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2018年6月5日火曜日

行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

微小表象

【行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 熟慮を経ないで、私が、一方の行動よりも他方へ傾くとき、それは必ずしも意識されているとは限らない微小表象の連鎖と協働の結果である。
(b) 私たちの熟慮において、多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、必ずしも意識されているとは限らない微小な刻印の連鎖に由来している。
(c) 自由意志論における「ビュリダンのロバ」の非決定は、これら必ずしも感じとれない微小表象の刻印を忘れている結果である。しかし、これらの刻印は、「強いずに傾ける」のである。
 「あらゆる刻印が結果をもっていますが、すべての結果が常に目立つとはかぎりません。私が一方よりも他方を向くとき、それはしばしば微小な刻印の連鎖によるのです。そうした微小な刻印を、私は意識しているわけではありませんが、これらの刻印はひとつの運動を他の運動より少しだけ起りにくくするのです。熟慮を経ない私たちの行動はすべて、微小表象の協働の結果です。私たちの熟慮において多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、それに由来しています。というのも、こうした習慣は少しずつ生まれるものですし、したがって微小表象なくして、私たちはそういう目立つ態勢に到ることはないからです。すでに指摘したように、そうした微小表象のもたらす結果を道徳において否定する者は、自然学において、感じとれない微粒子を否定するようなひどい教育を受けた人々の轍を踏むことになります。しかしながら、自由について語る人々のなかには、均衡を破りうるこれら感じとれない刻印に注意を払わず、道徳的行為におけるまったき非決定を思い描く人を見かけます。これではまるで、二つの牧草地の真中に置かれた「ビュリダンのロバ」の非決定と同じです。これについては後にもっと詳しく話し合いましょう。でもこれらの刻印が、強いずに傾けるものであることは認めておきます。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第一章[一五]、ライプニッツ著作集4、p.120、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:微小表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月4日月曜日

我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

意識されない無数の表象

【我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。
(a) 個々の印象があまりに微小で、多数であり、あるいはあまりに単調で、個別には十分識別できないが、他のものと結びついたときには、印象の効果を発揮して感覚されることがある。
(b) 慣れによって、その印象に新鮮な魅力がなくなって、我々の注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、感覚されなくなることがある。
(c) 注意力が気づくことなく見過ごしていたある表象が、誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、例えば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、我々はそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚を持っていたことに気づくことがある。
 「次のように判断させる多数の標示がある。すなわち、われわれの内には、意識表象も反省もされていない無数の表象が絶えずあり、それは、魂そのものの内にある、われわれが意識表象していない諸変化である。それらの印象があまりに微小でありしかも多数であるか、あるいはあまりに単調で、その結果、それぞれ別々に十分識別できないが、それでも他のものと結びついたときには印象の効果を発揮して、少なくとも集合的には錯然と感覚されるからである。たとえば、水車の回転や滝のすぐそばに暫くとどまっていると、慣れによってそれらの音に気をつけなくなる。それは、これらの運動がわれわれの感覚器官に印象を与えつづけていないからではないし、また、魂と身体の調和によって、これに対応する何ものもまだ魂のなかに生起していないからでもない。そうではなくて、魂や身体の受けている印象が、新鮮な魅力がなくなって、われわれの注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、われわれの注意や記憶はもっと関心をよびおこす対象にだけ注がれるのである。あらゆる注意力は、いくらかの記憶を必要とし、われわれ自身の現前する諸表象のいくつかについて注意するようにと、いわば警告されないと、それらの表象を反省なしに、気づくことさえなく看過してしまうのである。けれども誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、たとえば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、われわれはそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚をもっていたことに気づく。このようにそれらは、われわれがすぐには意識することのない表象であり、意識表象はこの場合、どんなに小さな間であろうと少しの間をおいた後に知らされて生じるのである。そして、密集していて区別できない微小表象をもっとよく識別するために私は、海岸で聞こえる海の轟やざわめきの例を用いることにしている。通常このざわめきを聞くには、全体のざわめきを構成している各部分、つまりひとつひとつの波のざわめきを聞いているにちがいない。これら微小なざわめきのひとつひとつは、すべてが同時に錯然と生起している集合のなかでしか知られないし、ざわめきをなしている波がたったひとつであるなら気づかれもしないであろうけれど。というのも、その波の運動によってわれわれは少しは作用を受けているはずであり、そうでなければ、十万の波の表象はもち得ないであろうから。ゼロが十万集まっても何ものもできないのである。微弱で錯然としたいかなる感覚ももたないほどに深く眠ることなど決してない。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.21-22、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:意識されない無数の表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

