2018年7月16日月曜日

語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階:(1)たかだか表象に関わる区分、(2)意義に関わる区分、(3)意味に関わる区分。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

表象、意義、意味の区分

【語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階:(1)たかだか表象に関わる区分、(2)意義に関わる区分、(3)意味に関わる区分。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
さまざまな語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階がある。
(1)意味と意義は同じで、たかだか表象に関わる区分
 ・翻訳を原文と区別するものは、本来、この第一の段階を超えるものではありえない。
 ・また、作詩法や雄弁術が意義に対して付加する色合いと陰影は、この段階のものである。
(2)意味は同じだが、意義に関わる区分
(3)意味が異なり、意味に関わる区分

(再掲)
(a)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(b)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

 「かくして、我々は、さまざまな語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階を認めることができる。その区分は、たかだか表象に関わる区分であるか、意義には関わるが意味には関わらない区分であるか、あるいは、結局意味にも関わる区分であるかのいずれかである。第一の段階に関しては、表象が語に結合する様態が不確定的であるゆえに、他人には知られることのない差違が一人の人にとって存在しうるという点を指摘することができる。翻訳を原文と区別するものは、本来、この第一の段階を超えるものではありえない。また、この段階で可能なさらに別の区分としては、色合い(Färbung)と陰影(Beleuchtung)という区分もある。これらは、作詩法や雄弁術が意義に対して付加するものである。この色合いと陰影とは客観的なものではなく、したがって、聞き手と読者が詩人または弁士の与える手がかりに従いつつ自ら作り出して、付加するものである。もちろん人間の表象作用が親和的でないかぎり、芸術は不可能であろうが、しかし、詩人の意図にいかなる程度まで合致しているかということを正確に指摘することはほとんど不可能である。
 以下において表象と直感に関して論ずることはしない。以上でこの問題に関してあえて論じたのは、一つの語が聞き手において惹き起す表象が、その語の意義やその語の意味と混同されることを防ぐという目的のためである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』30-31、フレーゲ著作集4、p.77、土屋俊)
(索引:作詩法,雄弁術)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

日常茶飯事

【あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四四、p.66、[神谷美恵子・2007])
(索引:日常茶飯事)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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2018年7月15日日曜日

5.価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

価値、倫理的なもの

【価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「六・四 全ての命題は等価値である。
 六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。世界《の中に》は価値は存在しない。そして仮に存在するとしても、それは価値を持たないであろう。

 価値のある価値が存在するならば、
それは全ての生起や、かくあり(So-Sein)の外になければならない。何故なら全ての生起やかくありは、偶然的だからである。

 それらを偶然でなくするものは、世界《の中に》あることはできない。世界の中にあるとすれば、これも又偶然的であろうからである。

 それは世界の外になければならない。

 六・四二 それ故倫理学の命題も存在しえない。

 命題はより高貴なものを表現しえない。

 六・四二一 倫理学が表明されえないことは明らかである。
 倫理学は超越的である。
 (倫理学と美学とは一つである。)

 六・四二二 「汝……なすべし」という形式の倫理法則が提起される時に、先ず念頭に浮ぶ考えは、「そして私がそうしなければどうなるのか」ということである。

しかし倫理学が通常の意味での賞罰と関係ないことは明らかである。従って行為の《帰結》に関するこの問は些細なものでなければならない。少なくともこの帰結が出来事であってはならない。

というのもこの問題提起にはやはり正しいところがあるはずだからである。たしかにある種の倫理的な賞罰が存在するに相違ない。しかし賞罰は行為そのものの中になければならないのである。

 (そして賞が好ましいもの、罰が好ましくないものに相違ないことも、又明らかである。)

 六・四二三 倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。
 そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』六・四~六・四二三、全集1、pp.116-117、奥雅博)
(索引:価値,倫理学,事実,倫理法則,賞罰)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

論理的なものと心理的なものの混合体

【思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1) 我々は、ある特定の言語で考えている。
 (1.1) 思考には、表象及び感情と混ざり合っている。
 (1.2) 我々には、表象なしで思考するということは、明らかに不可能である。
(2) 文法とは、何か。
 (2.1) 文法は、論理が判断に対するのと類比的な重要性を、言語に対して持っている。
 (2.2) 文法は、論理的なものと心理学的なものとの混合体である。
(3) 論理学は、文法から論理的なものを純粋に取り出すことを課題とする。
 (3.1) 我々は、同じ思想を様々な言語で表現することができるが、異なる言語には、異なる心理学的な装飾が、しばしば纏わりついている。
 (3.2) 外国語を習うことは、言語の違いによる心理学的な装飾を理解させるとともに、純粋に論理的なものの把握にも役に立つ。
 (3.3) 私が提案した数学における形式言語や、概念記法のような根本的に違った方法で、純粋に論理的な方法で思想を表現することができるなら、有益であろう。

