2018年7月13日金曜日

もし仮に、「世界」が私の論理と言語によってのみ知り得るのなら、間違いなく世界は私の世界である。しかしまた、この世界の内側から、これ以外には存在しない、と語ることもできない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

独我論について

【もし仮に、「世界」が私の論理と言語によってのみ知り得るのなら、間違いなく世界は私の世界である。しかしまた、この世界の内側から、これ以外には存在しない、と語ることもできない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) 私以外のものは、存在するだろうか。
(2) もし仮に、世界が事実から構成され、これら事実が論理と言語によってのみ知り得るのだとすれば、そして、この論理と言語が他ならぬ私の論理と言語であるとすれば、「わたしの言語の限界が、私の世界の限界を意味する」。
(3) もし仮に、世界がこのようなものならば、私の論理と言語の限界が、私の世界の限界を意味し、間違いなくこの世界は私の世界であることは全く正しい。
(4) しかし、世界には私だけが存在し、私以外のものは存在しない、と語ることはできない。なぜなら、もし仮に、明晰に考え明晰に表明し得ることが、論理と言語によって知られる現実の世界だけだとすれば、「我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない」からである。

 「五・六 《わたしの言語の限界》が私の世界の限界を意味する。
 五・六一 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
 従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。
 というのも外見上このことは或る可能性の排除を前提しているが、この排除は実情ではありえないからである。というのも仮にそうだとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。
 我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることのできないことを、我々は語ることもできない。
 五・六二 この見解が、唯我論がどの程度真理であるか、との問を決定するための鍵を与える。
 即ち、唯我論が《考えている(言わんとする)》ことは全く正しい。ただそのことは《語ら》れることができず、自らを示すのである。
 世界が《私の》世界であることは、《唯一の》言語(私が理解する唯一の言語)の限界が《私の》世界の限界を意味することに、示されている。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』五・六、五・六一、五・六二、全集1、pp.95-96、奥雅博)
(索引:独我論)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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