大理石の中に石理の喩え

【魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)
 魂についての、二つの考え方。私は(b)の立場をとる。なぜなら、数学者たちの言う「共通概念」や必然的真理など、何かしら神的で永遠なものの由来が、外的な感覚や経験のみであるとは思われないからである。
(a) まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白で、魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来する。
(b) 魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。
 魂の中の「諸原理」とは何かについての、補足説明である。
 傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。喩えとして、大理石の中に石理(いしめ)を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要である。こうして、潜在力は、それに対応する何らかの現実態となる。
 感覚に起源をもたない生得的な観念の例。存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象。
 「おそらくこの優れた英国の著者は、私の考えから、全面的に離れているのではないだろう。なぜなら、彼はその第一部全部を生得的知性を斥けるのに費やしたが、それはある限定された意味においてであり、第二部の初めとその後で感覚に起源をもたない観念が反省に由来することを認めているからだ。反省とは、われわれの内にあるものへ注意を向けることにほかならず、感覚は、われわれがすでに内にもっているものをわれわれに与えたりはしない。そうだとすれば、われわれの精神のうちに多くの生得的なものがあることをどうして否定できようか。われわれはいわば自らにとって生得的であり、われわれの内には、存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象があるのだから。しかも、これらの対象はわれわれの知性に直接に属し常に現前しているのだから(われわれの不注意や欲求のために、常に意識表象されるわけではないが)、これらの観念がそれに依存するすべてのものと共にわれわれの内に生得的であるといっても、驚くことはないだろう。それゆえ私は、まったく均質な大理石やあるいは何も書かれていない板つまり哲学者たちがタブラ・ラサとよぶものよりも、石理(いしめ)のある大理石の喩えを用いたのだった。なぜなら、もし魂がそうした何も書かれていない板に似ているならば、大理石のなかにあるのがヘラクレスの形かあるいは何か別の形像かをまったく決められないのに、この大理石のなかにあるのはヘラクレスの形像だ、というように真理がわれわれの内にあることになろう。けれども、石理が他の形像よりもヘラクレスの形像を刻むのに適しているのであれば、この石は他の像よりヘラクレスの像を刻むように向いているのであり、ある意味でそこではヘラクレスが生得的ということになろう。ただし、石理を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要ではある。観念や真理はこのように、傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。これらの潜在力は、それに対応する何らかの現実態を常に伴っているが、たいていは感覚できないのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.18-19、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:大理石の中に石理の喩え)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月3日日曜日

魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

魂の中にあるものの由来

【魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 魂についての、二つの考え方。私は(b)の立場をとる。なぜなら、数学者たちの言う「共通概念」や必然的真理など、何かしら神的で永遠なものの由来が、外的な感覚や経験のみであるとは思われないからである。
(a) まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白で、魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来する。
(b) 魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。
 「われわれ二人の見解の相違は、かなり重要な諸テーマについてである。それは次の問題に関わる。魂それ自体は、アリストテレスや『知性論』の著者のいうような、まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白なのか。そして魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来するか。それとも、魂はもともと多くの概念や知識の諸原理を有し、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こすのか。私は後者の立場をとる。プラトンやスコラ派さえそうであり、「神の掟は人の心に書き記されている」(ローマの信徒への手紙二・一五)、という聖パウロの一節をこの意味に解しているすべての人々がそうである。ストアの哲学者たちはこれらの原理をプロレープシスと呼んだ。すなわち根本的仮定、予め前提されている事柄である。数学者たちはそれらを「共通概念」(コイナイ・エンノイアイ)と呼ぶ。現代の哲学者たちは別の美しい名前をつけている。とくにユリウス・スカリゲルはそれらの原理を「永遠の種子」(Zophyra)と名づけていた。いわば「生ける火」、「閃光」であり、われわれの内部に隠れているが、感覚に接触すると現われ、衝撃を与えると火器から飛び出る火花のようなものだ。このような輝きは、とりわけ必然的真理において現われる神的で永遠な何ものかを示している、とわれわれが思うのも、理由なきことではない。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.14-15、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:魂の中にあるものの由来)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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記号とは、ある事物であって、それによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。その応用としての、幾何学的記号法について。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

