2022年6月29日水曜日

時間的な構造において予測可能でなかったり、未来が一つに決定されていなくても、過去から未来までの全存在が決定されていると思われるのは、我々自身が時間的な存在であることによる認識上の限界である。なぜなら、決定性の概念が時間の存在を前提にしているからである。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)

決定性は、時間的な概念である

時間的な構造において予測可能でなかったり、未来が一つに決定されていなくても、過去から未来までの全存在が決定されていると思われるのは、我々自身が時間的な存在であることによる認識上の限界である。なぜなら、決定性の概念が時間の存在を前提にしているからである。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)


 (a)決定性は時間的な概念である
  未来が決定されているかどうかという概念自体が、時間の存在を前提にしている。一つの存在として存在している全存在は、時間を超えており、決定されているかどうかを問うことは無意味である。(持続的な概念と永遠的な概念)
 (b)認識は、我々の限界に服する
  我々自身が時間的な存在なので、時間の存在を前提にした決定性の概念は理解することができる。しかし、時間を超えた概念はたとえ理解できなくとも、それは我々の存在の限界なのであって、全宇宙の存在の真の姿は同じ概念で理解可能とは限らない。


(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』,第5部,6,pp.229-235,岩波文庫,1950,畠中尚志(訳),https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000871187-00 )


















































2022年6月23日木曜日

たとえ出来事がどのように生起していようとも、過去から未来までの全存在は、確かに何らかの存在として一つ存在しており、それでもなお、自由意志がいかなる意味で存在し得るのかが問題である。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)

自由意志

たとえ出来事がどのように生起していようとも、過去から未来までの全存在は、確かに何らかの存在として一つ存在しており、それでもなお、自由意志がいかなる意味で存在し得るのかが問題である。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)



(a)予見には2つの概念が区別されるとの考え
 (i)予測可能性
  現在の状態を知って、未来の状態を予測できるという意味での予見の概念がある。しかし、予測可能だとしても、未来の状態は一つに決定されているとは限らない。
 (ii)過去から未来までの全存在
  予測可能かどうか、また予測可能だとしても未来が一つに決まっているかどうかが分からなくても、未来はある姿で存在する。この過去から未来に至る全ての存在は、全宇宙の全てを知ることが可能だとしたら、一つの存在として存在していると思われる。
(b)予見とは過去から未来までの全存在を知ることであるとの考え
 いま現に、ある人が座っていると知ることは、それが確かに存在していることを示している。過去のことも未来のことも、それが確かに存在しているのなら、その存在そのものは、一つに決まっているものと思われる。



(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』,第5部,2,pp.210-213,岩波文庫,1950,畠中尚志(訳),https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000871187-00 )































2022年5月21日土曜日

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の事例による説明

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(a)「私はAをする」
 (i)それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。
 (ii)そうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるが、故意に欺いていることにはならない。
(b)「私はAをする意図を固めている」
(c)「私はAをする意図を完全に固めている」

(d)「約束します(I promise)」 
 (i)単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うことによって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになる。
 (ii)私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利がある。
 (iii)私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになる。
 (iv)もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利があり、それに基づいて自分でも別の約束をすることができる。
 (v)あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならない。

(e)「SはPである」
 (i)信じていないのに言うならば、嘘をついていることになる。
 (ii)信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはならない。
(f)「SはPであると信じている」
(g)「SはPであると確信している」
(h)「SはPであると完全に確信している」
 (i)私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできる。

(i)「私は知っているのです(I know)」
 (i)「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。 
 (ii)私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではなく、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味しない。 
 (iii)誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではあるが、自分もまた知っていると言う権利が生ずる。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能である。
 (iv)あなたがあることを知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態を取る。

 


 「もし私が信じてもいないにもかかわらず「SはPである」と言うならば、私は嘘をついていることになります。もし私が信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはなりません。もし私が「私はAをする」と言いつつ、それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。もし私がそうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなりますが、先ほどと同じ仕方で故意に欺いていることにはなりません。  さてしかし、私が「約束します(I promise)」と言う場合には、新たな一歩が踏み出されることになります。私は、単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うこと(この儀式を遂行すること)によって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになるのです。同様に、「私は知っているのです(I know)」と言うこともまた、新たな一歩を踏み出すことであります。しかしそれは、「私は、信じることや確信することと同一の評価次元に属してはいるが、単に完全に確信することにさえも優ると評価される、特にきわだった認知上の偉業を達成した」と言うということでは《ありません》。なぜなら、この評価次元の上には完全に確信することに優るものなど何も《存在し》ないからです。それはちょうど、約束することが、期待することや意図することと同じ評価次元に属してはいるが、単に完全に意図を固めていることにさえも優るような何事かであるのではなく、しかもその理由がこの評価次元の上には完全に意図することに優るものなど何も《存在》しないからであるというのとまったく同様です。「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。  私が「私は確信している」としか言っていない場合には、間違っていることが判明したとしても、「私は知っている」と言った場合と同じ仕方で他人から非難される謂われはありません。私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできます。もし私が鋭敏で注意深い人間であると思うならば、それを受け入れればよいのであって、それはあなたの責任で決める事柄です。しかし、私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではありませんし、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味してはいません(もちろん、あなたは実際には受け入れることも受け入れないでいることも《できはする》のですが)。同様にして、自分が完全にそうする意図を固めていると私が言うとき、私がそういう意図をもつことは私の側の事柄であり、あなたは、あなたが私の決意と運勢をどう評価するかに応じて、自分の行動を私の言葉に基づけるかどうかを決定することでしょう。しかし私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利があります(あなたがそうすることを選ぶかどうかは別の問題です)。私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになります。われわれは皆「知っている」と言うことと「《絶対の》確信がある」と言うこととの間にさえもきわめて大きな相異を《感じとります》。それは、「約束する」と言うことと「堅固かつ決定的な意図を固めている」と言うこととの間にある相異と似ています。もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利がありますし、それに基づいて自分でも別の約束をすることができます。またそれゆえ、誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではありますが自分もまた知っていると言う権利が生じます。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能です。だからこそ、私が軽々しくそう言ったりすれば、《あなたを》トラブルに巻き込んだことの責任を取らなければならなくなることもありうるのです。  あなたが《あること》を知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態をとります。すなわち、あなたは単にあなた自身がそのことを確信しているということのみではなく、そのことがあなたの知識の及ぶ範囲にあるということを示すことを引き受けなければならないのです。同様の形態の疑問提起は約束の場合にもあります。完全に意図を固めているということだけでは十分ではありません。あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならないのです。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,4 他人の心,pp.146-148,勁草書房(1991),山田友幸,坂本百大(監訳))
(索引:)

