2018年7月26日木曜日

1.気づきのない行動と、気づきのある行動が存在する。気づきのある行動は、被験者の内観報告を基礎に判断する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

操作的な基準としての内観報告

【気づきのない行動と、気づきのある行動が存在する。気づきのある行動は、被験者の内観報告を基礎に判断する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】
(a)気づきのない行動
 (1)信号を検出し、観察可能な筋肉の活動とか、自律神経系の変化(たとえば心拍数、血圧、発汗など)が起こる。
 (2)被験者は、気づくことなく、無意識になされる。
 (3)認知的で抽象的な問題解決プロセスがどれほど複雑になろうとも、このようなことが起こり得る。
(b)気づきのある行動
 (1)被験者は、信号に気づき、主観的な意識経験をする。
 (2)被験者は、実験者の質問を理解し、自分の個人的な経験について、内観的な経験を報告する。

 「操作的な基準としての内観報告
 内観報告についてはすでに論じました。この原則から敷衍される重要な原則は以下の通りです。

確かな内観的報告なしで成立するようなものは、それがいかなる行動上の証拠であっても、主観的な意識経験の指標とはみなしません。行為の目的に向う性質ががどうであれ、また認知的で抽象的な問題解決プロセスがどれほど複雑になろうとも、このことに変わりはありません。

どちらの場合においても、被験者が気づくことなく、無意識になされることがあり得るし、実際にしばしば見られます。

また、信号を検出する能力と信号に気づく能力の違いについても、実験者はさらに注意深く区別しなければなりません。

 行動として現われた行為とは、観察可能な筋肉の活動と自律神経系の変化(たとえば心拍数、血圧、発汗など)を指します。

内観的経験を指し示して《いない》、単に行動として現われた行為は、《主観的な》意識経験の正当な証拠とはなりません。

内観的な経験を報告するという場合は普通、被験者は自分の個人的な経験についての質問に答えているのであり、実験者は被験者が質問を理解していることに私たちは確信を持っています。この前提なしに行われている、行動として現われた行為は実際、無意識に行なわれている可能性があるのです。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第1章 本書の問題意識,岩波書店(2005),p.19,下條信輔(訳))
(索引:内観,内観報告,気づきのない行動,気づきのある行動)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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グリアの数はニューロンの6倍にも達する。その大まかな種類は、シュワン細胞、稀突起膠細胞(オリゴデンドロサイト)、アストロサイト、小膠細胞(ミクログリア)。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))

グリア

【グリアの数はニューロンの6倍にも達する。その大まかな種類は、シュワン細胞、稀突起膠細胞(オリゴデンドロサイト)、アストロサイト、小膠細胞(ミクログリア)。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】

 「現在のところ、神経組織にはニューロンに加えて、大きく4種類に分類されるグリアが存在することがわかっている。そのうちの2種類、すなわち末梢神経にあるシュワン細胞と、脳や脊髄に見られる稀突起膠細胞(オリゴデンドロサイト)は、軸索の周囲にミエリンという絶縁体を形成する。また脳と脊髄の全域に、アストロサイトと小膠細胞(ミクログリア)というグリアも存在する。ミクログリアは、脳を損傷や病気から保護しており、脳や脊髄が損傷から回復するうえで中心的な役割を担う。あらゆる種類のグリアがニューロン内の電気信号を感知して、それに応答している可能性を示す興味深い手がかりも見つかっている。
 その意味するところを考えてみよう。脳内の電気活動は、知覚や経験、思考、そして気分を伝える。グリア細胞は神経系で多様な機能を実行しているので、もしグリアが神経インパルスの活動を感知できるならば、広範囲にわたる脳機能がグリアの影響を受けている可能性がある。感染に対する免疫系の反応から、軸索の絶縁、脳の配線の敷設・組換えや、病気や損傷からの脳の回復に至るあらゆる機能が、グリアを介して作用するインパルス活動の影響を受けているかもしれない。
 グリアの数はニューロンの6倍にも達するが、その正確な比率は神経系の部位ごとに異なる。それはちょうど、男女の比率は平均すると1対1であるものの、その正確な割合は場所によって大きく異なるのと同じだ。たとえば、理髪店では男性10人に対して女性1人だが、手芸店ではちょうどその逆になる。末梢の神経線維沿いや脳内の白質神経路では、グリアとニューロンの比率は100対1にもなりうる。なぜなら、軸索は全長にわたって、およそ1ミリメートル感覚でミエリン形成グリアに被覆されているからだ。人の前頭皮質におけるアストロサイトとニューロンの比率は4対1だが、クジラやイルカの巨大な前脳では、ニューロン1個あたり7個のアストロサイトが存在する。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第1部 もうひとつの脳の発見,第2章 脳の中を覗く――脳を構成する細胞群,講談社(2018),pp.52-54,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:シュワン細胞,稀突起膠細胞,オリゴデンドロサイト,アストロサイト,小膠細胞,ミクログリア)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)


