啓蒙による変革
【経済的に恵まれている階級に属する人々の信条と伝統的な意見、それに対立する信条、意見の違いを乗り越えた変革を実現させるのは、信条を組織だて合理的に説明しようとする願望と、人間の知性の力である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】(4)追加。
(1)伝統的な意見
単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
(1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
(1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
(2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
(2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
(3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
(3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
(3.3)論争における弊害
社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
(3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
(3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
(a)物理的な安楽が増大したこと。
(b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
(b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
(3.4.2)知識の進歩
(a.1)知識が進歩し普及したこと。
(a.2)迷信がすたれたこと。
(3.4.3)文化一般と人間の個性
(a)礼儀作法が優雅になったこと。
(b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
(3.4.4)交流と独立心
(a)相互交流が容易になったこと。
(b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
(3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
(a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
(b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
(b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
(3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
(a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
(b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
(b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
(3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
(a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
(b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。
(4)問題:伝統的な意見と、それに対立する意見の双方を乗り越えて、変革を実現するためには、どうすればよいのだろうか。
(4.1)経済的に恵まれている階級に属する人々の意見
大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、今の自分の状態を維持するために、伝統的な意見を支持しているものである。
(4.2)経済的に恵まれている階級の強大な力
大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の人々は、強大な勢力を持っている。この事実を無視し、彼らを考慮することなく諸問題の解決を図ろうとすることは、愚の骨頂である。
(4.3)論争や闘争の弊害
伝統的な意見を否定し、それに対立する意見を、経済的に恵まれている階級の人々に対して主張し、彼らの意見を変えさせることが可能だろうか。
参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
(4.4)啓蒙による変革
経済的に恵まれている階級に属する人々が、自らの信念である伝統的な意見の一部が誤りであることに気づき、それに対立する意見のうちにある真理の一部を、伝統的な意見の一部として、自ら採用するように導かれるようにする。これ以外の方法に見込みがあるとは思われない。「この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だて、かつ、それを合理的に説明しようとする願望を、彼らの心に吹き入れることである」。
「「主よ、われらの敵を啓蒙したまえ」、というのがあらゆる真の〈改革論者〉の祈りでなければならない。彼らの知力を鋭くし、彼らの知覚を鋭敏にし、彼らの推理力に連続性と明晰さとを与えたたまえ。彼らの弱さこそわれわれを不安の念で満たしているのであり、彼らの強さがそうさせているのではない。
われわれ自身としては、われわれが特殊な意見を持っているからといって、次の事実に気づかないほど盲目となってはいない。すなわち、わが国および他のあらゆるヨーロッパ諸国において、大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、主として〈保守的〉であり、また当然そうであることが予期されなくてはならない、という事実がそれである。このように強力な団体が存在しながら、なおもそれが国内において強大な勢力を振るわずにいられるということを想定すること、あるいは、霊的な変革にせよ世俗的なそれにせよ、彼らを問題の外に置いて重要な変革を企てることは、愚の骨頂であるだろう。そのような変革を望む人は、すべからく次のことを自問すべきである。すなわち、われわれは、これらの階級がひとり残らず団結して、自分たちに反対し、かつまたいつまでもそうし続けることに甘んじていられるだろうか、と。また、一つの準備過程がほかならぬこれらの階級の人びとの心中に進行しない限りは、そしてその準備過程も、彼らを〈保守主義者〉から〈自由主義者〉に転向させるという実行不可能な方法によって促されるのではなく、彼らが〈保守主義〉自体の一部として次々と自由主義的な意見を採用するように導かれるという方法によるものでない限りは、われわれはいかなる進歩の実をあげる見込みがあるであろうか、またいかなる方法によって進歩をもたらしえようか、と。この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だてかつそれを合理的に説明しようとする願望を彼らの心に吹き入れることである。したがって、この第一歩を踏み出そうとする最も微力な試みでさえ、本質的な価値を持つのである。そうだとすれば、コウルリッジの哲学のように、道徳的善と真の洞察との二つながらをきわめて多く包含している試みが、なおさら貴重な価値を持つものであることは、改めて言うまでもないことである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.216-217,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:啓蒙による変革,伝統的な意見,論争や闘争の弊害)
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(出典:wikipedia)
 「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
 「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション<京都大学学術出版会
 

 (出典:
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 「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。 

 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。 

 

 
 「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
 「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」 
 
 


 
 
