2021年11月21日日曜日

フランシス・ベーコン(1561-1626)を読んでみよう(哲学入門)

フランシス・ベーコン(1561-1626)を読んでみよう(哲学入門)


■■ 第一章 学問観、真理観、帰納法、未来への希望の根拠

一 知識の真の目的は、人生の福祉と有用であり、学問は愛によって支配されるべきである (B・一・一)。それは、人類の力と全世界への支配 とを、革新し伸長することで達せられる(B・一・二 )。そして、この力と支配は、原因から結果を生ぜしめる自然の法則を、学問によって、 知ることにより得られる(B・一・三)。

二 私は、いまの学問の状況を考えるに、「帰納法」という新たな発見の技術を提案する(B・一・四)。もちろん、真の哲学は、経験派の蟻のよう な流儀でもなく、合理派の蜘蛛のようなやり方でもなくて、庭や野の花から材料を吸い集め て、それを自分の力で変形し消化する蜜蜂のようなやり方なのである(B・一・五)。そして、私たちが目指している真理の究極 は、もっと抽象的で普遍的で高尚なものであろうことに、私も同意する。しかし、そこに到達 するためには、私の提案する帰納法を用いた、最も熱心な世界の分析と解剖が、まず今、求め られているのだ(B・一・六)。

三 ところで、現在の様々な問題の原因が、科学や技術により堕落させられたのだというよう な非難には、何ぴとも心動かされないよう望む。科学と技術の実行は、正しい理性と健全な宗 教とが舵をとるであろう(B・一・七)。むしろ、自 然に関する諸学だけでなく、論理学・倫理学・政治学についても、私の帰納法は適用し得るの であって、これら諸学の正しく健全な発展が、私たちを導いてくれるに違いない(B・一・八)。

四 学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつ ぎと、知恵と知識と発明のわけまえを取らせるのである。それは、他人の精神のなかに種子を まき、のちのちの時代に、はてしなく行動を引き起こし意見を生む(B・一・九)。このように素晴らしい学問であるが、私た ちの現在の学問は、未だ多くの課題を抱えている。しかし、もし、私たちの抱える課題や問題 が、事がらそのもののためにではなく、過去の時代の誤り、今まで試みられた方法の誤りによ るものであるならば、それらの誤りを除き、訂正することによって、事がらを大きく好転でき るに違いないということ、私はここに、最大を希望を見出している(B・一・一〇)。したがって、私の仕事はまず、これら の誤りを調べることから始まる。(参照:B・二・六 )

五 さらに、私の方法によれば、ほかならぬ私の提案した発見の技術も、完全なものなのでは なく、発見とともに成長しうるものなのである(B・一・ 一一)。

B・一・一【知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求か らではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。愛には過ぎ ることはない。】

「最後に我々はあらゆる人に全体として忠告したいと欲する。すなわち、知識の真の目的を 考えること、知識を心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益 のためとか、名声のためとか、権力のためとか、その他この種の低いことのためにではなく、 人生の福祉と有用のために求めること、それを愛のうちに成しとげ支配することである。それ というのも力への欲から天使は堕ち、知識への欲から人は堕ちたのだが、愛には過ぎることは ない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』大革新 序言、p.32、桂寿 一)
(索引:知識の目的)

B・一・二【仮に、野心というものに役割があるとすれば、人類の力と全世界への支配と を、革新し伸長することに努める野心ならば、ほかの野心に比べて、より健全でより高貴であ るとはいえる。】

「人々の野心の三つの種類、いわば程度を区別することも、不適当ではないだろう。第一 は、自分の祖国において、自己の力を伸ばそうと欲する人々のそれであって、この類の野心は 通俗的で、また変性している。第二は、祖国の勢力と支配とを、人類の間に伸長することに努 める人々のそれであって、これは前のより品格はあるが、しかし劣らず欲望に動かされてい る。ところがもしも人が、人類そのものがもつ全世界への力と支配とを、革新し伸長すること に努めるとしたならば、疑いもなくその野心こそ(かりにもそう呼んでいいとしたら)は、残 余のものに比べて、より健全でもあればより高貴でもある。しかるに人間の事物への支配は、 ただ技術と知識のうちにある。自然はこれに従うことなくしては、命令されないからであ る。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第、第一巻、一二 九、pp.195-196、桂寿一)

B・一・三【人間は、原因から結果を生ぜしめる自然の法則を知り、欲する結果の原因を 配置する。そして、あとは自然が自らのうちで成しとげる。このようにして、人間の知識と力 とはひとつに合一する。】

「人間の知識と力とはひとつに合一する、原因を知らなくては結果を生ぜしめないから。と いうのは自然とは、これに従うことによらなくては征服されないからである。そして〔知的 な〕考察において原因にあたるものは、〔実地の〕作業ではルールにあたる。」
「実地の〔作業の〕ためには、人間は自然の物体を合わせたり離したりする以外には何も為 し得ない、あとは自然が自らのうちで成しとげるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、三、 四、p.70、桂寿一)
(索引:知は力なり)

B・一・四【帰納法:感覚や実験により事物の本性に迫り、低次の命題から高次の命題 へ、飛躍することなく段階的に探求してゆき、一般的な命題に達する。そして、そこにおいて も、命題は概念的なものではなく、よく限定されたものであり、自然が事象的に自分により明 らかなものとして認め、かつ事物の核心に存するようなものなのである。】

「それゆえに我々は通俗的および推量的な技術に対する裁判権は、(この部分に我々は全く 係わらないのだから)推論式やこの種のよく知られかつ持てはやされた論証形式に任せるけれ ども、しかし事物の本性に対してはどこでも、低次の命題にも高次の命題にも帰納法を用い る。というのも「帰納法」とは次のような論証形式と考える、すなわち感覚を保ち(物の)本 性に迫り、そして実地を目指しかつほとんどそれに携わるものだからである。
したがって論証の順序もまた全く逆になる。というのは、今までは事は次のように運ばれる のを常とした、すなわち感覚および個々的なものから、直ちに最も一般的なものに向かって飛 んでゆく、いわばそれを廻って論争が転回する不動の柱に向かってのごとく。それから他のも のが中間者を通って派生せしめられる。たしかに近道ではあるが、急坂で自然には達しない道 であり、ただ論争に対しては下り坂で適当した道である。ところが我々のほうに従えば、命題 は飛躍することなく次々に引き出され、したがってやっと後になって最も一般的なものに達す る。しかしこの最も一般的なものも、概念的なものになってしまうのではなく、よく限定され たものであって、自然が事象的に自分により明らかなものとして認め、かつ事物の核心に存す るようなものなのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』著作配分、p.39、桂寿一)
「最も低い命題はむき出しの経験とあまり距ってはいないが、かの最高の最も一般的な (我々の持っている)公理なるものは、概念的であり抽象的であって、実質的なものをもたな い。しかるに、人間的な事がらや運命が懸けられているかの真実で実質的な生きた公理は、中 間的公理であり、さらにこられの上に最後に、かの最も一般的なもの、すなわち抽象的ではな く、これら中間的なものによって、正しく限定されているような公理があるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一〇 四、pp.162-163、桂寿一)
(索引:帰納法、公理、中間的公理)

B・一・五【経験派は蟻の流儀でただ集めては使用する。合理派は蜘蛛のやり方で、自ら のうちから出して網を作る。しかるに蜜蜂のやり方は中間で、庭や野の花から材料を吸い集め るが、それを自分の力で変形し消化する。】

「学を扱ってきた人々は、経験派の人か合理派の人かの何れかであった。経験派は蟻の流儀 でただ集めては使用する。合理派は蜘蛛のやり方で、自らのうちから出して網を作る。しかる に蜜蜂のやり方は中間で、庭や野の花から材料を吸い集めるが、それを自分の力で変形し消化 する。哲学の真の仕事も、これと違っているわけではない。それはすなわち精神の力だけにと か、主としてそれに基づくものでもなく、また自然誌および機械的実験から提供された材料 を、そのまま記憶のうちに貯えるのでもなく、変えられ加工されたものを、知性のうちに貯え るのである。それゆえに、これら(すなわち経験的と理性的の)能力の、密で揺らぎない結合 (未だ今までに作られていないような)から、明るい希望が持たるべきなのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、九 五、pp.154-155、桂寿一)
(索引:蜜蜂の譬え)

B・一・六【抽象的な知恵の澄んだ明るさと静けさは、実地の有用性を越えたより上品で 高尚なものであるが、知性に置かれる世界の真の雛型は、世界に見出されるままの型であっ て、最も熱心な世界の分析と解剖を通してでなければ、到達することができない。】

「また疑いもなく、次のことも考えられるであろう、諸学の目標ないし目的は、我々自らに よって掲げられるものが、(この点は我々が他人の場合に非難することだが)必ずしも真実で 最善のものではないということである。というのも真理の省察は、実地のあらゆる有用性や大 きさに比べて、より上品で高尚なものなのであるが、経験や素材や個々の事象の流れのうち に、そうして長くかついらいらして留まることは、精神をばいわば地上に縛り付け、或はむし ろ、混乱と動乱の無間地獄に投げ捨てるものであり、抽象的な知恵の澄んだ明るさと静けさと から(いわばはるかに神的な状態から)遠ざけ、他に移すことになるからという。ところでこ の意見には我々も進んで同意する。そして彼らが示唆し可とする所の当のそのことをば、我々 も主としてまた何を措いても行なうのである。何となれば、我々は世界の真の雛型を、人間の 知性のうちに立てようとするのだが、それは見出されるままの型であって、誰かに対して、彼 自身の理性が指定したような性質のものではない。ところがこのことは、最も熱心な世界の分 析と解剖とがなされずには、成し遂げられないのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一二 四、pp.187-188、桂寿一)

B・一・七【諸学および技術が諸悪や奢侈等へ堕落した原因であるという非難には、何ぴ とも心動かされないよう望む。その実行は、正しい理性と健全な宗教とが舵をとるであろ う。】

「最後にもし人が、諸学および技術が諸悪および奢侈等へ堕落することを、非難するとして も、これには何ぴとも心動かされないよう望む。というのは、それはこの世の一切の善なるこ とについて、知能・勇気・力・容姿・富・光そのもの、その他についても言われうることだか ら。ただ人類が、神の恵与によって、彼のものである自然への自分の権利を回復せんことを、 そして彼にその力が与えられんことを〔祈るのみ〕。実行は正しい理性と健全な宗教とが舵を とるであろう。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一二 九、p.197、桂寿一)

B・一・八【「帰納法」によって進行する我々の論理学は、自然哲学だけについてでな く、残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、適用される。】

「また人は次のように反対する、というよりむしろ疑いもするであろ、果して我々は自然哲 学だけについて言うのか、それとも残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、我々の 方法で行なわるべきだと語っているのかと。ところでたしかに我々は、言われたことはすべて についてであると解しており、そして事物を推論式で支配する通常の論理学が、単に自然的の みならずすべての学に及ぶごとく、「帰納法」によって進行する我々の論理学も、一切を包括 するわけである。というのは我々は怒り・恐れ・恥じらいその他同様のものについて、また政 治的事例についても、〔自然〕誌および発見表を作り上げるし、また、寒熱や光や植物の生育 等について劣らず、記憶・合成および分割・判断その他の精神的働きについても同様である。 とは言え我々のいう「解明」の仕方は、誌が用意され整序された後には、(通常の論理学のよ うに)単に精神の働きおよび運びを見るだけではなく、事物の本性をも考察するのであるか ら、我々は精神をばあらゆる点で適切な仕方で、事物の本性に適用されるように指導する。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一二 七、p.191、桂寿一)
(索引:論理学、倫理学、政治学)

B・一・九【学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時 代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえを取らせるのである。それは、他人の精神の なかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動を引き起こし意見を生む。】

「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑 をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべ ての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほう が、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というの は、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、 あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がた ちくされ、とりこわされたのに。」(中略)
「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免 れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というの は、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく 行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、き わめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明が りっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられね ばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たっ た時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、服部 英次郎、多田英次)
(索引:学問の船)

B・一・一〇【希望を与える最大の理由:現在の私たちの抱える課題や問題が、事がらそ のものの為にではなく、過去の時代の誤り、今まで試みられた道の誤りによるものならば、そ れらの誤りを除き、もしくは訂正することによって、事がらを大きく好転させうるよう希望す ることができる。】

「希望を与えるのにあらゆる理由のうち最大のものがある。すなわち過去の時代の誤り、な らびに今まで試みられた道の誤りからの理由である。というのも、余り巧みでなく治められた 政治的状態について、或る人が次の言葉で表明した非難は、最も優れたものであろう。すなわ ち、「過ぎたことに関して最悪のことは、未来に対しては最善と見られねばならない。という のは、もしも諸君が諸君の義務に係わる一切を遂行したが、にも拘わらず諸君の事態が好転し ないとしたら、それらをよりよい方に進めるという、いかなる希望さえ残らないであろう。し かしながら諸君の事がらの状態が、事がらそのものの為にではなく、諸君の誤りによってうま く行かないときには、それらの誤りを除き、もしくは訂正することによって、事がらを大きく 好転させうるよう希望することができる」と。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、九 四、p.153、桂寿一)
(索引:希望)

B・一・一一【発見の技術は、発見とともに成長しうるものである。】

「ところで今や、自然解明の技術そのものを提示する時である。その中で我々は最も有用で 最も真正な法式を説いたと信ずるけれども、しかしそれに絶対的必然性(あたかもそれなくし ては、何も行なわれ得ないということ)、もしくは完全無欠を認めたわけではない。」(中 略)
「精神をば単にそれ自らの能力においてだけではなく、事物との結合されている限りで考察 する我々は、発見の技術が、発見とともに成長しうるものであることを、主張せざるを得ない のである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一三 〇、pp.197-198、桂寿一)

■■ 第二章 人間観、意志論、イドラ論


B・二【人間観、意志論、イドラ論(ベーコン)】

一 巧妙な詭弁、しつこい想像あるいは印象、激烈な情念と感情の三つのものによって、意志 は理性による支配から妨害されている。(
B・二・一 )どうすれば、意志を理性の命ずる方向にいっそうよく動かすことができるだろうか。
一・一 論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。(B・二・一)
一・二 ところが、想像はつねに意志の運動に先だつ。(B・二・二)
一・三 したがって、意志による判定も、能弁によって行われる説得や、事物の真の
すがたを彩り偽装するような、説得に似た性質の印象づけによって、主として
想像力に訴えなければ、意志を動かすことはできない。(B・二・二)
一・四 この際、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体とを見るという点で
異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多く想像力をみたすので、
理性はふつう負かされてしまう。(B・二・一 )
一・五 そこで、雄弁と説得との力が、未来の遠いものを現在のように見えさせてし
まえば、そのときは、想像力の寝がえりで、理性が勝つのである(B・二・一)。
二 このように、どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方によって一方を制するか についての認識は、道徳と政治に関することがらには特別に役だつ(B・二・三)。

三 ところで、理性の及ばないところにおける意志は、どのように自らを決定するのか。
三・一 感情そのものにも理性と同じように、つねに善への欲求がある。(B・二・一)
これが、解決のための手掛かりとして、私たちに与えられている。
三・二 しかるに、理性の及ばないところにおいて、信仰と宗教は、比喩と象徴と
たとえ話とまぼろしと夢によって、想像力を通じて意志に近づく。(B・二・二)
そしてそれは、小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称
している(B・二・一)。
三・三 事物の本性が人間の精神に満足を与えないような場合に、想像力が、人間の霊
の要求に応じて自由に、より豊かな偉大さと、厳格な善と、完全な多様性とを表
現するところの、極度に無拘束な学問の部門がある。詩である。(B・二・四)
そして、これが第二の手掛かりである。
三・四 私は、この極度に無拘束な学問の部門の一例として、「博物誌」のあとに、
私が理想と考えるところの一つの法体系、あるいは国家の最良の様態、ないしは
型を記述してみたいと思う。これは、すべてを模倣することは到底不可能と思わ
れるほど壮大かつ高尚なものではあるが、人間の力で実現可能なものとして、
構想されるものである。(B・二・五)

四 これが全体の構想であるが、まずは予告どおり、人間の知性を捕えてしまって、そこに深 く根を下ろしている「イドラ」および偽りの概念から解明していこう。前もって知り自分を守 らなければ、真理への道を開くのは困難になろうから( B・二・六)。
四・一 種族のイドラ(B・二・六・一)
・種族のイドラの例(B・二・六・一・一 ~)
四・二 洞窟のイドラ(B・二・六・二)
・人物についての認識(B・二・六・二・ 一)
・意志と欲望に影響を及ぼしうるもので、われわれが自由に支配できるもの
がある(B・二・六・二・二)。
四・三 市場のイドラ(B・二・六・三)
・すべての政治論の中で、噂ほど扱われる価値のある題目はない。
(B・二・六・三・一)
四・四 劇場のイドラ(B・二・六・四)
・劇場のイドラの例(B・二・六・四・一 ~)
・古代の哲学の集録の効用(B・二・六・ 四・五)

五 役に立つ一覧表の例など
・異常な自然の歴史(B・二・七)
・問題の一覧表の効用(B・二・八)
・誤りの一覧表の効用(B・二・九)
例:学問の病気や不健康な状態を識別する(参照:B・ 三 以下)
・記憶術(B・二・一〇)
・知識の伝達法(B・二・一一)
・反乱の原因と動機、反乱の一般的予防法(参照:B・四 以下)
・ぺてんとよこしまな手管の研究(参照:B・五 以 下)

B・二・一【巧妙な詭弁、しつこい想像あるいは印象、激烈な情念と感情の三つのものに よって、意志は理性による支配から妨害されている。意志を理性の命ずる方向に動かすにあ たっては、まず、論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。ところで、感 情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理 性は未来と時間の全体とを見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多 く想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまう。そこで、雄弁と説得との力が、未来 の遠いものを現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝がえりで、理性が勝 つのである。】

「弁論術の任務と役目は、意志を理性の命ずる方向にいっそうよく動かすために、理性の命 令を想像力にうけいれさせることである。現に、理性はその支配を三つのものによって妨害さ れているからである。三つのものとは、論理学に関係のあるわなあるいは詭弁と、弁論術に関 係のある想像あるいは印象と、道徳哲学に関係のある情念と感情とである。そして他人との折 衝の場合、人間は巧妙な手としつこい要求と激烈さとによって左右されるように、内心におけ る折衝の場合も、人間は、まちがった推論によって根底をくずされ、印象あるいは所見にしつ こくまといつかれ、情念のために我を忘れさせられる。といっても、人間の本性はそれほどで きそこなってはいないので、あの三つの能力と技術は、理性をかき乱して、それを確立し高め ないような力をもっているわけではない。というのは、論理学の目的は、立論の形式を教えて 理性を確実にすることであって、理性をわなにかけることではなく、道徳哲学の目的も、感情 を理性に従わせることであって、理性の領域を侵させることではなく、弁論術の目的も、想像 力をみたして理性を補佐することであるからである。」
「なおまた、もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対 する説得と巧言などを用いる必要はたいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、 しかし、感情がたえずむほんをおこし扇動する、
「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。
しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」〔オウィディウス『変身譚』七の二〇〕
のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入 れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろ う。というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情 は現在だけを見、理性は未来と時間の全体とを見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在 のほうがいっそう多く想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。しか し、雄弁と説得との力が未来の遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、 想像力の寝がえりで、理性が勝つのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一八・二、一八・四、 pp.249-252、服部英次郎、多田英次)
(索引:論理学、弁論術、道徳哲学)

B・二・二【想像はつねに意志の運動に先だつ。したがって、理性による判定が意志によ り実行に移されるのも、能弁によって行われる説得や、事物の真のすがたを彩り偽装するよう な、説得に似た性質の印象づけによって、主として想像力に訴えることによる。ところで、信 仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであっ て、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこう とした理由なのである。】

「人間の精神の諸能力に関する知識には二つの種類がある。すなわち、その一つは人間の悟 性と理性に関するものであり、他の一つは人間の意志と欲望と感情に関するものである。そし てこれらの能力のうちさきの二つは、決定あるいは判定を生み、あとの三つは行動あるいは実 行を生む。なるほど、想像力は、双方の領域において、すなわち、判定を下す理性の領域にお いても、またその判定に従う情意の領域においても、代理人あるいは「使者」の役割をつとめ る。というのは、感官が想像力に映像を送ってはじめて理性が判定を下し、また理性が想像力 に映像を送ってはじめてその判定が実行に移されることができるからである。それというの も、想像はつねに意志の運動に先だつからである。ただし、この想像力というヤヌス〔二つの 顔をもつローマの神〕はちがった顔をもっていないとしてのことである。というのは、想像力 の理性に向けた顔には真が刻まれ、行為に向けた顔には善が刻まれているが、それにもかかわ らず、
「姉妹にふさわしいような」〔オウィディウス『変身譚』二の一四〕
顔なのであるから。なおまた、想像力は、ただの使者にすぎないのではなく、伝言の使命のほ かに、それ自身けっして小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称してい る。というのは、アリストテレスの至言のように、「精神は身体に対して、主人が奴隷に対し てもつような支配力をもっているが、しかし理性は想像力に対して、役人が自由市民に対して もつような支配力をもっている」〔『政治学』一の三〕のであって、自由市民も順番がくると 支配者になるかもしれないからである。すなわち、われわれの知るように、信仰と宗教の問題 において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗 教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なので ある。それからまた、能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装 するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴え ることによるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一二・一、pp.207-208、服 部英次郎、多田英次)
(索引:想像、意志、宗教、信仰)

