1938-2000)

 冷却材喪失事故(高木仁三郎(1938-2000)

「原子炉の事故でこれまで、いちばん怖れられてきたのは、スリーマイル島・タイプの冷却材喪失事故といえます。空炊き事故といい直せば、わかりやすいでしょうか。
 
原子炉の運転中でも、運転を止めた場合も、炉心は非常な高温になっています。これを毎秒一〇トン以上もの水を原子炉の中に循環させて、冷やしている。逆にいえば、その水がそれによって加熱されて蒸気になって発電をしているのです。この水が何らかの形で失われると、冷却材喪失事故になる。

 事故に至る形はいろいろですが、いちばん典型的に考えられているのは、原子炉に水を入れているいちばん主な冷却水の配管が何らかの原因で大破断(ギロチン破断)した場合です。こういう大口径破断以外に、もっと小さなところで水漏れが起こっても、その水漏れが止まらなければ事故につながります。

 現実にはまだ起こっていませんが、可能性として問題になっているものは、原子炉のお釜そのものが破壊してしまうことです。長い運転をしていると、放射線の影響で金属が脆くなってきます。これによって、ある条件のなかで破壊することがあるのではないかといわれていますが、そうなるとお手あげです。

そのほか、水を原子炉の中に送り込んでいるポンプが停電などで止まって水がいかなくなってしまう場合など、いろいろありますが、とにかく冷却水がなくなって空炊きになると、これが燃料棒の破損につながります。」

 (中略)「核分裂反応は止めたけれども、放射能の熱によって過熱状態が続く。そして一時間四〇分ぐらいから炉心上部が空だきとなり燃料棒の損傷が始まりだした。

 まず、燃料棒を被っているジルコニウムという金属の被覆管が、九〇〇度ぐらいになると、水と反応を始めます。酸化してしまうのですが、それによって大量に水素が発生します。この反応は発熱反応ですから、それによってさらに過熱が促進され、そして金属がボロボロになって、放射能が出てきてしまう。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』原発事故―――日本では? 第3章 原発事故の二つの形、pp.286-288)



2024年3月25日月曜日

15. 経済の基本原則では、いいものよりも悪いものに税金を課すほうがよいとされる。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)


経済の基本原則では、いいものよりも悪いものに税金を課すほうがよいとされる。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「経済の基本原則では、いいものよりも悪いものに税金を課すほうがよいとされる。

仕事(生産的なもの)に税金を課すことに比べたら、汚染(石油会社が石油を流出させて海を汚す場合であろうと、化学会社が有毒な老廃物を生じさせる場合であろうと、金融会社が有害なアセットを作り出す場合であろうと、いずれも悪いものだ)に税金を課すほうがよい。汚染する者は社会のほかの人々に押しつけるコストを負担しない。

 水質汚染や大気汚染(温室効果ガスの排出をふくむ)を生み出す人々が自分たちの行動がもたらす社会的コストを支払わないという事実は、経済をゆがませる大きな原因のひとつだ。

税金を課すことは、このゆがみを正して、負の外部性を生み出す活動を思いとどまらせ、社会的貢献度の高い分野に財源を移転させるのに役立つ。

他人に押しつけるコストを全額支払わない会社は、事実上補助金を受け取っているにひとしい。さらに、このような税金は10年間で本当に数兆ドルを集めることができるだろう。

 石油、ガス、石炭、化学、製紙、そのほか多くの企業は環境を汚染してきた。しかし、金融会社は有害な住宅ローンで世界経済を汚染した。金融セクターは社会のほかの人々にとてつもない外部性を押しつけてきたのだ。すでに触れたように、金融セクターが重大な責任を負っている金融危機のコストは全体で数兆ドルにのぼる。

ここまでの各章で、瞬間的トレーディング、その他の投機的行為はボラティリティを生み出すかもしれないが、実際に価値を生み出すわけではないことを見てきた。市場経済の全体的効率性が低下することさえあるかもしれない。

 汚染者支払い原則は、汚染者が他人に押しつけたコストを支払うべきだとする。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第8章 緊縮財政という名の神話,pp.314-315,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】





