2022年1月7日金曜日

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の諸部門と純一性について

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)法の諸部門
 法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。

(b)事案の法部門への割当てとその影響
 通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。
(c)プラグマティズム法学の主張
 プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すれば、これが異なった法部門に属することを主張する。
(d) 純一性としての法の主張
 (i)純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれない。
 (ii)しかし他 方、純一性としての法は、解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。 
 (iii)諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みる。すなわち、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論をめざすことによって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。


「法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。ロー・スクールは 教科過程を法の分野別に区分し、ロー・スクールの図書館も論文も同じく分野別に区分するこ とで、経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。法をめぐる議論や司法上の議論は これらの伝統的な区別を尊重している。通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。  法を諸部門へと区分することは、それぞれ異なった理由によるが慣例主義とプラグマティズ ムの両者の考え方に適合している。法の諸部門は伝統に基礎を置いており、これは慣例主義を 支持するように思われる。そして、これらの諸部門は、プラグマティストが例の高貴なる虚言 を語る際に操作可能な戦略を提供してくれる。つまり、プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すればこれが異なった法部門に属することを主張できるからである。これに対して、 純一性としての法は、法を諸部門へと区分することに対してもっと複雑な態度をとる。その一 般的な精神は、このような区分を断罪する。なぜならば、純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれないからである。しかし他 方、純一性として法は解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。  ハーキュリーズは、諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みること で、前記の競合する要請に答えようとする。彼は、法を諸部門へと区分する実践を説明する際 に、当の実践を最善の光のもとに示すような説明を見い出そうと努める。諸部門の間に設けら れた境界は、一般の人々の見解と普通は一致している。例えば、多くの人々は故意の加害行為 が不注意による加害行為よりも強い非難に値すると考えており、国家がある人間に対して彼が 惹起した損害の賠償金を支払うように要求する場合と、同じく国家がある人間を犯罪について 有罪と宣告する場合とでは、非常に異なった種類の正当化が必要となること、等々についても 同様である。この種の一般的な意見に合わせて法の諸部門を区別すれば予測可能性は促進さ れ、公職者が突然に解釈を変えて法の広汎な諸領域を根絶やしにしてしまうようなことも未然 に防げるわけであり、しかも純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方でこ れを達成できるのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,法――情緒的 損害の問題,未来社(1995),pp.389-390,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務は連帯責務である

自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)役割上の責務、連帯責務、共同責務
 ある種の生物学的ないし社会的集団のメンバーに対して、社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人たちの責任がこれにあたる。
(b)連帯責務は選択や同意によらない
 大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられている。
(c)互恵的でない場合の解除が可能
 他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を、集団の他のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服することを停止することもありうると考えている。
(d)政治的責務が選択や同意によらない連帯責務と考えることへの反発
 (i)連帯責務が情緒的な絆に依存しているという誤解
  共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。
 (ii)国家規模の連帯責務という理念の全体主義的なイメージへの反発
  大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には、国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。


 「自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものをある人間が単に受け取っ ただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはありえない、という主張は本当に正しい だろうか。もし我々が、宣伝カーに乗った哲学者のような赤の他人によって我々に利益が押し つけられる場合を考えるならば、この主張は正しいと思われるだろう。ところが、我々が役割 上の責務としばしば呼ばれているような義務――私はこの義務を総称して連帯 (associative)責務ないし共同(communal)責務と呼ぶことにする――を念頭に置くとき は、我々の信念は全く異なったものになる。私が言っているのは、ある種の生物学的ないし社 会的集団のメンバーに対して社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人た ちの責任がこれにあたる。大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられているが、他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を集団の他 のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服すること を停止することもありうると考えている。連帯的な責任についてのこのような共通の想定は、 政治的責務もこの種の責任の一つに数えられるかもしれないことを示唆しており、もしそうで あるならば、フェア・プレイによる論証に向けられた二つの反論はもはや正鵠を射たものとは 言えなくなるだろう。しかし、概して哲学者たちはこの可能性を無視してきており、私の考え ではこれには二つの理由がある。第一に、共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。第二に、大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,共同体の責務,未来社 (1995),pp.308-310,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務の基礎

政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)政治的正当性の基礎は同胞関係にある
 (a)政治的正当性、すなわち政治共同体がそのメンバーたちを共同体の集団的決定を理由に責務に服しているものとして取り扱う権利の最善なる擁護は、同胞関係や共同社会、そしてこれらに随伴する様々な責務の、より肥沃な地盤に見出されねばならない。
 (b)見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか正義の義務とかフェア・プレイの責務といったものではない。

(2)政治的責務は連帯責務である
 政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。
(3) 様々な同胞的共同体
 (a)我々に知られている様々な同胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。
 (b)移住の自由の意義
  移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。



「ついに我々は、我々の仮説を直接的に考察することができるようになった。つまり、政治 的正当性――政治共同体がそのメンバーたちを、共同体の集団的決定を理由に責務に服している ものとして取り扱う権利――の最善なる擁護は、見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか 正義の義務とかフェア・プレイの責務といった堅い地盤――哲学者たちは、このような地盤に政 治的正当性の最善の根拠を見い出そうと望んできた――の上ではなく、同胞関係や共同社会、そ してこれらに随伴する様々な責務のより肥沃な地盤に見出されねばならない。政治的責務とい うものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたにすぎない。我々に知られている様々な同 胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。そして、移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。かくして、事実上の裸の政治共同体のメ ンバーである人々は、同胞関係の責務に必須な他の条件――これらの条件は、政治共同体に当て はまるように適切に再定義される――が充足されている場合には、政治的責務に服することにな る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,同胞関係と政治共同 体,未来社(1995),pp.322-324,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的理念としての純一性

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(a) 公正な手続の結果はすべて正義である
 正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義である。
(b)結果としての正義が公正である
 政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり、公正な手続とは言えない。
(c)公正と正義は別の理念
 公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある。
(d)政治的理念としての純一性
 これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。


「理念の間の衝突は、政治においてはごくあたりまえのことである。たとえ我々が純一性を 拒否し、我々の政治活動を公正と正義と手続的デュー・プロセスだけに基づかせた場合であっても、公正と正義という二つの徳がしばしば相反する方向へと我々を導いていくことがあるだ ろう。ある哲学者たちは、正義と公正のうちの一方が終局的には他方から導出されると信ずる ことから、これら二つの徳の間の根本的な衝突の可能性を否定する。ある人々は、正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義であると主張している。これが、公正としての正 義と呼ばれる理念の極端な形態である。また他の人々は、政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり公正な手続とは言えない、と考えている。これ は、正義としての公正という逆の理念の極端な形態である。また大抵の政治哲学者は――そして 私の考えるところでは大多数の人々は――公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある、といった中間的な見解を採っている。  もしそうであるならば、通常の政治において我々がどの政治的綱領を支持すべきかを決定す る際に、二つの徳のどちらかをしばしば選択しなければならないことになる。我々は、多数決 ルールこそ政治において機能しうる最も公正な決定手続であると考えるかもしれないが、同時 に我々は、時として――おそらく非常にしばしば――多数派が個人の権利に関して不正な決定を下 すことを知っている。それでは我々は、多数決ルールをそのまま適用したのではある経済的集 団にとって正当な量に満たない持ち分しか割当てないおそれがあるという理由で、当の集団に 対してそのメンバー数によって正当化される以上の特別な投票上の力を与えることによって、 多数決ルールに修正を加えるべきであろうか。また、言論の自由や他の重要な自由を多数派が 制限してしまうことを防止するために、民主主義的権力に憲法上の制約を加えることを我々は 受け容れるべきだろうか。これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを――少なくとも前記の二つの理念の一つについて人々 の見解が対立するときは――第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,純一性は適合するか, 未来社(1995),pp.282-283,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月5日水曜日