B・二・三【どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方によって一方を制するか についての認識は、道徳と政治に関することがらには特別に役だつ。想像力により感情がしず められ、あるいはもえたたされ、行動に発展するのを抑制され、あるいは抑制されていたもの が発動する。】

「詩人と歴史の著述家がこの認識の最上の教師であって、われわれは、そこにつぎのような ことがいきいきと描かれているのを見る。すなわち、どのように感情がもえたたされ、かきた てられるか、それがどのようにしずめられ、抑えられるか、そしてまた、それが行動に発展す るのをどう抑制されるか、抑えられたものがどのようにして外に出るか、それがどう活動する か、どう変化するか、それがどうつのってはげしくなるか、それらの感情がどのように重なり あうか、それらがどのようにたがいに戦い角つきあうかなどといったことが一つ一つ描かれて いる。それらのうち、最後にあげたことが、道徳と政治に関することがらには特別に役だつも のである。くりかえしていえば、それは、どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方 によって一方を制するかということである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二二・六、pp.293-294、服 部英次郎、多田英次)

B・二・四【詩は、事物の本性が人間の精神に満足を与えないような場合に、想像力が、 人間の霊の要求に応じて自由に、より豊かな偉大さと、厳格な善と、完全な多様性とを表現す るところの、極度に無拘束な学問の部門である。これは、歴史上の行為とか事件とかを、より 偉大で、かつ英雄的なものとして仮作してきた。】

「詩は、韻律の点では大いに制約されているが、しかし他のすべての点では、極度に無拘束 な学問の部門であって、ほんとうに想像力に関係するものである。想像力は、物質の法則にし ばられることなく、好き勝手に、自然がひきはなしているものを結びつけ、自然が結びつけて いるものをひきはなし、こうして、自然の法則に反する結婚や離婚をさせるのであて、「画家 や詩人には、創作の自由がある」〔ホラティウス『詩篇』九〕といわれているとおりであ る。」
「この仮作の歴史の効用は、世界のほうが人間の魂よりもその品位がおとっているので、事 物の本性が人間の精神に満足を与えないような場合に、ある満足の影のようなものを与えるこ とであった。そうしたわけで、詩には、人間の霊の要求に応じて、事物の本性に見出されうる よりも豊かな偉大さと、厳格な善と、完全な多様性とがあるのである。こういう次第で、ほん とうの歴史上の行為とか事件とかは、人間の精神を満足させるほどの偉大さをもたないから、 詩はそれよりも偉大で、かつ英雄的な行為と事件を仮作するのである。ほんとうの歴史は、行 動の結末と成行きを、因果応報の理に応じて述べないから、それゆえに、詩は、それらがもっ と正しく応報をうけ、神の示された摂理にもっと一致するように仮作する。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、四・一、四・二、pp.146- 147、服部英次郎、多田英次)
(索引:想像力、詩、仮作された歴史)

B・二・五【フランシス・ベーコンの夢:「博物誌」のあとに、私が理想と考えるところ の一つの法体系、あるいは国家の最良の様態、ないしは型を記述してみたい。これは、すべて を模倣することは到底不可能と思われるほど壮大かつ高尚なものではあるが、人間の力で実現 可能なものとして、構想されるものである。】

「この寓話はわがベーコン卿が、人々の益となるよう、自然の解明と、数々の驚嘆すべき大 規模な装置の製造のために設立される学院―――「サロモンの家」または「六日創造学院」と呼 ばれる―――の雛型あるいは概要を示そうとされたものであります。卿はそこまでは書き終えて おられました。誠にその雛型は壮大かつ高尚、すべてを模倣することは到底不可能であります が、その中の多くは人間の力で実現可能なものであります。卿はまたこの寓話において、一つ の法体系、あるいは国家の最良の様態、ないしは型を記述する意図をお持ちでした。しかしな がらそれは長くなることを予知され、その前にぜひとも「博物誌」の編纂をしたいという願い に従われることになりました。
ご覧のように『ニュー・アトランティス』を(英語版に関する限り)、「博物誌」のあとに 置くのは、わが卿が意図されたことであります。この著述は(その一部が)「博物誌」と密接 な関連があるとお考えになっておられたのです。」
(ウィリアム・ローリー(1588頃-1667)『ニュー・アトランティス』読者に、p.6、川西進)

B・二・六【人間の知性を捕えてしまって、そこに深く根を下ろしている「イドラ」およ び偽りの概念を前もって知り自分を守らなければ、真理への道を開くのは困難になろう。】

「すでに人間の知性を捕えてしまって、そこに深く根を下ろしている「イドラ」および偽り の概念は、真理への道を開くのが困難なほど、人々の精神を占有するのみならず、たとい通路 が開かれ許されたとしても、それらはまたもや諸学の建て直し〔革新〕のときに出現し、妨げ をするであろう、もしも人々がそれらに対し、前もって警告されていて、できるだけ自分を守 るのでないかぎり。」
「人間の精神を占有する「イドラ」には四つの種類がある。それらに(説明の便宜のため に)次の名称を付けた、すなわち、第一の類は「種族のイドラ」、第二は「洞窟のイドラ」、 第三は「市場のイドラ」、第四は「劇場のイドラ」と呼ぶことにする。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、三 八、三九、pp.82-83、桂寿一)
(索引:イドラ)

B・二・六・一【種族のイドラ:人間の知性は、いわば事物の光線に対して平らでない 鏡、事物の本性に自分の性質を混じて、これを歪め着色する鏡のごときものである。】

「「種族のイドラ」は人間の本性そのもののうちに、そして人間の種族すなわち人類のうち に根ざしている。というのも、人間の感覚が事物の尺度であるという主張は誤っている、それ どころか反対に、感官のそれも精神のそれも一切の知覚は、人間に引き合せてのことであっ て、宇宙〔事物〕から見てのことではない。そして人間の知性は、いわば事物の光線に対して 平らでない鏡、事物の本性に自分の性質を混じて、これを歪め着色する鏡のごときものであ る。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 一、p.84、桂寿一)
(索引:種族のイドラ)

B・二・六・一・一【種族のイドラの例(一):否定的な、あるいは成果のないものに よってよりも、肯定的な、あるいは成果のあるものによって心を動かされる。】

「すべての人間の本性は、否定的な、あるいは成果のないものによってよりも、肯定的な、 あるいは成果のあるものによって心を動かされるという事例に認められる。それゆえ、一度か 二度うまく当たって成功しさえすれば、もうそれで、たびたび当たらず失敗することの埋め合 わせとなるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一四・九、p.227、服部英次 郎、多田英次)
「人間の知性は(或いは迎えられ信じられているという理由で、或いは気に入ったからとい う理由で)一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のこと を引き寄せるものである。」(中略)「いや逆に、すべて正しい公理を構成するには、否定的 な事例のもつ力のほうがより大きいのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 六、p.87-88、桂寿一)

B・二・六・一・二【種族のイドラの例(二):実際にはない秩序と斉一性を想定す る。】

「人間の知性はその固有の性質から、これが見出すより以上の秩序と斉一性とを、容易に事 物のうちに想定するものである。そして自然においては、多くのものが個性的で不等であるの に、知性は実際にはありもしない並行的なもの、対応的なもの、相関的なものがあると想像す る。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 五、p.86、桂寿一)

B・二・六・一・三【種族のイドラの例(三):人間の知性は静止することができず、常 により先に何かがあるが考える。このため、世界の究極や極限とか、永遠に関すること、線が どこまでも可分的であるなどと考えるようになる。また、本来は原因を求め得ずそのまま肯定 的なものにまで、原因を求めるようになるのも、知性のこの働きによる。】

「人間の知性は絶えずいらいらして、静止もしくは休止することができず、常に先へ進もう とするが、しかし無駄働きなのである。それゆえに〔知性にとっては〕世界の究極もしくは極 限なるものは思惟され得ず、常により先に何かがあるということが、いわば必然的に生ずる。 さらにまた永遠がどのような仕方で、今日まで流れてきたかということも思惟され得ない。」 (中略)「線がどこまでも可分的であるという細かしい理屈も同様であって、思惟の〔止まる ことの〕不能からくる。ところが精神のこの不能は、原因を見出してゆく場合に、より大きな 災いを伴って障害を与える。というのは、自然における最も普遍的なものは、それらが見出さ れるごとく、また実際原因を求め得ないように、本来〔そのままの〕肯定的なものであるべき なのに、人間の知性は止まることを知らずして、なお〔自然に関して〕よりもとのものを求め る。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 八、pp.89-90、桂寿一)

B・二・六・一・四【種族のイドラの例(四):自然は人間の行動と技術に似たはたらき をすると考える。】

「どれほど多くのつくりごとと空想をば、自然は人間の行動と技術に似たはたらきをすると の考えが、人間は万物の「共通の尺度」〔プロタゴラス〕との考えといっしょになって、自然 哲学に導き入れられたかは、指摘されるまでは、信ぜられないほどである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一四・九、p.228、服部英次 郎、多田英次)

B・二・六・二【洞窟のイドラ:各個人は、受けた教育、談話した人々、読んだ書物、尊 敬し嘆賞する人々の権威などに応じて、多様で全く不安定な、いわば偶然的で特殊な性質を、 それぞれ持っている。】

「「洞窟のイドラ」とは人間個人のイドラである。というのも、各人は(一般的な人間本性 の誤りのほかに)洞窟、すなわち自然の光を遮り損う或る個人的なあなを持っているから。す なわち、或は各人に固有の特殊な性質により、或は教育および他人との談話により、或は書物 を読むことおよび各人が尊敬し嘆賞する人々の権威により、或はまた、偏見的先入的な心に生 ずるか、不偏不動の心に生ずるかに応じての、印象の差異により、或はその他の仕方によって であるが。したがってたしかに人間の精神とは、(個々の人の素質の差に応じて)多様でそし て全く不安定な、いわば偶然的なものなのである。それゆえにヘラクレイトスが、人々は知識 をば〔彼らの〕より小さな世界のうちに求めて、より大きな共通の世界の中に求めない、と 言ったのは正しい。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 二、pp.84-85、桂寿一)
(索引:洞窟のイドラ)

B・二・六・二・一【人物についての認識:性質、欲望と目的、習慣、生活様式、長所と 強み、弱点と短所、無防備なところ、友人と一味徒党と子分たち、反対者とそねむ者と競争 者、機嫌と潮時、主義、しきたり、習性、行動、その行動が好意をもたれ、反対されている か、どれほど重要であるかなど。】

「その性質、その欲望と目的、その習慣と生活様式、その助けとなっている長所とその強み のおもなもの、それからまた、その弱点と短所、そのもっともあけっぱなしで無防備なとこ ろ、その友人と一味徒党と子分たち、それからまた、その反対者とそねむ者と競争者、「あな ただけがかれにそっと近づく潮時を知っている」〔『アイネイス』四の四二三〕といわれる、 その機嫌と潮時、その主義としきたりと習性など、しかも人物についてだけでなく行動につい ても、どういうことがときおり行なわれているか、その行動がどのようになされ、好意をもた れ、反対されているか、どれほど重要であるかなど、一つ一つの点について正しい情報をつか むことである。というのは、相手の現在の行動について知ることは、それ自身たいせつである ばかりでなく、それを知らなければ、人物についての認識もひどくまちがったものとなるから である。それというのも、人間は行動とともに変わるものであって、あることを追求している ときと、本性にもどったときとでは人がらが変わることもあるからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二三・一四、p.323、服部英 次郎、多田英次)

B・二・六・二・二【意志と欲望に影響を及ぼしうるもので、われわれが自由に支配でき るものがある。それらにより、人間に可能な限度で、精神の健康を回復し良好な状態を保持す るための処方が可能となる。それは、習慣、鍛錬、習性、教育、模範、模倣、競争、交わり、 友人、賞賛、非難、勧告、名声、おきて、書物、学問である。】

「さて、次の論題は、われわれがそれを自由に支配することができ、しかもそれは意志と欲 望に影響を及ぼして性格をかえるような力と作用を精神に対してもつものについてであるが、 それらのもののうち、哲学者たちは、習慣、鍛錬、習性、教育、模範、模倣、競争、交わり、 友人、賞賛、非難、勧告、名声、おきて、書物、学問をとり扱うべきであった。というのは、 これらは道徳論においてはっきりした効用のあるものであり、これらによって精神は影響と感 化をうけるのであり、また、これらから、精神の健康と良好な状態を、人間の手でなおしうる かぎり、回復しあるいは保持するのに役だつような処方が調剤され書かれるからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二二・七、pp.294-295、服 部英次郎、多田英次)

B・二・六・三【市場のイドラ:人間を社会的に結合する会話、生活の中で獲得されてき た言葉は、驚くべき仕方で知性の妨げをし、人々を空虚で数知れぬ論争や虚構へと連れ去 る。】

「またいわば人類相互の交わりおよび社会生活から生ずる「イドラ」もあり、これを我々は 人間の交渉および交際のゆえに、「市場のイドラ」と称する。人間は会話によって社会的に結 合されるが、言葉は庶民の理解することから〔事物に〕付けられる。したがって言葉の悪しく かつ不適当な定めかたは、驚くべき仕方で知性の妨げをする。学者たちが、或る場合に自分を 防ぎかつ衛るのを常とするとき使う定義や説明も、決して事態を回復はしない。言葉はたしか に知性に無理を加えすべてを混乱させる、そして人々を空虚で数知れぬ論争や虚構へと連れ去 るのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 三、p.85、桂寿一)
(索引:市場のイドラ)

B・二・六・三・一【すべての政治論の中で、噂ほど扱われる価値のある題目はない。】

「すべての政治論の中で、この噂の題目ほど扱われることが少なく、しかもこれほど扱われ る価値のある題目はない。それゆえ、われわれは次の点について述べよう。すなわち何が偽り の噂であるか、何が真実の噂であるか、どうすればそれらが最もよく見分けられるか、どのよ うに噂は種を蒔かれて立てられるか、どのように広がって大きくなるか、どうすれば食い止め られて消されるか、そのほか噂の本性に関するいろいろなことである。
噂には非常に大きな力があり、それが大きな役割を演じていない偉大な行為はほとんどない ほどである。とくに戦争においてそうである。」(中略)
「それゆえ、すべての賢明な支配者は行為や計画そのものについてと同様に、噂についても 十分に警戒し注意するがよい。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』五九、pp.251-252、渡辺義雄)
(索引:噂の研究)

B・二・六・四【劇場のイドラ:哲学説が受け入れられ見出された数だけ、架空的で舞台 的な世界を作り出すお芝居が、生み出され演ぜられた。】

「最後に、哲学のさまざまな教説ならびに論証の誤った諸規則からも、人間の心に入り込ん だ「イドラ」があり、これを我々は「劇場のイドラ」と名付ける。なぜならば、哲学説が受け 入れられ見出された数だけ、架空的で舞台的な世界を作り出すお芝居が、生み出され演ぜられ たと我々は考えるからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 四、pp.85-86、桂寿一)
(索引:劇場のイドラ)

B・二・六・四・一【劇場のイドラ:「偽りの哲学」の三つの種類、詭弁的哲学、経験的 哲学、迷信的哲学】

「哲学者のうち合理派は、経験からさまざまなありふれたことを、しかも充分に確かめるこ とも、慎重に吟味し考量することもなく撮み上げ、あとは省察と知能の動くままに委ねるから である。
また哲学する人々には他の種類の人もあって、少数の実験に熱心かつ細心に魂を傾け、そし てそこから哲学を引き出し作り出そうとあえてした、驚いたことには、残余のことは無理に歪 めてそれらに合わせながら。
さらにまた第三の、信仰や礼拝から神学および伝承を、〔哲学に〕混入する人々の種類もあ る。これらの人々の間では、或る人たちの虚想は常軌を外れて、諸学をば霊や守護神に求めか つそこから導き出そうとした。かくして誤謬の根元および「偽りの哲学」は、種類として三つ あることになる、すなわち「詭弁的、経験的および迷信的」である。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 二、p.102、桂寿一)
(索引:偽りの哲学、詭弁的哲学、経験的哲学、迷信的哲学)

B・二・六・四・二【劇場のイドラ(一)詭弁的哲学:まず自分勝手に一般的命題を決定 した後に、人に答えるときにどのような言葉でどう述べるかを考えて、哲学を構成する。】

「その他無数のことを、自分の意のままに事物の本性に押しつけた。しかも事物の内的な真 理についてよりも、むしろ人が答えるときどのようにして述べるか、また或ることをどのよう に積極的に言葉に表わすかということに、いつもやきもきしながらである。」(中略)
「というのは彼はまずもって決定しておいたので、決定や一般命題を構成するために、当然 すべきように経験に相談したのではなかった。そうではなくて自分の勝手に決定した後に、経 験をば思いのままに歪め、虜囚のようにして引き廻すのだから。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 三、pp.103-104、桂寿一)
(索引:詭弁的哲学)

B・二・六・四・三【劇場のイドラ(二)経験的哲学:数少ない実験の結果を一般化し、 性急で軽率にも、普遍的な原理へいっきに跳躍し、自分の哲学を作り上げる。】

「ところが哲学の「経験派」は、「詭弁的」もしくは合理的な派よりも、畸形的かつ奇怪な 教説を導き出す。なぜならば、それは通俗的な概念の光(この光は薄くかつ皮相的ではあって も、或る意味で普遍的で多くのものに及んでいる)のうちにではなく、数少ない実験の狭さと 暗さのうちに、基礎をもっているからである。」(中略)
「今の時代では、おそらくはギルバートの哲学以外には、他にどこにもほとんど見出されな いであろう。だがしかしこの種の哲学の関しては、決して用心が怠られてはならなかった。と いうのは、我々が心ひそかに予見し予告するところでは、人々がいつかは我々の忠告に目覚 め、(詭弁的教説に別れを告げて)真剣に実験に立ち向かうとき、その時になって、知性の早 まった性急な軽率と、普遍的なものおよび事物の原理への、跳躍もしくは飛躍とのために、こ の種の哲学から、大きな危険が迫ってくるようなことが起こるだろうし、この害悪にも今から 備えておかねばならないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 四、pp.104-105、桂寿一)
(索引:経験的哲学)

B・二・六・四・四【劇場のイドラ(三)迷信的哲学:とくに高踏的かつ飛翔的な知能の うちには、知性の野心ともいえるものがあり、空想的で大げさで、いわば詩的な哲学を作り上 げる。】

「哲学の戦闘的かつ「詭弁的」な種類も、知性をとりこにするが、かのもう一つの空想的で 大げさで、いわば詩的な種類は、いっそう多く知性にへつらうからである。人間には、意志の 野心に劣らぬ知性の野心というものが、とくに高踏的かつ飛翔的な、知能のうちにはあるもの なのである。」(中略)
「誤謬の「神格化」は最悪のことであり、もしも虚影に崇拝が加わるなら、知性の疫病と見 なさなければならないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 五、pp.105-106、桂寿一)
(索引:迷信的哲学)

B・二・六・四・五【古代の哲学の集録の効用:哲学はすべての学問の母であり、私たち 人類が幼少だった頃の諸哲学のなかから、いままで残っていて光明となりうるものを集録する ことは、ほんとうの母を見分けるために必要なことである。】

「経験もまた、幼少の状態にあるときは、あらゆる哲学を母と呼ぶものであるが、成熟すれ ば、ほんとうの母を見分けるのである。そういうわけで、さしあたっては、各人は自然のある 点を他の仲間よりもはっきりとみたかもしれないので、自然についての多くの異なった説明と 意見を知ることは有益であり、それゆえに、「古代哲学の集録」が、それらの哲学のうちいま まで残っていて光明となりうるもののなかから、念入りにわかりやすく、つくられることを、 わたくしは希望する。そのような労作が欠けていることを知っているからである。しかし、こ のさいわたくしは、そのような集録は、個々別々に分け、各人の哲学を終始、個別にとり扱っ て、プルタルコスによってなされたように、標題によって一括してまとめる〔『倫理論集』に おさめられている諸篇でしたように〕ことのないよう、あらかじめ注意を促さなければならな い。というのは、ある哲学に輝きと信用を与えるものは、その哲学自体における調和であり、 これに反して、それがつまみ出され、ばらばらにされるなら、その哲学は、奇異で、耳ざわり なものとなるからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、八・五、pp.182-183、服部 英次郎、多田英次)
(索引:古代の哲学の集録)

B・二・六・四・五・一【無題】

先哲らの哲学に輝きを与えているその哲学自体における調和を壊さずして、なおかつ、未来 へ継承すべき真なるものを、誰にも簡単に読めるように提示すること。この際、ベーコンが注 意するように、先哲の思想をばらばらにしてしまうことを免れ、のみならずむしろ、他の先哲 の思想とともに記述することによって、彼でなければなし得なかった最も重要な成果物を、浮 き彫りにすること。これが、当命題集の試みるところである。

