2018年10月27日土曜日

8.問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影の問題

【問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれている。
 (1.1)特定の種類の行為が、ルールによって規制されるべきだという意志を表明するには、ルールの中で使用する言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。
 (1.2)それにもかかわらず、言葉が明らかに適用できるとも適用できないとも言えないような議論の余地を持ったケースという半影の部分が存在する。
(2)半影の部分は、論理的演繹の問題ではなく、誰かが決定しなければならない。言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。
(3)このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。

 「ある法的ルールが公園の中で乗物に乗ることを禁じている。

明らかにこれで自動車は禁じられているが、では、自転車、ローラースケート、玩具の自動車はどうだろう。飛行機はどうだろう。

このルールの目的からして、ここに挙げたこれらのものは、「乗物」と呼ばれるのか呼ばれないのか。

もし私たちが互いに意志を疎通させようとし、そして、最もありふれた形式の法におけるように、特定の種類の行為がルールによって規制されるべきだという意志を表明しようとするならば、私たちの使用する――私の挙げた例の中の「乗物」のような――一般的言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。中核的な確固とした意味がなければならない。

だが、また同時に、言葉が明らかに適用できるとも適用できないともいえないような議論の余地を持ったケースという半影の部分も存在する。

このようなケースはそれぞれ、標準的なケースと共通のいくつかの特徴を持つであろう。

人間の創意工夫と自然な過程をたどって、既知のものの上にこのような変種が次第に積み上げられてゆく。

そして、もしこれらの範囲の事実は既に存在するルールの下に入るか否かを答えなければならないならば、その分類をする者はあるがままにではなく自らが決定を下さなければならない。

というのも、私たちが言葉をあてはめ、ルールを適用する事実や現象は、言わば、《沈黙を守っている》からである。玩具の自動車が声を上げて、「この法的ルール目的からすれば私は乗物である」などと言うことはあり得ないし、左右一組のローラースケートが「私たちは乗物ではない」と声を揃えて言うこともあり得ない。事実状況は私たちがうまく名付け、折り目をつけ、畳むのを待ってはくれない。

まして、法的な分類が裁判官にすぐに読めるように事実状況の上に書かれてあるなどということはない。

そうではなくて、法的ルールを適用する際には、言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。標準的なケースという強固な核、ないし、確固とした意味の外で生じる問題を「半影の問題」と呼んでもいいかもしれない。

公園の使用といった些細なことに関してであれ、憲法の多次元的一般性に関してであれ、この問題は常に付きまとう。

もし不確実な半影がすべての法的ルールを取り囲んでいるならば、半影部分にある特定のケースへの法的ルールの適用は論理的演繹の問題にはならず、したがって演繹的推論は、何世代にもわたってまさに完璧な人間の推論であるとして賞賛されてきたが、裁判官が、また実際誰であれ、一般的なルールの下に具体的なケースをもってくる際にすべきことのモデルとしては役に立たないことになる。

そこでは演繹だけでは十分ではない。

そして、半影の問題について法的議論と法的決定とが合理的であろうとするならば、その合理性は前提との論理的関係以外のものの中にあることになる。

したがって、このルールの目的からして飛行機は乗物ではないと議論し決定することが合理的、ないし、「もっとも」であるならば、この議論は、論理的に確定的でなくとも、もっともで合理的であることになる。

では、このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.72-73,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影の問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月26日金曜日

互いの協力によって成立している集団における「ただ乗り者」に対して、人は怒りの感情を持ち、代価を支払っても処罰しようとする。このような、人間が持つ向社会的処罰の傾向は、集団内の互いの協力を高める。(エルンスト・フェール(1956-))

向社会的処罰者

【互いの協力によって成立している集団における「ただ乗り者」に対して、人は怒りの感情を持ち、代価を支払っても処罰しようとする。このような、人間が持つ向社会的処罰の傾向は、集団内の互いの協力を高める。(エルンスト・フェール(1956-))】