 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)




2024年3月24日日曜日

15.理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならない(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならない(マルティン・ブーバー(1878-1965)



「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。

国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。

しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。

諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。

決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。

社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。

これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。

なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。

精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。

その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

我と汝/対話






20.ストレンジ・シチュエーション法(メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 ストレンジ・シチュエーション法(メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)(ウォルター・ミシェル(1930-2018)


「メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)は、小さな子どもの幼児・親の愛着パターンを検討するために「ストレンジ・シチュエーション法」という研究方法を開発した(例:Ainsworth et al.,1978; Stayton & Ainsworth,1973)。ストレンジ・シチュエーション法は、小さな子どもと主要な養育者との関係における個人差を測定する。

 この状況において、子ども(約18カ月)は、主要な養育者であることが想定される母親と、知らない他人とともに、初めてのプレイルームへ連れていかれる。

そして、子どもは、母親がいて子どもとかかわっている状態から、母親がいて夢中になっている状態や、母親がいなくなる状態など、さまざまなレベルの母親の接近可能性を体験する。

子どもはストレンジ・シチュエーションの間に母親から二度分離される。一度は知らない他人と一緒に残され、もう一度は一人きりにされ、ストレスが高い状況がつくりだされる。そして、短い分離の後、母親が戻ってくるのである。

 三つの主要な行動のパターンがこの状況において見いだされる。

再会時だけでなく、実験の間中、母親を避ける子どもは不安定-回避型、A型の子どもとみなされる。再会時に母親を肯定的に出迎えることができ、その後、楽しんでいた遊びに戻り、手続きの間中、母親と望ましい相互作用を行う子どももいる。こうした子どもは安定型、B型の子どもといわれる。再会時に接触を求めるが怒りも表し、再会後になかなか機嫌がよくならない子どもは不安定-両価型、C型の子どもに分類される。

 注目すべきは、安定型の子どもも不安定-両価型の子どももどちらも、母親が出ていったときに泣くのである。しかし、このモデルによると異なった理由で泣いている。

安定型の子どもが泣くのは抗議反応の一部であり、母親が戻ってくるのに有益な行動であるために泣くのである。両価型の子どもは、母親が出ていったため、怒りや絶望から泣くのである。

大きな違いは安定型の子どもは、母親が戻るとすぐに快感情を示し、母親のいる前ですぐに環境の探索に戻ることである。両価型の子どもは、母親の存在によって快感情を示すことはなく、母親にしがみつき、泣き続ける。母親への接近可能性に自信がもてないため、遊びや探索に戻れないのである。

異なるタイプの子どもでは母親の反応の異なるパターンを経験していることが、家を訪ねてみると明らかになる。

例えば、安定型と評定された子どもの母親は、子どもに対して最も応答的である。抵抗的な子どもの母親は応答性において一貫していない。回避型の子どもの母親の応答性は文脈によって変化する。接触や快感情を得ようとすることに対して応答的ではないが、子どもの遊びに対し統制的で、邪魔をするのである。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第9章 フロイト後の精神力動論、pp.288-289、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館

2024年3月23日土曜日

20. 多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「ホックシールドの分析の要点は、文化の台本がとくに否定的感情を喚起するような行動を人びとに強いると、個人が文化的規則とイデオロギーをどのように処理するかに強い関心を寄せている。

たとえば航空会社の旅客機乗務員が、乗客の不作法な行動に遭遇している際に、感情規則と感情開示規則によって指示される望ましい態度をどのように保持するのだろうか。

多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。適切な態度を感じ、またそれを提示するための感情労働の技法は、以下のことを含んでいる。

 1.ボディワーク 人びとは状況への生理反応を変えようとする。

たとえば平静を装うため、個人は冷静さを保つために深呼吸をする。また別の人は攻撃的な行動の構えを表現するため、身体を躍動しながら大声を張りあげるかもしれない(試合に先立ってアスリートがよくやっているように)。このように身体が気持ちを高ぶらせる(あるいは気持ちを削ぐ)ために用いられる(Hochschild,1983)。