B・二・七【異常な自然の歴史:自然のなかの驚異的な現象を発見、収集し研究すること は、一般的命題や学説の偏見を是正する効用があり、人工の驚異を実演する術を見つける一番 の近道である。なおまた、魔術や妖術や夢や占いなどに関する迷信的な話の研究も、自然の秘 密を明らかにするためには、まったく除外せねばならぬとは考えない。】

「アリストテレスがありがたくも先例をつくってくれたこの仕事の効用は、驚異の物語のす るように、せんさく好きでむなしい精神の欲望を満足させることではけっしてなく、つぎの二 つのいずれも重要な理由によるのである。その第一は、ありふれた熟知の例のみにもとづいて うちたてられるのがつねである、一般的命題や学説の偏見を是正するからであり、その第二 は、自然の驚異から出発するのが人工の驚異を実演する術を見つける一番の近道であるからで ある。それというのも、さまよえる自然のあとをつけ、いわば、かぎつけることによってこ そ、自然をのちにまたもとの場所に連れもどすことができるからである。なおまた、わたくし は、この驚異の歴史において、魔術や妖術や夢や占いなどに関する迷信的な話を、事実である ことの保証やはっきりとした証拠がある場合、まったく除外せねばならぬとは考えない。とい うのは、超自然力のせいにされている結果が、どのような場合に、どの程度まで自然的原因に 関係があるのかがまだわかっていないからである。こういう次第で、魔術など行なうことはと がめられるべきではあろうが、しかしそれらのものを観察し考察することによって知識が得ら れて、まちがいを識別できるだけでなく、自然の秘密をなおいっそうあきらかにすることがで きるかもしれないのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一・四、pp.128-129、服部 英次郎、多田英次)
(索引:異常な自然の歴史、魔術、妖術、夢、占い)

B・二・八【問題の一覧表の効用:誤りが誤りを生ずることを防止し、またふつう不用意 にも考えもしないようなことを明確にし、よく考えるように促してくれることである。】

「質問を登録することには、二つのすぐれた効用があって、その一つは、そのことが哲学を 誤りと偽りから救うという効用であるが、それというのは、明瞭に証明されていないものがと りまとめられて、一つの主張となると、そこから誤りが誤りを生ずるというようなことはなく なり、疑問は疑問として保留されるからである。もう一つの効用は、疑問を登録することはま るで吸管か海綿かのように、知識の増加をすいつけるのであって、それというのは、まず疑問 にされることがないならよく考えてもみないし不用意にみのがしてしまうようなものでも、疑 問によって暗示されひかれると、よく気をつけて考えるようになるからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、八・五、p.180、服部英次 郎、多田英次)
(索引:問題の一覧表)

B・二・九【誤りの一覧表の効用:人間の知識がそのような不純で空虚なものによって弱 められたり卑しくされたりしないためである。】

「もう一つの、それにおとらず、あるいはそれよりも重要な一覧表をつけ加えるのがよいと 思う。それは、一般にひろまっている誤りの一覧表である。わたくしのいうのは、主として自 然誌においてのことであるが、たとえば、ことばとして、また意見として通用してはいるが、 それにもかかわらず、うそであるとはっきり看破され確認されているような誤りの一覧表で あって、それをつけ加えるのは、人間の知識がそのような不純で空虚なものによって弱められ たり卑しくされたりしないためである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、八・五、p.181、服部英次 郎、多田英次)
(索引:誤りの一覧表)

B・二・一〇【記憶術:想起しようと思うものをあてどなくさがす労を省き、狭い範囲内 を探すようにしてくれる「予知」と、知的な想念を感覚的な映像に変換し記憶しやすいように する「象徴」との二つの意図から、記憶術を引き出すこと。】

「この記憶の術は、二つの意図に基づいてうちたてられるものにほかならない。その一つ は、予知であり、もう一つは象徴である。予知〔われわれが想起しようと思うものをどこにさ がし求めたらよいかをあらかじめ知ること〕は、想起しようと思うものをあてどなくさがす労 を省き、狭い範囲内に、すなわち記憶のありかにぴったりあっているものをさがすことを教え てくれる。つぎに、象徴は知的な想念を、感覚的な映像にかえてしまうのであるが、このほう がいっそう記憶に残るのである。予知と象徴の準則からは、いま行われているよりもずっとす ぐれた記憶術を引き出すことができるであろう。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一五・三、p.233、服部英次 郎、多田英次)
(索引:記憶術、予知、象徴)

B・二・一一【知識の伝達法:教え込んで利用させる方法と、証明してみせて前進させる 方法とがある。植物と同じように、移植して成長させようと思うなら、根のない木の美しい幹 の運搬のような方法ではなく、自分が得た知識にどうして到達したかを理解させるような方法 で、根をしっかりと育てることが大切だ。】

「なおまた、伝達の方法あるいは本性は、知識の使用にとってたいせつであるだけでなく、 知識の進歩にとってもたいせつである。というのは、ひとりの人間の労力と生涯では知識の完 全に到達することができないがゆえに、伝達の知恵こそ、学ぶものを鼓舞して、学びとったこ とを踏み石に利用しつつ、さらに発見へと前進できるようにしてくれるものだからである。そ してそれゆえに、〔伝達の〕方法に関するもっとも本質的な差異は、〔伝達された知識を〕利 用させる方法と、前進させる方法との差異である。そのうち前者を教え込む方法、後者を証明 してみせる方法と名づけてよいだろう。」
「しかし、紡ぎつづけるべき糸として伝えられる知識は、できるものなら、それが発見され たと同じ方法で伝え知らされるべきであり、こういうことは帰納された知識なら可能である。 ところが、こんにちのような予断と推量の知識においては、だれも自分が得た知識にどうして 到達したかを知らないのである。しかしそれにもかかわらず、「多かれ、少なかれ」、ひとは 自分の知識と信念の基礎にまでたちかえり降りていって、それが自分の精神のなかで成長した とおりに、他人の精神のなかに移植することができるものなのである。というのは、知識も植 物の場合と同じだからである。すなわち、利用しようと思うなら、根は問題でないが、しかし 移植して成長させようと思うなら、さし木によりも根にたよるほうが確実なのである。同じよ うに、知識の伝達も(現在行われているところでは)根のない木の美しい幹の運搬のようなも のであって、大工にはそれでもよいが、植木師にはむかない。しかし、諸学を成長させようと する場合には、根を掘りおこすのによく注意すれば、木の茎や幹はたいして問題ではない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一七・二、一七・三、 pp.240-241、服部英次郎、多田英次)
(索引:知識の伝達法)

■■ 第三章 学問の病気や不健康な状態を識別する


B・三【学問の病気や不健康な状態を識別する(ベーコン)】

一 学問の三種の病気(
B・三・一)
・てらった学問(B・三・一・一)
・論争的な学問(B・三・一・二)
・空想的な学問(B・三・一・三)
二 学問の不健康な状態(B・三・二)
・保守的過ぎ、急進的過ぎ(B・三・二・一)
・もはや新たな発見などないとの考え(B・三・二・ 二)
・最新の学説や学派がつねに最善との考え(B・三・ 二・三)
・早まった、無理な体系化(B・三・二・四)
・普遍的認識あるいは「第一哲学」の必要性(B・ 三・二・五)
・人間の精神と知性に対する過度の尊敬(B・三・ 二・六)
・特定の学問、学説の不用意な一般化(B・三・二・ 七)
・疑うことがもどかしく、断定を急ぎすぎる(B・ 三・二・八)
・親方流の、有無を言わせぬやり方での教育(B・ 三・二・九)
・解釈や注解をつけることのみに熱心(B・三・二・ 一〇)
・学問の目的の誤り(B・三・二・一一)

B・三・一【学問の三種の病気:空想的な学問、論争的な学問、てらった学問】

「さてつぎに、わたくしは、学者の研究そのものに生じた、誤りとむなしさをとりあげるの であるが、そうすることはいま論じていることの主たる、本来の題目である。そのさい、わた くしは、それらの誤りを弁護しようとするのではなく、誤りを非難し識別することによって、 正しい確実なものを弁護し、それを誤っているもののうける悪評から救おうと思うのであ る。」
「経験からいっても、道理からいっても、学問にはつぎの三種の病気(とよんでもよいも の)があることになる。第一は空想的な学問〔虚偽と軽信による〕、第二は論争的な学問〔区 別だてによる〕、最後はてらった学問〔軽薄による〕である。あるいはむなしい想像とむなし い論争とむなしい気どりといってもよいのであるが、わたくしはこの最後のものから論じはじ めることにしよう。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、四・一、四・二、pp.47-48、 服部英次郎、多田英次)
(索引:学問の三種の病気)

B・三・一・一【学問の三種の病気(一)てらった学問:ことがらよりもことばを追いま わす病気である。本来なら、ことがらの重要さ、主題の価値、論証の堅実さ、創意のはつらつ さ、判断の深さなどを求めるべきである。】

「人びとはことがらよりもことばを追いまわしはじめ、字句の適切、文の申し分なく洗練さ れた構成、文節の心地よいリズム、ことばのあやと比喩で作品に変化と輝きを与えることなど を求めて、ことがらの重要さ、主題の価値、論証の堅実さ、創意のはつらつさ、判断の深さな どを求めなくなった。」
「それゆえ、こうして人びとがことばを研究してことがらを研究しない場合に、学問の第一 の病気がおこるのであって、わたくしはその後代の一例をあげたが、しかしこの病気は、多か れ少なかれすべての時代にあったし、またあるであろう。そしてこのことは、普通の能力の人 びとに対してさえ、学問の信用をおとす作用をしないことがどうしてあるだろうか。かれら は、学者たちの著作が勅許状や絵本の頭文字のようなもので、大いに飾りたてられているけれ ども、ただの文字にすぎないことを知るのであるから。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、四・二、四・三、pp.50-51、 服部英次郎、多田英次)
(索引:てらった学問)

B・三・一・二【学問の三種の病気(二)論争的な学問:新規でめずらしい用語で独断的 な主張をし、論争を引き起こすだけの病気である。本来なら、学問の各部門は、たがいに支持 しあうように調和が取れているものなので、小さなたぐいの反対論は、実は簡単に論破される ようなものなのである。】

「つぎにみられる第二の病気は、第一のものよりも悪性である。」(中略)
「聖パウロの非難は、当時当たっていただけでなく、後代に対しても予言的であり、ただ神 学に関係があるだけでなく、もっと広くすべての知識にも当てはまるのである。―――「俗悪な 新奇の語といつわりの知識による反対論とをさけなさい」〔『テモテへの第一の手紙』六の二 〇〕。というのは、聖パウロは、疑わしいいつわりの知識の目印として二つのものを指摘して いるが、その一つは、用語の新規とめずらしさであり、もう一つは、独断的な主張であって、 それは必然的に反対論をひきおこし、したがって問題や論争をおこすからである。」(中略)
「すなわち、どの命題あるいは主張にもそれぞれ反対論をつくり、そしてそれらの反対論に 解答をつくるのであるが、しかしそれらの解答はたいてい論破ではなく区別だてとなる。とこ ろが、じつは、すべての学問の強さは、例の老人のまき束の強さと同じように、その結束にあ る〔アィソポス『寓話』五二〕。というのは、その各部門がたがいに支持しあうように、学問 の調和がとれていてこそ、すべての小さなたぐいの反対論をほんとうに簡単に論破し、おさえ ることができるのであり、またそうでなければならないからである。ところが、それと反対 に、まき束の割木のように、一般的命題を一つ一つとり出すなら、それに異議を唱え、それを 意のままに曲げたり、折ったりすることができるであろう。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、四・五、pp.52-54、服部英次 郎、多田英次)
(索引:論争的な学問)

B・三・一・三【学問の三種の病気(三)空想的な学問:せんさく好きな人の、たわいの ないおしゃべりとかうわさ話や、ずるさからだまそうとする意見とかを、やすやすと信じてし まう病気である。また、技術そのものへの過度の信頼や、その創始者たちへ寄せられる過度の 信頼が、学問を空想的なものにしてしまう。特に、諸学における創始者たちに与えられた過度 の信用は、その学問を低いところに停止させておくおもな原因である。】

「第三のまやかしまたは不真実に関係のある、学問の欠陥または病気についていえば、それ は、認識のだいじな本性をこわすものとして、もっともひどい病気なのである。」(中略)
「この欠陥は二種類に分かれるのであるが、その一つはだます喜びであり、他の一つはだま されやすいことである。すなわち、まやかしと軽信であり、両者はちがった性質のようにみ え、一方はずるさから、他方は単純さから生ずるようにみえるけれども、しかしたしかなとこ ろ、両者はたいていの場合、同時におこるのである。」(中略)
「すなわち、せんさく好きな人は、たわいのないおしゃべりといわれているように、同じよ うなわけで、軽信的な人は、だますひとである。うわさの場合にみられるように、やすやすと うわさを信ずるひとは、またやすやすとうわさを大きくし、かれ自身少し尾ひれをつける。」 (中略)
「つぎに、技術と学説にやすやすと信用が与えられることについていえば、これにもまた二 つの種類がある。すなわち、その一つは、過度の信頼が技術そのものによせられる場合であ り、もう一つはどの技術においても、ある創始者たちによせられる場合である。」(中略)
「つぎに、諸学における創始者たちを、そのことばには文句なしに服すべき独裁者にしてし まい、助言を与える顧問にはしないような、かれらに与えられた過度の信用についていえば、 それは、諸学を成長させあるいは発達させずに、低いところに停止させておくおもな原因なの で、諸学がそれからうける損害ははかりきれないほどである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、四・八~四・一二、pp.56- 60、服部英次郎、多田英次)
(索引:空想的な学問)

B・三・二【学問の不健康な状態】

「これで、学問の三種の病気をしらべたが、なおそのほかに、はっきりした病気というより はむしろ不健康な状態とでもいうべきものがある。それでも、それらは、どれほどかくれてい て目立たないものであっても、人びとの目にとまって、悪口をいわれるものであるから、見過 ごしてはいけないのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、四・一二、p.61、服部英次 郎、多田英次)
(索引:学問の不健康な状態)

B・三・二・一【学問の不健康な状態(一):保守的な人は変革を憎み、急進的な人は古 いものを抹殺するのは、あやまちである。尊敬に値する古いものの上に立ち、最善の道を見き わめて、どんどん進んでゆくべきである。】

「それらのうち第一のものは、二つの極端に対する極度の愛好である。すなわち、一方は古 いものの偏重であり、もう一方は新しいものの偏愛である。」(中略)
「すなわち、古いものを好む保守的なひとは、新しいものがつけ加わる変革を憎み、新しい ものを好む急進的なひとは、ただつけ加えるだけでは満足できず、古いものを抹殺せずにおか ないのである。」(中略)
「すなわち、古いものは尊敬に値するものであって、人びとはその上に立って、最善の道が どれであるかを見きわめるべきではあるが、しかし、見きわめたという確信がついたら、それ からはどんどん進んでゆくべきである。それに、じつをいうと、「時代の古いということは、 世界の若かったことである」〔出典不詳〕。世界が年をとっている現代こそが古い時代なので あって、われわれ自身から「逆算して」古いと考える時代が古い時代であるのではない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・一、pp.61-62、服部英次 郎、多田英次)

B・三・二・二【学問の不健康な状態(二):どんなものがいまさら新たに発見されるで あろうかという疑念を抱くことは、あやまちである。大昔から気づかれずに見おとされている ものが、いくらでもあるのだ。】

「古いものの偏重によってひきおこされる、もう一つのあやまちは、大昔から気づかれずに 見おとされてきたもので、どんなものがいまさら新たに発見されるであろうかという疑念であ る。」(中略)
「われわれは、それとは反対に、ふつうそこに、人びとの判断のうわついた無節操をみるの である。すなわち、あるものごとがなされるまでは、はたしてなされるだろうかといぶかって いるが、なされるとたちまち、こんどは、どうしてもっと早くなされなかったかといぶかるの である。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・二、p.62、服部英次郎、 多田英次)

B・三・二・二・一【今まで発見も理解もされなかったことは、将来に向かっても発見も 理解もされ得ないことだと、思うことは僭越かつ傲慢である。】

「ところが遙かに大きな障害が、小心と、人々の努力が自らに課する仕事の貧しさと乏しさ とによって、諸学に持ち込まれてきた。しかも(最も悪いことには)そうした小心は、僭越と 傲慢を伴わずには現われないものなのである。」(中略)
「つまり彼らはその技術が、完全なものと見なされることにのみ心を労し、すなわちこの上 なく空しく、かつ見込みのない栄光のために骨を折りつつ、今まで発見も理解もされなかった ことは、将来に向かっても発見も理解もされ得ないことだと、信じさせようと腐心しているの である。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、八 八、pp.142-143、桂寿一)

B・三・二・三【学問の不健康な状態(三):最新の学説や学派が、つねに最善のもので あると考えてしまうのは、あやまちである。時は川や流れに似た性質をもっているようで、重 い、なかみのつまった価値のある学説が、時の流れのなかで沈められ、忘れ去られている場合 もある。】

「もう一つのあやまちも、前のものといくらか似たところがあるが、それは、これまでの学 説や学派のうち、かず多くの異なった学説が提唱され検討されたのち、最善のものがいつも 勝って、残りのものをおさえたのであるから、新しい探求の努力を始めようとすれば、以前に 承認されず、承認されないことによって忘れられてしまったものに出くわすだけだろうと考え るあやまちである。」(中略)
「こうした考えのまちがっているわけをいうと、時は川や流れに似た性質をもっているよう で、それは、軽い、空気のつまったものは運んできてくれるが、重い、なかみのつまったもの は沈めてしまうというのが真相なのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・三、p.63、服部英次郎、 多田英次)

B・三・二・三・一【無題】

時の流れのなかに沈み込み、忘れ去られそうになっている先哲の思想のうち、未来へ継承す べきものを発掘し、誰にも簡単に読めるように提示すること。これが、当命題集の試みるとこ ろである。

B・三・二・四【学問の不健康な状態(四):まだその時期でもないのに、無理やり、知 識をでき上がった学問や体系式の書にまとめてしまうのは、あやまちである。】

「さきに述べたすべてのものとはちがった性質の、もう一つのあやまちは、まだその時期で もないのに、無理やり、知識をでき上がった学問や体系式の書にまとめてしまうことである が、そうされると、諸学は、もう少ししか、あるいは少しも進歩しないものである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・四、p.64、服部英次郎、 多田英次)

B・三・二・五【学問の不健康な状態(五):いろいろ専門に分かれた技術と学問の中だ けにとどまれば、技術と学問の進歩を止め、阻まずにはおかない。事物の普遍的認識あるいは 「第一哲学」が必要である。】

「いまあげたものからおこるもう一つのあやまちは、個々の技術と学問がいろいろ専門に分 かれたのち、人びとは、事物の普遍的認識あるいは「第一哲学」を顧みなくなったことである が、これはすべての進歩をとどめはばまずにはおかない。というのは、平地や水平面に立って いては、残るくまなき発見を行うことはできないが、それと同じように、同一の学問の水平面 に立っているばかりで、高級の学問にまで上がってゆかないならば、どのような学問にせよ、 その深遠なところをきわめることが不可能であるからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・五、p.64、服部英次郎、 多田英次)

B・三・二・五・一【然り。】

哲学とは、人間の知り得るすべての事物の、完全な知識の探究を意味する。
(ルネ・デカルト(1596-1650) 参照:
D・一・二 )

B・三・二・六【学問の不健康な状態(六):人間の精神と知性に対する過度の尊敬と一 種の崇拝が、あやまちに陥らせることがある。神のみわざをしるしている書物である自然を、 一字一字を拾いながら、少しずつ判じとるように観察し考察しなければ、真理には到達できな い。】

「もう一つのあやまちは、人間の精神と知性に対する過度の尊敬と一種の崇拝からおこった ものであるが、このあやまちゆえに、人びとは、自然の考察と経験の観察をすっかりやめてし まって、勝手なりくつをこね、根も葉もないことを考えて、混乱してしまったのである。これ らの自分勝手な思いにふける人びとは、そうはいうものの、ふつう、もっとも崇高で、神のよ うな哲学者と考えられているが、ヘラクレイトスはかれらに正当な非難をあびせて、「人びと は、真理をかれら自身の小さな世界に求めて、大きい共通の世界に求めなかった」〔セクス トゥス・エンピリクス『教師連の論駁』七の一三三〕といっている。すなわち、人びとは一字 一字をひろいながら、少しずつ、神のみわざをしるしている書物〔自然〕を判じとることをさ げすみ、それとは反対に、たえず瞑想し精神をゆり動かして、かれら自身の霊をせきたて、い わばよび出して、それに予言をさせ、信託を告げさせるのであるが、そのためにかれらがまど わされるのも当然なのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・六、pp.64-65、服部英次 郎、多田英次)

B・三・二・七【学問の不健康な状態(七):彼らが最も感心した考え方や、最もよく研 究した学問の色で、彼の考えと学説を染まらせ、他の一切のものにも、まったく真実でない、 本来とは違う色をつけてしまうのは、あやまちである。】