「公共財ゲーム」という実験での検証結果である。
(1)「ただ乗り者」を罰する機会がない場合
 (1.1)最初は、ほとんどの人が協力的である。
 (1.2)次第に、ただ乗り者が現れる。
 (1.3)協力的な参加者は、自分がカモになっていることを知ると、次第に協力しなくなっていく。
 (1.4)最後には、協力する者がほとんどいなくなる。
(2)「ただ乗り者」を罰する機会がある場合
 (2.1)ただ乗り者を罰するには、自ら代価を支払わなければならないにもかかわらず、処罰者が現れる。
 (2.2)そして、全体の協力の度合が高くなる。
 (2.3)また、ゲームに罰が取り入れられると、実際に誰かが罰を下す前に、協力が高まる。すなわち、自身には何の得もないにもかかわらず処罰者が現れるという予想を、参加者は持っている。
(3)人は、向社会的処罰者である。
 (3.1)互いの協力によって成立している集団において、自らは協力しないで利益を得る「ただ乗り者」に対して、人は怒りの感情を持つ。
 (3.2)怒りは、自分には何の得もなく、むしろ代価を支払わなければならない状況においても、「ただ乗り者」を処罰するという行動へと、人を動機づける。
 (3.3)処罰するという行動の可能性は、集団内での協力を高める。
 (3.4)集団内の協力が高まることで、他の集団を打ち負かすのを助けることになる。

(出典:wikipedia
エルンスト・フェール(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
エルンスト・フェール(1956-)
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 「研究室で行なわれた多数の実験により、人が実際に向社会的処罰者であることが確認されている。こうした実験でもっとも有名なのが、エルンスト・フェールとシモン・ゲヒターがいわゆる「公共財ゲーム」を使って行なった実験だ。これは、「コモンズの悲劇」とよく似た多人数版の「囚人のジレンマ」だ。参加者は全員、ゲームの冒頭で決まった額のお金を受け取り、いくつかのグループに分けられる。参加者は一ラウンドごとに共同資金として一定金額を出資する。共同資金に預けられたお金は実験者によって何倍かに増やされてから、参加者に均等に分配される。誰がいくら出資するかはわからないようになっている。
 この場合、集団としての合理的行動は、参加者全員が所持金を全額共同資金に出資するというものだ。そうすれば、実験者によって増やされるお金の総額が最大になり、集団全体の取り分も最大化される。」(中略)「ところが、個人としての合理的行動は(利己主義者だったら)、まったく出資しない――つまり、他の参加者の出資金に「ただ乗り」するというものだ。ただ乗り者は、最初に受け取ったお金をまるまる手元に残し、なおかつ共同資金の分け前にもあずかれる。この場合、ただ乗り者がひとりで三人が協力的であれば、ただ乗り者は25ドルの純益を得るが、残りの人は各自たった5ドルの純益しか得られない。公共財ゲームのただ乗り者は、「囚人のジレンマ」での裏切りや、「コモンズの悲劇」で羊を「好きなだけ増やす」行為と似ている。
 公共財ゲームをくり返すと次のようなパターンが見られる。ほとんどの人が最初は協力的で、少なくとも所持金の一部を共同資金に出資する。しかししだいに、ただ乗りをする人が現れる。共同資金への出資額を減らしたり、お金をまったく出さなくなったりするのだ。協力的な参加者は、自分がカモになっていることを知ると、出資額を減らしたり、出資をやめたりする。ラウンドを重ねるごとに出資額が減り、「うんざりだ」という参加者が増え、出資金はかぎりなくゼロに近づく。悲劇だ。」
 「ところが、協力的参加者にただ乗り者を罰する機会を与えると、状況が変化する場合が多い。この場合の罰は「代価を伴う罰」で、誰かの取り分を減らすためにいくらか支払わなくてはならない。たとえば、次のラウンドで、ひとりが1ドル支払うと、ただ乗り者の取り分が4ドル減る。これは経済的に誰かの頭をゴツンと殴ることに相当する。実験者が、ただ乗り者を罰する機会を与えると、通常、共同資金の額は増える。重要な点は、処罰者が罰から何も得るものがなく、全員がそれを承知していても、この現象が起きることだ。それだけではない。ゲームに罰が取り入れられると、即座に、誰かが実際に罰を下す前に、協力が高まる。つまり、ただ乗りしようと考えている人が、ただ乗りすると、自分を罰したところで(物質的に)何の得もない人々にまで罰せられると予測するわけだ。
 《なぜ》私たちは向社会的処罰者なのか? これについてはさかんに議論されている。ある人たちは、向社会的処罰は、直接互恵と評判管理に向って人類が進化させた性向のたんなる副産物だという。私たちは、協力しあう未来が築けそうにない相手を罰する。それは私たちの脳が、すべての人は協力のパートナーであり、誰かがつねに見張っているかもしれないと自動的に思い込んでいるからだ。小規模な狩猟採集集団で暮らすぶんには、不合理な思い込みではない。またある人たちは、向社会的処罰は、生物学的選択や文化選択を通して集団レベルで進化したという。向社会的処罰は集団にとってよいものであり、向社会的に処罰を与えることで、その人は、自分の集団が他の集団を打ち負かすのを助けているというのだ。これはたいへん興味深い議論ではあるが、自分の立場をはっきりさせる必要はない。本書の目的にとって重要なのは、向社会的処罰が生じるということと、それが現在よく知られている心の特徴に合致するということだ。
 予測されるように、向社会的処罰は情動によって引き起こされる。フェールとゲヒターは参加者に、ただ乗りをした人にもし実験室の外で会うことがあったら、その人についてどう感じると思うかを尋ねた。ほとんどの人は、怒りを感じると思うと言い、立場が逆だったら怒りは《自分たちに》向けられるだろうと言った。このあきらかに道徳的な怒りを《義憤》と呼ぼう。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.76-78,竹田円(訳))
(索引:向社会的処罰者)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.c.1)~(1.c.2)追記。