(出典:R. Douglas Fields Home Page
R・ダグラス・フィールズ(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)

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赤ん坊は、模倣ごっこが大好きだ。自分を模倣する人に注意を向ける。幼児も、模倣ごっこが大好きだ。あらゆるものが二つずつ用意してある遊び場を設定すると、自発的な模倣ごっこが始まり、果てしなく続く。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

模倣ごっこ

【赤ん坊は、模倣ごっこが大好きだ。自分を模倣する人に注意を向ける。幼児も、模倣ごっこが大好きだ。あらゆるものが二つずつ用意してある遊び場を設定すると、自発的な模倣ごっこが始まり、果てしなく続く。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

 「もし私が友人宅での集まりに出かけていって、その家に赤ん坊がいたなら、私は真っ先にその赤ん坊のすることを真似してみせる。するといきなり、私はその子の一番の注目株になる(もちろん両親を除いて)。赤ん坊は模倣ごっこをするのが大好きなのだ。また、親と赤ん坊がしょっちゅうお互いに真似をしあうのは誰でも知っているところだろう。実際、このときの模倣(と親和力)は発達中の脳のミラーニューロンを強化する主要な形成要因なのかもしれない。この仮説についてはあとの章で述べよう。
 あるいは幼児どうしがお互いを真似しあう例もたくさんある。発達心理学者のジャクリーン・ネーデルは、この自発的な模倣ごっこを促すために、あらゆるものが二つずつ用意してある遊び場を設定した。まだ言葉の話せない小さな子供たちがこの状況で自発的な模倣をするのは、見ていてとても面白い。ある子供が帽子をかぶると、別の子供がもう一つの帽子をかぶる。最初の子がサングラスをかけると、あとの子もそれにならう。ある子が傘を拾い上げると、別の子ももう一つの傘を拾う。最初の子が傘を回しはじめると、もう一人の子も回しはじめる。傘を下ろせば、同じように傘を下ろす。風船をつかめば、やはり風船をつかむ。模倣ごっこは果てしなく続く。片方の子が風船をつかんでいる手を軽く振り動かしただけでも、もう片方はすかさずそれを模倣する。一方、同じ発達心理学者のキャロル・エッカーマンは、幼児における模倣と言語コミュニケーションの強い結びつきを証明してきた。まだ話し方を知らない幼児どうしがいっしょに遊ぶときは、たいてい模倣ごっこをする。そして模倣ごっこを熱心にやる幼児ほど、1年から2年後に、言葉を多く使うようになるのだ。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第2章 サイモン・セッズ,早川書房(2009),pp.68-69,塩原通緒(訳))
(索引:模倣ごっこ)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

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顔、首、腕、手の近くの空間に、体に向って動いて来る3次元物体の視覚刺激を受けると、顔、首、腕、手に対する触覚も同時に発生する。これは、体性感覚と視覚の両方に活性化する二重様相ニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

二重様相ニューロン

【顔、首、腕、手の近くの空間に、体に向って動いて来る3次元物体の視覚刺激を受けると、顔、首、腕、手に対する触覚も同時に発生する。これは、体性感覚と視覚の両方に活性化する二重様相ニューロンが実現している。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))】
(a)体性感覚ニューロン
 顔、首、腕、手が、軽く触れられたり、肌を何かがかすったりするような、体の表面の触覚刺激によって活性化する。
(b)二重様相(バイモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚ニューロン)
 (1)体性感覚面では、純粋な体性感覚ニューロンと似ている。
 (2)視覚刺激、とくに三次元の物体に反応する。ほとんどは、動いている物、とりわけ、体に向って動いてくる物に反応しやすいが、静止している物に強く反応するものも、あることはある。
 (3)視覚刺激が触覚受容野の近くに現われたときだけしか反応しない。全空間のうち、顔、首、腕、手などそれぞれの体性感覚受容野の周辺に、各固有の形や大きさ、厚み(数センチメートルから40~50センチメートル)を持った、それぞれ固有の視覚受容野が存在する。言い換えると、視覚受容野が、体性感覚受容野の拡張部分を形成している。
(c)三重様相(トリモーダル)ニューロン(体性感覚-視覚-聴覚ニューロン)