正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて、市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなければならない。これは、たとえ意見の違いがあっても互いに尊重しあい自らの信念に従って誠実に対応するという個人的な道徳理念と関連する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治理念としての純一性

正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて、市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなければならない。これは、たとえ意見の違いがあっても互いに尊重しあい自らの信念に従って誠実に対応するという個人的な道徳理念と関連する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「実際には、この政治道徳の特別な要求は、同様の事例は同様に取り扱わなければならない といった標語ではうまく言い表わされていないのである。私はこれにもっと厳めしい呼び名を 与えたい。すなわち、それを政治的純一性(integrity)の徳と呼ぶことにする。私がこの呼 び名を選んだのは、これとパラレルな関係にある個人的な道徳理念と当該の政治的な徳との連 関を示すためである。我々は隣人たちと日常生活において様々な交渉をもつとき、我々が正し いと思う仕方で行動してくれるように彼らに対し要求する。しかし、行動の正しい原則につい て人々の間である程度まで見解の不一致が存在することを我々は知っており、それゆえ、我々 はこの要求を別の(もっと弱い)要求から区別するのである。後者の別の要求とは、人々は重 要な事柄においては純一性をもって――すなわち、気紛れやむら気な仕方ではなく、彼らの生活 の総体に浸透し、これに形を与えるような信念に従って――行動しなければならない、というも のである。正義について人々の見解が異なることを知っている者たちの間で後者の要求が有す る実践的重要性は明白である。そして我々が、道徳的な行為者として理解された国家や共同体 に対して同じ要求をするとき、すなわち、正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなけ ればならないと我々が主張するときに、純一性は一つの政治理念となるのである。個人の場合と政治の場合の双方において我々は、公正さや正義や礼儀正しさに関する何らかの特定の観念 を外的に表現するものとして他人の行為を認めうること、そして、我々自身は当の観念を是認 しなくても他人の行為をそのようなものとして我々が認めうることを想定している。我々のこ のような能力は、他人を尊敬の念をもって扱う我々のより一般的な能力の重要な一部分であ り、それゆえ、文明の欠くべからざる条件なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第5章 プラグマティズムと擬人化,純 一性の要求,未来社(1995),p.265,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




実定法に最良の正当化を与え得る諸原理の体系が存在する。立法は諸原理に整合的であり(純一性の立法上の原理)、法の解釈は諸原理に基づき(公正観念の純一性)、司法もこれに従う(純一性の司法上の原理)。これら諸原理はより普遍的なものであるべきと考えられ(正義観念の純一性)、法の総体系を導き、純一性を与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

純一性としての法

実定法に最良の正当化を与え得る諸原理の体系が存在する。立法は諸原理に整合的であり(純一性の立法上の原理)、法の解釈は諸原理に基づき(公正観念の純一性)、司法もこれに従う(純一性の司法上の原理)。これら諸原理はより普遍的なものであるべきと考えられ(正義観念の純一性)、法の総体系を導き、純一性を与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(6.3.1)公正観念の純 一性
 立法府が掌握すると想定された権威を正当化するため に必要な政治原理は、当の立法府が制定した法律が何を意味するかを決定する際にも充分な効 力を与えられるべきである。
(6.3.2)正義観念の純一 性
 立法府の諸決定の大部分を正当化するために必要な道徳原理は、それ以外の法においても認められねばならない。
(6.3.3)手続的デュー・プロセスの純一性
 法のある部分を執行する際に正確さと効率性を、正しく均衡のとれた仕方で調整するものと考えられた訴訟手続は、不正確な評決が 惹き起こす道徳的危害の種類と程度の相違を考慮に入れながら他のあらゆる場合にも同様に採用されねばならない。
(6.3.4) 原理の整合性と首尾一貫性
 これらの幾つかの要求は、原理の整合性や首尾一貫性をそ れ自体で価値あるものと見なし、このような整合性や首尾一貫性を信奉することを正当化する。

(6.3.5)純一性の立法上の原理
 立法行為によって法を創造する人々に対して、法を原理において整合的なものとして保持するように要求する。

(6.3.6)純一性の司法上の原理
 何が法であるかを決定する責任を負った人々に対して、前述の如く原理において整合的なもの として法を解釈し適用すべきことを要求する。

(6.3.7)プラグマティズム法学への批判
 (a)過去の効力を認めないのは誤り
  純一性としての法は、過去それ自体にある種の特別な効力を認めるべきではない、というプラグマティストの主張とは反対に、どのような仕方で、 またどのような理由で過去それ自体に対してこの種の効力を裁判所において認めるべきなのか を説明してくれる。
 (b)法をばらばらな個別的判決の集合と見るのは誤り
  純一性としての法は、なぜに裁判官たちは彼らが運用する法の総体を 一つのまとまった全体として考えねばならず、一つずつ自由に創造したり修正することがで き、他の部分については戦略的な関心をもつだけでいいような、ばらばらな個別的判決の集合として考えてはいけないのかを説明してくれる。