 (1.c)難解な事案において、法的権利義務は判決以前にも所与として既に存在しているはずであり、裁判官は拘束力ある法的規準を適用して、その権利義務を明らかにする。
  (1.c.1)まず、次の事実が存在する。上級裁判所は、既存の法準則を否定することもある。法準則は、時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて根本的に修正されていく。いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。
  (1.c.2)諸原理が「法」であるならば、法準則と諸原理の総体的な体系の中で、当該の法準則の変更が、他の原理に比較して一層重要なある原理を促進すると判断されたと考えることができる。これは、無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定し得ることとは異なる。

 「アメリカの多くの法域において、また現在ではイギリスにおいても、上級裁判所が既存の法準則を否定することは決して稀なことではない。コモン・ローの法準則――これらは過去の裁判所の判決を通じて発展したものであるが――は、しばしば端的に否定され、あるいは更なる発展を通じて根本的に修正されていくことがある。また制定法上の法準則も解釈、再解釈をうけ、場合によっては解釈が結果的にはいわゆる「立法者意思」を無視する場合でも、これは認められている。もし裁判所が既存の法準則を修正する裁量を有するのであれば、当然これらの法準則は裁判所を拘束していないことになり、実証主義モデルでいう法とは言えなくなるだろう。それ故実証主義者は、裁判官をそれ自体で拘束するある種の規準の存在、つまりいかなる場合に裁判官は既存の法準則を否定ないし修正しえて、いかなる場合にこれが不可能かを規定する規準の存在を論証しなければならない。
 それでは、いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。この問いへの返答において、原理が二つの仕方で登場してくる。第一に、裁判官は法準則の変更がある原理を促進すると判断することが必要――十分とは言えないまでも――であり、この場合、当の原理は法準則の変更を正当化することになる。リッグス事件における法準則の変更(遺言規定の新解釈)は、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理によって正当化され、ヘニングセン事件においては、自動車製造業者の責任に関し従来まで認められていた法準則が、裁判所の意見の中から私が引用した上記の諸原理を正当根拠として、修正されたのである。
 しかし、どのような原理でも法準則の変更を正当化しうるわけではない。さもなければ、あらゆる法準則が常に変更されうるという不安定な状態におかれてしまうだろう。法準則を変更しうるほど重要な原理とそうでない原理があるはずであり、更に前者の原理でも、他の原理に比べて一層重要なある種の原理が存在するはずである。しかしこれは、基本的にはいずれも採用される資格があり考慮に値する無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定しうることではない。もしそうだとすれば、いかなる法準則も拘束力を有するとは言えなくなるからであり、裁判官が法外在的な規準を選択する仕方によっては、最も確固とした法準則に関してでさえ、修正や根本的再解釈が正当化されてしまうことが常に予想しうるからである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.35-36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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7.12.在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

