2019年11月4日月曜日

憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は、ユートピア的発想による自衛権の放棄であり、改正すべきである。(自民党 日本国憲法改正草案Q&A(増補版))

ユートピア的発想による自衛権の放棄

【憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は、ユートピア的発想による自衛権の放棄であり、改正すべきである。(自民党 日本国憲法改正草案Q&A(増補版))】

「(前文を改めた理由)
 現行憲法の前文は、全体が翻訳調でつづられており、日本語として違和感があります。そして、その内容にも問題があります。
 前文は、我が国の歴史・伝統・文化を踏まえた文章であるべきですが、現行憲法の前文には、そうした点が現れていません。
 また、前文は、いわば憲法の「顔」として、その基本原理を簡潔に述べるべきものです。現行憲法の前文には、憲法の三大原則のうち「主権在民」と「平和主義」はありますが、「基本的人権の尊重」はありません。
 特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません。
 こうしたことを踏まえ、今回、現行憲法の前文を全面的に書き換えることとしました。」

〔前文〕
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

(出典:日本国憲法改正草案Q&A(増補版)資料自民党 憲法改正推進本部
(索引:ユートピア的発想による自衛権の放棄,日本国憲法前文)

(出典:自由民主党
自由民主党
自由民主党(1955-)

自由民主党
自由民主党 憲法改正推進本部

防衛大臣の権限に基づく自衛隊機の運航という事実行為も、基地周辺住民に騒音等の被害の受忍を義務づけるものとして、公権力の行使、すなわち行政事件訴訟法上の「処分」といえる。(厚木基地行政訴訟最高裁判決)(福田護)

公権力の行使

【防衛大臣の権限に基づく自衛隊機の運航という事実行為も、基地周辺住民に騒音等の被害の受忍を義務づけるものとして、公権力の行使、すなわち行政事件訴訟法上の「処分」といえる。(厚木基地行政訴訟最高裁判決)(福田護)】

「1 厚木基地行政訴訟最高裁判決と本件の処分性
 本件の最大の争点は、現在のところ、差止め対象行為の処分性にあります。
 原告らは、本件において、集団的自衛権の行使等の事実行為が、国民の平和的生存権等の権利を侵害し、その受忍を強いるものとして、国民に対する公権力の行使、すなわち処分であることを主張して、その差止め等を請求しています。
 しかし被告は、その請求の内容の審理に入ることなく却下すべきことを求め、基本的な理由として、集団的自衛権の行使等が行政事件訴訟法3条2項の「処分」に当たらないから、本件審理の対象にならないと主張しているものです。
 ところで最高裁は、昨年12月8日、厚木基地における自衛隊機の運航の差止めを行政訴訟で求めた事件において、東京高裁が夜間の一部差止めを認めたのに対し、防衛大臣の自衛隊機の運航は裁量権の範囲内だとして差止めの結論は否定しましたが、自衛隊機の運航を行政事件訴訟法上の「処分」として、同法3条7項の差止めの訴えを起こすことができること自体は明確にしました。
 その法的構成は、防衛大臣の権限に基づく自衛隊機の運航という事実行為が基地周辺住民に対する関係で、騒音等の被害の受忍を義務づける公権力の行使に当たるとするもので、それは、本件で原告らが主張する法的構成とパラレルな関係にあります。したがって、本件のような「処分」の捉え方と、これに対する差止めの訴えという訴訟類型を採ることが、最高裁判例として肯定されたということになります。
 被告は、厚木基地訴訟の場合は、「自衛隊機の運航に必然的に伴う騒音等が、周辺住民の法的地位に直接的に影響を及ぼす事案」であるのに対し、本件の集団的自衛権の行使等は「原告らの権利義務に何ら直接的な影響を及ぼさない」から、事案を異にすると主張しています。
 しかし、厚木基地判決において公権力性を示すものとされる「受忍義務」というのも、周辺住民に何らの作為・不作為を求めるものでもないし、最高裁調査官の判例解説でも、住民は「運航に伴う不利益な結果を受忍すべき一般的な拘束を受けている」と解説されているところであり、それは、航空機騒音を曝露されている周辺住民の「法的地位」に何ら影響を及ぼすものではありません。それは、事実行為としての公権力の行使によって不利益な結果を受ける事実状態に置かれるということにほかならず、「法的な権利義務関係に直接的な影響を及ぼさない」という点では、本件と厚木基地航空機騒音のケースとで違いはないのです。」
(出典:平成28年(行ウ)第169号安保法制違憲・差止請求事件 2017年4月14日 第3回口頭弁論 報告会資料(意見陳述全文掲載)裁判資料・差止請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:公権力の行使)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
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2013年8月8日、安倍内閣は、山本庸幸内閣法制局長官を退任させ、集団的自衛権容認論者である小松一郎氏を、従来の慣例を覆して外部から長官に任命した。(杉浦ひとみ(1956-))

安保法制成立過程の異常性

【2013年8月8日、安倍内閣は、山本庸幸内閣法制局長官を退任させ、集団的自衛権容認論者である小松一郎氏を、従来の慣例を覆して外部から長官に任命した。(杉浦ひとみ(1956-))】
「2014年7月1日の安保法制についての閣議決定から5年、「平和国家」日本は大きく変わりました。
1 内閣法制局長官の恣意的人事
  この歴史の変節は、政権が集団的自衛権行使容認への道程の第一歩として、内閣法制局長官の人事に手を付けたことに始まりました。2013年8月8日、安倍内閣は、山本庸幸内閣法制局長官を退任させ、集団的自衛権容認論者である小松一郎氏を、従来の慣例を覆して外部から長官に任命しました。
 内閣法制局は、内閣における「法の番人」として権威を持ち、憲法の解釈、とりわけ戦後70年にわたり絶えず論争となった憲法9条について政府の解釈を確定する大きな役割を果たしてきました。
 内閣法制局の憲法解釈があることで、事後の司法判断をまつことなく法の意味を確定し、これを尊重する事実上の力を持ってきました。ところが、安倍首相のこの小松長官人事は、政治家による恣意的な法解釈が統制されない構造になったことを意味し、内閣法制局の権威は地に堕ちました。このあと、国民は行政府の憲法解釈・法律解釈を信頼し、尊重することができなくなってしまったのです。これまで国を支えてきた内閣法制局の存在価値を大きく棄損してしまいました。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2019年7月26日 第11回 口頭弁論  報告集会資料(代理人意見陳述)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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同盟国に加えられた武力攻撃を一緒になって排除するということは、現実の武力紛争を鎮圧するだけの効果がある実力行使が必要なはずで、武力に当たらない必要最小限の実力行使とは両立し得ず、9条2項に反する。(棚橋桂介(1977-))

必要最小限の実力行使

【同盟国に加えられた武力攻撃を一緒になって排除するということは、現実の武力紛争を鎮圧するだけの効果がある実力行使が必要なはずで、武力に当たらない必要最小限の実力行使とは両立し得ず、9条2項に反する。(棚橋桂介(1977-))】

「そして、憲法9条2項との関係では、自衛隊は同項が禁じる戦力にあたるのではないかということに対する政府の一貫した見解は、飛んでくる火の粉を振り払うための必要最小限度の実力の行使はできることになっており、自衛隊はそのための実力を保持するということでやっているだけなので、戦力にはあたらないというものでしたが、集団的自衛権の行使というのは、同盟国に加えられた武力攻撃を一緒になって排除するということですから、現実の国際間における武力紛争を鎮圧するだけの効果があるものでなければ話にならないわけで、そのようなものが戦力に当たらないということはあり得ず、憲法9条2項に反することも明白です。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2019年7月26日 第11回 口頭弁論  報告集会資料(代理人意見陳述)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:必要最小限の実力行使,日本国憲法第9条)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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他国に加えられた武力攻撃を、出ていって実力で解決をする集団的自衛権は、端的に言って国際紛争を解決するために武力行使することにほかならず、憲法9条1項に反する。(棚橋桂介(1977-))

集団的自衛権は紛争解決手段としての武力行使

【他国に加えられた武力攻撃を、出ていって実力で解決をする集団的自衛権は、端的に言って国際紛争を解決するために武力行使することにほかならず、憲法9条1項に反する。(棚橋桂介(1977-))】