「これといくらか関係のあるもう一つのあやまちは、人びとがいつもきまって、かれらの瞑 想したあげくの考えと学説を、かれらがもっとも感心した考え方やもっともよく研究した学問 の色に染まらせ、他のいっさいのものにも、その学問の色を、まったく真実でない、本来とは 違う色をつけたというあやまちである。こうして、その哲学にプラトンは神学を、アリストテ レスは論理学を、新プラトン派のプロクロスらは数学をまぜあわせた。というのは、これらの 学問は、かれらにとって、それぞれ長子であるかのようにかわいがっていた学問であったから である。こうして、錬金術師は熔鉱炉の二、三の実験から哲学をつくりあげ、わが国人ギルベ ルトゥスは磁石の観察から哲学をつくりあげた。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・七、p.65、服部英次郎、 多田英次)

B・三・二・八【学問の不健康な状態(八):疑うことがもどかしく、断定をいそぐあま りに、時機が十分熟するまで判断をさしひかえないことは、あやまちである。疑いからはじめ ることに甘んじれば、確信に終わるであろう。】

「もう一つのあやまちは、疑うことがもどかしく、断定をいそぐあまりに、時機が十分熟す るまで判断をさしひかえないことである。というのは、観想の二つの道は、古人がよく口にし た行動の二つの道にまったく似ているのであって、一つの道は、はじめ平らでなめらかである が、終わりには通れなくなり、もう一方は、はじめはでこぼこして骨がおれるが、やがて平ら なよい道になるのと同様に、観想の場合も、確信からはじめれば、疑いに終わるだろうが、疑 いからはじめることに甘んじれば、確信に終わるであろうからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・八、p.66、服部英次郎、 多田英次)

B・三・二・八・一【然り。】

すべての諸学の基礎、その真理性を疑い得ないようなもの。
(ルネ・デカルト(1596-1650) 参照:
D・二 以 下)

B・三・二・九【学問の不健康な状態(九):親方流の、うむをいわせぬやり方での知識 の伝達と伝授の仕方は、あやまちである。】

「もう一つのあやまちは、知識の伝達と伝授の仕方にあるが、それは、たいてい、親方流 の、うむをいわせぬやり方であって、率直で誠実なやり方ではなく、いち早く信じられはする が、なかなか容易には吟味されない仕方である。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・九、p.66、服部英次郎、 多田英次)

B・三・二・一〇【学問の不健康な状態(一〇):ただ一筋に忠実に研究を進めるのでは なく、深遠な解釈や注解をつける者、他の学者のはげしい擁護者や熱烈な弁護者、きちょうめ んな摘要やぬきがきをつくる者になろうとするのは、あやまちである。】

「なおそのほかに、人びとがもくろみ、そこに努力を傾ける目標にあやまちがある。という のは、どのような学問の専門家でも、ただ一筋に忠実に研究を進める人びとは、そのたずさ わっている学問をいくらかでも増進しようともくろむべきであるのに、いわば二等賞を得よう と思う方向にその努力をそらし、たとえば、深遠な解釈や注解をつける者になろう、はげしい 擁護者や熱烈な弁護者になろう、きちょうめんな摘要やぬきがきをつくる者になろうとし、こ うして、知識の世襲財産は、ときとして利用されるようにはなるが、増殖されるようになるこ とはめったとないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・一〇、pp.67、服部英次 郎、多田英次)

B・三・二・一〇・一【無題】

当命題集の試みは、まさに「ぬきがき」であろう。しかし、その目指すところは、真の哲学 の再構築である。

B・三・二・一一【学問の不健康な状態(一一):自然な好奇心と探求の欲求、心を楽し ませてくれる喜び、装飾と名声、戦いに勝つための知恵、お金儲けや生活の手段、これらだけ が学問の目的と考えることは、あやまちである。知識の最後の、あるいは終極の目的は、創造 主を賛美し人間のみじめさを救うための人類の利益なのである。】

「しかし、他のどれよりも大きなあやまちは、知識の最後の、あるいは終極の目的を見誤り あるいははきちがえることである。というのは、人びとが学問と知識を求めるようになるの は、ときとして、自然な好奇心と探求の欲求からであり、ときとして、さまざまな喜びで心を 楽しませるためであり、ときとして、装飾と名声のためであり、またときとして、知恵で勝っ て相手をやっつけることができるためであるが、しかしたいていは、かねもうけと生活の資の ためであって、神から授かった理性を、人類の利益になり、役にたつよう、誠実に、りっぱに 使うためであることはまれであって、人びとはまるで、知識のなかに、探し求めておちつかな い精神を休ませるための臥床を求めているようでもあり、さまよい歩く移り気な精神が美しい 景色を見ながらあちこちと歩くためのテラスを求めているようでもあり、高慢な精神がそのう えにのぼるための高い塔を求めているようでもあり、戦い争うためのとりでや展望のきく陣地 を求めているようでもあり、利得や販売のための店を求めているようでもあるが、創造主を賛 美し人間のみじめさを救うために、豊かな倉庫が求められているようではない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、五・一一、pp.67-68、服部英 次郎、多田英次)
(索引:学問の目的(ベーコン))

■■ 第四章 反乱の原因と動機、反乱の一般的予防法


B・四【反乱の原因と動機:宗教における革新、重税、法律や慣例の変更、特権の廃止、 一般的圧政、くだらない人物の抜擢、他国人、食糧不足、除隊兵士、派閥争い、国民を怒らせ 団結させる共通の目的。】

「反乱の原因と動機は、宗教における革新、重税、法律や慣例の変更、特権の廃止、一般的 圧政、くだらない人物の抜擢、他国人、食糧不足、除隊兵士、どうにもならなぬ派閥争い、そ のほか国民を怒らせて共通の目的のために集合団結させるすべてである。
対策について言えば、一般的予防法がいくつかあるかもしれない。それについて述べること にしよう。適切な治療について言えば、それは個々の病弊に応えなければならない。したがっ て、それは規則よりむしろ思慮に委ねなければならない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、p.73、渡辺義雄)

B・四・一【反乱の一般的予防法(一):反乱の材料となる原因、つまるところ国内の欠 乏と貧困の原因を、あらゆる手段を尽くして取り除くこと。】

「第一の対策もしくは予防法は、前述した反乱の材料となる原因をあらゆる手段を尽くして 取り除くことである。それは国内の欠乏と貧困である。」
「何よりもまず、国家の財宝と金銭が少数の手に集まらないように、適切な政策が取られな ければならない。さもなければ、国家に大きな蓄えがあっても、飢えることがありうるからで ある。また金銭は肥料のようなものであって、ばら蒔かなければ役には立たない。そうするに は真っ先に、暴利をむさぼる高利貸し、独占、大牧場などを抑制すること、少なくともきびし く取り締まることである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、p.74、渡辺義雄)

B・四・二【反乱の一般的予防法(二):一般大衆と上層階級の両方が、不満を抱くよう な状況を作らないこと。】

「これらの一つが不満である時、危険は大きくない。一般大衆は上層階級によって扇動され ない限り、動きがにぶいし、また上層階級は群衆がみずから動き出そうとしない限り、微力だ からである。上層階級が下層階級の間に騒動が持ち上がるのをひたすら待ち望み、いよいよと なったら態度を表明しかねない時が危険である。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、p.75、渡辺義雄)

B・四・三【反乱の一般的予防法(三):適度の自由を与えること。】

「苦痛や不満を解消させるために適度の自由を与えることは、(そのために度はずれの尊大 とか横柄とかにならない限り)安全な方法である。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、p.75、渡辺義雄)

B・四・四【反乱の一般的予防法(四):時宜をはかって巧みに希望を抱かせつづけるこ と。】

「時宜をはかって巧みに希望を抱かせつづけ、人々を希望から希望へ進ませることは、不満 という毒に対する最上の解毒剤の一つである。人々の心を満足によって引きつけられなくて も、希望によって引きつけられるとしたら、またどんな害悪もはけ口の希望が少しもないほ ど、避けられぬものではないと思わせるように、事態を処理できるとしたら、それは賢明な統 治と行政の確かなしるしである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、pp.75-76、渡辺義雄)

B・四・五【反乱の一般的予防法(五):相手側の団結の中心になれる有望な人物が現わ れないようにすること。このような人物は、こちら側に引き入れてしまうか、同派の他の誰か に対抗させ名声を二分する。そして、相手方の党派や同盟は、分裂させ、分断し、反目させ、 互に信用しないようにさせること。】

「不満を抱く人々が頼りにし、彼らの団結の中心になれる有望な、あるいは適当な頭首がい ないように用心し予防することも、衆知の、しかしすぐれた注意事項である。私の言う適当な 頭首とは、傑出して名声もあり、不満を抱く一派に信頼があり、彼らの注目の的となり、当人 自身にも不満があると思われる人のことである。この種の人物は国家の側に、しっかりした間 違いのない仕方で引き入れて、これと妥協するか、さもなければこれに対抗させるために、同 派の他の誰かと対決させて、その名声を二分しなければならない。一般に、国家に敵対するす べての党派や同盟を分裂させたり分断したりして、彼らを互に反目させ、少なくとも信用しな いようにすることは、一考の余地がある対策である。国家の行政を支持する人々が、仲たがい や派閥争いに明け暮れ、反対する連中が仲よく団結しているならば、それは絶望的な状況だか らである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、p.76、渡辺義雄)

B・四・六【反乱の一般的予防法(六):秘密の意図から発射されてしまう、短い言葉に 注意すること。】

「私は王侯の口からふと洩れた才気走った辛辣な言葉が、反乱を燃え立たせたことに気づい ている。」(中略)「確かに、微妙な事件や不安定な時代に対処するには、王侯は自分の言う ことに気をつける必要がある。とくに短い言葉に気をつけなければならない。それは矢のよう に飛び出し、彼らの秘密の意図から発射されたと思われる。くだくだしい談話は、かえって退 屈なものであって、それほど注意されないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、p.77、渡辺義雄)

B・四・七【反乱の一般的予防法(七):反乱は、初期のうちに鎮圧すること。】

「最後に、王侯は万一に備え、反乱を初期のうちに鎮圧するために、武勇に秀でた誰か傑出 した人物を、一人またはそれ以上、必ずそば近くにおくがよい。そうしないと、騒動が突発し た初期に、宮廷内に相応以上に、動揺が起こるにきまっているからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』一五、p.77、渡辺義雄)

■■ 第五章 ぺてんとよこしまな手管の研究


B・五【ぺてんとよこしまな手管の研究:悪のすべての種類と本性を心得ていなければ、 ヘビの賢さとハトの素直さを兼ねそなえることはできない。道徳を軽蔑するよこしまな人たち を改悛させるためにも、徳は、けっして無防備になることのないよう、悪の知識の助けを借 り、かれら自身の腐った考えの本当のところを、事実として知ることが必要なのである。】

「パシリスクス〔ひとをにらんで殺すという伝説のヘビ〕について伝えられる寓話では、こ れがあなたをさきに見つければあなたはそのために死ぬが、あなたがそれをさきに見つければ それは死ぬといわれているように、ぺてんとよこしまな手管についても同様だからである。す なわち、それらは、見破られたら生命を失うが、先手をとれば相手の生命を危くする。それゆ えに、われわれはマキアヴェルリやその他の、人間はどんなことをするかをしるして、どんな ことをすべきかはしるさなかった人びとに負うところが大きいのである。というのは、ヘビの 性情を残らず正確に知っていなければ、その卑劣さとはらばい、そのうねり歩きとすべっこ さ、その嫉妬と毒牙など、すなわち、悪のすべての種類と本性を心得ていなければ、ヘビの賢 さとハトの素直さ〔『マタイによる福音書』一〇の一六〕を兼ねそなえることはできないから である。それというのも、この心得がなければ、徳はあけっぱなしで、無防備になるからであ る。それどころか、正直なひとも、悪の知識の助けなくしては、よこしまな人たちを改悛させ るのに役だつことができないからである。というのは、精神の腐敗した人たちは、正直は品性 の単純さから生まれ、説教者や学校教師や人びとのうわべだけのことばを信ずることから生ま れるのだときめてかかっているからである。それゆえ、かれら自身の腐った考えのぎりぎり いっぱいのところをも知っているのだということをかれらに認めさせることができなければ、 かれらはいっさいの道徳を軽蔑するのである。―――「愚かな者は、かれが心に考えていること を告げられなければ、知恵のことばをうけいれない」〔『箴言』一八の二〕。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二一・九、pp.282-283、服 部英次郎、多田英次)
(索引:ぺてんとよこしまな手管の研究、ヘビの賢さ、ハトの素直さ)

B・五・〇・一【狡猾の一覧表】

「われわれは狡猾を陰険なもしくは邪悪な知恵と考える。そして確かに、狡猾な人間と賢明 な人間との間には大きな違いがある。誠実の点ばかりでなく、能力の点においてもそうであ る。」(中略)「こうした狡猾の小間物やつまらぬ特徴は、無数にある。それらの一覧表を作 ることは、やりがいのあることであろう。狡猾な人間が賢明な人間として通用することほど、 国家に害をなすものはないからである。」
以下すべての引用は、
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』二二、pp.103-109、渡辺義雄)

B・五・一【狡猾(一):相手を用心深く見る。】

「狡猾の一つの特徴は、対談する相手を用心深く見ることである。」

B・五・二【狡猾(二):別の話しで喜ばせ、油断に乗じて提案する。】

「もう一つの特徴は、何かすぐにも片づけたいことがあったら、交渉の相手を何か別の話を して喜ばせ、面白がせることである。相手が油断なくかまえていて異議を唱えたりしないため である。」

B・五・三【狡猾(三):相手が考えるゆとりがない時に、不意打ちで提案する。】

「同じような不意打ちは、相手が急いでいて提案されたことをとくと考えるゆとりがない時 に案件を持ち出すことによってなされるだろう。」

B・五・四【狡猾(四):成功を願っているふりをして、失敗する要素を提案する。】

「誰かほかの人が手際よく提案して効果を収めそうな議題を阻止したければ、自分もその成 功を願っているふりをして、それを失敗させるようなやり方で提案するとよい。」

B・五・五【狡猾(五):言い出したことを途中で打ち切り、知りたいという欲望を掻き 立てる。】

「言い出したことを、思いとどまったかのように、途中で打ち切ることは、かえって話し相 手にもっと知りたい欲望を掻き立てる。」

B・五・六【狡猾(六):いつもと違う様子や顔つきを見せて、相手に尋ねさせる。】

「どんなことでも、こちらから申し出るより、相手に訊き出されてしまったように思われる 時のほうが、うまくいくのであるから、いつもと違う様子や顔つきを見せて、訊きやすいよう にするのもよい。相手にいつもと違っているのはどうしたわけかと尋ねさせるためである。」

B・五・七【狡猾(七):ほかの誰かに口火を切ってもらい、もっと発言力のある人が、 その人の質問に答えるようなかたちで、言いたかったことを提案する。】

「話しにくく、相手に喜ばれそうにもない事柄にあっては、言うことが余り重んぜられてい ない誰かに口火を切ってもらい、その後でもっと発言力のある人がたまたま口に出し、前の人 の言ったことで問い質されるようにするのは、よいことである。」

B・五・八【狡猾(八):「世間の噂では」とか「こんな話が広がっている」とか。】

「自分も関係していると見られたくない事柄にあっては、「世間の噂では」とか「こんな話 が広がっている」とか述べるように、世間の名を借りるのも、狡猾の特徴である。」

B・五・九【狡猾(九):最も重要なことを、付けたりであるかのように追伸で書く。】

「私が知っている人は、手紙を書く時、最も重要なことを、あたかもそれが付けたりである かのように、追伸で述べたものである。」

B・五・一〇【狡猾(一〇):最も話したいことを、ほとんど忘れていたことのように話 す。】

「私の知っているもう一人は、話をする段になると、最も話したいことをとばして先へ進 み、また後戻りして、そのことについて、ほとんど忘れていたことでもあるかのように、話し たものである。」

B・五・一一【狡猾(一一):偶然を装って、相手に見せたい行動を、相手に見せる。】

「説得したい相手が不意にやってきそうだと思っていた時なのに、驚いた顔をし、手に手紙 をもっていたり、いつもしない何かをしていたりするところを見られるようにする。自分から 言い出したいことについて尋ねられたいためである。」

B・五・一二【狡猾(一二):相手に使わせようとする言葉を、ふと漏らしておき、相手 が使ったら、それにつけこむ。】

「他の人が覚えて使ってもらいたいと思う言葉を、独言のようにふと漏らし、そうなった ら、それにつけこむのも、狡猾の特徴である。」

B・五・一三【狡猾(一三):自分が他の人に言ったことを、まるで他の人が自分に言っ たことのように、他の人のせいにする。】

「われわれイギリスで「フライパンの中で猫を引っくり返す」と言っている狡猾もある。こ れは自分が他の人に言ったことを、まるで他の人が自分に言ったことのように、他の人のせい にする場合である。実際のところ、二人の間でそんなことが起こる時、それが二人のどちらか ら最初に持ち出され、どちらから始まったかを明らかにするのは、容易ではない。」

B・五・一四【狡猾(一四):「私はこういうことはしない」。】

「「私はこういうことはしない」と言うように、否定して自分を正当化しながら、他の人を あてこすって間接に非難する人もいるが、それも一つの方法である。」

B・五・一五【狡猾(一五):むきつけに言わず、噂話や物語を使って間接的に言う。】

「噂話や物語をいくつでもすらすらと話せるので、何かあてこすりたいことがあっても、む きつけに言わず、噂話でくるむことができる人もある。これはむきつけに言うより、話す人自 身を保護することに、また他の人々に面白がって吹聴させるのに役だつ。」

B・五・一六【狡猾(一六):もらいたいと思う返事を、あらかじめ自分の言葉や提案で まとめておく。】

「もらいたいと思う返事を〔あらかじめ〕自分の言葉や提案でまとめておくのも、狡猾のう まい点である。そうしておけば、相手は返事をすることに、それほどこだわらなくてすむから である。」

B・五・一七【狡猾(一七):自分の言いたいことは隠して、多くの別のことを持ち出し まわり道し、忍耐強く長い間待つ。】

「ある人々が何か自分の言いたいことをしゃべるのに、どんなに長い間待っているか、どん なに遠廻りするか、肝腎の話をするまでに、どんなに多くの別のことを持ち出すか、不思議な 気がする。しれは大いに忍耐を要することであるが、しかし非常に有効である。」

B・五・一八【狡猾(一八):不意の、無遠慮な、思いがけない問い。】

「不意の、無遠慮な、思いがけない問いは、しばしば人を驚かせ、本心を打ち明けさせ る。」





「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑 をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべ ての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑 のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかで

ある。 というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千 五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と 都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿 は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのであ る。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精 神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむ からである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域 をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考え られたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。 学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎ と、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部 英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


2021年11月20日土曜日

もし、意識を伴う拒否が、先行する無意識な過程の結果であるなら、拒否は意識的な選択とは言えない。それは、先行する無意識プロセスを必要とせず、起動されつつある行為の単なる意識化とは異なる制御機能であり、能動的な意志の発動なのではないか。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自由意志

もし、意識を伴う拒否が、先行する無意識な過程の結果であるなら、拒否は意識的な選択とは言えない。それは、先行する無意識プロセスを必要とせず、起動されつつある行為の単なる意識化とは異なる制御機能であり、能動的な意志の発動なのではないか。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))


「意識ある拒否には、先行する無意識の発生源があるのだろうか? ここで私たちは、意識を伴った意志の発達と出現の場合と同様、意識的な拒否そのものにつ いても先行する無意識プロセスに発生源があるかという可能性について考えなければならない でしょう。もし拒否そのものが無意識に起動し、発展するものであるのならば、拒否という選 択は、意識的な原因事象というよりも、《やがて自覚化される》無意識の選択ということにな ります。適切なニューロンの活性化のわずか約0.5秒後に、脳はある対象へのアウェアネスを 「生み出す」ことを、私たちのこれまでの証拠は示しています(第2章、およびリベット (1993年、1996年)参照)。 拒否を選択した無意識の起動でさえも、無意識とはいえ本人による正真正銘の選択であり、 依然として自由意志のプロセスであるとみなすことができる、と提案した人もいます(たとえ ばベルマンス(1991年))。自由意志についてのこのような意見が容認できるものでないこと に私は気づきました。このような意見によれば、人は意識的に自分の行為をコントロールする ことができないことになります。この場合、人は無意識に始動した選択にのみ、気づくことに なります。先行するどのような無意識プロセスの本質に対しても、直接的な意識を伴ったコン トロールをすることがまったくできないということになります。しかし、自由意志プロセスと いうときには、行動すべきか否かの選択について、人は意識的に責任を負うことができるとい うことが含意されています。私たちは、意識的なコントロールの可能性がなければ、無意識に実行する行為についてその人への責任を問いません。 たとえば、精神運動性のてんかんの発作やトゥレット症候群(社会的に眉をひそめられるよ うな言葉での罵り叫ぶ)の患者の行為は、自由意志に基づくものとはみなされません。それな らばなぜ、健常な人物に無意識にある事象が発生し、それがその人自身の意識的なコントロー ルも及ばないプロセスである場合にも、それはその人自身が責任を負わなければならない自由 意志に基づく行為だとみなされなくてはならないのでしょうか? このような考えに代わって、意識を伴う拒否は、先行する無意識プロセスを必要としなけれ ば、その直接的な結果でもないという考えを私は提案します。意識を伴う拒否は制御機能であ り、行為への願望に単に《気づく》こととは異なります。どのような心脳理論においても、ま た心脳同一説においてさえも、意識を伴う制御機能の性質に先行し、これを決定する特定の神 経活動が必要とされるような論理的な必然性はありません。また、先行する無意識プロセスが 特定の発達をすることなしに、制御プロセスが現れる可能性を否定する、実験的な証拠もあり ません。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.170-172,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