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)











(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年5月18日水曜日

我々の言葉の用法は多様で、ルーズな語り方もあるが、話の背景や状況を理解すれば、誤解は起きにくくなし、異なる概念体系による異なる記述であることも、互いに理解可能となる。このように多様な異なる描写は、むしろ状況を色々な観点から理解するための豊かな源泉とも言える。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

言葉の曖昧さ多様な表現の効用

我々の言葉の用法は多様で、ルーズな語り方もあるが、話の背景や状況を理解すれば、誤解は起きにくくなし、異なる概念体系による異なる記述であることも、互いに理解可能となる。このように多様な異なる描写は、むしろ状況を色々な観点から理解するための豊かな源泉とも言える。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))





 「さて、われわれの用法が多様であるということ、われわれがしばしばルーズな語り方をするということ、そしてまた、われわれが外見上同一の表現を用いて異なったことを述べることがあるということは事実である。しかし、まず第一に注意すべきことは、そのようなことは実際には、一般に考えられているほどには頻繁には起こらないということである。たとえば、われわれが出会うそうした事例のほとんどの場合、《同一の》状況でその《同一の》状況について異なったことを述べたいと考えていると思われたものが、実際にはそうではなかった――すなわち、われわれは単に、状況を《多少》違っていたように想像していたにすぎない――ということが明らかとなるのである。当然のことながら、いかなる状況も「完全に」描写されることはない(しかも、われわれはここでは《想像された》状況を扱っている)ので、そのようなことはいともたやすく起こる。一般に、話の背景とともに状況を詳しく想像すればするほど、われわれが何を言うべきかということに関して意見が分かれることは少なくなる――この場合、貧弱な想像力を刺激し訓練するには、非常に特異な手段や、時には退屈な手段でさえも用いる価値がある。しかしながら、それにもかかわらず、最後まで意見の一致を見ることがないということも《時には》たしかに生ずる。ある用法がぞっとするようなものではあるがしかし現にそのようなものとして存在する、ということを認めざるをえない場合がある。われわれは二つの相異なる描写のうちの一方ないし両方を何としても使用せざるをえないことがあるのである。しかし、このような事実に対してひるまなければならない理由が何かあるであろうか。このような場合に起こっていることは完全に説明可能である。もしわれわれの用法に不一致が見出されるならば、それはたとえば、私が「Y」を使用するときにあなたが「X」を使用する場合があるということにほかならない。あるいは、よりありふれた(そしてまた、より興味をそそる)表現をするならば、あなたの概念体系は私の概念体系と同様に、少なくとも整合的であり有用でもあるように見えるが、私のものとは異なっている、ということにほかならない。要するに、われわれは互いに意見の一致を見ない《理由》を見い出すことができるのである――あなたはある仕方で物事を分類することを好むのに対して、私は別の仕方で物事を分類することを好むというだけのことである。用法がルーズであるとしても、そのようなルーズさが生ずる理由や、そのようなルーズさの故に曖昧にされる区別がいかなるものかということを、われわれは理解することができる。もし「二様の」描写があるとすれば、それは、状況が二様に描写可能であり、あるいは二様に「構造化」可能であるということなのである。あるいは、その状況は、それを描写するためのその二様の描写が当面の目的にとっては結局のところ同じものと見なしうるような種類の状況である、と述べてよいかもしれない。かくして、われわれは何を言うべきかということに関して生ずる不一致に対してしりごみすべきではなく、むしろ積極的に攻めてゆくべきである。そのような不一致に関する説明は必ずや何らかの光を投げかけずにはおかないのである。もし計算に合わない回転をする電子を偶然に見つけたとするならば、それは発見であり、今後追求してゆくべき驚異なのであって、けっして物理学を放棄すべき理由とはならない。まったく同様に、真にルーズな語り方をする人や真に常軌を逸した人がいたとするならば、その人は大切にすべき稀有な標本なのである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,8 弁解の弁,pp.292-294,勁草書房(1991),服部裕幸,坂本百大(監訳))
(索引:)

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)




(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年5月11日水曜日

例えば、命令法を用いることによって命令することができるが、それは命令であるだけでなく、懇願、哀願、切願、扇動、誘導でもあり得る。我々は、口調、抑揚、身振り、あるいは状況や脈絡から、どれであるかを判断するが、曖昧さが避けられない。これを解決するために、行為遂行的動詞が発達してきた。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的動詞の発達

例えば、命令法を用いることによって命令することができるが、それは命令であるだけでなく、懇願、哀願、切願、扇動、誘導でもあり得る。我々は、口調、抑揚、身振り、あるいは状況や脈絡から、どれであるかを判断するが、曖昧さが避けられない。これを解決するために、行為遂行的動詞が発達してきた。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))



(a)行為遂行的発言と、命令法
「私はあなたにその戸を閉めるように命令する」は明らさまな行為遂行的発言となるであろう。これに対して「その戸を閉めなさい」はそうはならないであろう――これは単に「原初的な」(primary)行為遂行的発言とかどのように呼んでもよいが、何かそういったものである。

(b)命令、懇願、哀願、切願、扇動、誘導
 我々は命令法を用いてあなたにその戸を閉めるように命令してもよいが、しかし次のことがまったくはっきりしない。すなわち、我々はあなたに命令しているのか懇願しているのか、あるいは哀願しているのか切願しているのか、それとも煽動しているのか誘発しているのか、あるいはその他多くの微妙に異なる行為のうちの何かをしているのかがまったくはっきりしない。

(c)口調、抑揚、身振り、状況や脈絡
 我々が何か或ることを言う場合に遂行しているのはどのような行為であるかを、はっきりさせるためには、口調、抑揚、身振りを用いることができる。また、発言がどのような状況や脈絡において発せられるかに依拠することもできる。例えば、「彼が言うのだから私はそれを命令と解さざるをえなかった」と。
(d)行為遂行的動詞の発達
 これらいっさいの工夫にもかかわらず、明らさまな行為遂行的動詞がない場合には、遺憾ながらかなりの曖昧さと識別の欠如とが存在する。少なくとも文明社会では、それが精確にはこれらのうちのどの事柄なのかがきわめて重大である場合がある。そうであるからこそ、明らさまな行為遂行的動詞が発達しているのである。


