2019年4月25日木曜日

31.選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))

形式主義、概念主義、法律家の「概念の天国」

【選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

(4)半影的問題における決定の本質
  半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法の不完全性
  法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法の中核の存在
  法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
   法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

  (4.3.1)むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神ではなくて人間だから、このような「選択の必要性」を負わされているのである。
  (4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
   この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
  (4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
   (a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定めている。
   (b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となっている論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定したものにされていく。
 (4.4)選択肢の非一意性
  (4.4.1)在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
  (4.4.2)ルールの意味を凍結して、選択の必要性を認識しないことは、形式主義、概念主義、法律家の「概念の天国」の誤りに導かれる。
   (a)事実に関する不完全な認識と、予知不可能性から不可避的に生じてくる全く想定していなかった事件、問題に関して、未知の構造を解明しようとする努力がなされず、既存の枠組みへのあてはめが行われる。
   (b)一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる。その結果、様々な事件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力が行われない。
   (c)新たな事実の構造の中で解明されるべき概念が固定され、新たな問題の解決の中で明確にされるべき目的が固定されることで、概念の一部が不正確になり、もたらされる社会的結果の評価が不十分なものになる。

 (4.5)決定は強制されず、一つの選択である
  存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。


 「さまざまな法体系において、あるいは同一法体系でも時点が違う場合には、一般的ルールを個々の事例に適用するさい、格別の選択をすることの必要性は、無視されたり、多少ともはっきりと承認されたりすることがありうる。形式主義 formalism または概念主義 conceptualism として法理論に知られている欠点は、言葉で定式化されたルールに対してとる態度に見られるのであって、その態度は一般的ルールがひとたび設定されるときは、このような選択の必要性をおおい隠し、また最小限にとどめようとするものである。この一つのやり方は、ルールの意味を凍結して、その一般的用語が、適用問題を生じるすべての場合に、同一の意味をもたねばならないとすることである。このことのためには、明瞭な事例に存在するある特徴に注目して、これらの特徴が、その特徴をもっているすべての事柄をルールの範囲内に入れるための、必要で十分な条件であると主張すればよいのであって、そのさいその特徴をもっているすべての事柄が他の特徴をもっているかどうか、またこのようにルールを適用することの社会的結果がどうであるかは問うところではないのである。こうすることは、われわれの知らない構造をもった一連の未来の事例について、どう扱ってよいかわからないまま予断するという犠牲を払って、ある程度の確実性または予測可能性を確保することになる。そうすることで、われわれは実際、論点が生じて確認されたときにだけ合理的に解決できるにすぎないものを、事前に、しかし、知らないままでも解決することに成功するだろう。このようなやり方で、われわれが合理的な社会的目的を実現するためには、除外したいと思うような事件や、もしそれ程厳密に定義していなかったとしたら、言語の開かれた構造をもった用語からすれば排除してもよいような事件を、あるルールの範囲内に包含せざるをえないようになるだろう。われわれが厳密に分類するということは、そのルールをもち、維持しようとする目的と、このように争うことになるだろう。
 この仮定のゆきつくところが法律家の「概念の天国」the jurists' 'heaven of concepts'である。これが達成されるのは、一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる場合である。そこでは、繰り返し生じるさまざまな事件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力は、まったく求められもしなければ、行なわれもしないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,pp.141-142,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:形式主義,概念主義,法律家の「概念の天国」,選択肢の非一意性,選択の必要性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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11.人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

人間以外の動物たちへの配慮

【人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

(2.3)追記

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
  人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムによれば、人間の快苦に配慮することと同じように人間以外の動物の快苦に配慮することも道徳的義務である。

ヒューウェル博士はベンサムから引用し、誰もがそれを逆説的な不合理の極みと見なすだろうというきわめて素朴な考えを示しているが、私たちはその賞賛に値するベンサムの文章を引用せざるをえない。

 『ヒンドゥー教やイスラム教においては、人間以外の動物の利益もある程度配慮されているようである。

なぜ動物たちの利益は、感受性の違いを考慮に入れた上で、人間の利益と同じくらいの配慮を普遍的には受けてこなかったのだろうか。

既存の法律は人間相互の恐怖心の産物であり、理性能力で劣る動物は、人間のように恐怖心という感情を活用する手段を持ち合わせていなかったからである。

なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対してはいかなる理由も見いだすことはできない。

人間以外の動物が、暴君の手による以外には彼らから奪うことのできなかった権利を獲得する日がいつかくるだろう。いつの日か、足の本数、皮膚の毛深さ、あるいは仙骨の先端[尻尾の有無]が、感覚をもっている存在を虐待者の気まぐれに任せる根拠としては不十分であると認められることだろう。

何かほかに越えがたい一線を引くようなものがあるだろうか。

それは理性能力なのか、あるいはひょっとすると会話能力なのか。しかし、成長した馬や犬は、生後1日や生後1週間、さらには生後1ヵ月の乳児よりも比べものにならないほど理性的で意思疎通のできる動物である。

しかし、仮にその正反対のことが事実であったとしても、その事実が何の役に立つのだろうか。

問題は理性を働かせることができるかでも、話すことができるかでもなく、苦痛を感じることができるかということなのである。』

 約50年後に成立した動物虐待を禁止する法律ではじめて現れたより優れた道徳を1780年の時点でみごとに予期していたこの文章は、ヒューウェル博士の目には、幸福に基づく道徳論が不合理であることを決定的に証明するものとして映っているのである。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.217-219,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:人間以外の動物たちへの配慮)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月24日水曜日

10.ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの道徳的強制力

【ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.4.1)追記。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

 「道徳的観念を前提としている同胞による是認は道徳の基礎にはなりえないというヒューウェル博士の見解は、ベンサムにも功利性の原理にも当てはまらない。

ただし、こうした是認が前提にしている道徳的観念は功利性の観念や有害性の観念にほかならないということは的を射ているかもしれない。

人類は幸福あるいは不幸を生み出す行為の傾向性を認識する程度に応じて、前者を好み推奨したり後者を忌避し非難したりすると想定することは、仮説を過度に拡大解釈しているわけではない。

行為に向けられたこれらの自然な満足感と自然な不安感や嫌悪感が、どのようにして《道徳》感情と呼ばれているものに見られる特殊な性質を帯びるようになったのかは、倫理学の問題ではなく形而上学の問題であり、それにふさわしい場所で論じられるべき問題である。

