命題の意味が真理値であることの理由
【命題の意味が真理値であることの理由。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(a) 命題の意味とは、同じ意味を持つ語の置き換えでも変化しないようなものである。
(b) 命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題から失われるものがある。真理値(真偽)である。
(c) 命題の意味を、真理値(真偽)と考えれば、(a)が成立し、また(b)は次のようになる。
(b')命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題の意味が失われる。
また、
(d) 命題が意味を持つためには、命題を構成する全ての固有名が意味を持つ必要がある。
(再掲)
命題 → 命題の意義 → 命題の意味
(思想) (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
(対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
(概念)
↓
当の概念に包摂
される対象
記号 → 一つの意義 → 一つの意味
=一つの対象
記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)
「以上の考察においては、意義と意味を、我々が固有名と名づけたさまざまな表現、さまざまな語、さまざまな記号について考察してきた。さて次に我々は、主張文(Behauptungssatz)全体の意義と意味について問題にしたい。そのような文には、一つの思想(Gedanke)が含まれている。では、この思想というものは文の意義と見なされるべきであろうか、それとも文の意味と見なされるべきであろうか。さしあたって、文が意味をもつことを仮定しよう。さて、その文の中の一つの語を、それと同じ意味をもちながら意義は異なる別の語によって置き換えよう。この場合、このような操作は文の意味に対しては何の影響も与ええない。ところが、そのような場合、思想は変化するということを我々は知っている。なぜならば、例えば、「明けの明星は、太陽によって照らされる天体である」という文の思想は、「宵の明星は、太陽によって照らされる天体である」という文の思想と異なるからである。宵の明星が明けの明星であることを知らない人は、一方の思想を真として、他方の思想を偽とすることがありうる。したがって、思想は文の意味ではない。我々としては、むしろ、それを意義と見なすべきであろう。しかし、文の意味はいかなるものであろうか。そもそも、そのようなことを問題にする必要があるだろうか。ことによると、一つの文は全体として意義はもつが、意味はもたないということではないだろうか。少なくとも我々は、意義はもつが意味はもたない文成分(Satzteil)があるのと同様に、文全体についてもそのようなことが生ずるということを当然と考えることが可能である。そして、意味をもたない固有名をふくむ文はその種の文となるであろう。例えば、「オデュッセウスは深くねむったまま、イタカの砂浜におろし置かれた」は明らかに意義をもっているが、そこに現われる「オデュッセウス」という名が意味をもつかどうかは疑わしいので、この文が意味をもつかどうかということも同時に疑わしい。しかしながら、本気でその文を真であるとか、あるいは偽であると見なす人が「オデュッセウス」という名前に対して意義のみならず意味さえも認めているということを疑うことはできない。この名前の意味には、述語の成立の是非がかかっているからである。一つの意味を認めないひとは、それについて述語が成立するか否かということに関して語ることはできない。いずれにせよ、ここで名前の意味にまで拘泥することは余計なことであるかもしれない。なぜならば、思想の段階にとどまりたいかぎり、意義のみで十分であるからである。すなわち、文の意義、つまり思想だけが問題になっているのであれば、文成分の意味まで考慮する必要はないであろう。なぜならば、文の意義を考えるときには、文成分の意味ではなく、その意義のみが考察の対象となりうるからである。実際、「オデュッセウス」という名前が意味を持つか否かにかかわらず、その文の思想は同一のままである。いずれにせよ文成分の意味を求めて努力するということは、文そのものに対してもまた一般的に意味を認め、それを求めていることの証である。思想というものは、その思想の諸部分の一つが意味を欠いていると我々が知るときただちにその価値を失う。したがって、我々が文の意義に満足することなく、文の意味が何であるかを問題にするということは正当なことであろう。しかし、そもそも我々が固有名の一つ一つに意義のみならず意味もあるということをなぜ期待するのであろうか。なぜ思想だけでは満足しないのであろうか。それは、我々にとって思想の真理値が問題になるからであり、また、その限りにおいてである。しかし、真理値を常に問題にしているのではない。例えば、叙事詩に耳を傾けるとき、我々を動かすものは、言語の心持よい響きを別にすれば、文の意義とそれによって惹き起される表象と感情だけである。それに対して、真理を問題にするならば、芸術の楽しみを去って学問的考察へと向かうのである。これゆえに、例のホメロスの韻文を芸術作品として理解している限りは、例えば「オデュッセウス」という名が意味をもつか否かということはどうでもよいことですらある。したがって、真理の追求は常に我々が意義から意味へ進むことを促すものなのである。
以上で見たように、構成部分の意味が問題になるときは、常に、文に対して意味が求められる。そして、このことは真理値を求めるときは常に、そしてそのときに限ってのことである。このように考えるならば、我々としては、文の真理値をその文の意味として認めざるをえなくなるであろう。文の真理値とは、その文が真であったり、偽であったりするという事情(Umstand)である。それ以外の真理値はない。簡単にするために私は、一方を真(das Wahre)、他方を偽(das Falsche)と名づける。したがって、語の意味が問題となるすべての主張文は、固有名として理解すべきである。つまり、その意味は、それがあるとすれば真か偽かのいずれかであるということになる。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』32-34、フレーゲ著作集4、pp.78-80、土屋俊)
(索引:文の意義,思想,文の意味)
(出典:
wikipedia)
「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは
真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7.
真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる
真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない。
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)
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