「私は、法的権利の観念に対するプラグマティストの挑戦にかこつけて、通常の政治及びこ れに内在する政治的徳の区別に関する前記の議論を開始した。もし純一性というものを正義及 び公正と並ぶ別個の政治的徳として我々がこれを受け容れるならば、このような権利を承認す るための一般的で非戦略的な論証が我々に与えられたことになる。ある共同体の公正観念の純 一性は次のことを要求する。すなわち、立法府が掌握すると想定された権威を正当化するため に必要な政治原理は、当の立法府が制定した法律が何を意味するかを決定する際にも充分な効 力を与えられるべきである、とそれは要求するのである。また、ある共同体の正義観念の純一 性は次のことを、すなわち、立法府の諸決定の大部分を正当化するために必要な道徳原理は、 それ以外の法においても認められねばならないことを要求する。そして手続的デュー・プロセ スという観念の純一性は次のことを要求する。すなわち、法のある部分を執行する際に正確さ と効率性を正しく均衡のとれた仕方で調整するものと考えられた訴訟手続は、不正確な評決が 惹き起こす道徳的危害の種類と程度の相違を考慮に入れながら他のあらゆる場合にも同様に採 用されねばならない、と要求する。これらの幾つかの要求は、原理の整合性や首尾一貫性をそ れ自体で価値あるものと見なし、このような整合性や首尾一貫性を信奉することを正当化す る。そしてこれらの要求は、私がこれから主張しようと思うこと、すなわち、優雅さの盲目的 崇拝ではなく純一性こそ我々が現に知っているような法の生命であることを示唆しているので ある。  純一性の諸要求を、二つのより実際的な原理へと分割するのが有益だろう。第一は純一性の 立法上の原理であり、これは立法行為によって法を創造する人々に対して、法を原理において整合的なものとして保持するように要求する。第二は純一性の司法上の原理であり、これは、 何が法であるかを決定する責任を負った人々に対して、前述の如く原理において整合的なもの として法を解釈し適用すべきことを要求する。第二の原理は、過去それ自体にある種の特別な 効力を認めるべきではない、というプラグマティストの主張とは反対に、どのような仕方で、 またどのような理由で過去それ自体に対してこの種の効力を裁判所において認めるべきなのか を説明してくれる。また、この第二の原理は、なぜに裁判官たちは彼らが運用する法の総体を 一つのまとまった全体として考えねばならず、一つずつ自由に創造したり修正することがで き、他の部分については戦略的な関心をもつだけでいいようなばらばらな個別的判決の集合と して考えてはいけないのかを説明してくれるのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第5章 プラグマティズムと擬人化,純 一性の要求,未来社(1995),pp.266-267,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



柔らかい慣例主義は、国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うということを慣例と考えることによって、純一性としての法の観念に近づく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

柔らかい慣例主義は、国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うということを慣例と考えることによって、純一性としての法の観念に近づく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.1.7) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うという慣例
 (a) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うこと
  柔らかい慣例主義者は、裁判官がどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。
 (b)何が最善の正当化なのか
  他の柔らかい慣例主義者は、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。


「しかし、憲法が基本法であるという合意さえ存在しないと想定してみよう。柔らかい慣例主義者は、もっと抽象的な合意を更に捜し求めることができるだろう。例として、私が第3章 で提示した示唆が正しいものと仮定しよう。つまり、法の窮極的な存在理由は個人や集団に対 する国家の強制を許可し正当化することにある、という暗黙ではあるが広汎な見解の一致が存 在する、という示唆が正しいとしよう。この極度に抽象的な合意の中に、柔らかい慣例主義者 は次のような慣例を、すなわち、裁判官はどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。そして更に彼は、前記の規準に照らして最善とされた何らかの観念を宣言する過程を踏んだうえ で、この抽象的な慣例が、その黙示的な外延の中に次の命題を含んでいることを主張しうるだ ろう。つまり、先例で提示された事実と現在の事案における事実との間に道徳的原理に関して 何らの相違も存在しないときには、先例は従われねばならない、という命題である。そして更 に彼は、ほんの少しばかり息をきらしながら、他人がどう考えようと、法はマクローリン夫人 に損害賠償を保証している、と言明するに至る。同じように柔らかい慣例主義を採用する他の 法律家や裁判官が、この見解に同意しないこともあるだろう。彼らは、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それ ゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の2種類の 形態,未来社(1995),pp.207-208,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


厳格な慣例主義は、法における「欠缺」を主張せざるをえない。これを避けるために慣例主義は、抽象的な慣例、法的慣例の黙示的外延という概念を用いて、より一般的な論証を展開するだろう。また、憲法を抽象的な慣例とみなして、より包括的な論証を展開するだろう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

柔らか い慣例主義

厳格な慣例主義は、法における「欠缺」を主張せざるをえない。これを避けるために慣例主義は、抽象的な慣例、法的慣例の黙示的外延という概念を用いて、より一般的な論証を展開するだろう。また、憲法を抽象的な慣例とみなして、より包括的な論証を展開するだろう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.1.6)柔らか い慣例主義
 (a)厳格な慣例主義は、法における「欠缺」(gap)を主張せざるをえない。
 (b)抽象的な慣例
  彼は、生起するかもしれないあらゆる事例を判決できるような仕方で、立法と先例の抽象的な慣例を解釈する 正しい方法が存在することを、それ相当の論 拠をもって主張することができる。
 (c) 法的慣例の黙示的外延
  彼は、法的慣例の黙示的外延にこれらの命題が含まれることを理由に当の命題を主張 する。すなわち、彼の法観念においてはこれらの命題が法であることを彼は主張し、それゆ え、法における欠缺というものを否定する。
 (d)抽象的な慣例としての憲法
  例えば、憲法が基本法であるという合意が人々の間で存在しているならば、この合意が抽象的な慣例を提供していると主張し、この慣例が黙示的な外延のなかに、憲法の最善なる解釈が要求するならば制定法は効力あるものとして適用されねばならないという命題が含まれる、と主張するか もしれない。


「厳格な慣例主義は、法における「欠缺」(gap)を主張せざるをえない。法の欠缺は、制 定法が漠然としていたり多義的であったり、他の点で難点のある場合は、そして、制定法をい かに解釈すべきかを解決してくれる更なる慣例が存在しない場合には常に、新しい法を形成す べく、法を離れて司法的な裁量を行使するよう要求するのである。また、一連の先例の効力範 囲が不確かで、その効力について法律家の見解が対立する場合も同様である。しかし、柔らか い慣例主義者は、このような事例において何らかの欠缺を認める必要はない。彼は、生起する かもしれないあらゆる事例を判決できるような仕方で、立法と先例の抽象的な慣例を解釈する 正しい方法――たとえこれが異論の余地あるものであっても――が存在することを、それ相当の論 拠をもって主張することができるのである。例えば彼は、慣例を具体的に正しく特定化するこ とにより、法によってスネイル・ダーターが救われる(ないし見棄てられる)べきこと、ある いは、マクローリン夫人に損害賠償を認めるべき(あるいは拒否すべき)ことを主張できる。このとき彼は、法的慣例の黙示的外延にこれらの命題が含まれることを理由に当の命題を主張 する。すなわち、彼の法観念においてはこれらの命題が法であることを彼は主張し、それゆ え、法における欠缺というものを否定するのである。  確かに、たとえ法律家たちがこのような抽象的な慣例について見解を異にしたとしても、ま た、制定法が法を形成すること、ないしは先例が後の判決に対して何らかの影響を及ぼすこと を多くの法律家が仮に否定したとしても、柔らかい慣例主義の立場をとる者は、法の欠缺が存 在することを否認することができるだろう。わずかな想像力を用いることによって柔らかい慣 例主義者は、すべての人々が容認するような更にもっと抽象的な何らかの命題を考案すること ができるであろうし、これによって、スネイル・ダーターについて一つの法命題を妥当なもの と認めうるような仕方で、この抽象的な命題を一層詳細なものにしていくことができるかもし れない。例えば、憲法が基本法であるという合意が人々の間で存在しているならば、この合意 が抽象的な慣例を提供していると主張し、この慣例が黙示的な外延のなかに、次のような命題 が、すなわち、たとえ多くの法律家がそれを否定していても憲法の最善なる解釈が要求するな らば制定法は効力あるものとして適用されねばならないという命題が含まれる、と主張するか もしれない。このようにして彼は、先と同様に、この中間的な命題から出発して、スネイル・ ダーターについて何らかの具体的な結論へと更に議論を進めていくこともできるだろう。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の2種類の 形態,未来社(1995),pp.206-207,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(6.1.5)慣例主義による難解な事例への対応
 慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか。
 (a)裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。
 (b)裁判官は、自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない。
 (c)これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである。

「慣例主義の消極的主張はまた別の仕方においても、一般に支持された前記の理念に仕えるものと考えられる。しかし、これについては、慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか、という点に関し一連の主張を付加する必要がある。既に述べたよう に、慣例主義の見解によれば、マクローリン事件のような事例においては法は存在せず、従っ て裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。しかし、状況をこのように説明しても、更な る条件として次のように定める余地は充分に残されている。すなわち、裁判官は自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない、という 条件である。慣例主義が主張するように、裁判官がこのような状況において新しい法を創造す ることが明らかにされたからには、彼は、そのときに権限を有する立法府が選択するであろう と彼自身が信じるルールを選択すべきであり、これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである、と考えることは一応正当な ものと思われる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.197-198,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


慣例主義
(a)期待保護の理念
 過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使される機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が、公正な忠告を人々に与えているからである。
(b)法的な論証とは慣例による論証
 裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。
(c)先例と類似している事例
 慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならないということである。
(d)より公正、より賢明への消極主義
 当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によって、その決定の内容が確定したならば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合でさえ、当の決定を尊重しなければならない。


「慣例主義であれ純一性としての法であれ、あらゆる積極的な法観念の中核は、なぜ過去の 政治的決定が現在の権利を確定するのか、という問いに対する返答の中に存する。ある法観念 が法的権利と他の形態の権利との間に、そして法的論証と他の形態の論証との間に設ける区別 を見ることによって、我々は、政治的決定が国家の強制に対して提供すると当の観念が見なし ている正当化の性格と限界を理解することができる。慣例主義は、この問題に対して一つの明 らかに魅力ある回答を与えている。過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使さ れる機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が公正な忠告を人々に与えているからであり、それゆえ逆にこの ような場合にのみ、過去の政治的決定は強制を正当化することになる。これは、期待保護の理念である。慣例主義が解釈に引き続く段階で提示する二つの主張のうち、第一の主張が明らか にこの理念に仕えるものである。慣例により許可された集団がひとたび明瞭な決定を下し、更 に、当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によってその決定の内容が確定したなら ば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合で さえ、当の決定を尊重しなければならないと第一の主張は唱えるのである。  慣例主義の第二の消極的主張もまた期待保護の理念に仕えるか否かは、それほど明白ではな い。しかし、これを肯定するそれなりに正当な根拠を示すことができるだろう。消極的主張は 次のように唱える。すなわち、裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。というのも、過去の政治的決定は、慣例が指示する権利義務以外の権利義務を生み出しうる、という考え方をすれば、前記の理念は無効にされてし まうからである、と。例えば、マクローリン事件において訴訟当事者のどちらを勝たせるかに つき慣例が返答を指示していないことが明らかであると想定しよう。すなわち、慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならない、ということであるが、いま、事故の現場に居合わせなかった人の情緒的損害 に対し損害賠償が認められるべきか否かについていかなる過去の事例も判決を下していないと しよう。このとき、ある裁判官が「純一性としての法」のスタイルに従って、先例が損害賠償 への権利を確立していることを宣言し、このような仕方で先例を読むことが、振り返ってみて 当該先例を道徳的により適正なものにすることをその理由として挙げたとしよう。これは、広 汎に支持された上述の理念の見地からすると危険なことである。道徳的な原理のようなもの が、慣例を反映してはいない根拠によって、ただそれが道徳的にみて説得力があるという理由 だけで法の一部となりうることが一度受け容れられてしまうと、たとえある種の原理が慣例により是認されたことと矛盾する場合でも、当の原理はその道徳的な説得力のゆえに法の一部とされる、という一層脅威ある見解に門戸を開けてしまうことになるからである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.194-196,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義、プラグマティズム法学、純一性としての法

法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6)法の3つの観念
(6.1)慣例主義(conventionalism)
 過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が、予測可能性と、この拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きる。
(6.2)プラグマティズム法学(legal pragmatism)
 裁判官は過去との整合性それ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきである。
(6.3)純一性としての法(law as integrity)
 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していくことで、市民の間に一種の 平等が生み出されていく。そして、この平等は市民の共同体をより真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。