行為が期待されている直前の時点、100~200ms前であっても、予定した行為の拒否が可能であることが、実験 的に示される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

拒否としての自由意志

行為が期待されている直前の時点、100~200ms前であっても、予定した行為の拒否が可能であることが、実験 的に示される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))


「行動しようとする衝動の拒否、という経験は、私たちは日ごろよく経験しています。予測 される行為が、社会的に受け入れがたいものである場合あ、その人の全人格や価値観と合わな いものである場合に、これは特によく起こります。実際に、行為が期待されている直前の時 点、100~200ミリ秒前であっても、予定した行為の拒否が可能であることを、私たちは実験 的に示してきました。しかしこれは、実験的に限定された検証でした。自然発生的な拒否にお いては、電気的な筋肉の活性化がなく、そこを起点に時間を遡って何秒という時点の頭皮の電 気活動をコンピュータに記録されることができないわけですから、このことは検証できませ ん。したがって技術的に、あらかじめ予定した時間に実行するように計画された行為の拒否に 関する研究だけしか、行うことができません。被験者は、「時計」のある時点、たとえば10秒 の印のところで、行為を準備するように指示を受けます。しかし、被験者は予定していた時間 での行為を100~200ミリ秒前に拒否することになります。被験者が行動しようとする期待を 感じている報告と一致して、拒否を行うよりも1、2秒前にかなりの大きさのRPが発生します。 しかし、このRPの発生は、被験者が行為を拒否し、筋肉反応が現れなくなると、あらかじめ予 定していた時点のおよそ100~200ミリ秒前のところで横ばいになります。観察者は、行為を 予定した時点になったら、コンピュータに起動信号を送ります。このことによって、人は行為 を予定していた時点の直前100~200ミリ秒以内に、その行為を拒否できることが少なからず 示されました。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.161-162,下條信輔(訳))




マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

自由意志は意志プ ロセスを起動しない。しかし、意志プロセスを積極的に拒否し、行為そのものを中断したり、行為を実行させる(または誘因となる)ことで、その結果を制御できる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自由意志

自由意志は意志プ ロセスを起動しない。しかし、意志プロセスを積極的に拒否し、行為そのものを中断したり、行為を実行させる(または誘因となる)ことで、その結果を制御できる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

「強迫反応性障害(OCD)は、行為を促す自発的な衝動と拒否機能の役割の異常な関係につ いて、興味深く適切な例を提示します。たとえばOCDの患者は、何度も繰り返し手を洗うと いった、特定の行為を繰り返し実行しようとする意識を伴った衝動を経験します。この患者に は、衝動を毎回拒否し、その行為をし続けないようにする能力が明らかに欠けているのです。 カリフォルニア大学ロサンゼルス校の神経学者であるJ・M・シュワルツとS・ベグレイ(2002 年)が行った非常に興味深い臨床調査では、OCD患者を訓練して、行為せずにはいられない衝 動を積極的に拒否する能力を改善することができました。患者は衝動的なプロセスを意識的に 拒否するように努力ことを学び、やがてOCDの症状を克服しました。積極的な「精神力」が、 行動せずにはいられない衝動を拒否する原因として作用すると解釈しなければならず、そのた めこの意識的な精神力は決定論的唯物主義者の観点からは説明がつかず、解決できない、と シュワルツとベグレイは提案しました。最近では、行動の暴力的な患者がこうした暴力の衝動 を拒否できるように訓練し始めた、とサンフランシスコのある精神科医が私に教えてくれまし た。 こういったことすべてが、私の意識的な拒否機能についての意見と合致しており、自由意志 がどのように作用するかという私の提案を強力に支持しています。つまり、自由意志は意志プ ロセスを《起動》しません。しかし、意志プロセスを積極的に拒否し、行為そのものを中断し たり、行為を実行させる(または誘因となる)ことで、その結果を制御することができます。 [訳注=この部分は、一見すると脳一元の決定論に見える自身の研究結果と、自由意志を擁護 する健全な常識的立場をなんとか矛盾なく両立させようとする、著者リベットの努力の跡、と 見ることができる。その骨子は、メンタルプロセスを二つに分け、行動への最初の衝動は無意 識裡に生理学的に起動されるが、それを止める「権利」は自由意志が有する、というものであ る。S・コズリンの「序文」に見るように、この考え方は主観的な現象と合致するばかりか、カ オス、複雑系などの影響を受けたモダンな脳観とも相性がよい。しかし反面で、この「最初の 衝動」と「抑制の意志決定」をそんなにきれいに切り分けられるのか、という疑問も提起す る。たとえば、ある行為をし続けていて、「そろそろ止めようか」という「抑制の意志決定」 はどちらに属するのか、議論の余地が残る。]」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.167-168,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

今、動こう」とする自発的なプロセスは、無意識に始動する。意識ある自己は、このプロセスを始動できなかった。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自由意志とは何なのか

「今、動こう」とする自発的なプロセスは、無意識に始動する。意識ある自己は、このプロセスを始動できなかった。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

「哲学者ジョン・R・サール(2000年aとb)は、「『意識ある自己』が理由に基づいて行動 し、行為を《始動する》能力がある場合に、自発的な行為は現れる」、と主張しています。し かし、「今、動こう」とする自発的なプロセスは無意識に始動することを、私たちは発見しま した。したがって、意識ある自己はプロセスを始動できなかったはずです。行為が意識ある自 己によって発生しなくてはならない理由があるとすれば、それがいかなる理由であっても、予 定することや選択を決定したりするカテゴリにぴったりとあてはまるはずです。この種のプロ セスは、最終的な「今、動こう」とするプロセスとは明らかに異なることを、私たちは実験的 に示してきました。結局のところ、人は、まったく行動することすらせずに、ある行為につ いて計画し、思考することができるのです! 実験的に判明しているすべての証拠を考慮に入 れなかったことから、サールが哲学的に生み出したモデルは苦境に立たされます。彼のモデル のほとんどは検証されておらず、検証不能ですらあるのです。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.158-159,下條信輔(訳))
(索引:)








マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

自発的な行為の前には、頭頂部にある領域から 負の電位が緩やかに上昇するのを記録することができる。これは準備電位と呼ばれ行為を実行する約800msかそれ以上前に開始する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自発的行為の準備電位

自発的な行為の前には、頭頂部にある領域から 負の電位が緩やかに上昇するのを記録することができる。これは準備電位と呼ばれ行為を実行する約800msかそれ以上前に開始する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

(RP) 
準備電位   自発的
 800ms                    行為
 ├──────────┤

RP:頭頂部にある領域から 負の電位が緩やかに上昇する

「この疑問についての実験的な研究の可能性は、コーンフーバーとディーック(1965年)の 発見によって切り開かれました。彼らは、脳活動の電位変化が、自発的行為に規則的かつ特異 的に先立って記録できることを発見しました。自発的な行為の前には、頭頂部にある領域から 負の電位が緩やかに上昇するのを記録することができます。電位変化は、被験者が自発的であ ると思われる明らかな行為を実行する約800ミリ秒かそれ以上《前》に開始します。そのた め、これは《準備電位》(RP、またはドイツ語で Bereitschaftspotential(ベライト シャフツポテンシャル)と呼ばれます。
 ここで調べた行為は、手首または指の急激な屈曲でした。個々のRPは非常に微弱であるた め、他の休息中の脳の電気活動の間に実質的には埋もれていました。そのため、微小なRPを合 計してコンピュータで平均化された波形を作成するためには、このような行為を何度も実行し なければなりませんでした。被験者は、こうした無数の行為を「マイペース」で実行すること が許可されていました。しかし、コーンフーバーとディーックは、許容範囲である実験時間内 にRPが合計で200から300回繰り返されるように、被験者の行為するタイミングを毎回約6秒間 に制限していました。
 コーンフーバーとディーックは、行為を促す意識を伴った意志がいつ現れるかという問題 を、脳の準備(RP)と関連づけて考えていませんでした。しかし、RPが自発的な行為に先立つ 時間があまりに長いことから、《脳》活動の《始動》時点と、自発的な実行を促す《意識的 な》意図が現れる時点との間にはズレがあるに違いない、と私は直感的に感じていました。意 志のある行為についての公開討論の中で、神経科学者であり、ノーベル賞受賞者のジョン・エ クルス卿は、自発的な行為の800ミリ秒以上前に始まるRPがあるということは、そのRPのいち 早い立ち上げよりもさらに前に、これに対応した意識を伴う意図が現れることを意味するに違 いない、という彼の信念を述べました。脳と心の相互作用についての彼自身の哲学におそらく 色づけされているエクルス卿のこの考えには、裏付けとなる証拠がないことに、私は気づきま した(ポッパーとエクルス(1977年)参照)。[訳注=エクルスは、脳が心に因果的影響を与 えると同時に、心も脳神経過程に影響し得るという、いわゆる二元論の立場を採った。]」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.144-146,下條信輔(訳))
(索引:)






マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

報告された意志感覚の発生時刻は、反応時刻の200ms前である。皮膚への刺激で感覚時刻が実際より50ms早まるので、報告時刻の補正をすると、意志感覚の実際の発生時刻は、反応の150ms前となる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

報告された意志感覚の発生時刻は、反応時刻の200ms前である。皮膚への刺激で感覚時刻が実際より50ms早まるので、報告時刻の補正をすると、意志感覚の実際の発生時刻は、反応の150ms前となる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

(a)被験者は、自発的な行為をせずに、一回の実験が終わるたびに(Wのときと同 様)皮膚感覚があったときに時計が示す時点を報告する。
(b)報告されたS時点は、実際に刺激が与えられた時点より約マイナス50ミリ秒 間の差がある(つまり、早い)ことが確かに示された。

→時間軸→
報告された 実際の
刺激時刻  刺激時刻
 ├─────────┤
    50ms
つまり、実際より早めに報告する傾向がある。

報告された 実際の
意志感覚  意志感覚
(W)
 ├─────────┤        準備電位
    50ms            (RP)
 ├────────────────────────┤
   200ms
        ├──────────────┤
           150ms

「Wの精密度の検証については、工夫するのに少々苦労しました。報告されたWがそのアウェ アネスの実際の主観的な時点とどれほど近いのかを知る、絶対的な方法がわからなかったので す。しかし、被験者が私たちの時計が示す時点のテクニックをどれほど正確に使っているかを 検証することはできました。そのために、微弱な皮膚刺激を手に与える40回の試行の実験を行 いました。被験者は、自発的な行為を《せず》に、一回の実験が終わるたびに(Wのときと同 様)皮膚感覚があったときに時計が示す時点が報告できるよう、記憶するように指示を受けま す。実験では、不規則的な時計時刻で皮膚刺激が40回の試行で与えられました。これらの時点 (S)はもちろん、被験者には知らされていませんでしたが、観察している私たちはコン ピュータのプリントアウトから、実際いつであったのかを知ることができました。私たちはこ のようにして、客観的に知られた主観的なアウェアネスが期待されている時点を、被験者が報 告する時計が示す時点と比較することができました。報告されたS時点は、実際の刺激が与え られた時点に近いものでした。しかし、実際に刺激が与えられた時点より約マイナス50ミリ秒 間の差がある(つまり、早い)ことが確かに示されました。この差はなかり首尾一貫した値で あるため、Wの平均である200ミリ秒からバイアス成分として差し引くことができます。する と、Wの平均値はマイナス150ミリ秒に「修正され」ます。毎回の実験セッションごとに、皮膚 刺激のタイミングを報告する試行が行われました。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.148-150,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

意識を伴った意志の前に、無意識の脳の過程が始まっている。準備電位は、その行為を予定していた場合は、いなかった場合より早く発生するが、意識を伴った意志は、ともに反応の150ms前に発生する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

予定していた行為の準備電位

意識を伴った意志の前に、無意識の脳の過程が始まっている。準備電位は、その行為を予定していた場合は、いなかった場合より早く発生するが、意識を伴った意志は、ともに反応の150ms前に発生する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))


予定して  予定して
いる行為  いない行為
RP1                   RP2      W      S 筋電図
┼─────────┼───┼──┼
-1000                -550    -150     0
 ms                   ms       ms
RP1:予定している行為の準備電位
・あらかじめ予定していた行為は、平均して(運動行為の前から)約800~ 1000ミリ秒ほど早く始動するRP1を生み出す。
RP2:予定していない行為の準備電位
・補足運動野は、頭頂知覚の中心線に位置し、私たちが記録したRPの発信源であると 考えられてい

W:意識を伴った意志
・予定していてもいなくても、Wは同じである。この「今、動こう」とするプロセスは、行為を実行しようとする思考や事前の選択決定とは 区別しなければならない。
・意識的な意志の気づきと時計が指し示す時点を関連付けた時点は、自動的な時間軸に逆行する遡及で正しく知覚されていた。
・その関連性に気づいた時点は、お そらく最大500ミリ秒間の遅延があった。

「試行のうち何回かにおいては、私たちが被験者に予定するのを止めさせようとしていたに もかかわらず、時計針のだいたいこの範囲で行為しようとあらかじめ《予定していた》、と被 験者は報告しています。こうした一連の試行では、平均して(運動行為の前から)約800~ 1000ミリ秒ほど早く始動するRP1を生み出します。これらの値は、コーンフーバーとディーッ クを始めとする研究者らによって報告された「マイペースの」動きにおける値と類似していま す。このことと、さらにまた別の理由から、実験者がある制限を設けている「マイペースの」 行為はおそらく、いつ行動を起こすかについて被験者がいくらか予定したことによる影響を受 けているように思えます。コーンフーバーとディーックらの実験での被験者は6秒以内に行動 しなければいけないことを知っており、そのことがいつ行動すべきか予定することを促したの でしょう。私たちの実験の被験者には、そのような制約はありません。
 いつ行動すべきか被験者が予定して《いない》と報告しているこうした40回の試行では、 RP2の始動の平均は、(筋肉の活性化するよりも)550ミリ秒前です。実際の脳内でのプロセ スの起動はおそらく、私たちが記録した準備電位、RPよりも先に始まっていることは特筆すべ きことです。その未知の領域にあるRPが、大脳皮質の補足運動野を活性化するものと考えられ るのです。補足運動野は、頭頂知覚の中心線に位置し、私たちが記録したRPの発信源であると 考えられています。
 行動を起こそうとする願望への最初のアウェアネスの時点を示すW値は、実験を平均すると マイナス200ミリ秒でした。(この時間は、一連のS(皮膚刺激)実験で見出されたマイナス 50ミリ秒の報告エラーを引いて、マイナス150ミリ秒に訂正することができます。)W時点 は、RP1やRP2においても同じ値でした。つまり、いつ行動をするか予定していてもいなくて も、W時点は同じだったのです! このことは(「今、動こう」とする)最後の意志プロセス は、約550ミリ秒前に始まることを示しています。すなわち、いつ動くかを決めるのに、まっ たく自然発生的であろうと、試行が先行していたり、予定をしていたりしても、その値は同じ なのです。この最後のプロセスは、自発的なプロセスの「今、動こう」とする特性であり、そ の「今、動こう」とする特性で起こる事象は、予定しているいないにかかわらず、似通ってい るのです。
 この「今、動こう」とするプロセスは、行為を実行しようとする思考や事前の選択決定とは 区別しなければなりません。つまるところ、人は、行動せずに一日中思考していることができ るのです。私たちが調査したのは、いつ行動すべきか、被験者が折々に予定したことであり、 意志の思考フェーズを調べたのではありません。
 私たちが発見したW時点の意味については、ずっと疑問がありました。意識を伴う感覚経験 が発達するために必要な遅延(最大500ミリ秒間)の証拠を私たちは導き出していたため、 (同じことをあてはめると)時計上の時点についてのアウェアネスは意識を伴うW時点の報告 のずっと前に始まっている可能性があり、だとすれば私たちの結論までおかしくなってしまい ます。しかし、私たちの実験の被験者たちは、行動しようとする願望の最初のアウェアネスと 時計が指し示す時点を関連づけて記憶するように指示されていたのであり、その関連性に気づ いた時点を報告するように言われていたのではありません。問題の時点が意識に昇る前に、お そらく最大500ミリ秒間の遅延がありました。しかし、自動的な時間軸に逆行する遡及、つま り関連づけられた時計が示す時点への最初の感覚信号まで前に戻ることによって、(W時点の 意識と同時に)関連づけられた時計の時点に正しく気づいていた、と被験者は感じることがで きるのです。いずれにせよ、皮膚刺激の報告時間についての私たちの検証で見られたように、 時計が示す時点を極めて正確に読むことは難しくありません。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.151-154,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

意識を伴った意志の前に、無意識の脳の過程が始まっている(準備電位)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

準備電位

意識を伴った意志の前に、無意識の脳の過程が始まっている(準備電位)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

予定して  予定して
いる行為  いない行為
RP1                   RP2      W      S 筋電図
┼─────────┼───┼──┼
-1000                -500    -150     0
 ms                   ms       ms
W:意識を伴った意志
意識を伴った意志の前に、無意識の脳の過程が始まっている。


「また別の重要な発見として、Wは、筋肉の活性化の実際の動きから約150~200ミリ秒先行 するということでした。また、実際の脳の起動と意識を伴った意志(W)の事実上の時間差 は、おそらくここで(RPを使って)観察された400ミリ秒よりも大きいのです。というのは、 すでに述べたように、脳内のどこかにある別の領域がおそらく私たちがRP2として記録した活 動を起動していると考えられるからです。 これは何を意味しているのでしょう? まず、自発的な行為に繋がるプロセスは、行為を促 す意識を伴った意志が現れるずっと前に脳で《無意識に起動します》。これは、もし自由意志 というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味し ます。 また、多くのスポーツ活動で見られるような、スピーディな起動が必要となる自発的な行為 のタイミングについても、(私たちのこの知見は)広範な示唆を与えます。時速約160キロで サーブしたボールを打ち返すテニス選手などは、行動しようとする自分の決断に気づくまで 待っているわけにはいきません。スポーツにおける感覚信号への反応には、それぞれ固有の事 象に対応している、込み入った精神の働きが必要になります。これらは普通の反応時間ではあ りません。そうであったとしても、もしある人が自分の動きについて意識的に考えているのな らば、その人のことを「使いものにならない」、とスポーツ選手は言うでしょう。」

自発的に起動する行為の順序

予定して  予定して
いる行為  いない行為
RP1                   RP2      W      S 筋電図
┼─────────┼───┼──┼
-1000                -500    -150     0
 ms                   ms       ms


「「ゼロ」時間(筋肉の活性化)に比べてそれよりも早く、予定した行為(RP1)または予 定していない行為(RP2)のどちらかの脳のRPがまず発生する。動作を行おうとする願望 (W)の最も早いアウェアネスについての主観的な経験が、およそマイナス200ミリ秒のところ で現れる。これは、行為(「ゼロ」時間)よりもずっと前であり、RP2よりはさらに350ミリ 秒程度《あと》になる。皮膚刺激の主観的なタイミング(S)は、平均しておよそマイナス50 ミリ秒であり、これは実際の刺激の到達時間よりも前になる。リベット(1989年)より。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.159-160,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

「今、動こう」とする自由で自然発生的な意志の意識の測定(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意志の測定

「今、動こう」とする自由で自然発生的な意志の意識の測定(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

(a)陰極線オシロスコープ 
 (i)陰極線オシロスコープの光の点が時計盤の外側の縁を回転する。
 (ii)円の一周が60等分されている。
 (iii)光の点は2.56秒で円を一周する。すなわち、ひと目盛り約43msで移動する。 
(b)被験者
 (i)オシロスコープから約2.3メートル離れたところに座る。
 (ii)被験者は、自由で自発的な行為として、単純だが急激な手首の屈曲運動を、やりたいとき にいつでも行ってよいと指示されている。 
 (iii)被験者はいつ行動するかあらかじめ考えずに、むしろ行為が「ひとりでに」現れるがまま にさせるように言われている。
 (iv)被験者は、自分の動きを促す意図や願望への最初のアウェアネスを、その時点での回転す る光の点の「時計針の位置」と結び付けて覚えるように指示される。 
 (v)結び付けて覚えた時計が示す時点を、試行のあとに被験者は報告する。報告されたこの時 点を、私たちは、意識的な要求(wanting)、願望(wishing)、意志(willing)を表す 「W」と呼ぶ。