幾何学的記号法

【記号とは、ある事物であって、それによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。その応用としての、幾何学的記号法について。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 記号とは、ある事物であって、それによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。
事物         ⇔ 記号
事物におけるある陳述 ⇔ 演算
機械         ⇔ 設計図
物体         ⇔ 平面図

 例えば、平面図における事物のある像の上で、ある幾何学的演算を行ったとするならば、その演算の結果は平面図におけるある点を与えるであろう。そして、それに対応する点を事物において発見する。
 ところで、図形を代数方程式で表現して、幾何学的な問題を解くような場合は、どのような図形が得られるかを計算によって表示することは全く困難であり、また、計算によって発見されたものを図形に表現することも難しい。しかし、図形の点を表わすのに文字を使用し、点と点の関係で図形の特性を文字で表現することによって、さまざまな図形を記号的に表示することができれば、幾何学を驚くほど前進させることになるだろう。

図形の点       ⇔ 文字
点と点の関係     ⇔ 文字と文字の関係
図形         ⇔ 文字の組合せで、記号的に表示する
 「一――記号(characteres)は、ある事物であってそれによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。したがって記号において行われるすべての演算には事物におけるある陳述が対応する。そしてしばしば事物自体の考察を記号の処理の完成まで延期することができる。実際、記号において求められるものが発見されるならば、初めから設定されている事物と記号の対応関係によって同じものが容易に事物において発見されるであろう。このようにして機械は設計図によって提示され、物体は平面図で表現される。したがって物体の点で、遠近法の規則に従いそれに対応する点が平面図に表示され得ないようなものはないのである。かくて遠近法的に平面図において事物の像の上である幾何学的演算を行ったとするならば、その演算の結果は平面図におけるある点を与えるであろう、そしてそれに対応する点を事物において発見することは容易である。従って体積問題の解も平面で実現される。
 二――しかし記号が精密であればあるほど、即ちそれによって事物の関係が多く表現されればされるほど、その有効性が明らかとなる。私の用いた算術的記号がなすように記号がすべての、事物の相互関係を明示するならば、記号によって把握されないものは事物にないことになろう。代数記号も算術的記号と同じく優れている、それは不定数を表わすからである。等しい諸部分からなる目盛りが与えられたとき幾何学においては数によって表現されない何物もないから、幾何学的研究の何であれ、計算に従属させられることになる。
 三――しかし同じ事物が種々なる方法で記号化されることを知らねばならない。そのときある方法は他の方法よりも適切であるということになろう。物体がそこに遠近法的に作図される図面は凸面であってもよいが、平面図の使用の方が優れている。現行の数の記号―――アラビア数字またはインド数字と呼ばれている―――が古いギリシアとローマの数字より計算に適合していることは誰も承認している。もちろん後者によっても計算は十分に遂行される。同じことは幾何学的使用においても生じる;代数記号は空間において考察されねばならないことすべてを表現するわけではなく(すでに発見され証明された諸原理を前提している)、また点の位置自体を直接表わさない、むしろ量によって長い迂路を通ってそれを扱うのである。その結果、どのような図形が得られるかを計算によって表示することは全く困難であり、なおさら、計算によって発見されたものを図形において実現することは困難である。」(中略)
「五――しかし、このような図形の点を表わす文字の使用によってかなりの図形の特性が表示されることに気付いたときに、任意の図形の点の関係のすべてが同一の文字によって表示されるのではないか、従って全図形が記号的に表示されるのであるまいかということを認識し始めた。何回もの線の作図によってかろうじて与えられる、むしろほとんど与えられないものがこの文字の配列と置き換えのみで発見されるであろう。」(中略)
「七――さて一度図形と物体を文字によって正確に表現できたとするならば、幾何学を驚くほど前進させるのみならず、また光学、運動学と力学、一般に想像力に従属するものすべてを一定の方法によりいわば解析的に扱うことになるであろう。そしてこの驚くべき技術によって将来機械の発明は幾何学的問題の作図以上に困難ではなくなることが実現されるであろう。かくていかなる苦労もなくまた費用も要らずに大変複雑な機械、さらに自然の事物すら図なしで素描されよう。従ってそれは後世に伝承されて、望むときはいつでもその記述からその図が最高の正確さで作られ得るのである。ところが現今図を素描する困難と費用のために多くが失われており、人々は新たに発見された国家のために有用な事物の記述に追いまくられているのである;実際言葉は十分に正確でもなく、また記述にふさわしいほど十分に適合してもいないのである。」(後略)
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『幾何学的記号法』一~三、五、七、ライプニッツ著作集1、pp.318-321、[澤口昭聿・1988])
(索引:幾何学的記号法)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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すべての現実存在命題は、真なる偶然的命題である。現実存在命題の証明は、無限個の個体の完備概念を含み、決して完了した証明には達し得ない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