 「第1章で見たとおり、腹側前運動皮質はF5野とF4野によって形成されている。F4野は腹側前運動皮質の後側-背側部にあり、下頭頂小葉、とくに腹側頭頂間野(VIP)から強い求心性信号を受け取る。皮質内に微小な電気刺激を与える実験から、首や口、腕の動き(腕の動きは、体そのものや空間内の特定の位置に向けるもの)がF4野で表象されることがわかっている。さらに、F4ニューロンの大半は、運動行為を行っているときと、感覚刺激を受けたときの両方で活性化することが、個々のニューロンの測定からわかっている。この結果を踏まえ、こうしたニューロンは二つのグループに分類された。「体性感覚ニューロン」と「体性感覚-視覚ニューロン」で、後者は「二重様相(バイモーダル)ニューロン」とも言われる。最近では、「三重様相(トリモーダル)ニューロン」という、体性感覚と視覚と聴覚の刺激に反応するニューロンが記録されている。
 F4野の体性感覚ニューロンのほとんどは、体の表面の触覚刺激によって活性化する。軽く触れられたり、肌を何かがかすったりする感覚さえあれば、活性化するのだ。体性感覚受容野は顔や首、腕、手にある。受容野はかなり広く、何平方センチメートルにも及んでいる。
 バイモーダルニューロンは体性感覚面では、純粋な体性感覚ニューロンと似ているものの、視覚刺激、とくに三次元の物体に反応する。ほとんどは、動いている物(とりわけ、体に向って動いてくる物)に反応しやすいが、静止している物に強く反応するものも、あることはある。こうした特性に加えて、F4バイモーダルニューロンの機能面でたいへん興味深いのは、視覚刺激には刺激が触覚受容野の近くに現われたとき《だけ》しか反応しない点だ。もっと正確に言えば、視覚受容野であって、かつ体性感覚受容野の拡張部分を形成すると思われる。空間の特定部分に刺激が現れたときにしか反応しないのだ。
 図3-1に、F4ニューロンの体性感覚-視覚受容野を示してある。注意すべきは、視覚受容野は必ずそれぞれの体性感覚受容野の周辺に位置する点だ。視覚受容野の形や大きさは異なり、厚みはほんの数センチメートルから40~50センチメートルに及ぶ。このため、サルの前腕をこすったときに発火するニューロンは、実験者がサルの前腕に手を近づけて視覚受容野に入れたときにも活性化する。もしこれが信じられなければ、自分の頬に手を近づけてみるとよい。指が実際に頬に触れる前にそこに指があることを感じるだろう。まるで、頬の個人空間(つまり皮膚空間)が、頬を取り巻く視覚空間に及んでいるかのようだ。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第3章 周りの空間,紀伊國屋書店(2009),pp.68-69,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:二重様相ニューロン,バイモーダルニューロン)

ミラーニューロン


(出典:wikipedia
ジャコモ・リゾラッティ(1938-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「みなさんは、行為の理解はまさにその性質のゆえに、潜在的に共有される行為空間を生み出すことを覚えているだろう。それは、模倣や意図的なコミュニケーションといった、しだいに複雑化していく相互作用のかたちの基礎となり、その相互作用はますます統合が進んで複雑化するミラーニューロン系を拠り所としている。これと同様に、他者の表情や動作を知覚したものをそっくり真似て、ただちにそれを内臓運動の言語でコードする脳の力は、方法やレベルは異なっていても、私たちの行為や対人関係を具体化し方向づける、情動共有のための神経基盤を提供してくれる。ここでも、ミラーニューロン系が、関係する情動行動の複雑さと洗練の度合いに応じて、より複雑な構成と構造を獲得すると考えてよさそうだ。
 いずれにしても、こうしたメカニズムには、行為の理解に介在するものに似た、共通の機能的基盤がある。どの皮質野が関与するのであれ、運動中枢と内臓運動中枢のどちらがかかわるのであれ、どのようなタイプの「ミラーリング」が誘発されるのであれ、ミラーニューロンのメカニズムは神経レベルで理解の様相を具現化しており、概念と言語のどんなかたちによる介在にも先んじて、私たちの他者経験に実体を与えてくれる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第8章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.208-209,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:)

