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2024年3月17日日曜日
14. 真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)
2024年3月14日木曜日
19. 感情文化(スティーブン・ゴードン)
感情文化(スティーブン・ゴードン)
「ゴードン(1990)は感情を、(1)身体感覚、(2)表出ジェスチャー、(3)社会状況もしくは社会関係、(4)社会の感情文化によって構成されると見なしている。
ゴードンの見解によれば、第一の要素、すなわち身体感覚は文化の台本が誘導する行動に表現される場合にのみ重要である。
だから感情を表わす顔面表情、言語表現や身体ジェスチャーは先天的な生物的衝動の結果であるよりも、むしろ他者や状況にどのように反応するかを制約する文化力の産物である。文化力は感情を指示する語彙、人びとが感情について抱いている信念、および人びとが感情をどのように感じるべきかについてと、また感情がいつ、またどのように表現されるべきかの規則においてとくに明白であるとゴードンは論じる。
社会メンバーは、すべての感情語彙(感情を表わす単語)、感情信念(たとえば幸せは自由に表現されるべきだが、怒りは弱められるべきであること)、そして感情規範(われわれは争いに悲しみを、そしてパーティーでは幸せを感じるべきであること)を学習する。ゴードン(1989a,1989b,1990)はこうした複合的な感情語彙、信念、規範を社会の感情文化と呼んでいる。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))
2024年2月3日土曜日
13.組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)
組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)
このような人間は、《我》と《それ》とを相いへだてる分離の根元語のもとに立って、《共に在る人間》(Mitmensch)との共同生活を判然と区画された二つの管区に、つまり組織と感情とに、《それ》の管区(Es-Revier)と《我》の管区(Ich-Revier)とに分割してしまうのである。
組織とは《外部》のことであって、ここではひとは、ありとあらゆる目的事にかかずりあっている。労働し、取り引きし、影響をおよぼし、企業し、競争し、編成し、経営し、執務し、説教することによって。この《外部》とはいちおう秩序づけられた、また、いささか調和もとれている機構であって、そこではさまざまな要件が、人智と構成人員との多様な参与によって推進されているのである。
組織は厄介の多い集会場であり、感情は変化にみちた古城の私室である。
むろんこの両者の境界はたえずおびやかされている。なぜなら、気まぐれな感情は時としては、いかに即物的な組織のなかへも闖入するからだ。しかし、いささかそのつもりになれば、この境界はふたたびきちんと画されるのである。
いわゆる個人生活の諸領域の内部でこのような境界を確実に画することは、もっとも困難である。たとえば結婚生活においては、これはそう簡単にはおこなわれないことがある。だが、ここにもやはりその種の境界は存在しているのだ。
だが、組織の場における分離された《それ》は、一種のゴーレムであり、感情の場における分離された《我》は、飛びさまよう一種の魂の鳥である。
2024年1月30日火曜日
18. 対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある。(1)関連する資源の報酬交換の欲求(2)自己確認の欲求(3)知覚を中心に展開する信頼(4)予測可能性(5)間主観性の欲求(6)集団への包摂の欲求がある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)
対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある。(1)関連する資源の報酬交換の欲求(2)自己確認の欲求(3)知覚を中心に展開する信頼(4)予測可能性(5)間主観性の欲求(6)集団への包摂の欲求がある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)
「もちろん、対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある(Turner 1987)。
こうした処理欲求ははるかに包括的であり、そして特定の個人の具体的また特異な欲求を処理する前にまず実現されなければならない。こうした処理欲求はいくつかの次元に沿って働く。
第一に、関連する資源の報酬交換の欲求があり、そしてこうした報酬は状況への費用と投資を超えていなければならない。
第二に、個人である自己がその人の自己評価と一貫する仕方で他者によって評価される自己確認の欲求がある。
第三に、知覚を中心に展開する信頼がある。信頼の知覚とは、他者が行うと述べたこと、あるいは彼らに期待されていることを彼らが履行することである。
第四に、予測可能性がある。これによって他者の行為が予測できる。
第五に、間主観性の欲求がある。これによって個人は、相互作用のために、彼らが共通の経験を共有することを(正しくあるいは誤解して)感知する。
そして、第六に、人が相互作用のフローの一部という感覚を中心に展開する集団への包摂の欲求がある。相互作用が順調に進行し、また適切な感情が喚起するためには、これらの欲求が適えられなければならない。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.216-217、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳)
2024年1月23日火曜日