「憲法9条の明文規定との関係では、我が国を武力で侵略する国があった場合に、これを、飛んでくる火の粉を振り払うという意味での最小限の実力ないし武力を使って振り払うということについては、国際紛争を解決するというところに至らないと解する余地があり、従って専守防衛の範囲にとどまる個別的自衛権については憲法9条1項の下でも認められると考えることができますが、集団的自衛権の行使は、他国に加えられた武力攻撃を、出ていって武力で解決をするということですから、端的に言って国際紛争を解決するための武力行使にほかならず、憲法9条1項に反することは明白です。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2019年7月26日 第11回 口頭弁論  報告集会資料(代理人意見陳述)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:集団的自衛権,日本国憲法第9条)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
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集団的自衛権が違憲だということは、単に解釈の問題なのではなく、政府や国会の実践を事実として制限してきた、客観的に存在する憲法規範の一つであった。(宮﨑礼壹(1945-)・元内閣法制局長官、前橋地裁・証人尋問)(棚橋桂介(1977-))

憲法解釈

【集団的自衛権が違憲だということは、単に解釈の問題なのではなく、政府や国会の実践を事実として制限してきた、客観的に存在する憲法規範の一つであった。(宮﨑礼壹(1945-)・元内閣法制局長官、前橋地裁・証人尋問)(棚橋桂介(1977-))】

「我が国の(個別的)自衛権の行使は、武力攻撃から我が国や国民を守るための措置であり、したがって我が国に対する武力攻撃の発生をその発動の要件とするのに対して、集団的自衛権は、我が国に対する武力攻撃が発生しておらず、国民や国の存立が直接危険にさらされていない状況下での武力行使である点において、個別的自衛権とは決定的にその性格を異にするものであり、憲法上許されないというのが、歴代の政府によって繰り返し繰り返し表明され、国会の議論の中で積み上げられてきた、確立した解釈でした。
 このことについて、宮﨑礼壹・元内閣法制局長官は、前橋地裁における証人尋問において以下のように述べられました。「これは従来の政府が何度か集団的自衛権は違憲だと言いましたよというだけにとどまらないんですね。それは国会で質問され、国会の中で述べている見解なんです。しかも、それは、例えば防衛予算を通してくださいという立場のときに、あるいは防衛二法だとか、あるいはPKO法以降であれば毎年のように出た自衛隊の海外における活動を根拠付ける新しい法律、こういうものを通してくださいというふうに国会に提出したときに、国会において、これは集団的自衛権に当たるんじゃないかという議論が必ず出たわけです。それは具体的にも抽象的にも、そういう議論がされれば答えざるを得ません。そういうときに、政府としては、これは集団的自衛権を行使するというものに当たるものじゃありませんと、したがってご了解くださいということで、もし集団的自衛権行使に当たるのであれば違憲であるからできませんけれどもということを説明、約束して、防衛予算あるいは防衛関係の諸法律というものを手に入れてきた。そういうものを調達してきたわけです。集団的自衛権の行使は違憲だというのは、単にある解釈というにとどまらなくて、国会もそれをそうかということで予算を承認し、法律を成立させてきたわけですから、政府も国会も一緒になって、日本国国家として、憲法9条の下では集団的自衛権の行使はできないという道を実践してきたわけですね。憲法実践、国家実践として集団的自衛権の否定ということをしてきたわけで、単に答弁したことがあるということではないということをよく御理解いただきたいと思うわけです。」」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2019年7月26日 第11回 口頭弁論  報告集会資料(代理人意見陳述)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:憲法解釈)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
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戦争の悲惨さと不条理を知り、平和のうちに生きる権利が憲法9条により守られてきたという信念をもつ者にとって、9条の改変は、戦争、テロ、諸権利が蹂躙される国などを強迫的に想起させ、強い恐れと不安をもたらす。(橋本佳子)

戦争体験者の精神的苦痛

【戦争の悲惨さと不条理を知り、平和のうちに生きる権利が憲法9条により守られてきたという信念をもつ者にとって、9条の改変は、戦争、テロ、諸権利が蹂躙される国などを強迫的に想起させ、強い恐れと不安をもたらす。(橋本佳子)】

原告らの被害
(1)戦争の地獄の苦しみ
 戦地での地獄を経験した戦闘経験者、戦火を逃げ惑い命の危険にさらされた戦争被害者は言うに及ばず、戦後生まれの者も、親から子、子から孫へと確実に、戦争の悲惨さと不条理とが語り継がれている。
(2)平和、憲法9条への思い
 (2.1)原告らは戦後、平和に暮らせることがどんなに幸せかを噛みしめて生きてきた。
 (2.2)原告らの基本的な信念
  (a)平和のうちに生きる権利とは、日常生活を安心して過ごせるということである。これは、何ものにも代えがたい基礎的な権利である。
  (b)平和のうちに生きる権利を保障してくれているのが、憲法であり第9条である。
(3)安保法制の制定による被害
 (3.1)安保法制の制定により、基本的な信念となっている平和のうちに生きる権利が、侵害されるのではないかという恐れと不安が発生した。この恐れと不安は、根拠のないものではない。なぜなら、この権利を保障していた第9条が実質的に壊されてしまったからである。
 (3.2)特に、戦争体験者や戦争の悲惨さと非条理が信念の一部となっている原告にとっては、この恐れと不安は、単に抽象的で漠然としたものではなく、精神的ではあるが極めて具体的な危害を、原告らに与えている。
 (3.3)発生する可能性が否定できない諸々の事象:国内米軍基地への攻撃、報復テロの発生、特に原発へのテロ、秘密保護法、共謀罪法など戦前日本への逆戻り、戦争。
  (a)「今後日本はアメリカに追随する国と見なされ、テロに巻き込まれる危険」
  (b)「朝鮮半島で戦争になればアメリカの基地が集中する日本は確実に戦場になってしまう」
  (c)「安保法制後戦争参加の体制を整えつつある。平和の保障はもうなくなり、休まることのない不安を背負った生活になってしまった」
  (d)「自衛隊と米軍との一体化が進み、その報復としてテロの恐怖が高まっている」
  (e)「安保法制以降、北朝鮮や中国の脅威をあおり、自衛隊の装備を拡大して米軍一体化が強まりテロの恐怖がつのる」
  (f)「侵略戦争を行うアメリカに追随することで、日本へのテロの不安・恐怖観念に苛まれている。それが、憲法改正手続きの国民投票の手続きを経ずに行われたことで怒りがより強くなる」
  (g)「基地の近くに住んでおり自衛隊基地が狙われれば大勢の市民が被害を受ける」
  (h)「安保法制後の米艦防護の動きとともに言論統制の動きも恐れる」
  (i)「秘密保護法、安保法制、共謀罪法と戦前の日本に戻りつつある」
  (j)「特に原発を幾つも持つ日本は爆弾を落とされたら国は壊滅することから1日として平安な日はない」
  (k)「副総理が『憲法改正はナチスのやり方を見習ったらどうか』と言ったことが安保法制後同様に進行しているように思う。一気に物を言えない治安維持法の時代に変ってしまう恐ろしさ。」
  (l)「死ぬ時は一緒と命からがらソ連から逃げてきたのに副総理がナチスのやり方をまねせよなど戦争が準備されていく恐怖」
(4)教員の精神的苦痛
 戦前の教育の反省から「教え子を再び戦場に送らない」のスローガンを受け継いできたが、安保法制により教え子たちが戦場に行く現実が目の前に迫っている。
(5)子や孫が戦争に巻き込まれることの不安
(6)民主主義違反と憲法改正決定権の侵害

