2018年1月16日火曜日

最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

鍛冶屋の喩え

【最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 例えば鍛冶屋の技術を実行しようとし、しかも何一つ道具をもっていない場合、最初は堅い石とか何か無定形な鉄塊とかを鉄床にし、鎚の代りに石塊を用いる。そして、まず自分の使う道具である、鎚、鉄床、火箸を製作する。哲学においても、同様である。最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、真理の吟味に特に必要なことを探究する必要がある。人間認識とは何であるか、それはどこまで及びうるか。これを探ねることほど、有益なことはありえない。しかもこれは、少しでも真理を愛する人ならば、誰でも一生に一度は為すべきことである。
 「実にこの方法は、機械的技術の中、他の技術の助けを要せずしてみずからの道具の作り方を自身に教えることのできる技術、に似ている。実際、誰かがその中の一つ、例えば鍛冶屋の技術を実行しようとし、しかも何一つ道具をもっていない場合、まず最初は、堅い石とか何か無定形な鉄塊とかを鉄床として用い、鎚の代りに石塊を採り、木片を火箸の形につくり、他の同様なものを必要に応じて集めねばならないであろう。そしてこれらを準備した後、直ちに刀剣とか甲冑とか、その他鉄で作られるどんなものをも、他人の使用のために鍛えようとはせず、何よりもまず、鎚、鉄床、火箸、その他自分の使う道具を製作するであろう。この例がわれわれに教えるところ、われわれは、今いる手始めの段階では、方法によって準備されたというよりむしろわれらの精神に生来具わっていると見られる、或る整わない規則しか、見出せないのであるから、そういう規則を用いて、直ちに哲学者の論争を鎮めるとか、数学者の難問を解くとかいうことを、試みるべきではない。かえって、それらの規則をば、まず、真理の吟味に特に必要なすべての他の事柄を全力を挙げて探究するに、用いるべきなのである。なぜなら、これを発見することが、幾何学や自然学やその他の学問において提出されるを常とするどの問題よりも、困難であるという理由は、明らかに存しないからである。
 さて今の場合、人間認識とは何であるか、それはどこまで及びうるか、を探ねることほど、有益なことはありえない。それゆえわれわれはこの二つの問題をただ一つの問題に総括し、これをすべてに先立って既述の諸規則に従い吟味すべきであると考える。しかもこれは、少しでも真理を愛する人ならば、誰でも一生に一度は為すべきことである、なぜならこの研究の中には真の認識手段及び全方法が含まれているからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、pp.54-55、[野田又夫・1974])
(索引:認識論、鍛冶屋の喩え)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2018年1月15日月曜日

意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

意志についての知覚

【意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「知覚にも二種類ある。精神を原因とするものと、身体を原因とするものだ。精神を原因とする知覚は、意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚である。事実、わたしたちが何かを意志するとき、まさにそのことによって同時に、それを意志していることを知覚せざるをえないのは確かだ。そして、何かを意志するのは精神から見れば能動であるが、精神が意志していると知覚するのは精神における受動ともいえる。だが、この知覚とこの意志は実は同じ一つのものにほかならないから、命名はつねに優れたほうによってなされ、したがって通例、これを受動とはよばずに、ただ能動とよぶ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 一九、p.21、[谷川多佳子・2008])
(索引:意志の知覚)

情念論 (岩波文庫)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念の持続性

【情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「あらゆる情念の効用は、精神のなかに思考を強化し持続させることのみにある。それは、精神が保持すべき思考であり、情念がなければかんたんに精神から消えてしまう思考である。同じように、情念がもたらしうる害のすべては、それらの思考を情念が、必要以上に強化し保持すること、とどめるべきでない別の思考を強化し保持することにある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 七四、p.65、[谷川多佳子・2008])

情念論 (岩波文庫)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

身体と思考

【ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「なお、情念のさまざまな効果やさまざまな原因に関して付け加えられうるすべてをここで手短に補うため、それらについてこれまで述べてきたすべてのことの基礎になっている原理を繰り返すだけにしておきたい。つまり、心身の結びつきの特性は、ひとたびある身体行動とある思考を結びつけると、そのあとは、両者のいずれかがわたしたちに現われれば必ずもう一方も現われるということ、そしてまた、必ずしも同じ行動が同じ思考にいつも結びついているわけではないことだ。事実、ここでは説明しなかったこの問題に関して、各人が自己や他人のなかに認めうる特殊なものすべてを説明するには、この原理だけで十分である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一三六、pp.113-114、[谷川多佳子・2008])

情念論 (岩波文庫)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念と身体

【情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「しかも、精神がその情念を速やかに変えたり止めたりできない特殊な理由がある。そのゆえにわたしは上述の情念の定義において、情念が精気のある特殊な運動によって、生じるだけでなく、維持され強められる、としたのだ。その理由はこうである。情念はほぼすべて、心臓のうちに、したがってまた血液全体と精気のうちに、なんらかの興奮の生起をともなっており、そのために、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。感覚対象がわたしたちの感覚器官に働きかけている間は、その対象がわたしたちの思考に現前しているのと同じである。そして、精神は、何か他のことに大きく注意を向けることで、小さな音を聞かなかったり、小さな痛みを感じなかったりはできるが、同じやり方で雷の音を聞かなかったり、手を焼く火を感じなかったりはできない。これと同様に、精神はほんの小さな情念はたやすく抑えるが、きわめて激しい強大な情念は、血液と精気の興奮が鎮まるまで、抑えることができない。この興奮が活性しているあいだ意志のなしうるのはせいぜい、この興奮の及ぼす結果に同意しないで、興奮が身体に促す運動のいくつかを制止することである。たとえば、怒りが、殴る手を振りあげさせるとき、意志はふつうこの手を制止することができる。また恐怖の情念が、脚を逃げるようにさせるとき、意志は脚をとどめることができる、など。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 四六、pp.43-44、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