 2.表層演技 個人は、こうした演技が感情――ジェスチャーが伝えると思われている感情――を自ら感じ、経験できるという期待を込めて、外部に向けて自らの表出的ジェスチャーを操作する。

たとえば人びとは出会いを維持するため、しばしば「その場にふさわしい幸せそうな表情を装う」。ここでの感情の開示規則は、個人は幸せを感じるべきと要求するが、しかしこの振る舞いは、当人が最終的に幸せと感じることができ、そして本当に肯定的な雰囲気になるかもしれないという期待をもって実行されることもある。

 3.深層演技 人びとは、自己の内面に特定の気持ちを呼び起こそうとする。この気持ちによって、人びとは感情の開示規則が彼らに顕在的に表現することを要求する感情を自ら経験できる。行為者は台本が求める感情開示の方向に自己の内面を変えるためにこの技法を頻繁に用いる。

 4.認知ワーク 個人は思いつきや考えを呼び起こす。

たとえば状況が悲しみを要求するなら(たとえば葬儀)、個人は悲しみとはどんなものであるかについて考え、そして実際に悲しさの顕在表現が本物に見えるようにするため本当の悲しみの感覚を体験した過去の経験を思い起こすかもしれない。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年3月18日月曜日

14. 世論に影響力を行使する最も効果的な方法のひとつは、政治家をつかまえることだ。なにしろ、政治家は思想を売り込む商人だと言っていい(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)


世論に影響力を行使する最も効果的な方法のひとつは、政治家をつかまえることだ。なにしろ、政治家は思想を売り込む商人だと言っていい(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)


 「世論に影響力を行使する最も効果的な方法のひとつは、政治家をつかまえることだ。なにしろ、政治家は思想を売り込む商人だと言っていい(政治家を説得して、自分のものの見かたや認識を取り入れてもらうことには、ふたつの利点がある。政治家はその思想を大衆に売りさばいてくれるだけでなく、法律や規則に変換してくれるのだ)。

たいていの場合、政治家が思想を考え出すわけではない。むしろ、学界や一般の知識人、政府内部や非政府組織(NGO)から生まれつつある思想を取り込む。これらの思想のうち、自分たちの世界観に合うものを寄せ集めたり、自分たちの支持者が好むと思われる組み合わせにしたりする。


アメリカの金持ちの政治においては、すべての有権者が平等なわけではない。政治家は、金融界の役に立つ思想を信奉するインセンティブを持っているのだ。

 一部の国では、政治家をお金で買うことができる。

しかし、アメリカの政治家は、ほとんどの場合、それほど野蛮ではない。中身の詰まった茶色の封筒を受け取ったりはしない。

お金は選挙キャンペーンにつぎ込まれたり、政党の金庫にしまわれたりする。これは”アメリカ型の汚職”と呼ばれるようになった。政権を去ったあとに金銭的報酬を手にする政治家もいる。これはアメリカ特有の”回転ドア・システム”の一段階だ。その一方で、一部の政治家は、いま権力を握っているという喜びだけでじゅうぶんな満足を得る。

 政治家が売り込む思想を支えているのは”専門家”の一団で、これらの見解の正しさを示す証拠や主張や筋書きをみずから進んで提供してくれる。

もちろん、そういう思想の戦いは、さまざまな場で繰り広げられる。政治家は、官職には立候補しない代理人や取り巻きをかかえて、これらの思想の改良作業にあたらせ、対立陣営の思想の正当性を検証させる。このとき、両陣営の証拠や論法が集められる。

 この”思想の戦い”には(より一般的な宣伝広告と同じように)ふたつの目的がある。すでに心からその思想を信じている人々を結集することと、まだ決めかねている人々を説得することだ。

前者の場合は、支持団体を呼び集めて積極的にかかわらせることが必要になる。アメリカのような多額の費用がかかる選挙民主主義では、このような”支持基盤”を固めることが重要な意味を持つ。