「2 多数の陳述書に通底し、 浮かびあがってくる原告らの被害
(1) 戦争の地獄の苦しみ
 多くの戦争体験者が命からがら逃げ、命をつなぐことができた体験と戦後の極貧の苦しみを訴えています。戦争の悲惨さと不条理が、戦地での地獄を経験した戦闘経験者、戦火を逃げ惑い命の危険にさらされた戦争被害者は当然、戦後生まれの者も親から子、子から孫へと確実に語り継がれていることが明かとなります。多くの原告が、祖父母や両親から悲惨極まる戦争のはなしと「戦争だけは絶対にしてはならない」と繰り 返され、自分の血肉となっているのです。
(2) 平和、 憲法9条への思い
 あの悲惨を極めた戦争を経験して、またはその話しを聞き、原告らは戦後を平和に暮らせることがどんなに幸せかを噛みしめて生きてきたのです。日常生活を安心して過ごせることの喜びが何よりも代えがたいものであること、これが自分の平和のうちに生きる権利であり、自分の人格と一体となっていることを訴えています。それを支えているのが憲法であり、9条であるという確信に充ち満ちています。「平和憲法が、9条があるのだから戦争になることはないと信じて生きてきた」この言葉が陳述書に最も多く出てくる言葉です。
 「平和憲法は自分の生き方の指針であり、憲法が踏みにじられたことは生き方を全否定された精神的苦しみである」「世界に対して平和憲法を持つことは自分の誇り」ともいいます。そして多くの原告には、この平和憲法はあのアジアを含めたすべての戦争犠牲者の遺言であり、自分達が守らなければという思いがあります。
(3) 安保法制の制定による被害
 安保法制によって受ける被害としては、戦争をする国になってしまったことへの不安、恐怖をそれぞれの考え、立場から、具体的に語られています。「祖母から戦争の悲惨さ恐ろしさを聞かされて育った。営々として守られてきた9条を亡き者にされた。安保法制により、「戦前」と呼ばれる時代に入ってしまった。」「戦争体験者は戦争の地獄の苦しみを思い出すだけで身が震える」「祖父が獄死した家族は、再び歯ぎしりするような不条理の影が忍びよるに不安に駆られる」などと訴えています。重要なことは、原告らの戦争の不安・恐怖というものが単に抽象的で漠然としたものではないということです。
 「平和の願いを踏みにじるものであり胸が張り裂ける思い」「平和な憲法とともに生きてきた人生のそのものを否定された」という思いとともに、それぞれ、自分の経験や立ち位置で、以下のとおり具体的にその理由を述べています。「今後日本はアメリカに追随する国と見なされ、テロに巻き込まれる危険」「朝鮮半島で戦争になればアメリカの基地が集中する日本は確実に戦場になってしまう」「安保法制後戦争参加の体制を整えつつある。平和の保障はもうなくなり、休まることのない不安を背負った生活になってしまった」「自衛隊と米軍との一体化が進み、その報復としてテロの恐怖が高まっている」「安保法制以降、北朝鮮や中国の脅威をあおり、自衛隊の装備を拡大して米軍一体化が強まりテロの恐怖がつのる」「侵略戦争を行うアメリカに追随することで、日本へのテロの不安・恐怖観念に苛まれている。それが、憲法改正手続きの国民投票の手続きを経ずに行われたことで怒りがより強くなる」「基地の近くに住んでおり自衛隊基地が狙われれば大勢の市民が被害を受ける」「安保法制後の米艦防護の動きとともに言論統制の動きも恐れる」「秘密保護法、安保法制、共謀罪法と戦前の日本に戻りつつある」「特に原発を幾つも持つ日本は爆弾を落とされたら国は壊滅することから1日として平安な日はない」「副総理が『憲法改正はナチスのやり方を見習ったらどうか』と言ったことが安保法制後同様に進行しているように思う。一気に物を言えない治安維持法の時代に変ってしまう恐ろしさ。」「死ぬ時は一緒と命からがらソ連から逃げてきたのに副総理がナチスのやり方をまねせよなど戦争が準備されていく恐怖」などです。
(4) 教員の精神的苦痛
 教員の陳述書が多数あります。戦前の教育の反省から「教え子を再び戦場に送らない」のスローガンを受け継いできたが、安保法制により教え子たちが戦場に行く現実が目の前に迫っている、卒業生やその子どもたちに平和な世界を繋げない苦しさ、とりわけ、「自衛隊員が外国で人を殺し、殺されるようなことになれば子どもたちに顔向けできないと苦しんでいる」という陳述は共通しております。
(5) 子や孫が戦争に巻き込まれることの不安
 多くの陳述書に現れているのが、子や孫の世代が戦争に巻き込まれることの心配と苦しみについて書いて います。あの戦争を経て平和憲法の下、自分達が現在までは平和に過ごしてきたのに、平和憲法が踏みにじ られ、自分の子や孫が戦争に巻き込まれることの確率が高いと感じている。とりわけ、自衛隊の現状から貧 困層の経済的徴兵制が進むのではないか、さらには本格的徴兵制への危険を感じ、子や孫の未来への不安が つのる。当然、これも救済されなければならない被害です。
(6) 民主主義違反と憲法改正決定権の侵害
 多くの怒りが集中しているのが、安保法制の国会での強行採決に対する怒り・憤りであります。内容とともに、その成立過程も自分たちの主権を蔑ろにされたことへの憤りは、多くの原告が国会前やテレビで固唾を飲んで見守る前で文字通り暴力的な強行採決がなされたのであり、当然であります。
 「集団的自衛権の閣議決定には涙し、安保法制の強行採決には怒りで震えた」 「9条を持つ誇りが失われ、安保法制の強行採決の時には3日間の断食をした」と訴えております。
 次ぎに、憲法に定められた憲法改正の手続き、国民投票もなしに違憲の安保法制が制定されてしまったこと対する怒りについても多くの原告が訴えています。「安保法制は憲法を改正しなければできない法律なのに一票を投ずる機会を奪われたままである」「国民の主権がないがしろにされて戦争に向かう法律が通ってしまった」「特定秘密保護法、安保法制が作られる過程は歯ぎしりするほどの怒りと、戦争体験が呼び戻され苦しい毎日を送っている」憲法改正手続きの国民投票も行われず違憲の安保法制の強行採決は原告らの主権を根底から侵害するものであり、原告らの不安、憤り、絶望感は、紛れもなくその侵害による精神的苦痛です。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2019年4月12日 第10回 口頭弁論  報告集会資料(代理人意見陳述)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:戦争体験者の精神的苦痛,日本国憲法第9条,安保法制)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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憲法には人類の叡智、日本の先人達の叡智が詰まっている。そして、裁判官には何も畏れるものがない。従うべきものは、自らの良心と憲法だけである。司法には、政治部門に対して強く気高く聳え立っていてほしい。(伊藤真(1958-))

司法の役割

【憲法には人類の叡智、日本の先人達の叡智が詰まっている。そして、裁判官には何も畏れるものがない。従うべきものは、自らの良心と憲法だけである。司法には、政治部門に対して強く気高く聳え立っていてほしい。(伊藤真(1958-))】

「私事で恐縮であるが、私は37年間司法試験の受験指導に携わってきた。裁判官諸氏は、何のために憲法を学んだのであろうか。単なる試験科目に過ぎなかったのだろうか。そうではなかったはずである。憲法には人類の叡智、日本の先人達の叡智が詰まっていることに気づいたはずである。
 また、憲法9条には、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという先人達の強い思いが込められていることも知ったはずである。それに感動したこともあったのではないだろうか。
 私は、国民に憲法価値を知ってもらうため、全国で講演を続けている。立憲主義が蹂躙されたときに国民として何ができるかを考え、実践しているつもりではある。しかし、隔靴掻痒の感を否めず、歯がゆい思いをしている。率直に言って、同じ憲法を学んだ者として、裁判官をとてもうらやましく思う。裁判官はすばらしい職業である。憲法価値を守る権限が与えられ、それを仕事として実践できる唯一の職業である。自らの意思で憲法をよみがえらせることが出来、目の前で苦しんでいる原告に希望の光を与えることができるのは裁判官だけである。そして、裁判官には何も畏れるものがない。仮にあるとしたら自分の良心だけである。従うべきものも自らの良心と憲法だけである。
 準備書面13で述べたことを最後に再度、主張する。代理人は、裁判所にあえて「勇気と英断」などは求めない。この歴史に残る裁判において、裁判官としての、法律家としての職責を淡々と果たしていただきたいだけである。憲法を学んだ同じ法律家として、司法には、政治部門に対して強く気高く聳え立っていてほしい。このことを弁論更新に際して切に願う。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2018年5月11日 第7回 口頭弁論  報告集会資料(代理人意見陳述及び原告本人尋問証拠申出書より「証すべき事実」と「尋問事項」)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:司法の役割)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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違憲の疑いが極めて大きく、法律制定手続の瑕疵も疑われるような法律について、もし裁判所が政治的問題であるとの理由で憲法判断を避けるとしたら、そのこと自体が、極めて政治的な判断であることになる。(伊藤真(1958-))

政治的問題とは何か

【違憲の疑いが極めて大きく、法律制定手続の瑕疵も疑われるような法律について、もし裁判所が政治的問題であるとの理由で憲法判断を避けるとしたら、そのこと自体が、極めて政治的な判断であることになる。(伊藤真(1958-))】