(再掲)
(a)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(b)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

 「元来人間にとって、思考は表象及び感情と混ざり合っている。論理学は、論理的なものを純粋に取り出すことを課題とするが、しかし、もちろんだからといって我々が表象なしで思考するということ―――これは明らかに不可能である―――にはならない。我々は意識的に論理的なものと、論理的なものに観念や感情というかたちでで結び付いているものとを区別しなければならないのである。ここには、我々がある言語で考えているという困難、ならびに、文法―――それは論理が判断に対するのと類比的な重要性を言語に対して持っている―――が論理的なものと心理学的なものとの混合体であるという困難が存在する。もし、そうでないとするならば、すべての言語は必然的に同じ文法を持つことになろう。確かに我々は同じ思想を様々な言語で表現することができるが、しかし、心理学的な装飾、思想の衣服は異なることがしばしばある。外国語を習うことが論理的な教育として役立つ理由はここにある。同じ思想を異なった言語で表わせることを知ることで、どのような言語においても外皮と有機的に結び付いている言語の芯と、その外皮とを区別することがよりよくできるようになるのである。このようにして言語の間の違いが、論理的なものの把握に役に立つ。だが、それでもなお、困難が完全に取り除かれるわけではないし、論理学の本は、厳密に言えば論理とは関係のない数多くの事柄―――例えば、主語ー述語―――を相も変わらず持ち出している。それゆえ、算術における形式言語や私の提案した概念記法のような、根本的に違った方法で思想を表現することに慣れることも有益なのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学[二]』154、フレーゲ著作集4、p.139、関口浩喜・大辻正晴)
(索引:言語,文法,論理学,思考,表象,感情,概念記法,形式言語)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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試みに、物事から一切の虚飾を剥ぎ取って、物自体として判然と認識してみよ。日常の信頼すべきもの、賞賛すべきもの、価値あるものが、いかに「取るに足らぬこと」であるかが分かるであろう。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

取るに足らぬこと

【試みに、物事から一切の虚飾を剥ぎ取って、物自体として判然と認識してみよ。日常の信頼すべきもの、賞賛すべきもの、価値あるものが、いかに「取るに足らぬこと」であるかが分かるであろう。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
(1) ある物事が、あまりにも信頼すべきもの、賞賛すべきものに見えるときは、試みに、その事物から賞賛されるゆえんのものを剥ぎ取って、それがいったい何であるかを、目に見えるような赤裸々の姿、物自体として判然とさせてみよ。
(2) 例えば「肉の料理やそのほかの食物については、これは魚の死体であるとか、これは鳥または豚の死体であるとか」と。
(3) すると、それが「取るに足らぬこと」であることが、見極められるであろう。「ちょうどそのように君も一生を通じて行動すべきである」。なぜなら、自負は恐るべき詭弁者であって、君が価値ある仕事に従事しているつもりになりきっているときこそ、これに最も誑かされているのである。

 「肉の料理やそのほかの食物については、これは魚の死体であるとか、これは鳥または豚の死体であるとか、ファレルヌムは葡萄の房の汁であるとか、紫のふちどりをした衣は貝の血に浸した羊の毛であるとか、また交合については、これは内部の摩擦といくらかの痙攣を伴う粘液の分泌であるなどという観念を我々はいだく。このような観念は物自体に到達し、その中核を貫き、それがいったい何であるかを目に見えるように判然とさせるが、ちょうどそのように君も一生を通じて行動すべきである。すなわち物事があまりにも信頼すべく見えるときにはこれを赤裸々の姿にしてその取るに足らぬことを見きわめ、その〔賞賛させる所以のもの〕を剥ぎ取ってしまうべきである。なぜならば自負は恐るべき詭弁者であって、君が価値ある仕事に従事しているつもりになりきっているときこそこれにもっともたぶらかされているのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第六巻、一三、p.96、[神谷美恵子・2007])
(索引:認識,物自体,取るに足らぬこと)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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2018年7月13日金曜日

4.もし仮に、「世界」が私の論理と言語によってのみ知り得るのなら、間違いなく世界は私の世界である。しかしまた、この世界の内側から、これ以外には存在しない、と語ることもできない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

独我論について

【もし仮に、「世界」が私の論理と言語によってのみ知り得るのなら、間違いなく世界は私の世界である。しかしまた、この世界の内側から、これ以外には存在しない、と語ることもできない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) 私以外のものは、存在するだろうか。
(2) もし仮に、世界が事実から構成され、これら事実が論理と言語によってのみ知り得るのだとすれば、そして、この論理と言語が他ならぬ私の論理と言語であるとすれば、「わたしの言語の限界が、私の世界の限界を意味する」。
(3) もし仮に、世界がこのようなものならば、私の論理と言語の限界が、私の世界の限界を意味し、間違いなくこの世界は私の世界であることは全く正しい。
(4) しかし、世界には私だけが存在し、私以外のものは存在しない、と語ることはできない。なぜなら、もし仮に、明晰に考え明晰に表明し得ることが、論理と言語によって知られる現実の世界だけだとすれば、「我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない」からである。