 「この課題がやり遂げられたとしよう。その場合は一覧表に含まれるこれらの動詞は明らさまな行為遂行的動詞(explicit performative verbs)と呼ぶことができるであろうし、標準的な形式のうちのいずれか一方に還元されるどんな発言も明らさまなくい遂行的発言(explicit performative utterance)と呼ぶことができるであろう。「私はあなたにその戸を閉めるように命令する」は明らさまな行為遂行的発言となるであろう。これに対して「その戸を閉めなさい」はそうはならないであろう――これは単に「原初的な」(primary)行為遂行的発言とかどのように呼んでもよいが、何かそういったものである。われわれは命令法を用いてあなたにその戸を閉めるように命令してもよいが、しかし次のことがまったくはっきりしない。すなわち、われわれはあなたに命令しているのか懇願しているのか、あるいは哀願しているのか切願しているのか、それとも煽動しているのか誘発しているのか、あるいはその他多くの微妙に異なる行為のうちの何かをしているのかがまったくはっきりしない。これらの行為は素朴な原始言語ではおそらくは未だ識別されてはいないだろう。しかし原始言語の素朴さを過大評価する必要はない。われわれが何か或ることを言う場合に遂行しているのはどのような行為であるかを、原始的なレヴェルにおいてでさえ、はっきりさせるために用いることのできるひじょうに多くの工夫――口調、抑揚、身振り――があるし、なかんずくわれわれは発言がどのような状況や脈絡において発せられるかに依拠することができる。このことによって、与えられているのが命令であるかどうか、あるいはたとえば私はあなたを単にせき立てているのかそれともあなたに切望しているのかどうかがまったく間違えようのないものになる場合がきわめて多い。たとえばわれわれは次のようなことを言うことがあろう。すなわち「彼が言うのだから私はそれを命令と解さざるをえなかった」と。それでも、これらいっさいの工夫にもかかわらず、明らさまな行為遂行的動詞がない場合には、遺憾ながらかなりの曖昧さと識別の欠如とが存在する。私が「私はそこに行くでしょう(I shall be there)」というような言い方をする場合、それが約束であるのかあるいは意志の表明であるのかそれともひょっとして私の将来の行動、私の身に起ころうとしていることの予想であるのかどうか、定かではないだろう。そして、少なくとも文明社会では、それが精確にはこれらのうちのどの事柄なのかがきわめて重大である場合がある。そうであるからこそ明らさまな行為遂行的動詞が発達しているのである――私の言っているのが厳密にはどれであるのか、それはどの程度まで私を拘束するのか、そしてどのような仕方でか、等々をはっきりさせるために。  これは、言語がその言語をもつ社会と歩調を合わせて発達している一例にほかならない。社会の持つ社会的慣習は、どの行為遂行的動詞が発達しているか、そしてどの行為遂行的動詞が、しばしばかなり無関連な理由からであるが、発達していないのかという問いに著しい影響を与えることがある。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,10 行為遂行的発言,pp.396-398,勁草書房(1991),中才敏郎,坂本百大(監訳))
(索引:)



(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年5月9日月曜日

真偽値は、言明と諸事実との間にどんな関係があるかについての評価であり、言明を効力あるものとしている慣習的な手続きにどの程度に適合しているかを表すものである。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

事実的言明の真偽値とは何か

真偽値は、言明と諸事実との間にどんな関係があるかについての評価であり、言明を効力あるものとしている慣習的な手続きにどの程度に適合しているかを表すものである。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(a)真なのか偽なのか
 実際には、真偽について考えれば考えるほど、我々が発している言明で端的に真または端的に偽であるようなものはほとんどないことが分かる。「真」と「偽」は、我々が言っていることと諸事実との間の関係に何らかの仕方で関わっているさまざまな評価という全般的な次元に対する全般的なラベルにすぎないのである。
(b)適正か、十全か、正確か
 普通よくある問いは次のようなものである。それらの言明は適正であるのかそれとも適正ではないのか。それらは十全であるかそれとも十全ではないのか。それらは大袈裟かそれとも大袈裟でないのか。それらは大ざっぱすぎるであろうか、それともそれらはまったく精確で精密であろうか、等々と。



 「言明を一つの独立した部類として分類することは多少なりとも、物事を黒か白かに分けて考える特殊技術である、と。しかし実際には――これについて話を続けるとあまりにも長くなるであろうが――真偽について考えれば考えるほど、われわれが発している言明で端的に真または端的に偽であるようなものはほとんどないことが分かる。ふつうよくある問いは次のようなものである。それらの言明は適正であるのかそれとも適正ではないのか。それらは十全であるかそれとも十全ではないのか。それらは大袈裟かそれとも大袈裟でないのか。それらは大ざっぱすぎるであろうか、それともそれらはまったく精確で精密であろうか、等々と。「真」と「偽」は、われわれが言っていることと諸事実との間の関係に何らかの仕方で関わっているさまざまな評価という全般的な次元に対する全般的なラベルにすぎないのである。したがって、もしわれわれが真および偽についてもっている考え方をゆるめるならば、言明とは、諸事実に関連して評価される場合、さまざまな勧告、警告、評決等々と結局そんなに変わらないものであることが分かるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,10 行為遂行的発言,pp.406-408,勁草書房(1991),中才敏郎,坂本百大(監訳))
(索引:)




(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年5月7日土曜日

シジュウカラは、ヘビを見ると「ジャージャー」と鳴く。また、「ジャージャー」という声を聞くと、巣箱の下や地面に目を向ける行動をする。しかも、この声を聞くと、ヘビに似た動きをする木の棒への探索行動をすることがわかった。このことは、この特定の音声がヘビの表象と結合していることを示す。(鈴木俊貴(1983-))

シジュウカラの言語

シジュウカラは、ヘビを見ると「ジャージャー」と鳴く。また、「ジャージャー」という声を聞くと、巣箱の下や地面に目を向ける行動をする。しかも、この声を聞くと、ヘビに似た動きをする木の棒への探索行動をすることがわかった。このことは、この特定の音声がヘビの表象と結合していることを示す。(鈴木俊貴(1983-))


「まずは、「見せる」。ヘビのレプリカを巣箱の上に置き、シジュウカラの行動を観察します。すると、ヘビを見たシジュウカラは、けたたましく『ジャージャー』と鳴きました。鈴木さんは他にも、カラスやテンなど、様々な天敵の剥製を見せてみましたが、『ジャージャー』と鳴くのはヘビに対してだけでした。」
(中略)
「そこで、次に行ったのは「聞かせる」実験です。前もって録音しておいた『ジャージャー』の鳴き声をスピーカーから流して聞かせます。するとこれを聞いたシジュウカラは、巣箱の下や地面に目を向けることがわかりました。」
(中略)
「結果は明らかでした。『ジャージャー』を聞かせたほぼすべての実験(12羽中11羽)で、シジュウカラは木の棒に接近し、それを確認したのです。そのような確認行動は、ほかの鳴き声を聞かせた実験では、ほとんど見られませんでした。シジュウカラは『ジャージャー』という鳴き声を聞いたとき、頭の中にヘビの姿(サーチイメージ)を思い描き、それを棒に当てはめたことでヘビと見間違えたのだと考えられます。」
(引用:  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90014?imp=0   )