ベンサムはこの問題には関心を持たなかった。彼はそれを他の思想家の手に委ねた。ベンサムにとっては、行為が人間の幸福に与える知覚可能な影響が、理由としても事実としても、ある行為を好んだり別の行為を嫌ったりする強い感情の十分な原因であるということで十分だった。

行為者の想像力や自己意識のなかでこれらの感情が共鳴反応することから、自己是認や自己非難のようなより複雑な感情が自然に生じてくる。

あるいは、争点となっている問題すべてを避けるために、そのような私たち自身への満足感と不満感が生じてくるとだけ述べておこう。それ以外のすべてのことが否定されるとしても、この点だけは認められるに違いない。

最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが置いたのはこのことだけである。

これが認められれば、次はベンサムの言う民衆的強制力と、それに対する行為者の精神の側での反応についてであり、これら二つの作用は、人類が啓発されている度合いに応じて、各人の行為を全体の幸福を増進するような方向に沿わせていく傾向にある。

ベンサムは、これ以外には真の道徳はないし、いわゆる道徳感情はその起源や構成要素がどのようなものであったとしても、このような方向のみに作用するように訓練されるべきだと考えていた。

よって、ヒューウェル博士はこの理論のなかに非論理的あるいは非整合的な箇所を見出そうとしたが、彼がこの理論を未だ理解していないことを明らかにしただけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.215-217,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳的強制力,自己是認,自己非難,好意,反感)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月21日日曜日

9.行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の道徳的評価、審美的評価、共感的評価

【行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(3)ミルの考え
 (3.1)人間の行為は、3つの側面から評価される。行為の道徳的側面は最も重要であるが、他の側面と混同したり、他の側面を無視することは誤っている。
  (3.1.1)行為の道徳的側面
  《観点》ある行為の予見可能な帰結が、私たちにとって望ましいかどうかの「理性」による判断。
  《引き起こされる感情》是認したり、否認したりする。
  《行為に付与される属性》行為の正・不正。
  (3.1.2)行為の審美的側面
  《観点》ある行為が、望ましい動機や性格の徴候を示しているという「想像力」による判断。
  《引き起こされる感情》賞賛したり、侮蔑したする。
  《行為に付与される属性》行為の美しさ・醜さ。
  (3.1.3)行為の共感的側面
  《観点》ある行為が、共感できる動機や性格の徴候を示しているという「同胞感情」による判断。
  《引き起こされる感情》愛したり、憐れんだり、嫌悪したりする。
  《行為に付与される属性》行為の愛らしさ・行為への憎しみ。
  (3.1.4)ベンサムによる異論は次のとおりであるが、誤りである。
   (i)ある行為によって、賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情が引き起こされたとしても、その行為がその人の望ましい動機や性格、あるいは悪い動機や性格の徴候であると推測することはできない。
   (ii)従って、利益や危害をもたらさない行為によって、その人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは、不正義であり偏見である。
   (iii)「良い趣味」や「悪い趣味」という言いかたで趣味について賞賛したり非難したりすることは、一個人による無礼な独断論である。人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではない。

 (3.2)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
  有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素となっている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することに関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「彼は見過ごすことのできない別の誤りも犯している。

というのは、これほど、彼を人類に共通する感情に反対する立場に追いやりがちで、ベンサム主義者に対して一般に抱かれている考えを特徴づけている非情で機械的で不愛想な雰囲気を彼の哲学に与えがちなものはないからである。

この誤謬、というより一面性は、功利主義者としての彼に属しているものではなく、専門的道徳論者としての彼に属しているものであり、宗教的であっても哲学的であっても、ほとんど道徳論者を公称しているすべての人々に共通しているものである。

それは、行為や性格を《道徳的》観点から観察することはそれらを観察する第一のもっとも重要な仕方であることは間違いないけれども、あたかもそれが《唯一の》仕方であるかのようにみなすという誤りである。

ところが、それは3つの仕方の1つにすぎず、人間に対する私たちの感情はそれら3つのすべてによって大いに影響されるだろうし、影響されるに違いないし、私たちの本性が抑えこまれないかぎりは影響されざるを得ないのである。

人間のあらゆる行為は3つの側面をもっている。《道徳的》側面、すなわち行為の《正・不正》に関わる側面と、《審美的》側面、すなわち行為の《美しさ》に関わる側面と、《共感的》側面、すなわち行為の《愛らしさ》に関わる側面である。

第一のものは私たちの理性や良心に関わり、第二のものは私たちの想像力に関わり、第三のものは私たちの同胞感情に関わる。

私たちは第一のものに照らして是認したり否認したりし、第二のものに照らして賞賛したり侮蔑したりし、第三のものに照らして愛したり憐れんだり嫌悪したりする。

行為の《道徳性》はその予見可能な帰結に左右され、行為の美しさや愛らしさ、またはその逆は、行為がその徴候を示している性質に左右される。

こうして、嘘をつくことが《不正》なのは、その結果が人を惑わすということだからであり、人間同士の信頼を損なう傾向があるからである。それが《卑劣》でもあるのは、それが臆病だからであり――というのは、それは真実を話すことによる結果に向き合おうとしないことから起きているからである――あるいは、せいぜいよくても、活力や知性に欠陥のないあらゆる人が当然もっていると思われるような正攻法によって目的を達成する《力》が欠けていることの証拠だからである。

自分の息子たちを罰したブルトゥスの行為は、罪を犯したことが明白な人に対して祖国の自由にとって不可欠な法律を執行したのだから、《正しいもの》であった。それは類まれな愛国心、勇気および自制心の強さを示しており、《賞賛すべきもの》であった。しかし、そこには何ら《愛すべきもの》はなかった。それは愛すべき資質があったと推定しうる根拠を示しておらず、そのような資質が欠けていたと推定しうる根拠を示している。

もし息子たちの一人が兄弟に対する愛情から陰謀に加担していたとしたら、《彼の》行為は道徳的でも賞賛すべきものでもなかったかもしれないが、愛すべきものではあっただろう。

行為を観察するためのこれら3つの仕方を混同することは、どのような詭弁を弄してもできないことである。しかし、それらのうちひとつだけに固執して残りのものを見失うことはきわめてありうることである。