 「五・六 《わたしの言語の限界》が私の世界の限界を意味する。
 五・六一 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
 従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。
 というのも外見上このことは或る可能性の排除を前提しているが、この排除は実情ではありえないからである。

というのも仮にそうだとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。
 我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。

従って我々が考えることのできないことを、我々は語ることもできない。
 五・六二 この見解が、唯我論がどの程度真理であるか、との問を決定するための鍵を与える。
 即ち、唯我論が《考えている(言わんとする)》ことは全く正しい。ただそのことは《語ら》れることができず、自らを示すのである。
 世界が《私の》世界であることは、《唯一の》言語(私が理解する唯一の言語)の限界が《私の》世界の限界を意味することに、示されている。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』五・六、五・六一、五・六二、全集1、pp.95-96、奥雅博)
(索引:独我論)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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記号の意義、意味とは別に、記号に結合する表象がある。それは、対象の感覚的印象や、しばしば感情が浸透している内的、外的な行為の内的な像であり、個人ごとに異なり、移ろいやすい。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号に結合する表象

【記号の意義、意味とは別に、記号に結合する表象がある。それは、対象の感覚的印象や、しばしば感情が浸透している内的、外的な行為の内的な像であり、個人ごとに異なり、移ろいやすい。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(1)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(2)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

(再掲)
記号、意義、意味の間の関係(1)

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味              =一つの対象
 記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)
 ※上記の関係が成立するには、文脈の指定が必要になることがある。

記号、意義、意味の間の関係(2)

 一つの対象─┬→意義a →表現a1、表現a2、表現a3、……
=一つの意味 ├→意義b →表現b1、表現b2、表現b3、……
       └→意義c →表現c1、表現c2、表現c3、……

 「一つの記号の意味とも区別されるべきであり、また、その記号の意義とも区別されるべきであるのは、その記号に結合する表象(Vorstellung)である。記号の意味が感覚的に知覚可能な対象であるならば、その対象について私が持つ表象は、私が持っていた感覚的印象を想起することと私が遂行した内的ないし外的な行為とから生成する内的な像(Bild)である。この像には、しばしば感情が浸透しており、個々の部分の明瞭さは千差万別であり、かつ、うつろいやすい。また、同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。表象は、主観的なものである。すなわち、一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』29、フレーゲ著作集4、p.75、土屋俊)
(索引: 表象,記号,意義,意味)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)
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思想の世界は(1)感覚ではなく思考力により把握され、(2)表象とは異なり真理値を持ち、(3)外的世界と同じように我々と独立に存在する。それは、(4)無時間的に存在しており、(5)創造されるというより、むしろ発見される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の意義(思想)を把握すること

【思想の世界は(1)感覚ではなく思考力により把握され、(2)表象とは異なり真理値を持ち、(3)外的世界と同じように我々と独立に存在する。それは、(4)無時間的に存在しており、(5)創造されるというより、むしろ発見される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象


(1) 私の認識の対象でありうる必ずしもすべてが、表象であるのではない。
(2) 諸表象の担い手としての「私自身」も、それ自身が一つの表象ではない。
(3) 私以外の人間もまた、諸表象の担い手として存在する。もし、これが確実ではないとしたら、歴史学、義務論、法律、宗教、自然科学なども、存在しないことになろう。
(4) 記号の意義(思想)の世界は、私から独立のものとして存在する。
  (a) 外的世界
  (b) 表象の世界
  (c) 記号の意義(思想)の世界
 (4.1) 記号の意義は、外的世界のように感覚によって知覚されないという点では、表象と似ている。
 (4.2) 我々と記号の意義との関係は、我々と表象との関係とは異なる。すなわち、記号の意義は単なる表象とは異なっている。表象に真偽の区別はないが、記号の意義(思想)には真偽の区別がある。
 (4.3) 記号の意義は、外的世界が感覚の担い手である特定の人に依存しないという点では、外的世界と似ている。すなわち、我々は記号の意義を作り出すのではない。また、真偽も我々から独立している。「事実とは真なる思想である」。従ってまた、真なる思想は、創造されるのではなくして、発見されるものであり、その発見とともに初めて成立し得るというよりも、むしろ「無時間的」に存在していると言える。
 (4.4) 記号の意義が我々に知られるのは、我々が感覚印象を通じて外的世界を知るのとは、異なっている。そこで、記号の意義を「把握する」と、表現することにする。「思想の把握ということに対しては、ある特別な精神的能力、思考力が対応する」。