2022年5月3日火曜日

言葉を使って、人間が何を為すことができるのかを調べるために、辞書に記載のある動詞を分類してみた。これらいずれの型に関しても、極端な事例や、相互重複の可能性がなお広汎に存在するだろう。しかし、言明に関する真/偽の二分法と、価値/事実の二分法という呪物信仰に対する問題提起にはなろう。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

言葉で為すことができること

言葉を使って、人間が何を為すことができるのかを調べるために、辞書に記載のある動詞を分類してみた。これらいずれの型に関しても、極端な事例や、相互重複の可能性がなお広汎に存在するだろう。しかし、言明に関する真/偽の二分法と、価値/事実の二分法という呪物信仰に対する問題提起にはなろう。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(0)5つの型

判定宣言型(Verdictives) 
権限行使型(Exercitives) 
行為拘束型(Commissives) 
態度表明型(Behabitives)
言明解説型(Expositives)  

(1)判定宣告型
(a)事実あるいは価値について、さまざまな理由から確信のもてない判定を伝える。
(b)陪審員、調停員、あるいは審判員による判定の宣告にその典型例をみることができる。
(c)推定、算定、評価など。


(2)権限行使型
(a)権力、権利、影響力の行使である。
(b)指名する、投票する、命令する、催促する、助言する、警告する等である。  

(3)行為拘束型
(a)約束する、あるいは、引き受けるなどに典型例をみることができる。
(b)この種の発言は、本来、人に何ごとかを余儀なくさせるものである。
(c)意図の宣言あるいは通告というように約束でないものも含む。
(d)加担する(siding with)のような、支持表明(espousal)とも呼ぶべきかなり曖昧なものまでも含んでいる。
(e)この種の発言が、判定宣告型と権限行使型に関連していることは明白である。

(4)態度表明型
(a)非常に雑多な一群のものであり態度および社会的行動(social behavior)に関係している。
(b)陳謝する、お祝いする、推奨する(commending)、慰める(condoling)、のろう(cursing)、挑戦する(challenging)などである。  

(5)言明解説型
(a)この型の発言は、いかなる仕方で発言が議論ないし会話の進行に適合しているかということや、いかにわれわれが言葉を使っているかということを明確にするものである。
(b)一般的に言えば、解説的(expository)なものである。
(c)例は、「私は返答する」「私は議論する」「私は譲歩する」「私は例示する」「私は想定する」「私は要請する」である。



 「さて、第一人称・単数・直接法・能動・現在形という単純な判定基準を(注意深く)使い、辞書(簡略なもので十分であろう)を自由な気持ちで通覧することによって、われわれは、10の3乗のオーダーの動詞の一覧表を得ることができる。私は以前に、一般的、暫定的な分類を試み、そしてそこで提案された分類項についてなんらかの指摘を行うつもりであると述べた。今や、われわれはまさにそれを行うところに来た。しかし、私は、諸君に対し、至極あいまいな言辞を弄し、そして、むしろ私のあがきを伝えるだけのことに終わるであろう。  私は、ここでより一般的な五つのクラスを区別する。しかし、けっして、それらのすべてについて等しく満足しているわけではない。にもかかわらず、これらのものは、例の二つの呪物信仰を、私の望み通りに、徹底的に混乱させるに十分である。その二つの呪物信仰とはすなわち、(1)真/偽の二分法に対する信仰と、(2)価値/事実の二分法に対する信仰である。以下、私は、発言内の力に応じて分類された5種類の発言を次のような、あまり人好きのしないかもしれない名称をもって呼ぶことにしたい。 (1)判定宣言型(Verdictives) (2)権限行使型(Exercitives) (3)行為拘束型(Commissives) (4)態度表明型(Behabitives)(これは不愉快な名だ) (5)言明解説型(Expositives)  以下これらを順を追ってとりあげることとしよう。ただそのまえに、それぞれについての大雑把な考えを示しておきたい。  第一の判定宣告型は、まさにその名が示すように、陪審員、調停員、あるいは審判員による判定の宣告にその典型例をみることができる。しかし、この種の発言に限られるものである必要はない。たとえば、推定、算定、評価であってもよいのである。ただし、その場合には、何ものか――事実あるいは価値――について、さまざまな理由から確信のもてない判定を伝えるということが本質的に含まれることとなる。  第二の権限行使型は、権力、権利、影響力の行使である。その例は、指名する、投票する、命令する、催促する、助言する、警告する等である。  第三の、行為拘束型は、約束する、あるいは、引き受けるなどに典型例をみることができる。この種の発言は、本来、人に何ごとかを《余儀なくさせる》ものであるが、それだけでなく、意図の宣言あるいは通告というように約束でないものも含み、さらには、たとえば加担する(siding with)のような、支持表明(espousal)とも呼ぶべきかなり曖昧なものまでも含んでいる。この種の発言が、判定宣告型と権限行使型に関連していることは明白である。  第四の、態度表明型は、非常に雑多な一群のものであり態度および《社会的行動》(social behavior)に関係している。例は、陳謝する、お祝いする、推奨する(commending)、慰める(condoling)、のろう(cursing)、挑戦する(challenging)などである。  第五の、言明解説型は、定義が困難である。この型の発言は、いかなる仕方で発言が議論ないし会話の進行に適合しているかということや、いかにわれわれが言葉を使っているかということを明確にするものである。すなわち、一般的に言えば、解説的(expository)なものである。例は、「私は返答する」「私は議論する」「私は譲歩する」「私は例示する」「私は想定する」「私は要請する」である。このいずれの型に関しても、極端な事例や扱いにくい事例や、相互重複の可能性がなお広汎に存在するということをわれわれは最初から明確に理解しておかなければならない。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第12講 言語行為の一般理論Ⅵ,pp.251-255,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:)









(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)


2022年4月27日水曜日

日常言語の複雑性を認識しない議論は、事実を歪曲しがちであり、ましてや言語を修正することは容易ではなく、修正の根拠や必要性も明確ではない。日常言語の膨大な遺産は、まず言語現象のありのままの事実として解明することが必要である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