 「第一に、法と強制の間に想定された結合関係はそもそも正当化されうるだろうか。公権力 は過去の政治的決定「に由来する」権利や責任に合致したやり方でのみ行使されるべきだ、と 要求することに何か意味があるのだろうか。第二に、もしこのことに意味があるとすれば、そ れは何か。第三に、「に由来する」という言葉をどのように理解すれば――過去の決定との整合 性をどのように観念すれば――前記の「意味」に最も善く奉仕することになるのか。法観念がこ の第三の問いに対してどんな解答を与えるかによって、当の観念が承認する具体的な法的権利 や責任が確定する。  以下に続く数章で我々は相互に対立し合う三つの法観念を区別し、これら三つの観念を、前 記の一連の問題に対する解答として考察するだろう。これら三つの法観念は私が前記のモデル に従って慎重に構成したものであり、それぞれ我々の法実務についての三つの抽象的な解釈を 示している。ある意味でこれらの観念は新奇なものと言えるかもしれない。これらの観念は、 私が第1章で説明した法理学の様々な「学派」に正確に対応しているわけではない。むしろ、 最初に考察される二つの観念に関しては、そのいずれについても、私の説明と精確に一致する ようなかたちで当の観念を擁護するような法哲学者は一人もいないだろう。しかし各々の法観 念は、たとえこれらが意味論的な主張ではなく今や解釈的な主張として再構成されていても、 法哲学の文献に顕著にみられるテーマや理念を充分に捉えており、私が提示する三つの観念の 間の議論のほうが、法哲学の文献によくみられる陳腐な論争より一層啓発的である。私はこれ ら三つの観念を「慣例主義」(conventionalism)、「プラグマティズム法学」(legal pragmatism)、そして「純一性としての法」(law as integrity)と呼ぶことにした い。後で私は、これらの観念のうち最初のものは、当初は一般市民の法理解を表現しているよ うに見えても、最も説得力のない観念であること、そして、第二の観念のほうがより有力な観 念であり、この観念は我々の議論の舞台を政治哲学をも含めるような仕方で拡張することに よってのみ論駁されうること、そして更に、第三の観念が万事を考慮したうえで最善の解釈と 言えること、すなわち、法律家や法学教師や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを最善の 仕方で解釈しているのは第三の観念であることを論ずるだろう。  法に関する我々の「概念的」な記述が提起する第一の問いに対し、慣例主義は肯定的な解答 を与えている。慣例主義は、法と法的権利の理念を是認する。更に第二の問いに対する解答と して慣例主義は、法による強制の趣旨が――すなわち、過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が――予測可能性に尽きること、そしてまた、 予測可能性という拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きることを主張する。――もっとも、 我々が後に見るように、法とこれらの価値(予測可能性や手続上の公正)との間の正確な関係 については、慣例主義者の間でも見解の分かれるところであるが――。次に、第三の問いに対す る解答として慣例主義は、我々が要求すべき過去の決定との整合性がとる形態に関し、厳密に 限定された説明を与えている。すなわち、権利や責任が過去の決定に由来すると言えるのは、 これらが過去の決定の中に明瞭に含まれているか、法職にある人々の全体が慣例的に重要視して いる方法ないし技術によって明瞭なものとされうる場合に限られる。慣例主義によれば、政治 道徳は、過去に対してこれ以上の敬意を払うよう要求することはない。それゆえ、慣例の効力 が尽きた場合、裁判官は何らかの完全に前向きな判決の根拠を捜し出さなければならない。  法概念に関して私が示唆した観点からすると、プラグマティズム法学は懐疑的な法観念であ る。私が右で挙げた第一の問いに対して、それは否定的な解答を提示する。すなわち、裁 判官の判決は過去に下された他の政治的決定と合致したものでなければならず、訴訟当事者に はこの種の合致を要求する何らかの権利があると想定され、判決はこのような権利によって チェックされねばならない、といった要請を行うことによって共同体に何か真の利益が生まれ るという考え方をそれは否認する。プラグマティズム法学は、我々の法実務に関してこのよう な要請とは非常に異なった解釈を与えている。この立場によると、裁判官は過去との整合性―― これがいかなる形態の整合性であれ――をそれ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきなのである。従って厳密に言うとプラグマティストは、法概念に関する私 の説明で展開されているような法や法的権利の観念を拒絶していることになる。もっとも、 我々が後で見るように、人々があたかも何らかの法的権利を有している「かのように」裁判官 が時として行動すべきことを、戦略上の理由が要求するのであるが。  純一性としての法は、慣例主義と同様に、法および法的権利を心底から受け容れている。し かし、第二の問いに対してそれは慣例主義とは非常に異なった解答を与えている。純一性とし ての法が想定するところによれば、法の拘束は、単に予測可能性や手続上の公正をもたらした り、その他何らかの道具的な仕方で社会の利益になるのではなく、むしろ、市民の間に一種の 平等を生み出すことによって社会の利益になるのである。そして、この平等は市民の共同体を より真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。第三の問いに対して純一性の立場が与える解答も――すなわち、法が要求 する過去の政治的決定との整合性とはどのような性格の整合性か、という点に関する説明も―― 前記のことと呼応して、慣例主義が与える解答とは異なっている。その主張によれば、権利と 責任が過去の決定に由来し、したがって法的なものと見なされるのは、単にそれらが過去の決 定の中に存在する場合だけに限られない。当の明示的な決定を正当化する際に前提とされてい るような個人的及び政治的な道徳から権利や責任が導出される場合も、これらを過去の決定に 由来する法的権利ないし法的責任と見なすべきである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第3章 法理学再論,法概念と法観念, 未来社(1995),pp.160-163,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




2022年1月2日日曜日

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

完全なる法

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)完全なる法
 このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体として実定法の最良の解釈を提供する。

(b)実定法の最良の解釈を与える諸原理
 一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  

完全なる法 → 解釈
(諸原理の体系)     ↓
実定法 → 実定法の最良の正当化


(c)解釈は解釈対象に適合していること
 解釈は、解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。
(d)最良の解釈であること
 競合する解釈のうち、より勝れた正当化を提 供する解釈であること。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。



「私の意図は、これから述べるような一般的性格をもつ裁判モデルの表現として上記の神秘 を把握すれば、神秘はそれほど神秘ではなくなり、リアリストの嘲笑的な攻撃にも耐えられる ものとなることを立証する点にある。このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。実定法とは書物に書 かれた法、すなわち制定法や過去の裁判所の判決において明確な形で宣言された法であるのに 対し、「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体 として実定法の最良の解釈を提供する。またこのモデルは「解釈」という観念に関して特定の 理解を要求する。すなわち一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  読者のうちのある人々は、解釈についてのこのような説明を奇妙なものと思うかもしれな い。というのもある人々によれば、解釈というものはその性質上、解釈されるテクストの歴史 上の著者が抱いていた「意図」を発見する過程と考えられるからである。それ故実定法とは、 様々な意図や目的により動かされた様々な時代の多くの公務担当者の残した産物であり、した がって、しばしば衝突しあうこれらの意図や目的を追体験することは、私がすぐ前に述べたよ うな企てとは全く異なるものである。しかし、解釈はまさにその性格上意図を再発見する過程 であるという想定は、解釈というものの性格が考察されうる異なる二つのレヴェルを混同して いる。」(中略)  「もし我々が解釈に関するこのようなより抽象的な説明を念頭に置き、解釈とは解釈対象か らその最良のものを引き出す試みであると考えるのであれば、その対象が何であれ、解釈は二 つの次元でテストされるべきことを我々は認めねばならない。第一に、解釈は解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。さもなければ その解釈は、《これらの》判決をその最良の光のもとで示していると主張することはできな い。」(中略)  「第二の要請は正当化の次元に属する。実定法の解釈は、それが当該の法の正当化を提供し ないかぎり適切な解釈とは言えない。そしてしばしば起こるように、二つの競合する解釈のい ずれもが適合性の第一の要請を十分に充足している場合、第二の要請はより勝れた正当化を提 供する解釈を優先させるが故に、二つの解釈の間に差別を設けることになる。もちろん法に関 して言えば、問題となる正当化は政治的倫理による正当化である。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,日本語版へのエピローグ,2,木鐸社 (2003),pp.329-330,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

目的と解釈

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「今や我々は、もっと重要な問題点に到達したのである。意図という観念の中には、芸術の 解釈と社会的実践の解釈を必然的に統合することになるような何ものかが存在するということ である。なぜならば、たとえ我々が創造的解釈とは歴史上現実に存在した何らかの意図を発見 しようと試みることであるというテーゼを拒絶したとしても、意図という概念があらゆる解釈 上の主張に当てはまる《形式的な》構造を提示していることに変わりはないからである。私が 言っているのは、解釈は本質的にある目的の報告である、ということである。すなわち、解釈 というものは解釈の対象――これが社会的実践や伝統であれ、文献とか絵画であれ――を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を――他ならぬある特定の「意味」や「趣旨」を――追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。どのような解釈であろうと、このような構造をもつ必要 がある。解釈される対象が社会的実践である場合や、歴史上の作者が存在せず作者の歴史上の 精神を理解することがそもそも問題にならないような場合であっても、解釈にはこの形式が必 要なのである。我々の想像上の物語における礼儀の解釈は、たとえ意図が特定の人間に属する ことがありえず、人々一般にさえ属することがありえなくても、意図の理解という形式的な体 裁をとることになるだろう。このような構造上の要請は――これは、解釈というものを特定の作 者の意図と結びつける何らかの更なる要請とは別個の独立した要請と考えられる――、興味をそ そる一つの挑戦を我々につきつけることになるが、後で我々は主に第6章でこの問題と取り組 むつもりである。我々が文献や法制度を説明する方法に関して前記のような目的の形式的構造 を主張することには、ある歴史上の現実的な意図を回復するという目標とは別にどのような意味 があるのだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,芸術と意図の性 格,未来社(1995),pp.98-99,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会的慣行からルールによる解釈、原理による解釈へ

