自由意志はなぜ存在するか
【未解決問題:我々の精神が有限であるのに対して、この宇宙を支配する諸法則はあまりに深遠で知りがたく、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを、未だ明快には理解することができていない。しかし、この自由は確かに経験される。(ルネ・デカルト(1596-1650))】「だが我々はそうした難問からは、次のことを想起すれば免れるであろう。即ち、我々の精神は有限であるのに対して、神の能力は有りとあらゆる一切を、永遠いらい予知していたのみならず、これを意志しかつ予定していたから無限である。従って、なるほど我々はこの能力を、それが神のうちにあることを明晰判明に知るに充分な程度には悟るけれども、しかし充分十全的に把握して、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを知るほどではない。しかるに、我々のうちにあるこの自由および未決定については、それ以上明証的かつ完全に捉えられるものがないほど、我々には意識されているのである。というのは、その本性上我々には十全的に把握できないことがわかっていることを、我々が把握しないからという理由で、我々が内的に把握し我々自らのうちに体験する他のことを、疑うとしたらそれは不合理だろうからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 四一、pp.62-63、[桂寿一・1964])
(索引:自由意志)
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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