ジャコモ・リゾラッティ(1938-)
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麻痺した幻肢を持つ患者に、鏡の箱を使って、健常な腕の視覚、運動感覚を幻肢と重なるように与えると、幻肢の健常な身体感覚を回復させ、幻肢の麻痺と痛みを伴う痙攣発作を軽減させた。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

鏡の視覚フィードバック(MVF)実験

【麻痺した幻肢を持つ患者に、鏡の箱を使って、健常な腕の視覚、運動感覚を幻肢と重なるように与えると、幻肢の健常な身体感覚を回復させ、幻肢の麻痺と痛みを伴う痙攣発作を軽減させた。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】
(a)事例:健全な右腕と幻の左腕を持っているある患者の事例である。彼の左の幻肢は麻痺しており、痛みをともなう痙攣が起きやすく、どうすることもできなかった。
(b)鏡の視覚フィードバック(MVF)実験
 (1)鏡の左側に麻痺した幻肢をのばし、箱の右側をのぞきこんで、右手の位置を注意深く決め、その鏡像が、幻肢があると感じられる位置とぴったり重なるようにした。それはただちに、幻肢が復活したという衝撃的な視覚上の印象を彼にもたらした。
 (2)私は彼に、そのまま鏡をのぞきながら、両方の腕と手で鏡像対象の運動をするように頼んだ。すると彼は、「もとどおりになったみたいだ!」と叫んだ。幻肢が自分の指令にしたがっているという鮮明な印象があるだけでなく、驚いたことに、痛みをともなう痙攣発作も何年ぶりかに軽減しはじめた。
(c)「鏡の視覚フィードバック(MVF)」が彼の脳に、学習された麻痺の「脱学習」をさせたかのようだった。

(a)
幻の     健全な
左腕     右腕

(b)
──┐
  │鏡
幻の│面   健全な
左腕│    右腕
  │


 「では、麻痺した幻肢をもっている人がこの鏡の箱を使ったらどうなるか見てみよう。私たちが最初にこの箱を試したのはジミーという名の患者で、健全な右腕と幻の左腕をもっていた。彼の麻痺した幻肢はマネキンの樹脂製の前腕のように、断端から突き出ていた。さらに悪いことに、痛みをともなう痙攣が起きやすく、かかりつけの医師たちはそれをどうすることもできなかった。私は彼に鏡の箱を見せ、これから試みることはやや奇抜に思えるかもしれないし、効果があるという保証もないと説明したが、彼は、試しにやってみますと明るく言った。そして鏡の左側に麻痺した幻肢をのばし、箱の右側をのぞきこんで、右手の位置を注意深く決め、その鏡像が、幻肢があると感じられる位置とぴったり重なるようにした。それはただちに、幻肢が復活したという衝撃的な視覚上の印象を彼にもたらした。私は彼に、そのまま鏡をのぞきながら、両方の腕と手で鏡像対象の運動をするようにたのんだ。すると彼は、「もとどおりになったみたいだ!」と叫んだ。幻肢が自分の指令にしたがっているという鮮明な印象があるだけでなく、驚いたことに、痛みをともなう痙攣発作も何年ぶりかに軽減しはじめた。それはあたかも、「鏡の視覚フィードバック(MVF)」が彼の脳に、学習された麻痺の「脱学習」をさせたかのようだった。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第1章 幻肢と可塑的な脳,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.59-60,山下篤子(訳))
(索引:幻肢,鏡の視覚フィードバック実験)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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18.感情の特徴:(a)情動が、感情と思考を誘発する。(b)誘発される感情と思考は、学習される。(c)特定の脳部位への電気刺激も、情動、感情、思考を誘発する。(d)感情、思考は、新たな情動誘発刺激となる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

感情

【感情の特徴:(a)情動が、感情と思考を誘発する。(b)誘発される感情と思考は、学習される。(c)特定の脳部位への電気刺激も、情動、感情、思考を誘発する。(d)感情、思考は、新たな情動誘発刺激となる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

(a) 情動が、感情と思考を誘発する(感情の情動依存性)。
 感覚/想起された ⇒ 情動 ⇒ 感情 ⇒ 思考
 対象/事象
(情動を誘発する
 対象/事象)
(b)情動によって誘発される感情と思考は、学習されたものである。

(c) 特定の脳部位への電気刺激により誘発された情動でも、学習された感情と思考を誘発する(情動誘発の神経機構の相対的自律性)
 (特定の脳部位  ⇒ 情動 ⇒ 感情 ⇒ 思考
  への電気刺激)
 ※ 学習によって情動と結びつけられた思考が、呼び起こされる。