感情論は3つのうち後の2つを最初のものよりも上位に置くものであり、一般の道徳論者やベンサムの誤りは、後の2つを完全に無視することである。このことはベンサムにとりわけ顕著である。

彼は、あたかも道徳的基準がもっとも重要でなければならないだけでなく(それはそうであるが)、唯一のものでなければならないかのように、そして利益や危害をもたらさない行為や抱かれた感情に比例するだけの利益や危害をもたらされない行為によって人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは不正義であり偏見であるかのように書いたり考えたりしていた。

彼はこのことに関しては実に徹底していたために、このような根拠のない好き嫌いと彼が考えていたものを表現しているものであるとして、自分がいるところでそれについて話されるのを耳にすることが我慢ならないいくつかの成句があった。

それらのなかには、《良い趣味》や《悪い趣味》という成句があった。彼は、趣味について賞賛したり非難したりすることは一個人による無礼な独断論であると考えていた。

それ自体は善くも悪くもないものに対する人々の好き嫌いは、人々の性格のあらゆる点に関してもっとも重要な推測を含んでいるわけではないし、人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではないかのように考えていた。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.154-156,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:行為の道徳的評価,行為の審美的評価,行為の共感的評価)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月20日土曜日

30.法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法の不完全性

【法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.3)追記。

  半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)それにもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。この基準は、何だろうか。
 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
  (1.2.1)このケースでの「べき」は、道徳とはまったく関係のないものである。
  (1.2.2)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 (1.3)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
 (1.4)しかし、在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
検索(ロン・フラー)

 (3.1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
  (3.1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (3.1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)日常言語においても、次のような事実がある。
  (3.2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (3.2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (3.2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(4)半影的問題における決定の本質
  半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法の不完全性
  法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法の中核の存在
  法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)事実認識の不完全性と目的の不確定性
  (4.3.1)むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。
  (4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
   この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
  (4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
   (a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定めている。
   (b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となっている論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定したものにされていく。
 (4.4)選択肢の非一意性
  在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
 (4.5)決定は強制されず、一つの選択である
  存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。


 「行動の基準を伝達する手段として、先例または立法のいずれが選ばれるにせよ、それらは、大多数の通常の事例については円滑に作用したとしても、その適用が疑問となるような点では不確定であることがわかるだろう。それらには《開かれた構造》an open texture と呼ばれてきたものがあるだろう。われわれは今まで、これを立法の場合につき、人間の言葉の一般的特徴としてのべてきた。つまり、境界線上の不確定さというものは、事実問題に関してどんな伝達の形態をとったとしても、一般的分類用語を使用するかぎり支払わなければならない代償なのである。英語のような自然言語がこのように使われるとき、開かれた構造になることは避けられない。しかし、このように伝達は開かれた構造という特色をもった言語に実際は依存しているが、それを別にしても、われわれは、特定の事例に適用されるかどうかの問題が常に事前に解決されており、実際の適用にあたって、開かれた選択肢からの新たな選択を決して含まないような詳細なルールの概念を、なぜ理想としてさえ抱くべきでないのかという理由を認識することが重要である。その理由を簡単に言えば、われわれが神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。個々の場合について、公機関による格別の指令を待たずに使えるような一般的基準により、明白にそして事前に何らかの行動領域を規律しようとするときはいつでも、関連する二つの困難の下で苦労することが、人間の(したがって立法の)置かれた状況の特色である。第一の困難は、事実についてわれわれが相対的に無知であること、第二はわれわれの目的が相対的に不確定であることにある。もしわれわれの住んでいる世界の特徴が限られており、しかもそれらがそのすべての結合の方法を含めてわれわれに知られているとしたら、あらゆる可能性に対して事前にそなえることができるだろう。個々のケースへの適用につき、格別の選択をなす必要がないようなルールを作ることもできるだろうし、あらゆることを知ることができ、その結果あらゆることに対してルールが事前にあることをし、また特に定めておくこともできるだろう。これが「機械的」法学 'mechanical' jurisprudence に適した世界であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,pp.139-140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
 「われわれの世界がこうでないことは明らかであり、人間たる立法者は将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を知りつくすことはできない。こうした予知の不可能性から、目的について相対的な不確定性がもたらされることになる。われわれがあえて何らかの一般的な行為のルール(たとえば公園内に乗り物を乗り入れるべからずというルール)を作成するとき、この文脈で使われる文言は、いかなる事柄も、その範囲内に入ろうとするかぎり満たさなくてはならない必要条件を確定しており、その範囲内にあることが確かであるような事柄のある明瞭な事例が、われわれの心に浮んでくるだろう。それらは範例であり、明白な事例(自動車、バス、オートバイ)なのであって、われわれの立法目的はすでにある選択をなしているので、そのかぎりで確定されているのである。公園内での平和と静けさは、これらの乗物を排除するという犠牲を払ってでも維持されるべきであるという問題を、われわれははじめに解決しておいた。他方われわれは、公園での平和という一般的目的を、はじめには考えなかったか、おそらくは考えることができなかった事例(電気で動くおもちゃの自動車)に関連させるまでは、われわれの目的はこの面で確定されていない。われわれは考えたことのない事件が生じたとき、そこで起きるかもしれない問題を、予知しなかったので、それを解決していない。つまり、その問題というのは、公園内のある程度の平和が、これらのものを使って楽しみ喜ぶ子供達との関係で、犠牲にされるべきか、それとも守られるべきかということである。考えたことのない事件が生じるとき、われわれは問題となっている論点に直面するのであって、そのさいもっともよく満足できる方法で、これらの競合する利益間の選択をなすことにより問題を解決することができる。そうすれば、はじめの目的をより確定したものとしているであろうし、ある一般的な言葉がこのルールの目的にとってもつ意味についての問題は付随的に解決しているであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,p.140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:法の不完全性,事実に関する無知,予知不可能性,目的の不確定性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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8.理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的と二次的目的

【理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追記。


(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓
 行為が生み出す帰結:行為の価値

  (b.4)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「可能な範囲でベンサムの哲学の概要を述べてきたが、他の何にもまして彼の名前と同一視されている彼の哲学の第一原理、すなわち「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」についてほとんど述べてこなかったことに読者は驚かれたかもしれない。