17. 社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。ジョナサン・H・ターナー(1942-)
社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。ジョナサン・H・ターナー(1942-)
「社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。
相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。
第一に、出会いの人口統計学に関しては、(1)現前する人びとの数量、(2)人びとの社会的カテゴリー(たとえば、年齢、ジェンダー、民族)、(3)カテゴリーを異にする人びとの、時間の経過にともなう出会いへの流入と出会いからの流出、そして、(4)空間上における異なるカテゴリーの人びとの分布である。
第二に、地位の次元がある。これは、(1)種々な地位の威信と権威の水準(Kemper 1984)、そして、(2)こうした地位を占める個人の属性(たとえば、地位特性の拡散、態度のスタイル、自己の知覚など)を中心にして展開する。
そして、第三に、こうした結合の属性を中心にして動くネットワークの次元がある。これは、(1)数量、(2)方向性、(3)相補性、(4)推移性、(5)密度、(6)強度、(7)仲立ち、そして、(8)斡旋である。対面的相互作用の性質をふまえるとき、これら属性のすべてが対人的な出会いにおいて明らかである。結合の数量、相補性、そして密度は出会いにおける感情のフローを形成する際にもっとも重要であろう。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、p.216、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2024年1月18日木曜日
16.文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。ジョナサン・H・ターナー(1942-)
文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。ジョナサン・H・ターナー(1942-)
文化シンボルの貯蔵
│
言語────────────────┬─┬──────┐
│ │ │ │
(高度に抽象的で │ │ │
↓↑ │
信念とイデオロギー ←──────┤
(いかに行動すべきか │
↓↑ │
制度規範 ←──────────┤
(適当な行動の輪郭を指示 │
↓↑ │
組織規範 ←──────────┤
(行動するための │
↓↑ │
対人規範 ←──────────┘
(具体的状況における感情規則)
「そして第六に、価値、信念や規範にしたがって、相互作用の過程になにが含まれ、なにが排除されるべきかについての指示を行うフレームがある。そしてそれらは図5-2にしめしたいくつかの基礎次元ごとに異なる。
知識の貯蔵
└フレームの発明
├身体フレーム
│├身体間の受けいれられる距離
│├身体アクセスの許容度
│└身体に関する部位
├人口統計学的フレーム
│├個人の適切な人数
│├個人の適切な密度
│└個人の適切な移住
├物理的距離フレーム
│├妥当な小道具
│├妥当な舞台
│└妥当な物理的境界
├組織フレーム
│├妥当な組織領域
│├妥当な組織状況
│└妥当な準拠集団
├文化フレーム
│├妥当な価値前提
│├妥当な信念体系
│└妥当な規範
└個人フレーム
├妥当な人生史の部分
├妥当な親密性の水準
└妥当な自己包絡の水準
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.213-216、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2024年1月14日日曜日
15. 人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)
人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)
「これらすべての諸力――文化的、構造的、および対人関係的――には、固く配線された基盤があるとわたしは確信している。
どの出会いにおいても、人間は文化、構造、そして処理欲求(自らのそれであれ、他者のそれであれ)に注意を向けるよう偏向させられている。なぜなら、これらは対面的相互作用を継続させるからである。
妥当な文化的象徴、社会構造的人口統計学についての理解、そして処理欲求を適えることに関して不一致があるならば、相互作用はほどなく不統合になり、そして怒り、恐れ、悲しみなどの離反的感情を喚起するかもしれない。
こうした諸力に関する合意、あるいは少なくとも感知される合意がある場合、より結合的な感情が満足-幸せの変種と精巧化を中心に展開し、活性化する。
したがって人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。
そして感情ごとに配列されたわれわれの感情の貯蔵庫が出会いの経験を通して構築されるにつれて、われわれは必要な情報を確保し、そして次に、われわれの神経的特徴である感情統語法によって、またわれわれの神経学的特徴が知識の貯蔵庫に蓄えている方法によって、さらにこうした貯蔵庫が、相互作用において使用するために抽出され、利用できるような形で秩序づけられた適切な反応を活性化するために、他者の感情を帯びた合図を読み解くことに熟達することになる。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.217-218、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2024年1月11日木曜日