(d) 呼び起こされた思考が、さらに情動の誘発因となる
  呼び起こされた ⇒ 情動 ⇒ 感情 ⇒ 思考
  思考
 ※ 呼び起こされた思考は、現在進行中の感情状態を高めるか、静めるかする。思考の連鎖は、気が散るか、理性によって終止符が打たれるまで継続する。

 「この患者における事象の順序は、「まず悲しみの情動があった」ことを暴いている。そしてそのあとに、普通悲しみの情動を誘発するような種類の思考が、つまり、われわれが日常的に「悲しく感じる」と表現している心の状態に特徴的な思考が生じたのだ。

ひとたび電気刺激が止むと、こうした現象は徐々に弱まり、やがて消えた。情動は失せ、感情も消えた。また不安な思考も消えた。

 この神経学的にまれな出来事の重要性は明白だ。情動が生じたあと感情ならびにその感情と関係する思考が生じるのだが、普通は、その速さゆえ、現象に固有の順序を正しく分析することが難しくなっている。

まず、情動の原因となるような思考が心に生じると、それが情動を引き起こす。ついでその情動が感情を生み、今度はその感情が、主題的に関係しているその情動状態を増幅しそうな別の思考を呼び起こす。

呼び起こされた思考は、新しい付加的な情動に対する独立した誘発因として機能し、それにより現在進行中の感情状態を高めるかもしれない。かくして、さらなる情動がさらなる感情を生む。

気が散って、あるいは理性によってそれに終止符が打たれるまで、そのサイクルはつづく。

そして、こうした一連の現象が全面展開されるころには――情動を引き起こした思考、情動の諸行動、われわれが感情と呼ぶ心的現象、そしてその感情に起因する思考――いったい何が最初だったかを自己観察により判断するのは難しくなっている。

この女性の事例は、われわれがそのごたごたを見分ける一助になる。彼女は、悲しみと呼ばれる情動が生じる前、悲しみの原因となるような思考も、悲しみの感情も、もってはいなかった。

この事実は、情動誘発の神経機構の相対的自律性、そして感情の情動依存性、その双方に対する証拠である。

 ここで当然、こう問う人がいるだろう。その情動と感情が適切な刺激によって動機づけられていなかったことを考えると、なぜこの患者の脳は通常悲しみを引き起こすような思考を呼び起こしたのか、と。

 その答えは感情の情動依存性、ならびに、人の興味深い記憶方法と関係がある。悲しみの情動が展開されると、そのあとただちに悲しみの感情がつづく。そしてすぐに脳はまた、悲しみの情動〈と〉悲しみの感情を引き起こすような種類の思考を提示する。

なぜなら、連合学習が、濃密な二方向ネットワークの中で、情動と思考を結びつけているからだ。かくして、特定の思考は特定の情動を、逆に、特定の情動は特定の思考を呼び起こす。認知レベルのプロセスと情動レベルのプロセスは、このような形で連続的に結ばれている。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第2章 欲求と情動について、pp.102-104、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:感情,情動,思考,感情の情動依存性)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

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2018年7月20日金曜日

2.私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、僅かのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。これが、持続するものと、自我とを信じるようになる源泉である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

意識と自我

【私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、僅かのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。これが、持続するものと、自我とを信じるようになる源泉である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】
(1) 私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、僅かのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。
(2) 意識の(a)のような不完全性が、生成のうちに何か持続するものを想定し「諸事物」を信じる源泉である。
(3) 同様に、私たちが一つの「自我」を信ずる源泉である。
(4) 仮に、私たちの知る働きが事柄の展開と同じくらい迅速に、また同じくらい絶え間なく進行したなら、「自我」といったものは考えられないであろう。

 「私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、わずかのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。

こうした不完全性が、たぶん、私たちが諸事物を信じて、生成のうちに何か持続するものを想定するということの、同様にまた、私たちが一つの自我を信ずるということの源泉であろう。

私たちの知る働きが〔事柄の〕展開と同じくらい迅速に、また同じくらい絶え間なく進行したなら、「自我」といったものは考えられないであろう。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一七、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.20、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:諸事物,自我,意識)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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8.生の問題は、思考可能なものとしては表明され得ず、また問い得ない。我々が未解決と感じるにもかかわらず、これが解答なのである。しかし、表明し得ぬもの、神秘的な何かが存在し、それは自らを示す。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

