外国の言語や文化の学習
【自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
他の国の言語や文化を学ぶこと
(1)意見や方法は修正され得るものである。
(a)すなわち、自分とは異なる意見や方法も、正しいことがあり得る。
(b)他の国には、学ぶべき多くの事柄がある。
(c)他の国の言語を学習することが必要である。ある国の言語を知らなければ、我々はその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできない。
(d)なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解する。
(2)我々の意見や方法は、正しい。この前提から出発すれば、我々は決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないであろう。
(a)なぜなら、異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わない。
(b)自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考える。
(c)すなわち、そのような考え方と習慣は、「本性」そのものになっている。
「ある国の言語を知らなければ、われわれはその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできません。もしわれわれが他の国民についてのこの種の知識を持ち合わせていないならば、一生涯かけて自分自身の知性を開発したとしても、それは半分しか開発したことにはならないのであります。未だかつて一度も自分の家の外に出たことのないような若者を考えてみましょう。このような若者は、自分が教えられてきた意見や考え方とは異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わないことでしょう。あるいは、そのような人が自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考えることでしょう。もし彼の家族が保守党員ならば、自分が自由党員になる可能性など全く考えられないし、反対に家族が自由党員なら、保守党員になる可能性などまったく考えられないわけです。一軒の家族がもつ考え方と習慣がその家族以外の人間と一切つき合ったことのない少年に及ぼす影響は、他の国についてまったく無知な人間に自国の考え方や習慣が及ぼす影響とほとんど同じだといってよいでしょう。そのような考え方と習慣は、その少年にとっては、本性そのものなのです。従って、自分の考え方や習慣と異なるものはすべて、彼にとっては、心の中ですら理解できない異常なものであり、そして自分のとは異なった方法も正しいことがありうる、あるいは、他の方法も自分自身の方法と同様、正しいものに向かいうるという考えは、彼には思いもよらないことなのです。こうした事は、単に、すべての国々が他の国から学ぶべき多くの事柄に今でもその眼をふさいでいるのみならず、そのような態度をとらなければ、各々の国が自らの力で成し遂げることのできる進歩までをも阻止することになります。もしわれわれの意見や方法は修正されうるものだという考えから出発しなければ、われわれは決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないでありましょう。外国人は自分達とは違った考え方をすると単に思うだけで、なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解するのでなければ、われわれのうぬぼれは増長し、われわれの国民的虚栄心は自国の特異性の保持に向けられてしまうでありましょう。進歩とは、われわれのもつ意見を事実との一致により近づけることであります。われわれが自分自身の意見に色付けされた眼鏡を通してのみ事実を見ている限り、われわれはいつになっても進歩することはないでしょう。しかしながら、われわれは先入観から脱却するなどということは決してできません。そこで、敢えて他の国民の色の違った眼鏡をしばしばかけてみること以外に、この先入観の影響を除去する方法は全くないように思われます。そしてその際、他の国民の眼鏡の色がわれわれのものと全く異なっていれば、それが最良であります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.20-21,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:外国の言語や文化の学習)
(出典:
wikipedia)
「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。
純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「
貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである
病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく
慎慮が欠けていることか、
欲がゆきすぎていることか、
悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、
この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション<京都大学学術出版会