「私がイタリアのベラッジオにあるロックフェラー先端研究センターのレジデントだった 1977年当時、私は再び、この明らかに解決困難な測定の問題に注目しました。被験者は行為を 促す意図が意識に現われた経験について「時計が示した時点」を報告できるのではないか、と いう考えが浮んだのです。この時計が示す時点は、黙って記憶され、それぞれの試行が終わる ごとに報告されることになります。サンフランシスコに戻るとすぐに、このような実験手法を 考案しました(リベット(1983年))。
 まず、陰極線オシロスコープの光の点が、時計盤の外側の縁を回転するように設定しまし た。オシロスコープ管の時計盤の外側の縁は、通常の時計の目盛と同じように円の一周が60等 分されています。光の点は、通常の時計の秒針の動きと同様に時計盤を移動するようい設計さ れています。しかし、この光の点は、通常の60秒よりも約25倍速い、2.56秒で円を一周しま す。すると、光の点は秒針のひと刻みごとに約43ミリ秒間で移動していることになります。こ の速い「時計」はこうして、時間の違いを数百ミリ秒単位まで明らかにすることができます。
 被験者は、オシロスコープから約2.3メートル離れたところに座っています。毎試行ごと に、被験者はオシロスコープの時計盤の中心に視点を据えます。被験者は、自由で自発的な行 為として、単純だが急激な手首の屈曲運動を、やりたいときにいつでも行ってよいと指示され ています。また、被験者はいつ行動するかあらかじめ考えずに、むしろ行為が「ひとりでに」 現れるがままにさせるように言われています。そうすることによって、行動しようとあらかじ め考えるプロセスから「今、動こう」とする自由で自然発生的な意志のプロセスを区別するこ とができます。また被験者は、自分の動きを促す意図や願望への《最初のアウェアネス》を、 (その時点での)回転する光の点の「時計針の位置」と結び付けて覚えるように指示されまし た。この、結び付けて覚えた時計が示す時点を、試行の《あとに》被験者は報告します。報告 されたこの時点を、私たちは、意識的な要求(wanting)、願望(wishing)、意志 (willing)を表す「W」と呼びます。このような自発的な行為のたびに毎回発生するRPもま た、適切な電極を頭に装着して記録します。40回ほどの試行を平均すれば、適当なRPの値を得 るのに十分であることがわかりました。次に、この平均したRPの始動時点を、同じく40回の実 験によって報告されたW時点の平均と比較します。
 私たちは当初、意図が意識に現われるタイミングについて被験者が時計の針を見て行う報告 に、十分な正確さと信憑性があるのかを大いに疑問視していました。しかし蓋を開けてみる と、こうした二つの指標のいずれもが、私たちの実験の目的にかなう範囲の誤差に収まってい るという証拠が得られました。それぞれのグループの40回の試行についてのW時点の報告を見 ると、標準誤差は約20ミリ秒でした。平均したWの値が被験者によって違っていても、このこ とは各被験者内では、全員にあてはまりました。被験者全員の平均W値は(運動活動の)およ そ200ミリ秒前だったので、それとの比較でプラスマイナス20ミリ秒の標準誤差ならば適切な 信憑性の範囲内です。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.146-148,下條信輔(訳))
(索引:)






マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

2021年11月19日金曜日

意識のハードプロブレムとは、いったい何を解決すればよいのか?

意識のハードプロブレムとは、いったい何を解決すればよいのか?

《改訂履歴》
2021/11/19 意識のハードプロブレムとは、いったい何を解決すればよいのか? 第1版


《概要》
 本論においては、何々主義と表現されるような、互いに対立する各論を並立して記述することはしない。本論では一つのある主張をするが、自らの主張を明確化する目的でのみ、何々主義を取上げ、批判する。 そもそも哲学は、真理の追究を目的とするものであって、互いに対立する主義や信念が並立 しているのが、通常の状態だとは考えない。
 もちろん、難しい問題では、様々な見解が並立するのは当然ではあろうが、本論のテーマに限って言えば、何が問題なのかは明確である。これが、本論の主張である。 
 本論では、意識のハードプロブレムがなぜ解決困難に感じられるのかの理由を明確に記述することで、まず、問題の根本的な所在を明らかにする。 そのうえで、意識の問題というのは、別の問題━━例えば、感覚も経験も直接にはできない物質や宇宙の根源を探究する問題━━と比べて、より困難というわけではなく、むしろ人間にとってはアプローチしやすい問題であることを主張する。
《目次》
(1)存在の全構造の俯瞰(目次のみ)
(2)二元論(心身二元論)
(2.1)二元論の主張
(2.1.1)心の世界
(2.1.2)物質の世界
(2.1.3)心の世界は物質の世界には還元できない
(2.2)二元論の誤り
(2.3)相互作用説
(2.3.1)相互作用説の主張
(2.3.2)相互作用説の誤り
(2.4)心身並行説
(2.4.1)心身並行説の主張
(2.4.2)心身並行説の評価
(2.5)随伴現象説
(2.5.1)随伴現象説の主張
(2.5.2)随伴現象説の評価
(3)物理主義
(3.1)物理主義の主張
(3.2)物理主義が忘れてしまいやすい事実
(3.2.1)法則
(3.2.2)モデルとしての対象
(3.2.3)物理学が世界の真理を記述していると誤って理解される理由
(3.3)還元主義的物理主義
(3.3.1)心脳一元論
(3.4)非還元主義的物理主義
(3.5)性質二元論(非還元主義、非創発主義)
(3.5.1)性質二元論の主張
(3.5.2)性質二元論の誤り
(3.5.3)哲学的ゾンビ、ゾンビ論法、思考可能性論法
(3.5.4)ゾンビ論法、想像可能性論法の誤り
(3.5.5)ゾンビ論法へのア・ポステリオリな必然性からの反論
(3.5.6)ゾンビ論法へのア・ポステリオリな必然性からの反論の誤り
(3.5.7)メアリーの部屋(フランク・ジャクソン(1943-))
(3.5.8)メアリーの部屋の解釈
(3.6)創発的物理主義
(3.6.1)創発的物理主義の主張
(3.6.2)創発的物理主義に関する注意事項
(3.7)消去主義的唯物論
(3.7.1)消去主義的唯物論の主張
(3.7.2)消去主義的唯物論の誤り
(4)意識のハードプロブレムは、何を解決すればよいのか
(4.1)現実の対象の完全な記述
(4.2)意識の理解における物理主義の問題点
(4.2.1)モデルとしての意識の理解
(4.2.2)一滴の水そのものとしての自己意識
(4.3)意識のハードプロブレムとは何か、なぜ、解決が困難に思われるのか
(4.3.1)人間という事態の特殊性に起因する科学の原理的限界と意識の十全性の対照
(4.3.2)クオリアと絶対的一人称性の不可分性(鈴木敏昭(1950-))
(4.3.3)科学の基盤である経験が、まさに説明されるべき対象であるという循環性
(4.3.4)検証対象となる意識現象が、本人にしか経験できないという事態
(4.4)意識のハードプロブレムは、何を解決すればよいのか
(4.4.1)心の世界の現象と心の世界に内在する原理の解明
(4.4.2)物質世界の一部である身体の科学的な解明
(4.4.3)同時に物質世界の現象でもある心の世界の現象と科学の諸法則との無矛盾性
(4.4.4)心の世界と物質世界が属する、心とは独立の存在との無矛盾性
(4.4.5)心の世界の現象と身体の仮説的な対応関係の解明

──────────────────────


(1)存在の全構造の俯瞰(目次のみ)
(a)私は存在する。
(a.a)私は存在する。
(a.b)私以外のものが存在する。
(a.c)存在そのものがその本質に属するようなあるものが存在する。
(a.d)私における、精神と身体の概念。
(a.e)他者は存在する。
(a.f)他者における精神と身体の概念。
(a.g)実体的紐帯は存在する。
(a.h)言語、論理、数学、科学の本質。
(a.i)科学による全宇宙の記述。
(a.j)科学による身体と精神の記述。
(g)実体的紐帯は存在する。(内部からの記述)
(g.h)言語、論理、数学、科学の本質。
(g.i)科学による全宇宙の記述。
(g.j)科学による身体と精神の記述。
(c)存在そのものがその本質に属するようなあるものが存在する。(外部からの記述)
(c.i)科学による全宇宙の記述。
(c.j)科学による身体と精神の記述。
(c.a)私は存在する。
(c.d)私における、精神と身体の概念。
(c.e)他者は存在する。
(c.f)他者における精神と身体の概念。
(c.g)実体的紐帯は存在する。
(c.h)言語、論理、数学、科学の本質。

(2)二元論(心身二元論)
(2.1)二元論の主張
(2.1.1)心の世界
 私の存在と実体的紐帯の存在、その中で生じる全ての現象は、心の中の現象として記述 可能で、現象を支配している法則も、その中において記述可能である。
(2.1.2)物質の世界
 物質の世界は、科学によって記述可能である。
(2.1.3)心の世界は物質の世界には還元できない
 心の世界と物質の世界は、それぞれ独自の法則を持ち、心の世界の法則を物質の世界へ 還元することはできない。

(2.2)二元論の誤り
 二元論の主張のうち、心の世界は物質の世界には還元できないとする主張が、誤りであ る。心の世界の現象の記述、現象の諸法則も、私や他者、実体的紐帯の存在が、この全宇宙の 構成要素であるならば、宇宙を支配している法則に従うであろう。これは、科学の方法論の問 題である。ただし、「還元」の意味が問題である。

(2.3)相互作用説
(2.3.1)相互作用説の主張
 物質の世界は、心の世界に作用を及ぼす。心の世界は、物質の世界に作用を及ぼす。
(2.3.2)相互作用説の誤り
 正しくは、次の通りである。
 物質の世界の一部は、心の世界に対応する。心の世界は全て、そのままで同時に、物質 の世界の現象でもある。

(2.4)心身並行説
(2.4.1)心身並行説の主張
 身体を含む物質は、物質のみと相互作用を行う。心は、心のみと相互作用を行う。各世 界は、それぞれ独自の法則を持つ。
(2.4.2)心身並行説の評価
 心身並行説の主張自体は正しいが、この主張にとどまり、心の世界の現象全てが、その ままで物質世界での現象でもあると理解しないならば誤りである。また、心の世界の諸法則 も、物質の世界の法則に由来するものであり、解明を要するものだと理解されなければ、誤り である。これは、科学の方法の問題である。

(2.5)随伴現象説
(2.5.1)随伴現象説の主張
 身体を含む物質は、物質のみと相互作用を行う。心の世界は、物質的な現象に随伴する 現象である。
(2.5.2)随伴現象説の評価
 随伴する現象が、心の世界と物質の世界の仮説的な対応関係と理解されるならば、随伴 現象説の主張自体は正しい。しかし、この主張にとどまり、心の世界が物質的な現象に何ら影 響を与え得ないと考えるなら、誤りである。

(3)物理主義
(3.1)物理主義の主張
 現在のところ、物理学だけがこの宇宙の根源的な真理の一面をつかんでいる。全てのもの が、この宇宙の構成物だとすれば、全ては宇宙の法則に支配されているはずで、究極的には物 理学が人間の精神も含めて全てを説明する基礎となる。
(3.2)物理主義が忘れてしまいやすい事実
(3.2.1)法則
 私たちが真理を知っていると思っているのは、ほとんど法則のみである。真理とは何 か。それは法則のみではない。
(3.2.2)モデルとしての対象
 実際に対象が理解されているように思われる場合であっても、全て例外なく、概念に よって対象をモデル化して、モデルについての法則が知られているだけである。
(3.2.3)物理学が世界の真理を記述していると誤って理解される理由
「物理学は数学的である。しかしそれは私達が物理的な世界について非常によく知って いるためではなく、むしろほんの少ししか知らないためである - 私達が発見しうるのは世界 の持つ数学的な性質のみである。物理的世界は、その時空間の構造のある抽象的な特徴と関 わってのみ知られうる - そうした特長は、心の世界に関して、その内在的な特徴に関して何 か違いがあるのか、またはないのか、を示すのに十分ではない。」(バートランド・ラッセル (1872-1970) 『Human knowledge: It's Scope and Limits』(1948年))(参考:哲学的ゾンビ(wikipedia))

(3.3)還元主義的物理主義
 モデルに適用される法則は、より基礎的な法則、究極的には物理法則に還元される。

(3.3.1)心脳一元論
(a)心脳一元論の主張
 大脳におけるニューロンの電気的活動に随伴して意識が生じる。
(b)心脳一元論は、不十分な理論である
 脳ではなく、身体全体を考慮すべきである。

(c)培養槽の中の脳
(参考:培養槽の中の脳(wikipedia))
(d)培養槽の中の脳は、意識を再現できない
(b)の理由により、意識は再現できない。

(3.4)非還元主義的物理主義
(a)モデルに適用される法則は、より基礎的な法則、究極的には物理法則に還元されると は限らない。ただし、心的状態は、物理的状態に付随する。「付随性」は関数的な依存関係を あらわしている。つまり、物理的なものに変化がないかぎり、心的なものにも変化がない。 (参考:心の哲学(wikipedia)付随性(wikipedia))
(b)非還元主義的物理主義は、科学の方法として誤りである。仮説としてある法則が定立 される場合であっても、それをより基礎的な法則で説明しようとすることは、科学の原動力で ある。

(3.5)性質二元論(非還元主義、非創発主義)
(3.5.1)性質二元論の主張
 この世界に存在する実体は一種類だが、それは心的な性質と物理的な性質という二つの 性質を持っている。そして、二つの異なる性質に関して、一方を他方に還元することができな い。また、一方から他方が創発することもできない。(参考:性質二元論(wikipedia))
(3.5.2)性質二元論の誤り
 性質二元論が、非還元主義である限りにおいて、非還元主義と同じ誤りを犯している。また、実体は 一つで、物理的な性質と心的な性質を持つとするのは正しいが、性質がこの二つに限定される とするのは、誤りである。説明されるべき、様々な性質の階層が存在する。すなわち、還元主 義的な性質多元論の方がより真実をとらえている。

(3.5.3)哲学的ゾンビ、ゾンビ論法、思考可能性論法
(a)我々の世界には意識体験がある。
(b)物理的には我々の世界と同一でありながら、我々の世界の意識に関する肯定的な事 実が成り立たない、論理的に可能な世界が存在する。
(c)したがって意識に関する事実は、物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関す る更なる事実である。
(d)ゆえに唯物論は偽である。(参考:哲学的ゾンビ(wikipedia))
(3.5.4)ゾンビ論法、想像可能性論法の誤り
 (b)の哲学的ゾンビの存在が「論理的に可能」であるという前提が、間違っている。理 由は、「(4.1)現実の対象の完全な記述」に記載した。論理的に構成されるような「物理 的に同一」なものは存在しない。「物理的に同一」の意味が、論理的な構成ではなく存在その ものとして同一物ならば、それは意識を持つ。すなわち、ゾンビは存在しない。

(3.5.5)ゾンビ論法へのア・ポステリオリな必然性からの反論
 科学的な知識が進むことで、哲学的ゾンビの存在が「論理的に可能」であるという前提 が、間違っていることが、論理的に証明できる。
(3.5.6)ゾンビ論法へのア・ポステリオリな必然性からの反論の誤り
 間違っている理由は、「(4.1)現実の対象の完全な記述」の記載の通りである。

(3.5.7)メアリーの部屋(フランク・ジャクソン(1943-))
(a)メアリーはなんらかの事情により、白黒の色しか経験できない環境に生活してい る。
(b)彼女は、色を見るということに関しての物理的過程、生理学的過程を全てを、完全 に理解している。
(c)彼女が、実際に色を経験したとき、何が起こるだろうか。彼女はなにかを学ぶだろ うか?
(d)メアリーが新しいことを学ぶのは、紛れもなく明らかである。
(e)彼女の以前の知識は、不完全だったと言わざるをえない。
(f)すべての物理情報で事足りることはなく、物理主義は誤っているのである。(フラン ク・ジャクソン(1943-))(参考:メアリーの部屋(wikipedia) )
(3.5.8)メアリーの部屋の解釈
 最後の結論が、誤りである。それ以外の主張は、正しい。「(4.2)意識の理解におけ る物理主義の問題点」の記載を参照せよ。

(3.6)創発的物理主義
(3.6.1)創発的物理主義の主張
(a)物質が複雑に組織化されると意識が創発される。
(b)創発主義
「経験的現象は創発的現象である。意識の諸性質、経験の諸性質は、まったくの完全 な非意識的、非経験的現象からの創発的性質である。物理的素材そのものは、その基本的なあ り方においてまったくの非意識的、非経験的現象である。ところが、物理的素材が一定の仕方 で結びつくと、経験的現象が「創発する」。」(ゲーレン・ストローソン(1952-))(出典:山 口尚真の物理主義の含意――ゲーレン・ストローソン「実在論的な一元論」 (大厩諒訳、『現代思想 特集=汎心論』、2020年6月号))

(3.6.2)創発的物理主義に関する注意事項
(a)創発的物理主義については、次の点に注意が必要である。創発という言葉で、現象 を検証する意識現象と、それを説明する科学的概念との混同しないこと。創発という言葉で、 科学的な説明への試みがなされないならば、非還元主義的物理主義と同じ誤りに陥る。
(b)創発主義の誤り
「XからYが創発することが本当に真である場合、YはXに、しかもXだけに、ある意味 では全面的に依存しなければならない。それゆえYの全特性は、理解可能な仕方でXにさかのぼ ることができる(ここで「理解可能」とは、認識論的ではなく形而上学的な概念である)。創 発は、それ以上説明されないナマの事実ではありえない。」(ゲーレン・ストローソン(1952- ))(出典:山口尚真の物理主義の含意――ゲーレン・ストローソン「実在論的な一元論」 (大厩諒訳、『現代思想 特集=汎心論』、2020年6月号))

(3.7)消去主義的唯物論
(3.7.1)消去主義的唯物論の主張
 還元主義的物理主義と同じであるが、意識現象を記述する概念が誤りであり、科学的な 概念によって消去されるはずだと主張する。
(3.7.2)消去主義的唯物論の誤り
 消去主義的唯物論は、科学の方法として誤りである。意識現象を記述する概念はそれ自 体、客観的な概念かどうか検証できるし、また、最終的な解明のための基礎として重要であ り、消去されるべきものではない。

《目次》
(4)意識のハードプロブレムは、何を解決すればよいのか
(4.1)現実の対象の完全な記述
(4.2)意識の理解における物理主義の問題点
(4.2.1)モデルとしての意識の理解
(4.2.2)一滴の水そのものとしての自己意識
(4.3)意識のハードプロブレムとは何か、なぜ、解決が困難に思われるのか
(4.3.1)人間という事態の特殊性に起因する科学の原理的限界と意識の十全性の対照
(4.3.2)クオリアと絶対的一人称性の不可分性(鈴木敏昭(1950-))
(4.3.3)科学の基盤である経験が、まさに説明されるべき対象であるという循環性
(4.3.4)検証対象となる意識現象が、本人にしか経験できないという事態
(4.4)意識のハードプロブレムは、何を解決すればよいのか
(4.4.1)心の世界の現象と心の世界に内在する原理の解明
(4.4.2)物質世界の一部である身体の科学的な解明
(4.4.3)同時に物質世界の現象でもある心の世界の現象と科学の諸法則との無矛盾性
(4.4.4)心の世界と物質世界が属する、心とは独立の存在との無矛盾性
(4.4.5)心の世界の現象と身体の仮説的な対応関係の解明


(4)意識のハードプロブレムは、何を解決すればよいのか
(4.1)現実の対象の完全な記述
 モデルでない真実の対象の記述は可能かどうか。眼の前の現実の対象については、一滴の 水と言えども、完全な記述は不可能である。一滴の水の完全な記述には、一滴の水そのものの 存在が必要である。
(a)ラッセルによる説明
「私達が直接に経験する心的事象である場合を除いて、物理的な事象の内在的な性質に ついて、私達は何も知らない。(バートランド・ラッセル(1872-1970)『Mind and Matter』(1956年)(参考:哲学的ゾンビ(wikipedia))
(b)同じ真理を表現するライプニッツの命題 (i) 経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経 験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッ ツ(1646-1716))
(ii)すべての現実存在命題は、真なる偶然的命題である。 現実存在命題の証明は、無限個の個体の完備概念を含み、決して完了した証明には達し得な い。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

(4.2)意識の理解における物理主義の問題点
(4.2.1)モデルとしての意識の理解
 意識についても、モデルとしての対象としてしか理解できない。
(4.2.2)一滴の水そのものとしての自己意識
(a)ところが、説明されるべき意識の現実は、まさに一滴の水そのものである自己意識 として経験されている。
(b)真の物理主義のテーゼ
「経験は実在的な具体的現象であり、いかなる実在的な具体的現象も物理的であ る。」(ゲーレン・ストローソン(1952-))(出典:山口尚真の 物理主義の含意――ゲーレン・ストローソン「実在論的な一元論」(大厩諒訳、『現代思想 特 集=汎心論』、2020年6月号))

