美と醜、善と悪
【美、広義の美と美への愛(快)、醜、広義の醜と醜への憎しみ(嫌悪)、善と善への愛、悪と悪への憎しみ。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であり、また欺くこともある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】〈美〉と〈美への愛〉(快)
〈醜〉と〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈美〉であるわけではない。「それらはふつう、真理性がより少ない。したがって、あらゆる情念のうちで、最も欺くもの、最も注意深く控えるべきものは、これらの情念である。」情動と〈美〉とのこの関係性は、以下、情動と〈醜〉、〈善〉、〈悪〉との関係においても同様である。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であることだ。なぜなら、感覚が表象して精神にやってくるものは、理性が表象するものよりも強く精神を刺激するからである。
視覚で与えられた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それが〈醜〉であり、この嫌悪の情動を〈醜への憎しみ〉という。
〈広義の美〉と〈美への愛〉(快)
〈広義の醜〉と〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
視覚のほか、〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚についても、快と嫌悪の情動が区別できる。平衡覚については、どうであろうか。〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)についても、快と嫌悪の情動が区別できる。
「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」についても、快と嫌悪の情動が区別できる。
これらには、〈美〉と〈醜〉を帰属させる対象が、視覚における対象ように明確でないものもあるが、ここでは、後続の記述の便宜のため、すべて〈広義の美〉と〈広義の醜〉と定義しておく。
〈善〉と〈善への愛〉
〈悪〉と〈悪への憎しみ〉
意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それが〈悪〉であり、この嫌悪の情動を〈悪への憎しみ〉という。
「あるものがわたしたちにとって善い、つまりわたしたちに適したものとして表象されるとき、わたしたちはそれに愛を抱くことになる。それが悪ないし有害として表象されると、わたしたちは憎しみを引き起こす。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五六、pp.54-55、[谷川多佳子・2008])
「愛と憎しみに共通であるような、注目すべき区別が一つだけ見だされる。それは、愛においても憎しみにおいても、その対象が、外的感覚、あるいは内的感覚と精神固有の理性によって、精神に表象されうることにある。わたしたちはふつう、内的感覚や理性がわたしたちの本性〔=自然〕に適すると判断させるもの、またはそうでないと判断させるものを、「善」または「悪」とよぶ。他方、外的感覚、特にただ一つ他のすべての外的感覚よりも重視されている視覚によって、そう表象されるものを、「美」あるいは「醜」とよぶ。そこから二種類の愛が生まれる。善いものへの愛と、美しいものへの愛である。後者を「快」となづけることができる。前者の愛とも、よく愛の名を与えられる欲望とも、混同しないためだ。また同じようにそこから、二種類の憎しみが生まれる。一つは悪しきもの、もう一つは醜きものに関わる。この後者は、はっきり区別するために、「嫌悪」ないし「嫌忌」とよべる。しかし、ここでいっそう注目すべきは、この快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であることだ。なぜなら、感覚が表象して精神にやってくるものは、理性が表象するものよりも強く精神を刺激するからである。だが、それらはふつう、真理性がより少ない。したがって、あらゆる情念のうちで、最も欺くもの、最も注意深く控えるべきものは、これらの情念である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八五、pp.74-75、[谷川多佳子・2008])
(索引:善、悪、美、醜、快、嫌悪、愛、憎しみ)
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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