日常言語の複雑性

日常言語の複雑性を認識しない議論は、事実を歪曲しがちであり、ましてや言語を修正することは容易ではなく、修正の根拠や必要性も明確ではない。日常言語の膨大な遺産は、まず言語現象のありのままの事実として解明することが必要である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))



(a)日常言語の膨大な遺産
 われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと。
(b)修正しようとする前に言語現象の事実の解明が必要
 とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である。
(c)事実に基づいた合理的な言語の修正は容易ではない
 考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもない。
(d)日常言語現象の複雑性を認識しない議論は、事実を歪曲しがちである
 ことばの日常的用法のいくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。




「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)
(索引:)

知覚の言語―センスとセンシビリア (双書プロブレーマタ 4)















(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年4月22日金曜日

感情の共同体とは、家族、隣人、議会、ギルド、修道院、教区教会の構成員などであり、感情の表現、評価、統制に関して、同じ社会の中にも、異なる共同体の間に互いに競合する予測や規則が存在する。感情表現において、予期され、推奨され、許容され、非難される様式は、 それぞれ異なる。(バーバラ・H・ローゼンワイン(1945-))

感情の共同体

感情の共同体とは、家族、隣人、議会、ギルド、修道院、教区教会の構成員などであり、感情の表現、評価、統制に関して、同じ社会の中にも、異なる共同体の間に互いに競合する予測や規則が存在する。感情表現において、予期され、推奨され、許容され、非難される様式は、 それぞれ異なる。(バーバラ・H・ローゼンワイン(1945-))






「スーザン・マットは、「同じ社会の中にも互いに競合する予測や規則が存在すると提唱する」 歴史家について語った。ここでマットの念頭にあったのは間違いなく、バーバラ・H・ローゼンワインの ことである。二〇〇二年、この頃の感情史研究を評価した論文において、ローゼンワインは「感情の 共同体 (emotional communities)」を研究するよう提唱した。曰く
 『感情の共同体は、家族、隣人、議会、ギルド、修道院、教区教会の構成員などの社会共同体と全 く同じである。しかし、感情の共同体に着目する研究者は、とりわけ感じ方のシステムを解明す ることを目指すのである。具体的に言えば、これらの共同体(およびその個々の成員)において、ど んな感情が有益もしくは有害であると定義され評価されるのか。他者の感情はどのように評価さ れるのか。人と人とのあいだにあると認識される情動のつながりは、どのような性質なのか。感 情表現において、予期される様式、推奨される様式、許容される様式、そして非難される様式は、 それぞれどのようなものか。』
(バーバラ・H・ローゼンワイン(1945-),リッカルド・クリスティアーニ,『感情史とは何か』,2 アプローチ,感情の共同体,pp.61-62,伊東剛史(訳),森田直子(訳), 小田原琳(訳), 舘葉月(訳))

感情史とは何か [ バーバラ・H.ローゼンワイン ]



感情体制とは、規範的感情の一式と、 それを表現し、人々に教え込む公的な儀礼、実践およびエモーティヴのことであり、感情統制は権力行使そのものである。支配的な感情規範は、本来なら自己探求的で自己変容的、創造的なエモーティヴを抑圧し、感情の避難所を創出してしまう。(ウィリアム・M・レディ(1947-))

感情体制とエモーティヴ

感情体制とは、規範的感情の一式と、 それを表現し、人々に教え込む公的な儀礼、実践およびエモーティヴのことであり、感情統制は権力行使そのものである。支配的な感情規範は、本来なら自己探求的で自己変容的、創造的なエモーティヴを抑圧し、感情の避難所を創出してしまう。(ウィリアム・M・レディ(1947-))

















(a)感情体制
 エモー ティヴは、感情体制の支配下にある。感情体制とは、「規範的感情の一式と、 それを表現し、人々に教え込む公的な儀礼、実践およびエモーティヴ」のことである。
 (i)規範的感情の一式
 (ii)支配的な感情規範
  感情を表現し、人々に教え込む公的な儀礼、実践
 (iii)エモーティヴ

(b)感情コントロールとしての権力行使
 「感情のコントロールは、権力行使の現場である。 所与の文脈や関係性のもとに立ち現れた気持ちや欲望を、不当なものとして抑圧したり、価値あるものとして重視したりする責務を負うのは誰なのか。政治とはまさに、この誰かを決める過程である」。

(c)エモーティヴの自己変容効果
 どのような感情も、「短時間のうちには注意が翻訳することのできない」ものであり、表現された感 情は人を常に自己 探求へと導くかもしれない。
(d)支配的な感情規範からの「感情の避難所」
 感情体制は、ほぼその定義 ゆえに、エモーティヴが潜在的可能性を十全に発揮することを許さないため、感情の避難所、すなわち「支配的な感情規範から人を安全に解放し、感情的努力を軽減する(...)また、既存の感情体制を補 助したり脅かしたりする可能性のある、(...)関係、作法、もしくは組織」を創出する。 
(e)統制的な感情体制と感情の避難所
 感情体制があまりにも統制的であり、エモーティヴの自己変容効果を妨害し、人々が目標を変化させることを妨げ ると仮定しよう。すると、感情体制は人々に感情的苦痛をもたらすばかりでなく、感情体制に損失を与えうる感情の避難所を生み出すのである。




「愛は感情の一つである。しかし、愛は一つに定まらない。同じことが、どの感情についても言える。 どのような感情も、「短時間のうちには注意が翻訳することのできない」ものである。表現された感 情は、そのすべてがエモーティヴである。このような仕組みによって、エモーティヴは人を常に自己 探求へと導くかもしれない。しかし、エモーティヴは他から切り離されているわけではない。 エモー ティヴは、「感情体制」の支配下にあるからである。 ここで「感情体制」とは、「規範的感情の一式と、 それを表現し、人々に教え込む公的な儀礼、実践およびエモーティヴ」のことである。レディはさら に詳しく説明する。 「感情のコントロールは、権力行使の現場である。 所与の文脈や関係性のもとに 立ち現れた気持ちや欲望を、不当なものとして抑圧したり、価値あるものとして重視したりする責務を負うのは誰なのか。政治とはまさに、この誰かを決める過程である」。 感情体制は、ほぼその定義 ゆえに、エモーティヴが潜在的可能性を十全に発揮することを許さないため、感情の避難所、すなわ ち「支配的な感情規範から人を安全に解放し、感情的努力を軽減する・・・・・・また、既存の感情体制を補 助したり脅かしたりする可能性のある、・・・関係、作法、もしくは組織」を創出する。 感情体制があ まりにも統制的であり、エモーティヴの自己変容効果を妨害し、人々が目標を変化させることを妨げ ると仮定しよう。すると、感情体制は人々に感情的苦痛をもたらすばかりでなく、感情体制に損失を 与えうる感情の避難所を生み出すのである。」
(バーバラ・H・ローゼンワイン(1945-),リッカルド・クリスティアーニ,『感情史とは何か』,2 アプローチ,エモーショノロジー,pp.57-58,伊東剛史(訳),森田直子(訳), 小田原琳(訳), 舘葉月(訳))