現実存在命題

【すべての現実存在命題は、真なる偶然的命題である。現実存在命題の証明は、無限個の個体の完備概念を含み、決して完了した証明には達し得ない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)
真なる偶然的命題:無限に継続される分解を必要とする命題。
 しかし、真なる偶然的命題は、経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明される可能性がつねに存在する。これが「偶然的」の意味である。

 すべての現実存在命題は、真ではあるが必然的ではない。何故ならば、それは、無限個の命題の使用によって、つまり無限にいたる分解によってのみ証明されるからである。仮に、我々が完備な項に到達可能であるとしても、ある命題は、現実存在するものを無限に含む個体の完備概念によってのみ証明される。よって、決して完了した証明に達することはできない。
 「七四――すべての現実存在命題(propositiones existentiales)は真ではあるが必然的ではない。何故ならば、それは、無限個の命題の使用によって、つまり無限にいたる分解によってのみ証明されるからである。即ち、それは、現実存在するものを無限に含む個体の完備概念(notio completa)によってのみ証明されるのである。例えば”ペテロは否認する”と私がいうとき、それを特定の時間について考えると、とにかくその時間の本性が前提されており、その本性は確かにその時間に現実存在したすべてを含んでいる。私が時間を離れて不定に”ペテロは否認する”というとき、すでに否認したのであれ、否認しようとしているのであれ、これが真なるためには少なくともペテロの概念からこの事実が証明されねばならない。しかしペテロの概念は完備で、そのため無限に多くのものを含んでいる。よって決して完了した証明に達することはできないが、その差が任意の与えられた差より小となるように漸近的に接近するのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』七四、ライプニッツ著作集1、p.179、[澤口昭聿・1988])
(索引:現実存在命題)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

排中律について

【問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 「{問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか? 真なるものも偽なるものも少なくとも無限な分解によって常に証明されるというべきである。しかしこの場合命題は偶然的である、即ち真であることまたは偽であることが可能である。そして概念についても同じであって、無限な分解において真であるか偽であるか、即ち現実存在を許容されるべきであるかそうでないか明らかとなる。注意:同じようにして、真なる概念は現実存在であるか、偽なる概念は非現実存在であるか。すべての不可能な概念は偽である。しかし可能な概念のすべてが真であるわけではない。従って存在せず、また存在しないであろうような概念は偽であろう、その種の命題も偽であるのと同じである、etc.もちろん、概念においては現実存在をいっさい考慮しなく、真なる概念は可能な概念と同じであり、偽なる概念は不可能な概念と同じである―――例えば現実に存在するペガサスは語らずともよい―――という決心をすれば話は別となる。}」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六六、ライプニッツ著作集1、p.175、[澤口昭聿・1988])
(索引:排中律)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月1日金曜日

経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

経験的事実

【経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 公理:それ自身で認識される経験的事実。
(b) それ自身で把握される項。
(c) 経験的事実を、他の事実から基礎づけるという考え方をするならば、経験的事実は、公理、それ自身で把握される項と経験的事実に分解され、これらから証明される必要がある。
(d) そうすると経験的事実は、他の経験的事実へ無限に分解されることになるのではないか?

(限りがない?)
   ↓
 経験的事実、公理、それ自身で把握される項
   ↓
 経験的事実

あるいは、
 他の命題(公理でも定義でもない)
(これ自身、証明を必要とする)
   ↓
 経験的事実
(e) 経験的事実を、他の事実から基礎づけるという考え方をする限り、到達された知識の状態は、事実とわかったものへの分解が完了した状態ということになる。

 公理、それ自身で把握される項
(潜勢的一致が形相的または表現的となる)
   ↓
 経験的事実

(f) しかし、それ自身で把握されまた判明に捉えられるような概念が、全くないか、もしくはただ一つ、すなわち、存在の概念だけだとしたら、どうだろう。どの命題も、理性によっては完全には証明され得ないことが、結論する。

    それ自身で把握される項
     または
    経験において発見された項
     ↓
 公理、仮定された定義
   │(項の定義は可能性を前提とする)
   ↓
 経験的事実

