2022年1月2日日曜日

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

目的と解釈

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「今や我々は、もっと重要な問題点に到達したのである。意図という観念の中には、芸術の 解釈と社会的実践の解釈を必然的に統合することになるような何ものかが存在するということ である。なぜならば、たとえ我々が創造的解釈とは歴史上現実に存在した何らかの意図を発見 しようと試みることであるというテーゼを拒絶したとしても、意図という概念があらゆる解釈 上の主張に当てはまる《形式的な》構造を提示していることに変わりはないからである。私が 言っているのは、解釈は本質的にある目的の報告である、ということである。すなわち、解釈 というものは解釈の対象――これが社会的実践や伝統であれ、文献とか絵画であれ――を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を――他ならぬある特定の「意味」や「趣旨」を――追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。どのような解釈であろうと、このような構造をもつ必要 がある。解釈される対象が社会的実践である場合や、歴史上の作者が存在せず作者の歴史上の 精神を理解することがそもそも問題にならないような場合であっても、解釈にはこの形式が必 要なのである。我々の想像上の物語における礼儀の解釈は、たとえ意図が特定の人間に属する ことがありえず、人々一般にさえ属することがありえなくても、意図の理解という形式的な体 裁をとることになるだろう。このような構造上の要請は――これは、解釈というものを特定の作 者の意図と結びつける何らかの更なる要請とは別個の独立した要請と考えられる――、興味をそ そる一つの挑戦を我々につきつけることになるが、後で我々は主に第6章でこの問題と取り組 むつもりである。我々が文献や法制度を説明する方法に関して前記のような目的の形式的構造 を主張することには、ある歴史上の現実的な意図を回復するという目標とは別にどのような意味 があるのだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,芸術と意図の性 格,未来社(1995),pp.98-99,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


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