社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


()社会的慣行からルールへの発展
 (1)社会的慣行
  農民は貴族に向かって帽子をとっている。
 (2)慣習的ルール
  農民は貴族に向かって帽子をとること。

慣習的ルール
 ↑ 正当化するために援用
社会的慣行
 皆んなが守っているからルールだ。

規範的ルール →解釈
         ↓
社会的慣行  →ルール通り
別の行動様式a→ルール違反
別の行動様式b→ルール通り

 (3)解釈的態度
  農民が貴族に向かって帽子をとることは、礼儀作法にかなっている。
  (a)利益、目的、原理 (意図)
   社会的慣行は、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるものである。
  (b)原理による社会的慣行の解釈
   原理が要求する行動やそれが正当化する判断は、当初の社会的慣行に限定されない。行動や判断は、原理によって付与された意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定され、限界づけられる。

原理(意図):礼儀作法 →解釈
農民が貴族に向かっ   ↓
て帽子をとること →礼儀正しい
帽子をとらない  →礼儀知らず
その他の行為a  →礼儀正しい
その他の行為b  →礼儀知らず



 (4)原理(意図、最善の光)によって制度に意味を付与し再構成を試みる
 ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に意味(meaning)を付与しようと、すなわち 制度をその最善の光のもとで捉えようと試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  

 (5)制度の変更
 (a)利益、目的、原理 (意図)と、(b)原理による社会的慣行の解釈は、相互に独立したものである。我々は、(a)の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができる。そして、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、制度の意味や趣旨へと訴えるのである。



「ある想像上の共同体で次のような歴史を思い描いてみよう。この共同体の成員たちは、一 定範囲の社会的状況において一組のルールに従っており、彼らはこのルールを「礼儀作法」と 呼んでいるとする。例えば、「農民が貴族に向かって帽子をとることを礼儀は要求している」 と彼らは述べ、この種の他の諸命題を主張し受け容れているとしよう。当分の間、この慣行は タブーとしての性格をもち続ける。ルールは、ただそこに存在するだけであり、疑問視される ことも修正されることもない。ところがこの後、おそらくはゆっくりとであろうが、これらの すべてが変化していく。各々の人間は礼儀作法に対して複雑な「解釈的」(interpretive) 態度をとりはじめる。そして、この態度は二つの要素を含んでいる。第一の要素は、礼儀の慣 行というものは単に存在するだけではなく価値を有し、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるもの――要するに、何らかの趣旨とか意味をもつもの――であり、 これらの利益や目的ないし原理は、当の慣行を構成しているルールを単に記述することとは独 立に明示されうる、という想定である。次に、第二の要素である更なる想定によれば、礼儀作 法が要請すること――すなわち、それが要求する行動やそれが正当化する判断――は、必ずしも、 あるいはもっぱら、かくかくしかじかであると常に考えられてきたものに限られる必要さはな い。むしろそれは、慣行が存在する意味というものに敏感に反応するものであり、従って、厳 格なルールは慣行のこのような意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定 され、限界づけられねばならない。ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に《意味》(meaning)を付与しようと―― 制度をその最善の光のもとで捉えようと――試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  解釈的態度の二つの構成要素は、相互に独立したものである。我々は、この態度の第二の構 成要素は採用しないで、第一の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができ る。例えば、ゲームとか競技を解釈するときに我々はこのようなやり方をとるだろう。つまり 我々は、これら実践的な活動のルールが現にどのようなものであるかについてではなく(非常 に限られた場合は別として)、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、当 の活動の意味や趣旨へと訴えるのである。というのもこの場合、ルールがどのようなものであ るかは歴史と慣例によって既に確定しているからである。それゆえ、ゲームや競技の場合に は、解釈は単に外的な役割を演ずるにすぎない。ところがこれに対して、礼儀作法に関する私 の説明にとっては、礼儀に従う市民たちが解釈的態度の第一の要素と同時に第二の要素をも採 用していることが、非常に重要なものとなる。彼らにとって解釈というものは、単に、礼儀作 法がなぜ存在するのかということだけでなく、適正に解釈したならばこの礼儀作法が現に何を 要求しているか、ということをも決定するのである。このとき、制度の価値と内容は分かち難 く絡み合うことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,想像上の事例, 未来社(1995),pp.82-84,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月31日金曜日

法には、内在的法則があるかのようであり、現存する法の同一性が深化し、純粋化していくように思われる。司法過程は、現存する法の深い真実の発見として理解することができる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の内在的発展

法には、内在的法則があるかのようであり、現存する法の同一性が深化し、純粋化していくように思われる。司法過程は、現存する法の深い真実の発見として理解することができる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)法の内在的法則
 法 の変化は、法自らによって規律されているのであり、法にはある種の人格が宿り、法は自らの内 的なプログラムやデザインを生み出していく。
(b)純粋化の傾向
 規律された変化は、同時に法の改善でもあり、法は純粋になればなるほどより善 いものになる。
(c)現存する法の同一性の深化
 変化は実は変化で はなく、むしろ逆に、基底に横たわる同一性の発見であり、それ故新しいルールを告知する裁 判官は、本当は既に現存する法をより正確に記述しているにすぎない。  

(d)法の内在的発展を表現する言葉
「法はそれ自体で純粋に作用する」「実定法の内部に、しかもこれを超えたとこ ろに高次の法というものが実在し、実定法はこの高次の法へと向かって成長していく」「法に は、目的を自ら実現しようとする固有の意図が存在する」といった表現がそうである。  

(e)現存する法の深い同一性の発見としての司法過程
 訴訟の過程を通じて、裁判官が法を変更す ることは不正と思われるだろう。しかし、もしこの変更が実は法の自己実現であり、表面的に は変更とみえるものが深い同一性の発見にすぎないとすれば、このような非難は的はずれなも のとなる。



 