在る法と在るべき法の区別

【在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

(3.1)~(3.4)追記

(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムはこの区別を主張するのに、道徳を神と関連させて特徴づけるのではなく、言うまでもなく、功利の原則のみに関連させて議論した。

二人がこの区別を主張した主要な理由は、道徳的悪法の存在の引き起こす問題の正確な論点をしっかりと把握するためであり、また、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するためであった。

ベンサムの言う法の支配の下での生活の一般的な処方は簡単で、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であった。

しかし、ベンサムは、フランス革命を心配しながら観察しており、この処方では十分ではないということを非常にはっきりと意識していた。どのような社会においても、法の命令があまりに悪いために、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかもしれず、そして、その時点で直面する問題をあまりに単純化したり曖昧にしたりしないことが大切であることを意識していた。

法と道徳を混同することで、このしてはならないことがまさになされてきたのであった。ベンサムは、この混同が人をまったく向きの異なる二つの方向に進ませると考えた。

一方でベンサムの念頭にあるのは、「これは法であるべきではない。したがって法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストであり、他方で彼が考えているのは、「これは法である。したがってこれは在るべき法である」と言い、それでもって提起される前に批判を潰してしまう反動家である。

ベンサムは、このどちらの誤りもブラックストーンに見付けられると考えていた。ブラックストーンには、人の法は神の法に反するならば無効であるという不注意な語り方が見られる一方、「我らが著者〔ブラックストーン〕に基本的に見られる追従的な《キエティスム》の精神」が在ると在るべきの「違いを彼にほとんど認識できなくさせている」のである。 

これはまさにベンサムにしてみれば、法律家の職業的宿痾であった。「法律家にだまされやすい人すなわち非法律家の大多数はもちろん、法律家の目にも、《在る》と在る《べき》とは一にして不可分なものである。」だからこそ、在ると在るべきとの区別にこだわることが二つの危険の間隙をぬって進む助けになるのである。

一つの危険は、法とその権威を各人が抱く在るべき法についての見解と同一化してしまう危険であり、もう一つの危険は、存在する法が行為の最終的なテストとして道徳にとってかわり、その結果批判を受けつけなくなる危険である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.63-64,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月25日木曜日

人間には、集団の成員であることを示す恣意的な目印を基に、簡単に人を社会的に分類し、社会的選好を形成する傾向が存在する。仮に、何の根拠もない無作為のグループにも、内集団の成員をひいきにする傾向がある。(ヘンリー・タジフェル(1919-1982))

恣意的な目印による社会的分類

【人間には、集団の成員であることを示す恣意的な目印を基に、簡単に人を社会的に分類し、社会的選好を形成する傾向が存在する。仮に、何の根拠もない無作為のグループにも、内集団の成員をひいきにする傾向がある。(ヘンリー・タジフェル(1919-1982))】

(出典:wikipedia
ヘンリー・タジフェル(1919-1982)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ヘンリー・タジフェル(1919-1982)
検索(Henri Tajfel)
 「この実験から、私たちが、集団の成員であることを示す恣意的な目印を基に簡単に人を特徴づけることがわかる。しかし、そのこと自体は、私たちがこうした社会的分類をどう利用しているかについて何もあきらかにしない。ヘンリー・タジフェルらが行った有名な研究は、社会的分類がじつに簡単に社会的選好の土台になることをあきらかにしている。タジフェルは、被験者を偶発的な違いに基づいて二つのグループに分けた。たとえばある実験では、あらかじめ行われた評価課題で、点数を高くつける傾向があった(もしくは点数を低くつける傾向があった)かどうかで二つのグループに分けるふりをした(実際には無作為に分けた)。それから被験者たちに、実験の別の参加者に匿名でお金を分配するように指示した。実験グループはその場かぎりのもので、グループ分けには何の根拠もなかったにもかかわらず、人には内集団の成員をひいきにする傾向があることがわかった。実際、タジフェルは、グループ分けがあきらかに無作為になされている場合でも、人は内集団の成員をひいきにすることを発見した。内集団びいきは、たんに均衡を破るための戦略ではなかった。人々は、外集団のメンバーにより多くお金を与えるくらいなら、内集団のメンバーにより少ないお金を与える場合が多かったのだ。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),p.71,竹田円(訳))
(索引:社会的分類)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.b.1)~(1.b.4)追記

 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
  (1.b.1)例えば、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が、当該事案の裁判官により無視された場合、「慣行が無視された」と指摘することが妥当であろうか。
  (1.b.2)特定の原理の顧慮は単に「道徳的」な義務にすぎないとか、司法の「職業倫理上」の拘束であり、法としての拘束力は有しないなど言えるだろうか。
  (1.b.3)原理の権威や、原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。このことをもって、原理は法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。
  (1.b.4)拘束力のある法には、承認のルールのような「テスト」するルールがあり、原理にはこのようなテストが存在しないので、法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。

 「(1)まず実証主義者は、原理というものはそもそも拘束したり義務づけることはありえない、と主張するかもしれない。しかしこれは間違いだろう。特定の原理が「事実として」法適用の任務に当たる人々を拘束しているかという問題はもちろん常に提起しうる。しかし原理の論理的性格の中には、それが裁判官を拘束することを不可能にするようなものは含まれていない。ヘニングセン事件において、自動車製造業者は消費者に対し特別の義務を負うという原理や、裁判所は取り引き上弱い立場にある者を保護するという原理を裁判官が顧慮せずに、ただ契約自由の原理のみを援用し被告に有利な判決を下した場合を想定してみよう。これを批判する者は、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が当該事案の裁判官により無視された事実を指摘するだけでは満足しないだろう。ほとんどの批判者は、上記の原理を顧慮することは当該裁判官の義務であり、原告は裁判官に対しこれを要求する権利があると答えるだろう。ある「ルール」が裁判官を拘束すると言われる場合、その意味するところは、ルールが当該事案に適用可能であれば裁判官はこれに従う義務があり、従わなければこのことにより誤りを犯したことになる、ということに他ならない。
 ヘニングセン事件のごとき事案では、裁判所は特定の原理を顧慮すべく単に「道徳的」に義務づけられるにすぎないとか、「制度的に」義務づけられるにすぎないとか、あるいは司法の「職業倫理上」拘束されるとか、その他この種の主張を行なっても問題の解決にはならない。というのも、何故この種の義務(この義務を何と呼ぼうと)と、法準則が裁判官に課する義務とを相互に異質のものと考えねばならないのか、そして何故原理や政策が法の一部分ではなく、単に「裁判所が特徴的な仕方で用いている」法外在的な規準にすぎないと断言しうるのか、といった問題が以前として未解決のまま残るからである。
 (2)次に実証主義者は、ある種の原理は、裁判官がこれを顧慮すべきだという意味で拘束力をもつことを認めた上で、原理が特定の結論へと裁判官を決定づけることはありえない、と主張する。」(中略)「これは原理が法準則ではないことを別の表現で述べているにすぎない。結論が何であろうと、特定の結論を導出すべく適用者に命令するのは法準則だけである。法準則が指示するものと反対の結論が導出されれば、これは法準則が放棄されたか修正されたからである。しかし原理はこのようには作用しない。」(中略)「
 (3)更にある実証主義者は次のように論じるだろう。すなわち原理の権威や、ましてや原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、したがって原理を法とみなすことはできない、と。確かにしばしば我々は国会の決議や権威ある裁判所の意見の中に法準則を位置づけることにより、その妥当性を証明するが、これと同様の仕方で特定の原理の権威や重みを「証明」することは一般的にいって不可能である。むしろ、原理や原理の重みの根拠を提示しようとする場合、我々が援用するのは、立法過程や司法過程において以前から暗黙裡に前提されてきた慣行や他の原理の複合体、及び社会一般の慣行や了解などである。この種の事柄においては、ことの是非を確証するようなリトマス試験紙は存在しない――これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。しかし繰り返しになるが、このような実証主義者の主張が正しいからといって、裁判官が裁量をもたない他のタイプの裁定者と異なっていることにはならない。」(中略)
 「もちろん、法実証主義にはもう一つ別の理論――すなわち各々の法体系にはハート教授のいう承認のルールのごとき、拘束力のある法を窮極的に「テスト」するルールがあるという理論――が存在し、もし実証主義者のこの理論が正しいとすれば、原理は拘束力のある法ではないことになる。しかし原理が実証主義理論と両立しないからといって、原理を法とは異なる何か特別なものと考えるべき理由にはならない。これは問題とされていることを既に真と仮定しての議論に過ぎない。我々は実証主義的な法モデルが果たして適切か否かを評価しようとしているのであり、それ故にこそ原理の性格に関心を向けているのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.31-34,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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6.11.在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