意志と情念

【意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちの情念も、意志の作用によって直接的に引き起こしたり取り去ったりはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に、引き起こしたり取り去ったりできるのだ。たとえば、自分のうちに大胆さを引き起こし恐怖を取り去るためには、その意志を持つだけでは不十分である。危険が大きくないとか、逃げるよりも防ぐほうがつねに安全であるとか、勝てば誇りと喜びを得るだろうが逃げれば心残りと恥しか残らないとか、そう得心させる理由、対象、実例を、懸命に考える必要がある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 四五、pp.42-43、[谷川多佳子・2008])

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月14日日曜日

精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念とは何か?

【精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「精神だけに関係づけられる知覚は、その効果が精神そのもののうちに感じられ、しかもその効果を関係づけうる最も近い原因が通常何も知られていない知覚である。これが、喜び、怒り、その他同種の感覚であり、時に神経を動かす対象によっても、また時に別の原因によっても、わたしたちのうちに引き起こされることがある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二五、p.25、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

広義の情念

【精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「身体によって起こる知覚は、大部分が神経に依存しているが、神経に依存しないものもいくらかあり、今述べたものと同じく想像とよばれる。しかし、その形成に意志が働いていないことで異なる。そのためこれらの知覚は、精神の能動のうちには数えられない。精気が、多様に動かされて脳内に先在するさまざまな刻印[印象]の痕跡にぶつかって、偶然的にある特定の孔を通ることによる。夢の中の幻覚や、目覚めていても思考がみずから何かに向かうことなく無頓着にさまようようなときによく起こる夢想も、これである。さて、これらの想像のうちのいくつかは、情念[受動]という語を最も本来的な固有の意味にとっても、精神の情念[受動]だし、この語をもっと一般的な意味にとってもすべて情念[受動]とよばれうる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二一、pp.22-23、[谷川多佳子・2008])
(索引:意志によらない想像、幻覚、夢想、情念)

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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自然的欲求

【精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちが身体ないしその一部に関係づける知覚は、飢え、渇き、その他の自然的欲求についての知覚である。これに、わたしたちが外部の対象のなかではなくて、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様を加えることができる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二四、p.24、[谷川多佳子・2008])
(索引:飢え、渇き、自然的欲求、痛み、熱さ)

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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数学の定理を真に理解するには、その定理や証明の論理的骨組みだけではなく、その定理が意味する直感的概念や、創案者や証明者を導いた奥深い理由をも知る必要がある。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学を理解するとは?

【数学の定理を真に理解するには、その定理や証明の論理的骨組みだけではなく、その定理が意味する直感的概念や、創案者や証明者を導いた奥深い理由をも知る必要がある。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の定理を真に理解するには、その定理や証明の論理的骨組みだけではなく、その定理が意味する直感的概念や、創案者や証明者を導いた奥深い理由をも知る必要がある。これは例えば、将棋の勝負において次々に指される一連の指し手の全体を貫いている奥深い思い、あるいは、ある種の海綿の珪石からなる繊細な骨格を形づくった今はない生身の海綿、これらを理解することに譬えられる。
 「将棋の勝負の場に居合わせたとき、その勝負を理解するためには、駒の動きに関する規則を知っているだけでは十分ではない。そういう規則を知っていれば、それぞれの手を規則に従って指したのだということを認め得るようになるだけのことであって、それができたからといって、ほんとうのところ大した値打ちはない。ところが、数学の本を読む人が単なる論理型に過ぎないとすると、そういう読者のなすところは、まさに、いま言ったようなことに異ならないのである。勝負を理解するというのはこれとはまったくちがう。勝負を理解するというのは、将棋を指している人が、勝負の規則を破ることなしに駒を動かしてもよかりそうな手がほかにもあるのに、その手を使わないで駒を進めたのはどういうわけかを知ることなのである。それは次々に指される一連の手を全体として、一種の有機体ならしめるような奥深い理由を見てとることなのである。将棋を指す人自身、いいかえると創案者にとって、この能力が必要であるのはなおさらのことである。」
 「おそらくは、たとえ話を乱用すると思われるかもしれないが、もう一つだけたとえ話をすることを許されたい。読者はおそらく、ある種の海綿の骨格を形づくる珪石の針からなる、あの繊細な集落を見たことがあるだろう。有機物質が消えてなくなってしまうと、もろい優美な珪石しか残らない。なるほど、そこには珪石しかないには違いない。が、大切なのはこの珪石がもっている形である。われわれはこの形をまさにこの珪石に刻みつけた生身の海綿を知らなかったならば、この形を理解することはできない。先人たちのかつての直感的概念は、われわれがそれを棄て去ってしまったのちとはいえ、われわれがその代りに設置した論理的骨組みになおもその形を刻みつけているのである。このように全体を見渡すことが、創案者には必要なのである。これはまた創案者を真に理解しようと思う者にとっても同様に必要である。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学の価値』第1部、第1章、Ⅴ、pp.38-40、吉田洋一(訳))
(索引:海綿の珪石の喩え、将棋の指し手の喩え)

科学の価値 (岩波文庫 青 902-3)


アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

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