14. 自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
「人間に特有な能力の一つは、自分をある状況において対象とみなすだけでなく、ある一定種類の存在としての持続的な概念化と自らのアイデンティティを自らの内面にもちつづけうる力である。
自己言及活動(self-referential behavior)を行うことができるという人間の能力は、相互作用に新たな次元を付け加えるが、この能力は人間の感情装置を抜きにしては成り立たない。
確かに、一定水準の新皮質の発達が自己の中程度の期間にわたる記憶保持にとっての基本であるが、しかし自己認知は古生的な皮質下辺縁系の過程に起因する感情標識と感情価によってのみ可能である。
感情を抜きにして人間はワーキング・メモリー内にわずか数秒間しか自己イメージを維持できず、あるいはより安定し、一貫したアイデンティティを保持できないことが認識できると、われわれはヒト科の感情能力と自己に関わる能力とが互いに他者を情報源として利用するように紡ぎあわされていることを知ることになる。
自己を評価するために、より多くの感情が利用できるようになると、行動反応を組織するための自己の重要性がますます拡張することになった。
そして自己が相互作用にとって基本的であるほど、感情の精巧化は自己に媒介された対人関係によってますます制約されていった。
感情の精巧化が社会性の低い類人猿の集団連帯を増加するための基盤であったとすれば、こうした感情は自己意識的な個人をめざす必要があったはずである。
いっそう感情的に適応した動物にあって、道徳記号、肯定的ならびに否定的裁可の使用、協同的交換、および意思決定に向けて感情を動員し、また経路づけることは、感情価によって自分自身と他者をみつめ、評価できる能力なくして起きるはずはない。
社会統制と、こうした統制によって可能になる調整は、個人による自己制御によってもっともよく達成される。こうした個人は自分を対象とみなし、また道徳記号と他者の期待に応答する自己評価を介して一つづきの行動について意思決定を行う。
自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.190-192、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2024年1月2日火曜日
13.選択は、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整を強化した。行動水準においては、その証拠は明白である。儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
選択は、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整を強化した。行動水準においては、その証拠は明白である。儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
「選択が神経学的水準において、脳にどのように働いたかをある程度知ることができる。
つまり、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整の強化である。
行動水準においては、その証拠や人間が相互作用するときはいつでも、またすべての相互作用においてそれは明白である。
儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。
これらの信号のいずれかが失われ、あるいは不適当なやり方で生産されると、たとえ手段的な音声によるお喋りの流れはつづいているとしても、相互作用は緊張を帯びることになる。
なぜなら、われわれのヒト科の祖先が社会結合を強化するために最初に用いた非音声的で感情的な一連の合図をともなわなければ、言語だけで相互作用の流れを維持することはできないからである。
もっと原基的で、視覚に基づく感情言語をともなわなければ、相互作用はいくつかの側面で問題を発生させる。
個人はその出会いになにが含まれ、またなにが排除されるべきかという点に関して、どのように枠組みを設定すればよいかに確信がもてない(Goffman 1974;Turner 1995,1997a)。
個人は使用すべき妥当な規範や他の文化システムに確信がもてない。
個人はどのような資源、とくに相互作用にとって基本である内面的な資源のうちなにが交換されるべきかということに確信がもてない。
個人が進行中の相互作用のフローの一部分をなしているかどうかについて確信がもてない。
他者が行うものと想定されていることがらを確かにその人たちが行うと信用できるかどうか確信がもてない。
他者の反応を予測できるかどうかに確信がもてない。
そして個人が他者と同じ仕方で他者との状況を主観的に経験していると想定することができるかどうか確信がもてない。
ハロルド・ガーフィンケル(Garfinkel 1966)が初期に実施した「日常的な秩序を破壊する実験」は、対面的相互作用がとても脆弱であることを検証している。そして相互作用がいとも簡単に壊れてしまうことも検証している。
われわれの相互作用がとても壊れやすいのは、生物学的プログラムとしてのわれわれの遺伝子に、高水準の社会連帯に向う傾向がないからである。
だから、われわれは相互作用をぎこちなくしないために、精妙で複雑な感情コミュニケーションを用いなければならないのである。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.172-173、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2023年12月28日木曜日
12.意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
「記憶は、海馬を介して記号化された指令を遷移性皮質と前頭葉から引きだすことに関係し、そして次に、それを適当な感覚皮質に放出する。