表明し得ぬもの

【生の問題は、思考可能なものとしては表明され得ず、また問い得ない。我々が未解決と感じるにもかかわらず、これが解答なのである。しかし、表明し得ぬもの、神秘的な何かが存在し、それは自らを示す。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) いやしくも考えられ得ることは全て明晰に考えられ得る。表明され得ることは全て明晰に表明され得る。
(2) 哲学は、思考可能なものを限界づける。これは、自然科学が論議可能な領域も限界づける。
(3) (2)により、思考不可能なものが限界づけられる。
 (3.1) 可能な全ての科学的な問が答えられた場合でさえ、我々の生の問題は依然として全く手を付けられないままになっている、と我々は感じる。
 (3.2) もちろん、この時には問はもはや全く残っていない。そしてまさにこれが解答なのである。生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。
(4) 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。
 (4.1) だがしかし、表明し得ぬものが存在する。それは自らを示す。それは神秘的なものである。

 「六・五二 《可能な》全ての科学的な問が答えられた場合でさえ、我々の生の問題は依然として全く手を付けられないままになっている、と我々は感じる。勿論この時には問はもはや全く残っていない。そしてまさにこれが解答なのである。
 六・五二一 生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。
 (このことが、永い懐疑の末に生の意義がある人々に明らかとなった時に、彼等がこの意義がどの点に存するかを語りえなかったことの理由ではないのか。)
 六・五二二 だがしかし表明しえぬものが存在する。それは自らを《示す》。それは神秘的なものである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』六・五二~六・五二二、全集1、p.119、奥雅博)
(索引:表明し得ぬもの)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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概念記法の目的と手法:隙間のない推論連鎖を、簡潔に見通しよく形式的に確保できるように、「計算のように少数の固定した形式のうちを動く」ような記法を考案すること。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

概念記法

【概念記法の目的と手法:隙間のない推論連鎖を、簡潔に見通しよく形式的に確保できるように、「計算のように少数の固定した形式のうちを動く」ような記法を考案すること。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(c)すべての数学的証明を、(b)のみから隙間のない推論連鎖により導くこと。
概念記法の目的と手法。
 (1)設定された規則に合致しない推論の移行が混入しないように、一歩ずつ前進してゆくのは非常に手間がかかり、しかも推論式が、途方もない長さになりかねない。この困難を軽減するのが目的である。
 (2)複雑で長い推論の表現を簡潔にして、見通しやすくなるようにする。
 (3)「計算のように少数の固定した形式のうちを動くことによって」、隙間のない推論連鎖をたどることが、自動的に確保されるようにする。

(再掲)
概念記法の必要性。
(a)数学における推論に混乱が見られる。
 (1)推論様式が、極めて多様に見える。
 (2)非常に複雑な推論様式が、複数の単純な推論と等価なことがある。
 (3)推論が「正しいと納得」できれば、それでよしとする。
 (4)その結果、論理的なものと直感的なものが混在する。
 (5)その結果、推論されたものを、総合的な真理であると勘違いする。
 (6)不明確なまま、直感から何かが流入することがある。
 (7)ときには、推論に飛躍がある。
(b)(a)から、次のものを抽出すること。
 (1)純粋に論理的と承認された、少数の推論様式
 (2)直感に基づく総合的な公理
(c)すべての数学的証明を、(b)のみから隙間のない推論連鎖により導くこと。

 「したがって、推論における一切の飛躍を避けよ、という要求は拒否しえない。この要求をかくも満たし難いのは、一歩ずつ前進することに手間がかかるためである。どの証明も多少複雑になっただけで、途方もない長さになりかねない。それに加えてさらに、日常言語で形作られる論理形式があまりにも多様なため、すべての場合に十分で、また容易に見渡せる推論様式の範囲が画定し難いのである。
 これらの障害を軽減するために、私は概念記法を考案した。私の概念記法というのは、表現をずっと簡潔にして、見通しやすくすることを目指すものであり、そして、計算のように少数の固定した形式のうちを動くことによって、確たる仕方で設定された規則に合致しない移行は許さないようにするものである。そのときには、証明根拠が知らぬ間に忍び込むということはありえない。私はこうしたやり方で、一瞥した際には総合的と思えるような命題を、直感から公理を借用せずに証明した。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の基礎』第九一節、フレーゲ著作集2、pp.154-155、三平正明・土屋俊・野本和幸)
(索引:概念記法)

フレーゲ著作集〈2〉算術の基礎


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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