認識
【いかにしてあるものが他のものから認識せられるか(ルネ・デカルト(1596-1650))】認識するわれわれ
認識さるべき物自身
おのずからしてわれらに明らかであるもの
2.私は存在する
人間精神が何であるか。
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
身体は何であるか。
身体は精神によっていかに形成されるか。
5.私(精神)のなかに見出されるもの
いかにしてあるものが他のものから認識せられるか
単純なる事物の概念
単純なる事物の概念から複合せられた概念
各々の物からいかなる事柄が演繹されるか
「今や第二の点に移り、単純なる事物の概念(notio)を、それから複合せられた概念より分ち、そして両者のいずれに虚偽が存在しうるかを見てそれを避け、どの概念が確実に認識されるかを見てただそれのみに携わるため、ここでも前と同様、恐らくすべての人の承認するとは限らぬであろう若干の事柄を、仮定せねばならない。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.78、[野田又夫・1974])
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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
![]() (出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」