感情史とは何か [ バーバラ・H.ローゼンワイン ]



ある社会やその内部の特定の集団が、基本感情とその適切な表現に対して 保持する態度や基準をエモーショノロジーという。こうした態度や基準は、諸制度に反映され、促進される。(ピーター・スターンズ(1936-))

エモーショノロジー

ある社会やその内部の特定の集団が、基本感情とその適切な表現に対して 保持する態度や基準をエモーショノロジーという。こうした態度や基準は、諸制度に反映され、促進される。(ピーター・スターンズ(1936-))



















(a)基本感情は普遍的であり、変化することはな い。(ポール・エクマン(1934-))
(b)感情は「管理される」ものである。(アーリ ・ホックシールド(1940-))
(c)基本感情が変化を被らなかったとしても、人が感情をどこでどのように表現するべきかに関する基準は急速に変化してきた。
(d)エモーショノロジー(ピーター・スターンズ(1936-))
 ある社会やその内部の特定の集団が、基本感情とその適切な表現に対して 保持する態度や基準。こうした態度や基準は、諸制度に反映され、促進される。
 (i)求愛行為には、婚姻関係において情動がどのように評価されるのかが、反映されている。
 (ii)社員研修には、 職務上の人間関係において怒ることがどう評価されるのかが、反映されている。



「『エモーショノロジー:ある社会やその内部の特定の集団が、基本感情とその適切な表現に対して 保持する態度や基準。人間の行動におけるこうした態度を諸制度が反映し促進する流儀。 例えば、 求愛行為は婚姻関係において情動がどのように評価されるのかを表している。 社員研修には、 職 務上の人間関係において怒ることがどう評価されるのかが反映される。』
 この定義が示すように、 スターンズ夫妻は基本感情の概念を受容している。一九七〇年代に心理学者 ポール・エクマンとその他の研究者が規定したように、基本感情は普遍的であり、変化することはな い。しかし、スターンズ夫妻は普遍主義の観点と社会構築主義的な立場とを調和させる方法を見つけ た。生物学と社会とのあいだに不一致を見出すのではなく、彼らから見て生物学的なるもの、すなわ ち基本感情を、社会的なるものから注意深く切り離したのである。基本感情が変化を被らなかったと しても、人が感情をどこでどのように表現するべきかに関する基準は急速に変化してきた。 アーリ ・ホックシールドが示したように、感情は「管理される」ものであった。スターンズ夫妻は、感情 を管理する過去の慣習を発見する方法として、エモーショノロジーを提唱したのである。」
(バーバラ・H・ローゼンワイン(1945-),リッカルド・クリスティアーニ,『感情史とは何か』,2 アプローチ,エモーショノロジー,p.48,伊東剛史(訳),森田直子(訳), 小田原琳(訳), 舘葉月(訳))

感情史とは何か [ バーバラ・H.ローゼンワイン ]

 


2022年4月20日水曜日

短時間のうちには注意が翻訳することのできない思考材料を、ある目的や目標のために感情的な発話行為へと翻訳し、この思考材料を活性化させる。この発話行為が、エモーティヴである。エモーティヴは感情に関する活性化した思考材料に対して、説明を付与する効果と、自ら変化する効果を持つ。(ウィリアム・M・レディ(1947-))

エモーティヴ

短時間のうちには注意が翻訳することのできない思考材料を、ある目的や目標のために感情的な発話行為へと翻訳し、この思考材料を活性化させる。この発話行為が、エモーティヴである。エモーティヴは感情に関する活性化した思考材料に対して、説明を付与する効果と、自ら変化する効果を持つ。(ウィリアム・M・レディ(1947-))


















(a)思考材料
 短時間のうちには注意が翻訳することのできない思考材料が現れる。ここには、何らかの事実が起こっている。私たちが誰かを愛するのは「事実」である。
(b)概念化
 思考材料は、概念化されている。(心理学的構築論)
(c)目的や目標
 感情とは、ある目的や目標のために、思考材料を活性化させることである。(認知科学)
(d)エモーティヴ
「あなたを愛している」という発言は、思考材料が感情的な発話行為へと「翻訳され」活性化された結果である。私たちはそのように発言するとき、「あなたを愛している」と言うことでかろうじて表現される、様々な気持ちをそのもの全体として抱いている。
(e) エモーティヴの効果
 エモーティヴは感情的状態を描写し、エモーティヴは対象を変容させ、そしてエモーティヴはその発言 をした人に様々な気持ちを呼び起こすのである。 エモーティヴは「感情に関する活性化した思考材料に対して、説明を付与する効果と、自ら変化する効果を持つ」。
(f)エモーティヴの誠実、不誠実
 エモーティヴは、それと合致する目標 が一つだという点で誠実である。しかし、人は一つ以上の目標を持つ故に、同一のエモーティヴが競 合する目標と関連づけられる点において、 エモーティヴは不誠実である。