「感傷的な法律家は今でもある種の比喩的表現を好んで用いている。この表現は現在大半の 法理論家にとり時代遅れで愚かなものと思われているが、かつては非常によく用いられていた ものである。「法はそれ自体で純粋に作用する」「実定法の内部に、しかもこれを超えたとこ ろに高次の法というものが実在し、実定法はこの高次の法へと向かって成長していく」「法に は、目的を自ら実現しようとする固有の意図が存在する」といった表現がそうである。  これらの比喩的表現には三つの神秘が内在している。これらはすべて次の明白な事実を認め ている。つまり、ある意味において法は、明示的な立法行為や判決行為を通じて変化する、と いう事実である。たとえば、しばしば裁判官は従来まで人々が法と考えてきたものとは異なる ものを法として記述し、この新しい法がはじめて告知される当の事案を判断するために、彼ら の新しい法記述を用いることがある。第一の神秘は次のように述べる。つまり、このような法 の変化は法自らによって規律されているのであり、法にはある種の人格が宿り、法は自らの内 的なプログラムやデザインを生み出していく。第二の神秘は次のように付け加える。つまり、 このようにして規律された変化は同時に法の改善でもあり、法は純粋になればなるほどより善 いものになる。第三の神秘ははるかに神秘の度をます。つまり、このような変化は実は変化で はなく、むしろ逆に、基底に横たわる同一性の発見であり、それ故新しいルールを告知する裁 判官は、本当は既に現存する法をより正確に記述しているにすぎないことになる。  これら三つの神秘の各々には政治的主張が含まれている。しかし、中でも第三の神秘は、難 解な事案において裁判官が行なっていることを政治的に正当化する際に登場し、それ故この神 秘に含まれる実践的主張は特に明白なものと言える。訴訟の過程を通じて裁判官が法を変更す ることは不正と思われるだろう。しかし、もしこの変更が実は法の自己実現であり、表面的に は変更とみえるものが深い同一性の発見にすぎないとすれば、このような非難は的はずれなも のとなる。むしろ逆に、もし裁判官が表面に現われた変化を認めず、これを強制しないのであ れば、彼はこの非難が想定するような仕方で――合法性の理念に反する仕方で――不正に行動して いることになるだろう。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,日本語版へのエピローグ,1,木鐸社 (2003),pp.325-326,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法それ自体に従うということ

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(1)法それ自体に従うということ
 たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信である。疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分に説明できない。

(2)法の発展と検証が目的である
 根本的な諸目的は、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証である。我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。

(3)制度を支える基本的倫理
 (a)何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて、社会の内部に 十分な一致がある。
 (b)したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったりしない。
 (c)自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもない。




「これらの慣行は、疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分表現されていない。このような理論を主張する人々も、現にこれらの慣行があるという 事実を否定することはできない。おそらくこれらの論者が言わんとすることは、そうした慣行 は脆弱な諸仮説に基づいているが故に、またその他何らかの理由により、合理的なものではな いということであろう。しかし、このことは彼らの異論を不可解なものにする。何となれば、 彼らは、自分達がこれらの慣行の根底にある諸目的をいかなるものと考えているのかを決して 明言していないからである。そして、これらの目標が明言されなければ、問題の慣行が合理的 なものかどうかを決定することはできないのである。私は、これらの根本的な諸目的とは、私 が前に記述したようなものであると理解している。すなわち、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証がそれである。  我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。もっとも、そうしたことが市民に許されるといっても、それは裁判所が同意しない 場合の危険負担を伴うものであるが。この戦略が成功するかどうかは、次の点にかかっている のである。すなわち、何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて社会の内部に 十分な一致があり、したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったり、あるいは自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもないかどうか、にかかっているのであ る。私は、論証の当否を判定する規準についてこうした陥穽を避けるのに十分な一致があると 信ずる。もっとも、法哲学の主要な任務の一つは、これらの規準を公然と提示し明確にするこ となのであるが。いずれにせよ、私が記述してきた慣行は未だ誤っていると証明されたことは ないのであり、それ故、他者が法と考えるものを破る人々に寛大であることが正当かつ公正で あるかどうかを決定するにあたっては、これらの慣行が考慮されなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.290-291,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



争点が基本的な個人的あるいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範囲内のこととして許される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法それ自体に従うこと

争点が基本的な個人的あるいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範囲内のこととして許される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「かくして第三のモデルないしは何らかそれに近いものが我々の社会における人の社会的義 務の最も公正な陳述であるように思われる。市民は法それ自体に従うのであって、何が法であ るかに関するいかなる特定個人の見解にも従うわけではない。そこで彼が法の要求するものに 関する自己自身の熟慮された合理的な見解に基づいて進むかぎり、彼は不公正に行動するもの ではない。(きわめて重要なので)繰り返し言わせてもらえば、このことは、個人が裁判所の 述べたことを無視してよいと言うのと同じではない。先例の法理は我々の法制度のほとんど核 心部分を成しており、何人も判決によって法を変更する一般的な権限を裁判所に認めなけれ ば、法に従う合理的な努力を行うことはできないのである。しかし、争点が基本的な個人的あ るいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範 囲内のこととして許されるのである。  我々は、これらの所見を徴兵制に対する反抗の諸問題に直ちに適用することはできない。そ の前に検討されるべき大きな問題が一つ残されている。私は、法とは他の人々が法と考えるこ とや裁判所が法と判示したことではない、と信ずる者の立場について語ってきた。この記述 は、良心に基づいて徴兵法に服従しない人々の幾人かには適合するかもしれないが、彼らの大 部分には適合しないのである。反対意見者達の大部分は法律家や政治哲学者ではない。彼ら は、定立された法律が不道徳であり、自分達の国家の法理念に反すると信ずるが、また一方、 それらの法律が無効であるかどうかという問題は考慮したことがないのである。それでは、人 は法に関する自己自身の見解に従ってよいし、それが適切である、という命題は、彼らの立場 にとってどのような意味をもつであろうか。  この問いに答えるためには、私は以前に示唆した点に立ち戻らねばならないであろう。憲法 典は、デュー・プロセス条項、平等保護条項、第1修正及び私が言及したその他の諸条項を通 じて、ある法律が有効であるかどうかという争点にきわめて広範囲にわたる我々の政治道徳を 注ぎ込んでいるのである。それ故、徴兵制に反対の人々の大部分は法律が無効であることを意 識していないという陳述は、若干の注釈を必要とする。彼らは諸々の信念を保持しており、そ れらは、もし正しい信念であれば、法が彼らの側にあるという見方を強く支持するのである。 彼らが、当該法律は無効であるという一歩突っ込んだ結論に達しなかったとしても、それは、 少なくとも大抵の場合、彼らには法的な素養が欠けていたというだけのことである。もし我々 が、法律が疑わしい場合には人々は法に関する自己自身の判断に従ってよいし、それは適切な 行為である、と信ずるならば、この見解を前記の反対意見者達に押し及ぼさないことは誤って いるとみられるであろう。これらの人々の判断は結局他の反対意見者達のそれと異なるところ はないからである。私が第三のモデルのために行なった論証のいかなる部分によっても、彼ら をより有識な彼らの同胞市民から区別することは許されないであろう。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.287-288,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月30日木曜日

(a)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従うべきか。(b)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従うべきか。(c)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従うべきか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法に従う義務

(a)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従うべきか。(b)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従うべきか。(c)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従うべきか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



 (1)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従う
 (a)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。
 (b)彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。
 (c)もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。  


 (2)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従う
 (a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。
 (b)裁判所のごとき有権的な機関が、制度的決定を下せば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。

(3)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従う
 (a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。
 (b)もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。