(4.3)意識のハードプロブレムとは何か、なぜ、解決が困難に思われるのか
(4.3.1)人間という事態の特殊性に起因する科学の原理的限界と意識の十全性の対照
(a)モデルを使って理解するしかないという科学の本質と、現に体験される自己意識と の対照が、意識の解明を不可能なほど困難なものと感じさせる。これは、人間という事態の結 果である。
(4.3.2)クオリアと絶対的一人称性の不可分性(鈴木敏昭(1950-))
「クオリアの「謎」の解明とは、単に感覚という主観がいかに成立するのかだけでな く、その主観の「絶対的一「人」称」性の「謎」の解明なのである。」(出典:鈴木敏昭 (1950-)クオリアの絶対的一人称性の謎(鈴木敏昭,2016))
(4.3.3)科学の基盤である経験が、まさに説明されるべき対象であるという循環性
 科学的知識の基礎であるはずの感覚経験が、科学によって基礎づけられていないという 事態が存在しており、この循環性が問題の解決を困難に感じさせる。
「日常生活で得た身のまわりの世界に関する知識も、科学的な方法、実験によって得た 知識も、すべて直接の感覚に依存している。それにもかかわらず、自然科学の発見によってよ たらされた外界に関する描像やモデルには、感覚的性質がまったくかけている。」(エルヴィ ン・シュレディンガー(1887-1961))『精神と物質』「第六章:感覚的性質の不思議」 (1958年)、中村量空[訳](1987年) ISBN 4-87502-305-7 (参考:意識のハードプロブレム(wikipedia))

(4.3.4)検証対象となる意識現象が、本人にしか経験できないという事態
(i)逆転クオリア
 同じ赤色に相当する周波数の光を受け取っている異なる人間は、同じ質感を経験して いるのか?ひょっとすると全く違う質感を経験しているのではないか?(参考:逆転クオリア(wikipedia))
(ii)全ての人は、自分の感覚の経験しか持てない。ゆえに、直接検証することはできな い。

(4.4)意識のハードプロブレムは、何を解決すればよいのか
(4.4.1)心の世界の現象と心の世界に内在する原理の解明
 心は、心のみと相互作用を行う。心の世界の法則に従う。
(a)「人間という事態の特殊性に起因する科学の原理的限界」は、意識の問題に固有の 問題ではなく、例外なく科学全てが持っている特性である。

(4.4.2)物質世界の一部である身体の科学的な解明
 身体を含む物質は、物質のみと相互作用を行う。物質の世界の法則に従う。

(4.4.3)同時に物質世界の現象でもある心の世界の現象と科学の諸法則との無矛盾性
 心の世界の現象は全て、そのままで同時に、物質の世界の現象でもある。
(a)実験や観測の対象としての意識経験
 科学の方法は、実験や観測による検証または反証を基礎としている。これは、意識の 科学においても同じである。物質の科学においては、様々な実験装置や観測装置の設計と実装 が不可欠である。しかし、意識においては、個人に与えられている意識現象は完全で十全なも のであり、誤り得ない、そのままで同時に、物質の世界における現象としても与えられている ものである。この意味では、科学という営みにおいては、その問題の解決にとって有利な側面 と言える。
(b)科学の基礎にある意識経験
 物質の科学における実験、観測に比べて、意識現象が主観的で、曖昧なものであると いう印象は、誤りである。科学の基盤である実験や観測を支えている感覚経験自体が、科学的 に解明されているものではないという事態は、物質の科学においても、意識の科学において も、まったく同様の事態なのである。
(c)科学的な方法とは何かということ
 科学的に解明されていない意識経験に基礎を置く科学的方法が、なぜ確固とした客観 性を持っているかのごとく感じられるのかは、他者の存在、実体的紐帯の存在、言語、論理、 数学、科学という人間の営みの理解によって、解明できる。

(4.4.4)心の世界と物質世界が属する、心とは独立の存在との無矛盾性
 心の世界は、物質の世界の一部であり、心の世界の諸法則は、物質の世界の諸法則に由 来する。

(4.4.5)心の世界の現象と身体の仮説的な対応関係の解明
 物質の世界の一部である身体は、心の世界との仮説的な対応関係を持つ。これは、人間 の科学という営みにおいて現在採用されている方法論の問題である。この意味においてなら、 心の世界は、物質的な現象に随伴する現象であると表現してもよい。

(a)心の世界は、科学的な実験の工夫により、間接的に検証することができる。類似の 問題としては、感覚や知覚の異常の検知。正常なものとしての錯覚の検知。内観は、言語によ る報告で検証可能である。

(b) 気づきのない行動と、気づきのある行動が存在する。気づきのある行動は、被験者の内観報告 を基礎に判断できる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

錯視を用いて意識的知覚を研究する利点。
(a)コンシャスアクセスに焦点を絞ること。
(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作。
(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。錯視は非常に主観的なもので、見ている本人しか経験できない。それにもかかわらず、結果 は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。

(c)クオリアの変化に相関する神経活動の同定(意識の神経相関)
 双安定錯視は、入力刺激としては一定にも関わらず、クオリアが時間を追って変化す る。そのような状況で、被験者に何が意識にのぼっているかを正確に刻一刻と報告してもらう ことで、クオリアの変化に相関して変化するような神経活動を同定することが可能である。 (出典:クオリア(脳科学事典))

(d)意識的なアクセス、報告のない実験の工夫が必要
 被験者に報告させるタイプの実験では、意識的なアクセスのメカニズム、報告のメカ ニズムが明らかになるだけで、クオリアがどのように脳活動から生じてくるのかを理解するに は、妨げになるのではないか、という問題が指摘されてきている。アクセスできない、もしく は普段はアクセスしないような意識の内容もクオリアの一部であると考えるのであれば、アク セスの影響を意図的に排除するような実験パラダイムの設計が必要である。(出典:クオリア(脳科学事典))



 
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

2021年11月18日木曜日

スタニスラス・ ドゥアンヌ(1965-)の命題集

スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集




特別注目する命題
錯視を用いて意識的知覚を研究する利点。
(a)コンシャスアクセスに焦点を絞ること。
(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作。
(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。錯視は非常に主観的なもので、見ている本人しか経験できない。それにもかかわらず、結果 は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。

《目次》
(1)幾つかの互いに区別される「無意識
(1.1)無数の潜在的な知覚情報と記憶
(1.2)潜在的な結合
(1.2.1)誕生前に形成されるシナプス結合
(1.2.2)記憶として存在するシナプス結合と学習された無意識の直感
(1.2.3)記憶の意識化は、かつて存在した活性化パターンの近似的な再構築
(1.2.4)学習
(1.2.4.1)覚醒状態の学習(ボトムアップ処理)
(1.2.4.2)睡眠状態の学習(トップダウン処理)
(1.2.4.3)学習感受期
(1.3)切り離されたパターンの無意識

(2)識閾下の状態
(2.1)識閾下の状態と前意識との違い
(2.2)閾値の存在
(2.3)識閾下の刺激が意識されない理由
(2.4)閾値を超える刺激でも、意識されない場合がある:マスキング手法

(3)識閾下での認知作用
(3.1)様々な認知作用
(3.2)無意識の無数の統計マシン
(3.3)知覚の例
(3.4)複雑な発火パターンへの希釈という現象
(3.4.1)複雑な発火パターンへの希釈の事例
(3.4.2)(仮説)脳内処理と経験される知覚との違いの原因

(4)意識的な注意による情報選択
(4.1)入力:無意識の認知作用の確率的な推論結果
(4.2)出力:最善の解釈サンプルの抽出(全か無かのサンプル)
(4.3)作用の担い手:意識的な注意(精神の能動)
(4.4)次の入力先:意識を持ったたった一つの意思決定者

(4.5)注意の能動性、同時処理限定性
(4.5.1)両眼視野闘争
(4.5.2)連続フラッシュ抑制
(4.5.3)注意の瞬き
(4.5.4)無意識的な処理の存在
(4.5.5)注意の容量の存在、意識の飽和
(4.5.6)「見えないゴリラ」非注意性盲目
(4.5.7)変化盲

(4.6)注意

(4.6.1)呼出 (alerting)

(4.6.2)指向 (orienting)

(4.6.3)実行的注意 (executive attention)


(5)アクセス可能な前意識
(5.1)知覚のコード化は終わっている
(5.2)前意識(ジークムント・フロイト(1856-1939))
(5.3)アクセスされない知覚情報
(5.4)遅れてアクセスされた知覚情報

(5.5)現象的意識とアクセス意識
(5.5.1)現象的意識とアクセス意識(ネッド・ブロック(1942-))
(5.5.2)現象的意識とアクセス可能な前意識の概念的な違い
(5.5.3)両眼視野闘争での例
(5.5.4)注意の瞬きでの例
(5.5.5)視野の周辺部での例

(6)アクセス中の表象としての意識
(6.1)意識の劇場(イポリット・テーヌ(1828-1893))
(6.2)グローバル・ワークスペース理論(バーナード・バース(1946-))
(6.2.1)グローバル・ワークスペース
(6.2.2)意識されている情報
(6.2.3)意識されない情報、抑制機能
(6.2.4)情報の広域化、利用可能化
(6.2.5)グローバル・ワークスペースの機能
(6.2.6)グローバル・ワークスペースの機能のモデル例
(6.3)被験者が意識的な知覚表象を経験したか否かを示す生理学的な標識
(6.3.1)頭頂葉、および前頭前野の神経回路の突然の発火(意識のなだれ)
(6.3.2)刺激から3分の1秒後に発生するP3波
(6.3.4)多数の皮質領域間の双方向メッセージ交換
(7)意識化がもたらしたこと




(1)幾つかの互いに区別される「無意識」
(1.1)無数の潜在的な知覚情報と記憶
(a)私たちの環境は無数の潜在的な知覚情報に満ちあふれている。同様に、私たちの記憶 は、次の瞬間には意識に浮上する可能性がある知識で満たされている。
(b)全体の概要
無数の潜在的な知覚情報と記憶から、まず気づきの外で情報選択がなされ、注意によってある 項目が意識にのぼる。特定の一時点においては、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎ ない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
(c)自発的な活動
自発的な脳活動は、非常に激しい。それに 比べ外部刺激によって喚起された活動は、平均化処理を十分に施したうえでかろうじて検出で きる程度のもので、消費エネルギー総量の恐らくは5%未満を費やすにすぎない。(スタ ニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

(1.2)潜在的な結合
識閾下での認知処理、前意識、意識、自発 的行動の全ては、機能と一体化した潜在的な神経結合により遂行され、同時に、潜在的な結合 へと再組織化、記憶化される。記憶の一部は、近似的な発火パターンが再構築され、想起され る。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

(1.2.1)誕生前に形成されるシナプス結合
 生まれる前ですら、ニューロンは外界を統計的にサンプリングし、それに神経結合を適 合させている。
(a)生得的な統計仮説


(1.2.2)記憶として存在するシナプス結合と学習された無意識の直感
 数百兆の単位で人の脳内に存在する皮質シナプスは、私たちの全生涯の眠った記憶を含 む。とりわけ環境に対する脳の適応の最盛期をなす生後数年間は、毎日何百万ものシナプスが 形成されたり、破壊されたりしている。
(a)視覚処理のための記憶
 低次の視覚野では、皮質結合は、隣接する直線がいかに結びついて対象物の輪郭を構 成するかについて、統計情報を編集する。
(b)聴覚の記憶
 聴覚では、音のパターンに関する暗黙の知識が蓄えられる。
(c)運動の記憶
 ピアノの練習を何年も続けると、これらの領域の灰白質の密度に検知可能な変化が生 じるが、これは、シナプスの密度、樹状突起の大きさ、白質の構造、ニューロンを支えるグリ ア細胞の変化に起因すると考えられる。
(d)エピソード記憶
 海馬には、いつどこで誰と一緒にいるときに、どのようなできごとが起こったかに関 して、シナプスによってエピソード記憶が集められる。

(1.2.3)記憶の意識化は、かつて存在した活性化パターンの近似的な再構築
(a)記憶の知恵を直接取り出すことはできない。なぜなら、そのフォーマットは、意識 的思考を支援するニューロンの発火パターンとはまったく違うからである。
(b)想起するためには、記憶は眠った状態から活性化された状態へと変換されねばなら ない。記憶の想起に際して、シナプスは正確に発火パターンが再現されるように促す。

(1.2.4)学習



(1.2.4.1)覚醒状態の学習(ボトムアップ処理)

(a)感覚データを用いて、環境のモデルを生成する。

(b)予想外の感覚信号が入り、それが内部モデルの予想とは相反するとき、その信号は予測誤差信号を発生させ、 それが皮質の階層を上り、各段階で統計的な重みを調節する。

(c)それによっ て、トップダウンのモデルはだんだん正確さを増すようになる。


(1.2.4.2)睡眠状態の学習(トップダウン処理)

(a)夜間には、私たちは生成モデルを使って、もともと予想されてなかった新たな像を合成する。

(b)脳の一部はこの実体のないところから生み出された一連の像に基づいて自らトレーニングする。

(c)私たちはボトムアップの結合を改良できるようになる。 

(d)私たちの脳は、 内部で現実を再構築することによって、日中の、必然的に限られた経験を増やす。睡眠は、訓練用に使 えるデータが乏しいという、あらゆる学習アルゴリズムが直面する問題を解決するらしい。また、こうした思考実験の間に、私たちは時として何かを発見する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

(1.2.4.3)学習感受期

 シナプスの過剰生産とミエリン形成の波が次々と進むのに同調して、学習の感受期は、関係する脳の 領域によって、始まったり終わったりする時期が変わる。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))


(a) 次視覚野は、他の感覚野と同様、もっと高次の皮質領域よりもずっと速く成熟する。早期の感覚野で は、皮質の編成を停止することによって脳の入力を速やかに安定させる一方で、高次の領域はずっと長 期にわたって変化できるようにしておく、という原則らしい。

(b)ヒトという種 では、シナプス過剰生産のピークは視覚野では二歳頃に終わり、聴覚野では三歳あるいは四歳、前頭前野では五歳から一〇歳の間となる。 軸索を絶縁体でくるむミエリン形成という過程も同じパターンを たどる。

(c)「両眼融合」はネコで数か月、ヒトで数年続く。この時期の間、一方の眼が閉ざされたり、ぼやけたり、重症の斜視のせいで方向がそろっていなかったり すると、両眼融合担当の皮質回路が形成されず、その結果、融合は恒久的に失われる。



(1.3)切り離されたパターンの無意識
前意識、識閾下の状態とは異なる、前頭前 皮質や頭頂皮質のグローバル・ワークスペース・システムからは「切り離されたパターン」の 無意識が存在する。脳幹に限定される呼吸をコントロールする発火パターンなどである。 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))




(2)識閾下の状態
注意により意識化できる前意識とは異なり、 意識化できない「識閾下の状態」が存在する。視覚では50ms内外に閾値が存在し、意識の境界 は比較的明確である。識閾下では検出可能な脳活動が生じるが、グローバル・イグニションに は至らない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
(2.1)識閾下の状態と前意識との違い
前意識の刺激は、それに注意を向けさえすれば意識されるのに対し、識閾下の刺激は、い くら努力しても意識し得ない。

(2.2)閾値の存在
(a)多くの実験においては、可視と不可視の境界は比較的明確である。
(b)40ミリ秒間表示されたイメージはまったく見えないにもかかわらず、60ミリ秒になる と楽に見えるようになる。個人差はあるが、つねに50ミリ秒内外の値をとる。
(c)閾値に相当する期間だけ視覚刺激を表示すれば、物理的な刺激は一定でありながら主 観的な知覚がトライアルごとに異なる。

(2.3)識閾下の刺激が意識されない理由
(a)目に見えないほどごくわずかな時間、かすかにイメージをフラッシュする。
(b)識閾下の刺激は、視覚、意味、運動を司る脳領域に検出可能な活動を引き起こすが、 この活動はごくわずかな時間しか持続しないため、グローバル・イグニションには至らない。
(c)高次の領域から低次の領域の感覚野に向けてトップダウンにシグナルが戻され、入っ てくる活動を増幅する機会が得られる頃には、もとの活動はすでに失われ、マスクに置き換え られている。

(2.4)閾値を超える刺激でも、意識されない場合がある:マスキング手法
(a)マスキングの例
(i)時間順の刺激 
 刺激1→刺激2→刺激3 刺激1,3で2をマスキングする手法
(ii)時間順の刺激 
図形パターン1→図形パターン2→図形パターン3
図形パターン2の特定図形をマスキングする手法
(iii)時間順の刺激
 刺激1→刺激2 刺激2で1をマスキングする手法
(b)閾値を超える刺激であっても、識閾下における様々な認知作用と、高次の領域から低 次の領域への相互作用によって、意識されない場合があり、識閾下の機能と意識の機能の解明 に役立つ。

(3)識閾下での認知作用
(3.1)様々な認知作用
知覚、言語理解、決定、行為、評価、抑制に至る広範な認知作用が、少なくとも部分的に は、識閾下でなされ得る。
(3.2)無意識の無数の統計マシン
意識以前の段階では、無数の無意識のプロセッサーが並行して処理を実行する。
(3.3)知覚の例
(a)入力:感覚データ
微かな動き、陰、光のしみなど。
(b)推論:観察結果の背後にある隠れた原因を推測する。
(c)出力:感覚データの原因となった外界
自らが直面している環境に、特定の色、形状、動物、人間などが存在する可能性を計算 する。

(3.4)複雑な発火パターンへの希釈という現象
脳内では感覚データ通りコード化されている にもかかわらず、このコードが無意識に留まり、コンパクトで明確な再コード化がなされず、 異なる知覚が意識される場合がある。複雑な発火パターンへの希釈という現象である。 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

(3.4.1)複雑な発火パターンへの希釈の事例
(a)感覚データ
目で判別できないほど稠密に表示された、もしくは素早く明滅する(50ヘルツ以上) 格子模様を考えてみる。
(b)経験される知覚
一様に灰色がかった画面を知覚するだけである。
(c)意識されないが脳内では処理されている
だが、実験が示すところによれば、脳内では格子模様は実際にコード化されている。 格子の方向によって、それぞれ別のニューロン群が発火する。無意識の領域には、無尽蔵の資 源が発掘されるのを待っている。
(d)意識されない感覚の解読技術の可能性
コンピューターに支援された神経コードの解読技術の発達は将来、感覚によって検知 されながら意識には見落とされているミクロのパターンを増幅することで、厳密な形態の超感 覚的知覚、すなわち環境に対する高められた感覚の利用を可能にするかもしれない。

(3.4.2)(仮説)脳内処理と経験される知覚との違いの原因
(a)おそらくその理由は、それが一次視覚野の極端に錯綜した時空間的な発火パターン に依拠し、高次の皮質領域にあるグローバル・ワークスペースのニューロンには、はっきりと 識別し得ないほど複雑なコード化がなされているからであろう。
(b)次第に抽象性を増す特徴を、感覚入力から順次抽出する、階層的に構造化された感 覚ニューロンが存在する。
(i)メッセージの明確化
(ii)コンパクトで、明確な形態で再コード化
(iii)意味づけられたカテゴリーへの分類


(4)意識的な注意による情報選択
無意識の無数の統計マシンが計算した、感覚 データの原因となった外界の確率的な推論結果のうちから、その時点における最善の解釈を抽 出して、意識を持ったたった一つの意志決定システムへ引き渡す。(スタニスラス・ドゥ アンヌ(1965-))

(4.1)入力:無意識の認知作用の確率的な推論結果
無意識の認知作用は、感覚データの原因となった外界についての確率的な推論結果しか示 さない。

(4.2)出力:最善の解釈サンプルの抽出(全か無かのサンプル)
あらゆる曖昧さを取り除き、その時点における外界の最善の解釈を抽出して、意思決定シ ステムに受け渡す必要がある。私たちがさらなる決断を下せるよう、あらゆる無意識の可能性 を整理して、たった一つの意識的なサンプルが抽出される。

(4.3)作用の担い手:意識的な注意(精神の能動)
(4.3.1)精神の能動性
無意識の無数の認知機能が計算した確率的な 推論結果からサンプルが抽出されるには、意識的な注意の働きが必要なことが、両眼視野闘争 の実験などで示されている。ここには、量子力学の観測と類似の状況があるが、未解明であ る。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
(a)サンプリングは、意識的な注意の働きなくしては生じない。
(b)例:両眼視野闘争
 (i)二つのイメージに注意を向けていると、それらは絶えず交互に意識に現われる。
 (ii)注意を別の対象に向けると、両眼視野闘争は停止する。
 (iii)サンプリングによる選択は、意識的な注意が向けられているときにのみ生じるら しい。
(4.3.2)意識的な注意の量子力学における観測装置との類似性
 特定の対象に注意を向ける、まさにその意識の活動によって、さまざまな解釈の確率分 布が収縮し、そのなかの一つだけを私たちは知覚する。このように意識の活動は、背後に存在 する、無意識の計算の広大な領域のわずかな部分を垣間見せる、選別的な測定装置として機能 する。
(4.5)注意の能動性、同時処理限定性
(4.5.1)両眼視野闘争

