探究心と社会的責任
【科学者・技術者は,組織的な仕事に携わることで,個人的な意図がどうであれ,ある特定の社会的な役割を担わされる.その仕事の意味,社会に与える影響がどれほど重大なものであっても,推進力は科学者の純粋で私的な探究心なのである.(高木仁三郎(1938-2000))】(4)影響の巨大化と研究の私的性格との間の矛盾
(4.1)研究結果の影響の巨大化
(a)科学上の発明・発見の影響が、人類全体の歩みを変えかねないほどの影響を持つようなことがある。
(4.2)一つの構造の中で担わされる役割
(a)研究は単一目標に向かって組織化され、研究者たちは巨大な機械の一部品・歯車の一コマというべき存在となった。
(b)科学者の意図がどうであれ、ひとつの構造の中である役割が担わされる。
(4.3)人間の好奇心、探究心と研究の私的性格
(a)研究の推進力は「人々を夢中にさせずにはおかない」科学研究の性格に由来する。
(b)プロジェクトの成否は、研究者個々人のすぐれて私的な研究への没入に多く依存している。そしてその没入は、科学者の視野を狭め、人間としての全体を矮小化してしまう。
(c)その矮小化は、科学者をいっそう純化した「専門家」に育てあげていく。
「科学研究という点からみれば、原爆の「成功」を生み出したのは、国家的規模の科学者の集中と豊富な資金であった。さらにその集中を可能にしたものを探れば、フェルトのいう「人々を夢中にさせずにはおかない」科学研究の性格と、ナイーブそのものともいえる科学者たちの目的意識に大いに関係しているように思われる。
ほかならぬシラードについてもう一度考えてみよう。シラードこそ、原爆の示すであろう破壊性・残忍性にもっとも早くから気づき、ナチスと結びつけて考えていた数少ない人であった。「反ナチズム」としてのマンハッタン計画への関与は、その後、ヒトラー・ドイツの降伏に際して、トルーマン大統領に日本に対する原爆不使用を請願したことにみられるように、きわめて一貫したものであった。そのことに疑う余地はない。
しかし、シラードを原爆へと結びつけたのは、明らかにそのことだけではない。
いち早く連鎖反応に着目し、「特許」をとり、核分裂が知れるや、ただちにこの現象と連鎖反応を結びつけるべく実験にとりかかったシラードをつき動かしたのは、やはり科学者的な探究心であった。
彼が探究を進めれば進めるほど、一方で彼は「世界が災厄に向かって進む」ことをますます強く認識し、でありながら、ますますその研究に没頭していった。
一見矛盾したようにみえるこの行動は、科学者にとってはごく一般的なものであったろう。いったん開け始めた扉を、開け切る前に「災厄の予感」によって閉じてしまうような自制は、科学と科学者にとってもっとも苦手とするところだ(このことは、「遺伝子工学の時代」を迎えつつある現在、すぐれて教訓的である)。
マンハッタン計画を転換点として、科学は国家的な営為となり巨大化した。研究は単一目標に向かって組織化され、研究者たちは巨大な機械の一部品・歯車の一コマというべき存在となった。
なおかつ、そのプロジェクトの成否は、研究者個々人のすぐれて私的な研究への没入に多く依存している。そしてその没入は、科学者の視野を狭め、人間としての全体を矮小化してしまう。
逆にまた、その矮小化は、科学者をいっそう純化した「専門家」に育てあげていく。そこに原爆開発がほとんど無批判的に科学者たちに担われた理由をみておくことは、いまという時代にとくに重要だろう。
私は、その後もパグウォッシュ会議で活躍したシラードの平和主義を疑っていない。だが、問題は個人の評価の問題ではない。シラードの意図がどうであれ、ひとつの構造の中でシラードが担わされ、演じた役割は、原爆づくりの一科学者としてのそれだった。
そのことを個人的に責めているのではない。皆がその意識もなしに非人道的プロジェクトにまきこまれ、没入した、そういうシステムとして、今のその可能性を十分に秘めたシステムとしての科学のとらえなおしが、どうしても必要なはずである。
にもかかわらず、そういった作業が決定的に欠如しているように思える(こういった点検の作業がもちこまれようとすると、科学への中傷として、科学者集団が拒否感を示すことが、議論を不毛にしている)。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第六巻 核の時代/エネルギー』核時代を生きる 第2章 歴史の教訓(一)、pp.55-56)
(索引:)
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(出典:高木仁三郎の部屋)
「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
いつまでも皆さんとともに
高木 仁三郎
世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)
高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
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「国家や政府は人間が作ったものであり、法律も企業もそして野球だって人間が作ったものだ。同じように市場も人間の産物である。他のシステムと同じく市場の構築の仕方にもさまざまな方法があるが、それがどう作られようと、人々のやる気や市場のルールによって生まれてくる。理想的には、ルールによって人々が働いたり協力しあう気になり、生産的で創造的でありたいと動機づけされるのが望ましい。つまり、ルールが人々が望む暮らしの実現を手助けするのである。ルールはまた、人々の倫理観や、何が良くて立派で、何が公平かについての判断基準をも映し出す。そしてルールは不変ではなく、時間の経過とともに変わっていく。願わくば、ルールにかかわる人のほとんどが、より良くより公平だと思う方向へ――。だが、常にそうなるとは限らない。ある特定の人々が自分たちを利するようにルールを変える力を得たことによっても、ルールは変わりうるからだ。これがこの数十年の間に、米国や他の多くの国々で起こったことである。

「批判的思考の課題は「過去を保存することではなく、過去の希望を救済することである」というアドルノの教えは、その今日的な問題性をいささかなりとも失ってはいない。しかしまさしくその教えが今日的な問題性を持つのが急激に変化した状況においてであるがゆえに、批判的思考は、その課題を遂行するために、絶え間ない再考を必要とするものとなる。その再考の検討課題として、二つの主題が最高位に置かれなければならない。
「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」