もし紙幅があれば、あるいはベンサムについて正しい評価を下すために本当に必要ならば、この主題について論じられるべきことが多くある。

道徳の形而上学について論じるのにより適当な機会に、あるいはこのような抽象的な主題についての見解を分かりやすくするのに必要な説明をうまくおこなうことができるような機会に、この主題について私たちが考えていることを述べることにしよう。

ここで私たちが述べておきたいのは、その原理についてはベンサムとほとんど同意見であるが、彼がその原理に対して与えた重要性の度合についてはそうではないということだけである。

功利性、あるいは幸福はあまりにも複雑で漠然としすぎており、さまざまな二次的目的を媒介にすることなしには追求することができない目的であると私たちは考えている。

そして、これらの二次的目的に関しては、究極的基準については意見を異にしている人々の間でも合意することがありうるし、しばしば合意している。

また、これらの目的については、思想家の間に、道徳形而上学の重要な問題についてまったく相容れない見解の相違がみられることから想定されるよりもはるかに多くの意見の一致が実際に広く見られる。

人類は自分たちの本性について一つの見解をもつことよりも、一つの本性をもっているということの方がはるかにありうるから、中間原理、すなわち真の媒介原理(vera illa et media axiomata)とベーコンが呼んだものについて、第一原理についてよりも容易に一致するようになる。

そして、中間的目的と照らし合わせることよりもむしろ、究極的目的に照らし合わせることによって行為の意味を明らかにしたり、人間の幸福に直接照らし合わせることによって行為の価値を評価したりする試みは、一般的には、本当に重要な結果ではなく、もっとも簡単に指摘できたり個別に特定できたりする結果をもっとも重視することに終わる。

功利性を基準として採用している人々は、二次原理を媒介としないかぎりは、それを正しく適用することはめったにできないし、それを拒否している人々は、一般的には二次原理を第一原理へ昇格させているだけである。

 したがって、私たちは功利主義に関する議論を実践上の問題というよりも配列と論理的従属についての問題であり、倫理に関する哲学としての体系的統一性と一貫性のために、主として純粋に科学的見地から重要なものと考えている。

この主題についての私たち自身の見解がどのようなものであっても、私たちが倫理理論においてなされるに違いないと信じている重大な進歩を期待するのはこのようなものからではない。

しかし、ベンサムが成し遂げたあらゆることは功利性の原理に負っていること、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理を見つけだすことが必要であったこと、彼にとって体系的統一性が自身の知性に対して確信をもつために不可欠な条件であったことなどは確かなことである。

さらに指摘しておくことがある。すなわち、幸福が道徳の目指すべき目的であってもなくても――道徳が何らかの《目的》を目指していること、道徳が漠然とした感情や説明不能な内的な確信のうちに放置されないこと、道徳が単なる感情の問題ではなく理性と計算の問題であることなどは、道徳哲学の観念そのものにとって本質的な要素であり、現実に道徳問題に関する議論や討議を可能にしているものなのである。

行為の道徳性はそれが生み出す傾向にある帰結によって左右されるという事は、あらゆる学派の理性的な人々によって認められている理論である。

そして、こうした帰結の善悪はもっぱら快楽と苦痛によって判定されるということは、功利性を支持する学派によって全面的に認められている理論であり、これはこの学派に特有のものである。

 ベンサムが功利性の原理を採用したことによって行為の道徳性を確定するために考慮するべきこととしてその《帰結》に注意を向けたという点に関するかぎり、少なくとも彼は正しい道を進んでいた。

とはいえ、迷うことなくこの道を進んでいくためには、性格形成や行為が行為者自身の精神構造に与える影響についてベンサムがもっていたよりもいっそう深い知識が必要であった。

彼にこのような種類の影響を評価する能力が欠如していたことは、この主題に関する人類の経験が具現化されている伝統的な考えや感情に当然払うべき(盲従とはまったく違う)適度な敬意が足りなかったこととあいまって、彼を実践倫理上の問題に関してまったく信頼のおけない案内役にしてしまっているように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.152-154,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳,目的,究極的目的,二次的目的,中間原理,媒介原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月18日木曜日

4.原発が、いかに膨大な量の放射能を蓄えているかを理解しておくこと。100万kW級の原発1基は、1日で広島型原爆3発分、年間700~1000発分の核反応に相当する。(高木仁三郎(1938-2000))

原発1基1日の放射能

【原発が、いかに膨大な量の放射能を蓄えているかを理解しておくこと。100万kW級の原発1基は、1日で広島型原爆3発分、年間700~1000発分の核反応に相当する。(高木仁三郎(1938-2000))】

 「原子力発電は、制御してゆっくりと核分裂を起こさせていて、原爆のように爆発的にウランを燃やさない、という言い方がよくされています。

それはある意味ではその通りで、原爆のように原子力発電所がいつも爆発を起こしていると考えるのは誤りですが、しかしゆっくり制御されて燃やしているとだけいうと、逆の意味で誤解されるおそれがあります。

実際に現在使われているような大型の原子力発電所では、一〇〇万キロワットとか、大きな電力を取り出すために、とても激しい反応が行われているといってもいいのです。
 一〇〇万キロワット級の原発は、広島の原爆を一日三発ぐらい爆発させる分の反応を二四時間かけてやっています。

広島の原爆の場合には、それが一〇万分の一秒よりももっと速いくらいの時間で一気に爆発した。それに比べれば確かにゆっくりですが、総体としては大変な量を燃やしている。
 一年運転すると、広島型原爆七〇〇から一〇〇〇発ぐらいの量になります。当然とても大きな量の放射能がその炉心に溜まってきます。

これが何らかの形で外界に漏れ出すのが原発事故の基本的な形であり、恐ろしさなのです。

巨大な量の放射能を炉心に蓄えながら、高温高圧で運転し続けるという状態にいつもあるということが、原子力発電所のもっている基本的な厳しさで、ここからすべての問題が発しているといっていいのです。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』原発事故―――日本では? 第1章 事故の怖さⅠ、p.272)
(索引:原発1基1日の放射能)

脱原発へ歩みだす〈1〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
高木仁三郎の本(amazon)
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
検索(原子力市民委員会)
ニュース(原子力市民委員会)

9.高水準の生産性を保つには奨励給が必須だとする理論は、事実に反する非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、協力の促進が必要であり、人間的な諸動機の事実に基づく科学的な解明が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