(g) 理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。

(再掲)
可能な命題:それから決して分解において矛盾が生じないであろうことが証明され得る命題。

真なる偶然的命題:無限に継続される分解を必要とする命題。
 しかし、真なる偶然的命題は、経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明される可能性がつねに存在する。これが「偶然的」の意味である。

偽なる偶然的命題:偽なることが証明されるのは、その真である証明があり得ないということによってのみであるような命題。

 「六二――しかしすべての真なる命題は証明される。従って経験的事実もまた真なる命題である故に、いま述べた証明法と別のものが存在しないならば、それも再び公理、それ自身で把握される項と経験的事実に分解されることが帰結する。しかしそれ自身で認識されるもの即ち公理以外第一の経験的事実はない。
 六三――経験的事実が他の経験的事実へ無限に分解されるかどうか問題となる。経験に言及しなくとも、ある証明があって、そこでは命題の証明が常にほかの命題の証明を前提としており、これは公理でも、定義でもなくて、さらに自身証明を必要とすることが分かるというようなことが可能であるかどうか問題となる。この場合には必ずある非複合項は連続的に分解され、決してそれ自身で把握される項に到達しないのである。しからざれば分解の完了により潜勢的一致が形相的または表現的となるか、即ちすべてが自同命題に帰するか明らかとなるであろう。
 六四――従って、非複合項の分解がある場合には無限に継続して、それ自身で把握される項に決して達しないことが可能であるか問題である。われわれにはそれ自身で把握されまた判明に捉えられるような概念が全くないか、またはただ一つである(例えば存在の概念)ならば、確かにどの命題も理性によっては完全には証明され得ないことが帰結する。何故ならば、仮定された定義と公理からは完全に経験なしで証明されるとしても、定義は項の可能性を前提し、従ってそれ自身で把握される項への分解か、または経験において発見された項への分解を前提する、よって経験的命題、その他の命題に戻ることになるからである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六二~六四、ライプニッツ著作集1、pp.173-174、[澤口昭聿・1988])
(索引:経験的事実)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年5月31日木曜日

完備な項、完備でない項とは? 完備でない項の相似とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

完備な項

【完備な項、完備でない項とは? 完備でない項の相似とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
これ以上分解できない第一の可能なもの
(第一原因、事物の究極理由)
  ↓
可能性の既に知られている他の諸概念
  ↓
「ア・プリオリな真なる観念」の実在的定義、因果的定義

事物が現実に存在することを経験によって知る
「ア・ポステリオリな真なる観念」の実在的定義
定義には、それが可能であることが証明されていることが必要であるが、可能であることの証明(検証)は、経験以外では認識されない。つまり、それが現実に存在すること、あるいは現実に存在したこと。

完備な項:これ以上の分解ができない項。
完備な項の相似:このような場合は、恐らく起らない。何故ならば、二つの完備なものは決して相似ではないからである。
完備な項が可能であることの証明:経験以外では認識されない。つまり、それが現実に存在すること、あるいは現実に存在したこと。

完備でない項:分析により、さらに分解ができる項。
完備でない項の相似:異なる対象A、Bにおいて、それを定義する項が、定義において等しいとき、AとBは、この定義において「相似」であるという。このとき、AとBは「共通な名称」を持つ。
完備でない項が可能であることの証明:完備でないものが可能といわれるためには、二つの相似な事物の一つが現実に存在し、あるいは現実に存在したものであれば、十分である。

 「しかしさらに議論を進めるならば、定義には、それが可能であることが要求される。即ち、Aが可能であることが証明されていることつまりEFGが矛盾を含まない、即ち X non X を含まないことが証明されていることが必要である。このことは経験以外では認識されない、つまりAが現実に存在するあるいは現実に存在した、従って可能であることが確定している場合のみ認識される。(少なくともAに相似なものが現実に存在したこと。しかし事実はこのような場合は恐らく起らない、何故ならば二つの完備(completum)なものは決して相似ではないからである。完備でない項については、完備でないもの即ち共通な名称が可能といわれるためには二つの相似な事物の一つが存在すれば十分である。(しかしこれはなかなか有用であると思われる。即ち一つの球が存在すれば、任意の球が可能であると正当にいうことができるのである。)){それに相似なものが可能ならば、それ自身も可能である。}」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六一、ライプニッツ著作集1、p.172、[澤口昭聿・1988])
(索引:完備な項、完備でない項、完備でない項の相似)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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