「次に、イラク訴訟等と異なり、法律制定手続自体の瑕疵をも問題にしている訴訟である。法律制定手続の異常さ、すなわち十分な議論も国民への説明もなされないままに、これまでとは全く違う国柄になってしまうような前代未聞の事態が起こった。民主主義というプロセスそのものが傷つけられたことを国家行為の違法性の根拠としている。そして何よりも、政治的に意見が分かれる問題について政治的敗者が不満を述べているようなものではまったくない。圧倒的多数の有識者や法律専門家が違憲と指摘する法律が、国民の半数以上が十分な議論を経たとはいえないとする中で、単なる数の力によって成立させられてしまったという法的にはクーデターとも評される事態を問題にしているのである。
 以上の諸点からもこれまでの9条裁判とは全く異なる性質を持った訴訟であり、裁判所の役割が、これまでの9条裁判よりも格段に強く求められていることを忘れてはならない。
 もちろん安全保障政策に関する国民の意思は多様である。具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられている。
 しかし、そうだとしても、内閣、国会が最低限遵守しなければならない枠組みは憲法によって規定されている。政策の当不当の判断ではなく、こうした憲法の枠組みを逸脱した立法か否かの判断こそは司法の役割に他ならない。本件訴訟は、新安保法制法の安全保障政策上の当否の判断を裁判所に求めているものではない。あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めているだけである。それにもかかわらず、この問題を政治の場で解決するべき問題であるとして、裁判所が憲法判断を避けるようなことがあれば、すなわち、政治部門の行為が憲法の枠組みを逸脱しているか否かの判断をすることすら放棄してしまうことがあるとすれば、それこそ司法による政治部門への追随であり、極めて政治的な判断をしたと評価されることになろう。今回の事件は、憲法判断を避けること自体が極めて政治的な判断であることを意味する事案なのである。
 仮に、憲法判断を避けるとしたら、それは司法が政治に関わらない方がいいという話ではなく、司法はときの政権与党という特定の政治グループや政治家には逆らわない方がいいというだけの話に成り下がる。それを人は保身という。政治的判断に踏み込みたくないという裁判所の意図とはまったく逆に、裁判所が極めて政治的な対応をしたと国民は評価するであろう。その結果、裁判所に対する国民の信頼は失墜するであろう。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2018年5月11日 第7回 口頭弁論  報告集会資料(代理人意見陳述及び原告本人尋問証拠申出書より「証すべき事実」と「尋問事項」)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:政治的問題)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
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アメリカやフランス、ドイツでは「人権保障」のために裁判所が積極的に違憲審査権を行使し、憲法違反との判決を下す。アメリカの政治問題の法理、フランスの「転轍手」理論、ドイツの連邦憲法裁判所である。(伊藤真(1958-))

違憲審査権

【アメリカやフランス、ドイツでは「人権保障」のために裁判所が積極的に違憲審査権を行使し、憲法違反との判決を下す。アメリカの政治問題の法理、フランスの「転轍手」理論、ドイツの連邦憲法裁判所である。(伊藤真(1958-))】

「4 外国の違憲審査制
 日本国憲法の違憲審査制のあり方について考える際に、日本と同様に立憲主義、法の支配、権力分立、民主主義、司法権の独立、そして基本的人権の保障などの憲法価値を重視している外国の違憲審査制のあり方が参考になる。
 まず、アメリカでは裁判所が積極的に違憲審査権の行使に踏み切ってきた事実を指摘できる。権力分立が機能してきたといえ、1986 年に連邦最高裁は、外交関連の問題がすべて政治問題となるわけではなく、政治問題となるのは政策の選択等であって、法律の解釈の問題は政治問題にはならないとしている。本件訴訟は、新安保法制法が違憲であるか否かという憲法問題を問うものであり、こうした重要な法律問題を解決するために裁判所が積極的にその権限を行使するべき事案であることは、アメリカの政治問題の法理の展開を見ても明らかである。
 なお、日本において、司法消極主義の根拠として、民主的基盤を持たない裁判所は民主的基盤を持つ政治部門の判断に対しては謙抑的であるべきだと主張されることがある。しかし、フランスの「転轍手」理論によれば、裁判所の判断はたとえ違憲判断であっても最終的には憲法改正国民投票を含めた国民の判断に委ねることになるのであるから、民主主義という観点からは全く問題がない。裁判所は政治部門と比較した際の自らの民主的基盤の弱さを理由に、積極的に憲法判断、違憲判断を下すことを躊躇する理由は一切ないといえる。
 ドイツでは憲法擁護のための機関として、連邦憲法裁判所が憲法に明記された。議会の決定がファシズムへの道を開いた歴史的事実から、かつての議会への信頼感が失われ、それを統制する必要性が広く共有されたからであった。アメリカやフランス、ドイツでは「人権保障」のために裁判所が積極的に違憲審査権を行使し、憲法違反との判決を下すことに躊躇しない現実がある。フランスの「転轍手」理論が示すように、違憲審査権は民主主義に反するどころか、主権者である国民に対して国政の最終決定権に関する意見表明の場を提供する可能性があるという点で、決して民主主義に反するものでないという主張が受け入れられている。フランスやドイツでも、「憲法院」や「連邦憲法裁判所」の積極的な人権擁護の判断は、多くの国民の支持を得ている。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年9月28日 第5回 口頭弁論 市民集会プログラムより抜粋裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:違憲審査権,政治問題の法理,転轍手理論,連邦違憲裁判所)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
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2019年11月3日日曜日

1.我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互いに矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

多様な文化と歴史をつくる力

1【我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互いに矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)歴史的決定論は、誤りである。
 (a)人間は、歴史の目的や説明を求める。
 (b)もちろん、個々人や国民の生活の形成を決定していく、大きな非人格的な要因は存在する。
 (c)しかし、歴史の法則というものには、あまりにも多くの明白な例外と、逆の事例が存在する。
(2)個々人の決断と行為が歴史をつくる。
 様々な要因が多少とも均等にバランスしている時において、大抵は予測することができない偶然や、個々人の決断や行為が、歴史の進路を決定するというような決定的な瞬間、転換点が存在する。
(3)我々は、多様な文化の中に生きている。
 (a)文化は、新規で予想もされないような世界観を持っており、互いに矛盾しているような場合もある。
 (b)文化は、世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚に影響を与える。
 (c)文化は、思想、感情、態度、行動の特殊な形態に影響を与える。

 「―――近代の思想家の中では、あなたは特にヴィーコとヘルダーに注目しています。あなたの歴史についての考え方はこの二人の思想家からもっとも大きな影響を受けていると考えて、正しいでしょうか。

 バーリン ヴィーコとヘルダーについてあなたの言ったことはその通りですが、私は歴史についてあまり多くのことを自分で考えたとは思っていません。私は、本来の意味での歴史哲学者ではないのです。

私は多元主義を信じ、歴史的決定論を信じていません。決定的な瞬間、いわゆる転換点、さまざまな要因が多少とも均等にバランスしている時には、偶然、個人、個々人の決断と行為――これら必ずしも予測できないもの、むしろ大抵の場合には予測できないもの――が、歴史の進路を決定できます。

私は「歴史の筋書」があるとは思っていません(この言葉はゲルツェンが使ったものですが、彼は歴史を何幕かのドラマ――神や自然の作ったテーマのあるお芝居、はっきりした模様のあるカーペット――だとは思っていません)。マルクスとヘーゲルは、歴史は一つのドラマだと信じていました。何幕かが連続し、おそらくは大変動があった後に、マルクスにおいては激しい衝突と苦難と災厄の後に天国への門が開き、最後の大団円が来て、そこで歴史は止まり――マルクスのいう人類の前史です――、それからはすべてが永遠に調和し、人々は合理的な協力関係を結ぶことになるのです。

ヴィーコとヘルダーは、そのようなタイプのことはほとんど言っていません。二人はいくつかの型があると考えており、特にヴィーコはそうでしたが、大団円のある芝居があるとは思っていません。

思うに私の歴史観はヘーゲル、マルクス、この二人の支持者の著作を読み、彼らの議論はまるで納得できないと思ったことから始まっています。その他の型の発見者――シュペングラー、トインビー、そしてプラトン、ポリビウスに始まる彼らの先行者――についても、同じことを感じています。もちろん、人間はいつもこのタイプの歴史の目的、歴史の説明を求めるものです。しかし私には、事実はそれを証明していない、法則はあまりにも多くの明白な例外と逆の事例のために破られているように思えるのです。 

私はブローデル、E・H・カー、現代マルクス主義者の著作をよく読み、彼らの議論がどんなものか、歴史決定論者がどんなことを信じているかを承知しています。

個々人や国民の生活の形成を決定していく大きな非人格的な要因はもちろんあるでしょうが、だからといって、歴史は高速自動車道路のようなもので、大きく逸れていくことなどあり得ないということにはならないと思います。