外因性の報酬と内因性の報酬

【高水準の生産性を保つには奨励給が必須だとする理論は、事実に反する非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、協力の促進が必要であり、人間的な諸動機の事実に基づく科学的な解明が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(1)勤勉な労働を促す人間の諸動機
 (1.1)外因性の報酬(金銭)
  (a)外因性の報酬(金銭)を過大評価する理論
   (i)合理的な“個人”は、自分の利益だけを考慮し、他人の行動や待遇には全く関心を払わない。
   (ii)羨望や嫉妬やフェアプレー精神など人間的な感情は、“経済的”行動には何の役割も果たさない。
  (b)外因性の動機が、内因性の動機を弱めてしまうという事例。
  “正しいこと”をしたいという欲求に支えられていた行動が、インセンティブとして導入された罰金によって逆効果が生じ、違反行為を増やしてしまう。罰金が、社会的義務を金銭的取引へと姿を変えさせたことが理由である。
 (1.2)内因性の報酬
  (a)例として、科学者たちの研究や発想を支える動機がある。
   真実の追究、知性を使う喜び、発見したときの達成感、同業者たちから認められること。
  (b)チームワークと個人のインセンティブ
   (i)“チーム成績”にもとづく報酬制度は、協力をうながす効果を持っている。
   (ii)逆に、“個人”のインセンティブが強すぎると、チームワークを阻害する。
   (iii)チームがある程度の規模を超えると、チーム成績に占める各人の貢献度が小さくなりすぎ、結果として各人がインセンティブを持てなくなる。
(2)生産的で効率的な経済のために必要なこと
 (2.1)個人の利己主義を基礎とし人間的な感情を考慮しない外因性の報酬(金銭)を過大評価する理論は、事実を捉え損ねており、科学的に誤りである。
 (2.2)他者への配慮や人間的な感情を無視して理論化することは、素朴で単純な第0次近似の理想化理論としては意義があっても、“合理的”で“経済的”な行動の理論では「無視すべきだ」と主張されるならば、もはや科学ではない。
 (2.3)高水準の生産性を保つには奨励給が“必須”であるという主張は、事実に基づかない非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、チームワークが必要であり、個人の競争には、建設的なものもあれば、破壊的なものもある。どのような要因が協力を促すかが問題なのであり、事実に基づいた科学的な解明が必要である。

 「本章が展開してきた奨励給への批判は、伝統的な経済分析の範囲内に収まっている。

しかし、たとえば勤勉な労働をうながす場合を考えてみると、インセンティブとは人間に対する“動機付け”だ。人間の動機付けにかんしては、心理学者や労働経済学者や社会学者が仔細な研究を行なっており、経済学者たちは多くの環境について読み違いをしてきたように見える。

 しばしば個人は外因性の報酬(金銭)ではなく、内因性の報酬(仕事をうまくやり遂げた満足感)からより良い動機を与えられる。

ひとつ例を挙げよう。過去200年間、わたしたちの生活を一変させてきた科学者たちの研究や発想は、大部分が富の追求に動機づけられたものではなかった。

それはわたしたちにとっては幸運と言える。金が目的なら、彼らは銀行家の道を選び、科学者にはなっていなかったかもしれない。

このような人々にとって大切なのは、真実の追究、知性を使う喜び、発見したときの達成感、そして、同業者たちから認められることだ。

もちろん、彼らが金銭的報酬をつねに固辞するわけではないが、前にも述べたとおり、自分や家族の次の食事をどうまかなうかで頭がいっぱいの人間は、有意義な研究に没頭することなどできない。

 外因性の報酬(金銭)を求めすぎると、本当に努力の量が減少する場合もある。

教師の大多数(少なくとも多数)は、金のために仕事を選んだのではない。彼らの動機は、子供への愛情や、教育への献身だ。トップレベルの教師たちは、銀行業界に入っていれば、はるかに大きな稼ぎを手にしていただろう。彼らに高いボーナスを出せばもっと力を発揮する、と推測するのは彼らに対する冒涜と言っていい。

じっさい、奨励給は教育界に悪影響を及ぼす可能性がある。奨励給によって給与の低さに気づかされ、金を重視するようになった教師たちは、もっと稼ぎの良い職業に移っていき、教育界にはほかの選択肢を持たない教師だけが残されるだろうからだ(もちろん、給与の低さが認識されれば、教師たちの士気は下がり、逆インセンティブの効果が生まれるはずだ)。

 もうひとつ有名な例を紹介しよう。ある託児所は問題を抱えていた。子供を時間どおりに迎えに来ない親たちがいたのだ。託児所はインセンティブを与えるべく、遅刻に罰金を科すことを決めた。

しかし、遅刻しない親の中にも、子供の送り迎えに苦労している親はたくさんいた。彼らが遅刻しなかったのは、社会的圧力が原因だった。具体的に言うと、たとえ完璧には程遠くても“正しいこと”をしたいという欲求だ。

しかし、罰金を科されたことで、社会的義務は金銭的取引へと姿を変えた。親は社会に対する責任から解放され、遅刻による利益が罰金のコストより大きいと判断した。そして、遅刻は前よりも増えてしまったのだ。

 奨励給制度の欠陥はまだある。ビジネススクールの授業では、チームワークの重要性が強調される。おそらくほとんどの雇用主は、会社の成功にチームワークが必要不可欠だと認識しているだろう。

ここで問題となるのは、“個人”のインセンティブがチームワークを阻害しうることだ。

個人の競争には、建設的なものもあれば破壊的なものもある。対照的に、“チーム成績”にもとづく報酬制度は、協力をうながす効果を持っている。

皮肉にも、標準的な経済理論は、つねにこのような報酬制度をおとしめようとする。チームがある程度の規模を超えると、チーム成績に占める各人の貢献度が小さくなりすぎ、結果として各人がインセンティブを持てなくなる、というのだ。

 経済理論が集団的インセンティブの実効性を正確に測れないのは、人間関係の重要性を過小評価してしまうからだ。

現実の世界では、個人はチームメンバーを喜ばせるために一生懸命働き、それが正しい行動であると信じている。対照的に、経済学者が過大評価するのは、個人の利己性だ(数々の証拠が示すとおり、経済学者はほかの人々より利己的なので、彼らから教えを学ぶ人々は、時間とともに自己中心性を高めていく……)。

集団的インセンティブの重要性を考えれば、労働者によって所有される企業――労働者に収益が分配される企業――が、今回の金融危機で高い業績をあげ、レイオフを少なく抑えてきたことは、驚くに値しないのかもしれない。

 チームワークにかんする幅広い誤認は、経済理論に目隠しをしてしまっている。標準的な経済理論では、人間の行動を分析する際、合理的な“個人”を想定する。この個人は、ひとつの観点からすべてを評価し、他人の行動や待遇にはまったく関心を払わない。

羨望や嫉妬やフェアプレー精神など、人間的な感情は存在せず、存在したとしても、“経済的”行動には何の役割も果たさない。たとえ果たしているように見えても、果たすべきではないとみなされ、果たさなかったものとして経済分析は進められる。

経済学の外から見れば、この手法はばかげている。わたしも同意見だ。本書はすでに、不公正に扱われていると感じる個人が努力を低下させうることと、チームスピリットが努力を増加させうることを説明してきた。

しかし、アメリカの短期市場向けにあつらえられた実利的かつ個人中心主義的な経済学は、現実の経済における信頼感と忠誠心をむしばんでいるのである。

 要するに、高水準の生産性を保つには奨励給が“必須”である、という右派の主張とは裏腹に、多くの企業に採用された奨励給制度は、不平等を拡大させるうえに、存在そのものが非生産的なのだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第4章 アメリカ経済は長期低迷する,pp.178-180,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:外因性の報酬,内因性の報酬,インセンティブ,チームワーク)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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米国では、不法移民の差別禁止と権利保護のため、取締の権限が連邦政府の管轄とされた。また、仮に連邦法に違反している不法移民でも保護するサンクチュアリ都市宣言をしている都市が全米各地に400以上存在する。(池上彰(1950-))

不法移民とサンクチュアリ都市

【米国では、不法移民の差別禁止と権利保護のため、取締の権限が連邦政府の管轄とされた。また、仮に連邦法に違反している不法移民でも保護するサンクチュアリ都市宣言をしている都市が全米各地に400以上存在する。(池上彰(1950-))】

 「なぜ「不法」移民は、これまで追い出されなかったのか?
 これはトランプ大統領の移民政策も同様です。当初は「不法移民1100万人を全員追放」と言っていましたが、ここへきて、全員を追い出すわけではないと穏健な方針に切り替えつつあります。その結果、オバマ政権時代よりは強硬な政策になっているのに、多くの人が受け入れてしまう、というわけです。
 それにしても、アメリカに不法移民が1100万人いると聞くと、疑問が湧きませんか。「不法」ならばなぜ強制退去の対象にならないのでしょうか? 日本ですと、不法滞在している疑いのある外国人がいると、警察官が職務質問。パスポートや滞在許可書類がなければ身柄を拘束されます。
 実はアメリカでも日本と同じことができるようにしようという動きがあったのですが、憲法違反だという判決が下っているのです。
 アメリカ南部のアリゾナ州は2010年、独自に不法移民取締法を制定しました。これは現場の警察官に取り締まりの権限を与えるというものです。ところがその法律のなかに、「外見で不法移民の疑いがあれば警察官が滞在資格を確認できる」という内容があったことから、特定の人種を対象にした差別につながるという批判が出て、裁判に発展。12年、連邦最高裁は、不法移民の取り締まりの権限は連邦政府の管轄であり、アリゾナ州が独自に取締法を制定したのは憲法違反だという判断を下しました。
 つまり、連邦政府が取り締まろうとしないかぎり、不法移民は不法でもアメリカに滞在できるというわけです。オバマ前大統領は不法移民を摘発しようとしませんでしたから、犯罪を起こさないかぎり、不法移民でもアメリカに滞在できたのです。
 さらに全米各地には「サンクチュアリ都市」(聖域都市)を宣言している都市が400以上あるとみられます。これらはリベラルな民主党の勢力の強い地域で、連邦法に違反している不法移民がいても、連邦政府に通報せずに守るという方針を貫いています。不法移民は、ニューヨークやシカゴ、ボストンなどの聖域都市に逃げ込めば、摘発や強制送還の心配なく暮らせるのです。同じく聖域都市のサンフランシスコ市は17年1月、聖域都市への補助金停止を求める大統領令が憲法違反にあたるとして、その差し止めを求めて訴訟を起こしました。
 法律に違反しても、人権を守る。人権意識の高さには感心します。
 日本では「トランプ大統領の移民政策はひどい」と他人事のように批判している人たちがいますが、トランプ大統領は、移民受け入れに慎重な日本のようにしたいだけだとも言えます。トランプ大統領を批判する人たちは、自覚せずに日本の移民政策を批判していることになるのです。」
(池上彰(1950-),『世界はどこに向かうのか』第1部「米国編」アメリカ・ファーストの衝撃,Chapter2 自由の国を守る人々,pp.38-41,日本経済新聞社(2017))
(索引:不法移民,サンクチュアリ都市)

池上彰の 世界はどこに向かうのか


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
池上彰ファンクラブ)
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2019年4月17日水曜日

偏った資金の影響を受けて、様々な方法で民主的な意思決定が歪められ、諸制度がさらなる資金の偏りと集中を生むという循環を生じているとき、いかにして圧倒的多数の市民の意思が政治過程に反映され得るかが問題である。(ジャコモ・コルネオ(1963-))

民主的な意思決定と資本の影響力

【偏った資金の影響を受けて、様々な方法で民主的な意思決定が歪められ、諸制度がさらなる資金の偏りと集中を生むという循環を生じているとき、いかにして圧倒的多数の市民の意思が政治過程に反映され得るかが問題である。(ジャコモ・コルネオ(1963-))】