したがって、記憶の想起は、新皮質に貯蔵されすでにできあがった、また完全に発達した画像もしくはイメージを引きだすことに関係しているのではなく、むしろ、これは新皮質に、あるいはより中間的に遷移性皮質に貯蔵されている、急場しのぎの伝達法、記号化された指令の活性化をともなっている。
遷移性皮質は、記憶に記号化された経験を大ざっぱな形で再生産するために、感覚皮質と適切な身体系を再活性化させる(Damasio 1994)。
この経験が重い感情的内容をもつならば、この記憶の再生は、その記憶に元の経験と同じくらい多くの感情内容を与える四つの身体系を作動させるであろう。
なぜ社会学者は意識的情動を生産するこうした力学に関心をもつのだろうか。わたしの答えはこうだ。
意識的情動を生産する力学は、われわれが社会的相互作用を分析する際に、意識的情動をどのように概念化するかという点に大きな影響を与えるからだ。ある人が恥、罪、幸せ、怒り、あるいはどのような感情であれそれを感じるとき、こうした意識的情動は四つの身体系の――現時点における視床の直接の刺激からの、そして過去において活性化された関連する身体系を再度刺激するために感覚皮質に再発火することからの――動員をともなう。
したがって、意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。
しかししばしば、人が自らある感情を認知するずっと以前に、その人の周りにいる他者は、身体系を通して皮質下で表現され、そしてときに意識的情動として意識に浸透している基礎的な感情をみることができる。
われわれはそうすることができるようになったのだ。それは、視覚様相を介して感情を帯びた結合を形成することのできる動物を生みだすため、われわれヒト科の祖先に働いた自然選択の作用の結果なのである。
それゆえ、意識的情動の社会学(sociology of feelings)は感情的身体系のより一般的な、そして、進化の用語を用いるならば、より原基的な動員の特別なケースでしかない、あるいはたぶん、あまり重要ではないケースでしかないのである。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、p.149,p.152、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2023年12月23日土曜日
11,意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。ジョナサン・H・ターナー(1942-)
意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。ジョナサン・H・ターナー(1942-)
「意識に関係する脳の重要な構造は前頭前皮質であり、これが事実上、脳のすべての部位――新皮質、辺縁系、および他の皮質下系――と連動している(MacLean 1990,Damasio 1994)。
刺激の意識化は感覚の様相――視覚、聴覚、嗅覚、触覚――を通じて入力情報を受け取り、そして次に、視床の特化した感覚領野へとすすむ。
そしてそこから、感覚入力は皮質下辺縁系および新皮質の適当な脳葉の両方――すなわち、視覚は後頭、聴覚は側頭、触覚は頭頂、臭いは嗅球――に移動する(後者は直接にさまざまな辺縁系、とくに扁頭体を収容している皮質下領野に伝えることに注意を払わなければならない。そのため、臭いはしばしば感情を急速に高める)(Le Doux 1996)。
新皮質のかなりの部分を構成し、また感覚入力を統合することに関係する連合皮質はあるイメージを生成し、そしてそれを一時的に緩衝器に貯蔵する(Geschwind 1965a,1965b)。
そのあと、海馬傍皮質、嗅周野皮質および嗅内野皮質からなる遷移性皮質がそのイメージを貯え、そしてそれらを海馬に送る。
次に、海馬は一つの表象を作り、それを中間的な貯蔵のための記憶として遷移性皮質に送る(Heimer 1995;Gloor 1997)。
最近の研究では、海馬傍皮質は、前頭前皮質の背外側部と相互作用して、記憶が継続するかどうかを決める際にとくに重要であることが示唆されている(Rugg 1998,Brewer et al.1998)。
もしあるイメージが、数年後に、経験もしくは思考によって再活性化されると、組み立てられたイメージは長期にわたる記憶として貯蔵するするために新皮質、とりわけ前頭葉に送られる(Damasio 1994;Echenbaum 1997;Vargha-Khadem et al.1997)。
皮質下の記憶システムはこの過程に強く関係しており、視床、海馬、扁頭体、および前帯状回を介して情報を視床下部および前頭前皮質に伝える。次に、これがその情報を遷移性皮質に貯留し、そして視床下部によって表わされる一時的な緩衝器に位置づけられる。
意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、pp.148-150、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2023年12月15日金曜日
10.人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していない。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していない。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
「感情記憶システムの存在は、ある人によって表現され、他者によって読まれる感情信号が、その人の意識的思考から取り外されたままであることを確証している(Bowers and Mechenbaum 1984)。