「レディは「感情」を次のように定義する。「短時間のうちには注意が翻訳することのできない思考 材料を、目標のために活性化させることである」。この定義の特徴の一部は、よく知られている。認 知科学者は目的や目標について論じており、レディの「思考材料」への言及は、感情の定義に関して レディが、認知科学者と同じ陣営に立ったことを意味した。 感情は脳によって生成された「概念化さ れたもの」の一つであると考える心理学的構築論者とも、同じ陣営である。 しかし、認知されたものを 「短時間のうちには注意が翻訳することはできない」という考え方は、情動理論の一側面に準拠し ており、これが「エモーティヴ」という仮説を導いた。「あなたを愛している」という発言を考えて みよう。 レディにとって、この発言は、思考材料が感情的な発話行為へと「翻訳され」活性化され た結果である。事実、私たちはそのように発言するとき、「あなたを愛している」と言うことでかろ うじて表現される、様々な気持ちをそのもの全体として抱いている。しかし、その気持ちすべてに注 意を向けることができないため(なぜならそれらの気持ちすべてを「注意は翻訳することができない」からで ある)、少なくとも、私たちが 「あなたを愛している」と発言する「短時間のうち」においては、私 たちは「愛」に注目する。そうすることで、私たちは、他の目標に関連した気持ちも活性化させるこ  とになる。 
 エモーティヴ、すなわち発話によって規定される感情は、それゆえ、他の発言とは異なる。エモーティヴは感情的状態を描写し(私たちが誰かを愛するのは「事実」である)、エモーティヴはそこに向けられた対象を変容させ(愛していると言われて動じない人はいないだろう)、そしてエモーティヴはその発言 をした人に様々な気持ちを呼び起こすのである。 レディ自身の言葉を用いれば、エモーティヴは「感 情に関する活性化した思考材料に対して、説明を付与する効果と、自ら変化する効果を持つ」。 「あな たを愛している」という発言は、 新たな思考を活性化させる。それは、「今まで考えていた以上にあ なたを愛している」 かもしれないし、「あれ、本当にこの人を愛しているのかしら」かもしれない。 レディにとって、エモーティヴは誠実でも、不誠実でもある。エモーティヴは、それと合致する目標 が一つだという点で誠実である。しかし、人は一つ以上の目標を持つ故に、同一のエモーティヴが競 合する目標と関連づけられる点において、 エモーティヴは不誠実である。それは、このような場合で ある。「あなたを愛している」けれども、一人でいたいとも思うの。 「あなたを愛している」 - でも、あの人のことが忘れられない。」
(バーバラ・H・ローゼンワイン(1945-),リッカルド・クリスティアーニ,『感情史とは何か』,2 アプローチ,エモーショノロジー,pp.56-57,伊東剛史(訳),森田直子(訳), 小田原琳(訳), 舘葉月(訳))

感情史とは何か [ バーバラ・H.ローゼンワイン ]



2022年4月4日月曜日

感情は、感情価と覚醒の度合いを2つの次元とする円環に配置できる。覚醒度中立の快である喜び、快だが覚醒度が下がる落ち着き、不快なら落ち込み、不快だか覚醒度中立の不機嫌、不快なまま覚醒度が上がると動揺、覚醒度高くて快なら高揚である。(ジェイムズ・A・ラッセル(1947-))

感情円環図

感情は、感情価と覚醒の度合いを2つの次元とする円環に配置できる。覚醒度中立の快である喜び、快だが覚醒度が下がる落ち着き、不快なら落ち込み、不快だか覚醒度中立の不機嫌、不快なまま覚醒度が上がると動揺、覚醒度高くて快なら高揚である。(ジェイムズ・A・ラッセル(1947-))












不快・覚醒度高い 快・覚醒度高い
(動転,動揺)    (高揚,興奮)
不快・覚醒度中立 快・覚醒度中立
(惨めさ,不機嫌)  (満足,喜び)
不快・覚醒度低い 快・覚醒度低い
(無気力,落込み)  (穏やか,落着き)
 
「心理学者のジェイムズ・A・ラッセルが考案した、気分を追跡する方法は、臨床医、教師、科学者 のあいだでよく知られている。彼は、「感情円環図」と呼ばれる二次元空間(図4.5のような円構造) 上の点として、その瞬間の気分を記述できることを示した。 ラッセルのこの二次元構造は、感情価と 覚醒の度合いを、原点からの距離で表わしている。」

(リサ・フェルドマン・バレット(1963-),『情動はこうしてつくられる』,第4章 情動の源泉,p.128,紀伊國屋書店 ,2019,高橋洋(訳))


情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論 [ リサ・フェルドマン・バレット ]





リサ・フェルドマン・
バレット(1963-)



2022年4月3日日曜日

爽快感、不機嫌、落ち着いている、興味津々、活力がみなぎっ ている、退屈や倦怠など、恒常的な内受容感覚が気分である。気分は、快・不快の感情価と、覚醒度の属性を持つ。(リサ・フェルドマン・バレット(1963-))

気分

爽快感、不機嫌、落ち着いている、興味津々、活力がみなぎっ ている、退屈や倦怠など、恒常的な内受容感覚が気分である。気分は、快・不快の感情価と、覚醒度の属性を持つ。(リサ・フェルドマン・バレット(1963-))


(a)気分
 爽快感、不機嫌、落ち着いている、興味津々、活力がみなぎっ ている、退屈や倦怠など。
(b)気分の感情価
 それがど れくらい快、もしくは不快に感じられるかで、科学者はこの特徴を「感情価 (affective valence)」と呼ぶ。 たとえば肌にあたる日光の快さ、好物のおいしさ、胃痛やつねられたときの不快さはすべて感情価の 例である。
(c)気分の覚醒度
 どれくらい穏やかに、あるいは興奮して感じられるかで、科学者は「覚 醒 (arousal)」と呼んでいる。 よい知らせを期待しているときの活力あふれる感覚、コーヒーを飲みす ぎたあとの苛立ち、長距離を走ったあとの疲労、睡眠不足に起因する倦怠感などは、覚醒の度合 の高さ、あるいは低さを示す例だ。
(d)気分は恒常的な内受容感覚
 気分は内受容に依存する。つまり生涯を通じ、じっとしているときでも 眠っているときでも、恒常的な流れとして存在し続ける。 

「朝目覚めたとき、あなたは爽快感を覚えているだろうか、それとも不機嫌だろうか? あるいは、 たった今どう感じているだろうか? 落ち着いているのか? 何かに興味津々なのか? 活力がみなぎっ ているか? 退屈や倦怠を感じているのか? それらの感覚はすべて、本章の冒頭で論じた単純な感情 で、一般に気分と呼ばれているものである(「気分」の原文はaffect だが、これについては訳者あとがきを参照)。
 本書における「気分」は、人が日常生活で経験している一般的な感情のことを表わす。それは情 動とは異なり、次のような二つの特徴を持つごく単純な感情を意味する。一つ目の特徴は、それがど れくらい快、もしくは不快に感じられるかで、科学者はこの特徴を「感情価 (affective valence)」と呼ぶ。 たとえば肌にあたる日光の快さ、好物のおいしさ、胃痛やつねられたときの不快さはすべて感情価の 例である。二つ目の特徴は、どれくらい穏やかに、あるいは興奮して感じられるかで、科学者は「覚 醒 (arousal)」と呼んでいる。 よい知らせを期待しているときの活力あふれる感覚、コーヒーを飲みす ぎたあとの苛立ち、長距離を走ったあとの疲労、睡眠不足に起因する倦怠感などは、覚醒の度合 の高さ、あるいは低さを示す例だ。また、投資のリスクや好機に対する直感、他者が信用できるか否かに関する本能的な感覚なども、本書で言う気分の例と見なせる。さらに言えば、気分には完全に中立 的なものもある。
 洋の東西を問わず哲学者たちは、感情価や覚醒を人間の経験の基本的な特徴としてとらえてきた。 ほとんどの科学者は、新生児が完全な形態の情動をもって生まれてくるか否かをめぐっては見解が分 かれていても、人間には誕生時からすでに気分を感じる能力が備わっており、乳児が快や不快を感じ、 知覚できるという点については一致している。
 気分は内受容に依存することを覚えておいてほしい。つまり生涯を通じ、じっとしているときでも 眠っているときでも、恒常的な流れとして存在し続ける。 情動として経験されるできごとに反応して、オンになったりオフになったりするようなものではない。その意味において気分は、明るさや音の強 弱などと同様、意識の根本的な側面をなす。 脳が物体から反射された光の波長を処理することで明る さや暗さが、また空気の圧力の変化を処理することで音の強弱が経験される。それと同様、脳が内受 容刺激の変化を表象することで、快や不快、あるいは興奮や落ち着きが経験されるのである。このよ うにして、気分も、明るさも音の強弱も、生まれてから死ぬまで私たちにつきまとう。」