(a)資本家
 (a.1)所得状況の特徴
  (a.1.1)平均的な所得は、国民全体の平均所得を大きく超える。
  (a.1.2)個人所得は、圧倒的な割合を占める資本所得によって特徴づけられる。
  (a.1.3)資本所得は、おおまかに見て国民所得のおよそ3分の1を占める。
 (a.2)選好する政策
  (a.2.1)企業の利潤と、資本所得を引き上げる。
  (a.2.2)相続や資本所得に課税されないようにする。
 (a.3)政策決定への影響力の行使方法
  (a.3.1)株式持ち合いなど財産権の連鎖と、実質的に企業を支配下に置くための諸制度の利用。
  (a.3.2)資金を使って、様々な方法で民主的な意思決定の結果に影響を与えることができる。
   (i)ロビー活動に資金を提供する。
   (ii)特定の候補者、政党の選挙戦に多額の資金をつぎ込む。
   (iii)かつて公職にあった者には儲けのあるポストを用意する。
   (iv)高額が支払われる講演会を彼らのために開く。
   (v)メディア、シンクタンク、研究所などに融資して、意見を特定の方向へと導く。
(b)圧倒的多数の他の市民
 (b.1)所得状況の特徴
  労働所得が極めて重要な部分を占めている。
 (b.2)選好する政策
  資本家の利害関心、主張が似通ったものであるのに対して、様々な利害関心、見解が分散する。
 (b.3)政策決定への影響力が弱められる原因
  (b.3.1)政治的、社会的参加には、コストがかかる。
  (b.3.2)コストに比較して、政治的決定への影響力は小さいと感じてしまう。
  (b.3.3)このため、政治的決定にかかわろうとするインセンティブが全くない。

 「資本主義に批判的な政治経済学者は以下のように述べる:
 “現代の経済学において資本所得は、おおまかに見て国民所得のおよそ3分の1を占める。国民所得の3分の1は、国民のごく一部の層に流れてしまうので、資本家は多くの他の市民とは全く別の所得状況にある。第一に、資本家の平均的な所得は、国民全体の平均所得の数倍にのぼる。第二に、資本家の個人所得は、圧倒的な割合を占める資本所得によって特徴づけられる一方で、資本家以外の国民の場合は労働所得が極めて重要な部分を占めている。この異なった所得状況ゆえに、資本家は国民の圧倒的多数の利益とは相反する政治的選択肢を選ぶ。資本家は、国民の大多数にとっての公共の利益を犠牲にして、産油国への軍事介入やタックスヘイブンの容認のような、企業の利潤と資本所得を引き上げる政策を優遇する。
 もし我々の民主主義と呼ばれる制度が、本当に国民の大多数の利益を達成するものであれば、その政府はこの政策を決して選択しないだろう。しかし実際はそうではない。民主的な装いをつくろう裏で、資本家の利益が多数の利益に反して追求される。
 これはいかにして可能なのか? 資本家は確かに少数だが、多数派に対しては2つのアドヴァンテージを持っている。
 第一に、資本家は少数なので、容易に互いの間で調整することができる。現代の資本主義社会には、出資者が政治的な影響を与えるという目的を達成するための特定の戦略に同意しうる制度的枠組みがすでに存在する。財産権の連鎖と株式持ち合い(クロス・シェアホールディング)を通じてより大きなネットワークが生まれる。このネットワークは、ドイツのような国々では、共通の見解と主導権を生み出す監査役会の占領のうちに現れる。これに対して大多数の国民は、フリーライダー問題に苦しむことになる。政治的および社会的に参加すれば個々人はコストを感じるが、集団的な関心事に対する貢献はわずかである。それゆえ個々人には、集団的な重要事項にかかわろうとする物質的なインセンティブが全くない。
 第二に資本家は、富を基盤として効果のある政治的なロビー活動に資金を提供することができる。財産のある個人、企業、協会、財団は、様々なやり方で民主的な意思決定の結果に影響を与えることができる。例えば資本家は、特定の候補者、あるいは政党の選挙戦に多額の資金をつぎ込むことができる。彼らは、かつて公職にあった者には儲けのあるポストを用意するか、高額が支払われる講演会を彼らのために開くことができる。さらに、メディア、シンクタンク、研究所など、またもや政治の決定権者や選挙人の意見を特定の方向へと導くものに融資することもできる。その結果、大多数の利害を無視して政治的に平等な権利を破壊する、民主的な過程に対する制度的な歪みが生じる。
 この問題は、資産の不公平な分配と、その資本所得に対する非課税権に根ざしている。原理的には、資本のさらなる再分配(例えば、相続や資本所得への高率課税)によって、この問題は解決できるだろう。しかし現実には解決されない。なぜなら、この措置の場合、民主的な過程から生み出されるはずの集合的意思決定が問題になるからである。だが、この過程が制度的に資本家の利害のために歪められているならば、これは不可能になるだろう。これに反して資本主義の廃止は、この問題を根本から解決するかもしれない”。
 民主主義が危険な金権政治的傾向をもたらすことは、幾人かの古代ギリシャ人たちも考えていた。プラトンも、彼の時代における商業資本主義と民主主義の組み合わせは、根本的に不安定であると考えた。しかし彼の解決策は、資本主義の廃止ではなく民主主義の廃止であった……。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第2章 哲人の国家の機能不全,pp.16-18,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))
(索引:資本家,資本所得,労働所得,ロビー活動,民主的な意思決定)

よりよき世界へ――資本主義に代わりうる経済システムをめぐる旅


(出典:University of Nottingham
ジャコモ・コルネオ(1963-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私はここで福祉国家の後退について別の解釈を提言したい。その解釈は、資本主義(市場システムと生産手段の私有)は、福祉国家を異物のように破損する傾向があるという仮説に基づいている。福祉国家の発端は、産業労働者の蜂起のような一度限りの歴史的な出来事であった。」(中略)「この解釈は、共同体がこのメカニズムに何も対抗しないならば、福祉国家の摩耗が進行することを暗示している。資本主義は最終的には友好的な仮面を取り去り、本当の顔を表すだろう。資本主義は通常のモードに戻る。つまり、大抵の人間は運命の襲撃と市場の変転に無防備にさらされており、経済的にも社会的にも、不平等は限界知らずに拡大する、というシステムに戻るのである。
 この立場に立つと、福祉国家は、資本主義における安定した成果ではなく、むしろ政治的な協議の舞台で繰り返し勝ち取られなければならないような、構造的なメカニズムである点に注意を向けることができる。そのメカニズムを発見するためには、福祉国家が、政治的意思決定の結果であることを具体的に認識しなければならない。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第11章 福祉国家を備えた市場経済,pp.292-293,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))

ジャコモ・コルネオ(1963-)
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克服条件:全体利益の合計値最大化のための同じ行動を、相手も取るという信頼が存在し、その信頼は、自己利益の犠牲、非協力リスクの負担、相対的劣位性の受入、一時的な不平等の許容を、克服し得る程度のものであること。(フランチェスコ・グァラ(1970-))