(a)両目のそれぞれに知覚可能なイメージを同時に提示すると、実際には一方のイメージ のみが知覚される。
(b)能動的な注意の存在
両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それ とも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理さ れ、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニ スラス・ドゥアンヌ(1965-))
 (i)二つのイメージに注意を向けていると、それらは絶えず交互に意識に現われる。 
 (ii)注意を別の対象に向けると、両眼視野闘争は停止する。
 (iii)サンプリングによる選択は、意識的な注意が向けられているときにのみ生じるら しい。
 (iv)周波数標識法
  注意を喚起せずに両眼視野闘争を調査する試みの一つである。特定のリズムで明滅さ せることで、各イメージを標識づけ、二つの異なる周波数標識は、頭部に装着した電極を通し て記録される脳波図によって拾う方法である。
(左目)周波数1 (右目)周波数2
明滅する周波数を、脳波図によって検出する。

(4.5.2)連続フラッシュ抑制
 二つのイメージのうちの一方を恒久的に視野から消すことができる。これは、他方の目に 鮮やかな色の長方形を連続してフラッシュ(一瞬表示させること)すると、そちらのイメージ の流れのみが見えるようになる。

(a)実験方法
 コンピュータ画面の特定の場所に、一連のシンボルが表示される。シンボルのほとんど は数字だが、なかには文字もあり、被験者は文字を覚えておくように指示される。
(b)実験結果
 最初の文字は容易に覚えられる。0.5秒後に2番目の文字が出現すると、それも正確に記 憶される。しかし、2番目の文字がほとんど間を置かずに出現すると、それはしばしば完全に 見落とされる。被験者は一文字しか見ていないと報告し、実際には二つ表示されたことを知ら されると驚く。最初の文字に注意を向ける行為は、二番目の文字の知覚を阻害する一時的な 「心の瞬き」を生む。
(c)能動的な注意の存在
 ただ単に受動的に目を向けていると、すべての数字や文字を「見ている」気がする。 

(4.5.4)無意識的な処理の存在
 脳画像法を用いれば、無意識的なものも含めてすべての文字情報が脳に伝達されているこ とを確認できる。それらはすべて、視覚の初期過程を司る領域に達しており、また奥深くまで 到達してターゲットとして分類されていることすらある。

(4.5.5)注意の容量の存在、意識の飽和
(a)注意は、同時に対処できるイメージの数が限定されている。
(b)ある一つの文字を記憶に登録する処理は、他の文字が不可視になる一時的な期間を作 り出すのに十分なほど長時間、意識というリソースを独占するのである。すなわち、一時的に 意識を飽和させることで、イメージが不可視化される短い期間を作り出せる。

(4.5.6)「見えないゴリラ」非注意性盲目
参考:白シャツチームと黒シャツチームのバスケッ トボールの試合で、白シャツチームのパスの回数を数える課題を与えられたビデオ視聴者は、 30秒程度のこのビデオに登場するゴリラを検知できない。非注意性盲目という現象である。 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

(a)一方のチームは白いTシャツを、他方は黒いTシャツを着ている。
(b)視聴者は、白いTシャツを着ているチームがしたパスの回数を数えるよう指示される。 
(c)ビデオは30秒ほど続く。
(d)実験者は「ゴリラは見えましたか?」と訊く。
(e)実験結果:「もちろんそんなものは見ていない!」と視聴者は答える。
(f)実際のビデオの内容:ビデオをもう一度見せられると、確かにゴリラが登場することが わかる。途中で、着ぐるみのゴリラが現れ、あからさまに胸を何回か叩き、そして去っていく ところが映っているのだ。

(4.5.7)変化盲
参考:ある役者が、学生に方角を尋ねる。通りがか りの労働者によって会話が一時的に中断され、わずか2秒ほどの間に髪型も服装も異なる別の 役者に入れ替わるが、会話再開のとき学生はその事実に気づかない。変化盲という現象であ る。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
(a)ある役者が、通りかかった学生に方角を尋ねる。
(b)しかし、通りがかりの労働者によって、その会話は一時的に中断される。
(c)2秒後に会話が再開したときには、もとの役者は別の役者と入れ替わっている。
(d)二人の役者は髪型も服装も異なるにもかかわらず、ほとんどの学生は交替した事実に気 づかない。


(4.6)注意


(4.6.1)呼出 (alerting)

 いつ注意を向ければよいかを合図し、警戒レベルを調節する。


(a)不確実な世界では情報の価値は高く、好奇心は生と死を分けることもある。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

(b)好奇心のギャップ理論

 好奇心は、私たちの脳がすでに知っていることと、これから知りたくなること(潜在的な学習領域)とのギャップを検出したときに必ず生じる。私たちはいつ何どきでも、自分がとりうる様々な動作から、この知識のギャップを埋めて有益な情報が得られそうなものを選ぶ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))


(c)メタ認知

 メタ認知とは、認知についての認知、つまり心的過程を監視する、レベルがさらに上の認知装置の集合のことを言う。好奇心のギャップ理論によれ ば、 メタ認知装置は絶えず自分の学習を監督し、自分が知っていること、知らないこと、自分が間違っているかどうか、速いか遅いか、等々を評価する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))


(d)共同注意

 乳幼児はごく早い時期から顔を見つめ、とくに人の目に注意を向ける。相手が注意しているから注意し、相手が教えてくれるから学習する。人間は、社会的な合図によって、注意を共有する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))



(4.6.2)指向 (orienting)

 何に注意を向ければよいかを合図し、関心の向いた対象を増幅する。

(a)呼出と指向:膨大な感覚情報の飽和を解決するため、脳は情報を選択し、フィルタリングし、増幅し、指向した対象の処理を深くする。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

(b)注目されなかった対象は、ささやかな刺激しかもたらさず、学習をほとんど、あるいはまったく 誘発しない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))




(4.6.3)実行的注意 (executive attention)

  注目された情報をどう処理すればよいかを決め、与えられた課題に関連する処理を選び、実行を制御する。



(5)アクセス可能な前意識
(a)既にコード化が完了し、注意によってアク セスされれば意識化される「前意識」と呼ばれる無意識状態が存在する。前意識は、朽ちてい く前の短時間ならアクセス可能で、意識化されたとき、過去の事象を振り返って経験させる。 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
(b)意識は能力が限られているため、新たな項目にアクセスするには、それまでとらえてい た項目から撤退しなければならない。新たな項目は、前意識の状態に置かれ、アクセスは可能 であったが、実際にアクセスされていなかったものだ。また、どの対象にアクセスすべきかを 選択するのに、注意が意識への門戸として機能する。

(5.1)知覚のコード化は終わっている
 情報はすでに発火するニューロンの集合によってコード化され、注意の対象になりさえす ればいつでも意識され得るが、実際にはまだされていない状態にある。

(5.2)前意識(ジークムント・フロイト(1856-1939))
「プロセスのなかには、(......)意識されなくなっても、再度難なく意識できるものもあ る。(......)かくのごとく振る舞う、すなわち意識的な状態といとも簡単に交換可能な無意識的 状態はすべて、〈意識にのぼる能力を持つ〉と、もしくは〈前意識〉と記述すべきだろう」 

(5.3)アクセスされない知覚情報
(a)前意識の情報は、私たちがそれに注意を向けない限り、そこでゆっくりと朽ちてい く。
(b)慣れによって意識されない表象
 慣れによって、その印象に新鮮な魅力がなくなって、我々の注意力や記憶力を喚起する ほど十分強力ではなくなり、感覚されなくなることがある。(参考:我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その 諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)))

(5.4)遅れてアクセスされた知覚情報
(a)短期間なら、朽ちてゆく前意識の情報は、回復して意識にのぼらせることができる。 その場合、私たちは過去の事象を振り返って経験する。
(b)意識されない表象の記憶
 注意力が気づくことなく見過ごしていたある表象が、誰かが直ちにその表象について告 げ知らせ、例えば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、我々はそれを思い起こし、 まもなくそれについてある感覚を持っていたことに気づくことがある。(参考:我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その 諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))) 

5.5)現象的意識とアクセス意識
(5.5.1)現象的意識とアクセス意識(ネッド・ブロック(1942-))
(a)現象的意識
 経験に伴う感覚や感じである。
(b)アクセス意識
 意識の内容が思考や報告に利用可能な意識である。
(5.5.2)現象的意識とアクセス可能な前意識の概念的な違い
 理由は後述するが、結論を記載する。
(a)仮定された神経機構の状態の違いからの区別が、アクセス可能な前意識とアクセス中の表象としての意識である。(スタニスラス・ドゥアンヌ)
(b)意識の機能面からの区別が、現象的意識とアクセス意識であると思われる。(ネッド・ブロック)アクセス中の表象としての意識とアクセス意識とは概念的に重なるが、アクセス可能な前意識が完全に抑制されるのか、何らかの「感じ」を伴うのかに応じて、現象的意識であったり無意識であったりすると思われる。
(5.5.3)両眼視野闘争での例
(a)現象的意識
 両眼視野闘争では、闘争が停止している状態である。スタニスラス・ドゥアンヌ (1965-)の分類では、アクセス可能な前意識に区分される状態である。これは、経験に伴う感 覚や感じと言えるか。逆に、ここには何の経験もないと言えるか。視覚には何も映っていない 状態ではない。従って、現象的意識は「意識」される。
(b)アクセス意識
 両眼視野闘争では、イメージが絶えず交互に現われる状態である。これは、アクセス 中の意識であり、意識の内容が思考や報告に利用可能な意識である。
(5.5.4)注意の瞬きでの例
(a)現象的意識
 ただ単に受動的に目を向けていると、すべての数字や文字を「見ている」気がする。 これは、スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の分類では、アクセス可能な前意識に区分される 状態であるが、確かに何かが経験されている。現象的意識は「意識」される。
(b)アクセス意識
 注意の瞬きが生じている状態である。
(5.5.5)視野の周辺部での例
(a)現象的意識
 視野の周辺部の違いは、現象としての意識には、なんとも言語にしがたい、微妙な違いが意識にのぼる感じが する。これが、現象的意識である。
(b)アクセス意識
 特に複雑な内容の自然画像では、直接に焦点を当てて見ている部位以外では異なる画 像も、同じクオリアを起こす。この同じクオリアが、アクセス可能な意識である。アクセス可 能な意識は、言語的に報告でき、記憶に保持でき、そのため後の意識的な行動計画に直接影響 を及ぼすような意識の側面を指す。(出典:クオリア(脳科学事典))

(c)視野の周辺部の状態が現象的意識か?
 (i)ある対象に焦点を当てているとき、この焦点の近傍がアクセス意識で、周辺部が 現象的意識というわけではない。ある対象に焦点を当てているとき、周辺部も含めて、このす べてがアクセス意識である。
 (ii)一方、注意を欠いて、ぼんやり何気なく景色を眼に映しているような状態のとき にも、視覚が消え去るということはない。むしろ普段気が付かなかった景色や音が、体に浸み 込んでくるような感覚を味わうことがある。これは、アクセス可能な前意識が、現象している ように思われる。
 (iii)視覚において、焦点が存在する場合の周辺部は、アクセス可能な前意識に少な くとも似ているものなのではないか。実験的な状況においては、焦点化された意識が、他のア クセス可能な前意識を完全に抑制してしまうが、本来、前意識も同時に現象しているのではないかと 思われる。





(6)アクセス中の表象としての意識
ある項目が意識にのぼり、心がそれを利用できるようになる。私たちは基本的に、特定の一 時点をとりあげれば、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。それらは、言語シス テムや、その他の記憶、注意、意図、計画に関するプロセスの対象として利用可能になる。そ して、私たちの行動を導く。

(6.1)意識の劇場(イポリット・テーヌ(1828-1893))
人間の心は、フットライトのある先端では 狭く、背景に退くに従って広くなる舞台に譬えられる。先端では、たった一人の演者が占める 余地しかない。背後に控える演者は姿がぼやけ、舞台裏や脇には見えない無数の演者が控えて いる。(イポリット・テーヌ(1828-1893))

 (6.2)グローバル・ワークスペース理論(バーナード・バース(1946-))

(6.2.2)意識されている情報
引き起こされた活動が伝播し、最終的にはグローバル・ワークスペースを点火する。こ のとき、その情報は、意識化される。

(6.2.3)意識されない情報、抑制機能
その情報は、グローバル・ワークスペースを点火しない。
(a)ワークスペースのニューロンには、現在の意識の内容を限定し、それが何では「な い」かも知らせるために、強制的に沈黙させねばならないものもある。
(b)活動を抑制されたニューロンの存在は、二つの物体を同時に見たり、努力を要する 二つの課題を一度に遂行したりすることを妨げる。
(c)二番目の刺激が入ってこないよう、周囲に抑制の壁が築かれる。
(d)ワークスペースは、低次の感覚野の活性化を排除するわけではない。低次の感覚野 は、ワークスペースが最初の刺激によって占められている場合でも、明らかにほぼ通常のレベ ルで機能する。

(6.2.4)情報の広域化、利用可能化
(a)ここに保管されている情報は、様々な脳領域において利用可能な状態となってい る。
(b)すなわち、意識とは、脳全体の情報共有にほかならない。

(6.2.5)グローバル・ワークスペースの機能
ワークスペースのニューロンは、同一の心 的表象の異なる側面をコード化する広域のプロセッサーと情報交換をし合い、大規模な並行処 理を実行し、やがて一貫性を持ったトップダウンの同期処理が完了する。(スタニスラ ス・ドゥアンヌ(1965-))

(a)数百ミリ秒間の活性化
意識的な状態は、ワークスペースのニューロンの一部が、数百ミリ秒間安定して活性 化されることでコード化される。
(b)広域領域との情報交換
ワークスペースのニューロンは、その長い軸索を利用して情報を交換し合い、一貫し た解釈を得るべく同期しながら大規模な並行処理を実行する。
(c)トップダウンの同期処理
それらが一つに収斂するとき、意識的知覚は完成する。その際、意識の内容をコード 化する細胞集成体は脳全体に広がり、個々の脳領域によって抽出される情報の断片は、全体と して一貫性を保つ。というのも、関連するすべてのニューロン間で、長距離の軸索を介して トップダウンに同期が保たれるからだ。
(d)同一の心的表象の異なる側面
多くの脳領域に分散するこれらニューロンはすべて、同一の心的表象の異なる側面を コード化すると考えられる。グローバル・ワークスペースと相互作用する様々な特化した心の プロセッサの例
(i)知覚
(ii)記憶
(iii)言語

(6.2.6)グローバル・ワークスペースの機能のモデル例
(a)各ニューロンは限られた刺激に特化している
各ニューロンはごく限られた範囲の刺激に特化している。例として、視覚皮質だけを 取り上げても、顔、手、物体、遠近、形状、直線、曲線、色、奥行きなどに対応するさまざま なニューロンを見出せる。
(例)
ニューロン
顔、手、物体、遠近、形状、直線、曲線、色、奥行き:Ni (i=1,2,3...n)
ニューロン Ni が表現する特徴のコード
fij (j=1,2,3...ni)
ニューロン Ni が表現する知覚対象xの特徴のコード
Ni(x)=fik
(b)ニューロンが集まると、思考の無数のレパートリーを表現できる。
fij (i=1,2,3...n, j=1,2,3...ni)
全ての特徴の組合せの数は、
n1×n2×n3×...×nn
(c)発火していないニューロンの情報
この種のコード化の様式では、発火していないニューロンも情報のコード化に関わっ ている点を理解しておく必要がある。沈黙によって、対応する特徴が見当たらない、もしくは 現在の心的状態には無関係であることを他のニューロンに暗黙的に伝える。
(d)知覚対象の表現
いかなる瞬間にも、この巨大な可能性のなかから、たった一つの思考の対象が、意識 の焦点として選択される。その際、関連するすべてのニューロンは、前頭前皮質にある一部の ニューロンの支援を受け、部分的に同期しながら活性化する。
(例)イメージを理解するための例
前頭前皮質にある一部のニューロン「対象 x は、246936117 だ!」
N1(x)=f12
N2(x)=f24
N3(x)=f36
N4(x)=f49
N5(x)=f53
N6(x)=f64
N7(x)=f71
N8(x)=f81
N9(x)=f97

┌──グローバルWS─┐
│意識が生まれる  │
│情報の広域化、  │
│ 利用可能化    │
│「対象 x は、   │    並行して
│246936117 だ!   │    機能する
│         │    無意識機能
│ニューロン1─N1──────────機能1(特徴f1 2)
│ニューロン2─N2──────────機能2(特徴f2 4)
│ニューロン3─N3──────────機能3(特徴f3 5)
│ニューロン4─N4──────────機能4(特徴f4 6)
│ニューロン5─N5──────────機能5(特徴f5 3)
│ニューロン6─N6──────────機能6(特徴f6 6)
│ニューロン7─N7──────────機能7(特徴f7 1)
│ニューロン8─N8──────────機能8(特徴f8 1)
│ニューロン9─N9──────────機能9(特徴f9 7)
│                      │
│                      │
└──────────────┘


(6.3)被験者が意識的な知覚表象を経験したか否かを示す生理学的な標識
参考:意識的な知覚表象の生理学的な標識:(a)頭頂葉 および前頭前野の神経回路の突然の発火(意識のなだれ)(b)刺激から3分の1秒後に発生するP3 波(c)高周波振動の突発(d)多数の皮質領域間の双方向メッセージ交換(スタニスラス・ ドゥアンヌ(1965-))
(6.3.1)頭頂葉、および前頭前野の神経回路の突然の発火(意識のなだれ)
 (a)意識される刺激は、頭頂葉、および前頭前野の神経回路の突然の発火に至る激しい ニューロンの活動を引き起こす。
 (b)参考:無意識の機能
  (i)脳の後部に位置するシステム
   無意識的トライアルでは、活動の波は脳の後部に位置するシステムに限定され、それ ゆえ意識はそれに触れられず、そこで起こっている事象にまったく気づかない。
  (ii)左側頭葉での単語の意味の無意識の解釈
   無意識の活動の波はおよそ500ミリ秒間、左側頭葉内部の、単語の意味に関連する領 域で反響し続ける。
(6.3.2)刺激から3分の1秒後に発生するP3波
 (a)P3波の特徴
  (i)コンシャスアクセスは、刺激が与えられてから3分の1秒が経過してから生じる、P3 波と呼ばれる遅い脳波を伴う。
  (ii)これは、270ミリ秒付近で始まり、350~500ミリ秒のどこかの時点でピークに達 する。
  (iii)これは、刺激入力後3番目の大きな陽性ピークなので、P3波と呼ばれる。
 (b)P3波の検出方法
  これは、頭頂部に取りつけた電極によって容易に検出できる。
 (c)P3波に対応する意識
  コンシャスアクセスはプッシュ&プルシステムとして機能する。脳は、先行する文字列 によって長時間占有されると(これは長いP3波によって示される)、次の表示されるターゲッ トワードに対して、同時に注意を向けられなくなる。
(6.3.3)高周波振動の突発
 (a)意識の点火はさらに、高周波振動の遅れての突発を引き起こす。
(6.3.4)多数の皮質領域間の双方向メッセージ交換
 (a)互いに遠く隔たった多数の皮質領域が、双方向の同期したメッセージ交換に参加し、 広域的な脳のウェブを形成する。

視覚皮質

├→無意識の過程(脳の後部に位置する)

├→単語の意味の無意識の解釈(左側頭葉)
│ 継続:500ms

└→頭頂葉、前頭前野の突然の発火(意識のなだれ)

P3波(意識のプッシュ&プルシステム)
↓ 開始:270ms, ピーク:350~500ms
高周波振動の突発

多数の皮質領域間の双方向メッセージ交換


(7)意識化がもたらしたこと

 ニューラルネットワークの中に暗号のようにコード化された暗黙の知識は、意識化され理解されて、最小限の語数の言葉で表現されることで、他者に対して伝達可能となり、他者と共有される。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 人類の社会的コミュニケーションと教育への依存は、恵みである反面、呪いでもある。宗教的神話やフェイクニュースが人間社会にあっさり広まるのも、教育のせいなのだ。太古の時代から、私たちの脳は、語られる話を、それが嘘でも本当でも、忠実に吸収する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

()数学的直感の源泉

 たとえ数学が形式的な記号操作を基礎としていても、またあたかも抽象的な世界の実在物に思えたとしても、それは、私たちが世界を捉える生得的な直感を基盤に持つ。乳児は物体を個別化し、小さな集合から数を抽象する。幼児は、数の推定、比較、数えること、単純な加減算を、明確な指示なく行う。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

()数学の進化

直感の生得的カテゴリーを基礎に、 数学者はどうやってさらに抽象的な記号の構築を洗練させていけるかが問題である。自由な構築と選択の試行錯誤が、その答えである。論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

()数学の有効性の奇跡

人間の作った数学が、何故この宇宙を有効に記述可能なのかという、数学の有効性の奇蹟という問題がある。宇宙の構成原理そのものが数字的なものだとは思えないが、数学を支える脳の組織化原理が、宇宙の構造に合致するよう選択されてきたのではないだろうか。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))



 

160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々のシナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。

 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。

 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。

 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,7 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋())

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