「私が問おうというのは、一市民として彼がとるべき適切な道は何か、換言すれば、我々が 「ルールを守ってきちんと行動し」ていると考えるのはどんなことかである。それは決定的な 問いである。何となれば、もし彼が自己の意見からみて、我々が彼はそうするべきだと考える ままに行動しているのだとすれば、彼を処罰しないことは不公正ではありえないからである。  大部分の市民がそれについて容易に一致するような明白な答えは存在しないし、そのこと自 体意味深長である。しかしながら、もし我々が自らの法的な諸制度及び慣行を探究すれば、我々は、若干の関連する根本的な原理及び政策を発見するであろう。私は上の問いに対して三 つのありうべき回答を提示し、次いでこれらのうちどれが我々の慣行及び期待に最も良く適合 するかを示すよう努めるつもりである。私が考慮したい三つの可能性は次の通りである。  (1)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。そして、もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。  (2)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。しかし、彼が自己自身の判断に 従ってよいのは、裁判所のごとき有権的な機関が、彼または他の誰かに関わる事案において彼と違った決定を下さない限りにおいてのみである。ひとたび制度的決定が下されたならば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。(理論上 は、この第二の可能性については更に多くの場合分けができる。我々は、事案が控訴されない 場合には、司法制度内の最下級審を含む、いかなる裁判所の反対の決定によっても個人の選択 が封じられることになるということができよう。あるいは、我々は、何らか特別の裁判所ない し機関の決定を要求することができよう。私は、その最もリベラルな形態におけるこの第二の 可能性、すなわち個人は、当該争点に関して判断する権限をもった最上級審、徴兵制の事案で あれば合衆国最高裁の反対の決定があるまでは、適切に自己の判断に従いうる、ということに ついてのちに論じるつもりである。)  (3)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、 その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。何となれば、我々の法制度 の確固とした一部である先例の法理は、裁判所の判決が法を「変更する」ことを許容する効果 をもつからである。たとえば、一定の形態の所得に関しては納税義務はないと信ずる一納税者 がいるとしよう。もし最高裁が反対の決定をするとすれば、彼は、租税に関する問題につき最 高裁判決に大きなウエイトを与える慣行を考慮に入れ、最高裁の判決はそれ自体状況を決定づ けたのであり、法は今や彼に税の支払いを要求している、と結論すべきである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.281-282,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

権利と人間の尊敬、政治的平等

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)人間の尊厳
 人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反する。
(b)政治的平等
 政治社会の弱者も、その社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を、公権力から受ける資格がある。その結果、ある者が決定の自由を有している場合には、公益に対する影響がどうであれ、すべての者に同じ自由が認められねばならない。
(c)例として、表現の自由
 表現の自由が基本的権利であると主張される場合、これが有意味な主張となるのは、人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格などの人格的価値を保護する目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。


「権利を深刻に受けとめるべきであると公言し、権利が尊重されていることを理由としてア メリカの統治機構を称賛する者は、その重要な目的が何であるかについてある種の感覚を有し ていなければならない。彼は、少なくとも二つの重要な理念のいずれか一方、または両者を受 け容れなければならない。第一の理念は、人間の尊厳という漠然としてはいるが力強い理念で あり、これはカントを連想させるが、異なった学派の哲学者達によって擁護されている。この 理念によれば、人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反するものとされる。  第二の理念は、政治的平等という人口に膾炙した理念である。これは政治社会の弱者も、そ の社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を公権力から受ける資格があること を前提とし、その結果ある者が、公益に対する影響がどうであれ、決定の自由を有している場 合には、すべての者に同じ自由が認められねばならないとされる。私は、これらの理念をここ で擁護したり、詳細に論じるつもりはないが、市民が権利を有していると主張する者は、これ らの理念にきわめて近い考え方を受け容れなければならない、という点だけを主張しておきた い。  人は表現の自由のように強い意味での基本的権利を公権力に対し有する、と主張される場 合、これが有意味な主張となるのは人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格その他同様の 重みをもつ人格的価値を保護するために当の権利が必要である場合であり、そうでない場合に は権利を有するという主張は意味のないものとなる。  そこで、もし権利が意味あるものであるならば、比較的重要な権利の侵害はきわめて重大な ことになるにちがいない。それは人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。権利の制度は、このような扱いが重大な不正義であり、そ れを防止するためには社会政策ないし効率上更に増加コストが必要であるにしても、このよう なコストを支払う価値があるという確信に基づいている。しかしこの場合、権利を拡張するこ とが権利を侵害することと同じ程度に重大である、と考えることは誤りであろう。公権力が個 人に有利な形で誤りを犯す場合には、社会的効率のために本来支払うべきものより若干多くの ものを支払うだけのことである。すなわち公権力としては支出すべきことが既に決定されてい た当の金額に若干プラスしたものを支払うだけのことである。しかし、もし公権力が個人に不 利な形で誤りを犯す場合には、個人に対し侮辱を与えることになり、したがって公権力はそれ を回避するために自らの計算に基づいて多額の経費を費やす必要があるのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,3 議論の余地ある権 利,木鐸社(2003),pp.264-265,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月29日水曜日

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政府に対抗する権利

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)政府に対抗する権利
 政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。
(b)競合可能な権利は他者個人の権利のみ
 社会の一般的利益は、政府に対抗する権利に対抗できない。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。



「政府に対抗する権利が認められていても、もし政府が自らの意思を実現しようとする民主 主義的多数派の権利を引き合いにだして、前者の権利を否定しうることになれば、この権利は 危険にさらされることになるだろう。政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正 と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。もしこの場合、社会は一般的利益を生みだすものであればいかなることをも行なう権利があり、また社会の多数派がそのような生活を望むのであれば、いか なる生活環境をも維持する権利があると我々が考え、しかもこの権利を正当事由にして、これと衝突する個々人の政府に対抗する権利を無視しうると考えるのであれば、これは我々が後者 の権利を撤廃したことを意味するのである。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。この際、 使用されるべき規準は次のようになる。すなわち、ある行為に対する個人の権利と比較衡量さ れ、この行為からの保護を要求するような競合的権利を他者が有しうるのは、次のような場 合、つまり当の他者が個人として有する一定の権限に基づいて政府の保護を要求することがで き、しかも同胞市民の大多数がこの要求に参加するか否かに関係なく彼がこの保護を要求しう る場合である。  この規準によれば、国家に存在するあらゆる法の強制を要求する権利を誰もが有している、 と考えるのは正しくない。たとえば、ある種の刑法規定が未だ制定されていなかったとき、特 定の個人がこの規定の制定を要求する権利を有していたのであれば、彼にはこの種の刑法規定 の強制のみを要求する権利が認められることになる。人身攻撃を禁止する法規定などは、この タイプの規定に属するだろう。身体の弱い社会の成員――暴力行為に対して警察の保護を必 要とする人々――が単なる少数派であっても、彼らに当該保護を受ける権利を認めることは依然 として可能と思われる。しかしこれに対して、公共の場所で一定の静けさを要求する法規や国 外での戦争を是認し財政援助を与える法規は、個人の権利に基づくものとは考えられない。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,2 諸権利と法に違反 する権利,木鐸社(2003),pp.258-258,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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