囚人のジレンマ

【克服条件:全体利益の合計値最大化のための同じ行動を、相手も取るという信頼が存在し、その信頼は、自己利益の犠牲、非協力リスクの負担、相対的劣位性の受入、一時的な不平等の許容を、克服し得る程度のものであること。(フランチェスコ・グァラ(1970-))】
(e)囚人のジレンマ
 (e.1)以下の視点に従う限り、各プレーヤーは非協力に対して選好を持つ。
  (i)非協力の利益の期待値は、協力より大きい。(期待値)
  (ii)協力は、相手に依存するリスクにさらされている。(リスク)
  (iii)相手に対する相対的優位性も、非協力の方が圧倒的に大きい。(期待値の相対的優位性)
  (iv)協力と非協力の戦略が混在すると、不平等が生じる。(平等性)
 (e.2)それにもかかわらず、協力を選択する条件は何だろうか。
  (i)両プレーヤーが共に協力する選択は、均衡状態ではない。この状態を識別できるのは、両者の利益の合計値を最大化できるという観点である。
  (ii)両プレーヤーがお互いに、全体の利益の合計値最大化のための同じ行動を、相手も取るという信頼が存在すること。
  (iii)自己の利益を犠牲にし、相手の非協力のリスクを負担し、自己の相対的劣位性を受け入れ、非協力に伴う不平等を許容してもなお、全体の利益の合計値最大化のための行動を、相手も取るだろうという程度の信頼が必要である。
    プレーヤー1
プ   協力  裏切り
レ  ┌───┬───┐
|協力│2、2│0,3│
ヤ  ├───┼───┤
|裏切│3,0│1、1│
2 り└───┴───┘

 「囚人のジレンマはとりわけ特殊な種類のゲームであって、これまで分析してきたゲームと混同してはならない。走行ゲーム、ハイ&ロウ、鹿狩りゲームには複数均衡がある。これらはコーディネーション問題である。囚人のジレンマは異なる。なぜなら、左上の結果(CC)は均衡では《ない》からだ。それぞれのプレーヤーは、一方的にDをプレーすることで利得が大きくなる。これはいくつかの点で謎である。鹿狩りゲームにおいては、各プレーヤーが他のプレーヤーの手番を推測するという問題を抱えていたことを思い出そう。囚人のジレンマでは、その問題はそもそも存在しない。ある意味、裏切りの誘惑は非常に強力なものとなって、他のプレーヤーの行為について考える必要がないほどである。他のプレーヤーが何をしようと、自分はDをプレーする方がより良い。これが意味するのは、囚人のジレンマにおいては、ただ1つだけ均衡(DD)が存在していて、しかもしれが非効率的であるということだ。区別するために、コーディネーションに対して、この種類のゲームが協力の問題(もしくはジレンマ)を表現していると言うことにしよう。普段使う「協力」の意味が少しばかり拡大解釈されるのだが、それぞれのケースに対して、異なる用語を持つことは有用だ。
 上で説明した分析にもかかわらず、多くの人々は囚人のジレンマゲームにおいて協力が正しい選択であると考える。それはどうしてだろうか。これには、多くの人々にとっては戦略的に考えることが難しいのだということを含めて、おそらく二つ以上の理由が存在する。しかし、人々がこのような直感を持つのは、何よりもまず、人々が現実生活において、囚人のジレンマに似た状況で協力を支持するようなルールに従うことに慣れているからである。」
    プレーヤー1
プ   協力  裏切り
レ  ┌───┬───┐
|協力│2、2│0,3│
ヤ  ├───┼───┤
|裏切│3,0│1、1│
2 り└───┴───┘

(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第2章 ゲーム,pp.55-56,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:囚人のジレンマ)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
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2019年4月16日火曜日

イスラム教徒の8割を占めるスンニ派は、信者たちが後継者を選び、イスラムの慣習(スンナ)を守っていけばいいと考える。これに対してシーア派は、血筋によって後継者を選び、イラン以外では少数派として抑圧されている。(池上彰(1950-))

スンニ派とシーア派

【イスラム教徒の8割を占めるスンニ派は、信者たちが後継者を選び、イスラムの慣習(スンナ)を守っていけばいいと考える。これに対してシーア派は、血筋によって後継者を選び、イラン以外では少数派として抑圧されている。(池上彰(1950-))】

 「スンニ派とシーア派は、どう違うのでしょうか。
 イスラム教を広めたムハンマドが亡くなると、後継者をどう選ぶかをめぐって信者たちが分裂します。ムハンマドの血筋を引く、従弟のアリーこそが後継者にふさわしいと考える人たちは、「アリーの党派(シーア)」と呼ばれます。そのうちに、単に「シーア」と呼ばれるようになります。これが「シーア派」です。これでは「党派・派」になってしまいますが、こう呼ばれています。
 一方、血統に関係なく、信者たちによって選ばれた人がイスラムの慣習(スンナ)を守っていけばいいと考えた人たちは「スンニ派」と呼ばれるようになります。世界史の教科書では「スンナ派」と表記されますが、日本のメディアはスンニ派と表記します。
 スンニ派とシーア派は、教義において、それほど隔たっているわけではありません。ただ、スンニ派はイスラム教徒の8割を占める多数派なのに対して、シーア派は2割弱。少数派なのです。このためイラン以外では少数派としてスンニ派政権の下で政治的に抑圧され、経済的に困窮している人々が多いのです。スンニ派政権は、こうしたシーア派が「革命」を起こすのではないかと恐れているのです。
 また、サウジアラビアはアラブ人なのに対してイランはペルシャ人。伝統的な対抗意識が働きます。とりわけサウジアラビアは、このところの石油価格の低迷で、財政状態が急激に悪化。さらに隣国イエメンのスンニ派政権を支援するために軍隊を派遣したところ、戦費がうなぎ上りに増加。戦死する兵士も急増し、国内に不安が広がっています。」
(池上彰(1950-),『これが「世界を動かすパワー」だ!』POWER3 中東,「第五次中東戦争」は起きるのか,pp.138-140,文藝春秋(2016))
(索引:スンニ派,シーア派)

池上彰のこれが「世界を動かすパワー」だ! (文春e-book)


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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