在る法と在るべき法

【在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))】

(1)在る法
 法が存在しているか存在していないかが問題である。好きか嫌いか、是認するか否認するかにかかわらず、現実に存在していれば、それは法である。
(2)在るべき法
 例えば、
 (2.1)道徳の根本的な原則が要求する命令
 (2.2)あるいは、その命令の「指標」である「功利」
 (2.3)あるいは、社会集団によって現実に受け入れられている道徳
(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 この区別を曖昧にする人は、在るべき法と対立する人の法は、義務ではないし拘束力を持たないという誤った考えに導かれてゆく傾向がある。
(出典:wikipedia
ジョン・オースティン(1790-1859)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジョン・オースティン(1790-1859)
検索(ジョン・オースティン)

 「ベンサムとオースティンは、街が燃えているのに言葉の区別をいじっている薄情な分析家ではなく、情熱的な勢いで活動し、より良い社会やより良い法をもたらすことに功績のあった運動の先鋒であった。

では、なぜ、彼らは在る法と在るべき法の分離を主張したのであろうか。何を彼らは言うつもりであったのか。まず彼らの言葉を見てみよう。

オースティンは次のようにこの原理を定式化している。

 『法の存在と、法の持つメリット、デメリットとは別のことである。法が存在しているか存在していないかを探るのは一つの探究であり、法がある基準に適合しているか否かを探るのは別の探究である。

法は、私たちがそれを嫌いに思おうが、また、私たちが是認するか否認するかを決める典拠にしているものと合致しまいが、現実に存在していれば、法である。

この真理は、抽象的命題として形式的に表明されてみれば、あえてそれを主張する理由もないことのように思われるほど単純で明白である。

しかし、単純で明白なものだから、抽象的な表現の中でそれが落ちてしまっている場合を数えあげたら一巻の書物になるほどの量である。

 たとえば、ブラックストーン卿は彼の『釈義』の中で次のように述べている。

神の法は他のどの法よりも優先的に遵守されなければならない。どのような人の法も神の法と矛盾することは認められない。人の法は神の法に矛盾するならば妥当性を持たない。すべての妥当する法はその力を神的な源から引き出している。

 ここで、彼が言いたいのは、すべての人の法は神的な法に合致していなければならないということ《かも》しれない。
もしこれが彼の意味するところならば、私は躊躇なくこれに同意する……。

おそらく、また、彼が言いたいのは、人の法を定める者たちは、神的な法によって、彼らが強制する法をかの究極の基準に適合させるように自ら拘束されているが、それはもしそうしなければ神が彼らを罰するからである、ということであろう。これに対しても私は完全に同意する……。

 しかし、このブラックストーンからの引用文の意味するところは、そもそも意味を持っているとすれば、むしろ次のようになると思われる。

神的な法と対立する人の法は義務ではないし拘束力を持たない。言い換えれば、神的な法と対立する人の法は《法ではない》……。』

 在る法と在るべき法との区別を曖昧にすることに対するオースティンの抗議は非常に一般的なものである。

彼は、在るべきものについての基準が何であれ、この区別を曖昧にすることは誤りであると説く。

ただし、彼の挙げている例は常に、在る法と道徳が要求する法とを混同している例である。

彼にとっては、道徳の根本的な原則は神の命令であり、功利はこの「指標」であったこと、さらに、これに加えて、社会集団によって現実に受け入れられている道徳、すなわち「実定」道徳の存在が考えられていた、ということが思い起こされなければならない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.61-63,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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