社会的慣行からルールによる解釈、原理による解釈へ
社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
()社会的慣行からルールへの発展
(1)社会的慣行
農民は貴族に向かって帽子をとっている。
(2)慣習的ルール
農民は貴族に向かって帽子をとること。
慣習的ルール
↑ 正当化するために援用
社会的慣行
皆んなが守っているからルールだ。
規範的ルール →解釈
↓
社会的慣行 →ルール通り
別の行動様式a→ルール違反
別の行動様式b→ルール通り
(3)解釈的態度
農民が貴族に向かって帽子をとることは、礼儀作法にかなっている。
(a)利益、目的、原理 (意図)
社会的慣行は、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるものである。
(b)原理による社会的慣行の解釈
原理が要求する行動やそれが正当化する判断は、当初の社会的慣行に限定されない。行動や判断は、原理によって付与された意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定され、限界づけられる。
原理(意図):礼儀作法 →解釈
農民が貴族に向かっ ↓
て帽子をとること →礼儀正しい
帽子をとらない →礼儀知らず
その他の行為a →礼儀正しい
その他の行為b →礼儀知らず
参考:ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分 かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲 み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889- 1951))
(4)原理(意図、最善の光)によって制度に意味を付与し再構成を試みる
ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に意味(meaning)を付与しようと、すなわち 制度をその最善の光のもとで捉えようと試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。
(5)制度の変更
(a)利益、目的、原理 (意図)と、(b)原理による社会的慣行の解釈は、相互に独立したものである。我々は、(a)の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができる。そして、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、制度の意味や趣旨へと訴えるのである。
「ある想像上の共同体で次のような歴史を思い描いてみよう。この共同体の成員たちは、一 定範囲の社会的状況において一組のルールに従っており、彼らはこのルールを「礼儀作法」と 呼んでいるとする。例えば、「農民が貴族に向かって帽子をとることを礼儀は要求している」 と彼らは述べ、この種の他の諸命題を主張し受け容れているとしよう。当分の間、この慣行は タブーとしての性格をもち続ける。ルールは、ただそこに存在するだけであり、疑問視される ことも修正されることもない。ところがこの後、おそらくはゆっくりとであろうが、これらの すべてが変化していく。各々の人間は礼儀作法に対して複雑な「解釈的」(interpretive) 態度をとりはじめる。そして、この態度は二つの要素を含んでいる。第一の要素は、礼儀の慣 行というものは単に存在するだけではなく価値を有し、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるもの――要するに、何らかの趣旨とか意味をもつもの――であり、 これらの利益や目的ないし原理は、当の慣行を構成しているルールを単に記述することとは独 立に明示されうる、という想定である。次に、第二の要素である更なる想定によれば、礼儀作 法が要請すること――すなわち、それが要求する行動やそれが正当化する判断――は、必ずしも、 あるいはもっぱら、かくかくしかじかであると常に考えられてきたものに限られる必要さはな い。むしろそれは、慣行が存在する意味というものに敏感に反応するものであり、従って、厳 格なルールは慣行のこのような意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定 され、限界づけられねばならない。ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に《意味》(meaning)を付与しようと―― 制度をその最善の光のもとで捉えようと――試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。 解釈的態度の二つの構成要素は、相互に独立したものである。我々は、この態度の第二の構 成要素は採用しないで、第一の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができ る。例えば、ゲームとか競技を解釈するときに我々はこのようなやり方をとるだろう。つまり 我々は、これら実践的な活動のルールが現にどのようなものであるかについてではなく(非常 に限られた場合は別として)、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、当 の活動の意味や趣旨へと訴えるのである。というのもこの場合、ルールがどのようなものであ るかは歴史と慣例によって既に確定しているからである。それゆえ、ゲームや競技の場合に は、解釈は単に外的な役割を演ずるにすぎない。ところがこれに対して、礼儀作法に関する私 の説明にとっては、礼儀に従う市民たちが解釈的態度の第一の要素と同時に第二の要素をも採 用していることが、非常に重要なものとなる。彼らにとって解釈というものは、単に、礼儀作 法がなぜ存在するのかということだけでなく、適正に解釈したならばこの礼儀作法が現に何を 要求しているか、ということをも決定するのである。このとき、制度の価値と内容は分かち難 く絡み合うことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,想像上の事例, 未来社(1995),pp.82-84,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |