2022年2月25日金曜日

26.民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴動の制度化、忌まわしい鏡

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)民主主義的アテネ
 決定的な公的行事とは広場での集会だった。アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた。
(b)権威主義的ローマ 
 (i)決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった。
 (ii)剣闘士競技に関して魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。そこでは、民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義、英雄崇拝、気ちがいじみた情熱。
 (iii)それはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるなら、どのような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。



「暴動の制度化というこの現象が、実際にどの程度国家によって奨励されていたのかという のは、歴史的検討に値する問題だ。もちろん、ここで私が想定しているのは文字通りの暴動で はなく、「忌まわしい鏡」と呼ぶことができそうな何か――つまり、民衆的な意思決定とは暴力 的で混沌としていて恣意的な「暴徒支配」にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化す べくエリート層によって促進され支持された、諸々の制度のことである。こうした制度は権威 主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと、私は思っている。例えば、民主主 義的アテネにおける決定的な公的行事とは広場での集会だったのに対して、権威主義的ローマ における決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処 刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった (Veyne 1976; Kyle 1998; Lomar & Cornelle 2003)。とりわけ剣闘士競技に関して 魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。けれども、アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた――基底をな すのは強制力の原理であり、それが時として恐ろしくも血まみれの決定を可能にしていたとい うことはあるにしても――のに対して、ローマのサーカスはほとんど正反対の機能を果たしてい た。サーカスはアゴラには似ても似つかず、むしろ正規化され国家により主催されたリンチの ようなものだったのだ。民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが――気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義(競いあう戦 車チームを応援する人びとが路上で乱闘するのは日常茶飯事だった)、英雄崇拝、気ちがいじ みた情熱――、ローマの円形闘技場では単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。そ れはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるならど のような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.50-51,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






25.人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

多数派民主主義とコンセンサスによる意思決定

人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)多数派の決定を強制する手段が存在しない社会
 (a)コンセンサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。
 (b)平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。

(2)強制力を備えた機関が存在する社会
 強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかった。
(3)多数派民主主義の発生条件
 人類の歴史の大部分において、以下の両条件が同時に満たされることは極めて稀であった。
 (a) 人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在する。
 (b)決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在する。
(4)コンセンサスによる意思決定のために
 (a)採決は屈辱、恨み、憎しみを残す
  採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。
 (b)コンセンサスによる意思決定
  (i)コンセンサスによる意思決定とは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。
  (ii)重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて、立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  


「私としては、次のような説明を提案したいと思う。対面関係から成り立っているコミュニ ティにおいては、構成員の大部分が望んでいるのは何かを突き止めることのほうが、それを望 まない少数者の心を変えるにはどうしたらいいかを考えることよりもずっと簡単なのだ。コン センサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。強制力を独占する国家が存在しない場合で あれ、国家が局所的になされる意思決定に無関心であるか介入傾向を持たない場合であれ。多 数派の決定を快く思わない人びとを当の決定に従うよう強制する手段が存在しないのであれ ば、採決を取るというのは最悪の選択だ。採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確 実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。現代的な直接行動グループをやっていくためのファシリテーション・トレーニングを受け たことのある活動家であれば誰でも心得ているはずのことだけれど、コンセンサス・プロセス は議会での討論と同じものではなく、コンセンサスを見出すのは投票による採決とはまったく 別のなにかだ。反対に、そこにあるのは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。それはつま り、私たちが普通行っている二つの水準――意思決定とその実施――の区別が、ここではなし崩し になっているということだ。もちろん、誰もが同意しなければならない、ということではな い。コンセンサスの諸形態のほとんどにおいては、程度を異にする不合意の多様な形態が認め られる。重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  言ってみれば、多数派民主主義が発生するのは以下の二つの条件が同時に満たされた場合の みなのだ。  一、人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚の存在、そして  二、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置の存在。  人類の歴史の大部分において、両者が同時に満たされることは極めて稀であった。平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。反対に、強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかったの だ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.45-47,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






24.民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

民主化運動弾圧の標準的な戦術

民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 (a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝
 まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で、(少なくとも 潜在的には) 暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。
 (b)中産階級の支持者を分断
 次に、中産階級の支持者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる。
 (c)治安紊乱を意図的につくりあげる
 本当に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる。周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである。



「1999年、2000年そして01年のグローバル・ジャスティス運動を抑え込むためのさまざま な試みは明らかに組織的なものであり、01年9月11日以降、アメリカ政府は社会秩序への脅威 とみなすものすべてに統一的に対応するという明確な目的のもと、新たなセキュリティ官僚制 度を幾層にも構築したのだ。これらの諸機関を運用する者が、大規模かつ急速に拡大する潜在 的に革命的な全国規模の運動に何の関心も示さずただ傍観したままだとしたら、かれらは何ら 職務を遂行していないということになる。  かれらはどのように事をすすめたのか。たしかにこれもわからないし、おそらく今後もずっ とわからないだろう。60年代の公民権運動、平和運動を転覆しようとしたFBIの役割が正確に わかるまでには数十年かかった。それでもやはり、起こるべくして起こったことの大枠を掴む のは特に難しいことではない。実際には民主化運動を弾圧しようと試みる政府のほとんどが採 用している標準的な戦術があり、今回もほぼ定石通りに行われたのは明らかだ。その脚本はこ のように展開する。まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で(少なくとも 潜在的には)暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。次に、中産階級の支持 者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる、あるいは本当 に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる(周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである)。このように攻撃されるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.160-161,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






23.2つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

不平等を支える構造的暴力

二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「ここでぜひとも重要な条件をひとつ導入する必要がある。ここではすべてが諸力の均衡に かかっているということだ。二者が相対的に平等である暴力の競合に関与している場合――たと えば、対立する軍隊を率いる将軍のような――、かれらがたがいの頭の中身を調べようと努力す るのは当然である。そうする必要がもはやなくなるとしたら、それは、一方の側が物理的危害 を与える能力において圧倒的に有利であるときのみである。しかしこれは、きわめて深遠なる 効果をもたらす。というのも、それが意味しているのは、暴力のもっとも固有の効果、すなわ ち、「解釈労働」の必要を除去する力能がもっとも顕著なものになるのは、暴力それ自体が もっともみえにくいようなとき、めざましい物理的暴力行為の起きる可能性としてはもっとも 低いときであるということである。わたしが先に、実力の脅威によって究極的に支えられた体 系的不平等の状況、として規定した「構造的暴力」とは、まさにこうした事態である。このた めに、構造的暴力の状況は、例外なく、きわだって不均衡な、想像力による同一化の構造を生 み出してしまうのである。  これらの効果は、不平等の構造がきわだって深く内面化された形態をとる場合、しばしば もっとも可視となるのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.97-98,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]






デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







22.物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

予測可能な結果を得る手段としての暴力

物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「なるほど、だれかに障害を加えたり、だれかを殺害したりすることによって与えることの できる効果は、きわめて限定されている。しかし、それらは十分に現実的である。そして、決 定的なことには、その効果がどのようなものであるのかが前もって正確に予測可能なのであ る。それ以外のいかなる行為の形態も、共有された意味や了解に訴えることなしには、いかな る予測可能な効果もいっさいうることはできない。さらにいえば、暴力の脅威で他者に影響を 与えようとする試みが、あるレベルの共有された了解を必要とするにしても、それはまったく 最小限のものである。ほとんどの人間の関係は――それが長期の友人のあいだであろうと敵同士 のあいだであろうと、とりわけ継続中のそれは――、とんでもなく複雑なものであり、歴史と意 味を濃密にはらんでいるものである。それを維持するには、想像力とか世界を他者の観点から みる終わりのない努力といった、恒常的でたいてい繊細な作業を必要とする。先に「解釈労 働」として述べたものはこれである。物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、こうし たすべてを省略することを可能にする。それははるかに単純で図式的であるような関係を可能 にするのである(「この線をふみ超えたら撃つぞ」とか「もう一言でもいってみろ、刑務所に ぶちこむぞ」とか)。もちろん、このために、暴力はひんぱんに愚か者に好まれる武器となる のである。暴力は愚か者の切り札であるとすらいえるかもしれない。というのも(そしてこれ は人間存在の悲劇のひとつであることはたしかだが)、それが知的な対応のもっとも困難であ る愚かさの一形態だからである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.96-97,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







21.暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴力行為の特徴付け

暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

(a)暴力行為の特徴付け
 暴力は、自分が何も理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたらすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である。
(b)解釈労働の必要性
 他者の行為に影響を及ぼそうとする暴力以外の方法の大部分では、他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしているのか、この状況から彼らはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なくとも、何がしかの考えをもつ必要がある。



「これらのポイントをひとつずつとりあげてみよう。暴力行為が一般的にいってコミュニ ケーション行為でもある、ということは、正しいのだろうか? 正しいのは、まちがいない。 しかし、このことは、人間の行為ならば、いかなる形態にもおおよそあてはまる。暴力につい て本当に重要なことは、おそらく、コミュニカティヴであること《なしに》社会的諸効果をも たらす可能性を提供することのできる、ただひとつの人間の行為の形態である、という点にあ るように、わたしにはおもわれる。より正確にいえば、暴力は、じぶんがなにも理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたあすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である、ということだ。他者の行為に影響を及ぼそうとするそれ以 外の方法の大部分では、その他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしている のか、この状況からかれらはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なく とも、なにがしかの考えをもつ必要がある。ところが、かれらの頭を殴り飛ばしてみよう、こ うしたすべてが不要になる。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.95-96,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







20.企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

レント取得、ブルシットジョブの増殖

企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)金融化とレント取得
 金融化の過程とは、企業による利潤のうちのますます大きな割合が、あれやこれやのレント取得という形をとるということである。
(b)強制力に担保された規則や規制の増殖
 規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはや私たちは自分が脅威にさらされていると認めないほどである。
(c)レント取得による利潤の還流とブルシットジョブの増殖
 同時に、レント取得による利潤のいくぶんかはリサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入されている。ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事、戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」が、これらの職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖し続けている。



「現代にふさわしい官僚制の批判は、これらのより糸――金融化、暴力、テクノロジー、公的 なものと私的なものの融合――が、いかにたがいに織り合わされ、独立した単一の網の目を形成 しているのかを示さなければならないだろう。金融化の過程とは、企業による利潤のうちのま すます大きな割合が、あれやこれやのレント取得というかたちをとるということである。つき つめるなら、これはさしずめ合法化されたユスリといったところである。それゆえ、それにあ いともなって、規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはやわたし たちはじぶんが脅威にさらされていると認めないほどである。そうではない世界がどのような ものか、想像すらできないからである。それと同時に、レント取得による利潤のいくぶんかは リサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入され ている。わたしがべつのところで述べた現象を促進している要因は、これである。すなわち、 ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事――戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資 源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」――が、これら の職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖しつづけているという現象である。結局、これは1970年代、80年代に、企 業官僚制が金融システムの拡大に呑み込まれるにつれてはじまった階級的再結合の基本的論理 の延長にほかならない。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,p.59,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳)) 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







2022年2月24日木曜日

19.この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合理的・技術的手段と目的、価値

この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)不合理な目的と合理的・技術的手段との分裂
 公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率的手段を見出すことのできる自らの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。
(b)何らかの実現手段と、別の自由な目的
 人間は、豊かになるため市場に足を向け、そのための最も効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、それを使って何をしようがかまわないとも想定されている。
(c)自由な目的と、その実現手段
 ほとんどの時代や地域で、人の振る舞う方法は、その人の本質の根本的表現であると見做されている。すなわち、目的があって、それを実現するための手段と行為がある。
(d)何らかの実現手段が価値を主張する
 二つの領域、すなわち技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他方の領域に侵入を試み始めるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値である、それらは究極の価値ですらある、我々は「合理的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間が現れるのだ。
(e)実現手段から切り離された目的
 その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間も現れる。しかし、こうした運動はすべて、自らが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのである。



「この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配のもっとも深遠なる遺産とは、合理 的・技術的手段とそれが奉仕する根本的には不合理な目的のあいだの直感的分裂を、あたかも 常識であるかのようにみせかけてきたことにある。

まず国家レベルでこのことはいえる。そこ で公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率 的手段をみいだすことのできるみずからの能力に、誇りをおぼえている。

その目標が、文化的 繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。

それとおなじことが個 人レベルでもあてはまる。そこでは、人間は、豊かになるため市場に足をむけ、そのための もっとも効率的な計算をすると想定されている。

だが、いったん貨幣を手にしたら、マンショ ンを買おうが、レースカーを買おうが、消えたUFOの探索費用にあてようが、あるいは、子ど もに気前よくばらまこうが、それを使ってなにをしようがかまわないとも想定されている。

こ うしたことはあまりに自明視されているので、これまで歴史的に存在してきたほとんどの人間 社会では、そうした分裂が考えられもしなかったことなど、想起するのもむずかしい。

ほとん どの時代や地域で、ひとのふるまう方法[ひとのとる手段]は、そのひとの本質[目的]の根 本的表現であるとみなされているのである。

しかし、このように二つの領域――技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域――に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他 方の領域に侵入を試みはじめるかのようにみえる。

合理性ないし効率性はそれ自体価値であ る、それらは究極の価値ですらある、われわれは(それがなにを意味していようと)「合理 的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間があらわれるのだ。

その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間もあらわれる。

しかし、こうした運 動はすべて、みずからが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのであ る。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.54-56,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






18.個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

規則に縛られた組織と個人の自由

個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)諸個人の自由と規則に縛られた組織との関係についての楽観的な見方
 19世紀、官僚制国家の権威主義的手段は、個人の財産の保護と個人の自由のために正当化された。官僚制的資本主義がアメリカ合衆国に現れたとき、同じように消費主義的基礎に基づいて正当化された。非人格的で規則に縛られた組織と、絶対的に自由な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた。
(b)消費を介した個人の自由な自己実現
 市場と官僚制が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。
(c)目的と目標の隠蔽手段としての合理性
 合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際には何のためのものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と、想定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。


「いいかえれば、合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際にはなんのための ものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と想 定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。

市場と官僚制 が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自 由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。

ヘーゲルやゲーテのような 19世紀プロシアの官僚制国家の支持者にとって、その権威主義的手段が正当化されうるのは、 みずからの財産が絶対的に保護されていること、それゆえみずからの住居ではなんでも意のま まに自由にできることが市民に許容されているがゆえであった。

意のままに自由にできるとい うことの意味するところが、芸術、宗教、情事、哲学的思弁などを追求することであろうが、 あるいはたんに、どのビールを飲むか、どんな音楽を聴くか、どんな服装を着るかをじぶんで 決定することであろうと。

官僚制的資本主義がアメリカ合衆国にあらわれたとき、おなじよう に消費主義的基礎にもとづいて正当化された。労働者だって、もっと種類があって、もっと安 価に家庭むけ商品が買えるのなら、労働条件の(労働者自身による)統制を放棄して当然だろ う、と、このように要求を正当化できるのである。

非人格的で規則に縛られた組織――公的領域 であろうと生産領域であろうと――と、クラブやカフェ、台所、家族旅行における絶対的に自由 な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた(最初はもちろんこの自由 は世帯の家父長に限定されていたが、しだいに、少なくとも原則的には万人に拡がった)。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.53-54,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






17.政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

効率性や合理性、技術的有効性とは

政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「グローバル・ジャスティス運動が教えてくれるひとつのことがらは、政治は究極的には価 値にかかわるものであること、とはいえ、巨大な官僚制システムを構成する人びとがその価値 が本当にはなんなのかを認めることはほとんどない、ということである。

このことは、現代の カーネギーたちにもあてはまる。ふつう、かれらは――20世紀の変わり目の泥棒男爵とおなじよ うに――、みずからの行動を効率性や「合理性」のもとに正当化するだろう。しかし、実際に は、こうした言葉はつねに、故意にあいまいにされている、あるいは無意味なものにされてい ることがわかる。

「合理的」人間とは、基本的な論理の結合をなすことができ、現実を錯乱し ていない仕方で評価できるような人間を指す。いいかえれば、イカれていない人間のことであ る。みずからの政治を合理性に基礎づけると宣言する者は、みな――そしてこれは右翼にも左翼 にもあてはまるのだが――じぶんに同意しない人間は正気ではないと宣言しているのであり、こ れはひとが取りうるもっとも傲慢なポジションである。

さもなくば、かられは、「合理性」を 「技術的有効性」とおなじ意味で用いることで、じぶんたちが《いかにして》物事に取り組ん でいるのかのみを語る。というのも、じぶんたちが究極的に取り組んでいるのは《なにか》に ついて語ることを望まないからである。

このようなやり口にかけて、新古典派経済学は悪名高 い。

国政選挙に投票するのは「不合理」である(個人の投票者が見込みうる利益よりも、その 努力の方が高くつくがゆえに)と、経済学者が証明しようと試みるとき、かららがこのような 物言いをするのは、「市民的参加や政治的理念、共通善それ自体には価値をおかない者、か つ、公共の事業を個人的利得の観点からしか考えない者にとってのみ不合理である」とはいい たくないためである。

投票を通してみずからの政治的理想を促進させるべく最良の方法を合理 的に計算する、といったことが不可能である、とみなす理由はまったく存在しない。

しかし、 くだんの経済学者たちの想定によるならば、このような道筋をとる者はだれしもイカれている ということになるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.52-53,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






16. 「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙う、グローバルな行政機構の形成のことであり、「グローバリゼーション」の本当の意味は官僚制化である。このシステムの諸基礎は1940年代に構築され、冷戦の衰退とともに真に実効的となった。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

自由貿易、自由市場とは何か

 「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙う、グローバルな行政機構の形成のことであり、「グローバリゼーション」の本当の意味は官僚制化である。このシステムの諸基礎は1940年代に構築され、冷戦の衰退とともに真に実効的となった。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 
(a)国際機関、官僚組織
 頂点には、NAFTAのような条約機構やEUとともに、 IMF、世界銀行、WTO、そしてG8諸国のような貿易にかかわる官僚組織がある。グローバルサウスのいわゆる民主的な政府も従っている経済政策、社会政策を展開させているのは、これらの組織である。
(b)金融会社
 トップのすぐ下には、ゴールドマン・サックス、リーマンブラ ザース、アメリカ保険グループのようなグローバルに展開する大規模金融会社、それに加え て、スタンダード&プアーズのような諸組織がある。
(c)超国家的巨大企業
 その下には、超国家的巨大企業がやってくる。「国際貿易」と呼ばれるものの多くが、実際には、同じ企業のさまざまな部門のあい だの、物資のやりとりを意味している。
(d)NGO
 最後に、NGOがあって、世界のさまざまな場所で、 かつては政府によっていた社会的サーヴィスの多くを担うようになった。その結果、ネパール にある市街の都市計画とかナイジェリアのある小さな町の保健政策が、チューリッヒやシカゴ の事務所で練られることになるわけである。


「グローバリゼーションとは、新テクノロジーによって拓かれた平和的貿易という自然のプ ロセスではない。

「自由貿易」とか「自由市場」といった用語でもって語られてきたものの内 実は、地球規模の行政官僚システムの世界初の実質的な完成であり、それも自覚的にもくろま れたくわだてであった。

このシステムの諸基礎が構築されたのは1940年代であるが、真に実効 的となったのは冷戦の衰退とともにはじめてである。

この過程のなかで、それらはしばしば概 念上においてすらまったく区別できない、公的要素と私的要素の徹底した絡み合いからなるよ うになった。同時期に形成された、それ以外のほとんどのより小規模の官僚制システムも同様 であった。

次のように考えてみよう。頂点には、NAFTAのような条約機構やEUとともに、 IMF、世界銀行、WTO、そしてG8諸国のような貿易にかかわる官僚組織がある。グローバルサ ウスのいわゆる民主的な政府もしたがっている経済政策――社会政策すらも――を展開させている のは、これらの組織である。

トップのすぐ下には、ゴールドマン・サックス、リーマンブラ ザース、アメリカ保険グループのようなグローバルに展開する大規模金融会社、それに加え て、スタンダード&プアーズのような諸組織がある。

その下には、超国家的巨大企業がやって くる(「国際貿易」と呼ばれるものの多くが、実際には、おなじ企業のさまざまな部門のあい だの、物資のやりとりを意味している)。

最後に、NGOがあって、世界のさまざまな場所で、 かつては政府によっていた社会的サーヴィスの多くを担うようになった。その結果、ネパール にある市街の都市計画とかナイジェリアのある小さな町の保健政策が、チューリッヒやシカゴ の事務所で練られることになるわけである。  

当時、わたしたちは、事態について、まったくこうした観点から把握してはいなかった。

つ まり、「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙 うグローバルな行政機構の形成のことである、とか、「グローバリゼーション」の本当の意味 は官僚制化である、という観点である。

ときに、その地点にまで接近はした。しかし、それを 明確に理解し、表現することはめったになかったのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.41-42,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








15.投資家の利潤取得を保障するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体を形成してゆく。その際、規制緩和とラベリングされるが、それは官僚制の縮小でも、個人の創意工夫の解放でもなく、自らに都合の良い規制に公的権力を改変できる「緩和」である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

全面的官僚制化、略奪的官僚制化

投資家の利潤取得を保障するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体を形成してゆく。その際、規制緩和とラベリングされるが、それは官僚制の縮小でも、個人の創意工夫の解放でもなく、自らに都合の良い規制に公的権力を改変できる「緩和」である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)全面的官僚制化(total bureaucratization)もしくは略奪的官僚制化 (predatory bureaucratization)
 利潤の形態で富を取得するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体に形成してゆく過程である。
(b)規則と規制の網、法律家
 その結果、処理すべき書類、仕上げるべき報告書、解釈に法律家を必要とする規則や規制、そして、あれこれは認められないことの理由の説明がその仕事のすべてであるかのような、オフィスの何にでも口を出す人々の実数 が5倍以上上昇した。

(c)規制緩和という言葉のほんとうの意味
 規制緩和という用語は、ほとんど何でも意味することができる。新しい規制手段に「規制緩和」とラベリング することで、あたかもそれが官僚制を縮小させ、個人の創意工夫を解放するものであるかのよ うに、世論にみせかけることができるのだ。
(d)規制緩和の例、航空業や遠距離通信業
 1970年代や 80年代における航空業や遠距離通信業の場合、二、三の大企業に保護を与える規制のシステム から、中規模企業のあいだの厳しく監督された競争を促進させるような規制のシステムへと転 換させることを意味していた。
(e)規制緩和の例、銀行業
 銀行業の場合、「規制緩和」はふつう、その正反対を意味して いる。すなわち、中規模企業のあいだの管理された競争という状況から、少数の金融コングロマ リットが完全に市場を支配することができるような状況への移行である。




「「規制緩和」が人の口にのぼるとき、それはいったいなにを指しているのだろうか? 

一般的用法では、この言葉は「オレ好みに規制の構造を変える」ということを意味しているよう にみえる。実際のはなし、この言葉はほとんどなんでも意味することができる。

1970年代や 80年代における航空業や遠距離通信業の場合、二、三の大企業に保護を与える規制のシステム から、中規模企業のあいだの厳しく監督された競争を促進させるような規制のシステムへと転 換させることを意味していた。

銀行業の場合、「規制緩和」はふつう、その正反対を意味して いる。すなわち、中規模企業のあいだの管理された競争という状況から少数の金融コングロマ リットが完全に市場を支配することができるような状況への移行である。

規制緩和という用語 を好都合なものにしているのはこれである。あたらしい規制手段に「規制緩和」とラベリング することで、あたかもそれが官僚制を縮小させ、個人の創意工夫を解放するものであるかのよ うに、世論にみせかけることができるのだ。

たとえその結果、処理すべき書類、仕上げるべき 報告書、解釈に法律家を必要とする規則や規制、そして、あれこれは認められないことの理由 の説明がその仕事のすべてであるかのような、オフィスのなんにでも口を出すひとびとの実数 が5倍以上上昇したとしても、である。  

この過程には、いまだ名前が与えられていない。公的権力と私的権力とが徐々に融合して単 一の統一体――その究極の目的を利潤の形態で富を取得することにおく規則と規制でいっぱいの ――を形成する過程である。

この名前を与えられていないということそれ自体が重大である。上 記のような諸事態が生じるのも、その大部分が、わたしたちがそれをどう語るか、その方法を いまだもたないがゆえである。

ところが、その帰結については、生活のあらゆる側面におい て、わたしたちは眼にすることができる。わたしたちの日常を、ペーパーワークでいっぱいに してくれているのだ。申請用紙はますます長大かつ複雑なものと化している。申請書、切符、 スポーツクラブや読書クラブの会員証のような日常的書類も、数頁にわたる細目の規定でパン パンになっている。  

それでは名称を与えてみよう。わたしは、このような様相を呈している現代を、「全面的官 僚制化(total bureaucratization)」の時代と呼んでみたい(「略奪的官僚制化 (predatory bureaucratization)」と呼んでみたい誘惑にもかられたが、ここでわたし が強調したいのはこの野獣のもつ、すべてを包摂してしまうような性格である)。

その最初の 徴候は、まさに官僚制についての公共の議論が消えはじめた1970年代の終わりにあらわれはじ め、1980年代に取り返しがたく浸透をはじめた。だが本当の離陸は、1990年代である。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.23-25,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月21日月曜日

14.富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))

与えることが最高の価値である社会

富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))
















「モースは、自らの実践的結論がどのようなものなのかについて、決して完全な確信に達す ることがなかった。 

ロシアの経験から彼が理解したのは、近代社会において――少なくとも「予 見可能な未来においては」――売り買いをきれいさっぱり廃止してしまうことはできないという こと、しかし市場倫理の廃絶ならできる、ということだ。

労働を協同のかたちで行い、実効的 な社会保障を確立し、そうして徐々に、新しい倫理を生み出していくことができるだろう。新 しい倫理とはすなわち、富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができ る場合にのみ、弁明可能になるというものだ。

結果として生まれる社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を 歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。  

こうした主張のなかには、今日の観点からは恐ろしく素朴に見えるものもあるかもしれな い。けれどもモースの洞察の核をなす部分は、75年前よりも今日――経済学が「科学」を自称し つつ、事実上、現代社会の啓示宗教となってしまった今日――においてこそ、いっそう有効なも のになっている。ともかく、MAUSSの創始者たちにはそのように思われたのだった。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.150-151,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






13.人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではなく、また、かつて物々交換経済のみが存在したというのは事実ではない。ほとんどの事物が贈り物として行き来し、人々が純粋な気前の良さを誇示し、最も多く与え手放すことを価値とするような社会も存在する。(マルセル・モース(1872-1950))

経済学の仮説は自明ではない

人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではなく、また、かつて物々交換経済のみが存在したというのは事実ではない。ほとんどの事物が贈り物として行き来し、人々が純粋な気前の良さを誇示し、最も多く与え手放すことを価値とするような社会も存在する。(マルセル・モース(1872-1950))






















(a)経済学の仮説は事実ではない
 「科学」を称する経済学が経済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだった。
 (i)人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではない
  人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有、つまり自らにとっての 「効用」を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場の観点から分析することができるという仮説は、事実ではない。
 (ii)最初に物々交換があったというのは事実ではない
  公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明、信用売買、銀行業、 証券取引は、その論理的延長にすぎない。  

(b)贈与経済の存在
 (i)純粋な気前の良さを誇示
  その社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何かを誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。
 (ii)最も多く与え手放すこと
  こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。



「もしもロシア――たぶんヨーロッパで貨幣化の度合いが最も低い国――においてさえ、単純に 法律によって市場を廃止してしまえるものではないのであれば、革命家たちは明らかに、この 「市場」なるものは一体何なのか、それはどこからやって来たのか、そしてそれに対する実行 可能なオルタナティヴはじっさいどのようなものでありうるのか、もっと真剣に考え始める必 要がある。

モースはそのように考えた。そのためには今こそ、歴史学と民俗学の研究成果を活 用しなければならない。  モースがそこから引き出した結論は驚くべきものだ。

まずは、「科学」を称する経済学が経 済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだったとされ る。

昔も今も、自由市場に熱狂する人びとが揃いも揃って想定しているのは、人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有(つまり自らにとっての 「効用」)を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場 の観点から分析することができる、ということだ。

公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明(信用売買、銀行業、 証券取引)は、その論理的延長にすぎない。  

モースがただちに指摘しているように、こうした物語の問題は、物々交換に基づく社会がこ れまでに実在したということを信じられるだけの理由はどこにもない、ということだった。

そ れどころか、人類学者たちは当時、物々交換とはまったく別の諸原理に基づいて経済活動を営 む諸社会を発見しつつあった。

それらの社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何か を誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。

こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。けれどもその場 合、私たちの経済とは正確に反対のやり方でそうなるのだ。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.146-148,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月18日金曜日

12.人々の生活の安全が保証された自由な社会では、人々はお金以外の、心の底から望み、または善だと思うような諸価値を心置きなく追求できる。芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研究、知的、快楽主義的な楽しみ、それらの思いがけない組み合 わせ等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

真に自由な社会で創造される諸価値

人々の生活の安全が保証された自由な社会では、人々はお金以外の、心の底から望み、または善だと思うような諸価値を心置きなく追求できる。芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研究、知的、快楽主義的な楽しみ、それらの思いがけない組み合 わせ等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「経済学的に僕が探究したいのは、人々が個人で、または他者とともに、追求するにふさわ しいと思った価値を心置きなく追い求めていけるよう、生活の安全を保証するというものだ。

 多くの人々がなんだかんだいってお金に走る主な理由がここにあるのはこれまで見てきたとこ ろだ。

人々が崇高で、美しく、心の底から望み、または善だと思うような、お金以外の何かを 求めていけるようにする。自由な社会では、人は何を求めていくのだろうか。その多くは現時 点ではほぼ想像できないが、それでも芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研 究、知的、あるいは快楽主義的な楽しみなどのなじみの価値や、それらの思いがけない組み合 わせがありうるだろう。  

求めている対象がまったく比較できない場合や、どうしても置き換えられない価値の場合、 どのように資源を配分するのかは難題だ。それは僕が時折質問されるもうひとつの問いを引き 出す。「平等」とは本当のところ何を意味しているのか、という問いである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.345-346,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






11.価値があるとされる労働規律への服従は、人間を駄目にする。では、労働の道徳性とは本当のところ何なのか。これに対する答えは明快だ。労働は他者を助ける限りにおいて善なのである。ここから新たな可能性が開かれる。経済などではなく、相互的創造プロジェクトとしての労働。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

労働は他者を助ける限りにおいて善

価値があるとされる労働規律への服従は、人間を駄目にする。では、労働の道徳性とは本当のところ何なのか。これに対する答えは明快だ。労働は他者を助ける限りにおいて善なのである。ここから新たな可能性が開かれる。経済などではなく、相互的創造プロジェクトとしての労働。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)監視、管理等の労働規律への服従
 監視、管理や野心的な自営業者の自制心ですら、労働規律への服従は人をより良く
はしな い。それは人をダメにするうえで最もいい方法なのだ。規律を課されることは不幸であり、せ いぜい、時たまやむを得ないことがある程度である。
(b)労働は他者を助ける限りにおいて善
 労働の道徳性とは本当のところ何なのか。これに対する答えは明快だ。労働は他者を助ける限りにおいて善なのである。
(c)技術的発展によって監視、管理等の労働規律の廃止へ
 技術的発展がさらなる消費財の生産や労働の統制に向かうのではなく、監視、管理等の労働規律への服従を要するような形態の全面的な廃止に向かうことが可能となる。
(d)労働は経済ではなく相互的創造プロジェクト
 労働の基本形態が、生産ラインや小麦畑、製鉄場、オフィスの一区画で働くようなあり方をやめ、代わりにケア労働や援助労働、母親や教師や介護士のようなあり方になると、どうなるだろうか。労働は、経済などではなく、相互的創造のプロジェクトに資するものになるだろう。



「研究2 労働とは何か?  

労働規律(監視、管理、野心的な自営業者の自制心ですら)への服従は人をよりよくはしな い。それは人をダメにするうえで最もいい方法なのだ。

規律を課されることは不幸であり、せ いぜいときたまやむをえないことがある程度である。

いつの日か、われわれがこんな労働自体 が不道徳だと拒否したとき初めて、労働の道徳性とは本当のところ何なのかを問うことができ る。これに対する答えは明快だ。

労働は他者を助ける限りにおいて善なのである。

生産性至上 主義の廃棄が労働のあり方を改めて想像することを可能にしてくれるのであり、何よりも、技 術的発展がさらなる消費財の生産や労働の統制に向かうのではなく、労働のこうした形態の全 面的な廃止に向かうからだ。  

こうして残るのは人間的な労働だけになり、僕がこれまで論じたような最初にOWSを始動さ せるとき中心となった労働、つまりケア労働や援助労働のような形態をとる。

労働の基本形態 が生産ラインや小麦畑、製鉄場、さらにはオフィスの一区画で働くようなあり方をやめ、かわ りに母親や教師、子どもや介護士のようなあり方になると、どうなるだろうか。

本当に人間ら しいビジネスは「経済」(この概念は300年前には存在すらしていなかった)と称されるもの ではなく、誰もがこれまでもつねにやってきたような相互的創造のプロジェクトに資するもの だという結論に至るだろう。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.333-334,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






10.仕事とは必然的に善であり、仕事の規律に服従することを望まない者はそもそも評価に値せず不道徳である。あらゆる経済危機または経済問題を解決するためには、つねに人々はもっと働くことだ。この前提は、正しいのだろうか。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

仕事とは必然的に善であるか

仕事とは必然的に善であり、仕事の規律に服従することを望まない者はそもそも評価に値せず不道徳である。あらゆる経済危機または経済問題を解決するためには、つねに人々はもっと働くことだ。この前提は、正しいのだろうか。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「研究1 生産性市場主義的な取引

  われわれの政治的可能性をむしばむ多くの有害な諸前提は、労働の本質に関わる。  最もはっきりしているのは、仕事とは必然的に善であり、仕事の規律に服従することを望ま ない者はそもそも評価に値せず不道徳であり、あらゆる経済危機または経済問題を解決するた めには、つねに人々はもっと働くことだという前提である。

これは主流の政治的言説において 議論のベースとして受け入れざるをえない前提の一つである。

だがこう考えはじめたとたん、 それは不条理なものになる。まず第一に、これは道徳的な次元の問題であり、経済的次元のそ れではない。何もしないほうがまだましだという労働はありあまるほどあるし、仕事中毒が必 ずしもよりよい人間のあり方とはいえない。

事実、世界情勢を冷静に評価すれば、本当に必要なのは仕事をさらに増やすことではなく、より少なくすることだという結論になるだろう。こ れは環境問題を考慮に入れてもそうである。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.331-332,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






99.問題は、我々が既にやっていることをもっと推し進 め、自由が真の組織化の原理になるまで、自由の領域を拡張していくことにある。供給不足に陥っている物は世界中にたくさんあ る。我々には知性というほぼ無制限の供給物があり、問題を創造的に解決する方法を考え出すことができる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

自由の領域を拡張すること

問題は、我々が既にやっていることをもっと推し進 め、自由が真の組織化の原理になるまで、自由の領域を拡張していくことにある。供給不足に陥っている物は世界中にたくさんあ る。我々には知性というほぼ無制限の供給物があり、問題を創造的に解決する方法を考え出すことができる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「さて、おそらく読者には僕の念頭にある方向性の全体を理解してもらえただろう。

われわ れはすでに自分たちの時間の大半を共産主義の実践に費やしているのだ。服従を強制する手段 としての物理的脅威を必要とせずに、お互いを理解しようとするとき、われわれはつねにアナ キストであるし、少なくともアナキストのようにふるまっている。

問題は、完全に新しい社会 を一から築き上げるということではなく、われわれがすでにやっていることをもっとも推し進 め、自由が真の組織化の原理になるまで自由の領域を拡張していくことにある。

実際のところ 僕は、どのように生産され配分されるのかを考案する技術的な側面が、これまでつねにいわれ てきたような大問題になるとは思っていない。

供給不足に陥っている物は世界中にたくさんあ る。

われわれには知性というほぼ無制限の供給物があり、問題を創造的に解決する方法を考え だすことができる。問題は想像力の欠如ではない。問題は、想像力を確実に発揮させないため につくられた、あるいは金融派生商品や新しい武器システム、書類記入用の新しいインター ネットシステムをつくらせないようにする、債務と暴力の抑圧的なシステムである。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.341-342,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






9.例えば、誰かが溺れているのを助けるというような必要性が十分大きなものから、道順を教えるような要求が十分に小さいものまで、あらゆる友好的な社会的諸関係の基礎には、常にある程度は、各自の能力に応じて各自の必要に応じ助け合うという原理が前提にされている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

各自の能力と必要に応じた助け合い

例えば、誰かが溺れているのを助けるというような必要性が十分大きなものから、道順を教えるような要求が十分に小さいものまで、あらゆる友好的な社会的諸関係の基礎には、常にある程度は、各自の能力に応じて各自の必要に応じ助け合うという原理が前提にされている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


「かねて僕が主張していることはとてもシンプルだ。必要なのは「共産主義」を、私有財産 を放棄した社会と想定するのをやめ、「それぞれの能力に応じて、それぞれの必要に応じて」 という本来の定義に立ち戻ることである。

このような原理を基礎にして動く社会編成を「共産 主義」と呼べば、社会的現実に関するわれわれの最も基本的な理解が一変する。

共産主義と は、少なくともその最も希釈された形態においても、あらゆる友好的な社会的諸関係の基礎を なす。

だからどのような種類の社会性もつねにある程度は基本線において共産主義を前提とし ており、必要が十分大きなもの(たとえば、誰かが溺れているのを助けること)の場合や、要 求が十分に小さいもの(たばこの火の貸し借りや、道順を教えること)であれば適用可能な基 本線が存在するという理解を前提にしているのである。

自分が最も愛し信用する人々と一緒に いるとき、われわれはみな共産主義者である。だが誰も、いかなる状況でも万人に対して共産 主義的にふるまうことは、たぶんこれまでも、そしてこれからもないだろう。

わけても労働 は、共産主義的な土台で組織化される傾向がある。協働しているときに急迫かつ切迫した必要 がある場合には、問題を解決するただひとつの方法は、必要なものを手に入れるために誰がど のような能力を有しているのかを見極めることである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.339-340,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月17日木曜日

8.合意形成プロセスの本質とはただ、誰もが決定に対して平等に関わることができるべきであり、誰も自分の気にくわない決定に縛られるべきではないということである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合意形成プロセスの本質

合意形成プロセスの本質とはただ、誰もが決定に対して平等に関わることができるべきであり、誰も自分の気にくわない決定に縛られるべきではないということである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


合意形成4つの原則
 (a)誰であれ、提案について発言すべきことがあると思えば、その意見は丁寧に検討されなければならない。
 (b)誰であれ、強い不安や意義があれば、その不安や意義は勘案され、できる限り最終的な提案に盛り込まれなければならない。
 (c)誰であれ、提案が集団で共有されている基本原則を侵害していると思えば、それに対して拒否権を行使する機会が与えられなければならない。
 (d)誰であれ、同意していない決定に従うよう強制されてはならない。



「合意形成プロセスの本質とはただ、誰もが決定に対して平等に関わることができるべきであり、誰も自分の気にくわない決定に縛られるべきではないということである。

実践的にいえ ば、これは4つの原則に要約できるだろう。
 ・誰であれ、提案について発言すべきことがあると思えば、その意見は丁寧に検討されなければならない。
 ・誰であれ、強い不安や異議があれば、その不安や異議は勘案され、できる限り最終的な提案に盛り込まれなければならない。
 ・誰であれ、提案が集団で共有されている基本原則を侵害していると思えば、それに対して拒否権を行使(「ブロック」)する機会が与えられなければならない。
 ・誰であれ、同意していない決定に従うよう強制されてはならない。

   長年にわたってさまざまな集団や個人が、これらの目的を達成しようと形式的な合意形成プ ロセスの制度を発展させてきた。これはいくつかの異なった形態をとりうる。

しかし、形式的 なプロセスは必ずしも必要というわけではない。それが役に立つこともあれば、役に立たない こともある。

集団が小規模であればあるほど、形式的な手順は一切なしに運営できるように なっていく。実際、この4つの原則の精神に基づいて意思決定を試みる方法には尽きることの ない多様性がある。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第IV章 変革の方 法,pp.249-250,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






7.圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合のみ存在し得ることが、歴史的に明らかにされてきた。暴力の脅威で絶えず強制されることなく、人々が平等性と連帯に基づいて自由に結合するような社会は可能だろうか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

真に自由な社会

圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合のみ存在し得ることが、歴史的に明らかにされてきた。暴力の脅威で絶えず強制されることなく、人々が平等性と連帯に基づいて自由に結合するような社会は可能だろうか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)真に自由な社会
 真に自由な社会とは、暴力の脅威で絶えず強制されることなく、人々が平等性と連帯に基づいて自由 に結合し、生きる価値の見出せる未来社会像や計画、構想を絶えずさまざまに追求していくような社会である。
(b)債務労働、賃労働の基礎としての軍隊、監獄、警察
 圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合にのみ存在しうるということが歴史的に明らかにされてきた。
(c)構造的不平等の基礎としての力の脅威
 人種主義や性差別主義といったもっと根深い構造的不平等でさえ、究極的にはより巧妙かつ狡猾な力の脅威に基礎づけられている。




「どちらの文脈でも、一言でいえばアナキズムとは真に自由な社会の実現をめざす政治的運 動であり、「自由な社会」とは暴力の脅威で絶えず強制されることなく人々がお互いに民主主 義的な関係を取り結ぶことで初めて生まれるのである。

圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労 働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合にのみ存在しう るということが歴史的に明らかにされてきた。人種主義や性差別主義といったもっと根深い構 造的不平等でさえ、究極的にはより巧妙かつ狡猾な力の脅威に基礎づけられている。

したがっ て、アナキストが思い描くのは平等性と連帯に基づいた世界であり、そこでは人間同士が自由 に結合し、生きる価値の見出せる未来社会像や計画、構想を絶えずさまざまに追求していくの である。

アナキズム的社会に存在しうる組織とはどのようなものかと問われたら、僕はいつも こう答えている。

人間が想像しうるあらゆる形態の組織、そしてその多くは現在のわれわれに は想像もできないような組織だろうが、たったひとつだけ条件がある――いかなる場合でも武装 した男を頼みにして「お前の話などどうでもいい、黙って言われたとおりにしろ」という権限 をもつ人間を必要とせずに成立しうる組織であることだ。  

こうした意味合いにおいては、アナキストはいつでも存在してきたのだ。

ある人々の集団が かれらを抑圧する権力あるいは支配のシステムに直面し、それに激しく反対するなかから、ど んな権力や支配にも縛られずにお互いを扱う方法を想像しはじめるところでは、つねに数多く のアナキストを見いだすことができる。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第III章 「群衆 は知性と理性を手に入れはじめる」,pp.222-223,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一 郎(訳),原民樹(訳)


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






6.多くの夢を砕き、別の未来の可能性への感性、想像力、欲望、個人の自由を抑え込むよう設計された絶望装置は、今あるシステムの改善、革新能力を失っていく。実際、過去の経済的革新の多くは、政治的なものだった。非正規雇用、労働組合の破壊、労働の非政治化、長時間労働等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

感性、想像力、自由の抑圧がもたらすもの

多くの夢を砕き、別の未来の可能性への感性、想像力、欲望、個人の自由を抑え込むよう設計された絶望装置は、今あるシステムの改善、革新能力を失っていく。実際、過去の経済的革新の多くは、政治的なものだった。非正規雇用、労働組合の破壊、労働の非政治化、長時間労働等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)想像力、欲望、個人の自由の封じ込め
 想像力、欲望、個人の自由といった、過去の偉大な世界革命において解放された一切は、消費主義のなかに、あるいはインターネットの仮想現実のなかに確実に封じ込められなければならなかった。
(b)別の未来の可能性への感性の抑圧
 多くの夢を砕き、別の未来の可能性へのあらゆる感性を抑え込むよう設計された絶望装置は、今ある資本主義が唯一実行可能な経済システムであると思わせる。その結果、我々は資本主義システムが崩壊していくのを目の当たりにするという奇妙な状況に置かれることとなった。

(c)非正規雇用、労働組合の破壊、労働の非政治化、長時間労働
 過去30年間の経済的革新の多くは、経済的というよりも政治的なものだった。終身雇用を打ち切って非正規雇用にすることは、より効率的な労働力を現実的に生み出すことは ないが、そのかわり組合の破壊や労働の非政治化を驚くほど効率的に成し遂げる。とどまることのない労働時間の増加についてもそうだ。週60時間の労働をしていれば、誰も政治活動などできない。


「実際に、過去30年間の経済的革新の多くは、経済的というよりも政治的なものだった。

終 身雇用を打ち切って非正規雇用にすることは、より効率的な労働力を現実的に生み出すことは ないが、そのかわり組合の破壊や労働の非政治化を驚くほど効率的に成し遂げる。

とどまるこ とのない労働時間の増加についてもそうだ。週60時間の労働をしていれば、誰も政治活動など できない。

いつも思うのは、資本主義が唯一実行可能な経済システムであると思わせる選択肢 と、資本主義をより発展可能な経済システムにする選択肢のどちらかを選ぶ場合、新自由主義はつねに前者を選択するということだ。

その複合的帰結は、人間の想像力に対する容赦ない攻撃である。厳密にいえば想像力、欲望、個人の自由といった、過去の偉大な世界革命において解放された一切は、消費主義のなかに、あるいはインターネットの仮想現実のなかに確実に封じ込められなければならなかった。他のすべての領域ではそれらは厳しく禁じられなければならない。

われわれは多くの夢を砕き、別の未来の可能性へのあらゆる感性を抑え込むよう設計された絶望装置の押しつけについて語っている。

だが、人々の試みの一切を政治的な檻のなかに事実上押し込めた結果、われわれは資本主義システムが崩壊していくのを目の当たりにするという奇妙な状況に置かれることとなり、結局のところそれとともに、誰もが別のいかなるシステムも実現不可能だという判断を下してしまったのだ。

        *  おそらくこれが、僕が第II章で指摘した、表面上は政治的に分裂している両サイドの支配階 級が、自らの権力によってつくりだせるもの以外に現実はないと信じ込むようになった世界に ついて、われわれが予期しうることのすべてである。

バブル経済は、政治システムを作動させ ている統治原理を買収するとともに、システム内部で現実そのものの原理を操作する一つの政 治プログラムから生じる。

まるでこの戦略が、ありとあらゆるものを消費してしまったかのよ うである。  

だがこのことは、常識レベルでのあらゆる革命が、目下の権力に対して破壊的な効果がある ことを意味している。

支配者はこうした想像力の爆発を夢想だにさせないことに一切に賭けて いる。

もしかれらがこの賭けに負ければその影響は(かれらには)計り知れないものになるだ ろう。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.326-328,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






5.ある政府、社会運動、ゲリラ軍、その他の組織的グループを非難もしくは支持に値するかを判断しようとするときに、まずこう質問する。彼らは、レイプ、拷問、殺人といった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか。人権侵害という言葉が事態を曖昧にする場合がある。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

レイプ、拷問、殺人テスト

ある政府、社会運動、ゲリラ軍、その他の組織的グループを非難もしくは支持に値するかを判断しようとするときに、まずこう質問する。彼らは、レイプ、拷問、殺人といった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか。人権侵害という言葉が事態を曖昧にする場合がある。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「「人権侵害」という言葉について考えてみよう。表面的にはこの言葉が何かを覆い隠し ていそうには見えない。

では、正気の人間が人権侵害を支持するだろうか。誰も支持しないの は明らかだ。

だが、不同意にも程度があって、この場合でいうと、たいてい人権侵害といわれ る事態を別の言葉で考えてみればその違いが明らかになる。  以下の文章を比較してみよう。

・「私は、自分たちの生死がかかった戦略命令を遂行するためなら、人権侵害を行う政権に対応し、場合によっては支持することすら必要であると考えている」

・「私は、自分たちの生死がかかった戦略命令を遂行するためなら、レイプ、拷問、殺人を行う政権に対応し、場合によっては支持することすら必要であると考えている」

この二番目の事例は確実に受け入れられない。これを耳にしたら、誰もが「この戦略命令は 本当に死活的なものなのか」、あるいは「そもそも戦略命令とは何か」と問いたくなるだろ う。

ここには、「権利」という言葉についてのかすかな据わりの悪さが込められている。

ほと んど「資格」に近く、まるで怒れる拷問の犠牲者たちが、自分たちの処遇に不満を言い、何か を要求しているかのようである。  

僕としては、この「レイプ、拷問、殺人」テストと呼ぶものがとても有効なことがわかっ た。これはごく簡単なものだ。

ある政府であれ、社会運動であれ、ゲリラ軍であれ、あるいは 他の組織的グループであれ、何らかの政治的実体が出現し、それを非難もしくは支持に値する かを判断しようとするときに、まずこう質問するのだ。「かれらは、レイプ、拷問、殺人と いった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか」。

これは 自明の問いのようにも思えるが、でもこうした問いは驚くほど稀にしか発せられない――問われ たとしても、せいぜいのところ恣意的にしかなされないのだ。

あるいは、このような問いを立 ててみると、世界政治の多くの問題について一般に広く受け入れられている見解がただちに覆 されることに気づいて、驚くだろう。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.140-141,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






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