 「この最後の考察の成果として、私は次のことを確立する―――すなわち、私の認識の対象でありうる必ずしもすべてが表象であるのではない。諸表象の担い手としての私自身は、それ自身が一つの表象ではない。さて私自身と同様、他の人間もまた、諸表象の担い手として承認することに、何の障害もない。また一旦この可能性が与えられれば、その確からしさは非常に大きいので、私の見解にとっては、それは確実性ともはや区別されないのである。そうでなければ、歴史学は存在するであろうか。そうでないなら、どの義務論もどの法律も無効となるのではないか。宗教については何が残ることになるのだろうか。自然科学もまた、占星術や錬金術に似た虚構としてしか評価されえないことになろう。かくて、同じものを私と共にその観察、その思考の対象としうるような人間が、私以外に存在するということを前提として、私の行なった考察は、本質的な点でその力を弱められることなく維持されるのである。
 必ずしもすべてが表象なのではない。そうなら私はまた、私同様他の人間も把握しうる思想を、私から独立のものとして承認することができる。私は多数の者がその研究に従事する一つの科学を承認することができる。我々は、我々が我々の表象の担い手であるような仕方で、思想の担い手であるわけではない。我々は一定の思想をもつが、例えば我々が感覚印象をもつような仕方においてではない。我々はしかしまた、我々が例えば一つの星を見るように、一つの思想を見るのではない。それ故、ここで特別の表現を選ぶように勧められてしかるべきであり、そうした表現として「把握する(fassen)」という語が提示される。思想の把握ということに対しては、ある特別な精神的能力、思考力が対応する。思考に際し、我々は思想を造り出すのではなくて、我々はそれを把握するのである。というのは、私が思想と称したものは、真理と極めて密接な連関にあるからである。私が真と承認するもの、それについて私は、その真理性が私による承認とは全く独立に、また私がそれについて考えているかどうかということからもまた独立に真である、と判断するのである。思想が真であるためには、それが考えられるということは必要ではない。自然科学者は、彼が科学の確実な基礎づけの必要性を肝に銘じようとする場合に、「事実! 事実! 事実!」と叫ぶ。事実とは何か。事実とは真なる思想である。しかし科学の確実な基礎として、自然科学者は、人間の変転する意識状態に依存するようなものを、承認しないことは確かであろう。科学の仕事は、真なる思想の創造ではなくして、その発見に存する。天文学者は、はるかな過去の出来事の探究に際し、数学的真理を適用することが出来るが、その出来事は地球上で少なくともまだ誰も当の真理を認識していなかったときに成立していたのである。彼がこうしたことをなしうるのは、思想の真であることが、無時間的であるからである。かくて当の真理は、それの発見と共にはじめて成立しうるのではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『思想――論理探究[一]』73-74、フレーゲ著作集4、pp.226-227、野本和幸)
(索引: 記号の意義(思想)の世界,把握)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月12日木曜日

記号の意義(思想)の世界は、外的世界、表象の世界とは異なる、第三の領域の世界である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の意義(思想)の世界

【記号の意義(思想)の世界は、外的世界、表象の世界とは異なる、第三の領域の世界である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(a) 外的世界
(b) 表象の世界
(c) 記号の意義(思想)の世界
 外的世界のように感覚によって知覚されないという点では、表象の世界と似ている。
 表象の担い手である特定の人に依存しないという点では、外的世界と似ている。
 「例えば、我々がピタゴラスの定理で言表する思想は、無時間的に真であり、誰かがそれを真と見なすかどうかということとは独立に真なのである。思想はいかなる担い手も要しない。ちょうどある惑星がそれを誰かが見つける以前に既に他の惑星との相互関係にあるのと同様に、思想はそれが発見されてはじめて真となるのではない。」

(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象

 「思想は外的世界の諸物でもなければ、表象でもない。第三の領域が承認されねばならない。これに属するものは、それが感官をもってしては知覚されえないという点においては、表象と一致する。が、しかしそれは、それが属するその意識内容のいかなる担い手も必要としないという点においては[外的]諸物と一致する。かくて例えば、我々がピタゴラスの定理で言表する思想は、無時間的に真であり、誰かがそれを真と見なすかどうかということとは独立に真なのである。思想はいかなる担い手も要しない。ちょうどある惑星がそれを誰かが見つける以前に既に他の惑星との相互関係にあるのと同様に、思想はそれが発見されてはじめて真となるのではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『思想――論理探究[一]』69、フレーゲ著作集4、p.219、野本和幸)
(索引: 記号の意義(思想)の世界)

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(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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