なぜなら、選挙の結末は、キャンペーン資金を集めて、票のとりまとめに成功するかどうかにかかっていることが多いからだ。

対立陣営に”リベラル”や”ネオコン”といったレッテルを貼ることもひとつの手で、自陣の候補者が冴えない人物であっても投票する気にさせることができる。

 後者の場合の多くは、”無党派層”を対象としている。無党派層を説き伏せるには、長くてまわりくどい話より、単純でねじ曲げられた話を、たいていは繰り返し話すほうが効果を発揮する。 

感情に訴えるほうが理性に訴えるよりも効果的な場合が多い。広告業者はメッセージを大衆受けする60秒の広告に凝縮するのがうまい――理性に裏打ちされているように思える感情的な広告に。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.243-244,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))<br>

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】


 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)







2024年3月17日日曜日

14. 真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「組織が公的生活を生み出すものでないことは、ますます多くのひとびとが、しかもますます募る苦悩をもって感じ取っている。

これが、何とかして活路を見いだそうとする切実な時代的要求の出発点である。

感情が個人生活を生み出すものではないということはしかし、ごく少数のひとびとしか、まだ理解していない。むしろ、ここにこそもっとも個人的なものがやどっているようにみえるわけである。

そして、近代人はおおむねそうなのだが、やたらに自分自身の感情と関わりあうようになって、そのあげく、感情の非現実性に絶望しても、ひとびとはその絶望によってすら容易には蒙をひらかれることがない。なぜなら、絶望もまたひとつの感情、興味ぶかい対象だからである。 

 組織が公的生活を生み出すものでないということに苦しむひとびとは、ひとつの解決手段を思いついた、……すなわち、それを他ならぬ感情によって、ゆるめたり、溶かすなり、うち破るなりせねばならないというのだ。組織のなかへ《感情の自由》をみちびきいれることによって、まさに感情の面からそれを革新せねばならないというわけである。

たとえば、国家が自動機械じみたものに化されてしまって、たがいに心の触れあいのない市民をただともかく繋ぎあわせているにすぎず、彼らのあいだに何らの共同的なつながりをもうち立てたり推し進めたりしていないからには、このような国家は愛の共同体(Liebengemeinde)によって取りかえられるべきだというのが、このひとびとの考えなのだ。

そして愛の共同体とは、民衆が自由な、熱烈な感情にうながされて集いあい、たがいに生活を共にしようと欲するときにこそ成り立つというのである。

だが、事実はそうではない。真の共同体(Gemeinde)とは、ひとびとがたがいにあたたかな感情をもちあうことによって成り立つのではない(むろんこのことなしには成り立たないとはいえ)。

真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立するのである。


この後者は前者から生ずるのであるが、しかしこれが前者とともにのみ存在したためしはまだない。共同体は生ける相互関係をもとにして築きあげられる、しかし、その建築師はあの生きて働きかけてくる中心なのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.60-61、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







2024年3月14日木曜日

19. 感情文化(スティーブン・ゴードン)

 感情文化(スティーブン・ゴードン)

 「ゴードン(1990)は感情を、(1)身体感覚、(2)表出ジェスチャー、(3)社会状況もしくは社会関係、(4)社会の感情文化によって構成されると見なしている。

ゴードンの見解によれば、第一の要素、すなわち身体感覚は文化の台本が誘導する行動に表現される場合にのみ重要である。

だから感情を表わす顔面表情、言語表現や身体ジェスチャーは先天的な生物的衝動の結果であるよりも、むしろ他者や状況にどのように反応するかを制約する文化力の産物である。文化力は感情を指示する語彙、人びとが感情について抱いている信念、および人びとが感情をどのように感じるべきかについてと、また感情がいつ、またどのように表現されるべきかの規則においてとくに明白であるとゴードンは論じる。

社会メンバーは、すべての感情語彙(感情を表わす単語)、感情信念(たとえば幸せは自由に表現されるべきだが、怒りは弱められるべきであること)、そして感情規範(われわれは争いに悲しみを、そしてパーティーでは幸せを感じるべきであること)を学習する。ゴードン(1989a,1989b,1990)はこうした複合的な感情語彙、信念、規範を社会の感情文化と呼んでいる。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))


感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]

 

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2