(リサ・フェルドマン・バレット(1963-),『情動はこうしてつくられる』,第4章 情動の指源泉,pp.126-127,紀伊國屋書店 ,2019,高橋洋(訳))

情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論 [ リサ・フェルドマン・バレット ]




リサ・フェルドマン・
バレット(1963-)




情動に関係のある脳領域は、様々な内臓器官、代謝、免疫系の機能を維持するために必要なエネルギーの需給を予測し管理する身体予算管理領域と、心臓、 肺、腎臓、皮膚、筋肉、血管などの器官や組織の変化を予測し内受容刺激と突き合わせ内受容感覚を生み出す一次内受容皮質とから構成される。(リサ・フェルドマン・バレット(1963-))

内受容ネットワーク

情動に関係のある脳領域は、様々な内臓器官、代謝、免疫系の機能を維持するために必要なエネルギーの需給を予測し管理する身体予算管理領域と、心臓、 肺、腎臓、皮膚、筋肉、血管などの器官や組織の変化を予測し内受容刺激と突き合わせ内受容感覚を生み出す一次内受容皮質とから構成される。(リサ・フェルドマン・バレット(1963-))


(a) 身体予算管理領域
 身体に予測を送る一連の脳領域である。我々はこれを「身体予算管理領域 (body-budgeting regions)」と呼ん でいる。
 (i)エネルギーは、様々な内臓器官、代謝、免疫系の機能を維持するために使われる。 
 (ii)すべての消費や補給を管理するために、脳はつねに、身体の予算を立てるかの ごとく、身体のエネルギー需要を予測しなければならない。
 (iii)身体予算管理領域が心拍数の高 まりなどの運動の変化を予測する。

(b)一次内受容皮質
 もう一方の部位は、体内の感覚刺激を表現する「一次内受容皮質」と呼ばれる領域から成る。
 (i)胸の高鳴りなど の感覚の変化を予測する。このような感覚予測は「内受容予測」と呼ばれる。
 (ii)心臓、 肺、腎臓、皮膚、筋肉、血管などの器官や組織から感覚入力を受け取る。 
 (iii)一次内受容皮質のニューロ ンは、シミュレーションの結果と感覚入力を比べ、予測エラーがあればそれを計算して予測ループを 完結させ、最終的に内受容刺激を生み出す。

「議論をすっきりさせるために、独自の役割を担う二つの一般的な部位から成るものとして、内受容ネットワークを考えよう。 一方の部位は、心拍を速める、呼吸のペースを落とす、多量のコルチゾー ルを分泌する、グルコースの代謝を高めるなどして、体内の環境をコントロールするために身体に予 測を送る一連の脳領域である。われわれはこれを「身体予算管理領域 (body-budgeting regions)」と呼ん でいる。もう一方の部位は、体内の感覚刺激を表現する「一次内受容皮質」と呼ばれる領域から成る。 内受容ネットワークの二つの部位は、予測ループに関与している。身体予算管理領域が心拍数の高 まりなどの運動の変化を予測するたびに、二つの部位は、それによってもたらされる胸の高鳴りなど の感覚の変化も予測する。このような感覚予測は「内受容予測」と呼ばれ、一次内受容皮質に入って そこで通常どおりシミュレートされる。 一次内受容皮質はまた、所定の処理を行なうあいだ、 心臓、 肺、腎臓、皮膚、筋肉、血管などの器官や組織から感覚入力を受け取る。 一次内受容皮質のニューロ ンは、シミュレーションの結果と感覚入力を比べ、予測エラーがあればそれを計算して予測ループを 完結させ、最終的に内受容刺激を生み出す。
 身体予算管理領域は、生存に重要な役割を果たす。 脳が、内部であろうが外部であろうが身体のい かなる部位を動かすときにも、ある程度のエネルギー資源が消費される。エネルギーは、さまざまな 内臓器官、代謝、免疫系の機能を維持するために使われる。 身体資源は、食べる、飲む、眠ることで 補給され、また身体のエネルギー消費量は、近しい人々とリラックスすることで (セックスすることで も) 低減する。これらすべての消費や補給を管理するために、脳はつねに、身体の予算を立てるかの ごとく、身体のエネルギー需要を予測しなければならない。そのために、企業が会社全体の予算運用 のバランスを保つべく、預金や引き出し、あるいは口座間での資金の移動を管理する経理課を設置しているように、脳は身体の予算管理の責任を負う神経回路を設置している。この神経回路は、内受容ネットワーク内に存在する。かくして身体予算管理領域は、過去の経験を指針として予測を行ない、 無事に生きていくのに必要な資源の量を見積もるのだ。
 なぜそれが情動と関係するのか? なぜなら、人間の情動の拠点とされている脳領域はすべて、 内 受容ネットワーク内の身体予算管理領域でもあるからだ。しかしこの領域は、情動の生成という形態 で反応するのではない。そもそも反応するのではなく、身体予算を調節するために予測する。 視覚、 聴覚、思考、記憶、想像、そしてもちろん情動に関する予測を行なうのだ。 情動を司る脳領域という 考えは、反応する脳という時代遅れの信念に基づく幻想と見なせる。 今日の神経科学者はその点をわ きまえているが、そのメッセージは、心理学者、精神科医、社会学者、経済学者、あるいはその他の 情動の研究者の多くには伝わっていない。」

(リサ・フェルドマン・バレット(1963-),『情動はこうしてつくられる』,第4章 情動の指源泉,pp.119-122,紀伊國屋書店 ,2019,高橋洋(訳))

情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論 [ リサ・フェルドマン・バレット ]




リサ・フェルドマン・
バレット(1963-)




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