私は、ヴィーコとヘルダーが文化の多元性を信じたことに、興味を持っています。それぞれの文化にはそれ自身の重心がある――多様な文化があり、それぞれに異なった、新規で予想もされなかった世界観と矛盾した態度を持っているという見方です。

ヴィーコは、文化――世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚、他の人々、環境にたいする関係で普通の男女が自分自身について持っている感覚――思想、感情、態度、行動の特殊な形態を定めていくもの――、つまり文化はそれぞれに異なっているということを理解していたと思います。彼以前には誰も理解していなかったことです。ヴィーコは文化の違いを時代で区別しました。

ヘルダーは別の時期に登場した文明という観点だけでなく、同時代のさまざまな国の文明という観点から区別しました。このことが、歴史はきちんとした直線を描いて進むものではないという私の考えを強化してくれました。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.57-59,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
(索引:歴史決定論,多様な文化)

ある思想史家の回想―アイザィア・バーリンとの対話


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

科学教育

【科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5.2)追加。

(5)一般教養教育の内容(各論)

 (5.1)他の国の言語や文化を学ぶこと
   自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.1.1)意見や方法は修正され得るものである。
   (a)すなわち、自分とは異なる意見や方法も、正しいことがあり得る。
   (b)他の国には、学ぶべき多くの事柄がある。
   (c)他の国の言語を学習することが必要である。ある国の言語を知らなければ、我々はその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできない。
   (d)なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解する。
  (5.1.2)我々の意見や方法は、正しい。この前提から出発すれば、我々は決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないであろう。
   (a)なぜなら、異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わない。
   (b)自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考える。
   (c)すなわち、そのような考え方と習慣は、「本性」そのものになっている。

 (5.2)科学教育
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
   (b)事実から何が証明されるか。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 「科学が提供する知識は、単にそれだけで十分に、科学教育の有用性を自明なものとすることでしょう。われわれは、われわれの意志とは無関係な世界、つまり、様々な現象が一定の法則に従って生起している世界に、生まれるのです。そしてわれわれは、その法則については全く何も知ることなく、この世界にやってきたのであります。このような世界に住むことを、われわれは運命づけられ、すべての活動はそのなかでなされなければならないのです。われわれが完全に活動しているか否かは、世界についての諸法則の知識をもつか否かに、言い換えればわれわれがそれらを用いて働き、それらのなかで働き、それらに働きかけるその種の様々な事物の性質について知っているか否かに、かかっているのであります。われわれがもつこの種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵によるものであり、事実そうなのであります。他方、科学的真理についての基礎的な知識が一般の人々の間に行きわたらない限り、一般大衆は何が確実で、何が確実でないかを、あるいは、誰が権威をもって語りうるのか、誰がその資格をもちえないのかを決して知ることはないのです。そしてその結果、一般大衆は、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなるか、それとも、すぐに大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまう愚か者になるか、そのどちらかになってしまうでしょう。一般大衆は、無知故に不信感をもつという状態と、盲目的でしかもほとんど見当違いの確信をもという状態とをただ繰り返すことになるでしょう。他方、自分の眼前で起こっているありふれた物理的現象の原因について理解しようと思わない人が一体いるでしょうか。例えば、なぜポンプが水を汲み上げるのか、なぜ梃が重いものを動かすのか、なぜ熱帯では暑く、南極・北極では寒いのか、なぜ月は暗くなったり、明るくなったりするのか、潮の干満が起こる原因は何であるか、ということを知りたいと思わない人が本当にいるのでしょうか。このような事について全く無知な人は、たとえある専門的な職業に熟達しているとしても、教育のある人間ではなく、むしろ無教養な人間とみなされてもよいのではないでしょうか。宇宙についての最も重要で、しかも誰もが興味を抱く事実に関する十分な知識をわれわれに与え、われわれを取り囲むこの世界がわれわれにとって、理解できない故に全く面白くない、いわば一冊を封印された書物にしないことは、確かに、教育の重要な役割であります。しかしながら、こうしたことは科学の有用性の最も単純明解な部分にすぎず、青年時代にこの種の教育を受けなかったとしても、あとで容易に取り返しがつくものなのであります。これに対して、科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのであります。 事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具なのであります。そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、既に知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するより、ずっと簡単なのであります。
 一生を通じて人間の知性が最も活発に働き続けるのは、真理を探究する時であります。われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでありましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(1)科学教育の意義,pp.36-38,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:科学教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年11月2日土曜日

「憲法判断回避の準則」にはよらず、憲法判断に踏み切る際に総合的に考慮すべき要素は、(a)事件の重大性、(b)違憲状態の程度、(c)その及ぼす影響、(d)権利の性質である(芦部信喜(1923-1999))。(伊藤真(1958-))

憲法判断が必要な場合

【「憲法判断回避の準則」にはよらず、憲法判断に踏み切る際に総合的に考慮すべき要素は、(a)事件の重大性、(b)違憲状態の程度、(c)その及ぼす影響、(d)権利の性質である(芦部信喜(1923-1999))。(伊藤真(1958-))】

「3 憲法判断の回避について
 憲法判断回避の準則によって裁判所が自己抑制をすることがある。しかしこれは、絶対的なルールではない。どのような場合に裁判所が憲法判断を行うかについては、憲法にも法律にも何ら明文の規定はない。むしろ、類似の事件が多発する恐れがあり、明確な憲法上の争点があるような場合に憲法判断することは学説上も是認されてきた。この点について、芦部信喜教授は、憲法判断回避のルールによらず、憲法判断に踏み切る際に総合的に考慮すべき要素として「事件の重大性」、「違憲状態の程度」、「その及ぼす影響」、「権利の性質」をあげる。これらの要素を当てはめてみたとしても、新安保法制法の憲法適合性にかかわる本件訴訟については「憲法判断回避の準則」を適用できる場合ではない。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年9月28日 第5回 口頭弁論 市民集会プログラムより抜粋裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:憲法判断が必要な場合)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
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統治行為論は、政治問題については、裁判所よりも国民の意思が直接反映されている国会で判断するほうが民主主義に適合することに支えられている。不十分な審議経過と異常な議決によって成立した法律に対して、適用することはできない。(伊藤真(1958-))

統治行為論

【統治行為論は、政治問題については、裁判所よりも国民の意思が直接反映されている国会で判断するほうが民主主義に適合することに支えられている。不十分な審議経過と異常な議決によって成立した法律に対して、適用することはできない。(伊藤真(1958-))】

「2 統治行為論について
 仮に統治行為論を概念として肯定したとしても、本件訴訟は司法判断がなされるべき事案である。まず、砂川判決の統治行為類似の理論に従って今回の新安保法制法を判断するのであれば、「一見極めて明白に」違憲無効か否かの判断を避けて通ることはできない。
 そもそも、統治行為論は、政治問題については、裁判所よりも国民の意思が直接反映されている国会で判断するほうが民主主義に適合することに支えられている。ところが、新安保法制法は先に述べたように不十分な審議経過と異常な議決によって成立し、権力間のバランスが崩れる中でなされたものであり、国会判断に敬意と謙譲を払うべき場面ではない。
 仮に政治部門が憲法破壊を進める状況にありながらも、司法府が何もできないとしたら、憲法 81 条で違憲審査権が認められたことの意義が大きく減殺される。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年9月28日 第5回 口頭弁論 市民集会プログラムより抜粋裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:統治行為論)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
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人格権とは、内心の静謐と平穏な私生活が確保され、各人固有の幸福追求のための自己決定が可能であり、その決定が価値あるものとして尊重される権利であり、生命、身体、精神に関する権利の総体により保障される。(角田由紀子(1942-)

人格権

【人格権とは、内心の静謐と平穏な私生活が確保され、各人固有の幸福追求のための自己決定が可能であり、その決定が価値あるものとして尊重される権利であり、生命、身体、精神に関する権利の総体により保障される。(角田由紀子(1942-)】

人格権の権利性
 (1)名誉権
  最高裁判決が初めて、名誉権を人格権として認めた昭和61(1986)年6月11日付判決(北方ジャーナル事件)。
 (2)内心の静謐権
  (2.1)「現代社会において、他者から自己の欲しない刺激によって心を乱されない利益、いわば心の静謐の利益もまた、不法行為法上、被侵害利益となりうるものと認めてよい。」また、原告の受けた侵害は、「単に不快であること」を超える。(昭和63(1988)年6月1日付判決(自衛官合祀手続き事件)における伊藤正己裁判官の反対意見)
  (2.2)県知事による水俣病認定が遅れており、認定を待つ患者の不安や焦りの気持ちは、「いわば内心の静謐な感情を害するものであって、その程度は決して小さいわけではない」としてその気持ちは、不法行為上の損害賠償の対象となる。この判決は、自衛官合祀手続き事件では否定された「内心の静謐」の利益の侵害が不法行為になりうるとしたもので、最高裁としては、内心の静謐の利益を不法行為法上の保護法益として明確に認めた最初の判決である。(最高裁第二小法廷平成3(1991)年12月21日判決(水俣病認定業務に関する熊本県知事の不作為違法に対する損害賠償請求事件上告審判決))
 (3)私生活の平穏などの人格的利益
  ビラ配布行為に起因する人格的利益の侵害について不法行為責任を認め、原判決を変更して慰謝料の支払いを命じた。この判決は「私生活の平穏などの人格的利益」が侵害されたことを明確に認めた。(最高裁第二小法廷平成元(1989)年12月21日判決)
 (4)人間としての生存にとって本質的に必要な生命、身体、精神及び生活に関する利益の総体
  「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体を人格権ということができる。」「人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであって、これを権利として構成するのに何らの妨げはなく、実定法の規定をまたなくとも当然に承認されるべき基本的権利である」。(大阪高裁 昭和50(1975)年11月27日大阪国際空港の夜間飛行禁止等請求事件)
 (5)憲法第13条、第25条に明示された権利
  人格権は憲法上(13 条、25 条)の権利であり、人の生命を基礎とするものなので、わが国の法制下では、これを超える価値を見出すことができない。(福井地裁平成26(2014)年5月21日判決は、大飯原発 3,4 号機の運転差止を認めた)
  第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
  第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
   国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 (6)自己決定権を中核とする平穏生活権
  平穏生活権は、自己決定権を中核とした人格権であって、放射線被ばくへの恐怖不安にさらされない利益や内心の静謐な感情を害されない利益を包摂する権利など、多くの権利を包摂するものである。(2017年3月17日、前橋地裁の判決・福島・原発被害避難者による損害賠償請求事件)

「(2) 判例について
 判例も、非常に重要な権利として人格権を認めております。以下にその一部を紹介しますように、人格権の権利性を認めた最高裁判例が複数ありますが、そのいくつかを紹介します。
 ①最高裁大法廷判決 昭和 61(1986)年 6 月11 日付判決(北方ジャーナル事件)は、最高裁判決が初めて、名誉権を人格権として認めたものであります。この事件で最高裁は、人格権を極めて重大な保護法益であって、排他性を有するとして、絶対権としての人格権を明確に位置付けました。
 ②最高裁大法廷判決 昭和 63(1988)年 6 月1 日付判決(自衛官合祀手続き事件)は、結論としては、キリスト教徒である原告の夫を神社に合祀しないでほしいという訴えを認めなかったものですが、プライバシー法の専門家であった伊藤正己裁判官の反対意見があります。伊藤裁判官は、「現代社会において、他者から自己の欲しない刺激によって心を乱されない利益、いわば心の静謐の利益もまた、不法行為法上、被侵害利益となりうるものと認めてよい。」と述べております。伊藤裁判官は、原告の受けた侵害は、「単に不快であること」を超えるものと論じております。この見解は、被告の反論を検討するにあたり、重要な手がかりを与えてくれます。
 ③最高裁第二小法廷平成元(1989)年12月21日判決は、ビラ配布行為に起因する人格的利益の侵害について不法行為責任を認め、原判決を変更して慰謝料の支払いを命じたものです。この判決は「私生活の平穏などの人格的利益」が侵害されたことを明確に認めたのです。
 ④最高裁第二小法廷平成3(1991)年12月21日判決(水俣病認定業務に関する熊本県知事の不作為違法に対する損害賠償請求事件上告審判決)は、県知事による水俣病認定が遅れており、認定を待つ患者の不安や焦りの気持ちは、「いわば内心の静謐な感情を害するものであって、その程度は決して小さいわけではない」としてその気持ちは、不法行為上の損害賠償の対象となることを認めたのです。この判決は、自衛官合祀手続き事件では否定された「内心の静謐」の利益の侵害が不法行為になりうるとしたもので、最高裁としては、内心の静謐の利益を不法行為法上の保護法益として明確に認めた最初の判決です。本件原告らの主張の理解に大いに参考になるものです。
 下級審でも重大な判決がいくつも出されております。
 ①大阪高裁 昭和50(1975)年11月27日判決は、大阪国際空港の夜間飛行禁止等請求事件のものです。「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体を人格権ということができる。」「人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであって、これを権利として構成するのに何らの妨げはなく、実定法の規定をまたなくとも当然に承認されるべき基本的権利である」。この事件では、被告国は、学説による体系化、類型化をまたなくては人格権として裁判上採用できないと主張したのですが、大阪高裁は、その主張をはっきりと否定しました。
 ②福井地裁平成26(2014)年5月21日判決は、大飯原発 3,4 号機の運転差止を認めたものです。この判決は、人格権は憲法上(13 条、25 条)の権利であり、人の生命を基礎とするものなので、わが国の法制下では、これを超える価値を見出すことができないとして、その重要性が強調されています。これは、本件で原告たちが訴えている、戦争による生命侵害への不安、恐れの重要性に通じるものとして示唆的です。
 ③最近のものとして記憶に新しいのは、2017年3月17日、前橋地裁の判決です。福島・原発被害避難者による損害賠償請求事件です。判決は、平穏生活権が自己決定権を中核とした人格権であって、放射線被ばくへの恐怖不安にさらされない利益や内心の静謐な感情を害されない利益を包摂する権利など、多くの権利を包摂するものであると述べています。
 これらの指摘は、本件原告らの多くが、憲法のもとで築いてきた今までの人生を否定されたと感じ、戦争になるのではないかとの恐怖不安にさらされるなどしていることが、人格権の深刻な侵害であると訴えていることが、人格権侵害であるとする論拠となるものです。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年6月2日 第4回 口頭弁論 報告会資料(意見陳述全文掲載)修正版裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:人格権,内心の静謐,平穏生活権)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
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国会議員の職務義務違反という行為態様の違法性の質と量は、侵害行為の態様と被侵害利益の種類・性質等を考慮しなければ、判断できない。(伊藤真(1958-)