それは意識的情動(feeling)でなく、感情(emotion)であろう。ここでもまた、こうした無意識の感情記憶が多くの点で意識的な記憶よりも役割取得にとってはるかに基本的であることが想定されている。
事実、もし他人から、今ある感情反応が起きていることがわかると言われたら、あるいはもし身体的なフィードバックが感情的実感として意識に浸透していくほどに強かったら、その人が一定の感情(emotion)を放出し、あるいは経験することにそれでもなお驚き――そして驚くだけでなく――、その感情的反応の源泉に関して確信をもつこともできない。
この無意識的な記憶システムのもう一つの含意といえるのは、人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していないのである。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、p.144,pp.146-147、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
2023年5月29日月曜日
25.言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
言語ゲームは生活様式の一部
言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
2023年5月28日日曜日
24.言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
言語ゲーム( language game )
言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ] |
23.考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
表現する過程
考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ] |
22.思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
思考とは表現する行為そのもの
思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ] |
2023年5月27日土曜日
21.思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
思考とは記号操作
思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ] |
20.記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
記号の意味とは何か
記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
19.思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
思考過程を可視化する
思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ] |
18.何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
線で描かれた絵
何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
この問を次のように立てることもできる。解が見いだされたということの一般的な特徴は何か。
その判じ絵が解かれたときには、私はそのなかのある線を強くなぞり、いわば明暗の度合いを導入することによって、その解がわかるようにする、と、こう考えたい。では君は、君が描き入れた像を何故に解とよぶのか。
(a)それは一群の空間的諸対象を明らかにあらわしているから。
(b)それはある規則的な形の物体をあらわしているから。
(c)それは左右対称の形状だから。
(d)それは私に装飾的な印象をあたえる形状だから。
(e)それは私にとって既知のものと思われる物体をあらわしているから。
(f)いろんな解の目録があり、この形状(ないしこの物体)がそこに載っているから。
(g)それは私がよく知っている種類の対象をあらわしているから。すなわち、その対象は一瞬にして私に熟知のものだという印象をあたえる。私は一瞬のうちにあらゆる可能な連想をそれに結びつける。私はその対象が何というものか知っている。私はそれをしばしば見かけたことを知っている。私はそれが何のために使われるかを知っている、等々。
(h)それは私にとって既知のものと思われる顔をあらわしているから。
(i)それは私がそれとして認知する顔をあらわしているから。(α)それは私の友人某氏の顔である。(β)それは私がしばしば肖像で見たことのある顔である、等々。
(j)それは私がかつて見たことがあるのを覚えている対象をあらわしているから。
(k)それは私が(どこで見たかはわからないが)よく知っている装飾模様だから。
(l)それは、私がよく知っており、その名も、どこで前に見たかもわかっている装飾模様だから。
(m)それは私の部屋の調度をあらわしているから。
(n)私は本能的にこの線をなぞり、それで安定した感じをもつから。
(o)私はこの対象について話してきかされたことがあるのを覚えているから。
(p)私はその対象をよく知っているように思われるから。すなわち、ある言葉がそれの名前としてただちに私の心に浮んでくる。(ただしその言葉は既存の言語のどれにも属してはいない。)私は心のなかで言う、「そうだとも。それは甲であって、いくども乙で見たものだ。人はそれで丙を丁して、戊にするのだ」と。こうしたことは例えば夢のなかでおこる。等々。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』一二五、全集3、pp.240-242、山本信)
(索引:)