立法不法行為の違法性の判断

【国会議員の職務義務違反という行為態様の違法性の質と量は、侵害行為の態様と被侵害利益の種類・性質等を考慮しなければ、判断できない。(伊藤真(1958-)】

(3)追加。
(2)追記。

 以下のような立法行為によって、原告の「権利又は法律上保護される利益」(民法709条)が侵害されたのならば国家賠償法上の違法性が認められ、これによって生じた損害は、国家賠償として認められなければならない。
(1)「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」場合
 例えば、
 (1.1)「憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合」
 (1.2)「憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白」
 (1.3)立法内容が人権規範以外の憲法規範に違反するときは、「憲法の規定に違反するものであることが明白な場合」
(2)国務大臣と国会議員の職務義務
 (2.1)国務大臣は、重大な違憲の疑義が生じているような法案を、国会に提出する閣議決定に同意してはならない。
 (2.2)基本的な行為規範
  審議を通じて、なぜそのような法律が必要なのか、その立法事実を丁寧に検討し、当該立法の必要性、相当性を十分に明らかにすることで、国会議員として国民の疑問に誠実に応えるべきという国会議員としての行為規範がある。
 (2.3)相当に慎重な注意義務
  国会議員には、憲法の基本原理に牴触したり、国民各人の権利や法的利益を侵害したりする可能性のある法律を制定する場合には、相当慎重に立法内容を検討する注意義務がある。
 (2.3)特に説得的な説明責任
  国会議員には、有識者から違憲と指摘されるような法律を制定する際には、当該立法が憲法違反とはならないことを国民に説得的に説明する法的義務が生ずる。
 (2.4)法案の修正義務
  国会議員は、当該法案に、重大な違憲の疑義が生じている場合には、そうした違憲の疑いを払拭するべく審議を重ね、少なくとも国民の多くが違憲の疑いを持たない程度には法案の修正などによって対応するべき職務義務がある。
(3)立法不法行為の違法性の判断
 (3.1)参考:刑事手続上の検察官や裁判官の職務行為の違法性が問題となった事案における「職務行為基準説」(「公権力発動要件欠如説」とも称されるもの)
  侵害行為の態様や被侵害利益の内容を考慮すべきでない。
 (3.2)参考:一般の行政処分についての「職務行為基準説」
  国賠法上の違法性を、侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において判断している。(「相関関係論」)
 (3.3)立法不法行為の場合
  (a)国賠法上の違法性は、厳密な行政法規違反に限定されるものではない。
  (b)職務行為基準説を採用しつつも、より一層、侵害行為の態様と被侵害利益の種類・性質との相関関係を考慮するべきである。
  (c)国会議員の職務義務違反という行為態様の違法性の質と量は、侵害行為の態様と被侵害利益の種類・性質等を考慮しなければ、判断できない。
「第1 国賠法上の違法性の判断基準について
 被告は、「職務行為基準説」を採用することにより、いわゆる「相関関係論」すなわち、侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において違法性が判断されるとする立場は取り得なくなるかの主張をしているので、この点について反論する。
 まず、国賠法上の違法性は、厳密な行政法規違反に限定されるものではないことは、田中二郎博士など行政法の研究者や、平成25年3月26日最高裁第三小法廷判決に付された寺田逸郎裁判官及び大橋正春裁判官の補足意見などでも言及されているところである。
 被告主張のように、侵害行為の態様や被侵害利益の内容を考慮すべきでないと言えるのは、刑事手続上の検察官や裁判官の職務行為の違法性が問題となった事案における「職務行為基準説」(「公権力発動要件欠如説」とも称されるもの)についてであり、これと、一般の行政処分についての「職務行為基準説」を混同してはならない。
 行政処分に関するいくつかの裁判例においても、国賠法上の違法性を、侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において判断している。
 よって、一般に「職務行為基準説」を採用することが、「相関関係論」を否定する理由にはならない。では、立法不法行為の場合はどうであろうか。立法不法行為の場合には、職務行為基準説を採用しつつも、より一層、侵害行為の態様と被侵害利益の種類・性質との相関関係を考慮するべきと考える。国会議員の職務義務違反という行為態様の違法性の質と量は、侵害行為の態様と被侵害利益の種類・性質等を考慮しなければ、判断できないものといえるからである。特に、憲法の基本原理に牴触したり、国民各人の権利や法的利益を侵害したりする可能性のある法律を制定する場合には、相当慎重に立法内容を検討する注意義務があるといえ、さらに、有識者から違憲と指摘されるような法律を制定する際には、当該立法が憲法違反とはならないことを国民に説得的に説明する法的義務が生じているといえる。このように、国会議員の職務義務の内容・レベルは、侵害行為の態様、当該立法行為によって生じる被侵害利益の種類・性質などを考慮しなければ判断できない。検察官の公訴提起・追行などの公権力発動要件のように明確な要件が予め法定されている訳ではないからである。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年6月2日 第4回 口頭弁論 報告会資料(意見陳述全文掲載)修正版裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:立法不法行為)

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前文に規定された平和的生存権と第9条は、具体的な安全保障政策や外交政策など、多数派による多様な政治的決定の許容限界を定める、国民の生命、自由、財産を守るための基底的権利を規定している。(伊藤真(1958-)

平和的生存権と第9条

【前文に規定された平和的生存権と第9条は、具体的な安全保障政策や外交政策など、多数派による多様な政治的決定の許容限界を定める、国民の生命、自由、財産を守るための基底的権利を規定している。(伊藤真(1958-)】

 本件訴訟は、新安保法制法の安全保障政策上の当否の判断を裁判所に求めているのではない。あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めている。
(1)安全保障政策の当不当の判断
 (a)安全保障政策に関する国民の意思は多様である。
 (b)具体的な安全保障政策の実現や、外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられている。
(2)多数派による政治的決定への制限
 (a)安全保障政策における判断の誤りは国民の生命、自由、財産に甚大な損害を与え、取り返しのつかない結果を招来することになる。
 (b)従って憲法は、こうした国家の安全保障政策に対して、憲法9条、前文の平和的生存権などの規定によって、多数派による政治的決定に制限を加えている。

「平成27年再婚禁止期間違憲判決では、まず民法733条1項の憲法適合性を判断した上で、当該立法不作為の国家賠償法上の違法性の有無についての判断枠組みを提示してあてはめをし、国家賠償法上の違法の評価を受けるものではないとして請求を棄却しており、原告の損害については一切検討していない。このように最高裁も法規の憲法適合性の判断を先行させている。
 本事案もこれと同様に、新安保法制法の違憲性について先行させて判断をするべき事案である。
 安全保障政策における判断の誤りは国民の生命、自由、財産に甚大な損害を与え、取り返しのつかない結果を招来することになる。だからこそ、憲法は、こうした国家の安全保障政策に対して、憲法9条、前文の平和的生存権などの規定によって、多数派による政治的決定に制限を加えたのである。
 安全保障政策に関する国民の意思は多様である。具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているとしても、内閣、国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組みは憲法によって規定されている。政策の当不当の判断ではなく、こうした大きな枠組みを逸脱した立法か否かの判断こそは司法の役割である。
 本件訴訟は、新安保法制法の安全保障政策上の当否の判断を裁判所に求めているのではない。あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めているだけである。にもかかわらず、この問題を政治の場で解決するべき問題であるとして、政治部門にその判断をゆだねてしまい、裁判所が憲法判断を避けることは決して許されることではない。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年3月3日 第3回 口頭弁論 報告会資料(意見陳述全文掲載)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:平和的生存権,日本国憲法第9条,安保法制)

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立法内容の違憲性が明白な場合には、この立法行為によって権利または法律上保護された利益が侵害されたならば、国家賠償法上の違法性が認められる。なぜなら、国務大臣と国会議員には、十分な審議、国民への説明、法案の必要な修正等の責任があるからである。(伊藤真(1958-)

国家賠償法上の違法性

【立法内容の違憲性が明白な場合には、この立法行為によって権利または法律上保護された利益が侵害されたならば、国家賠償法上の違法性が認められる。なぜなら、国務大臣と国会議員には、十分な審議、国民への説明、法案の必要な修正等の責任があるからである。(伊藤真(1958-)】
 以下のような立法行為によって、原告の「権利又は法律上保護される利益」(民法709条)が侵害されたのならば国家賠償法上の違法性が認められ、これによって生じた損害は、国家賠償として認められなければならない。
(1)「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」場合
 例えば、
 (1.1)「憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合」
 (1.2)「憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白」
 (1.3)立法内容が人権規範以外の憲法規範に違反するときは、「憲法の規定に違反するものであることが明白な場合」
(2)国務大臣と国会議員の職務義務
 (2.1)国務大臣は、重大な違憲の疑義が生じているような法案を、国会に提出する閣議決定に同意してはならない。
 (2.2)国会議員は、当該法案に、重大な違憲の疑義が生じている場合には、そうした違憲の疑いを払拭するべく審議を重ね、少なくとも国民の多くが違憲の疑いを持たない程度には法案の修正などによって対応するべき職務義務がある。
 (2.3)審議を通じて、なぜそのような法律が必要なのか、その立法事実を丁寧に検討し、当該立法の必要性、相当性を十分に明らかにすることで、国会議員として国民の疑問に誠実に応えるべきという国会議員としての行為規範がある。

「これらの「憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合」とか「憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白」という表現は、昭和60年判決がいうところの「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」場合の例示であり、立法内容が、憲法の人権規範に違反するときの判断枠組みとしてこのような表現になっているものと考えられる。また、仮に立法内容が人権規範以外の憲法規範に違反するときには、「憲法の規定に違反するものであることが明白な場合」という判断枠組みによって判断することが可能と考える。
 なぜなら、立法内容が、憲法13条のような人権規範に違反するときであろうが、憲法9条のように人権規範以外の憲法規範に違反するときであろうが、憲法規範に違反することが明白な内容の立法行為が許されるはずもなく、いずれも昭和60年判決がいうところの「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」場合にあたるといえるからである。こうした立法行為によって、原告の「権利又は法律上保護される利益」(民法709条)が侵害されたのならば国家賠償法上の違法性が認められ、これによって生じた損害は、国家賠償として認められなければならない。
 さらに、国務大臣は、重大な違憲の疑義が生じているような法案を国会に提出する閣議決定に同意してはならないし、国会議員は、当該法案に、重大な違憲の疑義が生じている場合には、そうした違憲の疑いを払拭するべく審議を重ね、少なくとも国民の多くが違憲の疑いを持たない程度には法案の修正などによって対応するべき職務義務があるといえる。国務大臣も国会議員も憲法尊重擁護義務を負っているからである。そして、審議を通じて、なぜそのような法律が必要なのか、その立法事実を丁寧に検討し、当該立法の必要性、相当性を十分に明らかにすることで、国会議員として国民の疑問に誠実に応えるべきという国会議員としての行為規範がある。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年3月3日 第3回 口頭弁論 報告会資料(意見陳述全文掲載)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:国家賠償法上の違法性)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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検索(憲法改正)
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国賠法上の違法性は,権利ないし法的利益の侵害を前提として,公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反したか否かにより判断される。侵害が強固であることにより、違法性が証明されるわけではない。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2017年3月3日 第3回 口頭弁論 被告準備書面(1))

国賠法上の違法性要件

【国賠法上の違法性は,権利ないし法的利益の侵害を前提として,公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反したか否かにより判断される。侵害が強固であることにより、違法性が証明されるわけではない。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2017年3月3日 第3回 口頭弁論 被告準備書面(1))】

(1)民法上の不法行為は,侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において判断される。(相関関係説)
 (1.1)法律上保護される権利ないし利益が存在すること。
 (1.2)権利ないし法的利益の侵害があること。
 (1.3)違法性の判断
  (a)侵害行為の態様・程度
  (b)被侵害利益の種類・内容
(2)国賠法上の違法性は,権利ないし法的利益の侵害を前提として,公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反したか否かにより判断される。(職務行為基準説)
 (2.1)法律上保護される権利ないし利益が存在すること。
 (2.2)権利ないし法的利益の侵害があること。
 (2.3)違法性の判断
  (a)公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務があること。
  (b)その職務を行うについて,故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたこと。
  (c)国賠法上の違法性は,侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において判断されるものではない。
   (c.1)仮に、侵害行為の態様・程度、被侵害利益の種類・内容が強固なものであっても、法の定める一定の要件と手続の遵守の下で、その侵害が行われたものである限り、これをもって違法とされるものではない。

「第2 国賠法上の違法性は,侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において判断されるものではないこと
 1 . 原告らの主張の要旨
 原告らは,「本件は,被告の不法行為責任を問うものであるが,その場合,侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において,不法行為の違法性が判断されるべきことはいうまでもな」く,したがって,「本件における不法行為の成否は,新安保法制法の違憲性とその重大性を措いて,論ずることはできない。」と主張し(原告ら準備書面(1)第1の2・4及び5ページ),その根拠として,最高裁判所平成17年_9月14日大法廷判決(民集59巻7号2087ページ。以下「最高裁平成17年判決」という。)を指摘するとともに(同第2の3・14及び15ページ),被告が挙げる最高裁判所の判例も,「不法行為の違法性は,侵害行為の態様・程度と被侵害権利利益の種類・内容との相関関係によって判断」(同第4の1(3)・3 8及び39ページ)しているとする。
2 国賠法上の違法性は,権利ないし法的利益の侵害を前提として,公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反したか否かにより判断されること
 本件訴訟において,原告らは,被告に対し,「国家賠償法1条1項に基づく国家賠償請求」として損害金等の支払を求めているところ(訴状第6・44ページ),国賠法1条1項は,「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が,その職務を行うについて,故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは,国又は公共団体が,これを賠償する責に任ずる。」と定めている。これは,「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定するものであ」り(最高裁平成1 7年判決),国賠法1条1項の適用に当たり,当該公権力の行使が「違法」となるか否かは,公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反したか否かで判断される(職務行為基準説)。このことは,最高裁判所昭和6 0年11月21日第一小法廷判決(民集39巻7号15 1 2ページ。以下・「最高裁昭和60年判決」という。),最高裁判所平成5年3月11日第一小法廷判決(民集47巻4号28 6 3ページ),最高裁判所平成9年9月9日第三小法廷判決(民集5'I巻8号38 5 0ページ),最高裁平成17年判決,最高裁判所平成27年12月16日大法廷判決(民集69巻8号24 2 7ページ)等において繰り返し示されているところであり,確立した判例である。
 そして,国家賠償制度が個別の国民の権利ないし法的利益の侵害を救済するものであることの当然の帰結として国賠法1条1項の違法は,当該個別の国民の権利ないし法的利益に対する侵害があることを前提としていることは,答弁書第4の2(1)(20ページ)で述べたとおりであるが,そもそも,国家賠償を請求する者が侵害されたと主張する権利ないし利益が法律上保護されるものでなければ,公権力の行使に当たる公務員は,当該個別の国民との関係では何ら職務上の義務を負担していないことになり,また,損害を加えたということにもならない。したがって,法律上保護される利益が侵害されたといえなければ国賠法1条1項の適用上違法とされることはない。
 これに対し,民法上の不法行為においては,他人の権利を侵害すること自体が原則として許されず,権利ないし法益の侵害があるときには原則として違法性が認められ、また,その違法性の判断は,原告らが本件訴訟において「不法行為責任」の解釈として述べるのと同様,被侵害利益の種類・性質と侵害行為の態様との相関関係において考察され,被侵害利益が強固であれば行為の不法性が小さくとも違法性が肯定され,被侵害利益が強固でないときは行為の不法性が大きい場合に違法性が肯定されるとする,いわゆる相関関係説が一般的に妥当していると言われている。しかしながら,公権力の行使は,国民の権利に対する侵害を内包することが多く(生命刑や自由刑の執行がその典型である。),いかに被侵害利益が強固なものであっても,法の定める一定の要件と手続の遵守の下でその侵害が行われたものである限り,これをもって違法とされるものではないし,また,侵害行為の態様から,国賠法上の権利ないし法的利益の侵害が基礎づけられるというものでもない。すなわち,国賠法1条1項の違法は,民法上の違法の徴憑である被害者の生命,財産等の権利,利益に対する侵害の観点ではなく,それに関与した公務員の行為が当該公務員に命じられた職務義務に違反するか否かが問われることになるのである(筧康生「国家賠償法における反射的利益」貞家最高裁判事退官記念論文集(民事法と裁判)下28 5ページ,都築弘「規制監督権限の不行使」現代民事裁判の課題⑩〔国家賠債J2 74ページ)。
 以上のとおり国賠法上の違法性判断は,個別の国民に権利ないし法的利益の侵害が存在することを前提とした上で,公務員が当該個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反したか否かにより判断されるものである。
 したがって,国賠法1条1項の違法について,侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において違法性が判断されるとする原告らの主張は失当である。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年3月3日 第3回 口頭弁論 被告準備書面(1)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:国賠法上の違法性要件)

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2016年7月1日、バングラデシュの首都ダッカでのレストラン襲撃事件において、人質の一人の日本人が、銃を突きつけた犯人に向かって「I am Japanese.」と言い、殺された。日本はもはや、武力と戦争を放棄した国とは考えられていない。(岡本達思(1950-))

憲法9条が日本人を守っていた

【2016年7月1日、バングラデシュの首都ダッカでのレストラン襲撃事件において、人質の一人の日本人が、銃を突きつけた犯人に向かって「I am Japanese.」と言い、殺された。日本はもはや、武力と戦争を放棄した国とは考えられていない。(岡本達思(1950-))】

「他の大国が、中東諸国に軍事介入する中で、憲法9条のもと武器を持たず平和外交や NGO による人道支援を続けてきた日本に対しては、パレスチナに限らず中東諸国の多くの人々は絶大な信頼を寄せてくれました。これは中東諸国で人道支援や取材活動を続けてきた日本人なら、誰もが感じているはずです。
 ところが、自公政権による安倍内閣が誕生して以来、彼らの日本に対して抱く信頼は徐々に薄れてきました。如実に変わったのは、2015年1月に安倍首相が中東諸国を歴訪して以降です。なかでも 1 月 18 日にイスラエルを訪問し、サイバーテロや軍用無人機などの安全保障関連分野での提携を深める演説は、中東諸国に対して挑発的な言動となり、私はそのニュースを見て全身に戦慄が走ったのを今でも忘れることができません。
 昨年7月1日にバングラデシュの首都ダッカで、武装集団によるレストラン襲撃事件がありました。この事件で私が最もショックを受けたのは、人質の一人の日本人が銃を突きつけた犯人に向かって「I am Japanese.」と言い殺されたことでした。かつては私たちの身を守る言葉だった「I am Japanese.」が、今や何の力もないこと、むしろ日本人が攻撃の対象として変わってしまったことに、私は深い悲しみを感じました。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2017年3月3日 第3回 口頭弁論 報告会資料(意見陳述全文掲載)裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
(索引:ダッカでのレストラン襲撃事件,日本国憲法第9条,安保法制)

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